2023年12月31日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊に導かれ」

2023年12月31日(日)降誕節第1主日 

イザヤ書:61章10〜62章3 

ガラテヤの信徒への手紙:4章4〜7 

ルカによる福音書:2章22〜40

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日のルカ福音書は、シメオンとアンナという高齢者が、おそらくその人生の最晩年で、ついに待ち望んでいた救い主となる幼子に出会い、心の底からの魂の平安を得た出来事を伝えています。彼らは聖霊に導かれて幼子イエスに出会いました。私たちも聖霊の導きによってこそ、シメオンやアンナのように主イエスに出会う喜びを味わうことができるのです。

 さて、今日の箇所の直前のルカ2章21節には誕生から「八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。神が名付け親のこのイエスという名前は「神は救いである」という意味で、当時のユダヤ人の間では特に長男につけることが多かった名前です。

 またユダヤ人にとって、男子の包皮を切り取る「割礼」は、旧約聖書に由来するもので、神の民の一員となるために欠かせないものでした。割礼はユダヤ人の男の子に今も行われているそうです。

 22節に「モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った」とあります。清めの期間とはレビ記12:2-4の産婦の体が清まるのに必要な期間で、赤ちゃん誕生から40日後ということです。彼らは律法に従って「山鳩一つがいか若い家鳩二羽」を神に献げて母親の肉体が清められたことを明らかにするために乳飲み子イエスを連れてエルサレムの神殿に向かいました。

 このいけにえは本来は「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」(レビ記12:6-8)ですが、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」には鳩だけのいけにえも認められていました。その献げ物からヨセフとマリアが貧しかったことがよく分かります。

 それはともかく、ルカは、ヨセフとマリアは律法の規定どおりにすべてを行なったということを何度も繰り返しています。そうしてルカは彼らが律法を大切に守る信仰深く模範的な人々であったことを強調しています。

 また23節に「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」とあります。当時のユダヤの家庭では、長男は本来神のものであり、従って長男は神に献げるべきものであると信じられていました。それは具体的には長男を祭司にするということです。

 ただし、それでは家業を継ぐ者がいなくなって困るので、長男の代わりに、一定の金額を神に献げました。そうして子供を自分の家で育て、父親の跡を継がせることが許されていたわけです。イスラエルではレビ族の人たちが祭司として神に仕えましたが、それは本来ユダヤ人の長男が皆やらなければいけない務めをその代理としてレビ族の人々が神殿で果たしているのだと考えられていたのです。

 たぶん皆さんは、どうもこういう話しは自分たちには縁遠いと思われるでしょう。しかし、主イエスはこのようにしてユダヤ人の子として生まれ、私たちと同じ人間になり、神の民として生きるために律法に従いながら生きたのです。

 その次第は第一朗読のガラテヤ書4章4節以下にある通りです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです」とある通りです。

 主イエスはなすべきことをなして、罪に囚われていた者に、もう一度、「お父さん、父よ」と心から呼ぶことができる道を開いてくださったのだとパウロは語ります。主イエスにはマリアを通じてユダヤ人の血が流れています。そのようにして主イエスは私たちと同じ人間になられました。だからこそ主は、あらゆる国の人々にとっての救いとなりえるのです。

 ここでもう一つ注意したいことがあります。宮詣をした幼子イエスと両親を迎え、初子のイエスを聖別するのは神殿に仕えている祭司たちのはずです。しかしルカは祭司たちの存在を何も書いていません。22節にあるように、両親は我が子イエスを「主に献げるため」に神殿に来たのです。彼らはイエスを聖別してもらった後で、父親ヨセフの家業を継がせようと用意してきた長男の身代わりのお金を祭司に渡して、イエスを連れて帰るつもりだったでしょう。

 しかし祭司が見当たらない。いけにえは自分たちで献げられます。そこでまず両親はイエスのために律法の定めに従っていけにえの小鳥を献げようとしました。ところがその時、そこに神の霊に導かれて神殿の境内に入ってきたシメオンがやってきて、28節「幼子を腕に抱き」ました。それは神がシメオンを通して、神へのいけにえとしてイエスを受け取られたということです。こうして主イエスご自身がそのまま神への献げものとなられるということが実現しました。「イエスがご自身を献げる」という神のご計画が実現しました。ルカは私たちには不思議に感じられる聖霊の導きによる次第をこうして物語っています。

 このシメオンは祭司ではありませんが、その仕事も、年齢も、見た目も分かりません。しかし25節には、シメオンは正しい人で、信仰があつく、聖霊に満たされているとあります。そこから彼が神の御心にかなう人物として選ばれたことが分かります。また25節の「慰められる」とは、メシア(救い主)の到来を意味しています。シメオンは幼子を見て、この子は「主なる神が遣わすメシア」だと確信しました。そして、(28-31節で)神を賛美し、(33-35節で)主イエスの家族を祝福します。

 シメオンが語る救いの光を賛美する言葉に両親は驚きました。しかし、それに続いて語られた幼子イエスの将来についての厳しい言葉に思いを深くしたにちがいありません。シメオンはマリアに向かって、幼子イエスが将来十字架につけられることを語りました。

 シメオンが語った「倒したり立ち上がらせたり」というのは石のイメージでしょうか。ほんとうに頼りになる「貴い隅の石」(イザヤ28:16)でも、ある人にとっては同じ石が「つまずきの石」(イザヤ8:14)になってしまいます。そしてつまずいた人々によって「反対を受ける」ことになります。

 この主イエスの受難に母マリアがあずかり、苦しみを共にすることになる、というのが「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉の意味でありましょう。ヨハネ福音書はその日、主イエスの十字架のかたわらに立つマリアの姿を伝えています。(ヨハネ19:25-27)。

 また、この場面にアンナという女預言者が登場します。彼女の役割は「エルサレムの救いを待ち望んでいた人々皆に幼子のことを話した」ことです。ここで「救い」と訳されている言葉はギリシア語で「あがない、解放」の意味を持つ言葉です。彼女は84歳で、神殿で夜も昼も祈ることで神に仕えていたとあります。彼女は腰は曲がり、シワだらけの年老いた姿だったかもしれません。しかし、輝きに満ち、感謝に溢れた美しい人であったに違いありません。

 シメオンやアンナがいわば高齢者として描かれているのは、救いを待ち続けた旧約の長い時代を感じさせます。そして彼らはついにイエスの誕生という、その完成の時に招かれたことを印象づけます。

 また、きょうの箇所で「主の律法で定められたことをみな」忠実に行っていると何度も繰り返されていることも、神の救いの計画が成ったことを感じさせられます。このようにルカ福音書はこの物語を伝えながら、主イエスの到来により待望の時が成就し、神のご計画が実現したこと、すなわち救いの時代が到来したことを表現しようとしているのです。

 また同時に私たちは、このシメオンやアンナの姿に自分自身を重ね合わせてみることができるのではないでしょうか。29-32節のシメオンの言葉は、「シメオンの歌」と言われています。私たちの礼拝式文で「ヌンクディミティス」(今こそ去ります)として歌われていますね。

 この歌は主イエスとの出会いの中で「安らかに(平和のうちに)」憩うことを願う私たち自身の祈りでもあります。日々眠りにつく前に唱えてもよい歌です。そして私が皆さんと最も分かち合いたいことは、私たちの日々の歩みの中にも、やはり聖霊の導きがあるのではないかということです。その導きによってこそ、シメオンやアンナのように主イエスに出会う喜びを味わうことができるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2023年12月25日月曜日

馬小屋で生まれるということ

 2023年12月24日 主の降誕主日(小田原教会)江藤直純牧師

イザ9:1-6; 詩96; テト2:1-20; ルカ2:1-20

1.

 2週間ほど前だったでしょうか、パレスチナから送られてきたテレビのニュースで、瓦礫の中に赤ちゃんの人形が写っていて、司祭と言ったか牧師と言ったかが、「今イエスさまがお生まれになるなら、その場所は瓦礫の只中でしょう。ちょうどこのような姿で」といった趣旨の話しをしていました。暖かなエアコンが効いている部屋で、きれいで柔らかな毛布の中に寝かされている赤ちゃんを見慣れている私たちは、瓦礫の只中に寝かされている赤ちゃんイエスさまなど想像することができません。

 しかし、二千年前のパレスチナ、現在ヨルダン川西岸地区と呼ばれる地域の一角にあるベツレヘムという小さな町でお生まれになったイエス・キリストのベッドは宿屋の外の馬小屋の飼い葉桶だったと言い伝えられています。絵本の中に描かれている美しくも神秘的な場面です。十代半ばのうら若い母親マリア、母子をしっかりと守ろうとしている青年ヨセフ、三人を優しく見守っている馬やロバ、神さまの祝福を伝える天使たち・・・。そのとおりなのですが、しかし、彼らの置かれていた現実はといえば、絵本が描き出す貧しくも美しく幸せそうな様子よりもずっと過酷なものでした。

 二千年の後、同じパレスチナで、家も学校も病院さえも破壊され、多くの人々が殺され傷つけられている町中の至るところが瓦礫の山と化しているその只中で眠っている赤ちゃんイエス、二千年前の場面といくらも違わない、忘れたくても忘れられない今年のクリスマスです。そのことを胸に刻みながら、クリスマス物語をご一緒に聴いていきましょう。

2.

 なぜこの時期に親子三人は北のガリラヤ地方のナザレではなく南のユダヤの片田舎、ベツレヘムという町にいたのでしょうか。これは誰もが知っての通り「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(ルカ2:1)からです。強大なローマ皇帝の権力を考えると、庶民が抗うことなどできません。ヨセフの遠い先祖がダビデなのでその出身地ベツレヘムで登録をしなければならず、彼は身重のマリアと共に何日も何日もかけて旅をしなければなりませんでした。

 けれども、ローマ帝国はそれはそれは広大な領土を持っていました。人口調査のために膨大な人と時間とエネルギーが必要だったでしょう。何ヶ月ももしかしたら一年以上もかかる大仕事でしょう。

 では、ヨセフとマリアはなぜこの時期に先祖の地、ベツレヘムまで旅をしたのでしょうか。すでに妊娠していることが分かっていたマリアを連れての長旅を何も好き好んで臨月のときにすることはないだろうにと疑問に思いました。大きなお腹を抱えてガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで移動するのが大変だと思えば、つわりが一段落して妊婦が安定期に入ってから旅するか、あるいはお産がすんでしばらく経って母子ともに落ち着いてからおもむろに登録のための移動をすればいいではないかと考えます。

 なのに、彼らはわざわざこの時期に長旅をしてベツレヘムへ行って、そこにいるうちに案の定「マリアは月が満ちて、初めての子を産んだ」(2:6)のです。そうすると、ヨセフとマリアは意図的に出産直前の時期を選んだのではないかと疑ってしまうのです。何故? 理由は簡単です。郷里の人たちに出産を知られたくなかったからでしょう。ヨセフもマリアもそれぞれ天使のお告げを受けて、神の子を宿すことと産み育てることを決心をして、受け容れたのですが、それでもやはりなるべく人目に触れたくはなかったのではないでしょうか。正式に結婚する前に身籠もることもお産することも当時は御法度だったからです。しかもヨセフは身に覚えがなかったのですから。

 ですから、マリアは世間の冷たい、蔑みの眼差し、非難の目に晒されることを覚悟しなければなりませんでした。そうならば、そのような出産が話題になることをなるべくなら避けたかったに違いありません。だから選りも選ってあの時期のベツレヘム行きだったのではないかと私は推測するのです。私が申し上げたいことは、神の子イエスさまはマリアのような立場の人の許をあえて選び、そのような困難な状況を生きている人に寄り添い、苦労と共に、その人の生きる喜び、生きる希望と力の元となられたということです。

 赤ん坊の誕生ということに優る喜びはないし、周囲の人々に祝ってもらえるときにその喜びは二倍にも三倍にもなるでしょう。しかし、馬小屋にお祝いに真っ先に駆けつけてくれたのは社会の最底辺の羊飼いたちでした。彼らが社会の最底辺というのは厳しい労働とか経済的な貧しさのゆえにというだけではありませんでした。仕事柄律法の定めに従って安息日を重んじ、礼拝や祭儀を行うという宗教生活を規則正しく守るという暮しができないがゆえに、彼らは宗教共同体でもあるユダヤ人社会では最底辺の人間たち、「地の民」と呼ばれて見下されていたのでした。でも、事実は最底辺の人たちこそが主イエスにとって最も近しい存在だったのです。それが、羊飼いたちが真っ先にお祝いに駆けつけてくれたというエピソードが象徴的に表わしていることなのです。

 黄金、乳香、没薬という高価な贈り物を持ってはるか東方の学者たち、つまり外国人の学者たちが長い長い旅を押して訪ねて来てくれた話しもクリスマスには欠かせません。木星と土星のまれにしか起こらない接近を天文学、占星術、諸外国の宗教に関する知識を総動員してその意味することを探り当て、多大な費用を惜しまず大きなラクダの隊列を組んで砂漠を越えて、命懸けの旅をして新しい王の誕生を祝いに来たのです。国も人種も宗教も異なるけど、彼らは真理を探究する人たちでした。しかし、これもまた裏返せば、同じ神の民、同じ信仰を持つ同胞たちの中にはそういう人はおらず、神の民には受け容れられず、歓迎されなかったということを表わしています。ヨハネ福音書は印象的に「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(ヨハ1:11)と記しています。

 マタイ福音書には、王としての地位が脅かされることを恐れたヘロデによってベツレヘム周辺一帯の二歳以下の男の子が皆殺しにされたという残虐な話しが語られています(マタ2:16-18)。二千年後の今も多数の幼な子が戦争の犠牲になっています。赤ちゃんイエスは命の危険と死の恐怖と悲しみに襲われているその子たちと運命を共有したのでした。

 さらに天使の導きで親子三人はエジプトに脱出します(マタ2:13-15)。今風に言えば、故国での家族や友人たちとの平穏な生活を捨てて、命からがら難民にならざるを得なかったのです。私の所属する教会にもアフリカのある国から家族を残し一人で逃れて、日本で正式の難民としての認定を国に求めて辛抱強く戦っている人がいます。国連の調べでは、人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団に属するなどの理由で難民となっている人の数は、2019年末の時点で7950万人でした。その後ウクライナ戦争なども起こりましたから、現在は優に8千万人を越えているでしょう。推定ではその内の40%が18歳未満だと言います。そのように現在も世界の各地で貧しくても安心して生きれる場所を必死で求めている数多くの難民たちがいます。イエスさまはその一人となられたのです。

 クリスマスの物語は、少し見方を変えれば、救い主イエスさまがいったいどこでお生まれになったのか、どんな人たちと共にいて、どんな苦しみや悲しみをその人たちと分かち合われたのか、出会った人たちはいったいどうやって救われ、新しいいのちを生きるようになっていったのか、そういうことを考える材料に富んでいます。

3.

 クリスマスの夜の物語は人の世の闇、世界の暗闇の部分を曝け出しましたが、同時にそこに一縷の光を見出すことができました。降誕なさった救い主はいったいどのようなお方なのか、だれのために生まれたお方なのかを明かしたからです。実はそれだけでなく、もう一つの明るい知らせもありました。それは、こういう人たちがいてよかったな、御心に適う人々がいるものなんだなと安堵できる知らせでした。それはどういう人たちだったでしょうか。

 30年ほど前に初めてフィンランドに行ったときは夏至の頃でした。6月24日は日本では聞いたことがなかった「ヨハネマス」という教会の祝日だったのです。クリスマスとはクリストマス、キリストマス、言うならばキリスト礼拝。ヨハネマスは洗礼者ヨハネの誕生を祝う記念日です。彼の母親はエリサベト、マリアの親戚にあたる人でした。長く不妊の女と言われていたけど、高齢になって身籠もった彼女は、若いマリアの訪問を受けました。おそらく自分の孫くらいの年の差があるマリアに対して、初めて妊娠した、しかも特別な事情のもとで妊娠したマリアに対して、その不安をおだやかに受け止めてあげ、自分の経験を語りながらマリアに母となるためのこまやかなアドバイスをし、最大の問題である神の子を産むという特別の使命について、自分の証しを通して祝福し励ましたのです。エリサベトの語りかけとそれに応えてマリアが歌った、のちにマグニフィカトと呼ばれるようになる「賛歌」(ルカ1:46-55)から想像できることは、エリサベトはマリアに「勇気を振り絞ってこの神からの大役を引き受けなさい」と言ったのではなく、「恐れや不安と共に自分自身を神さまにお委ねしなさい」ではなく、「恐れも不安もそっくりそのまま自分をお委ねしていいのだよ」というやさしい言葉だったことでしょう。

 故郷のナザレではなく、頼りになる親も親しい人も一人もいないベツレヘムで出産の日が来ました。ルカ福音書には簡潔に「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(2:6)とだけ記してあるだけです。未経験の青年ヨセフ一人ではオタオタするばかりで何の役にも立たなかったでしょう。しかし、たとえ客がいっぱいで出産のための暖かいきれいな部屋はなかったにしても、お産の時に必要なお湯を沸かしてくれる人や、赤ん坊を取り上げてくれる、お産の経験者の女性もきっといてくれたことでしょう。書いてなくてもそうだったに違いありません。貧しい庶民の中に何人かの善意の人たちがその場にいて、マリアを、つまりイエス様を助けてくれたに相違ないのです。天使とは神さまから遣わされた者です。エリサベトもそれらの手助けをした善意の人たちもマリアにとっては天使のような人たちだったことでしょう。

 「野宿をしながら、夜通し羊の群の番をしていた」(2:8)羊飼いたちは、天使のお告げを聞いて、ベツレヘムまでやって来て、何軒かの宿屋を訪れて、ついに布にくるまって「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(2:16)のです。イスラエルという宗教的社会的共同体の最下層に追いやられていた「地の民」は、それを恨んで神も仏もあるものかと言って、そっぽを向いてもおかしくはなかったのでしょうが、彼らはそうはしませんでした。なぜでしょうか。天使たちは世の支配者層、多数派の人たちのためにではなく、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(2:11)と言ったのです。羊飼いたちは「あなたがたのため」、つまり私たちのため、この私のために救い主がお生まれになったというお告げを聞いたのです。

 だからベツレヘムまで急いで行き、乳飲み子を探し当て、お祝いをし、神に感謝したのです。では、彼らからの贈り物は何だったでしょうか。博士たちのように黄金や乳香など高価なものなど貧しい羊飼いたちに贈れるはずもありません。ルカは書き留めていませんが、羊飼いにできるもの、羊飼いにしかできないものをプレゼントしたと、私は思うのです。それは羊のお乳です。出産という大仕事で体力を使い果たしたマリアにとって、これから毎日授乳をしなければならないマリアにとって羊のミルクは何よりの贈り物だったことでしょう。日常生活の中からの、労働の現場からの献げ物でした。

 もう一つ、羊飼いのエピソードで忘れてはいけないことは、馬小屋の光景を見たあと、「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(2:17)ことです。知らせた「人々」とはどういう人たちでしょうか。羊飼いの仲間たちもきっとそうでしょう。顔見知りの村の人たちも間違いなくそうでしょう。なぜそう思うかと言えば、この出来事は私たちのため、この私のための特別な喜びごとです。そうならば独り占めしますか。いいえ、特別な喜びごと、この上なく価値のあることだからこそ、分かち合わないではいられなかったのです。自分が貧しいから手に入れたものは握りしめて独り占めするのではなく、逆にもう一人の貧しい人と分かち合うのです。

4.

 マザーテレサはそういう貧しい人たちを見て、Small is beautifulと言いました。貧しく小さな人々、社会的に小さくされた人々は生まれつきbeautifulだと言っているのではないのです。彼らもふつうの人、大事なものを得たら独り占めしたくなるようなふつうの人なのです。しかし、愛の神さまがもう一人の貧しい人の中にいて、もう一人の貧しい人として彼に出会い、接してくださるときに、なんとその人の心の中に愛の気持ちが芽生えるのです。そうすると分かち合いの行動が出て来るのです。愛の神さまは人間の心に愛の息吹を吹き込んでくださるのです。ちょうど愛の神さまが追い剥ぎに襲われて半死半生で苦しんでいる人としてサマリア人と出会ってくださったときに、サマリア人の心にこの人を助けなければという気持ちを引き起こしてくださり、彼に身の危険も顧みずに、大怪我をしたユダヤ人を助けようという愛の心を沸き上がらせてくださったのと同じです。愛の救い主イエス様が誰かをとおして自分に出会ってくださるときに、私たちには、自分の心の中にはそれまで無かったあたたかさ、人の苦しみを感じ取る心、人への優しさ、思いやり、いのちを尊ぶ思いが吹き込まれます。愛の心が芽生えるのです。ささやかではあっても愛の行動へと駆り立てられるのです。愛を生きる人へと変えられていくのです。

 ですから、突然の天使のお告げに怖じ恐れ、戸惑い、これから起こることを思って不安に陥っていたエリサベトもマリアも変えられていったのです。常識に囚われ離別という選択肢を選びそうになったヨセフも変えられていったのです。自分たちのことで手一杯で、縁もゆかりもない赤の他人の世話をするゆとりなどなかったベツレヘムの宿屋の主人たちも先客たちも生まれてくる赤ん坊のために身を削って親切にするように変えられていったのです。羊飼いたちは自分が喜び拝み賛美するだけでなく、目の当たりにした大きな喜びの出来事を誰かと分かち合わないではいられないように変えられていったのです。自分たちの身の安全や世間の評判や小さな幸せよりも、神さまから託された子を産み守り育てるという大切な務めを、たとえそれが愛する息子の十字架上の死を見届けることになろうとも、その務めを全うすることへとヨセフとマリアは変えられていったのです。

 繰り返しますが、愛の神さま、愛の救い主イエスさまが、時に姿を変え、小さく貧しくなられて、私たちに出会ってくださり、触れてくださり、私たちの心の中に入ってくださることで、私たちは変えられていくのです。はじめはほんの少しであっても、神の愛を生きるように変えられていくのです。キリストに倣う愛の生き方がベツレヘムの馬小屋で始まるのです。

 相互不信と暴力が世界を覆う闇を一層深くしています。自己中心と高慢と神を無視し時に神に背く個々人の生き方は依然として私たちの間にしぶとく蔓延っています。しかし、ゴルゴタの十字架と空虚な墓の出来事により闇の力は打ち砕かれ、光と愛が勝利する神の究極の力が示されました。そのために、御子は天の高みから降り、地の最も低い所で生まれ、惨めさや悲しみや苦しみの極みを味わわれたのです。そうすることで人間への神の愛がもたらされました。私たちこそが飼い葉桶なのです。私たちのもとに主が来てくださって、神の愛を生きるように愛の息吹を体の内に吹き込んでくださり、愛の思いを心の内に芽生えさせてくださるのです。それがクリスマスなのです。神に感謝、アーメン


2023年12月24日日曜日

礼拝メッセージ「イエス・キリスト誕生」

2023年12月24日(日)主の降誕主日  岡村博雅

イザヤ書:9章1〜6 

テトスへの手紙:2章11〜14 

ルカによる福音書:2章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

クリスマス、おめでとうございます。教会暦の上では今日は待降節第4主日ですが、湯河原教会では主の降誕主日として祝います。今日も神様はすべての人を礼拝に招いています。

ですから、ルーテル湯河原教会は世界中のどの国の人も、男の人も女の人も、お年寄りも子供も、一人ひとり違う考えの人も別け隔てなく受け入れます。そして、私たちは今日、この礼拝ですべての人の救い主としてお生まれになった御子イエス様を喜んで迎えます。

子どもたち、前にいらっしゃい。(子供の礼拝)(子どもたち席に戻る)

 今日の福音書のルカ2章1〜7節にはイエス様の誕生のいきさつが述べられています。学者たちの研究によれば、細かな矛盾や未解決の問題があるものの、この記録は大筋では信頼できます。イエス・キリストの誕生は、今からおよそ二千年前のことです。それは広大なローマ帝国が完成してからまだ間もない頃です。そのローマ帝国の支配下に置かれたユダヤの社会の片隅でイエス様は誕生します。イエスがなぜベツレヘムで生まれたのか、それはルカ2章の初めにあるように住民登録のためでした。

 学者たちが現在までに発見した人口調査に関する古文書から、皇帝アウグストゥスの頃から、ほぼ14年ごとに人口調査が実施されたことが推定できるそうです。また、その登録は各人が故郷に戻って行ったということも、エジプトから発見されたパピルス文書によって確認できるのだそうです。つまりルカは1節から7節でマリアとヨセフの経験は作り話ではない、歴史的な出来事なのだと語っているのです。

 そして8から14節ではイエスの誕生の意味が語られます。登場するのは羊飼いたちと、主の天使と天の軍勢です。羊飼いたちは天の側から、すなわち神から、救い主の誕生を知らされます。この物語は羊飼いたちの信仰によって語り継がれたものであることことがわかります。彼らは自分たちが経験した真実を語っており、ここに記されている、喜びに満ちたやり取りから彼らの信仰とイエス様の誕生の意味が伝わってきます。

 イスラエルの人々はバビロン捕囚という苦難を経て、長い間救い主の誕生を心待ちにしていました。第一朗読をご覧ください。イザヤたち預言者は救い主の誕生を預言していました。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た」。「一人のみどり児が私たちのために生まれた」と。

 2000年前のある夜、野宿をしていた羊飼いたちはなんの前触れもなく「恐れるな、今日、救い主がお生まれになった」と預言が成就したことを知らされました。そのときの情景と言い、天の軍勢の高らかな賛美の声といい、羊飼いたちは、これは本当のことだと素直に信じたに違いありません。

 「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」が神からのしるしだと告げられた彼らは、そのお告げを信じました。仲間どうしで声をかけあって、これがしるしだと言われた「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を探して夜の闇の中に、みんなで声を掛け合って出かけていきました。「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と。この言葉からは、喜び勇んで赤ちゃんイエス様に会いに行く羊飼いたちの有様がありありと浮かんできますね。そしてついに彼らは粗末な小屋に宿をとっていた、マリアとヨセフ、そして、「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を見つけるのです。この出来事にイエス様の誕生の意味が示されています。

 イエスの誕生の意味は、その出来事を正確に、かつ詳細に調べ、理解すれば分かるというものではありません。それはむしろ心を開いて待つ者に明かされていくのです。羊飼いたちがそうであったように、天使は、心を開いて待つ者に近づき喜びを告げました。「心を開いて救いを待つ」。そうすることで誰もが自分にとってのイエスの誕生の意味を悟ることができます。その人の生まれや育ち、家庭や社会環境の違いなどは一切問題になりません。大切なことは、「聞いて信じる」心があるかどうかです。羊飼いはまさに、「聞いて信じる」心の人々でした。

 ではマリアとヨセフをめぐる状況はどうだったでしょうか。皇帝が求める住民登録に、不満を言うこともなく、ただ淡々と従って故郷に戻るこの無名のカップルには、人々が憧れたりするものがまったく無かったと言えます。この二人には、私たちが関心を抱き、目を奪われるような、能力も業績も地位も何もありません。全く特別ではありません。

 また「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」という言葉からは、今にも出産しそうな女性を受け入れて面倒に巻き込まれたくない、貧しい旅人ではもうけにならない、そんな人々の冷たさと居場所のなさが響いてきます。

 粗末な小屋で出産したマリアが初子をくるんでやったものは、一枚の使い古された布であり、その子が寝かされた場所は飼い葉桶です。しかし、これこそが神がすべての人の救い主である乳飲み子のためにマリアとヨセフを通じて供えてくださったものです。

 物の面ではほぼどん底にいる彼らですが、しかし心の面ではどうでしょうか。この両親は神と共にあり、お互いを慈しみあい、いたわりあう優しさに溢れていたでしょう。与えられたすべてを善いものとして感謝して受け止めていたのではないかと思います。彼らにあっては物や力を重視する価値基準が完全に逆転しています。

 この出来事には人間の常識ではとうてい考えられない神秘があります。イエス・キリストの誕生は神の救いのご計画によるものです。そのもっとも深いところには、すべての人を別け隔てなくどこまでも愛して、そのために、独り子をも惜しまずに与えてくださったという神の私たちへの愛があります。

 その愛はすべての人への愛です。それは、国籍によらず、人種によらず、主義主張によらず、まったく差別をしない、人類すべての救い主としてお生まれになった御子イエス・キリストの普遍的な愛です。

 しかしイエス・キリストの誕生の意味は即座に理解できるものではありません。それは、聞いて、信じて、訪ねあてるとき初めて私たちにも明かされてきます。救い主は2,000年前の「今日」生まれただけではありません。私たちが人間社会に居場所を見つけられずに飼い葉桶に寝かされた幼子を訪ねあてる「今日」、救い主は私たちのうちに、あなたのうちにきっとお生まれになります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2023年12月21日木曜日

目を覚ましていなさい

 2023年12月3日 小田原教会 江藤直純牧師  

イザヤ63:19b-64:8; 詩80:2-8, 18-20; Ⅰコリ1:3-9; マコ13:24-37

1.

 アドベントの第一週は必ず終末に関する日課が与えられます。マルコ福音書の13章はマルコの小黙示録と昔から言われてきました。ここの小見出しを並べてみると、神殿の崩壊の予告、大きな苦難の予告、人の子が来る、いちじくの木の教え、目を覚ましていなさいとなっていて、まさしくこの世界の終わりに関する予告や教えがぎっしりです。

 終末、一週間の終わりのことではなく、世界の終わり、歴史の終わりのことだと思うとどうしてもネガティブな気持ちになります。ですから正直言って聖書には余り出て来てほしくない部分です。バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井いっぱいに描かれているミケランジェロの「最後の審判」は実に名画だと思います。絵としては首が痛くなるまで見上げていたくなります。しかし、自分がその中に審判を受ける者の一人としていると思うと、穏やかな気持ちではいられません。自分が立派な人間だとは決して思えなくても、最後の審判とか、断罪とか、滅びとかと聞くと、逃げ出したくなる気がします。それがキリスト教が教える神さまのご計画であり、歴史の流れだというのなら避けられないとは思うものの、聖書が説く終末とはほんとうにそのように恐ろしいものなのかと立ち止まって考え直したいのです。東洋的仏教的な末法思想とは別物であるはずです。

2.

 世界の終末、歴史の終末というだれも経験したことのない事態について考えを深めようとするのは至難の業ですが、一人の人間の終末ということならば、自分自身の体験としてはいまだ未経験ですが、身近で見たり聞いたり経験したりすることはあります。抽象的観念的な死ではなく、愛する人が死ぬという個別具体的な事実、出来事を経験するのです。オギャーという喜びの泣き声とともに始まるこの世でのいのちは、長いか短いかの違いはあっても、平凡か波瀾万丈かは別としていろいろな出来事の積み重ねで豊かなものとされていきます。ファミリーヒストリーならぬパーソナルヒストリーは様々なエピソードに溢れています。100回以上も続いているNHKの朝ドラも大半は一人の主人公の子供時代から晩年までが描かれていて、見る人たちを笑わせたり涙ぐませたり喜ばせたり励ましたりします。それが私たちの人生です。しかし、誰であれ最後の時を迎えます。それが死です。誰にも誕生があり死があります。しかし、多くの場合、その死は、或いは死の直前までが穏やかなもの、安らかなものだとは限りません。

 現に今私が10日前にお見舞いに行った方は、夏前にガンが見つかったときにはすでにステージ4だったのです。部位も難しいところで発見された時期も遅かったので、手術での治療はできませんでした。病院でできる治療はすべてやった後、今は娘さんが休暇を取ってご自宅に引き取って介護をなさっています。いわば在宅ホスピスです。夫の方はご高齢なので、お一人で暮らすのが精一杯で、末期の妻の介護も看取りもご自分で引き取ってできる状態ではありません。お見舞いに伺ったときも、その方は酸素マスクで命を支えられており、娘さんは何度も何度も繰り返し痰の吸入をなさっていました。もちろん口から食事を摂ることもできなくなっているので点滴が繋がれていますが、しかし、この時点で栄養を入れると浮腫んでかえって苦しいので、今はむしろ栄養分は控えています。もはや時間の問題です。私はいつ電話がかかってくるかと案じつつ、祈りつつ毎日を過ごしている状態です。

3.

 患者の方のこういう状態を終末期というのでしょう。では、それは迫りくる死とか最後の審判とか滅びという言葉に代表され恐るべきものでしょうか。色で表わすならば黒、闇黒、くらやみでしょうか。たしかに、その方の状態を見て、そう思われる方もいらっしゃることでしょう。これこそまさにその人の終末だ、と。

 先日若松英輔というカトリックの信徒で文芸評論家また批評家の方が著わした『悲しみの秘儀』という書物を読んでいて、その中で紹介されていた岩崎航(わたる)という人のごく短い一編の詩と出会いました。岩崎航という人は三歳の時に筋ジストロフィーを発症し、それ以来ずっとベッドの上での生活を強いられてきた人でした。身動きが自由でないばかりではなくて、呼吸すら医療機器の助けを必要とする人です。人はこれを見て、人生即終末だと思うかも知れません。若松は岩崎が書いたある詩を私に教えてくれたのです。

   どんな/微細な光をも/捉える/眼(まなこ)を養うための/くらやみ

 私は一瞬息を呑み、言葉が出て来ませんでした。何度か静かに読み返しました。著者の若松英輔はこの詩の後に次のような彼の思いを書いていました。

 「暗闇は、光が失われた状態ではなく、その顕現を準備しているというのだろう。確かに人は、闇においてもっとも鋭敏に光を感じる」。そう言ってさらにこう続けています。

 「ここでの光は、勇気と同義だが、同時に希望でもある。勇気と希望は、同じ人生の出来事を呼ぶ二つの異名である。内なる勇気を感じるとき人が、ほとんど同時に希望を見出すのはそのためだ。この詩集の序文で岩崎は、真に希望と呼ぶべきものは『絶望のなか』に見出したと語る」と。そして、岩崎のもう一つの言葉を引用しています。

 絶望のなかで見いだした希望、苦悶の先につかみ取った「今」が、自分にとって一番の時だ。そう心から思えていることは、幸福だと感じている。

 岩崎航という詩人が三歳の時から、自分の置かれた状況のことを「どんな/微細な光をも/捉える/眼を養うための/くらやみ」と捉えることができるようになるまでの十年間だか二十年間だかは、傍から見てだけでなく、ご本人にとっても間違いなく「くらやみ」だったことでしょう。「絶望」と「苦悶」の日々だったことでしょう。彼が終末とはまさにこう言うものかと思っていたとしても少しも不思議ではありません。

 しかし、その「くらやみ」は言葉の本当の意味での終末ではありませんでした。その「くらやみ」は「どんな/微細な光をも/捉える/眼を養うための/くらやみ」だったのです。「希望」を見いだすための「絶望」だったのです。たしかにあれは客観的に言えば「苦悶」だったでしょうが、今は「幸福」と感じることができるようになったのです。これこそ終末としか言いようがないと思っていた事態の先に、本物の、幸福な終末が待っていたのでした。

4.

 マルコ13章の今日の日課の前の三つの段落には、神殿の崩壊の予告、終末の徴、大きな苦難の予告という重たい、まさに暗闇を予感させる話しが続いていました。本日の福音書の日課が始まる「人の子が来る」という段落にも次のように書いてあります。「これらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。24-25節です。

 しかし、それが終わりではありませんでした。26-27節を見落とさないでください。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と。暗黒のまっ唯中にまったく異なるものが登場するのです。

 その次の「いちじくの木の教え」の段落の中にも、29-31節にこう記されています。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代はけっして滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。わたしの言葉は滅びない。わたしの約束は変わらない。わたしの意志はどんなことがあっても、天地が滅びるようなことが起こっても、必ず成就される。すべての者を救いに招くとのわたしの愛は決して決して滅びない、決して変わらない、必ず成就されるのだと宣言なさっているのです。

 32節以下の段落には「目を覚ましていなさい」と小見出しが付けられています。それはこの段落の中で、主イエスが「目を覚ましていなさい」と三度もおっしゃっているからです。では、目を覚ましていなさいとは、一睡もするな、24時間起きていなさい、今日も明日も明後日も眠ってはダメだ。その時がいつ来るかは「だれも知らない。天使たちも子も知らない」終末の到来に備えて、ずっと起きていなさい、目を覚ましていなさいという命令でしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろ、くらやみの中にあっても、たとえ微細であれ、光を捉える眼を養っていなさいとの勧めのことではないでしょうか。今くらやみに包まれていても、必ずその中に、その奥に光はあると信じる勇気を持つこと、あるいは、光は必ず光のほうから訪れてくるとの希望を持つことを勧められているのではないでしょうか。言い換えれば、主イエスが終わりの時にすべての人を招く、救うとの言葉を、約束を、意志を揺るがずに信頼していなさいということではないでしょうか。

 27節の言葉が気になります。それは「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と語られているからです。呼び集められるのは「彼によって選ばれた人たち」だと言うのです。では、「選ばれた人たち」とはいったい誰のことでしょうか。やはりごく限られた、優れた人たちのことでしょうか。

 10月15日の礼拝で聞いたマタイ福音書22章の「婚宴のたとえ」の中の一節を思い出してください。終末の時に到来する天の国は「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(マタ22:1)と言われました。いざ婚宴のときが来たとき、招待されていた人たちが無礼にも断り、呼びに来た人たちを殺してしまいました。神の救いの約束を無視し、足蹴にしてしまったのです。その結果どうなったか。王は家来たちにこう命じました。「だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(マタ22:9)。実際「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」(マタ22:10)のです。一人でも多く婚宴に招きたい、それが王の思いでした。

 テモテヘの手紙一には「神はすべての人々が救われ真理を知るようになることを望んでおられるのです」(2:4)と書かれています。ペトロの手紙二には「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(3:9)と言われています。そうです。聖書のどこを見ても、くらやみ、苦難、滅びの中で罪人が潰れ、消え去るのではなく、一人でも多くの人が真の終末に、真の救いに、新しい天に入れられていくのを神さまは望んでいらっしゃるということが書かれているのです。そのための主イエス・キリストのご降誕であり、十字架であり、復活なのです。

5.

 冒頭でご紹介したガン末期の方は、不治の病いというくらやみと夫を残していくという苦しみの中で、確かに光を見出していました。最初はドクターにその身を委ねられましたが、もはや回復は望めないと知り、ご自分のすべてを子どもの時から信じ信頼し従って来た主イエス・キリストに委ねることを明らかになさいました。あの日牧師が枕元で祈りを捧げたとき、もはや声は聞こえませんでしたが、たしかにその唇は「アーメン」と唱和していました。「では、帰るからね」と夫の方が告げたとき、はっきりと首を横に振り「イヤです。ここにいてほしい」という意思表示をなさいました。慎ましやかな彼女は60年になろうとする結婚生活でそういう自己主張をどれくらいしてきたかは分かりませんが、これ以上ない愛の表現だと思いました。高齢の夫はただちに残ることを決め、手を握りしめ、やさしく撫でさすり続けました。普段人前ではしない愛の表現でした。その手の温もりを通して神さまの手の温もりが伝わったことを信じます。この信仰と希望と愛があるのですから、光を捉えているのですから、魂の目は覚めているのですから、いつ真の終末を迎えても安心して「アーメン」と応えるでしょう。私たちもそうしましょう。アーメン

2023年12月17日日曜日

礼拝メッセージ「闇に勝つ光」

 2023年12月17日(日)待降節第3主日 岡村博雅

イザヤ書:61章1〜4、8〜11 

テサロニケの信徒への手紙:5章16〜24 

ヨハネによる福音書:1章6〜8,19〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 バラ色のローソクに火が灯りました。主の到来の喜びを表すバラ色です。アドベントは御子の降誕の喜びをワクワクしながら待つ時であり、またもう一方では悔い改めが求められる時です。喜びと悔い改め、待降節にはこの両面があります。

 ある方が教会に来て神様の前に悔い改めることを知るようになって心が落ち着いたと証ししてくださいました。この方は少し前に大変悲しい、苦しい経験をされた方ですが、いま教会に導かれて聖書を学び、聖書に照らしてご自分の過去を顧みる事ができるようになってきたとおっしゃいます。

 教会に来る前は罪というのは犯罪のことだと思っていたので自分に罪があるとは考えられなかった。自分は正しいことを言っているし、正しいことをしようと頑張っていた。けれども、人に対しては寛容になれなかった。今、自分はずいぶん変わったと思う。固まっていたものが溶けたようでとても楽になった。そうおっしゃいました。

 その方ばかりでなく、私たちはどうしても自分を正しいと思う。人間とはそういう者ですね。自分は正しくて、間違っているのは相手なんだと思いがちです。しかし、謙虚にされ、悔い改めに導かれるとき、過去や現在の囚われから解放されます。

 そういう経験をすると、私たちは嬉しくなります。喜びに満たされるからです。悔い改めというのは実は深いところでの、いわば魂の充足なんですね。神は恵みによって私たちを喜びで包んでくださり、やがてその喜びは、神への信頼、救いへの希望へとつながっていきます。誰にも心底、悔い改める経験があると思いますが、悔い改めは喜びの経験ですから恵みというよりほかありません。このアドベントの第3週、喜びの主日に神の前に悔い改めることこそが本当の喜びなのだということをまず心に留めたいと思います。

 今日の福音は先週に続いてヨハネが登場します。「ヨハネは証しをするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるためである」(ヨハネ1:7)と宣言します。ヨハネは闇の世界に光として来られる主イエスを証しする役割のために来たのです。この世界は暗闇であるということ報道から感じます。ガザ地区の戦闘、ウクライナでの戦争、アラブの武装勢力などに目を向ければ、全くそのとおりです。人類はきっと有史いらい常に争いあい、殺し合っています。そして私たちの心の中にも暗闇がありますね。

 そんな人類の住む闇の世界に、光として、真の救いとして来てくださった主イエスを指し示すこと、それがヨハネの役割でした。

 聖書教会共同訳ではヨハネ1章5節を「光は暗闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と訳しました。新共同訳では「暗闇は光を理解しなかった」としていますが、「闇は光に勝たなかった」という言葉こそがヨハネ福音書が伝えるメッセージではないかと思います。なぜならキリストはかならず人類の闇に勝利してくださるからです。それが聖書全体が伝える終末における世の完成のありさまであるからです。

 さて、第1朗読をご覧ください。イザヤの預言ですが、イザヤ61章1節に、「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた」とあります。これはもちろん主イエスご自身のことですけれども、主によって聖霊の洗礼を受けたことに目覚めた、私たちのことでもあります。

 主が私に聖なる霊を注いでくださいました。聖なる霊が私をとらえています。何のためでしょうか。協力するためですね。聖霊に協力するためです。つまり、「遣わされて、貧しい人に良い知らせを伝えるため。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人に解放を告げる」ためです。(イザヤ61:1)

 これを私たち、このクリスマスへの準備の時に、できたらいいなあと思います。まだクリスマスまで一週間あります。祈りながら、主イエスの思いを心に浮かべながら、身近なところでやっていきましょう。「打ち砕かれた心」の人、きっとまわりにいます。その人の思いを聞いて、それを、主のみ心を思ってそっと包みます。いろんなことに「捕らわれている人」はあなたに向き合ってもらい、聞いてもらううちにきっと真理に気づき自由になります。

「だいじょうぶ。あなたは救われている」という「解放」の喜びを、心に思って、できれば言葉に出して告げ知らせて、共に喜べたなら、それも私たちの証しにちがいありません。

 イザヤ書10節にあるように、「主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」(イザヤ61:10)。まさにこの日を、私たちは待ち望みます。

 これは、限りのある人間の言葉で表現していますが、あらゆる想像を超えたこの日を、私たちは待ち望みます。どうぞ私たち自身が縛られている認識や良識の縄目を取り払って、自由に豊かに思い描いてください。神はどんな「晴れ着」をまとわせてくださるのか、どのように「花婿の冠」「花嫁の宝石」で飾っていただけるのか、聖書の言葉にそって楽しみにしたいです。確かに闇が深い時は忍耐がいります。しかし、神には、私たちを用いようとされる「とっておき」の計画があるのです。私たちはその日を待ち望みたいですね。

 11節には「主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」(イザ61:11)とあります。この私にそんな栄誉が与えられるなんて夢のようですが、これが神の約束です。それを、私たちは信じます。それはすべて神のご計画であり、その聖書的な表現ということですね。

 最後にパウロの手紙から聞きたいと思います。一テサロニケ5章23節に「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」とあります。「くださいますように」ということは、未来の話で、これからのことですね。「平和の神御自身が」やがて「あなたがたを全く聖なる者として」くださるというのです。嬉しいことです。

 また、続いて、「霊も魂も体も何一つかけたところのないものとして守って、主イエスの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」とあります。「イエス・キリストの来られるとき」とは未来のことです。つまり、神の国が完成するそのときです。まさに世に対する真の勝利の時です。パウロは神が「やがてそうしてくださる」と確証してくれているのです。

 私たちは、実はいつも、何か「そこが欠けている、ここも欠けている」と様々なことについて不十分に思っていませんか。それこそ世の中のことも自分のことも欠点だらけだと思ってはいないでしょうか。でもそれは、神がそういったものをこれから「欠けたところのないもの」、「非のうちどころのないもの」としてくださるためだと思ってください。

 パウロは24節で「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ず・ ・そのとおりにしてくださいます」(一テサ5:24)と、そう結んでいます。

 だからこそ、この真実に立つからこそ、あなたは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサ5:16)と命じて私たちを励ましています。そして、それこそが、主、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(一テサ5:18)。と高らかに宣言するのです。これはまさに神の助けによる聖霊による仕業です。私たちはこれを、このクリスマスの心備えとして、喜び、祈り、感謝を実践していきましょう。

 私たちは、やがて主のみもと、神のみもとで「救いの衣」を着せていただき、「恵みの晴れ着」をまとわせていただき、「花婿のように輝きの冠を」かぶらせていただき、「花嫁のように宝石で飾って」いただくことを、夢見ます。(イザヤ64:10)その喜びのために、「永遠なる」「神からの」「とっておきの」ご褒美を楽しみにいたしましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年12月10日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊による洗礼」 

 2023年12月10日(日) 待降節第2主日  岡村博雅

イザヤ書:40章1〜11

ペトロの手紙二:3章8〜15

マルコによる福音書:1章1〜8

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 今日と来週の福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表だと言えます。ヨハネは主イエスを来るべき方として指し示します。私たちにとって主イエスの到来は2000年前にすでに起こったことです。今日はこの礼拝を通して、主の到来の意味を深く味わいたいと願います。

 さてマルコは、福音書の始めにまずこう書きました。1章1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これはまるで、この福音書全体を表すタイトルのようです。

 マルコは、イエス・キリストを「神の子」と呼びました。今私たちはイエス・キリストは「神の子」だという信仰を生きています。今の時代を生きる私たちでも自分はクリスチャンだと軽々しくは言わないと思いますが、マルコの時代、主イエスは「神の子」だと人前で口にすることはまったく命がけだったことを思います。

 この当時、ユダヤはローマ皇帝の支配下にあります。そして、ローマ皇帝は自分の支配下にある人々に、自分を神として拝むことを強制しました。そのような強制に反して、マルコは、「イエス・キリストは神の子」と宣言したのです。それはローマ皇帝に対して、本当の神の子は、あなたではないと反旗を翻したのも同然ですから、この宣言そのものが迫害のきっかけにされるかもしれないものでした。

 「ブギウギ」という朝ドラを見ながら思いますが、第2次世界大戦中、日本では誰もが天皇を神と崇めるように求められました。そんな中でキリスト教会の指導者たちは、文部省の官僚から、ドイツが多くのユダヤ人を殺したように、「天皇陛下は神であらせられる」と認めないなら、「日本のごくわずかなキリスト者を皆殺しにするか、蒙古の奥地に追い払うことなど何でもない」という脅しを受けたと言います。

 私たちは毎年、終戦を記念しますが、マルコが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り出したことを思い巡らすとき、日本が戦争に負けたおかげで、私たちは政治権力者の横暴から救われたことを思います。主イエスは「神の子」だと自由に言えない歴史がついこの間の日本にもあったことを思います。

マルコが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言ったときの、「福音」という言葉も意味深いものです。福音と訳された、ギリシア語のエヴァンゲリオンという言葉には、「喜びの知らせ」という意味があります。この当時、「エヴァンゲリオン」という言葉は民衆に広く行き渡っていました。当時のローマで、「エヴァンゲリオン」とされたのは、たとえば神であるローマ皇帝に王子が生まれる。するとその喜びの知らせは国民への福音とされました。また、その王子が即位すると、民衆は、これはエヴァンゲリオンだと喜ぶように強制されました。

 そのような中で、マルコは「神の子イエス・キリストのエヴァンゲリオン、福音」と書きました。これはローマ皇帝に向かって「あなたが王であることは私たちのよろこびではない。神の子イエス・キリストこそがわたしたちの本当のよろこびだ、まことのエヴァンゲリオン、福音だ」と宣言したことを意味します。


 使徒ペトロの伝道説教を通訳したとされるマルコは、自分がペトロやパウロから直に聞いた話を、イエス・キリストと共に生きる喜びに満ちあふれて、この福音書に書き記しました。

では今日の聖書箇所の福音はなんでしょうか。それは今読んだ、最後のところにあると思います。洗礼者ヨハネはマルコ1章7節以下で「わたしよりも優れた方が来られ、その方は、聖霊で洗礼をお授けになる」と預言しました。

 これはこういうことです。イエス・キリストが来られて、人類すべてに聖霊を授けるという神の愛のみ業をなさる。すべての人が、神の愛のうちに、イエス・キリストによって、聖霊の洗礼を受けると理解できます。これはまさに福音にちがいありません。

 主イエスの到来によって、全人類が「聖霊による洗礼」をすでに受けていると信じるなら、もうこれは「皆さん、おめでとうございます!」ということです。

 そしてやがて、全人類が、神のみもとで、「聖霊による洗礼の完成の日」という究極の恵みの時を迎える。その完成の日に向かう「完成への時代」が、今、主イエス・キリストによって決定的に始まっている。その人が気づいていなくてもそういう道を人類は歩んでいます。

 さて今日の箇所では、この聖霊による洗礼と、洗礼者ヨハネの洗礼とが対比されています。ヨハネは「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(マルコ1:7)と自分の限界を示していますが、それは彼の洗礼が「悔い改めの洗礼」(マルコ1:3、8)だからです。

 「悔い改め」は尊いことです。でも人間の業です。自分で悪かったと思って反省して、自力で努力して直して、新たに決意して、少しはましになる。でも人間のすることですから、反省は長続きせず、努力にも限界があり、決心は揺らぎます。それに本人の考え如何で、洗礼を受ける人と受けない人が出てくるでしょう。それは、「悔い改めの洗礼」の限界です。すべては自分の決意次第となってしまうのはそれが人間の業だからです。

 しかし「聖霊による洗礼」は違います。聖霊は一方的に天からくるものですから、人間の世話にはならない。聖霊は自ら降ってきて、人を覆います。その人間が回心していようと、していまいと、その人を覆います。どんな善人にも悪人にも太陽の光が降り注ぐように全ての人を覆います。

 神に創造された人類は誰もがみんな聖霊の宿る魂を持っている。だから誰もが聖霊を受けることができます。そこにおいてこそ、真の意味での人類の回心が始まります。これが、「聖霊による洗礼」です。それは、もはや「個人の救い」をはるかに超えた、人類の救いとも言うべきダイナミックな神の愛のみ業です。

 ルターが「信仰のみ」と指し示すとき、こういう洗礼を、私たちは信じます。すべての人が、自らの魂においてそのような洗礼を受けていること。そしてすべての人がそれに目覚めて、やがてすべてが完成していくことを、待ち望みます。

 先程の、ペトロの手紙にこうありますね。9節、「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と。神は、すべての人が救われるように、一人も滅びないように、すなわち、すべての人が「聖霊による洗礼」を受けていることに目覚めて真の回心に至るように、「忍耐して」おられます。誰もがすでに神の子として救われているのに、それに気づいていないからです。人々は、それに気づいていないからこそ、どうでもいいものを追い求めたり、もう終わったと絶望したりしているわけでしょう。

 「私たちはもう、救い主によって、聖霊による洗礼を受けている。そしてやがて、聖霊による洗礼がすべてを完成させる」このような神の救いに目覚めて、信じ続けることがこの世での救いですし、これに気づいていないことがこの世での滅びの状態です。

 いつの日かみんなが目覚めて、一人も残さずに神の国に入るまでと、神は忍耐して導いておられる。その遠大なプロセスが、「138億年の宇宙の歴史」だし、「主イエスの誕生から2000年の世界の歴史」ということでしょう。

 この世のものは、すべて滅び去ります。太陽だって50億年後には燃え尽きて終わりを迎える。すると大膨張した炎に地球は飲み込まれてしまう。でも「聖霊による洗礼」の恵みを受けた私たちの魂は滅びません。この世のものはすべて消えていきますが、私たちの魂は、永遠に消えない「聖霊による洗礼」を受けて、神の愛に与っているからです。

 このことを信じたとき、なんだか、勇気が出ませんか。この世のことでちょっと悩んでいても、この世のものをちょっと失っても、この世のことがちょっとうまくいかなくても、「聖霊による洗礼」を思ったとき、ちょっと勇気が出ます。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう」 (二ペトロ3:12) と、ペトロの手紙では言っていますが、同時に、「しかしわたしたちは、新しい天と新しい地を、神の約束によって待ち望んでいる」(二ペト3:13)と言っています。

 この世の心も体も、ぜんぶ溶け去りますけれども、魂は溶け去りません。焼け崩れないし、燃え尽きない。私たちは日々新たにされて、主によって、永遠なる喜びに入っていきます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年12月3日日曜日

礼拝メッセージ「目を覚ましていなさい」

2023年12月03日(日) 待降節第1主日 岡村博雅

イザヤ書:63章19b〜64章8 

コリントの信徒への手紙:1章3〜9 

マルコによる福音書:13章24〜37

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 皆さま、あけましておめでとうございます。私がこう言いますと、「えっ!」と、驚かれる方もおられるかと思いますが、キリスト教の暦では、今日から「新年」です。お正月がまもなくですから、私たちは教会の新年と日本の新年と年に二度、新年を祝えるわけです。ちょっと嬉しいですね。

 今日は「待降節」第1主日ですが、「待降節」と訳されたラテン語の「Adventusアドヴェントゥス」(英語ではAdvent)は、本来は「到来」を意味する言葉です。待降節の期間に、私たちは2000年前に主イエスが世に来られたことを思い起こしながら、主が栄光のうちに再び来られることに思いを馳せます。

 過去にすでに起こった第1の「到来」つまり御子イエスの御降誕と将来に起こると聖書が語る第2の「到来」つまりキリストの再臨、その二重の意味での「到来」をどのように待ち望むか、私たちの「待望」の姿勢がこの間のテーマです。私たちは今日、終末に向かう姿勢として「目を覚ましていなさい」という言葉に心を向けます。

 さて、今日の福音箇所は、13章の5節から始まって13章の終わりまで続く主イエスの説教の一部です。その内容は世の終わりの救いの完成に目を向けさせようというものです。

 世の終わり、終末という言葉からは、普通には何か「ついえてしまうこと」や「おしまい」を連想するでしょう。しかし、聖書が世の終わりを語るとき、そこには救いの完成が意味されています。それは希望の時です。

 13章のはじめにこの説教が語られた時の様子が記されています。ガリラヤの田舎から出てきた弟子たちは、エルサレムの都にそびえる神殿の壮麗さに心を奪われていました。弟子の一人が叫びます。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13章1節)。しかし、これに対する主イエスの答えは弟子たちにとって全く意外なものでした。主はこうおっしゃいました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13章2節)。つまり、主イエスはこの神殿もいつか滅びるもので、これが本当に頼りになるものではない、と言うのです。

 この後主イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられるときに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主に尋ねました。「おっしゃってください。そのこと(神殿の崩壊)はいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか」と。

 すると主イエスは神殿を眺めながら弟子たちに6節以下にある長い遺言のような説教をなさいました。

 主はまず、にせキリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などという、これから起こることを語られました。そしてその後で、最後に起こることを語られたのですが、それが今日の福音書の箇所です。

 この最後に起こることでは、旧約聖書から引用された表現が用いられています。24-25節は宇宙的と言っていいような表現ですね。さらに26節には「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。

 このような言葉を聞いた人々には、当然のように「それはいつのことか」という問いが浮かんで来ます。それに対して主イエスは「あなたがたには分からない」と答えます。

 世の終わりの時を具体的に示そうとした人々はいつの時代にも現れますが、そのどれもが偽りだったことは歴史が明らかにしています。ハルマゲドンの時期を示したオウム真理教や、ノストラダムスの予言として1999年の7月に大惨事が起こると不安をあおった人たちもいましたね。どれもいい加減なものでした。方や主イエスが「その時は、だれにも分からない」と言い続けたことは見落としてはならない大事なポイントです。

 さて「人の子」という表現が3度出てきますが、これはダニエル書7:13-14からの引用です。本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でした。それが紀元前2世紀にダニエル書が書かれて以後、「人の子のような者」がいつの日か神から遣わされて、正しい裁きを成し遂げるという救いと解放のメッセージとして信じられるようになったのです。

 この箇所でマルコは、その「人の子」とは主キリストのことであり、世の終わりに、栄光のうちに再び来られる再臨のキリストこそが正しい裁きを成し遂げ、救いと解放を完成なさると告げているのです。

 ダニエル書で「世の終わり」についてのメッセージが語られた背景には、その時代の「厳しい宗教迫害」がありました。ユダヤ人たちはモーセの律法に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代でした。

 厳しい迫害のもとでダニエル書が語ろうとする中心的なメッセージはなんでしょうか。それは「希望」です。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去る。この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる。最終的に神のみ心が実現すると語って、迫害の中にいる信仰者たちを励ましました。この救いの希望こそが終末のメッセージの一つの側面です。

 今の日本に住む私たちはキリスト教を信仰しているゆえに迫害されて苦しむということはまずありません。しかし、私たちは誰もが死を免れません。この聖書が語る「終末」は、私たちの人生の終わりに、たとえば病床で死と直面している時の状況に置き換えて考えることができます。ダニエル書の書かれた当時のように宗教的迫害下にあるとは、死に直面しているということに置き換えられます。その意味において、私たちも自分の人生の終わりに、たとえ苦しみの中にあっても、そこには神の救いの希望があふれていることに重ね合わせる事ができるのではないでしょうか。

 続く28-29節は「いちじくの木から、たとえを学びなさい」というところで、「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。この「人の子が戸口に近づいている」とは、苦しんでいる人々に対して、「まことに救いの日は近づいている」という励ましですから、これもまた再臨のキリストによる希望のメッセージにほかなりません。

 その一方で、32節以下の「目を覚ましていなさい」というメッセージにはもう一つの側面があります。それは警告のメッセージという側面です。日々の出来事に追われて本当に大切なものを見失っているときに、神の最終的な判断の目から見て、何を大切にして生きるべきかを私たちに警告しているのです。

 マルコ13章の説教にはこの希望のメッセージと警告のメッセージという両面があります。しかしそれは、「その日、その時が「いつ来るか、いつ来るか、とおびえてビクビクしている」というのではありません。

 32節から37節で繰り返される「目を覚ましていなさい」という言葉は確かに私たちへの警告の面が強いメッセージだと言えます。オリーブ山の上からエルサレムとその神殿を眺めながら主イエスは長い説教のまとめとして「目を覚ましていなさい」という言葉を4度繰り返されました。主イエスはそこにどんな意図を込められたのでしょうか。

 主は目に見えるものではなく、目には見えないがもっと確かなものに弟子たちの心を向けさせようとしているのではないでしょうか。この説教の31節には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉があります。つまり「目を覚ましている」とは、目に見える、滅びゆくものではなく、目に見えない、本当に確かなもの、決して滅びないものに心を向けていることだと言えるのではないでしょうか。

 今、私たちが生きている現実をどう見ているか、その中で何を真実なもの、何を本当に信頼すべきものだと思っているか、主イエスは私たちにそう問いかけているのではないでしょうか。

 最後に、私たちはこの警告のメッセージを聞きつつ、パウロのコリントの教会員への手紙を通して力をもらいましょう。安心して私たち自身の世の終わりに目を向けて歩んでまいりましょう。パウロは言います。9節、あなたがたは「私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」。5節「あなたがたはキリストにあって、言葉といい、知識といい、すべての点で豊かにされています」。8節、主は「あなたがたを最後までしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます」。アーメン。祈ります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン 

2023年11月26日日曜日

礼拝メッセージ「決定的なことは」

 2023年11月26日(日)聖霊降臨後最終主日  岡村博雅 

エゼキエル書:34章11〜16、20〜24 

エフェソの信徒への手紙:1章15〜23 

マタイによる福音書:25章31〜46

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今読んだ箇所はマタイ福音書では主イエスの最後の説教です。来週からは待降節に入ります。主イエスが再び来られる時、すべての国の人々が主の前に集められ、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:32)とあります。これはエゼキエル34章17節にあるように「最後の審判」についての古代からの表現ですが、ここで主イエスは世の終わりの裁きの様子を話されたのではありません。主は、神の目から見て何が決定的に大切なのかを示されたのです。ですからみなさん、今日はこの福音そのものを味わって受け取ってください。

 主イエスは羊と山羊を分けると話されました。実は山羊について、こんな話を聞きました。日本の離島などでは山羊を放し飼いにしておいたりするそうです。山羊はたくましくて、放おって置いても増えるので、増えたらその山羊を捕まえて、その肉を売るのだそうです。

 でも、そう簡単なことではないようです。ずっと以前に小笠原でも大問題になりましたが、山羊は、天然記念物だろうがなんだろうが、貴重な植物を全部食べてしまう。そして、どんどん増える。増え過ぎて、あらゆる植物の芽を食い尽くして、緑がなくなっていく。植生が変わってしまう。ついには、土の地肌が露出する。そなると、崖崩れにまでなります。

 これは奄美大島の無人島でキャンプを楽しんでいる人からの話ですが、この無人島に地元の人が山羊を4頭放したそうです。山羊は毎年増えて、貴重な島ユリなどを食べてしまう。毎年島にキャンプしに行っていた人たちが、地元の人に、「山羊、なんとかならないですか」と言っても、地元の人も高齢化で山羊が捕まえられない。「捕まえて食ってもいいよ」なんて言われても、山羊は素早くてとても捕まらない。角を生やしているし、結構怖いということでした。

 けれども、山羊は増え過ぎると、だんだん食べるものがなくなって、減っていくのだそうです。それで一時は山羊がわんさかいたのに、この島では、あと3頭、しかも雄だけになった。絶滅しつつあると言います。

 この話をしてくれた人が、これはあくまで自分の偏見かもしれないけれどとことわりながらこう言っていました。「山羊というのはどうも強情で、自分勝手で、人に頼らないで自分でやっていくという感じがして好きになれない」と。そう聞いて、今日の箇所が思い浮かびました。なるほど、主イエスもこういう山羊の感じをイメージしておられたのでしょう。

 一方羊ですが、これは、ずっと以前にテレビで見たどこだったかの羊牧場の話なんですが、羊飼いがピーッと笛吹くと、犬に導かれて、羊たちがみんなパーっと寄ってきて、一頭もはぐれずに群れるわけです。羊は性格もおとなしくて、素直で、人間を主人のように慕って、人間に守られていることに、全てを委ねているという感じがします。

 その動物から感じるものが、羊と山羊とでは決定的に違います。つまり、羊は、羊飼いに自分のすべてを委ねているし、羊どうしも、みんな一つになって群れている。いうなれば、お互いに信頼し合い、助け合い、共にいます。

 片や山羊は、なんというか「俺は一人で生きてくぜ、誰の世話にもならないぜ」みたいな顔をして、誰にも懐かず、助けも求めず、どんどん植物を食べ尽くして、一時は繁栄しても結局は滅んでいってしまう。羊も山羊も、私には馴染みがないので、ピンとこなかったのですが、こうして見ると羊と山羊の違いというのは分かりやすいですね。

 ただし、イエスさまのこの話を読んで、「私の信仰は羊的だろうか」とか「私は山羊的になっていないか」などと気にするとしたら、それはちょっと違います。確かに、これは最後には羊と山羊を、右に、左に分けるという話ですけれども、これは、マタイ福音書特有の傾向です。大切なのは「あなたは羊だ」ということであって、私はどちらだろうかという裁きの線引きの話ではありません。ですから、心配する必要はありません。主イエスはどんなおりにも福音を語っておられるのですから、そんな不安になるような読み方はしなくていいのです。

 一人の人間が、完全に羊になったり、完全に山羊になったりするはずはありませんし、そもそも神さまは、決して線を引きません。神さまは、すべての人をひとつの群れとして養っておられます。エゼキエル書34章11節「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」とある通りです。神は一匹たりともとりこぼさないで世話をされます。

 でも、16節には「しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす」とありますね。これは、「誰かを滅ぼす」というより、「私たちの中の山羊的なる部分を滅ぼしてくださる」ということで、神はその人の心の中の山羊的なるものを滅ぼされると、そういう希望として読んでください。

 こう考えてください。「私たちの心の中に、山羊と羊がいる。主イエスは、その山羊を服従させ、すべての人を羊のように完成させてくださる。だから、日々、羊のように主イエスを信頼して、羊のように生き、完成の日、終わりの日に備えよう」と。「私たちの内なる羊と山羊」、「羊」なる部分がかけらもない人なんてありはしないし、逆に誰もが「山羊」を抱えています。「山羊」なる自分は、自分一人で生きているかのように思い、自分で自分を救おうと思い、自分の力で何とかしようともがき、心から信頼して交われない。羊飼いにすべてを委ねるという喜びを知らないでいる。私たちの心の中には両方があります。私たちは誰もが山羊であり、羊であるんです。

 主イエスがマタイ25章42節以下で「食べさせてくれなかった、飲ませてくれなかった」と言ってますが、山羊的な心のことを言ってるんですね。自己本位な心は、「食べさせたり、飲ませたり」なんてしませんから。「しない」というより、気づかないんだと思います。たぶん「一緒にいる」という感覚がないんです。「お互いがつながってるという感覚」がない。

 羊だったら、みんなで身を寄せ合っているし、一緒に行動するし、一緒にいる感覚がある。山羊はもう、個人主義ですから、自分一人でなんとかしている。逆にいえば、他人がのどが渇いていようが、裸でいようが、どうでもいい。「私とは関係ありません」ということですから。ここが一番、「羊的」「山羊的」の違うとこじゃなかと思います。

 皆さんも時には、「あっ、この人かわいそうだ。助けてあげよう」と思ったり、「この人とはご縁があるから関わろう」と思ってつながったりしているでしょう。そのときの心はきっと「羊的」なんです。

 でも時に、「もう、人のことなんか構っちゃいられない。私はこれで、目いっぱいだ」とか「誰も信じられない」などと思うのは「山羊的」な思いになっているんです。

 でも皆さん、主イエスは、最後には、この山羊的なる部分を、ぜんぶ羊的なるものに変えてくださいます。これは福音です。主イエスはそのためにこの世にきてくださり、私たちと共にいてくださいます。それを私たちは信じて、お互いに協力します。愛し合います。もっと羊なる者になれるように工夫しますし、実際に羊どうし集まって祈ります。今こうして集まっている私たちは羊の群れですね。そう思ったらいいと思います。

 最後にパウロの励ましからも聞きたいと思います。私たちは「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」、すなわちキリストの体である教会につらなっています。そしてパウロは私たちのために祈ってくれています。1章17節以下、「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神…が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知り…、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟らせてくださるように」と。

 主イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と一つになる道だったと言えます。だからこそ、主イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。

 私たちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、主イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためです。

 主イエスがくださる愛を受けて、終わりの日、完成の日にむかって、共になって歩みを進めてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年11月19日日曜日

礼拝メッセージ「神の思い、人の思い」

 2023年11月19日(日)聖霊降臨後第25主日  岡村博雅

ゼファニヤ書:1章7、12〜18

テサロニケの信徒への手紙一:5章1〜11

マタイによる福音書:25章14〜30

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日はイエスさまが、タラントンのたとえ話から天の国について語ってくださいました。この譬えからわかるのは、私たちは誰もが、素晴らしい力と、恵みと、可能性を与えられているということです。

それは体が丈夫でも、丈夫でなくても、関係ありません。若いか、年を取っているかも、まったく関係ありません。健康であろうと、病気であろうと、良い人であろうと、悪い人であろうと関係ない。まったく関係ないです。「すべての」人に、神が、今日も、タラントンを与えています。恵みを与え続けています。ご自分の聖なる息を吹き込んでいます。

 ある説教者が私たち人間をこわれやすい笛のようなものにたとえて語っていてなるほどと思いました。いわく、自分という笛をちょっときれいに磨いて、ゴミや目詰まりを取って、自分を大切にしていれば、きっと神が力を与え、私たちを用いて働いてくださる。それがタラントンを増やすということですし、私たちはそれを信じるのみだというのです。

 私たちはこの世の命というメロディーを奏でますが、神は永遠の命というメロディーを奏でてくださる。私たちが神のメロディーに自らをゆだねて、喜んでそれを奏でていれば、その恵は何倍にでもなるでしょう。最終的には、それが何倍になったかなんていうことは、もはや、人間が量ることではないのでしょう。神だけが、それが何倍にもなっていることを知っておられるし、それを褒めてくださるし、一緒に喜んでくださいます。

 何歳になっても、たとえ体が弱っても、私たちはそのような、神の小さな楽器として鳴り響くことができるというのは、本当に大きな希望ですし、「さあ、今日からまたやってこう!」という、そういう励ましになります。

 今日のタラントンのたとえの後半の所は、タラントンを増やさなかった人が叱られるという話ですが、これは、神から頂いた恵みの素晴らしさを疑ったり、恵みをもらえないんじゃないかと怯えたりしてはけないという意味です。

 私たちはついつい疑ってしまいますね。神様から「そんなにたいしたものはもらってない」とか、「どうせなくなってしまう」とか、でも決してそんなふうに思わないでください。神からいただいているものは必ず増えると信じて、自分はそれを増やすことができると信じて、日々小さなチャレンジを重ねて、それを神に捧げていけばいいのです。かならず素晴らしい報いがあります。

 今日の福音書の25章15節に「5タラントン預けられている」とありますが、それがどれくらいのものか知らなければ、「えっ?5タラントン?ですか」と軽く思うだけでしょう。でも、どれほどのものか知っている人だったら、「え~そんなに!」ときっと驚く話です。

 「1タラントンは、一人の人の約20年分の賃金」だといいます。「20年分の賃金」というと1タラントンは6千万円から1億円くらいでしょう。5タラントンはその5倍ですから、3億円から5億円くらいでしょうか。まあ正確にはどれくらいの額なのかはともかくとしても、主イエスがこのたとえを話したとき、聞いていた人たちは、間違いなく「ほー、なんとも莫大な額のタラントンを預けたんですね」などと、とても驚いたはずです。

 ここにイエスさまの意図を感じませんか?聞いている人に、「ということは、私も神さまからそんなに預かっているのか?」と、そう思わせたい。でも私たちはだれもがそれ以上に預かっているのです。皆さん。「5タラントン」どころか、100タラントンをもすでに、預かっているんです。神からの大いなる恵み。こうして皆さんと出会い、今ここで、この時間を過ごしているというだけでも、これは、たとえどんなに金銭を積んでも、お金で買えるものじゃないです。

 神が与えてくださった、究極の、この「わたし」という恵みは、5タラントン、10タラントンをはるかに超えるような恵みでしょう。この恵みは、皆さんが決めるのではないです。「私はこんな人間だから、まあワン・コイン、500円くらいかな」とか、そんなことを思う必要はありません。「神が」与えてくださるのですから。この「わたし」にはとてつもない価値があります。それを信じてください。

 そうしてこう信じましょう。「神が、主キリストをとおして、共におられ、共に働いておられる」と。「主キリストを通して、キリスト者である私を通して、素晴らしいことがたくさん起こる」と。私はそう信じます。牧師にしていただいて、この10年余りを過ごしてきて、一人のキリスト者として、皆さんに申し上げられることがあるとするなら神の助けによって、皆さんの助けによってなしえたということです。

 皆さんもそうでしょうが、私にも自分なんかがと尻込みしたくなる気持ちがあります。でも天の父も、主も、聖霊もこぞって助けてくださる。だからキリスト者はだれでもできます。ルターが、恵みのみ、信仰のみと宣言している通りです。「自分を通して、神が働く」と信じてください。誰もが、素晴らしいことができます。

 今日の第2朗読で「その日はふいに来る」という意味のことが言われました。一度の人生ですから、できるときに精一杯生きていきたいものです。教会に新しいトイレが寄付され、椅子も寄付されてということを体験しながら、それが目に見えても、見えなくても、こうしてみなさんが精一杯生きようとしておられることをきっと主キリストは喜んでおられることを思います。

 テサロニケ一5章2節以下に「盗人が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っている…。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う…。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」とあります。

 これは私たち全員のことです。ここで「主の日」とはこの世の最後の日と受け取ってください。その日が来ます。誰もその日からは逃れられない。神の御前に立つその日が来る。私はやはり、その日には後悔しないで、こんな自分だですが、「でも、神さま、そこそこやりました」と言いたいです。「こんなダメダメな自分だったけれど、それなりに頑張りました。神さま、あなたは知っておられます」と言いたい。「皆さんの話をひたすら聴いて、福音を語りあいました。それが、与えられたタラントンだと信じてやってきました。恵みというタラントン、イエス・キリストの福音というタラントンを喜んで分かち合う仲間がジワジワと生まれてきました。テサロニケ一5章5節にある通り、皆が『光の子、昼の子』です。『私たちは、夜にも闇にも属していません』」と。

 さて、このたとえ話の中心テーマは1タラントン預けられた人だと思います。この人は、それを埋めたとありましたが (マタイ25:18) 、この人は神を恐れたということでしょう。その理由はこの人が、今日のゼファニヤ書にあるように、神は義と怒りをもって人間を裁く方だと思いこんでいるからです。この人はそんな神の前に自分をさらけ出すことを恐れたのです。この人は恐れから弱い自分、だめな自分を隠しました。

 でもこの人が見るべきはキリストの真実です。テサロニケ一5章9節にあるように、「神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められた」のです。主キリストが共にいてくださる今、自分のどんな罪も主が身代わりになって担ってくださる。主キリストが神の赦しを与えてくださる今、もはや恐れる必要なんて、ぜんぜんないわけです。

 神は私たちの弱さをまったくご存知だし、むしろ神のお考えで、こんな情けない自分のままで、恐れなくていい、恥じなくいいと、今いる場所に置いてくださっているからです。私自身は、失敗は多いし、身勝手だし、愛に溢れているなんてとても言えない。でも、こんな自分でも、神さまのお役に立てるのであれば、少しでも何かやろう」と、そんな思いで自分の心を開くと、そこにたくさんの、素晴らしいことが起こります。そういう体験を重ねてきました。

 人間の思い込みや決めつけに陥らないようにしっかりと主イエスを見上げましょう。この主イエスは私たちが神の恵みを味わい感謝のうちに生きてゆくようにと、その1タラントンを10倍にも、いや100倍にもしてくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年11月6日月曜日

「上へ降りるか、下へ昇るか」 江藤直純牧師

 2023年11月5日 小田原教会

ミカ3:5-12、詩43、一テサ2:9-13、マタ23:1-12

1.

 「神は我がやぐら」、教会讃美歌では「力なる神は」ですが、有名なこの讃美歌はルーテル教会では宗教改革主日の礼拝でよく歌われます。小田原教会でも先週歌われたのではないでしょうか。作詞がマルティン・ルターであることも、作曲もルターであることもこの賛美歌への愛着を増す理由の一つであるように思いますが、それだけでなく、この歌詞と曲の力強さも皆さんに愛される理由でしょう。今はフランスの国歌であり、元々はフランス革命の勝利の行進曲「ラ・マルセイエーズ」になぞらえて「宗教改革のラ・マルセイエーズ」と称されていたこともあったほどです。パイプオルガンの音量を最大にして、トランペットの音を高らかに響かせながら、大人数で歌うと興奮を覚えるほどです。まことに力強い信仰の勝利の歌と思われます。

 しかし、それはルターがこの讃美歌を作ったときの心情とは遠く隔たっています。そもそも彼が詞の下敷きにした詩編46編の詩人がこの詩を謳った状況とも違っています。詩編46編の出だしはこうです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。/苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。/わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩46:2-4)。大きな困難の只中にあってもわれわれがお頼り申し上げる神様はなんと力強いお方であることか、と謳い上げているのですから、先ほど申し上げた信仰の勝利の歌であるとの見方は少しも間違ってはいないと思われます。

 そうなのですけれども、神への信仰、信頼はたしかにそうなのですけれども、現実に詩人が置かれている状況はと言えば、「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」という比喩的な表現で描かれているとおりに、言葉に尽くせないほどの大きな困難の只中にあるというのです。いえ、東日本大震災を、あの大地震と大津波を身近に経験した私たちは、この詩人が描き出している場面が大袈裟な誇張でもなく、ましてや作り話などではまったくないことを知っているではありませんか。詩人が描写していることは現実に起こりうるのです。

 たしかに詩人が実際に経験しているのはあのような天変地異ではなかったかもしれません。しかし、それに匹敵するような、とてつもない大惨劇が起こったのです。「都は揺らぎ」「すべての民は騒ぎ、国々が揺らぐ」大混乱をこの目で見、肌で感じたのです。そのような悲劇的な状況の真っ只中で、「人間は何と無力であることか」「世界中どこにもこれっぽっちの希望もないではないか」と嘆き悲しまないではいられない状況に置かれているのです。その中で神様だけが頼りの綱だと告白しているのです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」、これは偽らざる、心からの信仰告白でした。

 ルターが「神はわがやぐら」「力なる神は」を作ったとき、宗教改革運動は行き詰まっており、四面楚歌、八方塞がりの状態でした。そのような状況の只中にあったからこそ、唯一の助けまた支えである神への賛美の歌を作り、皆で歌ったのです、いえ、なにより自分自身のために歌ったのでした。そうやって魂の安らぎを得たのです。

2.

 今朝の旧約、使徒書、福音書とともに指定された詩編は43編でした。そこではやはりこの詩人は途方もない困難の中に置かれています。自然災害ではなく、もっと社会的な問題のようです。「神よ、あなたの裁きを望みます。/わたしに代わって争ってください。/あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください」(詩43:1)。2節では「なぜ、わたしは見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか」と、自分の置かれた最悪の状況を、美辞麗句など全く使わずに、ありのままの苦しみ悲しみを訴えているのです。そして終わりの合唱の部ではこうも歌われています。「なぜうなだれるのか。わたしの魂よ/なぜ呻くのか。/神を待ち望め。」(43;5)と。そうです。この詩人はうなだれているのです。呻いているのです。それ以外にどうしようもない絶望の淵に陥っているのです。人間的な一切の希望が持てない状況にいるのだから、最後の最後に「神」に叫び、神を待ち望んでいるのです。「神を待ち望め。/わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。/わたしの神よ」(43:5)。

 わたしたちは46編や43編を読むとき、詩人が持っている神への信頼の強さにばかり目を奪われ、あのように神様を賛美したいものだと思いがちです。しかし、その信頼のリアリティーは彼が置かれている状況の厳しさ、苦しさ、酷さをリアルに想像することなしには、ただのきれい事に終わってしまうでしょう。

 なぜ、今朝このようなお話しをしているかと言えば、先日もテレビのニュースで「神さま、助けてください!」とこれ以上ないくらい悲惨な表情で訴えているパレスチナの人が映し出されているのを見たからです。10月7日のハマスの攻撃に端を発したイスラエル軍の連日の猛攻撃によりガザ地区は公共施設も一般の住宅も病院も学校も難民キャンプさえも、町中至るところが見るも無惨に破壊され、1万人ほどの無辜の市民が容赦なく殺され、しかもそのうちの半数近くは子どもたちで、水や食糧や医薬品や燃料はすでに底をついているのです。不安、いや恐怖の中での暮しですからガザ地区には早産がとても多いそうです。お産も暗闇の中でろうそくの光をたよりになされているとも報じられています。

 イスラエルの首相は「停戦はしない」「ハマスを殲滅する」と冷酷に言い放ちました。国際世論にもかかわらず、安全保障理事会は停戦の提案を何度も否決しているのです。人道的支援を訴える日本の代表もハマスへの非難が含まれていないと言って停戦決議に棄権をしている始末です。その中で、「神さま、助けてください!」とどうしようもない嘆きと怒りをない交ぜにした叫びをテレビカメラが捕らえていました。

3.

 グティエレス国連事務総長は、ハマスのイスラエル攻撃を非難しつつ、しかし、それは何もないところで突然起こったことではないと言ったことで、イスラエルの猛反発を食らい、辞任を要求されました。事務総長はこのパレスチナ側の暴力には歴史的、社会的な背景があるとの認識を示したのです。それは何でしょうか。

 私が中学生のときに住んでいた熊本に「栄光への脱出」というタイトルのアメリカ映画が来ました。当時まだ珍しかった70ミリの映画でしたし、評判だったので観に行きました。映画の英語の題はThe Exodusでした。旧約聖書にあるあの出エジプトです。イスラエルの建国物語です。紀元70年にローマ帝国によって滅ぼされたイスラエルはそれから1900年近く国のない民族でした。ヨーロッパ各地にゲットーを作ってそこに住み、ユダヤ教という宗教を拠り所にして、教育と金で自らを守りながらしたたかに生きてきました。しかし、キリスト殺しの民だと非難され、反ユダヤ主義によって迫害され、ついにヒトラーにより「最終解決」の対象とされました。600万人ものユダヤ人が殺害されたと言われています。「アンネの日記」のアンネ・フランクもその一人でした。

 ですから、ユダヤ人は自分たちの生命を守るためには自分たちの国が絶対必要だと確信し、自分たちの国を造ることに全精力を傾けました。ユダヤ人への迫害を何世紀にもわたってやってきたヨーロッパ諸国は負い目があり、彼らの願いを支援しました。それでも、1947年の国連の決議はユダヤ人の国家とアラブ人の国家の二つを作り、それが平和共存するという案でした。なぜなら、過去の長い長い間、エジプト、ヨルダン、シリアに囲まれ地中海に面したこの地域全体はパレスチナと呼ばれ、アラブ人つまりパレスチナ人も残っていたユダヤ人もともに暮らしてきていたのです。そこにユダヤ人たちが各地から集まって来てイスラエルという国家を造るのならば、その土地にそれまでそこに住んでいたパレスチナ人のための国家をも作るのは理の当然でした。しかし、念願叶ってExodusして建国し独立したイスラエルは自分たちの安全を守るためにパレスチナ建国を認めず、4度にわたる中東戦争を経て、やっと1993年にイスラエルとパレスチナ解放戦線PLOは相互承認とパレスチナの暫定自治原則を認める「オスロ合意」を結ぶに至りました。

 しかし、イスラエル側の保守勢力はパレスチナ領内に入植を今に至るまで続け、自治区を8メートルの壁で封鎖しています。PLO内部が分裂し、穏健派はヨルダン川西岸地区を治め、イスラエルと激しく敵対するイスラム強硬派のハマスはイスラエルの存在そのものを認めません。イスラエルも2008年以降4度にわたってガザを攻撃し、過酷な軍事封鎖を続けており、その結果、燃料も食糧も日用品も医薬品も慢性的に不足し、失業率は高く、世界一の人口密度で、難民キャンプで生まれ育ち死んでいく状態が今に至るまで続いているのです。どの専門家も、今後どれだけ争いを続けても、どちらにも軍事的・暴力的な解決はありえないので、二国家の平和共存しか将来にわたる真の解決策はないと語っています。こういう状況の下で、何の罪もない市民たちが毎日何百何千の単位で死んでいっているのです。聖書の中での呻き声を上げている人たちと全く同じような状態です。

4.

 聖書には嘆き悲しむ人間のことだけでなく、自分たちにとっての絶対的な正義と平和を主張し、そのためにどれほど批判や非難を浴びようとも最終的な勝利を目指して争いと戦いを止めようとはしない人間たちに向かってのキリストの教えが語られています。11節ではイエス様はこうおっしゃっています。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。この御言葉と現在のイスラエル・パレスチナ戦争とはどのような関係があるのでしょうか。

 自分たちの民族が絶対的な平和と安全を得なければならない。それも遠い昔民族の父祖たちに約束された「乳と蜜の流れる国」において。今のイスラエルとパレスチナの領土は「神の約束の地」なのだ。こう信じて止まない人々は、自分たちの国家を建設し死守するために、二千年近くもそこに平和的に住んでいた民族を追い出し、抑圧し、事実上支配しようとするのです。かつて自分たちがされたように国を奪われ、差別され、抑圧され、あまつさえ虐殺されてきたのと同じことをしているとしか私には思えません。彼らには苦難の歴史があったことは間違いなく確かなことですが、今現在は自分たちの考え、利益、安全を「いちばん」に考え、「高ぶっている」のではないでしょうか。

 パレスチナの人々がこの75年間に味わってきた、そして今も味わい続けている苦難は取り除かれ、自分たちの生存が守られ、安心安全に暮すことができるようになることを求めるのはまことにもっともであり、世界の理解と支援を受けながらそれを実現するために戦うのも認められ実現されるべきことです。しかし、イスラエルの存在そのもの、イスラエル国家そのものを認めず、抹消しなければならないというならば、それもまたいつのまにか自らを「いちばん」と考え、「高ぶっている」ことにならないでしょうか。

 絶対的な価値はいのちの尊さであり、人間としての尊厳が守られるべきことです。それだけと言っても言い過ぎではないでしょう。しかし、どちらの側もいのちと人間の尊厳を犠牲にすることを厭ってはいないかのようです。はっきり言って、それ以外のことはすべて相対的な価値です。どのような理屈や理論、主義主張も、地上のことですから、絶対を唱えることはできません。知恵のかぎりを尽くして妥協点を見出し、相違点を認め合い、憎しみを乗り越えなければなりません。そのためには「仕える者になりなさい」「へりくだる者になりなさい」とイエス様はおっしゃるのです。いえ、教えられるばかりではなくて、そのとおりに実践なさったのです。十字架の死に至るまで神にのみ従順で、いのちを棄ててまでへりくだり、仕える生を全うなさったのです。弱さと無力さの極みに見え、惨めな敗北と思われた十字架の死を死なれました。しかし、そうなさることで罪人を赦し、生かし、新しくされたのです。世界を神と和解させ、そうすることで人々の間の和解の基礎を造られたのです。正義や平和を等閑にするのではなく、逆にそれを実現する道を開かれたのです。相手の存在を無視し、いのちを脅かすことで自分の存在を守り、安全と繁栄を謳歌するのでなく、敵であった相手を尊重し、和解し、正義と平和を実現するのです。「仕える」「へりくだる」、これは単なる個人の道徳ではなく、世界を造り替える唯一の神の真理です。神さまに信頼しつつそうすることによって、必ず真の和解が成り立ち、正義と平和が実現するのです。その日の到来を信じて待ちましょう。アーメン

2023年11月5日日曜日

礼拝メッセージ「喜びにあふれて」

 2023年11月5日(日)全聖徒主日(白) 岡村博雅

ヨハネの黙示録:7章9〜17 

ヨハネの手紙一:3章1〜3 

マタイによる福音書:5章1〜12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日、この聖壇に掲げられているお写真の方々は私達の教会家族です。聖書には聖徒という表現はないのですが、全世界のルーテル教会では11月1日を「オールセイント・デイ」、「全ての聖徒の日」と定めて、信仰を持って亡くなった方々を記念して、天にある方々と地にある私達が共に礼拝を持つ日としています。

 今は亡き方々を霊として覚えるという点では日本のお盆と似たところがあると思います。この方々は私達といつも交わりがあるということをこの礼拝によって改めて覚えたいと思います。

 私達にしても彼らの信仰の人生に触れることは意味深いことです。使徒信条に「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、とこしえの命を信ず」とありますが、「全聖徒の日」はこの「聖徒の交わり」を信じる信仰に裏付けされています。天にある方々が過去の思い出の人ではなく、今も、私達のために祈り、支えてくれていると信じて、霊的な深い交わりをするということで私達の人生は本当に豊かになりますね。

 私は2013年に湯河原教会・小田原教会に着任しましたが、両教会で32人の方のご葬儀をさせていただきました。私が洗礼を授けた17人の方の内、6人の方がすでに天におられます。今は亡きあの方この方のことが思い浮かびます。ここにはその方たちを含めて60人の方々の写真が掲げられています。今日は、その方たちが、「おっ、あら、椅子が新しくなりましたね」などと言いながら今もそこに座っておられるような気がます。

 そうして思い巡らしていると、はたと、そうか亡くなった方たちはいわば、席を譲ってくださったのだと気づきます。もし、この写真の60人の方々を含む、名簿をお配りした湯河原教会ゆかりの召天者92人の方々が今もが健在だったら、この礼拝堂がいっぱいになってちょっと大変でしょう。

 もし亡くなるということが無かったら、新しい人が入る余地がないわけです。そう思うと、死とはつまり、譲ることであり、一番大事な人、一番愛する人に一番すばらしい贈りものをするということなのだと気づかされます。死者が私達生者を生かしてくれているのです。この主日にしみじみとそのように感じていただけたらと思う次第です。

 こうして礼拝していると身近で亡くなられた親しい方が、何故あのときに、あのように天に召されたのかと思われることでしょう。でもすべては神のみぞ知る神秘です。亡くなられた方は、生きている間もみなさんを愛しましたけれども、死へむかうプロセスを通して、もっと完全に、もっと深く皆さんを愛しました。

 神様は、その人の死を、残された者への何かとても素晴らしい最高の贈りものにしてくださったのです。そうして、彼らは天の国に生まれ出ていって、そこで何のとらわれも無く、自由に、神のみ心とひとつになって、愛する人のために良いわざを為そうとする。これこそ、私達が死と呼んでいるできごとの真実ではないでしょうか。

 世界の状況から平和な中で死を迎えた方々ばかりでなく、不条理で過酷な死で命を終えた方々があることが思われます。特にガザとイスラエルで天に召されていった多くの子供たちを含む1万人を超える人々を思わずにおれません。決して赦されない死でありますが、神は、この方々を天に迎えてくださることを思います。

 今日の黙示録の箇所には「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである」(黙示録7:16-17)とあります。天に迎えられた方々は、今や聖なる者として本当の安らぎと喜びの中におられることを信じて祈ります。

「全聖徒の主日」に、私達は死んだ人のためにお祈りしますけれども、どうもそれは逆なのではないかと思います。なぜなら、死んだ人のために祈るというよりは、死んだ人がこの世にある私達のために祈ってくれているはずだからです。

 ヨハネの手紙にあるように、私達はこの世にあって主キリストの執り成しによって「今すでに神の子ども」(1ヨハネ3:2)とされていますが、まだ不完全なままです。しかし、天にある方々は、神に清められて完全な神の子どもとなっています。

 ということは、あちらの方々の方がいわば格が上なわけですね。この世は限界がある身勝手な人間たちの世界です。しかし、今や天の国に生まれ出ていった方々は、神に清められ、ほんとうに神のみ心のままに、清い愛をもって、自由自在に、私達のために祈り、助けてくれています。ですから、私達はまずはこの私のために神に祈ってくださいと、そう祈ったらいいと思います。

 この、すでに天にある方々が私達のために祈っているという信仰は、福音的な信仰です。亡くなった家族・友人が天にあって神のそばで私達のために神にとりなしてくれる。主イエス・キリストは、そのように永遠の天の世界と不完全な地の世界をしっかりと結んで天地の通路として、天への「道」(ヨハネ14:6)となってくださっています。

 天の国に生まれる日こそが私達の待ち望むこの世の旅路の到達点です。そして洗礼というのは、その日の先取りと言えます。皆さんはもうその洗礼を受けている、あるいは受けようとしているわけですけれども、洗礼は言うなれば、一旦死んだということです。主キリストと共に葬られ、神の命の世界に新たに生まれ出て、いわばもう死者の世界に半分入ったようなものです。

 洗礼というのは、この世にありながら、天の国の住民票を先にもらって、この先何があっても落ち着く先が決まっていて安心だという、そういう天の恵みを生き始めることなのです。

 洗礼を受けた方は半分は死んでいると申し上げましたが、実はこうした教えは仏教にもあって、臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師がこんな歌を残しています。「若い衆や 死ぬが嫌なら今死にやれ ひとたび死ねば もう死なぬぞや」と。ひとたび死ねばもう死なない。死ぬのが怖いなら先に死んどけ、というわけです。これは洗礼と重なりますね。主キリストと共に、私達は洗礼によって、もう体の半分は天国を生きている者です。あとは、全身が天国に入ることをただただ待ち望んで、天の栄光を仰ぎ見るばかりです。

 私達は、完全に天に生まれ出る前の段階であっても愛し合って生きていますけれども、考えるまでもなく、天で愛し合う愛の方が格が上のはずですし、天の方々が私達を愛してくれている愛のほうがずっと強い愛です。そういう天上の愛に支えられてようやく私達もこの世界で愛を必要としているお互いのために手を差し出すことができます。

 たぶん、本当に愛するために私達は死ぬのです。もう亡くなった方々が、そのような愛で私達を生かしてくれていることを決して忘れてはならないと思います。そのすべてが主イエスにおいて実現しました。地を生かす天の愛の目に見える最高の姿が、主イエス・キリストです。主は私達を完全に愛するために神の世界に生まれでていった方です。

 最後に、この礼拝に共に与っている湯河原教会ゆかりの方々のお名前を読み上げてその方々を覚えたいと思います。

祈ります。

望みの神さま。この全聖徒の主日に私達は天にある方々と共に礼拝に与っています。この恵みと幸いを感謝いたします。あなたは信仰からくるあらゆる喜びと平安とを私達に満たしてくださいます。どうぞ私達を聖霊の力によって、この世を生きる望みに溢れさせてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン


2023年10月29日日曜日

礼拝メッセージ「本当に自由になる」

 2023年10月29日(日) 宗教改革主日   岡村博雅

エレミヤ書:31章31〜34 

ローマの信徒への手紙:3章19〜28 

ヨハネによる福音書:8章31〜36

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日は、エレミヤ書、ローマ書、ヨハネ福音書から、またルターの『キリスト者の自由』を通して告げられている主の御声を皆さんと共に聞いていければと願います。

 今読んでいただいたエレミヤ書の箇所に旧約聖書で初めて「新しい契約」(エレ31:31)、という言葉が登場します。ある神学者は、「この箇所は、旧約聖書から新約聖書にバトンタッチするところなので、旧約聖書の最高峰だとかクライマックス」だと言います。

 旧約聖書はモーセの十戒をいわば金科玉条としてきました。けれどもこの箇所でエレミヤは、このモーセの十戒について、はっきりとそれは古い契約にすぎない、その契約ではもうだめだと言い切ります。

 その理由はイスラエルの裏切りです。十戒の第一戒「あなたは、他の神々をもってはならない」に示された愛の精神、神がイスラエルに向かって、わたしはこれほどまでにあなたを愛したのだから、あなたもわたしだけを愛さなければならないという、夫婦の間にかわされるような愛のつながり、そういう神とイスラエルとの愛の関係をイスラエルが裏切ったという事実のためです。

 エレミヤは、このイスラエルの裏切りに対する神の怒りを40年近く宣べ伝えてきたのですが、31章に達して、今ここで、神との全く新しい関係を伝えています。それは何か。34節、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めない」という「神の赦し」です。

 エレミヤは40年間、悪は徹底的にさばかれなければならないと語り続けてきた。ですが、31章になって、一転して神がイスラエルの悪を赦すという驚くべきメッセージを語ります。

 モーセの律法という古い契約は罪を犯すな、悪を犯すなという戒めです。また、罪を犯さず、悪を犯さなければ、神はイスラエルを愛するという、交換条件のある契約です。ですから、罪を犯し、神を裏切ったら神も愛さなくなる。むしろ神はさばくのだということだったのですが、それが、乗り越えられて「悪を赦す」というメッセージが宣言されました。

 さらにエレミヤは、あなた方はこれまでのように外からがみがみと言われるのではない。33節に「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」とあるように、律法の内面化が起こると告げます。新しい契約は内面的になる。そこに立つ者は、外から命じられて従うのではなくて、自発的に神を愛し人を愛するようになるというのです。

 このエレミヤが語った神との「新しい契約」とは何でしょうか。使徒パウロはそれは「イエス・キリストを信じること」だ、神による十字架の救いを信じることだと言います。今日のローマ書の箇所でパウロはイエス・キリストを信じる信仰についてひたすら語っています。それこそが「新しい契約」だからです。

 私たちは信仰によってのみ義とされます。信じるだけです。律法を守り、善い行いを積むからではない。聖人君子のようでなくていい。あなたはそのままで、不十分なままで救われるというのです。「イエス・キリストを信じる」だけで、神から赦される。義しいものとされる。救われる。すごい教えですが、リアリティーが薄いと感じませんか。

 案の定、こういう神の恵みについて、パウロが真摯に語ったにもかかわらず、その後のキリスト教会の歴史においては、実は人は善い行いによってのみ生きるのだという思いが復活しました。善い行いは目に見える。自分にも人にも明らかに見えるからでしょう。

 そういう中で、このローマ人への手紙を読み直したマルティン・ルターによって、信仰の理解について革命的な改革が起こりました。

 ルターはヨハネ福音書を愛読した人でした。彼はローマ書を読むことによって改革のヴィジョンを与えられたことは事実ですが、同時にルターは生涯に渡ってヨハネ福音書をとても大切にしました。

 主イエスはヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。この「真理」とは、たとえば「大学は真理を探求する場である」といった場合の真理のことではなく、この「真理」とは「イエス・キリストご自身」のことです。「主キリストはわたしたちを自由にする」というのです。

 また、主は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8:31)と言われましたが、まさにルターという人は、御言葉を熟考しつづけた人です。

 使徒パウロは「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(Iコリント9:19)と言いますが、ルターはこの言葉を熟考して『キリスト者の自由』という著作を残しました。その中でルターはキリスト者の自由について二つの命題を提示しました。そこに私たちが主キリストを信じる者としてこの世の日々を生きるときの指針を指し示してくれました。

命題の第1は「キリスト者は、すべての者の上にたつ自由な君主であって、だれにも服しない」です。ルターは、本当の自由とは、食べたいものを食べ、行きたいところへ行き、人の顔色を伺わずノビノビと生きること、つまり死や罪から解放されて、心の底から晴々と生きること、それこそがキリスト者の自由だと言います。その自由は、「キリストの与えたもう自由」だ。本当の自由は、神が与えてくださるとルターは言います。この自由とはすなわち人間が救われることです。実は自由と救済とは同じ一つのことなのです。

 神は、イエス・キリストの十字架の贖いによって人間の罪と悪を赦してくださり、少しも義しくない人間をこの「恵み」のみによって、義しい者として受け入れてくださる。この驚くばかりの神の救いの「恵み」を信じて感謝することがキリスト者の「信仰」だというのです。ちなみにルター神学では、「救われること」を「義とされる」と表現します。

 神が私たち人間に自由を与えて下さった。救いを与えてくださった。その救いの恵みを信仰をもって受け入れる。そうした神が与えて下さった自由を生きる者であるがゆえに、キリスト者は本当に「自由な君主」と言えます。

 ところがルターは命題(2)でまるで逆のことを語ります。「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕であって、だれにも服する」。

 キリスト者は「自由な君主」で「だれにも服しない」と言っておきながら、今度はキリスト者は「奉仕する僕」で「だれにも服する」と言う。どういうことでしょうか。

 神が人間に与えてくださった、自由、すなわち救いをより根源的に言えば、それはイエス・キリストという「神の恵みそのもの」です。キリストが、私たち人間に与えられたということです。そのキリストはどこにいるのか。キリストは私たちの中にいるのです。パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2:20)と言います。こうした驚くべき告白に勇気づけられて、いわば背中を押されるようにして、ルターは『キリスト者の自由』の中で「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになろう」(第27項)と述べました。

 そのキリストについてパウロはこう言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)。パウロの言い方に従えば、主キリストは自分のことはかえりみず、人々を助け守り十字架の死にまで至った方であり、徹底して人々に奉仕する僕、誰にでも服した人、隣人への愛の奉仕に生きた方です。それがイエス・キリストです。そのキリストが「わたしの内に生きておられる」。

 そうであるならば、「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになろう」、愛の奉仕に生きる人間になろう、とルターは宣言しました。これが「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕であって、だれにも服する」という命題の意味です。

 宗教改革の主日をアメリカでは、リフォーメーション・サンデーと呼びます。リフォーメーションは、作り替えること、新しくすることです。506年前、ルターによって、教会が新しくなる、信仰が新しくなる、私たちの神に対する姿勢を新たにする、そういうことが起こりました。

 主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8:31)と言われます。ルターは、自分自身の信仰を問い続けました。御言葉にとどまり続けました。そこから改革が始まりました。そのように、私たちが、御言葉の中にとどまり続けるとき、私たちは必ず主キリストに倣う者となっていきます。本当に自由になります。  

祈ります。

 主なる神さま。どんなに悲しいこと、つらいことがあっても、私たちを、あなたの御言葉の中にとどまり続ける者としてください。恵みと喜び、賛美と感謝の中を、何者にもおもねらず、互いに愛し合い仕え合う自由なキリスト者として歩ませてください。聖霊の力によって、望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年10月22日日曜日

礼拝メッセージ「神のものは神に」

 2023年10月22日(日)聖霊降臨後第21主日 岡村博雅

イザヤ書:45章1〜7 

テサロニケの信徒への手紙一:1章1〜10 

マタイによる福音書:22章15〜22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所はローマ皇帝への税金の場面です。主イエスと指導者たちとの対立はもはや決定的です。主イエスは「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「婚宴」のたとえ話によって当時の指導者たちやファリサイ派を批判してきました。今日の福音箇所の前のマタイ21章45-46節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」とあります。そして、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもって主イエスに近づいて来ます。

 まず今日の場面の背景を見ておきます。当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、各個人に対して一律に1デナリの税金を課す、人頭税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。また、支配地域の通貨には皇帝による支配の証として皇帝の肖像と銘が刻まれていました。

 このことはユダヤ人にとって神学的な難題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。

 この徴税問題はユダヤ人にとって解決が困難な悩みの種で、実際、主イエスが生まれた頃、この問題のためにローマ帝国に対するユダヤ人の反乱も起きたほどだそうです。

 この難題に対して、ファリサイ派はどのようにしていたでしょうか。「ファリサイ派」は律法を厳格に守ろうとしていた宗教熱心な人たちです。ですから、律法に反することになる皇帝への納税は原則としては認めません。しかし、現実には納税せざるをえませんでした。

 ここに登場するヘロデ派はどうだったでしょうか。「ヘロデ派」は宗教的なグループではありません。政治的な党派です。「ヘロデ派」はローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちですから、ローマ帝国への納税を当然のことと考えていました。

 本来、ファリサイ派とヘロデ派は相容れない立場でしたが、その両者が一緒にイエスのもとにやって来ます。謙遜なふうを装って、イエスに徴税問題を問いかけ、言葉じりをとらえて、イエスを罠にかけようと考えついたのです。

 その仕掛けはこうです。イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派が、お前は「神に背く者」だと言ってイエスを追及することができる。イエスが納税を否定すれば、ヘロデ派がお前は「ローマ皇帝への反逆者」だと言って訴えることができるわけです。

 彼らは実に礼儀正しく丁重に近づきます。言葉遣いとしては丁寧です。しかし実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅しです。

 「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。」と主は言われました。偽善者と言えば、普通、本心を隠してうわべを繕う態度を指しますが、聖書では、「偽善者」とは「神に心を向けようとしないかたくなさ」を意味します。彼らは口先ではイエスを「先生」と呼びながら、心ではイエスを罠にかけようと企んでおりその態度は偽善的です。しかし主が彼らを「偽善者たち」と呼ぶのは、むしろ、主イエスが神から遣わされた方であることを認めないばかりか、試そうとする、そのかたくなさが、神の意志を踏みにじっているからです。

 彼らの罠に対して主イエスはどう答えられたでしょうか。イスラエルの宗教は創造主である神以外の何者をも神とせず、偶像崇拝を禁ずるという点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものでした。しかし、日々暮らしていく上では誰もがその硬貨を使わざるを得なかったし、神殿の中にも持ち込まれていました。

 主は納税のためのローマのデナリオン銀貨を持ってこさせ、誰の肖像と銘が刻印されているかを尋ねます。「皇帝のものです」という彼らに、主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」とは当時のユダヤ人の納税の悩みに対して実に明快で十分な答えであると思います。民主主義社会では「国民のものは国民に返しなさい」ということになるでしょうか。

 では「神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。近代になってから「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考えが現れますが、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあるというのが当然でした。まして主イエスの時代、古代ではおよそ考えられないことです。主イエスは時代を先取りして政教分離の考えを示したというわけではないと思います。

 「神のものは神に返しなさい」というのはやはり聖書に立って解釈するべきだと思います。皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものだと主イエスは示されたわけですが、では神の像はどこに刻まれているでしょうか。それは一人一人の「人間」にだと考えることができます。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。

 もし主イエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、主がもっと根本的なことに人々の目を向けさせていると受け取れるのではないでしょうか。

 第1朗読のイザヤ書45章6節で神は「わたしのほかは、むなしいものだ。わたしが主、ほかにはいない」と、そう言われます。私たちが実はぜんぶ「神のものだ」と気づくこと、これが求められていると思います。

 ファリサイ派が問題にしたのは、人間の現実とは無関係な「神学的問題」でした。彼らは自分たちも解決できない神学上の問題を持ち出してイエスを陥れようとしました。しかし、主は現実の人間の苦しみを忘れてそのような神学論争に没頭していたファリサイ派の姿勢を批判してきました。「納税問題が神の問題なのか?神の目から見て、本当に大切な問題はなんなのか」主イエスはそう問いかけています。主イエスは私たち一人ひとりに「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているのか」と問われています。

 最後に、ある教会員の方が転送してくださった、「国境なき医師団」の人事や財務を担当するアドミニストレーターとして現在ガザ地区のエジプト国境で待機している白根麻衣子さんから白根さんのお母様に届いたメールメッセージをそのままお伝えします。

 「麻衣子です。いつ届くかわらないけど、今、10月15日午前10時です。

しばらく出られそうにないけど、ここでがんばります。

ガザの現状はきっとどこにも伝わっていないだろうけど、本当に地獄です。

避難民で溢れ、水もトイレも寝る場所もありません。私たちは外で寝泊まりをしてます。現地スタッフが一生懸命探してくれていますが、飲料水を見つけるのも、本当に本当に難しい状態です。

何百人もの人が、ひとつの部屋で寝そべる事もできずに過ごしています。

トイレも何千人に一つしかなく、シャワーも浴びれず、衛生状況は最悪で、すぐに感染症が広まるでしょう。

毛布も取り合いになっています。

この現状はどこにも伝わっていないので、支援も来ません。私たちも、着の身着のままで逃げてきたので、医療行為もできません。

そんな状況でも、空爆は止まらず本当に本当に大変なことになっています。

この現実をどうかみんなに伝えてください。」

日に日に厳しい状況になっていく様子をみて、『戦争を止めてください』と祈るばかりです。」

というものです。

 第2朗読ではパウロが強調する「信仰」と「希望」と「愛」が出てきました。地獄のようなという究極の状況にあっても私たちは信仰を捨てない、希望を捨てない、愛に立って祈り続けます。このメールから1週間後の21日に大型トラック20台分の人道支援物資が届けられたと報道されました。

 人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはないとルター派は受け止めています。私はこのメールに神様からの問いかけを感じ、「神のものは神に返しなさい」という主イエスのみ言葉を感じて、紹介させていただきました。お祈りします。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年10月15日日曜日

礼拝メッセージ「招かれたなら」

2023年10月15日(日)聖霊降臨後第20主日  岡村博雅
イザヤ書:25章1〜9 
フィリピの信徒への手紙:4章1〜9 
マタイによる福音書:22章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 皆さんハマスとイスラエルの軍事衝突に心を痛めておられることでしょう。報道をご覧になっていることでしょう。今やガザとイスラエル双方でますます死者と負傷者が増え、また、イスラエル側の多くの人々が人質に取られました。イスラエルのネタニヤフ首相は、徹底抗戦を宣言しました。
現在のパレスチナ問題の始まりは第2時大戦後のことです。第2時大戦中に600万人ものユダヤ人が殺害されたホロコーストなどの迫害と苦難の歴史を経て、ユダヤ民族の(シオニズム運動)聖書の「約束の地カナン」の理念に基づく国家の獲得運動は、1948年のイスラエル建国として結実しました。しかしながら、それはすでにその土地に暮らしていた、先住のパレスチナ人を抑圧し、排除する歴史の始まりともなりました。
 イスラエル建国以来、何十万ものパレスチナ人は難民として生来の土地を追われ、不安定な生活を余儀なくされました。国連が1948年12月に可決した「難民の故郷への帰還の権利保障」はイスラエルによって全く無視され、今日に至るまでパレスチナ人とイスラエル側とは度重なる武力紛争を繰り返してきました。 
 イスラエル建国から45年後の1993 年 9 月、ノルウェーの仲介による「オスロ合意」によってパレスチナ国家とイスラエルの国家が共存する道が多くの難題を残しながらも示されました。しかしその道は結局、21世紀に入り、挫折し、破綻するに至り、ついに今日の事態を迎えたといえます。
 そして、ヨルダン川西岸地区とガザ地区に暮らすパレスチナ人は今もなお、植民地支配を受けるような政治経済的な制約に縛られる過酷な現実を強いられています。 
 この度のハマスの暴挙は、このようなパレスチナの人々の歴史的に置かれてきた理不尽さを全く棚上げにしたまま、パレスチナの人々を更に閉じ込めようとする最近のイスラエルの動向への反発とも言われています。
 イスラエルは聖書のカナンの約束を根拠にするわけですが、聖書は彼らが踏まえるべき重要なメッセージを語っています。イスラエルの民に、神によって約束されたカナンの地とは、寄留者だったアブラハムたち、そしてエジプトの地で奴隷という寄留生活を強いられたイスラエルの民に示されたものであることを私たちは思い起こします。
 同時に、そのような苦難を経たイスラエルの民にカナンの地を約束された神は、出エジプト記23章9節(聖書協会共同訳)でこう命じておられます。「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」というものです。このように神は彼らを憐れみ、双方が対等の立場で共存することを望んでおられます。 
 湯河原教会の私たちも、イスラエルとパレスチナ自治政府の双方がこれまでに経てきた寄留者としての苦難の歴史を、憐れみの心で振り返り、隣人愛に立ち帰って、和解と平和の道に歩みだすようにと祈り続け、関心を持ち続けてまいりたいと思うものです。
 こういう情勢の中にあって、私は2014年、9年前に、17歳でノーベル平和賞を受賞した、人権活動家のマララ・ユスフザイさんを思い起こしました。イスラム教徒である彼女は恐れずに教育の必要性、特にイスラム教の地域で遅れている女子教育の必要性を訴えたためにタリバンの怒りを買い、15歳のとき、バスでの学校帰りに側頭部を銃撃されました。一時は重体でしたが奇跡的に回復して、活動を続けています(1997.7.12生。26歳)。
 彼女はこの奇跡的な復活の後、国連に招かれての演説でこう言いました。「私は暴力に屈しない。逆に、私はむしろ強くなった」と。「撃たれて、私の中の弱さや恐怖、絶望が死んだ」。「むしろ、力と強さ、勇気が生まれた」と。
 彼女の本心からの宣言に感嘆します。こういう言葉に、やはり、私たちは、励まされますね。さらには、こうも言いました。「私は、自分を撃った人を恨んでいない。むしろ、すべてのテロリスト、タリバンの息子さんや娘さん達にも教育を与えたい」と。そして、「このような慈悲と慈愛の心を、私は預言者ムハンマドと、キリストと、ブッタから学んだ」と、そう言っています。
 彼女の言っていることはもはや特定の宗教を超えています。暴力に屈しないこと、人権を尊ぶこと、そして自分を撃った人への赦しなどは、まさに主キリストと同じ「神の子」のありようです。隣人への思いやりの心は、時代や人種や国家や宗教を超えて全てに共通する普遍性があるということがわかります。こういう普遍性に立つことのできた彼女にとってはもう人々を分け隔てたり、体も心も閉じ込めるような「壁」がなくなったということです。
 暴力に屈しない。人間を分断する原理主義や、口を閉ざさせようとする力に負けない。むしろその壁を打ち壊していく。彼女はノーベル平和賞の受賞後のコメントでも、そのような閉ざす壁、分断する壁を打ち破ることの大切さを語りました。「肌の色、言語、宗教は問題ではない。互いに人間として尊重し、尊敬し合うべき」だと。
 こういうマララさんのような生き方を、どうしても固定観念に囚われてしまいがちな大人たちは、模範にできたらいいと思います。「壁」を軽やかに超えていくマララさんから、私たちは改めて励まされたいと思います。
 「肌の色とか、宗教とかではなく、人類のことを考えましょう」という囚われのなさ。これこそは、私たちキリスト者の理想でもあるし、まさに、すべての壁を打ち破ったイエス・キリストの別け隔てのない平和そのものです。
 さて、今日の福音で、主イエスが、おもしろいたとえを語っておられますね。ここで言う王子様の婚宴とは神の国です。神の国はもうすでに、用意はできているんですね。
 王子様の婚宴は、この世で最高の婚宴です。それに招待された名誉と喜びを想像します。それはとびきりの喜びです。それがもう用意できていて、私たちは招かれている。あとはそこに行けばいいというのです。
 ですが、このたとえでは、「いや、ちょっと畑に行かなきゃならないんで」とか、「商売がありますから」(マタイ22:5)と招待を遠慮します。畑は大事だし、儲け商売も大事です。
けれども、「神の国」は究極の宴ですから、それを思ったらもう、畑だの、商売だのは取るに足りないことです。にもかかわらず、私たちはそこに行こうとしない。自ら自分を閉じ込めるいわば壁を作っているからです。
 その壁によって、私たちは、神の国を見ることができないでいる。あるいは、神の国を求めている人たちに、それを見せることができないでいます。これは大変残念なことです。
 主イエスのたとえでは、最後に、王様が家来たちに、「見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい」と (マタイ22:9)言っていますね。
 そこで、家来たちは、見かけた人を、みんな連れて来る。この、「みんな連れて来る」ときの言い方が興味深いです。なぜだか「善人も悪人も」(マタイ22:10)と言うんです。
 つまり壁がない。「この人は善人だから、あの人は悪人だから」、そういうのがない。そして婚宴は、客でいっぱいになる。この別け隔てのなさ、だれもかれも全てという普遍主義こそが、主イエスが一番言いたいことではないでしょうか。
 そして、この宴席には「礼服」をつけていない人が登場します。ここで言う「礼服」とは、ただ単に倫理的に立派な生き方をすることではなくて、「神の愛を受けて人を愛すること」だと言えます。愛こそが神の「礼服」です。
 私たちも、自分が礼服を着た善人だとは言いづらいですが、大丈夫です。あなたは招かれています。胸を張って「はい!」と言って、その招待に応えていいのです。嬉しいですね。
パウロは(第2朗読の少し先の)フィリピ4章11-13節でこう言っています。「私は自分の置かれた境遇に満足することを学んだ。満腹でも、空腹でも、物が有り余っていても不足していても、どちらでもいい。いついかなる場合でも、この世で畑があろうが、なかろうが、商売がうまくいこうが、いくまいが、いついかなる場合にも対処する秘訣を、わたしは授かっている。私を強めてくださる方のお陰で、すべてが可能だ」と。このパウロの潔さはキリスト者の模範だと思いませんか。
 招かれて、礼拝にあずかり、聖霊にあずかる私たちには全てが可能です。主と共に全てを乗り越えながら進んで行きましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年10月8日日曜日

礼拝メッセージ「人に捨てられ、神に選ばれる」

2023年10月08日(日)聖霊降臨後第19主日  岡村博雅

イザヤ書:5章1〜7

フィリピの信徒への手紙:3章4b〜14

マタイによる福音書:21章33〜46

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 「二人の息子」のたとえに続き、主イエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。このたとえ話しは、迫り来る主イエスの受難を予感させるものだと言えます。

 今日の福音でマタイは、主イエスのたとえ話の中に「救いの歴史」全体を見ていると考えられます。(34-36節)神は旧約時代に預言者たちを遣わしたが、イスラエルの民は彼らを受け入れなかった。(37-39節)最後に神は自分の子イエスを遣わしたが、このイエスも迫害され、殺された。(42節)しかし、神はイエスを復活させ、救い主として立てた。(43節)そして神の救いはユダヤ人ではなく異邦人に与えられるようになった。(44節)イエスは最後にすべての人を裁くために来られる。これがマタイが見ている「救いの歴史」の内容だと言えます。

 さて、今日の福音のぶどう園のたとえと、第1朗読のイザヤ書の「ぶどう畑の愛の歌」は同じテーマをもっています。

 どちらも、ぶどう園の主人とは神です。そしてこのぶどう園とは、神が創造されたこの天地のたとえです。イザヤ5章2節には、神は肥沃な丘を「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのをまった」とあります。

 これは、神は「人類にすべてを委ねた」というような意味でしょう。「この完璧なぶどう園で、あなたたちは、知恵と愛をもって、素晴らしい実りをもたらしなさい」と神は「実り」を願って、人類に天地の管理と運営のすべてを委ねられた。素晴らし実りは、楽しいことですし、感動的なことです。神は人類にそういう使命をお与えになりました。そしてこれこそが人類が存在する意味だと言えます。

 ところが3節「実ったのは酸っぱいぶどうであった。」そこで神は、当時のユダの人々に問いかけます。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか」(4節)と。

 つまり、神は「わたしは、全部、ちゃんとやっている。それなのに、なぜ、あなたたちはちゃんと実を結ばないのか。それは、わたしのせいではない。あなたたちの問題だ」とおっしゃっるわけです。

 この問いかけを他人事ではなく、私たちへの問いかけとして受け取るとき、何が問題かというと、やはり、私たちにぶどう園を作ったその主人への全面的な信頼がないことであり、そして、その神からいただいた恵みの世界への全面的な愛がないことであり、そういう神への信頼とこの恵みの世界への愛というものを、私たちは自分の内にある弱さと恐れの中で、見失っているからではないかと思えてきます。

 私たちは実りをもたらすために、この世界に生まれているにもかかわらず、「実り」、すなわち、「神を信じ、人々を愛する」、そういうことができないでいます。キリスト者は誰もがそのように生きていきたいと願っていると言えます。けれども「言うは易く行うは難し」で、それが思うようにでききらない。厳しい言い方をしますが、それは神さまの信頼に応えていないということです。

 にも関わらず、神さまは、私たちを「信頼」しています。弱いわたしたちを分かっておられます。私たちがどれほど弱くても、頼りなくても、神は、私たちを「信頼」してすべてを任せておられます。ですから、私たちは、自分の弱さを恐れてはいけないのです。

 私はコリントの信徒への手紙二のパウロの言葉に励まされます。12章9節です。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とあります。

 私たちは「弱さこそ力」くらいに思って、「弱い私を神は信頼してくださっている。だから、この弱いままでもだいじょうぶなんだ」ということをしっかりと受け入れて信じていきましょう。自分の弱さを受け入れること、聖霊の取りなしに委ねて神を信じること、大事なのはそこです。

 そして福音書の主イエスのたとえでは、神はすべてを農夫である私たちに任せてくださっています。この愛の神をこそ主は語ってくださいます。マタイ21章33節「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」とあります。

 主人はすべてを用意して、全部農夫たちに貸してしまいます。これはつまり、農夫たちを全面的に信頼しているということです。この世界、この私という体、この環境、私たちの家族、すべて、何もかも、神は私たちを信頼してすっかり任せてくださっている。「あなた方を信じる」とおっしゃっているわけです。これはなんという信頼かと思います。

 ではこの信頼に応える生き方とはどのようなものでしょうか。それは「実り」を神にお返しするということに尽きるのではないでしょうか。私たちは、この恵みの世界を生きているわけですけれど、信仰によれば、それはすべて、神への信頼や人々への愛、そして、「神の国」という素晴らしい恵み、すなわち、「実り」を、神さまにお返しするためです。

 それなのに、主のたとえ話しで語られているように、その神が受け取るべき実りを私たちは「自分たちのものにしよう」とします。これは言わば、信頼を裏切る私たちの姿です。21節で農夫たちは「相続財産を我々のものにしよう」と言っていますね。

 この農夫たちの言葉は、私たちにとっても他人事ではないでしょう。私たちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは何でしょうか。それは多岐にわたるでしょう。地球の資源や環境?自分のお金や持ち物?力や才能?地位や立場、さまざまな特権?それらは皆、神がわたしたちに委ねられたものなのではないでしょうか。それを私たち人間は、いつの間にか、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっていることがあるのではないでしょうか。

 私たちは、体も心も環境も、命そのものも、ぜんぶ神から頂いているものなのに、それはすべて神にお返しするものなのに、まるで自分のものであるかのように所有しようとしますね。その感覚、「我々のものにしよう」 (マタイ21:38) というその利己主義、その欲得、それが、神にしてみたら、裏切りなわけです。けれども、私たちが何度そうして裏切っても、神のほうは信頼して、なおも恵みを与え続けてくださっています。

 ありがたいことです。そういうぶどう園に生まれてきて、実りをもたらすように任されて、もう、やろうと思ったら、私たちは何でもできます。知恵と愛をもってするところには、神さまも、具体的な応援をたくさんしてくださるということを、キリスト者なら、常に体験するはずです。

 「実り」を得るためには、私たちは主イエスとつながっていなければなりません。実りの「先どり」である主と共にあれば、もっと知恵も増し、もっと愛も深まって、もっと神の国のために働くことができるからです。結局、主イエス抜きでは、聖霊抜きでは、人間はなかなかちゃんと働けませんから、キリスト者は一所懸命に主イエスにつながっていようとするのではないでしょうか。

 マタイ21章37節には、神は最後に「自分の息子を送った」とありますね。私たちはこのぶどう園の農夫のように神の息子、主イエスを殺してしまうのではなく、受け入れて、その息子と共に豊かな実りをもたらしていきましょう。そしてすべてを主人にお返しする。それがキリスト者であり、教会の喜びだと言えるのではないでしょうか。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年10月2日月曜日

「ノーからイエスへ」か、「イエスからノーへ」か

 2023年10月1日 小田原教会 江藤直純牧師

エゼキエル18:1-4, 25-32; フィリピ2:1-13; マタイ21:23-32

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 「終始一貫」という言葉があります。あることに関して、最初に表明した主張や態度をことが終わるまで変わらず貫き通すことでして、そういう姿勢はいいこと、評価すべきことだというニュアンスがあります。一つの信念に固く立っている姿が浮かび上がります。宗教改革の時にルターがヴォルムスの国会に呼び出されて、これまでの主張をすべて撤回するように迫られたときに、それを断固として拒否して「われ、ここに立つ」と言い放ったことは歴史上の有名なエピソードです。人間としての土性骨がしっかりとあることを示しています。

 それとは逆に、「考えを変える」ことを「ぶれる」という言葉を使うとマイナスの響きが入ってきます。ぶれる度合いがひどいと「ぶれまくる」と言って笑いのネタにされてしまいます。思想的な迫害が激しかった時代に、ついに不本意ながら「転向」したことは人間としての汚点とされます。それでも転向にはある程度は中立的な響きがありますが、「変節」というとこれは明らかに批判、いえ非難されていることを表わしています。

 こうしてみると、人間の生き方としては、考えとか信念というものは変わらないほうが評価され、変わると低く見られるということになるようです。一般的にはそういうことが言えるかも知れません。

 しかし、いつもどんな場合でもそう言えるかと言えば、必ずしもそうではありません。もしも間違った「思い込み」をしてしまっていたとしたら、どうでしょうか。4年前に無差別大量殺傷事件が起こりました。放火をし、36人を殺し33人に重軽傷を負わせた人の裁判が進行中ですが、そこで被告は自分の書いた小説が盗作されて映画に使われたことを事件の原因だと主張しています。その人が主観的にはそうだと「思い込んでいる」ということはどうもそのようですが、その人が言うことが正しいのか。時系列的にも正確で、映画の中の一節はたしかに彼の小説の中の一節が盗作されたものだと事実関係が立証されるのかと言えば、新聞などで読むかぎり素人の私にはとても納得がいきません。ただ、この場は私見を述べるところではありません。ことの是非はあと数ヶ月の内に裁判で決着がつくでしょうが、もしも判決で事実関係が解明され、盗作などではなかったならば、そのときは是非とも「思い込み」は正して、自分の考えを変えてもらいたいと思います。

 言うまでもなく、生身の人間は有限で不完全です。有限で不完全な人間の考えることは当然絶対ではありません。ですから、「考えを変える」ということは時には必要なことであり、いいことです。それがその人個人にとっても、その人の属する社会にとっても「考えを変える」ことはいいことの場合があります。成長に繋がります。

 「考えが変わる」ことは良い悪いというだけでなく、生身の人間ですから何らかの理由でよくあることです。これが正しいと思っていても、違う見方に触れて、或いは異なる環境に置かれて、時間が経過して、冷静になって、その考えから離れることがあります。利害損得が絡む場合もあります。

 とにもかくにも、人間であるかぎり、「終始一貫」を果たせないことはあり得るのです。ですから、今朝の福音書の日課は考えや態度が一切変わらなかった人と変わった人を対比しているのではありません。人は変わるものだということ自体は認められ、前提されていると言っても言い過ぎではないでしょう。では、このたとえ話で何が対比されているかと言えば、どう変わったか、何から何へ変わったか、それが対比されており、その是非善悪が問われているのです。

2.

 28節からの段落には「『二人の息子』のたとえ」という小見出しが付いています。登場人物は父親である「ある人」と息子のうちの「兄」と「弟」です。兄も弟も終始一貫微動だにしなかった人間ではありません。どちらもぶれます。考えが変わり、行動が変化します。兄は父からぶどう園に行って働くように言われたとき、最初は「いやです」と答えますが、後で「考え直し」ます。ぶどう園に行こうと思い直し、実際働きに行きました。弟はどうかと言えば、兄と同じように父からぶどう園に行って働くように言われたときに、はじめは「承知しました」と色よい返事をしたのですが、その後で考えを改めて実際には「行かなかった」のです。鮮やかなコントラストです。

 二人の息子がどちらも考えを変え、行動が変化しましたが、どちらが父親を喜ばせたかと言えば、これは議論の余地はありません。考えを変え、行動を変化させた理由が何であれ、最初は「いやです」と言ったにせよ、後で考えを変えて実際にぶどう園に行ったほうの息子と、最初は父親を喜ばせるように「承知しました」と言っておきながら、後で考えを変えて実際にはぶどう園に行かなかったほうの息子のどちらが父親の思いに適ったかと言えば、前者のほうであるのに違いありません。動機が何であれ、途中経過はどうであったにせよ、最後は父の思いに適った行動を取った息子のほうが「神の国」に入れられることになるとイエス様はおっしゃっています。

 この二人の兄弟のうちで、最初は「承知しました」と言いながら、結局父親の望みを叶えなかったほうが「祭司長や民の長老たち」のことを指していて、最初は「いやです」と言いながら、あとで実際にぶどう園に働きに行ったほうの息子を「徴税人や娼婦たち」のことを譬えていることは明らかです。しかも、「徴税人や娼婦たち」が変わったのは「ヨハネが来て義の道を示した」ときにそれを「信じて」受け入れ、その義の道を歩んで行こうと決心したことが変化のきっかけであったことも聖書を読めば、これまた明らかです。

 ストーリーが簡潔明瞭であるなら、そこから引き出される教え、教訓もまた簡潔明瞭であろうかと思います。このたとえ話は、人間一人ひとりがどんな考えを持ち、どのように振舞っていようとも、最後は神の言葉を聞いて、それまでの自分の生き方、在り方を悔い改め、心を新たにして神の御心に適うように生きなさいとを教えているのでしょう。

3.

 さて、ここでちょっと立ち止まって、ご一緒に考えてみたいことがあります。それは、たとえの中の兄のように、最初は「いやです」と言っていたのに、後で考えを変えて、キリスト教的な言葉を用いるならば、後で「悔い改めて」、父親の思いに、つまり神の御心に添う生き方をし始めたら、誰もがその後は少しもぶれることなく、考えや態度振る舞いを変えることなく、人生を全うできるかということについてです。その逆もあります。「イエスからノーへ」であれ「ノーからイエスへ」であれ、ひとたび考えを変え生き方を改めたら、その後は死ぬまでずーっと変わらずに生きていくことができるかということです。

 この問いへの私の答は、「いいえ」です。ためらうことなく、「否」です。それはどのような理論付けも学問的根拠もなくても、間違いなく「できません」なのです。理論からではなくて、私自身の経験から反射的に「いいえ」という答が出て来てしまうのです。本気で悔い改めて、新しい生き方を選び取っても、聖書が示す「義の道」に導かれて神さまに喜ばれる生き方に踏み出しても、気がついたらその道から外れていることがあるのです。たとえ、表向きはそうは見えなくても、心の奥底で「ぶれて」いることがあるのです。情けないと思いますが、現実の自分は、ありのままの私は、ひとたび悔い改めたならばあとの人生はまっしぐら、一直線で生きていけるかと言えばそうではないのです。「終始一貫」でもなく「初志貫徹」でもないのです。再び「ぶれる」ことがあるのです。

 聖書が示す「義の道」が何であるか、聖書は何と教えているかを頭では知っているつもりであっても、理性では正解を理解し把握しているつもりであっても、心ではそこから遠ざかっていくことがあるのです。感情的には離れてしまうことがあるのです。自己中心性が再び首をもたげてきたり、高慢さがしぶとく生き延びていたり、弱さが顔を覗かせてきたり、つまり、罪が息を吹き返したりするのです。ですから、最初は「いやです」と言ったのに、せっかく考え直して、悔い改めて大真面目に「承知しました」と言って、そう生きようと決心しても、ぶどう園に行く途中で行くのを止めて、別のところに行ってしまうことがあるのです。或いはぶどう園で働き始めても、疲れたのか飽きたのか他の誘惑に負けたのか、ぶどう園から離れてしまうことがあるのです。

 では、こういう「ぶれる」ことがわたしたちの本性ならば、そのことを主イエス・キリストはどう受け止められるでしょうか。主イエスの福音宣教の第一声が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マコ1:15)だったことは余りにも有名です。そして、悔い改めた者たちに差し出されたのは罪の赦しの「洗礼」でした。それが洗礼の意味の最も大きなものでした。

 しかし、歴史が進む中で、罪の赦しの洗礼が重視されていくうちに、洗礼を受けたあとに再び罪を犯したらそれを赦すための二度目の洗礼はもう受けられないので、罪が赦される術はもはやないと教えられた時期がありました。しかし、生身の人間ですから、洗礼後も罪を犯しかねません。その困難を解決するために編み出された教えが、洗礼を受けた後再び罪を犯すことができないようにするために、洗礼を受けるのを死の直前まで延ばすということでした。皆さん、これについてどう思われますか。罪の赦しの見えるしるしとしての洗礼を死の間際まで受けられず、罪の赦しの確かさを与えられず、それゆえに罪の赦しの安らぎを得られないというのです。延ばしていた洗礼を受ける前に突然死に見舞われたら、とうとう洗礼の恵みに与れないことになるのです。この考え方はそもそも間違っています。

4.

 宗教改革者マルティン・ルターは悔い改めと洗礼について何といっているでしょうか。宗教改革運動の発端となったと言われている「95箇条の提題」、正確には「贖宥の効力を明らかにするための討論」の発表が1517年10月31日でしたが、その第1箇条にはこう記されていました。

    私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・』(マタイ4章17)と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。「信じる者の全生涯が悔い改めである」、これは驚くべきことです。一度洗礼を受けたらそのあとは二度と赦されないから、罪の赦しの洗礼は死の直前になどという教えはこのルターの考えに縁も所縁もありません。人は罪を犯し続ける者だという人間理解がここにあるのです。さらに、その都度悔い改めるならば、罪の赦しが得られるのです。何度でも。

 ただし、罪の赦しの洗礼を何度でも受けるのではないのです。洗礼は生涯に一度きりでいいのです。そのあと二度目の罪の時も三度目の時も十回目の時も、悔い改めるときには、ただ一度十字架にかかって罪人であるその人を贖い、その人に赦しを与えられたしるしである洗礼を思い起こすことが勧められているのです。端的に言えば、すでに赦されているのですから、その恵みの前で何度でも悔い改めるようにと言われているのです。

 今日の福音書だけを見れば、悔い改める道筋は洗礼者ヨハネが教えた「義の道」を聞くことが先だとなっています。それは正しいですが、イエス様が身を持って示された人間の悔い改めの道筋はそれだけではありません。

 たとえば、徴税人ザアカイの悔い改めのケースはどうだったでしょうか。悔い改めに到る前の孤独や不安からイエス様を追っかけていたザアカイがいちじく桑の木に登っていたときに、下からイエス様が「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と声を掛けられたことから悔い改めと新しい生き方が始まりました。

 ヨハネ福音書が伝える姦通の女の場合も、イエス様のほうからの語り掛け、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハ8:11)という赦しの宣言が先で、彼女の悔い改めと新しい生き方はその後でした。

 他の女性たちと共にガリラヤからユダヤ一帯での伝道旅行のお伴をしてイエス様の一行のお世話をし、それだけでなく、主の十字架の死を看取り、復活の証人第1号となったマグダラのマリアはイエス様によって七つの悪霊を追い出していただいたことが悔い改めと主に従う生活の出発点でした。

 彼ら彼女らに共通して言えることは、義の道を説き明していただく前に、文句なしに、理屈抜きでイエス様にこれ以上ないくらい優しく接していただいたことが先ずあったのです。神のいのちにあたたかく包まれて、その愛によって目を開かれて、心を開かれて、悔い改めに導かれて、新しい生き方が始まったのです。でも、彼らがその後ただの一度もぶれなかったとは書いてありません。

 そのようなイエス様の愛の関わりがたった一度きりで終わってしまうはずがありません。ペトロが「兄弟が罪を犯したなら、何回赦すべきですか」とイエス様に尋ねたあの問答を思い起こしてください。仏の顔も三度までと言いますが、ペトロは思いきって「七回までですか」と尋ねました。いくら何でもそこまで赦せば十分だろうと内心は思っていたでしょう。しかし、イエス様の答えはペトロの度肝を抜くものでした。「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」(マタ18:21-22)だったのです。

 今朝の旧約の日課をもう一度開いてみてください。預言者エゼキエルを通して語られた神の声です。神の魂の叫びです。30節から32節までを読んでみます。

 「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

 「イスラエルの家よ」というところを、たとえば「江藤直純よ」という具合に、御自身の名前を入れてみてください。「だれそれよ。どうしてお前は死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前は立ち帰って、生きよ」、そう神さまはおっしゃっていらっしゃるのです。お前が立ち帰るのをわたしは望んでいる。わたしは待っている。待ち焦がれている。さあ、立ち帰りなさい。そう諸手を広げて呼び掛けていらっしゃるのです。背いていた者が立ち帰るのを待っていると言われる神さまが、いざ罪人が立ち帰ってきたら、その人を受け入れ、抱きしめ、赦してくださらないということがありえるでしょうか。たとえそれが二回目であろうと、三回目であろうと、七回目であろうと、もっとであろうと、赦してくださるのです。生かしてくださるのです。それが聖書の神です。イエス・キリストです。

 そんな恥ずかしいことはできませんなどと言ってはいけないのです。そんな申し訳ないことはできませんなどと思ってはいけないのです。主なる神様の真心をもう一度聞きましょう。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。・・わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。「あなたは何度でも立ち帰って、生きよ」、それが御心なのです。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2023年10月1日日曜日

礼拝メッセージ「主の呼びかけは」

 2023年10月01日(日)聖霊降臨後第18主日 

エゼキエル書:18章1-4・25-32

フィリピの信徒への手紙:2章1〜13

マタイによる福音書:21章23〜32

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは恵みを受けて、今朝もこうして共に集まって礼拝にあずかっています。暑かった夏の日々も少し秋めいてきて、本当に感謝なことです。さて、このところ私たちは、教会という場がどのようなものであればよいかという、教会共同体のあり方についての主イエスの教えを聞いてきました。

 今日の第2朗読でパウロは信仰生活を始めてまだ日の浅いフィリピの教会の人々に対して、パウロは自分の信仰を模範として示しながら、復活の主キリストを信じて、復活の主の霊と、すなわち聖霊と共に生きるとはどういうことなのかを説いてくれています。

 フィリピ2章1節以下でパウロは言っています。「そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」と。

 そして13節「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と信仰の核心を証します。

 私たちの内に働いてくださる神。その神は私たちに御心を分からせてくださる。そして、私たちにその御心を行わせてくださる。このパウロの信仰体験に裏打ちされた言葉に私たちは大いに励まされます。「私たちの内に働く神、その神が私たちに御心を分からせてくださる」。これは今日の福音に響く言葉です。

 次に第一朗読を見ますと、神が私たち人間のありようを、慈しみと憐れみをもって見守っておられることが分かります。エゼキエル18章1−4節を読むと、まず「父がすっぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」というイスラエルのことわざが引き合いに出されています。イスラエルには古くから部族生活を保つために「親が悪事を働いたら、その責任は子供にも及ぶ」という家族に連帯責任をとらせるという考え方があったようです。罪の責任の問題は知恵の書などにも取り上げられていますが、全体と個人という中で、個人の重要性を強調したのは、ここに見られるようにエゼキエルやエレミヤです。

 私たちも子が罪をおかすと、親はどうなのかとすぐ考えがちです。家族を巻き込んでその連帯責任を問う考えに陥りがちではないでしょうか。しかし神は悪人が回心したなら、その回心の故に救われる。また反対に、正しいといわれていた者が悪事を働けば、その罪のゆえに死ぬのだと告げて個人の責任を明確に告げています。

 エゼキエル18章25節と29節に「あなた方、イスラエルの家は、『主の道は公正でない』と言う」とありますが、これは悪人が回心して主に立ち帰ることを認めず、なおも連帯責任による裁きに固執する人々の誤った認識を取り上げています。神はこれを聞きながら、「悪人が悔い改めて救われることをあなた方はなぜ望まないのか、公正でないのはあなた方ではないか」と問いただします。そして32節に「・・・私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ」と告げています。これが神の御心です。深い慈しみと憐れみをもって、私たちを救おうと呼びかけている主なる神の御心です。

 神は人間が悪を犯し罪のままで死ぬことを喜びません。すべての人に、「立ち帰れ」と悔い改めるチャンスを与えます。そして新しい心で立ち帰る者は、正しく見えた人であっても罪人であっても誰でも赦し、その人が生きていくことを祝福してくださいます。神はこのような方だと知ることは福音(=喜びの知らせ)です。この神の御心こそが、今日の福音箇所で語られているテーマです。

 では今日の福音に入りましょう。マタイは21章から主イエスのエルサレムでの活動を語ります。神殿の境内で、主イエスは祭司長や民の長老という当時の指導者たちと論争しています。23-27節での権威についての論争で洗礼者ヨハネを「信じなかった」当時の指導者たちの見せかけの姿があらわにされたのを受けて、同じテーマの話として、この「二人の息子」のたとえ話が語られています。

 「ぶどう園へ行って働きなさい」という父親の言いつけを「いやです」と拒絶したものの、後悔してぶどう園に行く兄と、口先では「はい、お父さん」と丁重に応じながら、父親の言いつけを無視してしまう弟。前後の文章から察すると「兄」は徴税人や娼婦のことで、「弟」は祭司長や長老たちを象徴していることが分かります。

 このたとえ話の背景として、ユダヤの宗教指導者たちと主イエスとの対立があります。ユダヤの人々は、自分たちは神から特別に選ばれた民であると自負しており、神を主として選び、その神のみ旨を何よりも優先しなければならない、それに応えて行かなければならないと考え、全員がその考えに一致していました。

 そういうわけですから、ユダヤ社会で指導者であるための条件は、自分たちが神に選ばれたことを証している、モーセの律法に忠実に従うことでした。

 そこで、人々の前で、公に神の名を否定したり、神のみ旨である律法にそって行動することを拒んだりするような者は、ユダヤ社会のアイデンティティーを混乱させてしまう危険人物とみなされて、追放されてしまう恐れがありました。そのため宗教指導者たちの公の場での言動は、文句のつけようのないくらいに完璧でした。

 しかし、主イエスは、彼らの心には神への真の愛が生きておらず、彼らの見た目の完全さは自分の社会的な地位や名誉を保つためのものでしかないことを見抜いていました。

 彼らの生き方というのは、このたとえ話の父親の前では丁重に「はい」と言いながら、実際には父親を無視して生きている「弟」と同じです。言葉では「はい」と従いながら、行動としては神を否定しています。

 それ故に主イエスは彼らの偽善性を強く非難しました。主イエスはマタイ23章で「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである」(3)と始まる鋭い言葉で具体的にそして強烈に彼らを避難しています。外見上は立派でも、内側は欲望に満ちた人生は、死であり、闇だからです。そこに救いはありません。主イエスは31節「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」と彼らに宣言します。

 罪を犯してきた徴税人や娼婦たちは、最初は父親の言いつけに「いやです」と言った「兄」のように、父なる神の心を傷つけました。しかし、主イエスの呼びかけを受け入れて、回心した彼らは、「思い直した兄」と同じように、今や父なる神にしっかりと結ばれています。神との交わりは、口先の言葉や見た目を整えることによるのではなく、心の奥底から、すべてを神に開き、神に委ねていくことによって本物になって行きます。

 ところで、このたとえを私たちの日常の中で捉えるとしたらどうでしょうか。私たちにとって、「今からぶどう園に行って働きなさい」という「神の望み通にするということ」は、実はそう簡単ではないでしょう。「今から」といきなり言われて、果たして私たちはどう思うでしょう? 息子たちは二人とも、実のところは嫌だったんですね。兄は思い直したのですが、弟は「はい」と丁重に答えたのに実際には行きませんでした。それは父の手前を一応取り繕ったけれども本音は「いいえ、行きません」のままだったからでしょう。

 私たちにしても、たとえそれが主の望みであっても実際はそう簡単には行きません。私たちはイエスさまに従って生きていきたいと願っていますけれども、本当のところ悩みます。

 FEBCの記事に、岡シスターという方の文章が載っていました。「私たちは行動することよりも、行動するときの気持ちの方が大切」だというのです。この言葉は意味深いと思いました。限界ある肉体を持って生きている私たちは、迷ったり、苦しんだり、ジレンマに陥りながら、それでも主の御心を思い巡らして、一歩を踏み出します。その行動するときの気持ちが大事だというのです。

 人の目を気にしたり、また、自分の思いを伏せて回りや大勢に合わさせる圧力に私たちは常にさらされています。そんな弱い私たちに主は「聖霊を信頼して、NoはNoと言って良い」とそう言っておられるのだと思います。

 慈しみ深い神に祈り願います。私たちの人生は御心に背く思いを持ったり、悔い改めたりの繰り返しです。そんな私たちに主キリストは何度背いてもそのたびに悔い改める心を与えてくださいます。その愛を心にしっかりと刻んで主イエス・キリストの御名によって祈ってまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年9月24日日曜日

礼拝メッセージ「もっと豊かに生きる」

 2023年9月24日(日)聖霊降臨後第17主日

ヨナ書:3章10〜4章11

フィリピの信徒への手紙:1章21〜30

マタイによる福音書:20章1〜16

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の聖書箇所はどれも神の思いと人の思いについて語っていると思います。第一朗読はヨナ書ですが、粗筋はこんなです。神はヨナに敵国ニネベの都に行って、彼らに悔い改めるように呼びかけよと命じるのですが、ヨナは「とんでもない、いやです」と船に乗って反対方向に逃亡します。ニネベは敵国ですから救う必要はない、滅びてしまえというのがヨナの本音でした。すると神は船で逃亡したヨナを嵐に遭遇させます。そして、海に放り出されたヨナを大きな魚に飲み込ませて救いました。

 九死に一生を得たヨナは神への感謝と悔い改めに導かれ、改めてニネベに行って主の言葉を告げ回ります。悔い改めなければ40日後にこの都は滅びると言う神の言葉を聞くと、ニネベの人々は皆神を信じ、王様から下々の者に至るまで断食して悔い改めました。神はそれをご覧になって、ニネベの人々を赦し、滅ぼすことをやめられます。普通はこれで、「良かったね」となるところですが、神のみ心が今日の4章に示されます。

 1節の通りで、ヨナは、神のこの寛大な対応が不満で、怒り、神に訴えました。この神とヨナとの対話がクライマックスです。ヨナが「死んだほうがましです」と不平を言う。神は「お前は怒るが、それは正しいことか」と問う。ヨナは都の外に小屋を建てて、ニネベのその後を見届けようとします。ヨナの気持ちは「今にニネベはもとの悪に戻るに決まっている」というものだったからでしょう。

 ニネベは現在のイラクに位置していました。強烈な暑さからヨナを救うため神はトウゴマの木を生えさせて日陰を与えました。ヨナは喜びました。しかし、翌日になると神は虫に命じてトウゴマを枯らしてしまいます。こうしてヨナは東から吹き付ける熱風と照りつける太陽のためぐったりして、「生きているよりも、死ぬ方がましです。怒りのあまり死にたいぐらいです」と死ぬことを願います。

 すると、神はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのトウゴマの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 神はヨナに「右も左もわきまえない人間」への神の深い憐れみと赦しを伝えようとヨナを導き、神の愛をより深く悟るようにとヨナに試練を与えたのでした。こうしたヨナ書のテーマは今日の福音に繋がっています。

 さて、今日の福音ですが、このたとえ話の直前には金持ちの青年の話があります。律法に従って模範的に暮らしているのに、自分の持つ富が捨てられない故に、神の国に入るのが困難だと語られます。これを受けてペトロは主イエスに尋ねます。マタイ19章27節「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問い、これに対して主イエスは弟子たちに大きな報いを約束します。同時に20章のすぐ前、19章30節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と弟子たちに注意されたのです。この同じ言葉が、今日の福音の最後20章16節でも語られます。今日の「ぶどう園の主人と労働者のたとえ話」は、この「先の者が後に、後の者が先になる」という神の国のあり方を伝えるためのものです。

 このたとえ話は最初からよく働いた弟子とそうでない弟子の話に聞こえます。また、本来は、ファリサイ派の人や律法学者に向けて語ったと考えることもできます。その場合「自分たちは神に忠実に生きてきた」と考えるファリサイ派は朝早く(6時)から働いた人で、主イエスのメッセージを聞いて回心した徴税人や娼婦、病人や貧しい人が最後の一時間しか働かなかった人ということになります。

 主人は夜が明けたばかりの6時ごろ出かけていって労働者を一日1デナリオンの賃金で雇います。彼らは朝の6時から夕方6時まで働きます。昼食と休憩に1時間をみても炎天下で11時間、重労働です。

 主人はお昼の12時頃と午後3時頃にも人を雇いに出かけますが、更に夕方にも人を雇に出かけます。すると、夕方の5時になっても雇ってくれるのを待って、ただひたすら広場で立ち続けている人々がいました。「だれも雇ってくれないのです」(7節)という叫びは、私たちの身近にもあるのではないでしょうか。

 政府が雇用促進と賃金上昇を働きかけている中ですが、非正規雇用が増えているというような現実。その中で短時間しか働けず、低賃金に甘んじている人も大勢います。いろいろな事情でまったく仕事のない人もいます。

 マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音=良い知らせ」そのものだと言えないでしょうか。

 この主人である神は、1時間しか働かなかった人にも「同じように(1日分の賃金を)払ってやりたい」と言います。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方だからです。

 夕方になって賃金を支払う際、主人は最後の人から順番に賃金を渡すようにします。もし朝から働いた人が先に賃金をもらえば、彼らは初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらったのを知ってしまいました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不平を抱くようになります。

 主人は、朝早くからずっと自分のために働いたこの人々に何かを伝えたいがために、わざとこのようにしたのだとも言えそうです。実際、主イエスはファリサイ派であれ、主の弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったのではないでしょうか。

 この人たちが一所懸命に働いたこと、それは主もお認めになっているのです。主は、ただ「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人(神)の心を分かってほしい、と語りかけているのです。

 「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」。そのことを表す典型的な言葉は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)でしょう。

 私たちが常識的に持っている「応報思想(努力は報われるという考え方)」の問題点を主イエスは見抜いていました。第一の問題は、人間の働きばかりに関心が向いてしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うことです。もう一つの問題は、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬してしまうということです。今日の箇所で朝早くから働いた人たちの陥った問題はまさにこの「嫉妬する」ことです。

 私たちは、「人と人とを比較することはあたりまえ」「競争原理はよいことだ」という社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしています。またその逆に、「自分は(人に比べて)よくできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。きょうの福音は、そういうところから私たちを解放して、もっと豊かな生き方へと私たちを招いてくれています。

 私は想像するのですが、夕方から来てほんの少ししか働けなかった人は思いがけず一日分の賃金をもらって、どんなにか有り難く感じたことか!家族を思って、どれほどホッとしたことかと思います。たとえば私たちが自分を早朝から汗にまみれて主人と一緒に一日中働いた労働者の立場において見たらと考えます。

 イエス様は、目の前で、この破格の恵みに与って嬉しそうにしている人たちに対して、あなたは心から「よかったね」と言えるようにと願っておられると思うのです。私たちの父である神は持ち前の気前の良さと深い憐れみの心でその人を救おうとなさいます。私たちが、その隣人と共に喜べたなら、私たちは全くもって、神の国の喜びを自分のものにできるのだと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年9月17日日曜日

礼拝メッセージ「私たちも人を赦します」

 2023年9月17日(日)聖霊降臨後第16主日 岡村博雅

創世記:50章15〜21

ローマの信徒への手紙:14章1〜12

マタイによる福音書:18章21〜35

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイ18章には教会生活を送る者への教えがまとめられていますが、きょうの箇所はその結びの箇所です。このたとえ話は、神の赦しをいただいている私たちが、その恵みへの応答として隣人に対する赦しの道を生きていくようにと示している、そのような話だと言えます。

 先週の福音箇所で私たちは主にある兄弟姉妹への忠告について主の言葉を学びました。主イエスは、ペトロたちに(つまり私たちに)「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい、忠告しなさい」と命じられ、忠告にあたってはその手段や手順を大切にするように勧められました。また、どうしてもその人が忠告を聞き入れないときには、その人を突き放すのでなく、主イエスがそうなさったように、あなたがたもむしろその人の懐に飛び込んでいくようにと促されました。

 そして私たちは主の名によって集まるように、また主の名によって祈ることを忘れてはならないことを示されました。私たちが主の名によって集まるとき、主はかならずその場にいてくださるからです。

 この学びに続くのが今日の福音です。「罪を犯した兄弟には、行って二人だけのところで忠告しなさい」と聞かされたペトロは、さっそく主イエスのところにやって来て尋ねます。こんな対話を想像します。「主よ、忠告することについては分かりました。では伺います。「きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」。つまり、こういうことです。「主よ、忠告するからには、その人を赦してやったということでしょう。では何回赦すべきでしょうか」とペトロは言いたいわけです。

 ユダヤの人々は、赦しには限度というものがあると考えていました。旧約聖書においては、復讐することは肯定されていました。創世記の4章には「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と記されています。これは際限のない復讐を肯定するものです。ですからペトロたちは、神は復讐することを肯定しておられる。だから相手を赦すことには限度があるはずだと考えていました。

 ところが、主イエスは、たとえを用いて彼らに考えさせました。(18章12節以下)あなた方はどう思うか。ある羊飼いが、迷わずにいる九十九匹の羊を山に残しておいて、迷い出てしまった一匹の羊を見つけに行った。あなた方はそんな羊飼いのことをどう思うかというわけです。主は迷いでた羊を罪人にたとえて、どんな罪人をも受け入れていくようにと言われます。弟子たちにもこのたとえの意味がわかりました。

 しかし、そういう主イエスの言動には、弟子たちがこれまで身につけてきたユダヤ社会の常識の枠組みでは理解できない何かがあります。ペトロは、それを明確にしたくて、「兄弟の罪というのは、何回赦すべきでしょうか、七回までですか」と尋ねたのです。

 「七」という数はユダヤでは「完全さ」を表す数だと言われます。そこでペトロは七回も赦せば主から完全だと褒めてもらえると思ったのでしょう。ところが主は「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と、つまり「無限に」赦しなさいと言われました。それはペトロの予想を全く超えるものです。そこで主イエスは弟子たちが赦しの本質について理解できるようにたとえ話をなさいました。

 このたとえ話にはタラントンとデナリオンという貨幣の単位がでてきます。1デナリオンは、一日の日当です。そして1タラントンは1デナリオン(1日の日当)の6000倍にあたると言われます。つまり、この家来の主人に対する負債、1万タラントンは、この家来が仲間に貸したお金、100デナリオンの60万倍ということになります。仮に日当を一日に1万円として計算すると、1万タラントンは60億円になります。あまりにも桁違いな額ですから、弟子たちは、これはどうみても返済不能だと思ったでしょう。

 借金の清算が始まり、25節「しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」とあります。そこで家来は必死になって主君に訴えます。26節「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した」とあります。

 人は確かに罪を「負債」のように感じることがあります。だから何とか返済(埋め合わせ)しなければと思いますが、実は「罪」という借金を返済することはできません。また、罪を犯したという事実は永遠に消えることはありません。

 主イエスは、それでも神はゆるす。「罪」がなかったこと(帳消し)にしてしまうというのです。この必死に懇願する家来の姿を見て主君は、27節「憐れに思って」とあります。この思いこそが愛なる神の秘訣です。「憐れに思う」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」で、目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられるという、深い共感compassionを表す言葉です。なぜ神が人の罪をゆるすのか、その答えがここにあります。「深い共感から神が人を憐れんで赦す」それが、救いの本質です。

 ところが問題が起きます。この家来は、莫大な負債を免除してもらった直後に、百デナリオンを貸している仲間に出会うなり掴みかかり、相手の首を絞めて、借金を返せと迫りました。29節、仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだのに、この家来は赦さず、借金を返すまでその人を牢に入れました。百デナリオンは、この家来が主君から帳消しにしてもらった額の60万分の1に過ぎません。

 この家来は一方で信じがたいほどの神の無限の赦しを体験しながら、自分が帳消しにしてもらった負債に比べたらごくわずかでしかない借金を赦しませんでした。弟子たちは、なんと身勝手な家来だと批判したことでしょう。私たちもそう思うでしょう。でも振り返って考えてみれば、主イエスは、この身勝手な家来とは実はあなたのことだとおっしゃっているのではないでしょうか。

 さて、今日の第一朗読を見てみましょう。これはヨセフ物語のクライマックスの場面です。(創世記を読んでおられない方があれば、ぜひご一読ください。とても楽しめます。)亡くなった恋女房の忘れ形見として父親から偏愛されたヨセフは、兄たちから妬まれ、兄たちのはかりごとにあい、奴隷としてエジプトに売られて行きます。そこでは次々に悪と不幸が続きます。しかし、この悪と不幸が媒介となって神の救いが実っていきます。

 もしヨセフが兄たちからいじめられないで、エジプトに売り渡されなかったらどうだったか、奴隷となった家の主人の妻から誘惑されなかったらどうだったか、牢獄に叩き込まれることがなかったらどうだったか、クーデターが起こらなかったらどうなったか、謀反人たちと同じ牢獄で暮らさなかったらどうだったか、全部逆算すると答えはおのずと明らかです。

 悪が実在したために、その悪にもまさる善が、神の恵みとして実現しました。ヨセフ物語では最後には善である神の支配が告白され、賛美されます。

 兄弟たちは、今やエジプトの国務大臣として、ファラオに次ぐ地位にあるヨセフから、自分たちが行った悪の仕返しをされるのではないかと恐れます。しかし、どんなに困難なときにも神に信頼し、神により頼んできたヨセフの信仰は最後まで変わりません。

 ヨセフは恐れおののく兄たちに率直に語っています。19節以下です。「ヨセフは言った。『心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。ですからどうか心配しないでください。あなたがたと幼い子どもは私が養いましょう。』」ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた」とあります。ヨセフは自分が神からいただいた恵みと憐れみを感謝して、今度は自分が兄弟たちを憐れみ、彼らの悪を赦しました。

 このヨセフの兄たちへの憐れみと赦しとは、主イエスのたとえ話に通じています。実に私たちは、神の憐れみを受け、主イエスの十字架によって罪を赦され、救われていながら、身近な人の罪を責めてしまっていることがあるのではないでしょうか。神は罪人の私たちを見捨てません。それどころか、罪という負債をすべて、帳消しにしてくださるのです。

 「神の憐れみ」、この恵みをいかすためにも、私たちは聖霊の力をいただいて、私たちと同じ、罪ある隣人に最後の最後まで関わっていけるように願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン