2023年9月24日日曜日

礼拝メッセージ「もっと豊かに生きる」

 2023年9月24日(日)聖霊降臨後第17主日

ヨナ書:3章10〜4章11

フィリピの信徒への手紙:1章21〜30

マタイによる福音書:20章1〜16

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の聖書箇所はどれも神の思いと人の思いについて語っていると思います。第一朗読はヨナ書ですが、粗筋はこんなです。神はヨナに敵国ニネベの都に行って、彼らに悔い改めるように呼びかけよと命じるのですが、ヨナは「とんでもない、いやです」と船に乗って反対方向に逃亡します。ニネベは敵国ですから救う必要はない、滅びてしまえというのがヨナの本音でした。すると神は船で逃亡したヨナを嵐に遭遇させます。そして、海に放り出されたヨナを大きな魚に飲み込ませて救いました。

 九死に一生を得たヨナは神への感謝と悔い改めに導かれ、改めてニネベに行って主の言葉を告げ回ります。悔い改めなければ40日後にこの都は滅びると言う神の言葉を聞くと、ニネベの人々は皆神を信じ、王様から下々の者に至るまで断食して悔い改めました。神はそれをご覧になって、ニネベの人々を赦し、滅ぼすことをやめられます。普通はこれで、「良かったね」となるところですが、神のみ心が今日の4章に示されます。

 1節の通りで、ヨナは、神のこの寛大な対応が不満で、怒り、神に訴えました。この神とヨナとの対話がクライマックスです。ヨナが「死んだほうがましです」と不平を言う。神は「お前は怒るが、それは正しいことか」と問う。ヨナは都の外に小屋を建てて、ニネベのその後を見届けようとします。ヨナの気持ちは「今にニネベはもとの悪に戻るに決まっている」というものだったからでしょう。

 ニネベは現在のイラクに位置していました。強烈な暑さからヨナを救うため神はトウゴマの木を生えさせて日陰を与えました。ヨナは喜びました。しかし、翌日になると神は虫に命じてトウゴマを枯らしてしまいます。こうしてヨナは東から吹き付ける熱風と照りつける太陽のためぐったりして、「生きているよりも、死ぬ方がましです。怒りのあまり死にたいぐらいです」と死ぬことを願います。

 すると、神はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのトウゴマの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 神はヨナに「右も左もわきまえない人間」への神の深い憐れみと赦しを伝えようとヨナを導き、神の愛をより深く悟るようにとヨナに試練を与えたのでした。こうしたヨナ書のテーマは今日の福音に繋がっています。

 さて、今日の福音ですが、このたとえ話の直前には金持ちの青年の話があります。律法に従って模範的に暮らしているのに、自分の持つ富が捨てられない故に、神の国に入るのが困難だと語られます。これを受けてペトロは主イエスに尋ねます。マタイ19章27節「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問い、これに対して主イエスは弟子たちに大きな報いを約束します。同時に20章のすぐ前、19章30節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と弟子たちに注意されたのです。この同じ言葉が、今日の福音の最後20章16節でも語られます。今日の「ぶどう園の主人と労働者のたとえ話」は、この「先の者が後に、後の者が先になる」という神の国のあり方を伝えるためのものです。

 このたとえ話は最初からよく働いた弟子とそうでない弟子の話に聞こえます。また、本来は、ファリサイ派の人や律法学者に向けて語ったと考えることもできます。その場合「自分たちは神に忠実に生きてきた」と考えるファリサイ派は朝早く(6時)から働いた人で、主イエスのメッセージを聞いて回心した徴税人や娼婦、病人や貧しい人が最後の一時間しか働かなかった人ということになります。

 主人は夜が明けたばかりの6時ごろ出かけていって労働者を一日1デナリオンの賃金で雇います。彼らは朝の6時から夕方6時まで働きます。昼食と休憩に1時間をみても炎天下で11時間、重労働です。

 主人はお昼の12時頃と午後3時頃にも人を雇いに出かけますが、更に夕方にも人を雇に出かけます。すると、夕方の5時になっても雇ってくれるのを待って、ただひたすら広場で立ち続けている人々がいました。「だれも雇ってくれないのです」(7節)という叫びは、私たちの身近にもあるのではないでしょうか。

 政府が雇用促進と賃金上昇を働きかけている中ですが、非正規雇用が増えているというような現実。その中で短時間しか働けず、低賃金に甘んじている人も大勢います。いろいろな事情でまったく仕事のない人もいます。

 マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音=良い知らせ」そのものだと言えないでしょうか。

 この主人である神は、1時間しか働かなかった人にも「同じように(1日分の賃金を)払ってやりたい」と言います。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方だからです。

 夕方になって賃金を支払う際、主人は最後の人から順番に賃金を渡すようにします。もし朝から働いた人が先に賃金をもらえば、彼らは初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらったのを知ってしまいました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不平を抱くようになります。

 主人は、朝早くからずっと自分のために働いたこの人々に何かを伝えたいがために、わざとこのようにしたのだとも言えそうです。実際、主イエスはファリサイ派であれ、主の弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったのではないでしょうか。

 この人たちが一所懸命に働いたこと、それは主もお認めになっているのです。主は、ただ「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人(神)の心を分かってほしい、と語りかけているのです。

 「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」。そのことを表す典型的な言葉は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)でしょう。

 私たちが常識的に持っている「応報思想(努力は報われるという考え方)」の問題点を主イエスは見抜いていました。第一の問題は、人間の働きばかりに関心が向いてしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うことです。もう一つの問題は、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬してしまうということです。今日の箇所で朝早くから働いた人たちの陥った問題はまさにこの「嫉妬する」ことです。

 私たちは、「人と人とを比較することはあたりまえ」「競争原理はよいことだ」という社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしています。またその逆に、「自分は(人に比べて)よくできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。きょうの福音は、そういうところから私たちを解放して、もっと豊かな生き方へと私たちを招いてくれています。

 私は想像するのですが、夕方から来てほんの少ししか働けなかった人は思いがけず一日分の賃金をもらって、どんなにか有り難く感じたことか!家族を思って、どれほどホッとしたことかと思います。たとえば私たちが自分を早朝から汗にまみれて主人と一緒に一日中働いた労働者の立場において見たらと考えます。

 イエス様は、目の前で、この破格の恵みに与って嬉しそうにしている人たちに対して、あなたは心から「よかったね」と言えるようにと願っておられると思うのです。私たちの父である神は持ち前の気前の良さと深い憐れみの心でその人を救おうとなさいます。私たちが、その隣人と共に喜べたなら、私たちは全くもって、神の国の喜びを自分のものにできるのだと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年9月17日日曜日

礼拝メッセージ「私たちも人を赦します」

 2023年9月17日(日)聖霊降臨後第16主日 岡村博雅

創世記:50章15〜21

ローマの信徒への手紙:14章1〜12

マタイによる福音書:18章21〜35

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイ18章には教会生活を送る者への教えがまとめられていますが、きょうの箇所はその結びの箇所です。このたとえ話は、神の赦しをいただいている私たちが、その恵みへの応答として隣人に対する赦しの道を生きていくようにと示している、そのような話だと言えます。

 先週の福音箇所で私たちは主にある兄弟姉妹への忠告について主の言葉を学びました。主イエスは、ペトロたちに(つまり私たちに)「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい、忠告しなさい」と命じられ、忠告にあたってはその手段や手順を大切にするように勧められました。また、どうしてもその人が忠告を聞き入れないときには、その人を突き放すのでなく、主イエスがそうなさったように、あなたがたもむしろその人の懐に飛び込んでいくようにと促されました。

 そして私たちは主の名によって集まるように、また主の名によって祈ることを忘れてはならないことを示されました。私たちが主の名によって集まるとき、主はかならずその場にいてくださるからです。

 この学びに続くのが今日の福音です。「罪を犯した兄弟には、行って二人だけのところで忠告しなさい」と聞かされたペトロは、さっそく主イエスのところにやって来て尋ねます。こんな対話を想像します。「主よ、忠告することについては分かりました。では伺います。「きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」。つまり、こういうことです。「主よ、忠告するからには、その人を赦してやったということでしょう。では何回赦すべきでしょうか」とペトロは言いたいわけです。

 ユダヤの人々は、赦しには限度というものがあると考えていました。旧約聖書においては、復讐することは肯定されていました。創世記の4章には「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と記されています。これは際限のない復讐を肯定するものです。ですからペトロたちは、神は復讐することを肯定しておられる。だから相手を赦すことには限度があるはずだと考えていました。

 ところが、主イエスは、たとえを用いて彼らに考えさせました。(18章12節以下)あなた方はどう思うか。ある羊飼いが、迷わずにいる九十九匹の羊を山に残しておいて、迷い出てしまった一匹の羊を見つけに行った。あなた方はそんな羊飼いのことをどう思うかというわけです。主は迷いでた羊を罪人にたとえて、どんな罪人をも受け入れていくようにと言われます。弟子たちにもこのたとえの意味がわかりました。

 しかし、そういう主イエスの言動には、弟子たちがこれまで身につけてきたユダヤ社会の常識の枠組みでは理解できない何かがあります。ペトロは、それを明確にしたくて、「兄弟の罪というのは、何回赦すべきでしょうか、七回までですか」と尋ねたのです。

 「七」という数はユダヤでは「完全さ」を表す数だと言われます。そこでペトロは七回も赦せば主から完全だと褒めてもらえると思ったのでしょう。ところが主は「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と、つまり「無限に」赦しなさいと言われました。それはペトロの予想を全く超えるものです。そこで主イエスは弟子たちが赦しの本質について理解できるようにたとえ話をなさいました。

 このたとえ話にはタラントンとデナリオンという貨幣の単位がでてきます。1デナリオンは、一日の日当です。そして1タラントンは1デナリオン(1日の日当)の6000倍にあたると言われます。つまり、この家来の主人に対する負債、1万タラントンは、この家来が仲間に貸したお金、100デナリオンの60万倍ということになります。仮に日当を一日に1万円として計算すると、1万タラントンは60億円になります。あまりにも桁違いな額ですから、弟子たちは、これはどうみても返済不能だと思ったでしょう。

 借金の清算が始まり、25節「しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」とあります。そこで家来は必死になって主君に訴えます。26節「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した」とあります。

 人は確かに罪を「負債」のように感じることがあります。だから何とか返済(埋め合わせ)しなければと思いますが、実は「罪」という借金を返済することはできません。また、罪を犯したという事実は永遠に消えることはありません。

 主イエスは、それでも神はゆるす。「罪」がなかったこと(帳消し)にしてしまうというのです。この必死に懇願する家来の姿を見て主君は、27節「憐れに思って」とあります。この思いこそが愛なる神の秘訣です。「憐れに思う」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」で、目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられるという、深い共感compassionを表す言葉です。なぜ神が人の罪をゆるすのか、その答えがここにあります。「深い共感から神が人を憐れんで赦す」それが、救いの本質です。

 ところが問題が起きます。この家来は、莫大な負債を免除してもらった直後に、百デナリオンを貸している仲間に出会うなり掴みかかり、相手の首を絞めて、借金を返せと迫りました。29節、仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだのに、この家来は赦さず、借金を返すまでその人を牢に入れました。百デナリオンは、この家来が主君から帳消しにしてもらった額の60万分の1に過ぎません。

 この家来は一方で信じがたいほどの神の無限の赦しを体験しながら、自分が帳消しにしてもらった負債に比べたらごくわずかでしかない借金を赦しませんでした。弟子たちは、なんと身勝手な家来だと批判したことでしょう。私たちもそう思うでしょう。でも振り返って考えてみれば、主イエスは、この身勝手な家来とは実はあなたのことだとおっしゃっているのではないでしょうか。

 さて、今日の第一朗読を見てみましょう。これはヨセフ物語のクライマックスの場面です。(創世記を読んでおられない方があれば、ぜひご一読ください。とても楽しめます。)亡くなった恋女房の忘れ形見として父親から偏愛されたヨセフは、兄たちから妬まれ、兄たちのはかりごとにあい、奴隷としてエジプトに売られて行きます。そこでは次々に悪と不幸が続きます。しかし、この悪と不幸が媒介となって神の救いが実っていきます。

 もしヨセフが兄たちからいじめられないで、エジプトに売り渡されなかったらどうだったか、奴隷となった家の主人の妻から誘惑されなかったらどうだったか、牢獄に叩き込まれることがなかったらどうだったか、クーデターが起こらなかったらどうなったか、謀反人たちと同じ牢獄で暮らさなかったらどうだったか、全部逆算すると答えはおのずと明らかです。

 悪が実在したために、その悪にもまさる善が、神の恵みとして実現しました。ヨセフ物語では最後には善である神の支配が告白され、賛美されます。

 兄弟たちは、今やエジプトの国務大臣として、ファラオに次ぐ地位にあるヨセフから、自分たちが行った悪の仕返しをされるのではないかと恐れます。しかし、どんなに困難なときにも神に信頼し、神により頼んできたヨセフの信仰は最後まで変わりません。

 ヨセフは恐れおののく兄たちに率直に語っています。19節以下です。「ヨセフは言った。『心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。ですからどうか心配しないでください。あなたがたと幼い子どもは私が養いましょう。』」ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた」とあります。ヨセフは自分が神からいただいた恵みと憐れみを感謝して、今度は自分が兄弟たちを憐れみ、彼らの悪を赦しました。

 このヨセフの兄たちへの憐れみと赦しとは、主イエスのたとえ話に通じています。実に私たちは、神の憐れみを受け、主イエスの十字架によって罪を赦され、救われていながら、身近な人の罪を責めてしまっていることがあるのではないでしょうか。神は罪人の私たちを見捨てません。それどころか、罪という負債をすべて、帳消しにしてくださるのです。

 「神の憐れみ」、この恵みをいかすためにも、私たちは聖霊の力をいただいて、私たちと同じ、罪ある隣人に最後の最後まで関わっていけるように願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年9月10日日曜日

礼拝メッセージ「ともに祈るなら」 

 2023年9月10日(日)聖霊降臨後第15主日 岡村博雅

エゼキエル書:33章7〜11 

ローマの信徒への手紙:13章8〜14 

マタイによる福音書:18章15〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイ18章は教会のあり方についての教えを語っています。それはまず子どもを受け入れること(1-5) が語られ、次に小さい者をつまずかせないこと(6-9)が語られ、更に迷いでた羊のたとえが語られます。今日の福音はそれに続く箇所です。15節に「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあるように、今日の箇所はその迷いでた子羊である「罪」を犯した兄弟姉妹にどう接するか、その兄弟姉妹との関係を失わないように、どう取り戻すのかということがテーマになっています。そこに主イエスの心があるとマタイは伝えています。

 主は、それがどんな罪であっても、罪を犯した兄弟姉妹を放っておかず「忠告しなさい」(15)と言われます。しかし適切に「忠告する」というのは難しいものです。忠告することによって、かえってその人が頑なになったり、忠告したことで恨みを買うことだってあります。それでも主は「忠告しなさい」と言われるのです。なぜでしょうか。

 第1朗読で、神はエゼキエルに7節「あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない」と言っています。その人に、人間の倫理や道徳や正義によるのでない神の警告を伝えること。それが警告や忠告というものの本質であり、神の言葉を伝えることこそがその内容なのだと分かります。ですから忠告や警告をするにあたって、神はどのように告げておられるか、まずそれを聞き取ることが大切です。

 更に神はこう言われます。11節「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」。主イエスは、この神の思いに立って、私たちに兄弟姉妹がが「悪しき道から立ち帰るように」忠告しなさいと言われるのです。神はその人を慈しみ、また憐れんでおられます。ですから私たちの警告や忠告は、上から目線で注意する、その人の自尊心を傷つけるような自分の考えを語るものではなく、主の名によって集まり、主の名によって祈りあう、その人への愛と謙遜な配慮に満ちたものになるはずです。忠告とはそのような信仰の業であると気付かされます。

 私たちが、兄弟姉妹に忠告しようとするとき、マタイ18章20節にあるように主が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束してくださっていることはなによりの支えです。今日はこのことを見ていきましょう。

 なにより大切なことは、今ここに、主イエス・キリストがおられることです。聖書は、主イエスは霊として共にいてくださると告げています。そのことがよく分かっていれば、信仰は成り立ちます。大切なことは、その主イエスが今生きておられることです。私たちを、この私を愛してくださっているということです。

 しかし、主イエスがおられると信じることになんの迷いもないかというと、必ずしもそういい切れないという危険があると思います。祈っていて、こんな祈りに意味があるのだろうかと、ふと空しい思いに捕らわれたことがある方はきっとあると思います。礼拝に汗をかきながら来て、いったい何のためにこうして来ているのだろうという思いが湧いてくるような体験をした方もあるのではないかと思います。こういう神から私たちを引き離そうとする力にいつの間にか捕らわれているというときに、このような誘惑に打ち勝つ道はあるのでしょうか。あるならば、それはどのような道でしょうか。

 それは聖餐と洗礼、そして主イエスの約束を信ずることだと言われます。第2次大戦後に、ドイツの代表的な神学者たちが集まって聖餐理解について論議し、それをまとめました。

 彼らが最初に確認したこと、それは、聖餐は、主イエス・キリストがお定めになったものであるということでした。キリスト者の誰かが始めたのではない。主が始めてくださいました。十字架の死に先立って、主が弟子たちと共に最後の晩餐をなさった時、これをこの後も繰り返すようにと命じられた。だから私たちも聖餐を大切にして、私たちも聖餐を祝い続けています。

 洗礼式も、主イエス・キリストがバプテスマを施しなさいと命じてくださったのです。ですから、教会の歴史の最初からキリスト者になるための洗礼式が行われてきました。

 そして、三つ目として今朝の福音箇所である18章には、もう一つの重要な約束が与えられています。20節です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と主は約束してくださっています。

 この「その中にいる」という言葉は、ギリシア語の原文では「真ん中にいる」という意味の言葉です。ですから主は「わたしはその真ん中にいる」と言われたということです。

 「真ん中」というのは、誰からも等しい場所です。誰にも一番近いところです。このど真ん中に主イエスはいてくださると約束されたのです。

 主が「真ん中」におられるということと同じ重みをもって、もう一つ大事なことがあります。それは主が「二人または三人がわたしの名によって」と言われたということです。単に二、三人が集まるのと、「二人または三人が主の名によって」集まるのとでは違いがあります。大事なのは人が主の名によって集まるとき、その集まりの中心は誰かということです。

 ここで「わたしの名によって」という言葉に注目します。「わたしの名によって集まる」の「名」とは単なる呼び名ではなく、そのものの本質を表します。ですから、私たちが、イエス・キリストの名によって集まるというのは、そこに主イエスがおられるということです。

 いわば主イエスによって支えられている私たちが、その肉体も魂も、全部、身ぐるみすべてを主イエスに支えられている私たちが、主と共にそこに集まるということを意味します。

 私たちは主イエスのうちに一つに結ばれてここにあります。主がここにおられるということは、信仰によれば、私たちが実在することよりももっと確かで、もっと深いものです。それがこの「主の名によって」ということに込められています。

 人間というものは、非常に矛盾に満ちた存在です。生きていく上で、人と出会い、その助けと支えを必要としますが、またその一方で自分の欲望や望みを優先するし、相手を傷つけたり、その人の人生を破壊してしまったりもします。

 人を必要としながら、人を傷つけてしまう。そういう弱い私たち人間が、罪を犯す度ごとに裁かれて、人とのつながりから切り離されてしまうならば、そんな世界で生き残ることのできる人間は誰もいないでしょう。ですから赦し合うことは、罪深い人間が共に生きていくための絶対不可欠な条件だといえます。今日の福音で主イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら・・・」と、まさに互いに赦し合うことを私たちに訴えています。

 罪を犯した兄弟姉妹をそのまま放っておくことは、相手の滅びを黙認することと同じです。それは許されません。そこで主イエスは、愛の業として罪を犯した兄弟姉妹に働きかけていくことを勧めています。

 主は、そのために手段を踏むことを勧めます。そして最後に「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なす」ようにと言われます。それは罪人を突き放してしまうかのような印象を与えますが、そうではありません。主イエスが異邦人や徴税人の中に飛び込んで行かれたことを見れば明らかです。主は私たちにも罪人の懐に飛び込んでいくことを促しています。

 私は教会生活をしてきた中で、尊敬していた兄弟が罪を犯し、収監されるという経験をしました。この方はその為にこの世の物の実に多くを失いながら、しかし、ご家族の絆は決して破壊されることなく、みな耐えきり、みな幸せを掴んでいます。その方は今やある教会の重鎮として活躍しておられます。私は、これはそのご家族が、おりが良くても悪くても主に信頼し、祈りあう家族であり続け、神の憐れみをいただき続けたからだと実感しています。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と主はおっしゃいます。主の言葉はまったく真実です。主は私たちの間においでになって、罪人を赦し続けることができるように、お互いに赦しあえるように、今日も私たちを支えてくださっています。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年9月5日火曜日

小さいが重みのある十字架

 2023年9月3日 小田原教会 江藤直純牧師

エレミヤ書15:15-21;  ローマの信徒への手紙12:9-21;  

マタイによる福音書16:21-28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 以前にご紹介したことがあったかもしれませんが、日頃見聞きすることも少ないので、もう一度その冒頭部分をご紹介します。今から423年前に長崎で出版された書物の中に収められていました。

 「ばんじかなひ玉ひ、てんちをつくり玉ふ御おやデウスとその御ひとり子われらが御あるじゼス キリシトをまことにしんじ奉る」。「ばんじかなひ玉ひ」、「ばんじ」です。すべてのことが「かなひ玉ふ」、おできになる、つまり全能であるということです。「デウス」、ラテン語で神のことです。「御あるじ」、主のことです「キリシト」は今は「キリスト」と発音します。そうです。これは私たちが毎週毎週唱えている「使徒信条」の出だしのところです。西暦1600年、江戸時代が始まる前にすでにキリシタンたちは日本語で2世紀からずっと伝わっている使徒信条を自分たちの日本語で唱え、信仰告白をしていたのです。大名も武士も百姓も漁師も身分に関わりなく、一つ心となって自分たちが信じる神とキリストとはいったいどなたであるかを表明していたのです。たとえそうすることが自分たちのこの世での不利益になるとしても、いえ、実際やがて過酷な迫害に遭うことになるとしても、唱え続けていたのです。420年以上も前の古めかしい日本語の信仰告白を聴くと、当時の無名のキリシタンたちのリアルな信仰告白が胸に迫ってきます。

 「あなたこそ生ける神の子、キリストです」、これは1954年に刊行された口語訳聖書でのパウロのフィリポ・カイザリアでの信仰告白です。実に力強く格調高い告白です。1987年の新共同訳では、キリストを旧約以来の伝統的な表現であるヘブライ語のメシアに戻して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)と訳しました。5年前に出た聖書協会共同訳でも同じく「あなたはメシア、生ける神の子です」となっています。福音書が伝えるもっとも古い信仰告白です。それよりももっと古い信仰告白はパウロによれば「イエスは主である」(ロマ10:9, Ⅰコリ12:3)でした。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」、弟子たちを代表してのペトロのこの告白をイエスさまはきっと喜んで受け入れられたことでしょう。

 しかし、これをペトロがこの告白は自分の功績だと誤解しないようにはっきりと釘を刺されました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタ16:17)と言われたのです。この点については使徒パウロもまったく同感であって、コリントの信徒たちにこう言っています。「また、聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリ12:3)。人間には理性もあれば宗教心もあるのだから、自分なりの信仰告白ができそうなものですが、聖書はそうは認めません。生身の人間には人間を超えた存在についての正しい、心の底からの認識は実はできないのです。ただ、「天の父」の力によって、あるいは「聖霊」の導きによってのみ可能になるのです。

 ペトロにしてみれば渾身の力を振り絞って口に出したものの、告白の内容が自分の心の底からのものとなるためにはまだまだ時が必要でした。それはなにも味噌や醤油や酒がそうであるように発酵するのに、熟成するのに一定の時間が必要だという意味ではありません。時間というよりも出来事が必要だったのです。その出来事というのが主イエスの苦難と十字架の死そして死からの復活でした。そして、その苦難と十字架の死と復活とが自分自身にとってのものであるということを分かるための自分の経験もまた必要だったのです。

 今朝の福音書の日課は、イエスさまが弟子たちにご自身が経験することになるこれからの出来事を初めて予告なさったことを綴っています。しかも福音書はそれが三度繰り返されたと記しています。それでも、ペトロたちがイエスさまの十字架の死、ましてや死からの復活の本当の意味を理解できるようになるのには、時間だけではなく、その出来事そのものを自分自身で経験しなければならなかったのです。イエスさまがメシアであることはだれにも話さないようにと口止めされたのは、それが重大な秘密だからだと思っていましたが、もう一つの理由がありました。それは肝心の弟子たちがその真意をまだ分かってはいなかったからです。わかってないから、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16:22)と必死の形相で諫めたのです。つまり、イエスさまの苦難と十字架の死と復活ということが自分自身にとって必要だなどとは夢にも思っていなかったのです。想像することなどとてもとてもできなかったということを暴露してしまいました。

2.

 ペトロとしてはせいいっぱいの善意からの忠告のつもりでした。それを事もあろうに、イエスさまからひどい言葉を浴びせられたのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)。ペトロたちはこの言葉がいったいどういう意味だか、まったく分からなかったことでしょう。

 でも、お叱りの言葉の格段の厳しさと共に、次の言葉は十分には分からなかったにしても、きっと耳にとまったことでしょう。いえ、耳にだけでなく心に深くとどまり、そのあとの人生でずっと覚えていたのではないでしょうか。その言葉とは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(12:24)です。「自分を捨て」というところは岩波訳には「自分を否み」と訳されています。英訳でもそれに似た、否定するとか断念する、放棄するといったニュアンスです。つまり、ここには「自己否定」ということと「自分の十字架」という二つの重大なキーワードが「わたしについて来たい者」に求められているのです。このことを今日はじっくりと考えてみましょう。

3.

 「十字架」という言葉から皆さんはすぐにどういうことを思い浮かべられますか。私がよく参照にします『広辞苑』第七版には次の2点が書かれていました。「①罪人を磔にする柱。木を十字形に組み合わせて作ったもの。はりつけばしら」。そして「②キリスト教徒が尊ぶ十字形のしるし。イエスが磔にされ、その受難・死・復活によって人間の救済を成し遂げたことの象徴であり、礼拝の対象」と客観的に記述してあります。

 もう一つの私が愛用している『新明解国語辞典』にも似たような二つの説明がありますが、それに加えて実際の用法の説明もあります。「①罪人をはりつけにする十字形に組み合わせた柱」。これは広辞苑と同じですね。新明解はそれに続けて「十字架を負う」という使い方があることに言及し、その説明をこう書いています。「どのような手段によっても消し去ることのできない苦悩(苦難)を一生負い続ける」。たしかにこういう意味で「十字架を負う」という表現を使うことはありますね。さらに、「②キリスト教(徒)のしるしとして持つ、十字架をまねた形のもの」と書いてあります。さらに、「犠牲として強制される、重い負担の意にも用いられる」と記述し、その用例として「重すぎる十字架」という言い方を挙げています。

 たしかに重罪人の処刑の際に使われるはりつけ用の木の柱のことと、キリスト教において救いとの関わりで長く大切にされて使われてきた意味とがあります。しかし、そこから派生して「十字架を負う」とか「重すぎる十字架」といった用法も教会の外においてもしばしば使われるのは間違いありません。それでは、今日の日課でイエスさまがおっしゃった「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というお言葉はどういう意味だったでしょうか。「自分の十字架」とは一体何でしょうか。

 イエスさまの十字架が私たち罪人の罪を贖うためという、これ以上なく重く、掛け替えのない意味を持っていることを思いますと、私たち一人ひとりに背負うように促されている「自分の十字架」もまたそれほどに重く、深刻な意味を持つのだとしたら、そう聞いただけで身震いをし、尻込みをしてしまわないでしょうか。自分の罪でさえ自分ではどうしようもないのに、人様の罪を贖う十字架など、そんな大それたことは私などにはとうていできません、と言わないではいられません。謙遜などではなく、正直にそう思うのです。

 それでもイエスさまが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃっています。そういうときに、今日の使徒書の日課が思い出されました。日課の直前、ローマの信徒への手紙の第12章の書き出しはこうです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12:1)と。ここには、キリスト者の生き方の基本的な姿勢が示されています。ここで「いけにえ」という旧約に伝統的な儀式、祭儀と関わる表現がありますが、旧約の預言者たちに共通する特徴は祭儀よりも倫理を優先させる傾向が強いということです。イザヤ書1章には「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる」「むなしい献げ物を再び持って来るな」(イザ1:11, 13)と書かれており、ホセア書6章には「わたしの喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセ6:6)と記されています。ですから、使徒パウロも、動物の犠牲などの祭儀ではなく、「自分の体」を、つまり「自分の生き方そのもの」をいけにえとして献げなさいと言っていて、「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝である」(ロマ12:1)と断言しながら勧めているのです。

 では、動物のいけにえや穀物などを献げる祭儀ではなく、神が喜ばれる「生き方そのもの」とはどういうものでしょうか。日課の12章の9節以下をもう一度見てみましょう。「愛には偽りがあってはなりません」(12:9)。愛とは自分の心情のことではなく、相手への具体的で、無私の、その人を尊び生かす関わり方です。見かけではなく、表面的なポーズではなく、無垢で純粋な相手本意の実際の関わり方のことです。見せかけの愛は偽りだと見抜かれるのです。人の目はごまかせても、神の目はごまかせません。「愛には偽りがあってはなりません」とわざわざ使徒パウロが言うのは、私たちの愛にはしばしば偽りがあるという事実を知っているからでしょう。

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:

10)。兄弟愛とは気の合う者同士の感情とか気分などではなく、相手を自分よりも優れた者、価値ある人と思い、敬い、尊び、重んじる実践です。そうするようにと、そのように生きるようにと勧められているのです。嫌な言い方ですが、人を愛する、しかも具体的な行動を伴って関わるというときに、ひそかに内面の優位さが私たちの心の隅に忍び込むことはないでしょうか。行動の背後に「してあげられる」という相手への優越感が隠れていないでしょうか。

 さらに続きます。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすように努めなさい」(12:13)。相手の貧しさ、あるいは欠けているところをそのままにしておかないで、その穴を自分の持っているもので補ってあげるようにとの勧めです。口先の同情ですませるのではなくて、平たく言えば自腹を切りなさいと言われているのです。有り余るゆとりのあるときにはそうしなさいとは言われていません。その人の貧しさや欠けはその人のものだ、自己責任だと言ってしまうのではなく、我が事として、自ら痛みを負ってでも助けなさいと言われています。しかも、そのような好意的な関わりをするのは自分が好意を抱いている人に対してだけするように限られているのではありません。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(12:14)。ここまで言われると、そうそう簡単に、はい、そういたします、そのようにできていますと即答するのは躊躇われることでしょう。

 それらの勧め、あるいは戒めを集約するような有名な言葉がここで語られています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(12:15)。そうだ、そのとおりだ、そうすべきだ、そうしようきっと誰もが思うでしょう。いい言葉、美しい教えだと感じます。ところで、この二つはどちらがやりやすいでしょうか。ある人は、喜ぶ人と共に喜ぶ方が泣く人と共に泣くよりも易しいと思うかも知れません。喜ぶ方が気楽というか楽しいというかだからです。しかし、私は実は逆に思うことがあります。泣く人と共に泣くのは、泣き悲しんでいる人に同情すればできます。しかし、同情するとき表には出しませんが、少しだけ相手よりも優位に立つ思いが潜んでいる場合があります。けれども喜ぶ人と喜ぶときは、顔で一緒に喜んでいても、心のどこかで羨む気持ちや妬む気持ちが隠れている場合があるように思えます。無条件に、素直に喜ぶ人と共に喜べればこんないいことはないと思いますが、百パーセントいつもそうなるとは限らないのが正直なところではないでしょうか。さもしいというか見苦しい心の動きが蠢くときがあるのを否定できないのです。

4.

 こんなことを言い続けると、あまりに自虐的だとか厳しすぎるだと思われるかも知れません。ふだんはそこまで考えないよと言われるかもしれません。ええ、私たちはふだんは目をつぶって見ない振りをしています。そうですけれども、聖書の光を自分の心に差し込まれると、イエスさまからじかに語りかけられると、自分の心の奥底にあるものを見て見ぬ振りはできなくなります。ましてや「わたしについて来たいならば」と言われると、そうしたいので、もはやありのままの自分を、みっともないような自分を認めないわけにはいかなくなります。

 そのときイエスさまはおっしゃるのです、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。自分を捨てよ、自分を否め、自分を否定せよと言われるときの「自分」とは、たった今聞いたばかりの聖書の言葉という光によって照らし出された自分の弱さ、足りなさ、欠け、曲がっていたり歪んでいたりするところのことです。高慢さや自己中心さを含まれます。そういう「自分」を思い切って否みなさい、痛みを感じても否定しなさい、棄てなさいと優しく諭されているのです。「自分の十字架を背負って」とは、そのような弱さ、足りなさ、欠け、歪みを居直ってごまかしたり、自己正当化したりせずに、自分はそのような弱さ、欠けを持った者であるということを認め、その上でそれを磔にし、死んで滅ぼされるようにしていただきなさいと導き励ましてくださっているのです。何のために。それは、弱さや欠け、罪が滅ぼされると、そこには死からの解放が待っているからです。復活が、新しいいのちが待っているのです。その日まで「自分を捨て、自分の十字架を背負って」、しかし、黙ってじっとしているのではなく、不完全ながらも、弱さや欠けや罪を抱えたままであっても、目の前の人に、及ばずながらも、愛の関わりをして行きなさい、そうすることで「わたしに従いなさい」と主イエスは招いていてくださるのです。

 こうなったときに、私たちは怯むでしょうか。足踏みするでしょうか。そうしたいのは山々だけど、自分にはそれはできない、無理だと思うでしょうか。なぜなら、「自分」は、「自分の十字架」は一つひとつをとって見れば一見小さいようですが、真摯に考えれば重みがあると感じるからです。

 そのときイエスさまがペトロたちに語られたあの言葉を思い出してください。ご自分は「多くの苦しみを受け、殺される」と、つまり、ご自分は「十字架を背負って」地上の生涯を全うするとおっしゃったのです。その十字架とは、そうです、それは他でもありません、私たちのことです。小さな、しかし重みのある十字架を背負っている私たちのことです。弱さと欠けと罪を持つ私たちを主イエスはご自身の十字架として背負ってくださるのです。それが十字架を背負って神の示される道を歩まれるイエスさまの姿なのです。イエスさまは私たちに無理難題を吹っ掛けられているのではないのです。私たちがそうできるようになるための手立てを講じておられたのです。

 そのお蔭で、私たちは自分の十字架を背負いながら、イエスさまが示された道を、愛の道を、たとえ少しずつであっても、歩いて行くことができるのです。「自分の体を、そうです、自分の生き方そのものを、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12:1)。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2023年9月3日日曜日

礼拝メッセージ「この道を行く」

2023年9月3日(日)聖霊降臨後第14主日 

エレミヤ書:15章15〜21 

ローマの信徒への手紙:12章9〜21 

マタイによる福音書:16章21〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週の福音箇所で私たちはペトロへの主の言葉を聞きました。「あなたは幸いだ。・・・あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」これは、他の11人の弟子たちの前で、直接にペトロに語られたものですから、彼にとって生涯忘れることのできない出来事になったに違いありません。

 漁師だったペトロは、ガリラヤ湖のほとりで主イエスに声をかけられて、共に暮す父親も食べてゆくための漁師の仕事も全てを後に残して主イエスに従ってきました。ですから、ペトロにしてみれば、主イエスが弟子たちの中で自分を一番の弟子として選んでくださったということはどんなにか嬉しく、誇らしかったことかと想像できます。

 21節に「この時から」とあるように、この出来事の後、主イエスはご自分が苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに受難予告をし始めました。この「受難予告」は主の特別な予知能力によるものだと考える必要はないと思います。

 ファリサイ派や律法学者たちは、主イエスが弱い立場の人々の側に立ち、また差別せずに人々に神の愛を説き明かしていることを、自分たち宗教指導者の立場や優位性を脅かすものとして苦々しく思い、また憎しみを増していることをよく分かっておられました。

 ですから、旧約聖書の時代に、神の御心を告げた預言者たちがイスラエル社会のエリートたちから憎まれて殺されたように、ご自分も彼らから迫害されて殺されることは避けられないと予測できたでしょう。

 にもかかわらず、主イエスは自分の身を守るために、これまでの歩みを変えるということはありませんでした。最後まで、父である神への信頼と神の子であるすべての人への愛を貫きます。「たとえ受難と死が待ち受けていたとしても、この道を行く」、十字架に向かうイエスの決断とはそういうものだったと思います。

 21節の「・・・することになっている」という言葉の元のギリシア語は「デイdei」という語で、決定的な意味を持っています。この語は必然的に起こることを表すだけでなく、それが神の定めたこと(神の計画)だということを表す言葉だからです。ですから、この語から主イエスが、ご自分の受難と死と復活が神のご計画であることを確信しておられたことが分かるのです。

 ペトロは主が苦しみを受けて殺されると聞くやいなや、主を引っ張って行って「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と面と向かっていさめます。ペトロは他の弟子たちの思いも代表してこう言っているのです。

 弟子たちは主イエスが、メシア、救い主であると信じています。しかし、民衆と同様に弟子たちは「メシア」は政治的なメシアで、大国の支配下で虐げられてきたユダヤ民族を抑圧から救い出してくれるメシアとして理解していました。ですから、弟子たちは「苦しむメシア」「弱々しいメシア」を受け入れられるはずはありませんでした。ペトロの言葉と態度はそういう彼らのメシア理解から生まれたものです。

 すると主イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4:10)を思わせるような厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」と言われる主イエスは天の父なる神のみ心に沿って、十字架に向かって歩んでいます。その歩みを邪魔することは、主イエスの生涯の最も本質的なことである、人類を救おうとする神の業を妨げることになります。それこそがサタンの業です。ですから主イエスの十字架への歩みの前に立ちふさがるペトロを、主イエスがサタン呼ばわりしたのは当然のことです。

 私たちもまた、人を神から引き離そうとする力、サタンの力が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

 受難予告の後、主イエスはご自分の受難と復活の道に従うよう、弟子たちを招きます。主が私たちに語る「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」(24)とはどういうことでしょうか。当時、十字架刑の死刑囚は見せしめのために十字架の木をかついで街中を歩かされました。そこから考えると「十字架を負う」とは「苦しみや死」よりも「辱めを受ける」という意味が強いのかもしれません。

 いずれにせよ、私たちにとってそれは何を意味するのでしょうか。「自分を捨てる」ということを文字通り受けとって、殉教すること、また隣人のために自分の命を犠牲にするとも考えられます。また、「自分を捨てる」ということを自己中心的に握りしめている願いを手放す事だという受け取り方もあります。お互いの考えを話し合えるといいですね。

 ところで、ある牧師によるこういう祈りに出会いました。

 「十字架の主よ、あなたが私たち一人ひとりに与えられた十字架は、たとえ小さく見えようとも、それから目を逸らさなければ、実は重く、大きく、負いきれないほどのものです。しかし、私たちのためにご自身の命を棄ててくださったお方の故にそれを背負い、あなたに従って行くことができます。あなたの軛を負わせてください」。

 この祈りで気づいたのですが、実は、私たちはそれぞれすでに十字架を与えられていて、それを負っているんですね。十字架、それは私たちの人生そのものです。私たちの人生は多くの場合、人々から注目されるような華々しいものではなく、ごく平凡です。私たちは決して世間からもてはやされるようなスターではありません。毎日を妻として夫として、子供として、親として、職場で、家庭で、地域で生きている。けれどもそんな私たちの人生は、生きてゆく上で決して、たやすくはないです。それが、この祈りの「十字架の主よ、あなたが私たち一人ひとりに与えられた十字架は、たとえ小さく見えようとも、それから目を逸らさなければ、実は重く、大きく、負いきれないほどのものです」ということではないでしょうか。

 そして、祈りはこう続きます。「しかし、私たちのためにご自身の命を棄ててくださったお方の故にそれを背負い、あなたに従って行くことができます。あなたの軛を負わせてください」。最後の「あなたの軛を負わせてください」という言葉でもう一つ気づきました。「私の十字架は、実は自分だけが負っているものではない。主がすでに担ってくださっているものであり、軛のように、主と共に負わせてもらうものなのだ」ということです。重荷であれ、辱めであれ、主が共に負ってくださるのです。私たちは主に導かれて、死を超える命に向かって、永遠の命に向かって主と一緒に歩めるのです。

 第一朗読で、主に不平を言う預言者エレミヤに、主なる神はこう言われます。19節「もしあなたが立ち帰るならば/私はあなたを立ち帰らせ/あなたは私の前に立つ」。20節「私があなたと共にいてあなたを救い/助け出す」。21節「私はあなたを悪人の手から助け出し/凶暴な者の手から贖う」。あなたの人生そのものが、あなたの十字架です。主は必ずあなたを助けて下さいます。だから人生を投げ出さず、しっかりと背負っていける。主が共にいてくださり、必ず贖ってくださるからです。

 最後に第二朗読で、パウロが、信仰者が自分の十字架を負うということは、日々どのような信仰と祈りをもって生きていくことなのかを言葉にしてくれていますので、パウロを通して語られる主の言葉を共に味わい、聖霊の力と助けを頂きたいと願います。ローマの信徒への手紙12章9節から21節を声に出して、ご一緒に読みましょう。

12:9  愛には偽りがあってはなりません。悪を退け、善に親しみ、

12:10 兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、

12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

12:12 希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈り、

12:13 聖なる者たちに必要なものを分かち、旅人をもてなすよう努めなさい。

12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。

12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません。

12:17 誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。

12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい。

12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。(申32:35、詩94:1)

12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン