2023年7月30日日曜日

礼拝メッセージ「天の国は」

 2023年07月30日(日)聖霊降臨後第9主日  岡村博雅

列王記上:3章5〜12 

ローマの信徒への手紙:8章26〜39 

マタイによる福音書:13章31〜33、44〜52

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所は、マタイ13章1節から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分です。13章のたとえは、主イエスのもとに集まってきた、まだ「天の国」とはどのようなものかに気づいていない人々が、主から「天の国」のたとえ話を聞きながら次第に「天の国」についての気づきを深めていくプロセスを描いています。

主イエスは神の国(天の国)はもうあなたがたのところに来ていると言われますが、私たちも主のたとえ話によって天の国(天の国と神の国は同じ意味です)への理解を深めたいと願います。

 まずからし種とパン種のたとえですが、「からし種」は直径1~2ミリのごく小さな種です。それが成長すると鳥が巣を作れるほどの3~4メートルの木になります。主は、天の国は、からし種のように、初めはごく小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになると語りました。

 主イエスはつねに批判や疑問に晒されていました。当時の人々にとって、主イエスの天の国(神の国)というメッセージは、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるというようなメッセージに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、主イエスの周りに集まった人々はみすぼらしく、弱々しく、ローマ帝国を打ち負かすような神の国からは程遠いと感じられたことでしょう。しかし、主イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。

 そして「パン種」(イースト菌)、これも同じ意味のたとえ話です。パン種をパン粉に入れれば、発酵作用によってパン全体が大きく膨れます。「主イエスの周りに集まる小さな、弱々しく見える人々の集いは、社会全体を神の国に変えていくパン種だ」というわけです。

 このように主イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神、全ての源である神への信頼を求めているのです。

 このたとえ話を読んでいると、主イエスがきっとよく通る声で「あなたがたは、からし種だ!」、「あなたがたはパン種だ!」とにニコニコとたのしそうに話される姿が思い浮かんできます。

 つぎの3つのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。「畑に隠されていた宝」と「真珠」(天然真珠は当時ペルシャ湾やアラビア海沿岸でよく産出した)のたとえ話はよく似ています。この2つの宝のたとえ話では、「天の国」という宝を見つけたら、その人は「持ち物をすっかり売り払ってでも、それを買う」といいます。つまり「天の国」は人間にとって最高の宝だから、あなたがたは何にもまして「天の国」を求めなければならない、と教えているように受け取れます。他の解釈は可能でしょうか。

 それにしても、私たちにとって本当の宝とはなんでしょうか。 すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか。

 最初のたとえでは、当時の決まりが背景にあります。当時は貴重品を土の中に蓄えておくのは最も安全なこととされていました。また、土の中にお金や貴重品を見つけた場合、見つけた人がその拾得物の権利を持つとされていました。

 主イエスはこんな問いかけをしたのだと想像します。ある小作人が、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見した。(その宝を持ち帰ってよいのに)彼は、宝は隠したままで、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、畑そのものを手に入れた。それはなぜだと思うか。主はそのように問いかけたかもしれません。

 「畑」を自分自身のたとえだとすると、彼が見つけた「畑に隠された宝」とは、自分自身のうちに隠されていた宝だったとなります。だとすると、それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れたことになります。彼はもはや小作人にとどまっているのではなく、主体的に生きる、自立した農民になることに目覚めて、それを全てをかけて実現したということです。

 別の解釈も考えられます。それは「畑に隠された宝」や「真珠」を私たち人間のことだと受け取ることです。ちなみに、47節以下の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が漁をする魚です。人間が神を求めるよりも、神のほうが私たちを探し求めている、そう考えてみるとまったく別の面が見えてきます。

 このように考えた場合、「持ち物をすべて売り払って」というところも別なニュアンスを持つことになります。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした。それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)、「主イエスは私たちのために命をささげてくださった」ということを連想させます。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にないことです。

 この漁のたとえですが、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。福音記者マタイは「救いの歴史」というものを念頭にしていたと言われます。それはまず、「旧約時代の律法や預言」が現れ、次に主イエスによる救いが実現し、教会の時代となり、最後に世の終わりの裁きがある」というものです。

 このマタイ的な解釈の部分を取り除くと、本来のたとえは47節「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけだったとなります。そうだとすれば「神がどんな人をも招いている」、というところにこのたとえのポイントがあることになります。

 49節以下では、世の終わりについて言われますが、このことは今の私たちにとってどんな意味があるでしょうか?カルト宗教は、終末の裁きを悪用して、人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールしようとします。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。

 神の判断では何が「良し」とされるのかを明確に示して、その神の判断にかなう生き方をするように私たちに決断を迫るメッセージです。すべての人が招かれている、と同時に、だれもがその招きにふさわしく応えるかどうかが問われるということです。主イエスの福音にはこの2つの面があり、両方とも欠かせません。

 51節の「天の国のことを学んだ学者」とは、主イエスが語る天の国の教えをよく理解した弟子たちへの褒め言葉です。そして、それがすべての弟子のあるべき姿だというのです。

 続く52節の「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はもちろん、主イエスご自身のことでしょう。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとは主イエスによってもたらされた天の国の福音と考えることができます。私たちはこの主イエスに「似ている」というのです。

 最後に今日の第一朗読と第二朗読に触れます。そこには聖書の登場人物がいったい何を一番大事にしようとうとしたのか、何がその人の宝なのかが書かれていると思います。

 第一朗読の列王記3章では、ソロモンが父ダビデから国を受け継ぎますが、彼は自分が取るに足らない若者だということが分かっていて、それについて主なる神と対話しています。すると神が「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と述べます。「知恵に満ちた賢明な心」というものが、ソロモンにとって一番の宝だったことがわかります。

 第二朗読のパウロのローマの信徒への手紙8章では8:29「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」とあります。

 神は私たちを招き、私たちはイエス・キリストの兄弟になっていく。そして義とされる。罪人がキリストの十字架によって救われ、義人とされる。この義というもの、これがパウロにとって最も大切な宝なのだと思います。

 神は、必ず私たち一人ひとりの中に素晴らしい宝物を与えてくださいます。それはなんでしょうか。それが主イエスであり、永遠の命の約束であるなら、もしも本気でその宝を受け取ることができるとすれば、それはどれほど大きな恵みでしょうか!

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年7月23日日曜日

礼拝メッセージ「終わりよければ」

 2023年07月23日(日) 聖霊降臨後第8主日

イザヤ書:44章6〜8 

ローマの信徒への手紙:8章12〜25 

マタイによる福音書:13章24〜30、36〜43

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイ福音書13章には天の国(=神の国)のたとえが集められています。今日の箇所は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続いて、主イエスは終わりの日における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に私たちの目をむけさせていると考えてよいのではないかと思います。

 今日の箇所で、主イエスは「毒麦を、そのままにしておきなさい」とおっしゃいます。この優しさは福音だなあと、ホッとします。

 確かに毒麦にたとえられるような悪い人はいない方がいいに決まっていますけれども、この世の中から悪い人を一人、また一人とすべて取り除いていったら、はたして誰か残る人はいるでしょうか。もはや誰一人いないでしょう。私たちはだれも、神の前には相当な毒麦ですが、天の父は、そんな私たちを忍耐して、育ててくださっています。私はそこに感動しますし、感謝します。

 植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、主イエスが「毒麦」を「罪人」の意味でたとえておられるなら、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってありえます。これは単なる寛容の教えではなく、ここに、誰をも切り捨てない神の国のあり方が示され、主イエスご自身の生きた姿が感じられます。

 主イエスはこのたとえを通して、「そんな毒麦だらけの畑を、天の父は、ちゃんと最後には良い畑に変えてくださる」とおっしゃっているのです。終わりよければ・・・と思った次第です。私たちはそこに希望を置いて、信頼を置いて、毒いっぱいの世の中を、助け合って生きていきましょう。みんなで信じあって、「どんな毒でも、最後には良いものに変える」という神の働きのお手伝いを、少しでもやってまいりましょう。

 私は、自分の中に毒がいっぱいあるのを、よく知っています。先週のローマ書7章でパウロは自己分析をして、「私の五体の内は罪の法則のとりこになっている」(23)。「私はなんと惨めな人間だろう」(24)と告白しています。私たちは子どものころからずっといろんな毒を持っているし、その毒を使わないことはできたとしても、いくら努力してもそれを無くしてしまうことはできません。

 私の場合、もういろいろな方に助けていただいてなんとかやっていますが、すまない気持ちがあるのに、すぐに忘れてしまうとか、やるべきことがなかなかできないとか、皆さんからの寛容と忍耐に日々感謝すること抜きには暮らせません。

 ところで「教会」という場所について思いますが、教会の外の人から見れば、教会は善良な人たちの集まりで、つまり良い麦ばかりで何の問題もない理想的な場所だと思われているようですが、その実はお互いが毒をはらんでいながらも、一緒に育っていくところであり、やがては良い麦畑に変えられていく所です。だからそのことを信じて、お互いを大切にして受け入れ合っていく。完璧ではないけれど、そんな麦畑として存在していると思います。だからこそ、教会は神の国のしるしになりうるのでしょう。

 第1朗読のイザヤ書44章8節で神は「わたしをおいて神があろうか、岩があろうか」と、私を頼りにしなさいとおっしゃり、あなた方はわたしの証人として「恐れるな、おびえるな」と言っておられますね。そんなふうに神は人間を愛おしむ方だとわかります。

 一方、毒麦のたとえの説明の箇所(13:36〜43)では、終わりの日には裁きがある、だから、それに備えなさいと言われています。この部分は後世の教会の考えも入っている箇所だとも言われますが、こうした箇所を黙想するなかで、私にはマタイ5章48節で主が、「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」と言っておられることが浮かんできて、それを思い巡らしました。

 神は、「初めであり終わりである」(イザヤ44:6)とおっしゃるように、いわば100パーセントの方ですね。神は「すべて」であり、神にあっては「だいたい」ということがありません。

 しかし私たち人間はそこそこの存在です。毒をはらんでいますから100パーセントというわけにはいきません。でも神には私たちが毒をはらんでいることを認めていただいて、存在することを認めていただいています。

 心の内のことで言うなら、人間が神の前に100点で人生の締めくくりを迎えるなんて無理でしょう。卓越していると言われるような人でも10点くらいは毒なんだと思います。誰でもがそうですから、その足りない10点を裁き合ったら、誰も存在し得ません。

 私たちは100点でありたいと自分でも願うし、100点であってほしいと、人にも願いますけれど、80点くらいで、お互いになんとかやっていくというのが、神の国への道なんじゃないでしょうか。やがては神が、100点にしてくださるから、後の、この10点、20点くらいは、やり切れないままでもいいよと、「そのまんまでもいいよ」ということじゃないでしょうか。

 神は私たちの世界によい種をまき、その成長をいつくしみと忍耐をもって見守っておられます。だから、主イエスは愛をもって私たちの高慢をとがめ、寛容をもって私たちを裁き、深い憐れみをもって私たちを治めてくださるのです。そうして私たちに希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになるのです。私たちは、まだまだ毒だらけで、易きに流れがちですから、主はあなたがたは「完全な者をめざしなさい」と心を高くあげるようにと諭してくださるのです。

 神は私たちのような、不十分な者を神の子として、「忍耐をもって」、大切に「見守って」くださいます。そのまなざしの中で、私たちはようやく生き延びているのではないでしょうか。お互いにそうだと思います。

 そういう私たちが招かれている私たちの教会はそのように、「忍耐をもって大切にし続ける」という神の国そのものです。そうあり続けましょう。

 「100でない者は、終わりだ」と裁くような世の中ですけれども、私たちは、神の愛のしるしになれます。なにか「立派な愛のわざ」を行うと言うより、「寛容に受け入れるわざ」「忍耐し続けるわざ」に励むと言うほうが、より、神を表すしるしになるんじゃないでしょうか。私たちはそういう教会をイメージしながら希望を持ってやっていきたいと思います。

 この毒麦のたとえで、しもべたちが、「抜きましょう、抜きましょう」と言いますけれど、もし本当にその毒麦を抜いてしまうと、つまりもし神が毒麦を「抜く」と決心なさると、この私はもう存在しないんだということ、この事実は、やはり忘れないようにしたいものです。

 高慢な者を神はいさめられます。私たちは自分の力で存在しているのではないですね。神の忍耐によって存在している。「こんなに毒でありながらも」という、その神の恩というのか、その忍耐への感謝というのか、それをやはり、決して忘れずに、「だからもう、このあと20点くらいは、この人のここをゆるそう」とか、「受け入れよう」とか、そういう思いを大切にしたいですね。

 それができるのだということを、第2朗読で、パウロが言っています。「私はなんと惨めな人間だろう」と自分自身に絶望したパウロが、しかし、確かな希望の光をみつけて、この私を救ってくださる「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(7:25)と述べています。

 そしてこのローマ書8章の箇所では、自分の力や努力によっては弱い自分はどうにもならないと一度は絶望したパウロが、人を助け、道を開いてくださる霊の助けがある。神の聖霊の助けによって救われる確かな希望があるということを宣言しています。

 皆さん、ローマ書8章26節を見てください。「“霊”は、弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」とあります。 

 これは実にありがたいですね。弱い私たちは、もう、どう祈るかも分からなくなる。時には、毒に満ち満ちているような心になったりしているけれども、そんな私たちのことを、どこまでも承知の上で、“霊”は、私たちの内に宿ってくださる。一所懸命に、神に祈って、執り成してくださっている。こちらがそのことに気付いていなくてもです。この聖霊の忍耐と寛容、ありがたいです。本当にありがたいです。そのおかげで今日までやってこられたし、そのおかげで、これからもやっていけると思うからです。私たちは聖霊の助けによって終わりの日まで本当に安心です。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年7月16日日曜日

礼拝メッセージ「降り注ぐ恵み」

 2023年07月16日(日)聖霊降臨後第7主日  岡村博雅

イザヤ書:55章10〜13 

ローマの信徒への手紙:8章1〜11 

マタイによる福音書:13章1〜9、18〜23

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週の福音の箇所はマタイ11章の最後の部分でした。マタイ12章は主日の礼拝の朗読配分では省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどの主イエスの活動と、それに対する人々の様々な反応が伝えられています。主イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(=神の国)は力強く成長しているということを語るのが今日の13章のたとえ話のテーマです。

 さて主イエスが、種蒔きのたとえを話してくださいました。「天の国は必ず実現する」という、そういう内容です。主イエスが語る当時のパレスチナ地方の種まきの仕方は、日本で目にするものとは随分違いますね。日本の種まきのやり方は、まず畑をしっかり耕して、土を均して、良い土地にしてから適切な間隔で小さい穴を開けて、そこに種を落として、土を被せる。大体そんな感じでしょうか。つまり、良い土づくり、良い畑作りこそがポイントだということでしょう。

 一方パレスチナでは日本のやり方とは全く違っています。まずは耕す前の土地に、一面に種を蒔いてしまいます。それからその土地を種もろとも深く掘り起こすように耕していきます。ですから、農夫が種を蒔くときには石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので気にせず、ぱっぱっぱと種を撒いてゆきます。日本のやり方が、丁寧で細やかというなら、パレスチナのやり方はどうでしょう、力まかせで大雑把というか、おおらかというか、ともかくずいぶん違います。

 では、この違いはどこから来るのかといえば、パレスチナでは日差しが強く、土を掘り起こしながら同時に種を地中深くに入れなければ種がすぐに干上がって死んでしまうからだそうです。確かにこういう種まきは一見、無駄が多そうです。しかし、ここではこういう蒔き方をすることで最終的には豊かな実りがもたらされるのだそうです。

 つまりは、土を深く掘り起こしながら、どの種もしっかりと土の奥深くに入れ込む、そういう作業をする農夫にとって、表面が多少固くても、石ころがまざっても、茨が生えていても、そんな難のある土地でも実りをもたらす良い土地だということになります。

 だとすると、主イエスによる本来のこのたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が手入れの行き届いた質の良い土地かどうかではなく、むしろ、そこから大きな収穫があることを信じて、希望を持って、忍耐して種を蒔く人のほうにあると言えそうです。

 日本の私たちからすれば、とにかく種をどんどんばら蒔く、このパレスチナ流は、なんだか、なかなか伸びないような種もあるようにも見えるわけす。でも、これで全体として豊かな収穫が得られる。主イエスのこの譬え話を聞いたパレスチナの民衆は、このことをよく知っていますから「イエス様、おっしゃるとおりです」と、「神さまがよく耕してくださるからどんな土地もよい畑に変わるんですね」。「だから豊かな実りがあるんですね」とよく分かったと思います。こういう主イエス話、福音を聴いた人達がホッとして、心の重荷をおろせた。そんなことからキリスト教が始まっていったのだと思います。

 今日の旧約日課イザヤ書55章10節に「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない」とあります。最近の集中豪雨や外国での干ばつ被害は人間の仕業の結果ですが、本来、ひとたび、神さまから恵みの雨が注がれたら、それは、何の目的も達せずに、むなしく流れ去ることはないはずです。必ず、「大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、糧を与える」。「それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず・ ・果たす」とある通りです。11節に「必ず果たす」と書いてあります。これは神の約束です。だから神が「必ず」と言えば、「必ず」そうなります。

 主イエスはこの「必ず」を信じて、種をまき続けてくださっているのです。私はこんな話を想像します。「天の父は、ご自分の愛を、みんなに与え続けている。それは、むなしくは天に帰らない。必ずみんなを救う。もちろん現実には、つらいことがあるように見えるけれど、それも含めて、ぜんぶ、神はちゃんと良いものに変えて、「必ず」実りをもたされる。今日も、明日も、どんなに暗い現場にも惜しみなく、愛と恵みを与え続けておられる。主はそんな解き明かしもされたことでしょう。

 人々がそれまで、神殿や会堂で聞いてきた教えは、「律法に従って正しく生きよ」でした。ですから「お前たちは、罪びとだ」「お前たちは、もっと正しく生きなければ救われない」「お前たちは、神から呪われた者たちだ」と、そんな話ばかりに違いありません。

 だから自分はだめなんじゃないかとつらい思いに沈んでいたと思います。否定的なことを言われ続けるのは本当につらい。生きるのをやめようと、そんな思いにもなりますね。

 でも、主イエスは、「神は、すべての人に、惜しみなく、種を蒔き続けておられる。愛と恵みを与え続けておられる」「あなたたちは、いまや、みんな神の国の住民だ」「喜べ、もうここに、天の国は始まっている!」と愛を込めて、おおらかに、しっかりと目を見て本心から宣言してくださるわけです。

 私たちにしても、このたとえをはじめて読んだときに、私は良い土地だろうかと思うわけですね。いっとき主の教えに感動してもすぐ心変わりする私は、道端に蒔かれた種にちがいない。俺だって同じさ、よしと始めてもすぐにグラグラし始める。僕はさしずめ石だらけの所に蒔かれた種だ。甘い誘惑にすぐ心が向くんだから。私は茨の中に蒔かれた種ね。多かれ少なかれ、正直に自分を顧みれば誰もがそんなことを思うのではないでしょうか。

 しかし、主イエスの種を蒔く人の譬えをきいた人々は、農夫達の種の蒔き方と土の掘り起こしを思い描いて、心から安心できたと思います。そうだ!「お前は良い土地じゃない」と、そんな言葉におびえなくていいんだ。道端でも、石ころだらけでも、茨が生えてたっていい。そこに種がまかれても大丈夫だ。農夫である神がしっかりと深くまで耕してくださる。日に焼かれて干からびないよう土深くに種を埋め込んでくださる。イエス様ありがとうございます。譬えを聞いて、大丈夫だって、安心しましたと人々のそんな姿が目に浮かびます。「福音を告げるというのは、人を安心させることだ」と。「福音を聞くというのは安心することなんだ」とあらためて思います。

 第二朗読ではパウロのローマの信徒への手紙8章の初めのところが読まれました。ここでのテーマは「神の霊によって歩む」ということです。5節に「霊に従って歩む者は」とあるとおり、パウロは5節からは神の霊(聖霊)に従って歩むことについて語ります。6節「霊の思いは命と平和である」、9節「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」。11節「もし、神の霊(聖霊)が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた神は、あなたがたの内に宿っている神の霊(聖霊)によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。

 パウロは非常に理知的であり、神学的ですが、同時に霊的なこと神秘的なことを大切にしています。私たちはすぐパウロの言う「肉」に従って、「神はホントにおられるのか」とか、「私は何のために生まれてきたのか」とか、「この苦しみに何の意味があるのか」とか、頭の中でいろいろ考えますけれども、そういう「考え」ではなくて、パウロは「霊に従うように」ということを言っています。また、主イエスは「祈るように」とおっしゃいます。「祈る」のも「聖なる霊に従う」のもどちらも神につながる道ですね。

 ある神学者がこう言っているのを知り、そうかと納得しました。「私たちの心が憧れているのは、神を証明することではなくて、神を見ることだ。神のうちに安らぐことだ。私たちは、それを求めている」と。

 ただ神を仰ぎ見て、神さまからあふれてくる、その恵みの中で「安らぐ」こと。これが、私たちの本当の生きる目的ではないかというのです。証明するの、しないのをはるかに超えた、神さまとの触れ合い。これこそが大事です。

 今年も暑い夏が始まりましたが、なんとか皆で乗り切りましょう。いろいろ、つらいこともありますけれども、それもすべて、神さまの恵みのうちです。今日も、天の父は惜しみなく、ご自分の恵みを無数の種のように、天からの雨のように、注ぎ続けています。安心して、神さまを仰ぎ見ることといたしましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年7月9日日曜日

礼拝メッセージ「安らぎを得る」

 2023年07月09日(日)聖霊降臨後第6主日  岡村博雅

ゼカリヤ書:9章9〜12 

ローマの信徒への手紙:7章15〜25 

マタイによる福音書:11章16〜19、25〜30

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

   今日の福音箇所では洗礼者ヨハネや主イエスを受け入れなかった人々のことが語られています。いつの時代もと言えるかもしれませんが、当時、主イエスを受け入れた人々と受け入れなかった人々がありました。そのような中でも、主イエスは祈り、人々を分け隔てなく招いておられます。今日は主によるこの大きな招きをご一緒に味わいたいと願います。

 マタイは25節で「知恵ある者や賢い者」が主イエスを受け入れなかった人達で「幼子のような者」が主イエスを受け入れた人達だと言います。当時の知恵や賢さは律法に関する知識を意味していましたから、イエスを受け入れなかった者とは世間で評価されているファリサイ派のような人であり、一方「幼子」とは無知な者や無能力者のことを指しますから、「幼子のような者」とは貧しく無学な民衆のことを指しています。つまりマタイは世間的な評価を受けない人々こそが主イエスを受け入れたと言うのです。

当時の人々は罪人(ざいにん)として処刑されて終わった主イエスの活動は人間的には失敗だったとみなしたかもしれません。しかし、主は人の評価ではなく、神の意志の実現を見すえておられました。

「天地の主である父よ、・・・」という主イエスの柔和でへりくだった祈りは主キリストが屠り場に引かれていく子羊のように自分の運命を自ら受け取っていく、十字架を担っていくという、そういう姿を現していると思います。

27節で「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と言われていますが、この言葉はヨハネ福音書の「わたしを見た者は、父を見たのである」(14:9)という言葉とも重なっていると思います。

また「子が示そうと思う者」という言葉は、主イエスご自身の思いが何よりも「幼子のような」と言われる貧しくて無力ながら救いを求めている民衆に向けられていたということを示しています。主は祈りの中で彼らへの神の思いを見いだし確信していたのです。

28-30節はこの慈しみあふれる「幼子のような者」への祈りとその中で得た神の思いへの確信に基づいて、主はこの私たちにも、全ての人に対しても呼びかけています。

「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉と思いに感動します。そしてこう言いたいです。皆さん、主のことばに癒やされてください。どうぞ「ほっ」としてください。今抱えておられる重荷をおろしてほっとすることを現代の私たちはどれほど必要としていることでしょうか。

しかしおいそれとその重荷を放り出すわけにはいきません。ですから、今の状況をなおも生き抜いていくために「わたしの軛を負いなさい」と主はおっしゃいます。あなたが背負っているあなたの十字架を拒まずに負いなさい。そして私にも共に担わせてくださいと主はおっしゃいます。私もあなたの軛を負うのだから、あなたの重荷は軽くなる。必ず神の知恵が与えられる。神の助けがあると信じて、さあ、まず魂において、その重荷を私に委ねなさいとおっしゃいます。きっと「ほっ」となさるでしょう。

私は先週、「もう死んでしまいたくなる」と嘆きながら、それでも懸命に重荷に堪えて、日々の歩みを進めておられる方のお話を伺いました。状況は複雑で、話を伺ったからと言ってこれといった解決はまだ何も見えませんが、「休ませてあげよう」という主の救いのことばにより頼んでご一緒に祈りました。

そして私は「休ませてあげよう」という主の言葉を信じて、主が共に負ってくださるのだから、大丈夫と信じて、きっとその方の軛は軽くなると信じて、主による希望をもって、今日も祈り続けています。

さて第一朗読の箇所では「あなたの王が来る」と「平和の王」の到来が告げられていますが、9章9節にその方は「神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る」とあります。

この「高ぶることなく」と訳されたヘブライ語の「アナウ」は、もとは「身をかがめ小さくなっている人の様子を表す」のだそうです。ですからこの語は経済的に圧迫されていたり、人から虐げられて苦しんでいる人という意味で「貧しい人」と訳されることが多いそうです。

マタイ11章29節に「わたしは柔和で謙遜な者だから」とある「柔和」はこの「高ぶらない者」というザカリヤの預言につながります。

そして「謙遜」と訳された語は直訳すれば「心において身分が低い人」となるそうです。これも「身分が低い」「小さくなっている」という意味です。

こうしてみると主が「わたしは柔和で謙遜な者だ」とおっしゃるのは、つまり主ご自身が「わたしは柔和で謙遜だ、高ぶらず、貧しく、小さくなっている者だ」と言っていると受け取ることができます。そしてこれはゼカリヤ書が告げる「神に従う平和の王」の姿に、人類の本当の指導者の姿に重なるものです。

なりふりから威圧されず、自分たちの仲間だと親しみを感じる主イエスから「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という招きの言葉を聞いた小さくされてきた人々は、安心して主イエスに近づくことができたのではないでしょうか。

当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいましたが、そういうラビの弟子になるのは難しいことでした。しかし主イエスの弟子になるのには何の備えもいりません。「わたしに学びなさい」、「わたしの弟子になりなさい」と、主は父なる神の慈しみに満たされて、疲れた人、重荷を負う人、また貧しく身分の低い人々を心から招かれました。

最後に第2朗読のローマ書7章を見ておきたいと思います。パウロは6章までは誰もが陥る罪の問題を描写しましたが、7章では主キリストを信じる自分自身の恥部をえぐり出します。主キリストによって犯した罪を赦されて、さらに罪を潔められる段階に達しようとするキリスト者としてのパウロが自分の目に写った自分自身の罪の姿を自己分析しながら描写しています。

ある説教者はこの文章を読むと、まるで精神分析の文章のようで、現代の我々も、これほど精密な自己分析はなし得ないのではないかと思うと言います。パウロは「善を望んでいる私の中に、それを阻むもうひとりの私がいる。それこそがわたしの中に住んでいる罪なのだ」と言います。

つまりパウロの自己が自分の中で分裂しています。自己が一本になっていない。そしてこれはわたしたちが胸に手をあてて考えるときに、どうしても認めざるを得ない、思いあたる節があることではないでしょうか。自分の中にいるもうひとりの自分が、頭をもたげて、キリスト者の自分が望まないことを考えたりしたりするわけです。

キリスト者のパウロは自己分析をして「善をなそうと望む自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づく」と言います。「内なる人」としては神の律法を喜んでいるが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かると告白します。

ここまで追い込まれると、とても人間の努力などでは乗り切れないということがわかります。そして24節で彼は誰はばかることなく苦悶します。「わたしはなんと惨めな人間なのだろう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか」と。

このみじめな人間が、今救いを求めてイエス・キリストに呼ばわっているというのが七章の結末です。しかし嘆いて終わるのでなく、続く8章で、パウロは私達の内に宿っている神の霊に基づいて生きるという大きな希望について語ります。

キリスト者としてパウロは神学的に語りますが、福音書の主イエスは恵みと慰めに満ちて「休ませてあげよう」と神の親心の愛と憐れみを告げてくださいます。主イエスがおっしゃるとおり「休ませてあげよう」という言葉にとどまって、力んだりとか、無用なことに空回りするのでなくて、神が与えてくださる導きを、その慰めと安らかさをいつも拠り所にして、本当に大切なことを見極めて生きることができるようにお祈りしたいと思うしだいです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年7月2日日曜日

この五体、誰に献げん

 2023年7月2日 小田原教会 江藤直純牧師

エレミヤ28:5-9; ローマ6:12-23; マタイ10:40-42

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 今年の1月から6月までに4人の神学校の恩師や同僚を天に送りました。年明け早々に昨春卆寿を祝われた恩師が、その数日後にまだ60代の現役教師が、そして6月になってから立て続けに70代の隠退した先生方が相次いで天に召されました。3月にはまだ50歳の牧師が召されました。先々週は月曜日と土曜日に葬儀に列席しました。

 私もこの8月で後期高齢者に仲間入りするのですから親しい方の訃報を受け取ることが増えてもおかしくはないのですが、それにしてもこう続きますと、改めて死というものを考えさせられます。地上に生を享けた以上は、いつの日かはその終わりの日が来ることを覚悟しなければなりません。しかし、ただ死を覚悟するというだけでは十分ではないでしょう。「よく死ぬ」ということができることを願います。

 でも、「よく死ぬ」ということはどういうことでしょうか。やるべきことをやりおえてから、痛みも苦しみもなく穏やかに死ぬ、家族や親しい人たちにお礼を言ったり別れを告げたりしてから死ぬ、そういうことができればいいとは思います。思いますけれども、私たちは生まれてくる時も所も家族も自分では選べないように、死ぬ時も所も年齢も残す家族の状態も、さらには最後の引き金となる病気の種類も死までの段取りも自分では選ぶことはできません。事情が許せば納得のいく治療をしてくれる病院とかホスピスとかを選びたいという願望はありますし、自宅で家族と最後の時を楽しみたいという希望は持ちますが、これもいろいろと幸運が重ならないと願いどおりにはいきません。

 高齢になるまで生きることができても、生き甲斐でもあった読書をする視力がなくなっていき、大好きだった宗教音楽を聴く聴力が衰えた方もいらっしゃいます。まだまだ大きな働きが期待されていたのにガンに襲われて早く亡くなった方もいます。今もなおALSで長く寝たきりで自宅療養している友人もいます。人生の長さ、量も、生活の質も医療や福祉の助けを借りて最善を尽くそうとは思いますが、しかし、希望どおりにはいきません。視力や聴力の衰えも、ガンやALSに罹ることも、これらはどれも私たち人間が有限性を持つ体をもって生きるように造られていることから起こる事態です。人間には老化するようDNAに組み込まれていると言います。信心深く日々を過ごしても来るものは来るのです。健康には気をつけて暮らしますが、避けることのできない、受け入れるしかない現実です。そうなると「よく死ぬ」ということはむずかしい、あるいは無理なのでしょうか。

2.

 どのように死を受け容れるかということへの関心から死生学というものに興味を持つようになってから、いろいろと読んだり聞いたりしてきた中で、とても印象に残った言葉がいくつかありますが、その一つにこういう言葉がありました。それは「よく死ぬことはよく生きることだ」という言葉です。いつ、どこで、どうやって死ぬかということは選べません。ですから、どうやったら「よく死ねるか」とそればかりを考えてもダメなのです。そうではなく、「よく死ぬことはよく生きることだ」なのです。なるほどそうかもしれません。もちろんこれは簡単ではないでしょう。しかし、「よく死ぬ」ことと違って「よく生きる」ことはある程度までは私たちの意志や努力にかかっていると思われます。ですから、「よく死ぬ」ことはままならなくても、「よく生きる」ことは自分でどう生きるかを考え、選びながら造り出していける面があるでしょう。しかし、それで完全ではありません。

 生きるべきか死ぬべきか、生きるならどう生きるべきか、そのことは現代の私たちだけでなく、百年前にも千年前にも二千年前にもそう努めた人々はいたのです。きっとたくさんいたことでしょう。今朝、聴きました使徒書の日課を書いた使徒パウロもその一人でした。彼は親しいフィリピの信徒の人々への手紙の中でこうホンネを吐露しています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(フィリ1:21-24)

 苦しみと労多いこの世を去ってキリストと共にいることを選びたい、熱望している、その方がはるかに望ましいとまで正直に言います。しかしながら、実はもう一つの選択肢があり、迷いながらも、そちらは自分のためというよりも「あなたがたのために」必要なことだからと判断し、後者の道を選ぶのです。「生きる」ほうです。

 そうであるならば、その「生きる」道はどうしたら「よく生きる」道になるのでしょうか。そのことを考えるには大前提があります。大前提とは何か。それは、私の命とは、洗礼を受けたキリスト者であるこの私の命とはいったいどのようなものなのかということです。そのことを確認することから始めなければなりません。

 パウロにとって自分の命の本質は明らかでした。今から訪ねていこうとしているローマの信徒たちに向かって、使徒パウロは自分の信仰的確信を次のようにためらわずに、大胆に、披露するのです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:3-4)

 洗礼を受けたのは、自分のキリストへの熱い信仰を表明するためとか、教会という宗教団体に入会するための儀式だと思われがちです。たしかにその面はあります。しかし、肝心要のこと、洗礼によって「神さまとの関係で起きること」とは何か。端的に言えば、洗礼によってわたしたちが「キリスト・イエスに結ばれる」(3)ということです。それは取りも直さず「キリストの死にあずかる」(4)ことなのです。そして、それだけではなく、キリストが神によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた「新しい命を」、キリストの復活の命を、「生きる」(4)ようにされるということだと言うのです。

 このことはわたしたちが心理的にそう感じているかどうかという問題ではなく、神によって定められ与えられた「霊的な現実」(ボンヘッファー)なのです。わたしたちの「古い自分」(6)は、パウロ流の強い言葉で言えば、「罪の奴隷」(6)だったのです。言い換えれば、「罪に支配された体」(6)でした。創造主の創造の意図に背いた、自己本位の生き方をしていることが罪であり、そういう人間の在り方が罪の奴隷なのです。しかし、そういう「古い人間」は「キリストと共に十字架につけられ」(6)「キリストと共に死ぬ」(8)ことになりますが、そこにとどまりません。「死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことはなく」「死はもはやキリストを支配しません」(9)、そればかりかキリストが生きておられるのは「神に対して生きておられる」(10)のです。ですから、洗礼によって、キリストと結びつけられることによって、死ぬだけでなく、「復活の姿にあやかり」(5)「キリストと共に生きる」(8)ことこそがこの身に起きることだとパウロは言うのです。

 これが神の前でのわたしたち人間の実相なのです。洗礼によってこの身に起こされる現実なのです。それは霊的な現実です。だから、パウロはこう勧めます。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11)。それが今の洗礼を受けたわたしたちの命であり、これからのわたしたちの生き方であり、わたしたちが「よく生きる」ための大前提なのです。

3.

 「よく死ぬことはよく生きることだ」ということを実現するためには、この大前提、つまり、私が私流に一人で生きるのではなく、十字架と復活のキリストに合わされて生きること、キリストと共に十字架で罪に死に、キリストと共に復活させられる、そのように神が差し出してくださる「霊的現実」を受け容れ、そう信じて生きることです。

 50歳で召された友は、ガンの発見が遅れ、しかも原発の部位が直ぐには分からず、治療が難しく、最後の数ヶ月は食べ物を口からは摂ることもできず、お棺の中の顔はやせ細っていて痛ましいばかりでした。しかし、キリストの十字架による罪の赦しを信じ、キリストが与えてくださった復活の約束を信じて、最後まで自宅で家族と共に穏やかに、平和のうちに生き切ったと伺いました。病は酷く、その人生は平均寿命をはるかに下回るような短さでしたけれども、まさに「よく生きた」のです。ですから、彼はたしかに「よく死ぬことができた」のです。

 「よく生きること」を考えさせられるテレビドラマがあります。NHKの朝ドラ「らんまん」は植物学者牧野富太郎をモデルにした牧野万太郎という青年が主人公です。幼い頃から無類の植物好きで、由緒ある造り酒屋の当主になることを放棄して、植物学に専念します。このドラマの中で万太郎はよく草花に話しかけます。そして草花の在り方、生き方を言葉で表現します。わたしなどそれを聴くとハッとさせられるのです。草花はそれこそ数え切れない程多くの種類があります。大きさも大小さまざま、色も形も千差万別、目立つものもあれば地味なものもあり、よい香りのするものもあればそうでない匂いのするものもあり、日向に育つものも木陰にひっそりと生えているものもあります。しかし、万太郎に言わせれば、草花はどれ一つとってもあってもなくてもいいものなどはけっしてなく、一つひとつに生きている意味があるというのです。雑草などという草はないのです。だからどれにも固有の名前がありますし、ないといけないのです。言い換えれば、どれもが自分に与えられている遺伝子や性格や気候や環境やその他の生存条件をそのまま受け容れて、生きているというのです。わたしなどこの作者はクリスチャンではないかと思ったほどですが、友人の一人も全く同じことを言ったので驚きました。

 聖書的な表現をするならば、草花は創造主の御心に添って生きているのです。そして枯れるのです。だからその命が長かろうと短かろうと、華やかで美しくあろうとまるで地味だろうと、虫に食われようと、そのままで「よく生きる」し、「よく死ぬ」のです。

4.

 しかし、人間はそうはいきません。創造主がお与えになった生の諸条件だけでなく、創造主が望まれる命のありよう、生き方を、素直に、従順に、喜んで受容するということができません。むしろそれに背く、自己中心の生き方をついつい選んでしまいます。使徒パウロが次のように言っていることに耳を傾けましょう。「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」(12)。

 洗礼によって、キリストの十字架で罪から解放され、キリストの復活によって新しく神に対して生きるようになる、これが今私たちに与えられている生の条件です。ですから、「律法の下ではなく、恵みの下にいる」(14)し、「罪に仕える奴隷」としてではなく「神に従順に仕える奴隷」(16)となって、「汚れと不正の奴隷」としてではなく「義の奴隷」(19)となって、「神の奴隷」(22)として生きるようにされているのです。これこそが私たちに既に与えられている生きる条件であり、既に置かれている生きる環境なのです。奴隷という言葉がきついなら「僕」と言い直しても「子」と置き換えてもかまいません。私たちに望まれているのは「アーメン、はい、不束者ですが喜んでそうします」と応えることです。パウロが言う「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(6:13)との勧めに、「はい、キリストの助けによって、そうします」と応えることです。そのときに「よく生きる」ことが始まります。何の仕事をするか、どういう業績をあげるかは関係ありません。その結果「よく死ぬ」ことができ、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」(23)を賜るのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

礼拝メッセージ「喜んで受け入れる」

 2023年07月02日(日)聖霊降臨後第5主日 岡村博雅

エレミヤ書:28章5〜9 

ローマの信徒への手紙:6章12〜23 

マタイによる福音書:10章40〜42

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今読んでいただいた旧約日課のエレミヤ書28章には、主の言葉を忠実に伝える預言者エレミヤと偽預言者ハナンヤとの対決が記されています。エレミヤは、主の裁きの言葉は厳しいが、しかし今主の言葉に聞き従うなら命の道を進めると祭司や人々にせつせつと説きますが、彼らはエレミヤが伝える主の厳しい言葉に従うことを好まず、自分たちにとって心地よい言葉を語るハナンヤに従おうとします。ここには今日の福音となりうる一つのテーマが浮かび上がります。それは「どの声に従うのか」ということです。

 今日のローマ書6章でパウロが繰り返し語っている言葉に注目すると、それは「従う」、「仕える」という言葉と「奴隷」という言葉ではないかと思われます。一見すると「奴隷」「仕える」「従う」とは今の時代の自由を重んじる考えとは相反するのではないかと思われますが、今日はパウロの言わんとするところから福音を聞きたいと願います。

 16節でパウロはこう書いています。「 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」と。

 ここでパウロは私達がキリスト者として生きるという事を「声に従う」という一点において語っています。人間というのは必ず誰かの声に従っているとパウロは考えているわけです。勿論自分は主体的に判断していると言う人もあるでしょう。その場合、その人は実は自分の考え、つまり自分の脳が語る声に従って生きているということです。ですから、私たちは必ず誰かの声を聴き、その声に従って生きていると言えます。

 そして、その場合パウロはあなたに語りかける声はいろいろあるとは言いません。その声は二つだと考えています。その一つは最終的には「死へと誘う声」です。その声は死に至る、「罪の奴隷」に語りかける声だと言います。もう一つは「義に至る声」、人間として当然歩むべき義の道へと私たちを導いてくれる声、私たちが心から従うことを求める声です。パウロはこの二つの声のどちらかしかないと、ここではっきり言います。もちろん、私たちが従うべき声とは16節の「神に従順に仕える奴隷となって義に至る声」です。

 17節〜20節では、あなたがたは、かつては罪の奴隷だったが、今は「罪から解放された」、「罪から自由になった」と「自由」ということが強調されています。「自由」は奴隷という言葉に対して、すぐに対比されて出てくる言葉です。奴隷と束縛とはワンセットですが、それに対抗するのは、その束縛から解き放たれて自由になるということに違いありません。

 しかし、ここでパウロがはっきりと認めていることは、罪の奴隷である者は、義による歯止めがかからず、野放しである。つまり自由奔放に振る舞うということです。人が罪を犯す時、その人は神との関係からパッと解き放たれてしまっている。罪の奴隷となったその結果はどうなのか。21節であなた方が罪の奴隷であったときに、「どんな実りがあったか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うことであり、それらの行き着くところは、死にほかならない」とパウロは釘を刺します。

 さらに、パウロは22節で「救われるということは罪から自由になることである。そして罪から自由であるということは、神の奴隷になるということなのだ。あなたがたは、神の奴隷として、すなわち義の奴隷として、聖なる生活を送り、その実を結んでいる。そんな人生を送っているあなた方の行き着くところは、永遠の命なのだ」と義の奴隷として暮らすことの恵みと報いを言うのです。

 ここまで考えてきて、私たちはこう思うのではないでしょうか。「罪の奴隷」という言葉は分かる。確かに私たちはつい隣人を顧みることを怠り、自己中心に陥って罪の力の虜になってしまう。それはまさに罪の奴隷の姿だと言える。けれども、その一方の「義の奴隷」とは何だろうか。福音はその人に奴隷的な服従を強いないはずではないのか。そういう考えが湧いてきます。

 パウロはキリスト者の自由を声高らかに語る人です。本当はパウロも義の奴隷などという言葉を使いたくないと考えられます。けれども、人間の持つ弱さ、脆さを考慮すると、義の奴隷という表現を取らざるをえないのだと言えます。パウロが強調したいのは、自由ということよりも、むしろ自分から進んで服従するということだからです。

 使徒言行録20章2,3節の記述からパウロはギリシアに行く前に3ヶ月ほどコリントで過ごし、その間にこのローマの信徒への手紙を書いたと推測されています。

 パウロはコリントで伝道し、教会を建設しました。しかし、コリントの信徒の様子にパウロは悩まされました。そのために涙を流して書いた手紙がコリントの信徒への手紙だと言われます。こうした体験がこのローマ書6章の主張の背景にあると考えられます。

 パウロの悩みをひと言で言えば、コリント教会の人々が義に対して従順でなかったことです。彼らは今や自分たちは罪から解き放たれた。だから思うままに自由に生きてよい。そういう自由があると錯覚したのです。コリント書を読むと、買春をする信徒や、義理の母と関係を結んだ信徒が(一コリ5:1)言われています。また、礼拝や集会で勝手に喋りだして秩序を乱す者もいた。

 パウロはそうした悩みを包み隠さずに書き記しましたが、それはきっとパウロ自身の中にも弱さとの戦いがあったからです。パウロは別の箇所で自分の肉体を打ち叩いても(一コリ9:27)キリストに服従するための戦いをする。死ぬまでこの戦いを続けるのだと言っています。そういう戦いの中で、パウロは自由だと主張するだけでなく、自分から進んでキリストに服従する自由を得ていると言い続けます。信仰者たちに、共に従うべき声を聴いたではないか、その声を聴き続けて従い抜こうではないかと呼びかけています。

 17節に「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり」とあります。これは救いの鍵を示す言葉です。17節の「伝えられた教えの規範」とは何を意味するのか。それを明らかにしたいと思います。私は、それはペトロの手紙一の2章21節以下に明らかにされていると思います。

 主イエス・キリストについてです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。どうでしょうか。主の救いと慰めを語るこれ以上の文章はないと言ってもよいと思います。

 私たちが主のもとに立ち帰った時に、そこで自分が主の奴隷として生きることがよく分かるようになります。ただ主イエス・キリストに従う時にのみ、キリスト者の自由と服従とが一つになり、すばらしい喜びの世界が開けてきます。主キリストへの服従に生きることによってのみ、豊かな恵みに生きることができる。パウロはそのことを私たちに本当によく分かってもらいたいに違いありません。

 今日のマタイ福音書では12弟子を宣教に送り出すにあたって主イエスが告げた教えの最後の箇所が読まれました。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)とキリストの弟子を受け入れる人々への報いが語られています。私たち日本のキリスト者は社会の中で本当に少数派です。しかし、私たちがパウロ流に言えば主キリストの奴隷として生きようとするならば、必ず理解し、支援してくれる、キリスト者でない善意の人々とも出会うことができるということは私たちがどこかで経験していることでありましょう。

 最後にローマ書6章22節、23節に共にアーメンと言って終わりたいと思います。お読みします。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。アーメン

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン