2023年1月29日日曜日

礼拝メッセージ「励ましと希望の言葉」

 2023年1月29日(日)顕現後第4主日

ミカ書:6章1〜8 

コリントの信徒への手紙一:1章18〜31 

マタイによる福音書:5章1〜12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週金曜日にO姉妹の夫であるO兄のご葬儀が行われました。キリスト者でない方々がほとんどでしたが、主が共にあり、参列者の皆さんが、Oさんが神のみ元に召されたことを祈り願って、心を合わせてお送りくださいましたことを感謝します。

 今回もそうでしたが、ルーテル教会の葬儀では、ご遺体を送り出すときに牧師は今日の聖書箇所の3節から10節を唱えながら葬送の列を先導します。この教えは「真福八端」とか「至福の教え」と呼ばれます。この教えは主イエス・キリストのメッセージの核心であり、根本であると言われます。いわばキリスト教の憲法と言ってよい教えです。

 主イエスはガリラヤ湖が見渡せる緑豊かな丘の上で、5章から7章の説教をしたと言い伝えられています。今日の「至福の教え」はそのまとめの部分でもあります。この教えのテーマは、私たちにとって、真の幸せ、幸い、幸福とは何なのかということです。

 幸福ということについて言えば、私たちは、自分のやっていることや、持っている物によって幸いになりたいと望みます。人間は、自分が持っているその能力によって幸福を追求していきますね。昔も今も、それが私たちが幸福を得る仕方だと考えているからでしょう。

 ところが主イエスは、真の「幸い、幸福、幸せ」とは、そういう人間によって到達されたり、勝ち取られたりするものではないと言い切ります。主は、神が私たちの内で働いてくださることによる業や実りによって神がくださるものこそが真の幸いであり、幸せなのだ。「幸い」とは神から与えられる賜物なのだ。その「幸い」こそがとても大事なものなのだとおっしゃるのです。

 それでは主の「至福の教え」を具体的に見ていきましょう。3節、「心の貧しい人々は、幸いである」。いきなり難解なことを言われたとお感じでしょう。日本語で「あの人は心が貧しい」といえば、了見の狭いとか、さもしいとか、あさはかだ、などというとても否定的な意味になります。しかし、ギリシア語の原文では、これはむしろ「霊における貧しさ」、「霊において貧しい」という意味なのだそうです。

 聖書では、霊と体は一体ですから、「心が貧しい」とは、霊と一体である心が貧しいのであり、この人は心の一番深いところまで貧しい。とことん貧しいということです。この世においては自分には誇るべきものも、より頼むべきものも何ひとつなくて、何も持っていない。「心の貧しい人」とは自分がそういう「貧しい」存在だと気づいている人です。だからこそ神にだけより頼む人です。そういう自覚が十分でなくても主は救ってくださいますが、キリスト者はそうありたいものです。

 4節、「悲しむ人々は、幸いである」。愛する人の死もそうですが、人生には悲しみがつきものです。すべての人がいろんなかたちで悲しみを経験していると思います。とりわけ霊において貧しいひと、神にだけより頼む人は、ますます悲しみの経験が多いのではないでしょうか。しかし、悲しみのときにも孤独ではありません。慰め、寄り添ってくださる主がおられ、主に遣わされた人々がおられます。

 5節、「柔和な人々は、幸いである」。柔和という言葉を調べてみると、「権力がない、力がない」という意味であるわけです。この人は「心の貧しい人」と同じ意味で、何も持っていない、力を振るうことが出来ない、そういう人です。

 主イエスご自身も、マタイの11章29〜30節で、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」、と非常に慰めに満ちた言葉を語っています。ここでは、権力や暴力によって、何かを起こすようなことの決して無い、そういうへりくだった心のあり方、そのような心の柔らかさというのが考えられています。

 6節、「義に飢え渇く人々は、幸いである」義という言葉は、もともとは社会的な不正とか、搾取や抑圧といったようなものが克服されて、正しい正義が回復されて、普通の生活が安らかに保証されている状態のことだと言われます。不公平とか、不当なことがない。これが義であるわけです。

 先ほど触れた、貧しさを生きる人、悲しさを生きる人、柔和である人、権力を持たない人はこの世にあってはむしろ不当な扱いを受けがちなわけですが、しかし、神の働きを信じる忍耐をもって、そんな中でも秩序が回復されていくように求めていく。その人は幸いであるというわけです。

 7節の「憐れみ深い人々」、8節の「心の清い人々」、9節の「平和を実現する人々」10節の「義のために迫害される人々」ですが、ここではこれらの人々が、人間的に見て不幸な状況に対して、どういうふうに対応するのかということが語られていると思います。つまり先に語られた貧しい人々が、取りうる態度が語られていると思います。

 この人々は神が義の神であり正義の神であること、また、憐れみ深い神、平和を実現してくださる、シャロームをもたらす神であることを知っている人々です。そして貧しい人々が置かれている不幸な状況に対して、神が、この瞬間にも働いておられることをも知っている人たちではないかというわけです。

 こういう人々、つまり義に飢え乾く、憐れみ深い、心を清く保つ、平和を実現する、義のために迫害されてもよいとする人々は、神の働きに自らも参加する人々です。人間が置かれた社会的に悲惨な状況、不幸な状況に対して働いておられる神の働きに、自らも参加して一緒に働こうとする、主はそういう人間の態度を望んでおられると思います。

 「心の貧しい人々は、幸いである」と始まる「至福の教え」の考え方の一番深いところにあるのは、主イエスにとって、このような貧しい人々、苦しんでいる人々、苦境にある人々は人間の目からでなく、神からの目で見れば、特別に恵まれた人、幸いな人であるということではないでしょうか。

 なぜそうなるかというと、お金持ちとか、恵まれた境遇にいる、何不自由ない人たちよりも、そのような人々の方が、神が本当に与えたいものをたくさん与えられているからです。簡単には言えませんが、そのような人々の方が、神が本当に与えたい精神的な、霊的な深い喜びや豊かさを体験する機会が多く与えられていて、生きることの幸いを充分に味わえるからです。

 今日の朗読第一朗読も第二朗読もそのことを語っていると思います。ミカ6章8節に「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」とあります。

 また、第一コリント書、1章27〜29節「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と、そう言われています。 

 もちろん、貧しさとか、悲しみ、苦境、蔑みなどは、それ自体に価値があるというわけではないですが、そうした状況の闇が深ければ深いだけ、なおさら、希望の輝きというのは増してくるということが言えるのではないでしょうか。

 それはどうしてかと言えば、この世の不当さ、悲惨さ、理不尽さのどん底において神の約束の切実さというものに本当に触れて、その約束を与えてくださる主イエス・キリストとも本当に出会い、触れ合うことができるからです。

 今ウクライナで、ミャンマーで、世界の様々なところで、そして日本においても、数多くの人々が悲惨さと困難さの中にあることを思わずにおれません。確かに主イエス・キリストは私たちの元に来てくださいました。しかし、私たちは主がもたらしてくださるべき本当の恵みの国、希望の国、平和の国のその縁に立っていると言えるのではないでしょうか。

 人間に対して、特に不幸な状況、困難な状況に置かれた人々に対して神は働き続けておられます。その神の働きに、自らも参加して一緒に働こうと主は呼びかけておられます。

 心の貧しい人々は今の世界の悲しい現状がやがて突破されて、神のもたらそうとしておられる世界を垣間見ることができるのだと思います。その時私たちは神の本当のみ心、深い望みを悟って、神がこの世界を見ておられるその眼差しと一つになることができるのではないでしょうか。それこそが本当の幸いということではないかと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年1月22日日曜日

礼拝メッセージ「人類の救いの始まり」

 2023年01月22日(日)顕現後第3主日 「人類の救いの始まり」

イザヤ書:8章23〜9章3 

コリントの信徒への手紙一:1章10〜18 

マタイによる福音書:4章12〜23

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 私たちは今日教会総会に向けて資料を準備しますが、そういう日にマタイ福音書の、いわゆる「主イエスによる宣教開始」の場面から聞くことはなんと相応しいことかとこの巡り合わせを感謝します。

 ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を退けた主イエスが、いよいよご自分の宣教活動を始めます。今日の福音箇所の最後の23節は「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と情熱に溢れた主の宣教活動ぶりを語っていて勇気づけられます。牧師館を解体して、新たな一歩を踏み出した私たちですが、2023年も力強い主の導きに従って元気に進みたいものです。

 さて、今日の福音から、マタイが主イエスの宣教の始まりを伝えているこの時のことを振り返って見ましょう。4章12節、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。洗礼者ヨハネが捕らえられたのをきっかけに主イエス独自の宣教活動が始まりました。聖書の巻末の地図5「南北王国時代」を見て下さい。真ん中の上の方に「ガリラヤ」とあります。紀元前10世紀、イスラエルの王国は、エルサレム(地図の下の方)を中心とする南のユダ 

 今日の旧約日課はイザヤ書ですが、福音書記者のマタイはそこから預言の成就として引用していますね。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代(紀元前733−32)の、ユダ王国の預言者です。今、マタイが話題にしている「ガリラヤ地方」はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代、エルサレムの都で都暮らしをしていたユダヤ人から見れば、まさに「ガリラヤ」は田舎であり、アッシリア人に滅ぼされ混血した歴史を持つガリラヤは正統派を自認するユダヤ人からは軽蔑されて「暗闇」と呼ばれるような地域でした。

 なお、「ゼブルンとナフタリ」とありますが、これは紀元前13世紀ごろ、エジプトを脱出したイスラエルの民がパレスチナの土地を、ここは神から我々に約束された土地だと侵略し、ガリラヤ地方を割り当てられた時の部族の名です。

 それから約1,000年、主イエスの時代のガリラヤ地方は、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にも南のユダヤ人と結びついていましたが、ユダヤの人々からは宗教的な価値は何もない場所だと軽蔑されていました。けれどもマタイは主イエスがこのガリラヤで活動を始めたことから、この暗闇と見なされていた場所にイエスという光がもたらされたことこそが神の計画なのだと見ています。

 この当時ガリラヤはヘロデの領地です。ヘロデがヨハネを投獄したように、ヨハネの一味と見なされて、主ご自身も身の危険にさらされる土地であるのに、わざわざそこに行くわけですから、そこには何か積極的な意味があると考えられます。

 洗礼者ヨハネが弟子を従えて宣教活動を始めたのはエルサレムの都ではなく荒れ野でした。近くの荒れ野に登場したことで、ガリラヤに暮らす貧しい人々はきっと大きな夢と希望を与えられたでしょう。それはヨルダン川の辺りに人々が続々集まってきてヨハネから洗礼を受けたという事実からもわかります。神からの預言者ヨハネが自分たちのところに現れたという希望そのものだったそのヨハネが投獄されて人々はがっかりし、失望したにちがいありません。まさにそういう時に主イエスはガリラヤの人々のもとに行き、宣教活動を始めました。それはこのガリラヤの人々を見捨てておけない、救おうという主イエスの深い憐れみからだったと思います。

 イザヤの預言から多くの年月を経ていても、依然としてマタイは「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ」と5つの地方を取り上げています。今日はこのことにも注目したいと思います。

 この5つの地方は紀元前8世紀にアッシリア軍に征服されて以来700年以上に渡ってバビロニア、ペルシャ、ローマといった具合に次々と外国の軍隊の支配下に置かれ続けて来ました。ですからこの地方に暮らす人々の苦悩は、「暗闇の中に生きる人々、死の陰に覆われた人々」と預言者イザヤが言うように、並大抵のものではなかったに違いありません。加えて、彼らはユダヤの伝統から外れている、神の祝福からは遠い者たちだと軽蔑され差別されていました。そんなガリラヤの人々は「どうせ、自分たちなんか、神に顧みられるはずもない」と世をすがめに見ていたかもしれません。

 純血のユダヤ人ではない人々が住むガリラヤ。華やかな文化と洗練された宗教の中で生きている都会の人々からは軽蔑されたガリラヤ、そんなガリラヤはイザヤの預言の通り暗闇の地だったでしょう。しかし、主イエスはそういうガリラヤを選らばれた。

 主イエスは後に「わたしが来たのは、正しい人を招くためではない、罪人を招くためだ」(マタ9:13)とおっしゃっています。ガリラヤはそんな主イエスが宣教活動を開始するのに最も相応しい場所だったに違いありません。低く小さくされた人々を深く憐れむ神のご計画に最も即した場所、それが「ガリラヤ」だったことに気づかされます。

 私はこの小田原教会もまたガリラヤのようではないだろうか思うのです。ならば、ここは主が心を尽くしてくださる場所です。喜びに溢れる場所です。

 さて、ガリラヤで宣教を開始した主イエスの第一声は17節「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。「天の国」は、他の福音書では「神の国」と言われますが、意味することはまったく同じです。マタイ福音書は洗礼者ヨハネと主イエスがまったく同じ言葉で宣教を始めたことを紹介して、この2人が神による同じ一つの計画の中にいることを示しています。

 ここで注意したいのは「天の国は近づいた」(マタイ4:17)と同じ言葉で言いながら、2人にはその意味内容に違いがあることです。それは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、主イエスが神の国の実現の時代の人だという点です。

 私は主イエスが言われたこの「近づいた」の意味する所ところは、「始まった」ということだと思います。主の言葉を「神の国は始まった」というふうに読んでいただきたいです。

 「近づいた」というと、10キロ先から1キロ手前まできても「近づいた」だし、5センチ先から1センチ手前に来ても近づいたですけれど、そういう相対的なことではなく、もう「始まった」ということです。決定的に。まったく新しい段階に入った。主イエスの宣教によって私たちは新しい段階に入っています。私たちは「み国が来ますように」と主の祈りを祈りますが、主イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まった。新しい段階はもう始まっているのです。今生きているこのところで、ここ小田原教会で「神の国はすでに始まっている」。主イエスと共に私たちは前進しています。この福音をしっかりと心に刻みましょう。

 今日の福音でもう一つ見落としてならないことは主イエスがここガリラヤで漁師たちに声をかけて弟子にしていることです。主は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われます。主イエスは、罪深く、未熟で、欠点だらけの人間を、つまり人類を救おうとされます。主は、ごく普通の人間である漁師の兄弟たちを弟子にして、ご自分の壮大な計画に巻き込まれたということは、実に驚くべきことだと思います。

 主イエスはこうして弟子たちと共に「神の国」の宣教に向かっていかれます。主イエスはペトロたちに呼びかけたように、私たちにも「あなたを人間をとる漁師にしよう」と呼びかけています。私たち一人ひとりに声をかけ、人間をとる漁師になる情熱を呼び起こし、夢を与え、人類を救おうとするご自分の計画に私たちを招いてくださいます。

 ウクライナで、ミャンマーでひどい暴力と抑圧が続いています。人々の不安とか、心の闇に付け込むカルト宗教もはびこっています。世界でも日本でも自由と人権が無視されている状況が続いています。

 私たちは小さな群れですから社会に大きな影響をあたえるのはとてもむずかしいですが、しかし主に聞くなら私たちに出来ることは少なくないと思います。ごく少数の普通の人々が主イエスに出会い、その生き方に触れ、情熱を得て主キリストの救いを宣べつたえました。その情熱は今こうしてこの私たちにも伝わっています。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年1月8日日曜日

「キリストの洗礼」

2023年01月08日(日)主の洗礼主日(顕現後第1主日)

清重尚弘牧師 説教要旨

イザヤ書 42章1〜9 

使徒言行録 10章34〜43 

マタイによる福音書 3章13〜17

 主イエスキリストが公に動き始めます。クリスマスの誕生と幼児イエスの記事の後は、主が12歳の時にエルサレムの神殿へ登ったという記事(ルカ2章)の他は主の記事は聖書にはありません。その後は一気に成人なさった記事として、今日の洗礼の記事になっています。「その頃」ヨハネが荒野に現れて、「悔い改めよ」と人々に激しい審判の説教をし、ヨルダン川で洗礼を授け、群衆が罪を告白して洗礼を受けたとあります。

 この場面は、アメリカの映画などでも見ますね。「マムシの子らよ、Repent! 」と大声で叫んで、群衆を川の中に頭からザブンと沈めて激しく断罪する場面です。そこへ、なんと、主イエスがヨハネのところへ来て、洗礼をお受けになるというのです。ヨハネは、「私の方こそあなたから洗礼を受けるべきなのに」と断ります。しかし、主は「今はこうするのが我々に相応しいこと」とおっしゃったので、ヨハネは言われる通りに主に洗礼を授けます。

 洗礼を受けた主が水の中から立ち上がると、天が主に向かって開き、主は、なんと神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になったというのです。その時に天から声が聞こえます「これは私の愛する子、私の心に適う者」

 主イエスとヨハネの関係は?どちらが上で下なのか?優劣は?神の子に私がどうして洗礼を?戸惑い、主に、「あなたこそ私に洗礼を」と言ったヨハネの言葉は理解できますね。そもそも神の御子がどうして罪の赦しの悔い改めの洗礼を受ける必要があるのだろうか?皆さんは、どうお考えでしょう?

 私は、主イエスのお言葉の中に、この問いへの答えが見出せるのではないかと受け止めています。なぜか?ヨハネの思いには、「私ヨハネ」と「あなた御子」との隔たりの関係の中での問いがあります。それに対して、主のおことばは、この隔たりの関係を打ち破るものと言えます。主は「我々に相応しいこと」と仰っています。上下、優劣ではない、「私」と「あなた」ではなく、「我々」と仰っているのです。

 どういうことか?ここで主は、ご自分をヨハネと等しい、同じの立場に身を置いて、ヨハネと一つのものとなっておられると言えないでしょうか。ヨハネは自身が認めている通り、罪の中にある人間です。主はこの罪人たるヨハネと等しくなられるのです。私はあなたと同じ者となっている、とおしゃっているのです。「そこで」何が正しいのか?我々罪人が救いに与るには何が正しいことなのか?それに応えて、主は罪人と等しくなられるのです。フィリピ書2:6~11にある通りですね。ここで主は、ご自分を罪人と等しいところに身を置かれるのです。

 ヨハネよ、私とあなた、どちらが正しいのかという問いの中に答えがあるのではなく、ともに等しいものとなるところに答えがある、そこで、等しく父の恵みに与ることが許されるのだ、こう主はおっしゃているのではないでしょうか。主イエスが、この私に向かって、「我々」と仰ってくださる、ここに福音があります。

 嘗て、ハワイのモロカイ島に閉じ込められたハンセン病の人々と生活を共にしたダミアン神父のことです。神父は患者と家族同様に寝食を共にし、共に耕し、住まいを建て、給水設備を作るなど、日々を共にし、生涯をささげました。ついに神父自身が感染した時に神父はこう言ったのです。~ 皆さん、これまで私は皆さんに向かって「あなた達」と話しかけてきました。しかし、今日からは「私たちは」と言えることになりました。このように、主イエスは、ヨハネに「私たちが」このようになすことが誠にふさわしいこと、とおっしゃったのでした。

 主は、私たちと等しくなってくださいました。神の御子でありながら、苦しみを味わい、十字架の上の死をさえも身に受けて、黄泉にくだりたまいました。ここにまことの愛があります。まことの救いがあるのです。

 洗礼は、この恵みを実現する、聖なるサクラメントであります。ただの水に力があるのではなく、水に約束の「み言葉」が宣言される時に、まことの救いの力あるサクラメントなのです。

 良心の人ルターは自らの罪の恐れに慄く人でした。本当に自分が救われているのかと慄く時に、私が救われていることは確かである。なぜなら、私は1483年11月10 日に生まれ、翌日11 日に確かに洗礼を受けたのだから、と思い起こして、救いの確信を得たと言われています。

 私ども、救いの確信が、洗礼にあります。私が洗礼を受けた時に、主イエスが私と共に洗礼をお受けになった、このことをしっかりと思い起こしましょう、ここに福音があります。

清重尚弘


2023年1月1日日曜日

「名づけの秘密」  江藤直純牧師

 2023年1月1日 小田原教会  

民数記 6:22-27; 

ガラテヤの信徒への手紙 4:4-7; 

ルカによる福音書 2:15-21

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 (1)赤ちゃんに名前を付けるというのは、親が子どもに対して自分たちの思いのままにできる唯一のことだと聞いたことがあります。唯一かどうかは分かりませんが、子どもの名前は、本人の意志とは関係なく、親が決めます。

ですから、親は子どもが生まれる前からあれやこれや考えに考えて、どんな子になってほしいかという願いを込めて、もちろん最大限の祝福も込めて、さらには呼んだときに耳にどう響くかとか文字にしたとき目にどう映るかとかも考慮に入れて、中には漢字の画数まで気にする親もいるようですが、とにかく心の底からの願いと祈りを込めて決めます。名前は一生変わりませんから、それはそれは慎重に行います。

(2)旧約聖書を見ると、創世記の2章にアダムがエデンの園で「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥」に名を付ける場面があり、3章の禁断の木の実の出来事の後には、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」(3:20)と記されています。ヘブル語でエバ、命とは彼女にとっていかにもふさわしい名前だと思われます。名付けることで、そして互いに名前を呼び合うことで、二人の関係はいっそう深まったことでしょう。

 それだけでなく、その名前で呼ばれるたびに、呼ばれた本人は自分が何者なのか、自分のアイデンティティとは何なのか、自分に課せられた使命とは何で、自分はどう生きるべきかということを思い起こすのです。名前を付けることには、名前を付けられることにはそのような重大な意味があるのです。

(3)クリスマスの日に世界中でその誕生を祝われたイエスさまもまた当然のことながら名前を付けられます。誕生の後の一連の流れは長いユダヤ教の伝統できちんと決まっています。

 生後8日目、男の子である赤ちゃんイエスさまは割礼の儀式を受け、名前を付けられました。レビ記12章の「出産についての規定」には男子を出産したときには7日間母親は汚れているから8日目に割礼を施し、さらに血の汚れが清まるのに必要な33日の間は家にとどまること。女児を出産したときには14日間汚れているとされ、血の汚れが清められるのに66日を要し、その間は家にとどまっていないといけないこと。そのように規定されていました。生まれた赤ちゃんが男の子か女の子かで母親の汚れの日数や清めのための日数に倍もの差があるのは今日の常識から考えて理解できません。汚れとか清めなどと言わずに、母体の回復のために必要な休息の日数が必要だと言うのなら、もっともだと思えます。そういう実際的な配慮と当時の宗教的な理屈づけがごちゃ混ぜになっているのは歴史的な限界とも言えるでしょう。

(4)それはともかくとして、イエスさまには生後8日目に習慣に従って名前が付けられました。これまた当時の習慣に倣うならば、ヨセフは父である自分の名前か親戚のだれかの名前を長男に付けるはずでしたが(洗礼者ヨハネの場合を参照、ルカ1:57-66)、彼はそうはしませんでした。名前は既に決まっていました。両親は天使から命じられたとおりに「イエス」という名前を付けたのでした。この時はまだベツレヘムにいたことでしょうから、親兄弟や親戚なども身近にいなくて、ヨセフとマリアの相談と決心だけで決めることができたことだと思われます。

(5)ユダヤ教を柱とするヘブライ文化では、人の名前にも意味が込められていました。徴税人だったザーカイの場合、ザーカイという名前には正しいとか良いという意味がありましたから日本風に言えば正とか義夫というところでしょうか。ペトロという名前をイエスさまからもらったシモンですが、ペトロという名はペトラ・岩から取られていますから、日本語なら巌雄とでもいうところでしょうか。

 イエスはヨシュア、イエホシューア、ヤーウェ主は救うという意味がありました。その名前を真の父である神さまが選び定め、天使をとおしてヨセフとマリアに伝えたのでした。彼らはお告げのとおりに、この赤ん坊に躊躇わずに「イエス」と名付けたのです。「主は救いたもう」「神は救ってくださる」という意味の名前を付けたのです。

     2.

(1)誰がこの赤ちゃんに「イエス」と名付けるように決めたのでしょうか。直接的にはヨセフですが、先ほど申し上げたとおり、もともとこの子に「イエス」と名付けるように決められたのはヨセフではなく、父なる神さまです。それは神さまの人類への救いのご計画のゆえです。私たちが「イエス」、つまり「神は救いたもう」「神は救いである」とお呼びするたびに、実は、救い主をこの世に送ってくださった神さまのご計画を思い、神に感謝し、神を賛美することになるのです。たとえそれが無意識のうちにであっても、そうしているのです。

(2)天使のお告げ通りに「イエス」と名付けたヨセフとマリアは、一日に何回も何十回もその名を呼んだことでしょう。それは私たちに子どもがいたら、「誰ちゃん、おはよう。起きなさい」とか「誰ちゃん、さあご飯をいただきましょう」とか「誰ちゃん、学校に行く時間ですよ。行ってらっしゃい」とか、一日の最後には「誰ちゃん、おやすみなさい」とか、日常生活の中でそうするように、ヨセフとマリアも我が子イエスにごくごく当たり前のように「イエスちゃん、イエスちゃん」、成長してきたら「イエスよ、イエス」と呼んだことでしょう。それは不思議でも何でもありません。

(3)ですから、赤ん坊の時からイエスちゃん、イエスちゃんと呼ばれ、長じてイエスよ、イエスよと呼ばれるたびに、少しずつ少しずつ、イエスさまは、自分はイエスなのだとの自覚が深まっていき、さらに自分は何者なのか、自分のアイデンティティとは何かを子供心に意識し、確認し、自分の人生の使命は何か、どのように生きるべきかとの自覚を深めていかれたに違いありません。

(4)しかし、両親は、普段は何気なく呼んでいても、ときどきハッとあのお告げの夜のことを思い出さなかったでしょうか。フッと自分たちに託されているこの子の将来に思いを馳せなかったでしょうか。もしも外見を見ただけならば、この子はまったく普通の赤ちゃんあるいは普通の子どもです。成長するに伴って会堂(シナゴーグ)で読み書きを学び、聖書を暗唱したりしながら宗教を含めた社会生活に必要な、あるいは人間として必要な知識を身につけていきます。安息日には親と一緒に礼拝をしました。またヨセフの手伝いをしながら段々と大工の仕事を習い覚え、一人前の職人に近づいていきます。その有り様は、まさに普通の少年であり普通の青年でした。神の子が普通の赤ちゃんになって、普通の幼児、普通の子ども、少年、青年になったのは、それが神さまの御心だったからです。

 ヨハネ福音書の表現を借りれば、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。言、つまり神の子キリストは肉となった、正真正銘の、生身の人間となったのです。使徒信条で信仰告白しているように「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」たのです。私たちと少しも変わらず、食べ、学び、働き、寝るのです。喜ぶべきことを喜び、悲しむべきことを悲しみ、楽しむべきことを楽しみ、痛みや苦しみも悲しみも味わわれたのです。人を愛し、愛されたのです。それはなぜでしょうか。

(5)ヘブライ人への手紙の著者はその信仰によって「偉大な大祭司、神の子イエス」(ヘブ4:14)のことを次のように記しています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4:15)。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのための供え物を献げねばなりません」(5:2-3)と。

(6)ヘブライ人への手紙の著者がこのようにイエスさまのことを「偉大な大祭司」とか「神の子」と呼べたのは、キリスト教信仰のゆえです。この手紙が書かれたのは、ゴルゴダの丘の上での十字架の悲劇と三日目の復活という喜びの出来事が起こって半世紀以上経ってからのことですから、福音宣教の結果、教会は広まり、このような信仰、主イエスはまことの神でありまことの人であるという信仰を多くの人々が抱くに至ったのです。

(7)ですけれども、ヨセフとマリアがイエスさまを育てている間は、彼らの周囲にはそのような理解、そのような信仰を持っている人は、彼ら夫婦以外はだれもいませんでした。天使のお告げによってベツレヘムの馬小屋に駆けつけた羊飼いたちとは、ナザレに戻ったあとは二度と会うことはなかったでしょうし、東方から宝物を献げるためにやってきた博士たちは千キロ以上離れた祖国に帰ってしまいましたから、これまた一期一会だったことでしょう。

 つまり、ヨセフとマリアにとっては、どこからどう見ても普通の子であるイエスさまの真実の姿、神の子、インマヌエル、この世の民全体のための救い主であることを語り合ったり、共に信じ励まし合ったりする仲間も親戚もどこにもいなかったのです。

 では、そうならば、いったいどうやって彼らは誕生前に天使から託された務めを果たすことができたのでしょうか。

     3.

(1)マリアとヨセフへの天使ガブリエルのお告げは一度きりでした。その場面がスマホに録画されていたわけではありませんでした。彼ら以外の目撃証人がいたわけでもありません。ヨセフと天使、マリアと天使の二人きりの対面でした。何の証拠もないのです。ただひとつだけあるといえば、洗礼者ヨハネを身ごもっていたマリアの遠縁に当たるエリサベトをマリアが訪問したときに胎内の子が踊り、その時エリサベトがマリアを「主のお母さま」と言って祝福してくれたことだけでしょう(ルカ1:39-45)。

(2)そうであるならば、マリアとヨセフが普通の子どもイエスを普通に育てていたとき、しかもその子が神の子であることの、あるいは将来は救い主になることの片鱗さえも見せなかったにもかかわらず、神の子であるとただ黙々と信じることができ、将来は救い主になることを少しも疑わずじっと待っていることができたのは、なぜでしょうか。その子が天才、神童の誉れ高く、誰が見ても間違いなく神の子であることが明らかならば、誰の目にもこの子は絶対将来は救い主になることが確実ならば、ヨセフもマリアも何の苦労もしなかったでしょう。待つことに耐えることができたでしょう。しかし、その子はどう見てもそうは見えないのです。

(3)そういう状況は、なにもヨセフとマリアに限ったことではありません。イエスさまが成長した後も、普通の人であることが同時代の人々にとっての躓きでした。神の子、救い主として受け容れることを妨げる決定的な躓きでした。ナザレの会堂で聖書の言葉を説き明したときそこにいた人々は言いました。「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)。十字架につけられたときに、群衆たちはこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イエラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』といっていたのだから」(マタ27:42-43)。誰ひとり本気でイエスを神の子だとは信じなかったのです。

(4)もしも信仰を持っていないなら、あるいは一度信仰を持ったことはあっても何かの拍子で揺らぐことがあったなら、どうしたらいいでしょうか。イエスはただの人にしか見えないときに、どうしたらいいのでしょうか。私たちだって似たような者です。

(5)解決の手掛かりはひとつだけあると思われます。それはヨセフとマリアとが経験したことです。しかも10年、20年、30年もの間、つまり赤ん坊の時から十字架までの間、彼らが頼ってきた一事です。それは、我が子の「名前」でした。イエス、それは「主は救いたもう」という意味でした。その名を呼ぶたびに、この子をとおして神さまはこの世を救おうとしていらっしゃるということを思い起こさせられるのです。この名前は神さまの御心、神さまのご計画、お約束を表しているのです。ですから、その名を呼ぶたびに神さまへの信頼と信仰とを呼び覚まされるのです。たとえ人間的には不可能に見えても、見えない神さまは救いたもう、そのことを信じるように導かれるのです。

 普通にしか見えない我が子をこの名前で呼ぶとき、この子の本質は「主は救いたもう」という神の約束を実現する存在であることを思い出させられるのです。見た目とは関係なしに、この子のアイデンティティは神の言葉を語る者、神の愛を実行する者、神の赦しを成就する者であることだということを再認識させられるのです。この子の見えない本質は見えない神の言葉にかかっているのです。

     4.

(1)私たちは人間ですから、人間として備えられている、考えたり愛したりする能力、見たり聞いたり触ったりする感覚、それらを総合する人間力というか心、精神によって、他人のことも自分のことも判断します。それは大切なことです。責任あるやり方です。それを等閑にしてはいけません。

(2)しかし、それだけに頼ってはいけないのです。わたしたちの人格、本質、アイデンティティはわたしたちが自分で作り上げたり捻り出したりできるものではありません。わたしたちがどう生きるべきか、どのような使命を持っているのかはわたしたちの主なる神さまがお定めになっているのです。イエスさまに「イエス」という名前を付けられたときには神さまの御心、ご計画、お約束がすでにあったのです。だから「イエス」と名付けられたのです。

 わたしたちはその名前によって、見かけはどれほど普通であろうと、実はこの子が神の子であり、救い主であることを知らされ、だからそう信じるのです。ヨセフもマリアもそうしたのです。「イエスちゃん」「イエスよ」と呼びかけることで、神さまが定められたその子の本質を確認したのです。その名前を付けるように命じられた方の御心、ご計画、お約束を改めて覚えたのです。さらには、「イエスちゃん」「イエスよ」と呼ぶたびに、この子との関係で自分たちはどのような役割を演じることを託されているのか、どのように生きるかを期待されているのかを考え直したのです。

(3)これはヨセフやマリアだけに限ったことではありません。私たちにとってもまったく同じことです。あのイエスさまは紛れもなく人間です。そうとしか見えないのです。しかし、実は同時に神の子であり、救い主なのです。そうであるということは私たちが決めたことではありません。神さまがそう決められ、そうなさったのです。

 あの方に「イエスさま」と呼びかけるときに、その方がほんとうはどなたなのか、私にとって、世界にとってどなたであるのかを知らされるのです。あの方が「イエス」であると信じるときに、あの方からの語りかけが心に届いてくるのです。あの方の心が伝わってくるのです。あの方のいのちがわたしの中に生き始めるのです。あの方への愛と信頼が増し加わり、あの方に従っていく生き方へと押し出されていくのです。

 新しい年が始まりました。個人的にもあれこれの重荷があります。ツインデミックなどと称される社会的な問題もあります。世界には依然として残虐な戦争が続いており、被害者は増えるばかりです。地球環境の破壊が現実味を帯びてきています。そういう中で、そういう中だからこそ、「イエス」という名前を持つ方に思いを馳せましょう。「イエス」という名前を付けさせた神さまの御心、ご計画、お約束に目を向け、耳を傾けましょう。「イエス」という名前を持つ方との関わりで、この私は、私たちはこの一年どう生きるのかを静かに考え、その方のお導きを祈り求めましょう。「イエス」という方は必ず祈りに応えてくださいます。私たちが祈り求める前に、私への答として地上に、この世界に来てくださったのですから。アーメン

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。