2023年10月8日日曜日

礼拝メッセージ「人に捨てられ、神に選ばれる」

2023年10月08日(日)聖霊降臨後第19主日  岡村博雅

イザヤ書:5章1〜7

フィリピの信徒への手紙:3章4b〜14

マタイによる福音書:21章33〜46

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 「二人の息子」のたとえに続き、主イエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。このたとえ話しは、迫り来る主イエスの受難を予感させるものだと言えます。

 今日の福音でマタイは、主イエスのたとえ話の中に「救いの歴史」全体を見ていると考えられます。(34-36節)神は旧約時代に預言者たちを遣わしたが、イスラエルの民は彼らを受け入れなかった。(37-39節)最後に神は自分の子イエスを遣わしたが、このイエスも迫害され、殺された。(42節)しかし、神はイエスを復活させ、救い主として立てた。(43節)そして神の救いはユダヤ人ではなく異邦人に与えられるようになった。(44節)イエスは最後にすべての人を裁くために来られる。これがマタイが見ている「救いの歴史」の内容だと言えます。

 さて、今日の福音のぶどう園のたとえと、第1朗読のイザヤ書の「ぶどう畑の愛の歌」は同じテーマをもっています。

 どちらも、ぶどう園の主人とは神です。そしてこのぶどう園とは、神が創造されたこの天地のたとえです。イザヤ5章2節には、神は肥沃な丘を「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのをまった」とあります。

 これは、神は「人類にすべてを委ねた」というような意味でしょう。「この完璧なぶどう園で、あなたたちは、知恵と愛をもって、素晴らしい実りをもたらしなさい」と神は「実り」を願って、人類に天地の管理と運営のすべてを委ねられた。素晴らし実りは、楽しいことですし、感動的なことです。神は人類にそういう使命をお与えになりました。そしてこれこそが人類が存在する意味だと言えます。

 ところが3節「実ったのは酸っぱいぶどうであった。」そこで神は、当時のユダの人々に問いかけます。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか」(4節)と。

 つまり、神は「わたしは、全部、ちゃんとやっている。それなのに、なぜ、あなたたちはちゃんと実を結ばないのか。それは、わたしのせいではない。あなたたちの問題だ」とおっしゃっるわけです。

 この問いかけを他人事ではなく、私たちへの問いかけとして受け取るとき、何が問題かというと、やはり、私たちにぶどう園を作ったその主人への全面的な信頼がないことであり、そして、その神からいただいた恵みの世界への全面的な愛がないことであり、そういう神への信頼とこの恵みの世界への愛というものを、私たちは自分の内にある弱さと恐れの中で、見失っているからではないかと思えてきます。

 私たちは実りをもたらすために、この世界に生まれているにもかかわらず、「実り」、すなわち、「神を信じ、人々を愛する」、そういうことができないでいます。キリスト者は誰もがそのように生きていきたいと願っていると言えます。けれども「言うは易く行うは難し」で、それが思うようにでききらない。厳しい言い方をしますが、それは神さまの信頼に応えていないということです。

 にも関わらず、神さまは、私たちを「信頼」しています。弱いわたしたちを分かっておられます。私たちがどれほど弱くても、頼りなくても、神は、私たちを「信頼」してすべてを任せておられます。ですから、私たちは、自分の弱さを恐れてはいけないのです。

 私はコリントの信徒への手紙二のパウロの言葉に励まされます。12章9節です。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とあります。

 私たちは「弱さこそ力」くらいに思って、「弱い私を神は信頼してくださっている。だから、この弱いままでもだいじょうぶなんだ」ということをしっかりと受け入れて信じていきましょう。自分の弱さを受け入れること、聖霊の取りなしに委ねて神を信じること、大事なのはそこです。

 そして福音書の主イエスのたとえでは、神はすべてを農夫である私たちに任せてくださっています。この愛の神をこそ主は語ってくださいます。マタイ21章33節「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」とあります。

 主人はすべてを用意して、全部農夫たちに貸してしまいます。これはつまり、農夫たちを全面的に信頼しているということです。この世界、この私という体、この環境、私たちの家族、すべて、何もかも、神は私たちを信頼してすっかり任せてくださっている。「あなた方を信じる」とおっしゃっているわけです。これはなんという信頼かと思います。

 ではこの信頼に応える生き方とはどのようなものでしょうか。それは「実り」を神にお返しするということに尽きるのではないでしょうか。私たちは、この恵みの世界を生きているわけですけれど、信仰によれば、それはすべて、神への信頼や人々への愛、そして、「神の国」という素晴らしい恵み、すなわち、「実り」を、神さまにお返しするためです。

 それなのに、主のたとえ話しで語られているように、その神が受け取るべき実りを私たちは「自分たちのものにしよう」とします。これは言わば、信頼を裏切る私たちの姿です。21節で農夫たちは「相続財産を我々のものにしよう」と言っていますね。

 この農夫たちの言葉は、私たちにとっても他人事ではないでしょう。私たちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは何でしょうか。それは多岐にわたるでしょう。地球の資源や環境?自分のお金や持ち物?力や才能?地位や立場、さまざまな特権?それらは皆、神がわたしたちに委ねられたものなのではないでしょうか。それを私たち人間は、いつの間にか、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっていることがあるのではないでしょうか。

 私たちは、体も心も環境も、命そのものも、ぜんぶ神から頂いているものなのに、それはすべて神にお返しするものなのに、まるで自分のものであるかのように所有しようとしますね。その感覚、「我々のものにしよう」 (マタイ21:38) というその利己主義、その欲得、それが、神にしてみたら、裏切りなわけです。けれども、私たちが何度そうして裏切っても、神のほうは信頼して、なおも恵みを与え続けてくださっています。

 ありがたいことです。そういうぶどう園に生まれてきて、実りをもたらすように任されて、もう、やろうと思ったら、私たちは何でもできます。知恵と愛をもってするところには、神さまも、具体的な応援をたくさんしてくださるということを、キリスト者なら、常に体験するはずです。

 「実り」を得るためには、私たちは主イエスとつながっていなければなりません。実りの「先どり」である主と共にあれば、もっと知恵も増し、もっと愛も深まって、もっと神の国のために働くことができるからです。結局、主イエス抜きでは、聖霊抜きでは、人間はなかなかちゃんと働けませんから、キリスト者は一所懸命に主イエスにつながっていようとするのではないでしょうか。

 マタイ21章37節には、神は最後に「自分の息子を送った」とありますね。私たちはこのぶどう園の農夫のように神の息子、主イエスを殺してしまうのではなく、受け入れて、その息子と共に豊かな実りをもたらしていきましょう。そしてすべてを主人にお返しする。それがキリスト者であり、教会の喜びだと言えるのではないでしょうか。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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