2023年10月2日月曜日

「ノーからイエスへ」か、「イエスからノーへ」か

 2023年10月1日 小田原教会 江藤直純牧師

エゼキエル18:1-4, 25-32; フィリピ2:1-13; マタイ21:23-32

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 「終始一貫」という言葉があります。あることに関して、最初に表明した主張や態度をことが終わるまで変わらず貫き通すことでして、そういう姿勢はいいこと、評価すべきことだというニュアンスがあります。一つの信念に固く立っている姿が浮かび上がります。宗教改革の時にルターがヴォルムスの国会に呼び出されて、これまでの主張をすべて撤回するように迫られたときに、それを断固として拒否して「われ、ここに立つ」と言い放ったことは歴史上の有名なエピソードです。人間としての土性骨がしっかりとあることを示しています。

 それとは逆に、「考えを変える」ことを「ぶれる」という言葉を使うとマイナスの響きが入ってきます。ぶれる度合いがひどいと「ぶれまくる」と言って笑いのネタにされてしまいます。思想的な迫害が激しかった時代に、ついに不本意ながら「転向」したことは人間としての汚点とされます。それでも転向にはある程度は中立的な響きがありますが、「変節」というとこれは明らかに批判、いえ非難されていることを表わしています。

 こうしてみると、人間の生き方としては、考えとか信念というものは変わらないほうが評価され、変わると低く見られるということになるようです。一般的にはそういうことが言えるかも知れません。

 しかし、いつもどんな場合でもそう言えるかと言えば、必ずしもそうではありません。もしも間違った「思い込み」をしてしまっていたとしたら、どうでしょうか。4年前に無差別大量殺傷事件が起こりました。放火をし、36人を殺し33人に重軽傷を負わせた人の裁判が進行中ですが、そこで被告は自分の書いた小説が盗作されて映画に使われたことを事件の原因だと主張しています。その人が主観的にはそうだと「思い込んでいる」ということはどうもそのようですが、その人が言うことが正しいのか。時系列的にも正確で、映画の中の一節はたしかに彼の小説の中の一節が盗作されたものだと事実関係が立証されるのかと言えば、新聞などで読むかぎり素人の私にはとても納得がいきません。ただ、この場は私見を述べるところではありません。ことの是非はあと数ヶ月の内に裁判で決着がつくでしょうが、もしも判決で事実関係が解明され、盗作などではなかったならば、そのときは是非とも「思い込み」は正して、自分の考えを変えてもらいたいと思います。

 言うまでもなく、生身の人間は有限で不完全です。有限で不完全な人間の考えることは当然絶対ではありません。ですから、「考えを変える」ということは時には必要なことであり、いいことです。それがその人個人にとっても、その人の属する社会にとっても「考えを変える」ことはいいことの場合があります。成長に繋がります。

 「考えが変わる」ことは良い悪いというだけでなく、生身の人間ですから何らかの理由でよくあることです。これが正しいと思っていても、違う見方に触れて、或いは異なる環境に置かれて、時間が経過して、冷静になって、その考えから離れることがあります。利害損得が絡む場合もあります。

 とにもかくにも、人間であるかぎり、「終始一貫」を果たせないことはあり得るのです。ですから、今朝の福音書の日課は考えや態度が一切変わらなかった人と変わった人を対比しているのではありません。人は変わるものだということ自体は認められ、前提されていると言っても言い過ぎではないでしょう。では、このたとえ話で何が対比されているかと言えば、どう変わったか、何から何へ変わったか、それが対比されており、その是非善悪が問われているのです。

2.

 28節からの段落には「『二人の息子』のたとえ」という小見出しが付いています。登場人物は父親である「ある人」と息子のうちの「兄」と「弟」です。兄も弟も終始一貫微動だにしなかった人間ではありません。どちらもぶれます。考えが変わり、行動が変化します。兄は父からぶどう園に行って働くように言われたとき、最初は「いやです」と答えますが、後で「考え直し」ます。ぶどう園に行こうと思い直し、実際働きに行きました。弟はどうかと言えば、兄と同じように父からぶどう園に行って働くように言われたときに、はじめは「承知しました」と色よい返事をしたのですが、その後で考えを改めて実際には「行かなかった」のです。鮮やかなコントラストです。

 二人の息子がどちらも考えを変え、行動が変化しましたが、どちらが父親を喜ばせたかと言えば、これは議論の余地はありません。考えを変え、行動を変化させた理由が何であれ、最初は「いやです」と言ったにせよ、後で考えを変えて実際にぶどう園に行ったほうの息子と、最初は父親を喜ばせるように「承知しました」と言っておきながら、後で考えを変えて実際にはぶどう園に行かなかったほうの息子のどちらが父親の思いに適ったかと言えば、前者のほうであるのに違いありません。動機が何であれ、途中経過はどうであったにせよ、最後は父の思いに適った行動を取った息子のほうが「神の国」に入れられることになるとイエス様はおっしゃっています。

 この二人の兄弟のうちで、最初は「承知しました」と言いながら、結局父親の望みを叶えなかったほうが「祭司長や民の長老たち」のことを指していて、最初は「いやです」と言いながら、あとで実際にぶどう園に働きに行ったほうの息子を「徴税人や娼婦たち」のことを譬えていることは明らかです。しかも、「徴税人や娼婦たち」が変わったのは「ヨハネが来て義の道を示した」ときにそれを「信じて」受け入れ、その義の道を歩んで行こうと決心したことが変化のきっかけであったことも聖書を読めば、これまた明らかです。

 ストーリーが簡潔明瞭であるなら、そこから引き出される教え、教訓もまた簡潔明瞭であろうかと思います。このたとえ話は、人間一人ひとりがどんな考えを持ち、どのように振舞っていようとも、最後は神の言葉を聞いて、それまでの自分の生き方、在り方を悔い改め、心を新たにして神の御心に適うように生きなさいとを教えているのでしょう。

3.

 さて、ここでちょっと立ち止まって、ご一緒に考えてみたいことがあります。それは、たとえの中の兄のように、最初は「いやです」と言っていたのに、後で考えを変えて、キリスト教的な言葉を用いるならば、後で「悔い改めて」、父親の思いに、つまり神の御心に添う生き方をし始めたら、誰もがその後は少しもぶれることなく、考えや態度振る舞いを変えることなく、人生を全うできるかということについてです。その逆もあります。「イエスからノーへ」であれ「ノーからイエスへ」であれ、ひとたび考えを変え生き方を改めたら、その後は死ぬまでずーっと変わらずに生きていくことができるかということです。

 この問いへの私の答は、「いいえ」です。ためらうことなく、「否」です。それはどのような理論付けも学問的根拠もなくても、間違いなく「できません」なのです。理論からではなくて、私自身の経験から反射的に「いいえ」という答が出て来てしまうのです。本気で悔い改めて、新しい生き方を選び取っても、聖書が示す「義の道」に導かれて神さまに喜ばれる生き方に踏み出しても、気がついたらその道から外れていることがあるのです。たとえ、表向きはそうは見えなくても、心の奥底で「ぶれて」いることがあるのです。情けないと思いますが、現実の自分は、ありのままの私は、ひとたび悔い改めたならばあとの人生はまっしぐら、一直線で生きていけるかと言えばそうではないのです。「終始一貫」でもなく「初志貫徹」でもないのです。再び「ぶれる」ことがあるのです。

 聖書が示す「義の道」が何であるか、聖書は何と教えているかを頭では知っているつもりであっても、理性では正解を理解し把握しているつもりであっても、心ではそこから遠ざかっていくことがあるのです。感情的には離れてしまうことがあるのです。自己中心性が再び首をもたげてきたり、高慢さがしぶとく生き延びていたり、弱さが顔を覗かせてきたり、つまり、罪が息を吹き返したりするのです。ですから、最初は「いやです」と言ったのに、せっかく考え直して、悔い改めて大真面目に「承知しました」と言って、そう生きようと決心しても、ぶどう園に行く途中で行くのを止めて、別のところに行ってしまうことがあるのです。或いはぶどう園で働き始めても、疲れたのか飽きたのか他の誘惑に負けたのか、ぶどう園から離れてしまうことがあるのです。

 では、こういう「ぶれる」ことがわたしたちの本性ならば、そのことを主イエス・キリストはどう受け止められるでしょうか。主イエスの福音宣教の第一声が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マコ1:15)だったことは余りにも有名です。そして、悔い改めた者たちに差し出されたのは罪の赦しの「洗礼」でした。それが洗礼の意味の最も大きなものでした。

 しかし、歴史が進む中で、罪の赦しの洗礼が重視されていくうちに、洗礼を受けたあとに再び罪を犯したらそれを赦すための二度目の洗礼はもう受けられないので、罪が赦される術はもはやないと教えられた時期がありました。しかし、生身の人間ですから、洗礼後も罪を犯しかねません。その困難を解決するために編み出された教えが、洗礼を受けた後再び罪を犯すことができないようにするために、洗礼を受けるのを死の直前まで延ばすということでした。皆さん、これについてどう思われますか。罪の赦しの見えるしるしとしての洗礼を死の間際まで受けられず、罪の赦しの確かさを与えられず、それゆえに罪の赦しの安らぎを得られないというのです。延ばしていた洗礼を受ける前に突然死に見舞われたら、とうとう洗礼の恵みに与れないことになるのです。この考え方はそもそも間違っています。

4.

 宗教改革者マルティン・ルターは悔い改めと洗礼について何といっているでしょうか。宗教改革運動の発端となったと言われている「95箇条の提題」、正確には「贖宥の効力を明らかにするための討論」の発表が1517年10月31日でしたが、その第1箇条にはこう記されていました。

    私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・』(マタイ4章17)と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。「信じる者の全生涯が悔い改めである」、これは驚くべきことです。一度洗礼を受けたらそのあとは二度と赦されないから、罪の赦しの洗礼は死の直前になどという教えはこのルターの考えに縁も所縁もありません。人は罪を犯し続ける者だという人間理解がここにあるのです。さらに、その都度悔い改めるならば、罪の赦しが得られるのです。何度でも。

 ただし、罪の赦しの洗礼を何度でも受けるのではないのです。洗礼は生涯に一度きりでいいのです。そのあと二度目の罪の時も三度目の時も十回目の時も、悔い改めるときには、ただ一度十字架にかかって罪人であるその人を贖い、その人に赦しを与えられたしるしである洗礼を思い起こすことが勧められているのです。端的に言えば、すでに赦されているのですから、その恵みの前で何度でも悔い改めるようにと言われているのです。

 今日の福音書だけを見れば、悔い改める道筋は洗礼者ヨハネが教えた「義の道」を聞くことが先だとなっています。それは正しいですが、イエス様が身を持って示された人間の悔い改めの道筋はそれだけではありません。

 たとえば、徴税人ザアカイの悔い改めのケースはどうだったでしょうか。悔い改めに到る前の孤独や不安からイエス様を追っかけていたザアカイがいちじく桑の木に登っていたときに、下からイエス様が「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と声を掛けられたことから悔い改めと新しい生き方が始まりました。

 ヨハネ福音書が伝える姦通の女の場合も、イエス様のほうからの語り掛け、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハ8:11)という赦しの宣言が先で、彼女の悔い改めと新しい生き方はその後でした。

 他の女性たちと共にガリラヤからユダヤ一帯での伝道旅行のお伴をしてイエス様の一行のお世話をし、それだけでなく、主の十字架の死を看取り、復活の証人第1号となったマグダラのマリアはイエス様によって七つの悪霊を追い出していただいたことが悔い改めと主に従う生活の出発点でした。

 彼ら彼女らに共通して言えることは、義の道を説き明していただく前に、文句なしに、理屈抜きでイエス様にこれ以上ないくらい優しく接していただいたことが先ずあったのです。神のいのちにあたたかく包まれて、その愛によって目を開かれて、心を開かれて、悔い改めに導かれて、新しい生き方が始まったのです。でも、彼らがその後ただの一度もぶれなかったとは書いてありません。

 そのようなイエス様の愛の関わりがたった一度きりで終わってしまうはずがありません。ペトロが「兄弟が罪を犯したなら、何回赦すべきですか」とイエス様に尋ねたあの問答を思い起こしてください。仏の顔も三度までと言いますが、ペトロは思いきって「七回までですか」と尋ねました。いくら何でもそこまで赦せば十分だろうと内心は思っていたでしょう。しかし、イエス様の答えはペトロの度肝を抜くものでした。「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」(マタ18:21-22)だったのです。

 今朝の旧約の日課をもう一度開いてみてください。預言者エゼキエルを通して語られた神の声です。神の魂の叫びです。30節から32節までを読んでみます。

 「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

 「イスラエルの家よ」というところを、たとえば「江藤直純よ」という具合に、御自身の名前を入れてみてください。「だれそれよ。どうしてお前は死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前は立ち帰って、生きよ」、そう神さまはおっしゃっていらっしゃるのです。お前が立ち帰るのをわたしは望んでいる。わたしは待っている。待ち焦がれている。さあ、立ち帰りなさい。そう諸手を広げて呼び掛けていらっしゃるのです。背いていた者が立ち帰るのを待っていると言われる神さまが、いざ罪人が立ち帰ってきたら、その人を受け入れ、抱きしめ、赦してくださらないということがありえるでしょうか。たとえそれが二回目であろうと、三回目であろうと、七回目であろうと、もっとであろうと、赦してくださるのです。生かしてくださるのです。それが聖書の神です。イエス・キリストです。

 そんな恥ずかしいことはできませんなどと言ってはいけないのです。そんな申し訳ないことはできませんなどと思ってはいけないのです。主なる神様の真心をもう一度聞きましょう。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。・・わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。「あなたは何度でも立ち帰って、生きよ」、それが御心なのです。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


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