2024年5月5日日曜日

愛の連鎖の始まり  江藤直純牧師

使徒言行録 10:44-48; ヨハネの手紙一 5:1-6; ヨハネによる福音書15:9-17

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 すっかり日本語に定着していると思われる言葉の一つに「愛」「愛する」というものがあります。「えっ、どうして定着などと言うのかな?」と思われるでしょう。なぜなら、当然昔からあった言葉に違いないと思われるからです。たしかにありました。使われていました。親子関係、男女の関係は昔も今もあったのですから。

 しかし、日本で長いこと支配的な道徳であった儒教の教えではその徳目に愛という言葉は余り出て来ません。南総里見八犬伝の八つの玉が表わす八つの徳目は、仁義礼智忠孝信悌でしたし、五倫とは父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信です。五常とは父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝だそうです。今やほとんど聞くことのない徳目で、目指された社会秩序も今とは異なります。だから、愛という言葉がここにないのは驚くに足りません。

 それだけではなく、江戸時代の仏教の教えでは、愛は愛欲とか渇愛(水を欲しがるような強い欲望)といった熟語が示しているように、愛とは対象に対する強い欲望或いは執着のことで、迷いの根源とみられていました。そうなると、愛という言葉にポジティブな意味合いを感じ取ることはできないことになります。

 だからでしょうか、キリシタンの時代に宣教師たちが選んだ愛(アガペー)に当たる言葉は、意外に思われるかもしれませんが、「御大切」でした。大切に思うという当時あった言葉です。神の人間に対する愛であり、キリストが身を持って示した愛、私たちの生き方として勧めた愛を表わすのが「御大切に」でした。1600年に長崎で出版された教理書「どちりな・きりしたん」には、あの有名なマタイ福音書22章にある「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」という最も重要な教えを「万事をこえてデウス(神)をご大切に思ひ奉る事と、我が身を思ふ如くポロシモ(隣人)となる人を大切に思ふ事、これなり」と当時の日本語で語られています。「神を愛する」ことを「デウスをご大切に思ひ奉る」と言い、「隣人を愛する」ことを「隣人となる人を大切に思ふ」と言っていることから、「ご大切に思う」という言葉が「愛する」ということだということは明らかです。なぜ、愛という語が選ばれなかったのか。それは愛という当時あった日本語にはネガティブな響きがあり、キリスト教が伝えたい愛、神の愛を表現するのには適切でないと思われたからだと思われます。

 しかし、明治になって文語訳聖書が作られたときには、キリスト教的、聖書的な意味でアガペの愛を表わす日本語として「愛」が選ばれたのです。その代表例が「汝の隣り人を愛せよ」です。明治初期のキリスト教指導者たちは武士の階級の出身が多かったのです。ですから日本文化の伝統の中にあったニュアンスを承知の上のことだったでしょうに、西洋文明に触れ、キリスト教を広めたいと願った彼らは言語学にも優れた宣教師たちと共に敢えて、大胆に「愛」という言葉を使ったのです。漢訳聖書も参考にしたでしょうが、詳しい研究は私も今はまだ不十分です。現在では広辞苑にも明解国語辞典にも載っていない「隣り人」という日本語を隣人に当て嵌めたのも聖書翻訳者たちや当時のキリスト教指導者たちだったと思われますが、その新鮮な言葉を用いて「汝の隣り人を愛せよ」と訴えたことはどれほどインパクトが強かったことでしょうか。

2.

 その愛ですが、私たちは愛というものは一人ひとりの心の中の思いなので、謂わば各人の意思とか主体性とか感情の問題だと考えがちです。愛するのは愛そうという意思があるからとか、愛そうという感情が豊かにあるからという具合に、その人の責任とか資質と結びつけてしまいます。でも、はたして常識とも思えるその考えは正しいでしょうか。

 今では毎日その言葉を聞かない日はないほどに普及しているDV、ドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)ですが、大人同士の場合も、つまり夫と妻ないしパートナー同士の場合もありますが、親子の場合も少なくありません。DVは肉体的な暴力だけでなく、言葉による精神的心理的な暴力もあれば、育児における無視・無関心・否定的な関わりつまりネグレクト、さらには憎しみなどの暴力もあるのです。親ならば子どもを愛するのは当たり前だろう、人間だって動物だって母性とか父性が備わっているだろうと長いこと思われてきました。しかし、実際はそうではありませんでした。先天的に持っていると思われてきた親としての愛情がない、子どもへの愛に満ちた接し方が分からないというDVの親は少なくないのです。いいえ、それどころか調べてみると、加害者つまりDVする親のうち自分自身がDVされた犠牲者だった人はかなり多いのです。子どもの時にDVされているので、つまり愛されていないので、今度は自分が愛する立場になってもいったいどうやったらいいか分からない、どう関わりどう接することが愛することなのか分からないというのです。そうこうしているうちに相手や子どもが思い通りにならずにDVをしてしまうのです。愛するという力は先天的なもの、遺伝的なものだけっでは十分に育ちません。自分が愛されてはじめて人は他者を愛することができるようになるのです。

 「三つ子の魂百までも」と言われてきました。三歳になるまでに、おむつが濡れて不快なときに泣けば新しいおむつに替えてくれて気持ちよくなり、お腹が空いたときに泣けばおっぱいをもらえてお腹は満たされる、それだけではなく、自分の存在を大切にしてもらい、かわいがられ、愛されることを日々の生きる経験の中でしっかりと身に着けることができたら、その子はそれからの長い人生を、人に信頼し、人を愛し、周囲の人々の中で安心して生きていくことができるようになるのです。

「愛された者だけが愛することができる」という言葉は真実だと思います。別な言葉で言えば、「愛は連鎖する」ものだと思うのです。

3.

 ところで、本日の福音書の日課では聖書の中心的な教え、愛に関わる教えが二度も繰り返されています。どなたもが一度や二度どころか、何十回何百回と聞いてこられたあの教えです。12節では「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」、そして17節にもう一度、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と念を押すように繰り返されています。実は13章の34節にもイエス様は同じことをおっしゃっています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。しかも、ここにはこの掟は「新しい掟」だと言われているのです。

 さて、皆さん。この教えのいったいどこが「新しい」のでしょうか。ご存じのように旧約聖書の中に極めて大切な教えが二つ含まれていて、その二つをイエス様ご自身も弟子たちにもまたファリサイ派や律法学者たちにも教えておられます。その二つですが、一つは申命記6章の5-6節です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたがたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。そしてもう一つはレビ記19章18節です。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」、これです。神を愛することと隣人を愛することはこのように聖書に一貫しているのです。

 そして、後者の隣人愛の教えには「互いに」という言葉は出ていませんが、私が隣人を愛する、その人もまた隣人である私を愛する、そうすると、「互いに」に愛することになるではありませんか。そうすると、あの二つの中心的な教え、神を愛することと隣人を愛することは神を愛することと互いに愛し合うこととも言えることになります。そうであるならば、この互いに愛し合うようにとの昔からの教えのいったいどこが「新しい」のでしょうか。そこを考えてみましょう。

 一つは、ここで言う愛は人間の生まれ持った自然の情、男女や家族のうちの情愛と言ったものや、かわいらしいもの美しいものを愛でる心ではないということです。400年以上前に宣教師や日本人の伝道者たちが「御大切」と呼んだものは、そのような自然の優しい感情以上のものでした。相手を、その人の人格や命、生活、人生を、あるいは心、からだ、魂をどこまでも大切にすることでした。相手への好き嫌いの感情とは無関係にどこまでも無条件で相手を受け入れ、認め、生かし、尊ぶことでした。そのために相手の欠けや喪失、痛みや嘆きや悲しみ、苦しみがあればそれを自分を捨てて、自分自身に引き受けてでも、その人を少しでも癒し、補い、助け、救い出すのです。罪の束縛からの解放は中でも大きいものでした。

 日本中のおおかたの子どもたちが大好きなアンパンマンを思い出してくださいますか。アンパンマンは困っている人を救うために何をしますか。テレビや本の世界には悪と戦い悪人をやっつけるいろんなヒーローが登場しますが、アンパンマンには彼らとの大きな違いがあります。決定的な違いがあります。相手が誰であれ、困っていたら、お腹が空いていたら、アンパンマンは自分の顔を惜しみなく食べさせるのです。彼の頭はあんパンでできているのです。それを食べさせるのです。自分が持っているものをではなく、自分自身を差し出すのです。言うならば自己犠牲です。

 原作者のやなせたかしはクリスチャンなのだと耳にしたことがありますが、ちょっと調べたくらいでは証拠は見つかりませんでした。お墓はお寺にあるそうです。やなせたかしがクリスチャンであるにしろないにしろ、アンパンマンの精神、彼の生き方はまさに聖書的です。自己を無にして相手を救うのです。相手を御大切にするために我が身を惜しまず相手に差し出すのです。キリストの愛、キリストを遣わされた父なる神の愛は相手を生かすために、相手を救うために、自分を投げ出す愛、差し出す愛でした。神が私たちのために人となり、十字架にかかるという愛でした。ヨハネ福音書が伝えているキリストの言葉、「私があなたがたを愛したように」というのはどのようにかと言えば、見返りを求めず、無代価で、相手の価値などには一切無関係に、ただひたすらに相手のために自分を、自分の命さえも差し出したようにということでした。このような愛の質こそが何よりキリストの愛の「新しさ」なのです。

4.

 もう一つの「新しさ」、それは私たちの愛には連鎖がありますが、その連鎖の始まりを明確にしている点です。DVの例で申し上げたことですが、私たち人間の愛の連鎖は強固ではありません。悲しいことですが、愛の連鎖はもろく、途絶えることがあります。しかし、愛されたら愛するようになるのです。愛の連鎖が始まるのです。

 三つ子の魂百までもという諺も、愛された者だけが愛することができるという言葉も紹介しました。自分は愛されている、そしてそれゆえに自分は愛していくのだというその信念、確信、価値観があれば多くの困難にも耐えていけます。しかし、余りに大きい困難に襲われると、愛されているという確信が損なわれ、愛する力が萎えさせられるのです。生きていく力が失われることさえ起こるのです。DVに見られる悲劇はさらなる悲劇を生みます。程度はともかく私たちは愛の連鎖が弱ったり切れたりするときに人生の生きづらさを味わいます。

 そういうときにイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じられます。ここで「わたしがあなたがたを愛したように」の「・・ように」に注目すると、「どのように」愛するのかという愛し方を手本を示しながら教えようとしていらっしゃるように聞こえます。もちろんこれはどのようにということも含みますが、ここで注目すべきは何よりも、イエス様が私たちを愛されたという事実そのものです。と言うことは、他の誰が愛してくれていなくても、イエス様は、イエス様だけはこの私を愛してくださったという事実です。私にとっての愛の連鎖の始まりは、大元は、根源はイエス様だということです。

 今日の福音書の日課の冒頭、9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」とおっしゃっています。そのことを別の箇所ではもっと力強くこう言われています。16節です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」のだと。まず私があなたがたを選んだ、先ず私があなた方を愛した、まず私があなたがたを御大切にした。その挙げ句、ご自分を捨てて十字架にかかり、そうです、そうやって私の命を贖ってくださったのです。これ以上の御大切にする方法はありません。

 人間の間でだれ一人私を愛してくれる人がいなくても、イエス様は愛してくださったのです。愛してくださっているのです。そして、その結果、その関係は愛する者同士のこれ以上ない親しい、対等な、全く新しい間柄になったのだと宣言なさったのです。「あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない」(14)と。

 愛とは心の中の思い、情緒的なものにとどまるものではありません。愛は命の営みに現れてきます。生き方にならない愛はありません。ヨハネはイエス様の次の言葉を書きとどめないではいられなかったのです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(16)に、そのため主は私たちを任命なさいました。外に出て行って愛の実を結ぶようにする。愛の実が残るようにする。実からまた新しい命が生まれてくる。芽が出てくる。花を咲かせる。実を成らせる。そうです、愛の連鎖が続いていきます。

 「互いに愛し合いなさい」、二度重ねて言われたこの言葉は最初は「掟」、二度目は「命令」と言われています。しかし、この掟にも命令にもそれを守れなかったら罰せられるという恐ろしい響きは全くありません。これは愛する者に対しての新しい生き方への喜ばしい「招き」なのです。今日の第二の朗読の少し前、ヨハネの第1の手紙の4章には招き、呼びかけということがはっきり分かるように書かれています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(Ⅰヨハ4:7)。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(4:11)。福音書記者ヨハネはイエス様の言葉だけを書き記していて、それに対する弟子たちの応答は書き残してはいません。しかし、私は確信しています。今日の日課に記されているイエス様の語りかけ、呼びかけ、招きを聞いた弟子たちは間違いなく異口同音にこう言ったことでしょう。「アーメン、まことにその通りです。私たちはそういたします」と。私たちもまた弟子たちと共に応えましょう。「アーメン、まことにその通りです。私たちもまたそういたします」と。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年4月7日日曜日

釘  跡  と  指

 2024年4月7日 小田原教会 江藤直純牧師

使徒言行録 4:32-35

詩編 133 

ヨハネの手紙一 1:1-2:2; 

ヨハネによる福音書 20:19-31

1.

 多くの読者に愛された小説家、遠藤周作が亡くなって今年で28年になります。私が高校三年生の夏に読んで大きな衝撃を受けた『沈黙』と絶筆となった『深い河』、その間に書いた、人間の真相を描き出した純文学の小説やユーモア溢れる『おばかさん』や「ぐうたら」シリーズ、そして『イエスの生涯』や『死海のほとり』など聖書を題材にした作品等々、どれもこれも読者の心を打ち、人生を考えさせる作家でした。

 カトリックの信者であることを公言していた遠藤は、文庫本にもなっている『日本人のための聖書入門 私のイエス』という本も書きました。その中にこういう一節がありました。小見出しは「信仰とは『99%の疑いと1%の希望』である』というものです。出だしは、キリスト教の歴史には十字軍だったり魔女裁判のような明らかにキリスト者の過ちもあったこと、信者の中には偽善者と言われるような人もいることなどの反省を述べた上で、「ところで、かく言う私自身を振り返ってみますと、皆さんと同じように、キリスト教に対する先に述べた誤解や偏見にとらわれ、ずいぶん懐疑的になったり悩んだことがあります」と述べ、さらに、「それどころか、もっと本質的な問題である『神の存在』について、現在にいたるまでも、『神はまったくいないのではないか』、という恐ろしい疑いにとらわれることがないとは、言い切れないのです」とまで告白しています。

 その上で、遠藤はこう言います。「しかし、私は神の存在に疑問を抱いたからといって、それがキリスト者として間違った態度だとは考えていません。信仰というものはそういうものであって、99%の疑いと1%の希望なのですから」と。信仰とは95%の確信と5%の疑いであるとでも言うのならば、そうかもしれないと思えるのですが、なんと遠藤は「信仰とは、99%の疑いと1%の希望である」と言うのです。この大変気になる言葉を心に止めながら、今朝の聖書に聴いていきましょう。

2.

 主がその日の早朝復活なさった日曜日の夕方、弟子たちが一軒の家に身を潜めていました。外の者から身を隠すために、扉には鍵が掛けてあったと記されています。どれほど不安いえ恐怖に打ちひしがれていたかが想像できます。それだけに、彼らは復活の主の顕現に大喜びしました。しかし、何の用事だったのか、その場にいなかったトマスはどれほど残念がったことでしょうか。自分もあの日あの時あの場所に居さえしたら、皆と同じように復活の主を信じることができたのに。そう思っては悔しがったことでしょう。彼だって信じたかったのです。ありえない主の復活という奇跡を信じたかったのです。信じたいのに、理性が、常識が邪魔をするのです。トマスの口から出た言葉は、素直な願望の言葉ではありませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしはけっして信じない」(20:25)。

 幸いなことにその一週間後、次の日曜日の夕方、主イエスは再び弟子たちの真ん中に現われてくださいました。しかも、今度はトマスもその場に居合わせたのです。たまたま今度はトマスも居合わせたというよりも、トマスがいる時を見計らって主は現われてくださったのでしょう。それが証拠に、主イエスは一同への平和の挨拶の後、ただちに、戸惑うトマスに向かって語りかけられるのです。一週間前トマスが言ったことを主イエスの方が先手を打ってあのことをするようにと仰るのです。「トマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(20:27)と。気が済むまで何度でも指で、手で傷跡を調べなさい、と言われたのです。科学的に、実証的にあなたの目の前のキリストは紛れもなく十字架のイエスが復活なさった方だということを証明するために調べ尽くしなさいと申し出てくださったのです。これは疑いを晴らす絶好の機会です。疑いから信仰へと変わる掛け替えのないチャンスです。ですが、トマスは折角のこのチャンスを生かしませんでした。自ら放棄しました。そして、なんと「わたしの主、わたしの神よ」との信仰告白をしたのです。

 なぜでしょう。主イエスの申し出とトマスの驚くべき信仰告白の間にいったい全体何が起こったのでしょうか。ここに焦点を当てて御言葉に聴いていきましょう。

3.

 もしトマスが、手とわき腹の傷跡に近づいてよく観察しなさい、ルーペを持ってきてしっかり見なさい、指を入れて調べなさいと言われたならば、彼の疑いを解く姿勢は相手を対象として客観的に、科学的に、実証的に見据えて、距離をおいて観察したり、分析し検査をする、近代人、現代人である私たちのものの見方に通じるでしょう。それは物事への一つのアプローチの仕方でしょう。しかし、そこからは「わが主、わが神よ」という全実存をかけての、主体的な信仰告白が出て来ることは決してないでしょう。

 トマスはどこまで深く考えていたのかは分かりませんが、願ったこと、一週間前に口走ったことは「あなたの手の釘跡に私の指を入れてみる」「あなたのわき腹の槍の傷跡に私の手を入れてみる」ことでした。そして、それを主イエスは許し、二度目の顕現の時に自らトマスにそうするように申し出られたのでした。

 皆さんは子どもの時に手や足に血が出る怪我をして、数日して薄くかさぶたができているところをうっかり触ってしまってかさぶたが破れてしまった思い出はありませんか。今はバンドエイドなどが普及していますから、そんなことは先ずないでしょうが、私も昔は赤チンを塗っただけの簡単な手当をしてまた遊びに出て、かさぶたが破ける痛い思いをしたことがありました。下手すればまた血が出ます。また怪我をしたことになります。

 それなんです。トマスが主イエスに「さあ、いいから、あなたがやりたいことをやってみなさい」と言われたこと、それは、残酷な描写になりますが、主イエスの手の釘の跡に指を突っ込むことは、言うならば、もう一度手に釘を打つことでした。わき腹の槍の傷跡に手をさし入れようとすることは、言うならば、もう一度わき腹に槍を刺すことでした。

 そのことに気づいたとき、トマスはハッともう一つのことに気づいたのでした。それはゴルゴタの丘の上で十字架につけて主イエスを死に至らしめたのは、ローマの兵士でもなく、ピラトでもなく、ユダヤの宗教指導者たちでもなく、ましてや群衆でもなく、実はこの私だったのだとトマスは気づいたのでした。私が、私の罪が主イエスを十字架上で死なせてしまった、そのことにハタと気がついたのです。

 それだけではありませんでした。十字架の死が死で終わっていたならば、トマスは死ぬまで主を死に至らしめたことの負い目を背負い続けなければならなかったことでしょう。しかし、神さまは十字架の主イエスを死んだままで終わらせることはなさいませんでした。主イエスを甦らせることによって、死を死なせて、永遠の命を与えられることによって、十字架の死ヘと導いたトマスとその罪を、神さまはお赦しになったのです。主イエスを復活させられたことにより、トマスは赦され、新しいいのちへと導かれたのです。

 この十字架と復活の秘儀が「さあ、あなたの指を私の手の釘跡に入れてみなさい。あなたの手を私のわき腹の槍の傷跡に入れてみなさい」とのお言葉により、一瞬にしてトマスに明きらかにされたのでした。あなたは私の罪を赦す方、あなたは私の古い命を滅ぼし新しい命を与えてくださる方、だからあなたこそが「私の主、私の神です」と思わず告白しないではいられなかったのです。私の罪、十字架、復活、罪の赦し、新しいいのち、信仰告白、これらが一つとなってトマスに示され、彼は感謝の叫びを上げたのでした。

4.

 トマスは教会の歴史の中で長いこと「疑いのトマス」「疑い深いトマス」と呼ばれてきました。近代人の理性的、合理的な思考法に近い人間だとも思われてきたかも知れません。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書ではトマスの名前は十二使徒のリストの中にしか登場しない地味な存在ですが、ヨハネ福音書ではこの箇所を含めて三度も表れるのです。一つはヨハネ11章で、ベタニアのラザロが死にそうになったとき、いえ、主イエスがラザロは死んだのだと仰ったとき、トマスはエルサレムに近づくのを恐れていた仲間たちに「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言います。彼は見当外れというか的を射てはいないのですが、熱い血の通った、積極的な人間だという気がしませんか。

 同じく14章では、主イエスがあなたがたのために場所を用意しに行くと仰ったときにも、彼はその意味を正しく理解できません。しかし、だから黙ってしまうのではなく、イエスさまに食らいついて質問をします。「主よ、あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14:5)。この質問もトマスが主イエスへの信仰の核心には至っていないことを示しています。しかし、なんとしてもイエスさまのことを知りたいと思えばこそ、この質問をしたのです。そして、その質問はした甲斐があったのです。イエスさまはこのトマスの問いをきっかけにあの極めて大事なメッセージを話されたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。さらに続けて、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない、云々」と言って、キリスト教信仰のもっとも肝腎な、父なる神と子なるイエス・キストと私たちの関係を明らかになさったのです。

 三度目の登場で、復活のキリストを直ぐに受け入れ信じることを否むかのような、強い言葉で疑っているかのようなトマスの言葉はまたもや十字架と復活の秘儀を明らかにするのに役立だったのです。その結果が「わが主、わが神よ」という信仰告白でした。

 「信仰とは『99%の疑いと1%の希望』である」との遠藤周作の言葉を思い出します。トマスのエピソードを聞き、また私たちの経験を振り返って、私は疑いというものには実は二種類あるのではないかと思うようになりました。あることを疑うことによって、疑いを徹底することによって、あることを「否定」する、そのような場合があります。行き着く答えはすでにあるのです。それはあることの否定です。そのために必要なプロセスとして疑うのです。否定のためのステップなのです。もう一つは、あることを「肯定」するためのプロセスとしての疑いです。その疑いを消し去ることができたなら、願っているあるものを受け入れ、肯定することができるのです。今目の前にいるあなたは、ほんとうに十字架上で死んだイエスさまなのか。そうであってほしいと思うけど、そう簡単には信じられない。でも、信じたい。あなたはほんとうに十字架上で死んで、墓に葬られ、復活したキリスト・イエスなのか。そうならば、釘跡に私の指を入れさせてくれ、わき腹の槍の傷跡に手を入れさせてくれ。無茶苦茶な要求のようです。信仰とは正反対の疑いの心そのもののようです。しかし、違うのです。彼は何とかして復活の主イエスを「肯定」するために疑いの声をあげないではいられなかったのです。

 イエスさまはご自分からトマスに向かって釘跡を示し、わき腹の傷を見せて、さあ指を入れなさい、手を入れなさいと言われました。しかし、トマスは指を入れませんでした。手を入れませんでした。指を入れて、手を入れて信じたのではありませんでした。もしそうしたのだったら、もしかしたら次に別の注文、別の疑いを持ち出して、十字架上で死んだイエスだと証明することを求めたかもしれません。理性的な、科学的な、実証的な、いわゆる客観的な証明方法に頼ろうとするかぎり、疑いは際限なく出て来ることでしょう。

 しかし、トマスはこの主イエスとの問答の中で、それとは全く違った、疑いの克服を経験したのです。釘跡に指を入れてみなさいと言われたとき、わき腹に手を入れてみなさいと言われたとき、トマスは気がついたのです。そうすることは主イエスにあの手に釘を打ち付けることと同じ痛みをもう一度与えること、わき腹に槍を刺すことと同じ痛みをまた与えることだと気がついたのです。いいえ、それだけでなく、ゴルゴタの丘で主イエスの手に釘を打ち付けたのも、わき腹を槍で刺したのも、それは自分自身だったということに思い至ったのです。その罪のために主は死なれ、その罪を赦すために主はよみがえらされたのだという十字架と復活の秘儀を神さまから知らされたのです。キリストが身を持って語りかけてくださったのです。これが聖霊の働きだったのです。

 トマスにはこれ以上の疑いもそれを解くための証明や説明ももはや要りませんでした。でも、彼がこの信仰の核心にたどり着くためにはあの疑いが必要でした。信仰に至るためのプロセスとして疑いは必要でした。ただ、その疑いを解く鍵は、客観的な、科学的な証明ではなく、全く別な気づきでした。十字架と復活の見方、理解の仕方は全く変わったのです。繰り返しますが、そこに至り着くためには、あの疑いが必要でした。疑いから解き放たれるための、否定ではなく確かな肯定に行き着くための疑いは私たちにも必要です。99%が疑いでもいいのです。1%の希望がありさえすれば。その希望が疑いを肯定に導いてくれるのです。そうです、疑いのトマスと呼ばれてきたトマスが、福音書の中で最も単純明快な、最も真実な信仰告白へと、「わが主、わが神よ」との主イエス・キリストへの信仰告白へと導かれたのです。私たちにも神さまはそうしてくださいます。アーメン

2024年3月31日日曜日

礼拝メッセージ「キリストの復活」

 2024年03月31日(日) 主の復活 

使徒言行録:10章34~43 

コリントの信徒への手紙一:15章1~11 

ヨハネによる福音書:20章1~18

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

「ご復活、おめでとうございます。」「主キリストは生きておられる、ハレルヤ!」。今朝はその喜びを共に分かち合いたいと願っています。

 主の復活の朝の出来事を、ヨハネ福音書は伝えています。朝早く、まだ暗いうちに、墓を塞いでいた大石が取りのけてあるのを見たマグダラのマリアは、ペトロや弟子たちに、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わかりません」(ヨハネ20:2)と告げました。他の福音書にあるように、ほかの女性たちもそう伝えたのですが、弟子たちは信じません。しかし、マグダラのマリアは譲りません。「彼らは私の主を取り去りました」と必死に訴え続けました。

 彼女の訴えが尋常でないと感じた、ペトロとヨハネは急いで墓に向かいました。ヨハネが先に着き、墓の中に「亜麻布が置いてあるのを見ました」(6)。続いて到着したペトロが墓に入ると、イエスの頭と体を覆っていた亜麻布が頭の方と足の方にそれぞれ丸めて置かれていた。ヨハネも墓に入って「見て、信じた」(8)とあります。

二人は主イエスの遺体がないことを確認しました。マグダラのマリアが言うように、きっとユダヤ人の仕業に違いないと考えたでしょう。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」(9)という聖書の言葉は思い浮かばなかった。この事態を信仰ではなく理性で受け止めた彼らは帰って行きます。

彼らは他の弟子たちと、誰が遺体を取り去ったのか、ユダヤ人か、ピラトかと論議したことでしょう。主が復活されたという考えは微塵もなかったに違いありません。

 弟子たちも、女性たちも、みんなが帰ってしまっても、ただ一人墓に残った者がいました。マグダラのマリアです。復活の主イエスとマリアとの出会いは聖書中で最も美しい情景の一つですね。ここは聖書から味わいたいと思います。

 マリアは墓の外に立って泣きくれていた。身をかがめて墓の中を見ると、遺体を安置する台座だけが見えた。身も世もなく泣きながら台座の方を見ると、白銀の衣をつけた天の使いが二人、一人は頭の方に、もう一人は足の方にイエスの遺体の置いてあった場所にいるのが見えた。

白銀に輝く者は驚き恐れるマリアにこう言いました。「女よ、何故泣く」。マリアは取り乱しきっていました。「私の主を何者かがどこかへ奪ってしまいました」。そう言いながらマリアはなにかの気配を後ろに感じて振り返りました。背後にはいつの間にか人が立っていました。その人が朝日の輝きを背にしていたためでしょうか、マリアはそれが主だとわからず墓地の園丁だと思いました。その人はさり気なくたずねます。

「なぜ泣いている。誰を探している。」マリアは丁寧に答えます。「もし、あなた様があの方の遺骸をお移しになったのなら、その場所をお教えくださいませ。わたくしが参って、お引取いたしますから」。マリアは精いっぱい知恵を働かせます。

 マリアがこう言ったのは、主イエスが亡くなった金曜日の夕刻は誰も気がせいていましたし、その上、苦悩のさなかで誰も墓地管理者への手続きのことなど考えも及ばないまま、総督ピラトから許可をもらうや、そのまま墓に納めてしまったからです。ですから手続きが正式に終わるまでの間、園庭が遺体を保管しているのなら、引き渡しを許可してくれるだろう。マリアはそのように考えたわけです。

男性中心が当たり前であった当時の社会において、マグダラのマリアは、弱く小さくされた人たちの代表です。中でも、主イエス一行の世話をしてきたマグダラのマリアを始め幾人かの女性たちはゴルゴタの丘の処刑場にひしひしと迫ってくる恐ろしさやむごたらしさ、居丈高な祭司達や律法学者達という権威者の集団にもひるまず、男の弟子たちが近づき得なかった十字架近くに、ただ信仰と愛だけを力にしてたたずみ続けたのでした。私たちはこの女性たちのうちに愛の強さを見ます。主キリストはまずこうした女性たちの代表であるマグダラのマリアに現れ、彼女に復活の最初の証人の栄誉を与えました。

 主は「マリア」と彼女の名を呼びました。これまでに聞き慣れた、あのなつかしい声で、マリアはその人が主イエスだとわかりました。

マリアはじめは驚愕し、それから歓喜が彼女を包み込みました。「ラボニ!」。マリアは思わず両手を差し伸べて叫びました。 

 ところで新約聖書の原典はギリシア語で書かれていますが、「ラボニ」は、ヘブライ語です。そして16節に「先生という意味だ」という注釈がついています。「マリア」と呼ばれ、「ラボニ!」と叫ぶ。本当に美しい魂の響き合いです。

 嬉しさのあまり、主の足にすがりつこうとするマリアに、主はこう言います。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』と。」(20:17)

恐らくマリアは、ラボニが、復活以前の命、つまりこの世の命に戻られ、また今までどおりになられたと考えたのですが、主キリストは、それを否定されました。そして、今からは友人たちの間におけるような、触れ合いはもうなくなると示されました。キリストとこの世の間には、仕切りができた。しかし、仕切りはあるけれども主が共におられるということは変わらないのです。

主は「私にさわってはいけない」と言い、そして、彼女に「私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」と告げました。

 イエス・キリストは死に、葬られ、死人の中から復活し、今やこの世の命

からは離れています。死んだということは、もはや、この世のつながりからは断ち切れているということです。「私にさわってはいけない」とは、それを言っておられるのです。

ところが、触ってはいけないと言われたその次に、主キリストは「私の兄弟たちに伝えなさい」とマリアにおっしゃいます。

「私の兄弟」とは弟子たちのことです。ここには、天上のことと地上のこととが結び合わされているに違いありません。ルターは「あなたがたは、私の兄弟だ」と言われた主キリストの言葉に注意を払うべきだと言っています。弟子ではなく兄弟だ。あなた方はご自分と同じく天の父を父として慕い、そして従う「神の子」だと言っておられるということです。

主が兄弟姉妹であると言われるとき、旧約の兄弟関係と異なり、現代の法律が定めるように、兄弟は誰もが同等の権利をもっています。お互いに同等であり、上下の関係はありません。「私の兄弟たちのところへ行って伝えなさい」というこの主の言葉は私たちを誇らしくしてくれます。

主に命じられ、マリアは走り出しました。泣きながら笑い、笑いながら泣き、そして走りました。「ラボニは、『あなた方は私の兄弟だ』と伝えなさいとおっしゃられた。この恵みの言葉、救いの言葉を一刻も早く伝えよう。十字架から逃げ出して、自分を責めているあの人たちに今すぐ伝えよう。「ああ嬉しい!なんて嬉しい!」彼女は心の中でこう何度も、何度も繰り返し叫びながらひた走りました。

ところでこの間に主は「父のみもとに上り終えた」ようです。なぜなら、この後で、主は戸が閉まっているのに現れ、トマスに手と脇腹の傷を示されるからです。四福音書を総合すると、ヨハネ福音書が最後に書かれるまでの約60年の間に各福音書が補完しあいながら主イエスの死から昇天までの各段階が踏まれていることが見てとれます。

一人の歴史的な人物としての主イエスと、コリント書に見られるように、天的で霊的な主キリストをつないでいるのが福音書と使徒言行録に記されている弟子たちのイエス・キリスト証言だと言えます。

最後になりますが、私は、復活の主を思うとき、「主イエスは生きている」と信じ、またそのことを病気や引越しの日々の中でも実感しています。それはきっと信仰告白と似たものです。「今も実在している主イエス」こそが、私が皆さんと分かちあいたい復活の主です。

この11年の間、この温かな主、あなたを愛し抜いておられる主、あなたを大好きな主、責めずに忍耐して回心を信じて待ち、共に生き、深く憐れんでくださり、どこまでも赦してくださる主。皆さんと共にこの主の恵みにあずかって来られた幸いをここに深く感謝します。天への希望をもって、この主と共に生きていまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年3月17日日曜日

礼拝メッセージ「復活に向かって」

2024年03月17日(日)四旬節第5主日  岡村博雅

エレミヤ書:31章31〜34 

ヘブライ人への手紙:5章5〜10 

ヨハネによる福音書:12章20〜33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所は私たちにとても大切な主イエスの真理を示してくれます。それは主イエスがご自身を完全な犠牲として神にささげられるということです。というのはエルサレム神殿で行われてきた昔ながらのやり方では、祭司が犠牲の動物の頭に手を置いて、人間の罪をその動物に移し、その動物を屠って焼き尽くすことで自分の罪が赦されるというものです。ユダヤ人はモーセの律法に遡るそういう形ばかりの贖罪を続け、その一方で「神の家」を金儲けの場所にしていました。

 しかし心あるユダヤ人たちは詩編51編17-19節のように真実の祈りを捧げてきました。「わが主よ、私の唇を開いてください。/この口はあなたの誉れを告げ知らせます。あなたはいけにえを好まれません。/焼き尽くすいけにえを献げても/あなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。/神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません」。このようにその昔から、神の求めるいけにえは砕かれた霊であり、神は砕かれ悔いる心を喜んでくださる方なのに、主イエスの時代には神殿礼拝はもはや形ばかりとなって完全に腐敗していました。

 神殿を本来の神の家の姿に立ち返らせるため、神殿商人たちを激しく追い出した主イエスに対して、ユダヤ人たちは、主イエスが宮きよめをする権威があることを示す「しるし」を求めました。それに対して主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたことを私たちは読んできました。今日は主イエスがおっしゃる「新しい神殿」、「まことの神殿」について聞いていきたいと思います。

 この神殿について、第一朗読で神は、「その日が来る」、「彼らは皆、私を知る」、「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」と言われています。すごい恵みです。

 そして第二朗読では、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました」。キリストは「完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となった」と高らかに宣言しています。

 今日の福音書箇所に入っていきましょう。まず注目するのは24節です。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とあります。

 「麦が死ねば」とありますが、現代人の見方からすれば、地に落ちた麦はもちろん死ぬわけではありません。しかし、麦粒が麦粒のままでいようとすれば、1つの麦粒のままです。麦粒が畑に撒かれ、自分を壊し、養分や水分を受け入れ、ほかのものとつながってこそ、豊かないのちが育っていきます。

 ここで主イエスはご自分を麦の種にたとえています。種は、まかれると種そのものは壊れてしまう。その時種は自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのではなく、自らを壊して、新しいいのちに育っていきます。この種の譬え、それは主イエスのいのちのあり方そのものではないでしょうか。主イエスは、死を超えて、神とのつながり、人とのつながりに生きようとなさいました。

 そこにまことのいのち、永遠なるいのちが芽生えて、やがて想像を絶するほどの多くの実を結びます。種の中がすべてと思っていたときからは想像もつかないような、栄光の世界、復活の世界、神の国の世界が現れてきます。

 ではこの種は私だと思ってみてはどうでしょうか。新しいいのちのことは、種が種のままでいたら分からない。ここから永遠のいのちが生まれて、そこに、本当の私が誕生していくのだということは分からないでしょう。永遠のいのちの誕生を知らないままに、いくら種の中で考えても、種の意味など何も見いだせないということが、分からないわけです。

 昨日たまたま、ALSやパーキンソン病の方の報道番組を見たのですが、たとえば「もう死にたい」と言っているのは、「こんな種はもういやだ」と言っているようなものだと思いました。「死ぬのが怖い」と言っているのは、「この種が失われるのが怖い」と言ってるようなものです。

 どちらも、種の中の話に過ぎません。その種を脱ぎ捨てて、神さまのまぶしい栄光の世界に生まれ出て行ったときのことを考えずに。暗い種の中で、種の中のことしか考えてない。私たちっておうおうにしてそんな日々を送っているといえないでしょうか。

 またヨハネ12章32節で、主イエスが「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と言っておられますね。

 主が「すべての人」っておっしゃるのですから、千人いたら千人、万人いたら万人、「ひとりも残さず」です。「ひとり残らず、自分のもとへ引き寄せよう」というのが、イエスさまの約束です。この主イエスの約束をこころに受け入れて信じるのがキリスト者です。

 「地から上げられるとき」というのは、つまり、「十字架と復活のとき」ですね。主イエスは真っ暗な夜、凍った冬をくぐり抜けて、そして、桜が満開のような喜びの日々を、私たちにもたらしてくださいました。私たちは、この希望を新たにします。

 「すべての人を」、「みんな引き寄せよう」と言われる。本当にありがたいです。

 「ああ、一人こぼれた」とか「一人落ちたようだけれど、まあいいか」とか、そんなことは、あり得ないわけです。「すべての人を、もれなく、主のもとに引き寄せてくださる。神がなさること、主イエスがなさることですから漏れも抜かりもありません。

 信仰って、単純なことなんですね。シンプルなものなんです。あんまり複雑にしてはいけないものです。私たちはちょっと考え過ぎる悪い傾向があって、恐れたり、悩んだり、いろいろ考えていろいろ言いますけど、「素直に」でいきましょう。私もこの14日にこれまで検査を受けてきた結果が出て、正式に「パーキンソン病」という診断が出ました。でも。大丈夫、大先輩方が前を歩いてくれていますし、何しろイエスさまがいつも一緒にいてくださり、一番いいことをしてくださる。とはいうものの人間としての不安は消えませんが、聖霊の助けがあり、力づけてくださいます。主を信じて安心しておまかせしようと思います。

 神は愛そのものですし、主イエスは、すべての人を、どんなダメな人でも、ご自分のもとに引き寄せてくださる。それはもう、「その人のあらゆる条件を超えて」です。もちろん、人間である私たちは、どうしてももっといい人になろうとか、もっと上手にやろうとか考えますが、それはそれでよしとしましょう。でも、そういう行いとか努力とかいった一切のことを圧倒的に超えた「神さまの愛の大きさ」っていうものを、素直に受け止めましょう。

 私たちは、「主イエスは復活した。神はすべての人を復活させてくださる。私たちもみんなで、天の国で喜びあえる」と、そういう本質を素直に信じましょう。確かに今はまだ、戦争の悲惨の中にいて忍耐している人々がいる、飢餓の中で助けを求めながら忍耐している子どもたちがいる、自然災害の困難な生活の中で忍耐している人々がいる。私たちもそれぞれなにか忍耐していることがあるんじゃないでしょうか。気候にしても、ちょっと寒かったり、ちょっとつらかったりしますけれど、それは、やがて復活の栄光の世界がくるっていうことのしるしです。

 今日はこの後で二見茜さんの召天後1年記念の祈りを行います。1年前の2月末に病床で洗礼を受けた茜さんは、いのちの神秘を悟って、3月17日に永遠のいのちを信じて召されました。そして今日は茜さんの記念の祈りのあと、茜さんが作ってくれたきっかけで湯河原教会に通い始めたお母様の二見美保子さんの洗礼式を行います。このように母と娘が同じ日に天の祝福を受けることになりました。この日は神が備えてくださったもの、天からの祝福です。

 最後に私のことも付け加えさせていただくなら、今日は私が湯河原教会の牧師として、引退前の最後の説教をさせていただいた日です。この日を洗礼式で締めくくれる。このような破格の恵みを主は与えてくださいました。主イエスの父なる神さまは、まことに、恵みの神、憐れみと慈しみの愛の神です。皆さん、この神を信じて決して間違いはありません。感謝です。本当に感謝です。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2024年3月10日日曜日

礼拝メッセージ「圧倒的な愛」

2024年03月10日(日)四旬節第4主日   岡村博雅

民数記:21章4〜9 

エフェソの信徒への手紙:2章1〜10 

ヨハネによる福音書:3章14〜21

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 「聖書の中であなたが最も大切にしている聖句は何ですか」と聞かれたら、私は迷わずに今日の福音書箇所、中でも3章16節をあげます。それは父親が私に信仰の手ほどきをしてくれた思い出に遡るみ言葉だからです。

 私は中学からあるキリスト教主義学校に入学しました。毎朝礼拝から始まり、週1コマの聖書の授業がありました。ある夜の団らんで、父は私にこう言いました。「英語を習っているんだろう?John three sixteen.て言えるかい?」「簡単だよ」と私が応じると、父は「John three sixteen. John three sixteen.」とゆっくりと繰り返し、「ヨハネ3章16節だ、小聖書と言われている箇所だ、ヨハネさん、ていうところが面白いだろ、ヨハネ3の16」とほほ笑みました。私は「John three sixteen、ヨハネ3の16」とまるで呪文のように、得意な思いでくりかえしました。この光景を思い出すたびに、あのゆっくりとした父の声音が聞こえてきます。私にとっての信仰の原風景です。

 後になってですが、この聖句は「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」という神さまの思いを徹底して強調している。「主イエスは一人残らず救う。その主イエスを全面的に信じる」ということこそが福音の鍵だと思うようになりました。

 私は神学校に入る前に一つ気になっていることがありました。それは「主を裏切ったユダは永遠に救われないのか」ということです。主イエスを裏切ったのは他の弟子たちも同じです。主が陰府にくだったのは、陰府にいる人々の霊を救うためではないのか。特に神学校で学んだ期間に、神が「一人残らず救う」ということを、心から信じたいと思っていました。というのは、一人残らず救われるのでなければ、この自分は救われないのではないかという思いがあったからです。

 今でこそ、「私は絶対救われます」という顔をして話していますし、実際、今はホントにそう信じています。最近、自分がパーキンソン病らしいということが分かって、診断が出るのは来週なんですが、すぐにではないだろうけれど、自分は天国に行くんだなということが現実感覚になりました。皆さんは、どう思いますか?天国を信じていますか? 

 言うまでもなく、皆さんも私も天国に入ります。もう主イエスの救いのみわざにおいて天国に入り始めておられるし、最終的には神さまが、みんな入れてくださいます。皆さまとも、いずれあちらでお会いしましょう、ということですね。

 けれども、神学校に入る前後は、そこを信じきることができなかった。自分はホントに救われるんだろうかと、不安でした。自分はご都合主義で人への思いやりが足りないし、愛のうすい自分を呪ったり、それまで身につけてきた、上から目線がちっとも変わっていかないし、それは本当は自分が弱いからだと、自分をはかなんだりしました。

 ですから、祈って、もっと頑張ろう、もっと立派な人間になろう、もっといい人間になろうともがいたけれど、これが、そうなれないわけです。自分でいうのもなんですが、私は、わりあいそういうところを純粋に頑張ったりするたちなんですが、そうなれない。変わらない。いつまでもおんなじ弱さ、おんなじ自分かわいさ、おんなじ冷たさが心に巣食っている。表面は取り繕おうとしても、ああ自分は愛がないなあ、自分は弱い人間だなあと思わされるばかりです。神学生当時はそういう自分と日々向かい合っていました。

 実際、いろいろなことがありましたが、わが身の弱さとか、自分のずるさとか汚さとか、そんなことばかりだったと思い出されます。でも隠したり、無視したりしていたそういう自分自身を少しずつですが明らかに認識できていきました。神学生時代ってそこが重要だったと思います。必死にきれいになりたい、立派になりたいと願いながらも、ぜんぜんそうならない自分というものに、やっぱり、苦しんでいたわけです。恐れてもいたわけです。

 そんな自分でも、神さまは、牧師として使ってくださるんじゃないかと期待して、ともかくがんばれば少しは進歩するだろうと思い込んで神学校にしがみついていたものの、ちっとも本質的には成長しない。そんな自分にとって、最大のテーマは「一人残らず救われる」という、救いの普遍性だったわけです。主イエスがおっしゃるところの、この「一人も滅びないで」というところを最後の砦にして、そこにすがっていないと、自分が救われないわけです。

 そんな日々が、懐かしいといえば、懐かしいです。こんな自分が神学校にホントに入れるだろうかと思った時があり、入ってからはこんな自分がホントに牧師になれるだろうかと思ったこともたびたびでした。牧師への道が閉ざされてしまいそうで、口には出せませんでしたが、私も救われるんだろうか、という思いがありました。もし99人が救われて一人が滅びるんであれば、その一人は自分だろうな、という思いです。

 しかし、もし100人救われるんであれば、こんな安心なことはないわけで、宣教研修に3度挑戦して、なんとか神学校にいる間に、ついに私はそれを信じることができました。主イエスこそは100人全員を救う方だ、最後の一人をも必ず救う方だ。神はそれを望んでいるからこそ、主イエスを遣わしてくださったはずだと、信じることができました。

 というか、もう信じる以外に何もなくなってしまいました。そのことで思い悩んで格闘して、いろんな体験もして、そして卒業前に間に合いました。私は「一人残らず神が救う」ということを確信できました。確信して教職受任按手を受けました。

 さて今日の第一朗読、民数記21章4-9節を踏まえて福音箇所の14節に「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とあります。この話ですが、紀元前13世紀、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の厳しい生活に耐え切れず、神とモーセに不平を言った。その時「炎の蛇」が民を噛み、多くの死者が出て、民はようやく回心した。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』と。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」というのです。

 蛇は古代の人々にとって、不思議な力を持つ存在で、人間を害するもの=罪や悪のシンボルでした。しかし、モーセの青銅の蛇以後は、同時に、いやしと救いのシンボルにもなりました。この2面性が十字架の2面性と通じています。十字架もまた、のろいと死のシンボルでしたが、キリスト者にとっては救いといのちのシンボルになりました。

 主はこの故事を踏まえて、ご自分も十字架にあげられなければならない。そのことによってすべての人が救われるのだとおっしゃいます。

 真の愛には条件なんてありえません。主イエスの愛は真の愛であって、主はすべての人を救うためにこの世にこられて十字架を背負われた。もう人種とか宗教とか、あるいは良い人とか悪い人とか、どれだけ理解したとか、していないとか、そういうことを十字架の愛は超越しています。神は、すべての人を必ず救います。問題は、そのことを信じているかどうかです。主イエスは神の愛そのものですから「イエスを信じる」というのは、まさにそれを自分自身が信じるかどうかです。

みんなが必ず救われます。主イエスはすべての人の救い主です。それを信じることが、救いです。

 もしここに信じない人がいるとしたら、「そうは言っても私は駄目かもしれない」と疑う人がいたら、その疑いがあなた自身を裁いてしまっているということを、今、ヨハネの福音書で読みました。その疑い、その恐れが、すでに裁きになっているというところです。

 ただどれだけそう語ったり宣言したりしても、人の中には恐れの気持ちというのがあって、そうは言っても私は駄目かもしれないとか、でも、あの人は無理でしょうとか、みんないろんなこと言い出します。

でも、第2朗読の8,9節、パウロの言い方でいうならば、「神は恵みによって私たちを救う。それは私たちの行いによるのではない」。つまり救いは人間の考えによらないのです。「あなたのことが大好きだ、あなたを愛している」というその神の恵み、憐れみ、圧倒的な神の愛、その愛を信じて生きていこうというのです。まさにルターが言うように救いは「恵みのみ」ですね。

 あなたも私も、そして全ての人が主イエスによって救われています。

お祈りします。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2024年3月4日月曜日

拝む前にすべきこと

 2024年3月3日 四旬節第3主日 小田原教会 

江藤直純牧師

出エジプト20:1-17;Ⅰコリント1:18-25;ヨハネ福音書2:3-22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 宗教とは何かーーいざ正面切ってこう問われたら、あなたはどうなさいますか。なにかしらの宗教を持っている人も自分は無宗教だと思っている人も、宗教とは何かと即座に簡潔に答えるのはおそらく容易ではないでしょう。学者なら一つの論文、一冊の書物が書けるかもしれません。そういう議論や研究はさておき、ほとんどどの宗教にも共通して見られる要素の一つに、人はそこで拝むという行為をするということがあります。私たちは体で表現する行為としてだけでなく、心の行為或いは姿勢として拝むということをするのです。拝む、自分より、人間よりも優れた存在に尊崇の念を抱き、自ずと頭を下げ、そればかりでなく背を曲げ、腰をかがめ、時に跪くことさえあります。五体投地という全身を地面に投げ出すこともあるのです。拝むこと、これは宗教と切っても切り離せない行為の一つです。

 日本人ならだれもがお馴染みの神社仏閣へのお詣りの際に、そのやり方には二礼二拍手一礼もあれば、型にはまらずにただお辞儀をするだけの場合もあるでしょうが、とにかく拝みます。イスラム教の信者は一日に五回礼拝の時を持ちます。インドネシアに行ったとき、朝の5時でしたか突然近くのモスクの塔の上のスピーカーからコーランの朗読が聞こえてきて驚きましたが、人々はそれを聞きながらそこで跪いて拝みます。ある時国際線の飛行機に乗っていたら、一人の人が機内の一番後ろのちょっとスペースがあるところに小さなカーペットを敷き、そこでイスラム式に拝み始めました。聖地メッカのほうを向いているということでした。

 キリスト教、とくにプロテスタントではあまり拝むという言葉を使わないかもしれません。むしろ礼拝という言葉を好みます。礼拝という言葉を辞書で引いてみましたら、キリスト教やイスラム教で神を拝むことと書いてありましたので、何だ要は同じではないかと思ったことでした。礼拝の拝は拝むことです。漢和辞典で「拝(拝む)」を引けば、テヘンにコツの組み合わせで、両手を平行に前に出し、頭をそこまで下げる礼の仕方だと説明されていました。

 礼という漢字の旧字体はシメスヘンに豊かというツクリの組み合わせです。豊の下半分は豆に見えますが、これはもともと高坏、供え物を載せる台です。その上にうず高く物を積み上げた形です。禮とは神にお供えをすること。お供えをするのは、神をたよりにして、幸福を招こうとすることで、そこから頼る、足がかりにする、さらには手順を尽くすこととなり、踏み行うべき道というようになってきたと説明されています。

 いささかマニアックな説明だったかもしれませんが、拝むとか礼拝するということの意味を、自分よりも優れた存在への尊崇の念の表現だと私は申しましたが、漢字の起こりから探っていけば、人間の幸福のために神に頼ろうという思いの表現だったということになります。その幸福は現世利益とか物質的なものの場合もあれば――この方が多いのですが――もっと精神的な場合もあるでしょう。しかし、突き詰めれば自分のためにする神に向けられた思いであり行為ということになるでしょうか。それのどこが悪いか、自分が自分のために生きて何が悪いのか、それが人間だと開き直ることもできるでしょう。

2.

 人間は不完全な存在です。万事が思うどおりにうまく行くわけではないし、怪我や病気もします。苦労もあれば不幸だと思うことも経験します。自分自身ではなく親しい者のために願いごとをすることもあります。その苦境から脱するために神仏を頼り拝むことをするのは当然だと思います。自力の限界を知り、神に頼り、願いごとをすることは当たり前です。しかし、そこで気をつけなければならないのは、いつのまにか人間が神を利用してはいないか、神を人間に仕えさせることになってはいないか、ということです。

 エジプトでの奴隷状態からの解放をと切に願い、神に聞き入れられて脱出、出エジプトの夢が叶えられたけれども、荒れ野での苦難が続いたときについに辛抱しきれなくなったイスラエルの民がやってしまったことは、金の小牛を作ってそれを拝むことでした。自分の願いを叶えてもらうために、自分たちの思い通りになる神を作ったわけです。それを拝み礼拝したわけです。出エジプト記32章に記されているこの出来事は四千年経った今も本質的には似たようなことが宗教の中に、と言うか私たちの生き方の中にあるのではないでしょうか。

 そのことを念頭に置いて、今朝の福音書の日課を見てみましょう。神殿でイエスさまが「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」そこで商売をしている者たちに激しい叱責の言葉を浴びせられたのです。イエスさまと言えば優しい愛の方だと思っているので、この力ずくのと言うか暴力的な振る舞いには正直度肝を抜かれます。しかし、その行動の是非を論じ始めると、ここでのイエスさまの憤り、怒りの原因、批判が向けられた事柄について考えることから逸れてしまいますので、気にはなっても、力の行使の問題はしばらく脇へおいておきましょう。

 イスラエルには宗教施設として二種類がありました。イエスさまご自身も子どもの時からそこで育ち聖書に親しみ教育を受け、成人して福音宣教を始められてからも安息日の礼拝の時に聖書の説き明かしをなさったのは町々村々にあったシナゴーグと呼ばれた会堂でした。安息日の礼拝では聖書が朗読され、誰かが説き明かしをします。祈りや詩編の讃美もなされたことでしょう。でも、そこではなされずに、エルサレムにある神殿でだけなされることがありました。それは、礼拝の時には動物の犠牲や穀物などが献げることでした。ユダヤの伝統で特に重視されたのは動物の犠牲、いけにえでした。清い動物とされた牛、羊、山羊が捧げられましたが、貧しい者は山鳩や家鳩を献げました。赤ちゃんイエスを主に献げるときには山鳩一つがいか家鳩の雛二羽だったとルカは記しています。その犠牲を献げる場がエルサレムの神殿の一角にありました。新共同訳聖書の訳語では、焼き尽くす献げ物、贖罪の献げ物、和解の献げ物、賠償の献げ物とされています。

 地方から都エルサレムに出て来たときに犠牲にする動物を連れてくるのは大ごとですから、神殿で買い求めることができるなら便利です。賽銭も流通していたローマの硬貨は神殿にふさわしくないので、ユダヤの硬貨に両替をしてもらうのが必要でした。ですから犠牲のための動物を買ったり、ユダヤの貨幣に両替をしてくれたりする商人たちの存在は必要と思われていました。たとえ、彼らが神殿当局と裏で通じて不当に儲けていたとしても、です。それが宗教でした。でも、それは人間の宗教です。人間が作り上げた宗教なのです。

 旧約聖書のあちこちに、たとえばアモス書の5章(22-24節)やイザヤ書の1章(11-17節)には、神が人間の犠牲を嫌って、むしろ倫理的な生き方をこそ求めていることが明確に語られています。詩編51編には詩人が真摯にこう謳い上げています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけには打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩51:18-19)。

 私たちは自分の願いごとを聞き入れてもらうことにばかり気を取られて、肝腎要の祈り願う当の相手がいったいどのような方であるのかをつい忘れてしまっているのです。礼拝すると言い拝むと言いながら、実は自分の願望という眼鏡を通してしか相手を見ていないのです。いやそもそも相手がどなたであるかを見ようとしていないのです。自分は何が得られるかが唯一最大の関心事なのです。だから、自分がする礼拝の仕方、犠牲の献げ方にばかり目が行ってしまい、あくどい輩はそんな宗教心につけ込んでそのような宗教的な人を商売の種にし、利益を貪っているのです。イエスさまが神殿で目にされたのはそのような悲しい人間の性でした。怒り、憤りは悲しさの裏返しです。

3.

 そのような私たちがなすべきことは何でしょうか。いったいどのようにしたら当の拝み礼拝するお方を知ることができるのでしょうか。その手掛かりとして今朝の旧約と使徒書の日課が与えられています。まずは出エジプト記20章です。神が語りかけられます。出だしはこうです。「わたしは主、あなたの神」(20:2)。神が私は神だ、主だと意味もなく繰り返しているのではありません。「私は主」であるということは誰かがそう認めたから主なのではない。人間がどう言おうと、認めようと認めまいと、信じようと信じまいと、私は主なのだ。あなたの支配者、保護者、導き手、どこまでもあなたに責任を持つ者であると自ら宣言なさるのです。そして続けて「あなたの神」であると言い切ります。抽象的な神でも一般的な神でもなく、あなたは私の子、私はあなたの神、あなたの命を造り罪と困難から救済した者なのだ。だから、十把一絡げにではなく、あなたに向かって「あなた」「だれそれよ」と親しく名前で呼び、人格的な交わりを求める神なのだと言われるのです。それだけでなく、あなたと歴史の中ではっきりとした関わりを持ったあの神だと名乗られます。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と。想い出せ、あの出来事を、私があの神なのだ、と声を掛けられるのです。

 その上で十戒を授けられますが、その一番目は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。汝我ノホカ何者ヲモ神トスベカラズ、と文語調で言えばなおのこと厳しく響きます。厳格な禁止命令のようです。しかし、ここはよくよく注意してこの語りかけを聞かなければなりません。ベカラズ、スベカラズばかり並んでいる印象ですが、十の戒めを語る前に神はそもそも自分がどのような神であるか、イスラエルの民とはどのような関係であるかを簡潔に語っています。私はあなたを奴隷状態から救出、解放したあの神だと言うのです。つまり、恵みの神、慈しみの神、あなたを救い出さないではいられない愛の神であることを思い起こさせるのです。だからあの第一戒は、私のほかにだれか別の神を拝むなという単なる禁止命令ではなく、あなたにはこのような私がいるのだから、あなたはもはや私以外の他の神を捜し求め、拝みひれ伏すなど全く必要はないのだと優しく諭しているのです。心を他の神に向けようとする者への怒りとか妬み嫉みなどから厳しい禁止命令を発しているのではなく、この神の本性を知れば、この神と自分との関係を想い出せば、他の神々などあなたの人生に出番はないはずだと気づかせようとしているのです。残りの九つの戒めも、宗教、倫理、道徳の集大成という受け取り方をするのではなく、愛の神が愛して止まない自分の子らに、愛されている者にふさわしい、自由で愛に満ちた生き方、在り方へと招いている言葉だと理解したいものです。願いごとを胸いっぱいに携えて、拝みひれ伏し犠牲を献げようとしている者たちに、先ずはその当の相手がいったいどのようなお方であるかを聞くことを旧約の日課は示しています。

 使徒書の日課は、イエス・キリストがどなたであるかということを使徒パウロの証言という形で私たちに明らかにしています。パウロはキリストのことを端的に「神の力、神の知恵」(Ⅰコリ1:24)と言います。キリストについて語られた言葉、いえ、それだけでなく、キリストが語られた言葉、突き詰めれば、キリストご自身という言葉を「十字架の言葉」(同1:18)だと言います。キリストの生涯と教えを凝縮すれば十字架なのです。だから使徒は「十字架につけられたキリストを宣べ伝えてい」(1:23)るのです。人間的に見るならば、惨めな敗北のしるし、屈辱と弱さそのものにしか見えない十字架、「ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなもの」(1:23)である十字架、しかしその十字架とは、それによってのみ私たちを救うことを決意され、御子によって実行された「神の力、神の知恵」なのです。私たちの理解を超える関わりをしてくださるのがこの神なのです。

 こういうことは私たちが外側から見るだけでは分からないことです。外観から判断できることではないのです。人間同士のことに置き直して考えてみましょう。あの人きれいだなとか、見てくれが悪いなとか、こちらからの観察、判断では相手の人の本当の姿、本質的なことまでは分かりません。相手が心を開いて、口を開いて、自分の思いや考え、とくに私に対する心情を語ってもらわないと、その方のほんとうの姿、本質は分からないのと同じです。神もまたそうです。私という神はこういう者だ、キリストという方の真の姿はこういうものだというのはあちら側から語ってもらい、それに耳を澄ませ、心の耳で聴き取ってはじめて、相手がどういう存在かが分かるのです。

 十字架は単に政治犯への処刑の道具としか受け取れず、ゴルゴダの丘での悲劇は残酷だなとか可哀想だなとしか思えなかったのが、神さまがイエスさまを死から復活させてはじめてそれが私たちを罪から救い出すための唯一の手段だったことが分かったのです。人間が作り上げた宗教では決して分からないこと、人間の想像を超えた神の思いと行動は唯だ聴くことから始まります。熱心ではあっても闇雲に拝む前に、まず神の言葉を聴こうではありませんか。心を開いて十字架の言葉に耳を傾け、語ってくださっているのがどなたなのかを知ることができるようにしていただこうではありませんか。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年3月3日日曜日

礼拝メッセージ「ここから運び出せ」

 2024年03月03日(日)四旬節第3主日

出エジプト:20章1〜17 

コリントの信徒への手紙一:1章18〜25 

ヨハネによる福音書:2章13〜22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所では主イエスが神殿から商人たちを激しく追い出したエピソードが語られています。「宮清め」と言われる出来事です。それは普段の主イエスから想像もできないほど激しいものです。福音書記者のヨハネはよほど驚いたのでしょう。その様子を詳しく書いています。過越祭でにぎわう神殿で、イエス様は激しく怒り、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない」。私たちも驚くこの主の行動は私たちに何を示しているのか。ともに考えてまいりましょう。

 主イエスが、お金とか、商売の道具とか「このような物はここから持って行け」とおっしゃっいました。なぜそういうことを言うかというと、「ここは父の家だ。神と人がひとつに結ばれる、聖なる場だ。ここに、商売の道具やお金は必要ない。そういうものがここにあると、そういうこの世の思いに支配されて、天の父のみ心が分からなくなってしまう。だから、この世のものはここから運び出してほしい」。主イエスはそう思っておられるからです。

 「ここから」運び出せという「ここから」は、主イエスが共におられる皆さんの心のことです。特に洗礼を受けたキリスト者と洗礼志願者の心のことです。確かに、いろいろとこの世の心配はあります。お金のこととか、仕事のこととか、この世の思いから完全に離れることは難しいですけれど、キリスト者はともかくそういうものを心から運び出して、心の中を神のみ心でいっぱいにしたいものです。

 「このような物はここから持って行け、運び出せ」という主イエスご自身は、あらゆる人間的な考えから離れて、ご自分を神さまのみ心でいっぱいにして、私たちの罪を贖うために不条理きわまりない十字架を背負い、この世の体から天の体へと復活していきます。

 聖書は、「この神殿」、まことの神殿とは主イエスの体のことだったんだと、さらには主イエスの体と連なる教会のこと、この私たち一人ひとりのことだったんだと教えてくれます。

 どうでしょうか。皆さんは、運び出せますか?何が今、皆さんの心を支配しているでしょうか。

 お金といえば、ずっと以前ですが「お金」についてのテレビ番組をやっていました。お金というものが、どうしてこの世界に生まれてきたか。そのお金が、人間の心にどのような影響を与えたか。それを解き明かす番組で、とても面白かったです。

 なかでも印象深かったことをお話すると、そもそも昔は、物々交換だったわけですね。ひと言でいえば「その日暮らし」だった。とってきたものをお互いに交換しても、腐ってしまいますから、取っておけません。だから、その日に食べるわけです。明日獲物がとれるかどうか分からないし、その先も分からない。その日に消費して、それで終わり。明日のことはまた明日という、そういう時代を人類は過ごしていました。

 ところが、お金というものが生まれると、これはいつでも交換できるし、取っておけるわけです。そうすると人類に何が起こってきたかというと、「未来の計画」ということが起こるんだそうです。番組ではそう言っていました。言われてみるとなるほどそうですね。

 もしもお金というものがなかったら人類はその日暮らしなわけで、明日以降の計画なんか立てようがない。でも、お金は貯めておけるし、いつでも好きな物に交換できますから、それじゃあこのお金をいつかこういうことに使おうとか、貯めておいて老後はこう暮らそうとか、やがては子どもにこれを残そうとか、そういうことが可能になってくる。すると、私たちは「未来」を考えるようになり、そして未来というのは計画できると思い込んだわけです。

 つまり、人類はそう思い込んでお金に支配されるようになってしまったといえないでしょうか。でも実は、それは思い込んでいるだけではないのか。なぜかと言えば、未来は本当の意味では決して計画できないからです。例えば、あの「ルカ福音書」のたとえにあるように、ある金持ちが「財産がたくさん貯まったぞ、これでこれから好きに遊んで暮そう」と計画したけれども、神はこうおっしゃる。「愚か者。今夜、お前の命は取り上げられる」と。それが真実です。明日のことはぜんぶ神のみ心のうちですから。いや明日どころか今日だって、ぜんぶ神のみ旨のうちです。

 それなのに、明日以降のことをある程度計画できるようになると、私たちの心に、ああもしたい、こうあってほしくない、こうしなけりゃいけない、とばかりに、いろんな人間的計画というものが出てきます。

 計画それ自体は、好きに計画すればいいことで、それほど悪いことではないかもしれしれませんけれども、そのせいで「神さまのみ旨」というものから、だんだん離れていってしまう。これが、お金がもたらした現実だとしたらどうでしょう。

 たぶん人間の頭の中に「お金」というものが入ってきてから、頭の中はそのことですっかり占められてしまって、神のみ心を思う余裕がなくなってしまったんじゃないでしょうか。

 お金は、いいものですけれども、自分の未来を自由にできると思ったら、実はそれが間違いの始まりなんだといういことです。主イエスは「明日を思い煩うな。明日のことは明日自らが思い悩む」そう言われます。「今日、神のみ旨を行う者が永遠の命に入る」。主イエスはそう言われます。お金は確かに便利でいいものですけども、それにとらわれていると神のみ心が見えなくなる。だから主イエスは「このような物は持って行け、運び出せ」とおっしゃるのです。

 今日はこの後でKさんの洗礼式があり、17日にはMさんの洗礼式があります。今や天におられる方々も湯河原教会の仲間が大喜びです。お二人には素晴らしい先輩方が信仰の模範を示してくれています。

 ある信仰の先輩はこんなことを言いました。「確かに、洗礼を受けたら、主は魔法の杖を持っていて、なんでもこの世の課題を解決してくださるわけではないです。でも主を仰ぎ、祈る時、私たちは余計な心配や恐れ、泥沼のような思いすごしから守られます。過剰な自己保身や被害妄想、極端な金銭への囚われから開放されます。そして、なにより落ち着きます。聖霊がともにいてくださるようになるからです。神が喜んでくださり私も喜べるそういった第三のアイディアや、創造的な思いつき、建設的な考えも湧いてきます。そして、ああ、これが恵みだな〜と思うのですが、思いもかけない助けが降ってきます。主を信じることは素晴らしいです。主の望まれる宮清めは素晴らしいです。」

 これは多くの信仰の先輩方の共通の思いだと思います。皆さんも、洗礼から先は、第二の人生です。いったん死んで、そこから神さまのみ業わざが始まります。この世のさまざまなものに一旦区切りをつける。聖霊の助けを信じて、囚われているものをこころの中から全部いったん、運び出してください。「このような物」を全部運び出したらなら、洗礼において、新たにいったい何が入ってくるか、どうぞ楽しみにしてください。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年2月25日日曜日

礼拝メッセージ「自分の十字架を背負って」

 2024年02月25日(日)四旬節第2主日 創世記:17章1〜7、15〜16 

ローマの信徒への手紙:4章13〜25 

マルコによる福音書:8章31〜38

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の3つの聖書箇所に共通しているのはなんでしょうか。それは「まことの信仰のはじまりについて語っている」ということではないかと気づきました。

 今日の3つの聖書箇所を黙想するなかで、創世記17章1節の「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた」という言葉にはっとしました。そうだ、神と人類には「始まり」というものがあったのだと気づいたからです。人類の救いにとっての第1の始まりはアブラハムとサラ、そして第2の救いの始まりは、神からイスラエルの民に与えられた律法。そして第3の救いの始まりはすべての人を救う主イエスの死と復活です。

 今日の日課はこの神からの救いの歴史がどのように実現してきたかということでつながっていると思えました。今日は私たちにとっての決定的な救いである主イエスによる救いについてご一緒に思い巡らし、また味わって行ければと願います。

 第一朗読に「アブラムが九十九歳になったとき」とあります。この当時の年齢の数え方は今とは違うでしょうが、それにしてもアブラハムはきっとかなりの壮年であり、妻のサラもとうに妊娠はできない年齢だったことを聖書は語っています。人生の酸いも甘いも噛み分けて、喜びも悲しみも知り尽くしている円熟した老年のアブラハムに神は前触れなく現れ、ご自分を明かしました。

 神はアブラハムとその子々孫々に、あなたがたの神となるという契約を結ばれた。まったく一方的に神がイニシアチブをとってアブラハムに指示し、宣言なさいました。アブラハムはひたすらひれ伏します。まさに神がこの宇宙世界を造られた時のように、神はアブラハムの神となり、繁栄させるという契約を宣言された。アブラハムはその神を信じました。こうして神はアブラハムに、彼の子孫が、いつの日にか地上の全家族とともに平和な生活を営む日が来ることを約束したのです。

 そしてこのアブラハム契約から800年ぐらい後に神はイスラエルの民にモーセを通じて律法を与えます。それは第2の始まりです。律法による義の始まり、律法を守ることによって神の前に正しく生き、幸せになるという救いの始まりです。

 パウロは第2朗読のローマ書において、このアブラハムとその子孫に与えられた契約は律法遵守ではなく、「信仰によって実現される約束である」と説きます。イスラエルの民は律法をきっちり守ることによって神から義と認められようとして、およそ1300年に渡って律法による生活を続けようとしました。主イエスの宣教なさった時代も、この律法に従うことによって救われようとする、そういう時代だっだわけです。しかしパウロは、アブラハムとその子孫への約束は信仰による義に基づいてなされたものであり、律法に基づいてのものではないと断言します。なぜならば、人は律法を守りきれず、神の怒りを招いてしまうだけだからです。彼はアブラハムのように愛の神を信ずる一途な信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となると宣言します。

 パウロはアブラハム夫妻は肉体的にはとうてい不可能な年齢であったのに、約束の男子を与えられた。それはアブラハムが神を信じて、信仰を強められ、神を賛美し、不信仰に陥らず、神を疑わなかったからだと、その秘密を証します。

 そして、主イエス・キリストを死者の中から復活させた神を信じれば、私たちも神から義と認められる。すべての罪を赦され、神の子として受け入れられる。救われて永遠の命を受けると言うのです。

 さて福音書に入ります。神がもともとアブラハムに約束されたすべての人を救う救い、第3の救いは、主イエス・キリストの死と復活を信じることによってあずかることが出来ます。そのことを今日の箇所から見ていきましょう。

 今日の福音書箇所は、主イエスの宣教活動が大きなターニングポイントを迎えた時期のエピソードです。これまでガリラヤ地方を中心に宣教活動をしてきた主イエスは、いよいよエルサレムへと向かいます。私は、すべての人を救うという救いの始まりは、主が十字架と復活へと向かうところか始まったと考えます。

 ここで主はまず27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねます。人々の反応は様々でした。最初、人々の間では3:21「あの男は気が変になっている」とか3:22「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などでした。しかし、やがて主の奇跡と教えが圧倒的な力で人々を引きつけるようになると、それは、6:15「預言者の一人ではないか」と尊敬を込めたものに変わっていきます。

 しかし、そうした答えは、主イエスから見れば不十分です。そこで主は弟子たちに尋ねます。彼らは主イエスの説教を身近に聞き、奇跡を目の当たりにしていますから、一般の人々よりもずっと深く、また正しく主イエスの神秘を理解できたはずです。

 彼らはまず人々の評判を伝えますが、主イエスは「あなた方は、どう思うか」と彼ら自身の判断を求めます。そこでペトロが「あなたは、メシアです」と答えますと、主は、ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。つまり、主イエスはペトロの答えを肯定されなかったということです。

 そしてペトロの言葉の直後に、ご自分が受ける苦しみについて教え始められました。弟子たちは主から教えられる必要がありました。「苦しみを受け・・・排斥されて殺され、そして復活する」と苦しみを強調するのは、それこそが主イエスがメシアとしての本領をはっきするところだからです。苦しみにおいてこそ、どんな人々をも救うというメシアの本領が発揮される。それが真実だからです。

 苦しむメシアなんて、ペトロには受け入れ難いことでした。ですから、彼は主イエスをいさめます。主イエスはそんなペトロを悪の誘惑そのものだと「サタン」呼ばわりします。

 当時のユダヤの人々にとってのメシアとは、その人がいかに人々を思いのままに操り導く力を持っているかでありました。いわゆるカリスマ性です。ですから、ペトロにして見れば、病人をいやし、悪霊を追い出し、数々の奇跡を行って群衆を引きつけるイエスは、メシアその人であったことでしょう。しかしそれは大きな誤りです。

 主イエスの力は、そして神の力は、強さではなく、愛に支えられた「弱さ」にあります。

 この弱さこそ、十字架です。しかし、同時に十字架は強いのです。ペトロを叱った主はこのあと、私たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」とおっしゃいます。

 私たちは「自分の十字架を担って主に従う」ということをどのようなことだとイメージするでしょうか?ときに、特別なことだと思わないでしょうか?大変苦しいもの、好ましくないことというふうに思うのではないでしょうか?

 たしかに、一生に一度、命をかけた十字架というのもあります。塩狩峠でブレーキの効かなくなった列車を自らの体を犠牲にして止めた鉄道職員永野信夫さん。そして、9,11テロの時に人々を救出するために最後までツインタワーに残って死んだ消防隊員、こういう人たちの十字架もあります。

 またこうした殉教者のような十字架ばかりではなく、もう少し、手の届きそうな十字架を担うこともあります。たとえば、アメリカ滞在での経験ですが、教会の友人でボルボの中古車を安く買って、必要な部品を取り寄せ、自分で修理して、暮らしの豊かでない人に使ってもらう、そういうことをしている人がいました。それも何台もです。代金なしです。彼は、笑顔で「This is my mission.」「これが僕の任務だよ」とにこやかに言います。今考えると、彼は彼のできることで十字架を担って主のあとに従っていたのだと気が付きます。

 そして、今日、私たちの日々の生活そのものにも十字架があると思うのです。失敗して自分の弱さにがっかりしてしまうようなことがあっても、その弱さに踏み留まる。捨て鉢にならず、自己否定に陥らず、弱い自分からまた始めてゆく。それは静かですが、たくましい生き方です。聖霊に助けられての生き方です。

 私たちが自分の十字架を担いながら主に従う時、それは霊的な挑戦となります。それは苦しみとは全く別の意味を持ちます。主との共同作業の喜びを私たちは味わうことができます。

 それは、主の求めておられるまことの信仰の始まりです。

 四旬節の第2週、私たちもなにか身近なことで信仰のチャレンジをしてみませんか?

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年2月18日日曜日

礼拝メッセージ「四旬節に思う」

 2024年02月18日(日)四旬節第1主日

創世記:9章8〜17 

ペトロの手紙一:3章18〜22 

マルコによる福音書:1章9〜15

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の週報でお知らせしていますが、4月から牧会をしてくださることになっていた富島裕史先生に脳腫瘍が見つかり、急遽、手術を受け、療養されることになり、湯河原教会での牧会ができなくなりました。まずはご一緒に祈りましょう。

 主よ、富島先生の手術が成功しますように。そして、手術の後、順調に回復されますように。憐れみの主が、富島先生を癒やし、心の平安を与えてくださいますように。また私達の教会に最もよいことを備えてください。主の御名よってお祈りします。

 今日は恵みの予定がもりだくさんです。この後で、入江美奈子さんの私達の教会への転入式があり、主が新たに一人の姉妹を私たちの群れに加えてくださいます。嬉しいですね。

 また、礼拝後には二見美保子さんとデッカー恵子さんの洗礼諮問会を行う予定です。どうぞ皆さん、温かい目で見守ってください。会衆席からお祈りをたくさん注いでください。洗礼を志願している方たちは、やっぱり迷いもある。さあいよいよだという思いと同時に、不安もあるでしょう。皆さんの励ましのお祈りが、何より大切です。よろしくお願いします。

 先ほど、ノアの箱舟の箇所が読まれましたけれども、まさに、洗礼志願者のお二人、そして私達も、救いの大きな船に乗った気持ちになってください。どんな洪水でも、湯河原教会のみんなで一緒に乗り越えていけるというふうにです。

 「洗礼を受けたら強い信仰を持って、一人でも荒波を泳いで渡れるはずだ」などというのではありません。「イエス・キリスト」という安心で大きな船に乗り込んで、「神の国」という港に入ったも同然の私達の航海です。人生を旅する教会の仲間たちと一緒に、救いの喜びを分かち合っていきましょう。恐れずに、一緒にやっていきましょう。

 さて、キリスト教会は、灰の水曜日から四旬節(英語でLent)に入りました。旧約時代には回心のしるしとして,灰を頭にかぶりましたが、キリスト教会ではこのならわしを踏まえて、灰の水曜日の礼拝では回心して福音を信じる印として額に灰の十字を印すようになりました。

 四旬節の原点は、荒れ野での主イエスの40日の体験にあります。主イエスが宣教生活に入られる前に荒れ野で40日間断食をされたことにならい、教会では、古くはこの期間に、断食や節制が行われてきました。それはキリスト者が自分たちも主イエスの断食と祈りに倣いたいという思いから、ごく自然におこってきたものだといわれます。

 今では、祈ること、感謝すること、そして愛の行いが強く勧められています。ある人はレント献金箱を作って、食卓テーブルに置いて、次のレントまで1年間、なにか感謝なことがあるたびに献金をするそうですが、昨年はすべてをウクライナの人道支援や災害被災地への献金にささげたと聞きました。

 四旬節はもともと、節制したり、断食をしたりすることが伝統でした。私の神学生時代でも、ルーテル教会で育った神学生たちは、四旬節になると、タバコ断ちをするとか、アルコール断ちをするとかとやっていました。

 「もっとしっかりした信仰者になろう」とか、「もっとがんばって祈ろう」とか、「罪を捨ててもっと清くなろう」というようなことです。いわば上昇志向というか、駄目な自分を罰する志向というか、何かそういうものがイメージとして感じられます。

 今思えば、それはつまり、1年は無理だけど、40日ならなんとかなるということだったかなと思います。なんとなれば四旬節が過ぎれば、これまでのままに、また飲んで吸うわけですから。

 ある説教者が、これは実は逆なんだっていうことを言っていて、はっとしました。この方いわく、四旬節には、もっと神に信頼して、もっと安心して、「神さまにすべてを委ねる」ということを学ぼうというのです。

 一般論としてですが、キリスト者は真摯な方が多くて、せっかく洗礼を受けているのに、もっと良くなろうとして、こんな自分じゃだめだと嘆く人が多い。そして四旬節になると、ますます、「こんなに自分は罪深いし、もっと清くならなくちゃならないのに、でも、そうなれない。どうしよう」と、なんだか暗い気持ちになる人が多い。もしそうだとするなら、それは「逆」だというのです。

 むしろ四旬節は、主イエスが荒れ野で神の愛にのみ信頼したことに由来するときなのだから、1年間自分を責めてきた人が、それをやめるときだというのです。いうなれば「がんばって、がんばるのをやめる」。がんばって、いい人になるんじゃなくて、がんばって、悪い人である自分を受け入れる。私は「神に受け入れてもらっている」と、そのことに、目覚める。これが四旬節だというのです。まったくその通りだと膝を打ちました。

 そうです。四旬節は、普段に増して神の愛を感じとる時なんです。だから普段、自分を責めたり、こんな自分はダメだと思っている人が、40日間がんばって、「こんな私でも、だいじょうぶだ!」「こんな私だからこそ、救われるんだ!」とそう自分に言って聞かせる時として、この期間を過ごしていただきたいと思います。

 私、妻から、聖書や式文の読み間違いで、ちゃんとしてくださいと言われる。こんなんじゃだめだと落ち込みそうになりますが、そんな時こそ、四旬節の恵みに立ち返ってダメな自分に踏みとどまる。こんな自分でも神は愛してくだっているとしっかりと思い起こします。そうすると落ち着きます。

 今日の福音書箇所で、主イエスが荒れ野でサタンの試みとか、誘惑を受けますね。この「誘惑」というのは、ひとつには「あなたは、まだ足りない者だから、もっとこうすると幸せになるよ」とか、「あなたは不完全だ、だから、こういうふうに頑張れば、完全になって救われていくよ」というようなそういう誘惑です。いずれも、神の愛に包まれている満足から目をくらませようとするものです。

 今日の箇所では読まれていませんが、マタイとルカでは、悪魔が三つの誘惑をする話が出てきますね。空腹の時に「この石をパンに変えたらどうだ」とか、山の上から繁栄している国々を見せて、「私を拝むなら、これをぜんぶあげよう」とか、そういう誘惑をしてくる。

 悪魔は何をしているかというと、「あなたは空腹だろ? 足りなくて不幸だろ? もっといろいろ欲しいだろ?さあ、がんばって自分を満足させようじゃないか」ということです。

 主イエスは何と答えたか。

 「人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)

 どうぞ主の洗礼主日に主イエスの洗礼の聖書箇所を読んだことを思い出してください。天からの声がしましたね。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)と。主イエスはすでに、「神の口から出る一つ一つの言葉」で生きているわけですから、つまり「お前を愛しているよ」という神の言葉で生きているのだから、パンがなくたって、ある意味満腹しているわけです。

 主イエスは、神のこの愛の言葉で満たされているから、他に何もいらない。もうすでに、満たされているわけです。

 「さあ、空腹だろう?」

 「さあ、足りないだろう?」

 「不幸だなあ、お前は。こうすれば幸せになれるぞ」

 「ほら、この権力、この繁栄、この世のすべてを見てみろ。お前はそれを持ってないだろう?」

 サタンはそう言います。

 すると主イエスは答える。

 「『ただ神にのみ仕えよ』と、そう聖書に書いてある」(マタイ4:10、ルカ4:8)。なぜなら、神こそがすべてだからですね。

 主イエスはもうすでに豊かです。満たされています。だから、悪魔が山の上に連れていって、「さあ、これを見ろ。欲しいだろう?」と言っても、主は「こんなもの、滅びるものでしょう。別に、私にはいらないものだ。私は、神に満たされていて、十分幸せだ」と、そうお答えになる。

 結局、誘惑というのは、「あなたはダメだ」という話です。「あなたは不幸だ」という話です。「あなたは汚れている」「あなたはふさわしくない」「あなたは足りない存在だ」と目に見させ、耳につぶやいてくる、これが誘惑です。その誘惑に負けて、人は「神ならざるもの」を必死に求めるようになる。

 私たち、思い当たることがないでしょうか?

 四旬節は、この誘惑に打ち勝つときです。「自分は神さまに愛されているんだ」という安心で満たされて、余計なものが欲しくなくなるときです。

「私達は『お前を愛してるよ』という、神の言葉でこそ生きています」。

そして、「サタンよ退け、私は神の言葉で生きる!」と唱えてください。

 (祈ります)主よ、今年も四旬節を過ごすことのできる幸いを感謝します。不十分な自分を嘆くような時にも、あるがままで、主によって受け入れられ、愛されていることを思い出すことができますように。また、自分の過ちに気づき、不十分な自分に絶望するときには、主がそんな私を憐れんで、赦しを与えてくださる恵みをますます深く味わうことができますようにと祈り願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年2月11日日曜日

礼拝メッセージ「主の変容に励まされ」

2024年02月11日(日)主の変容 岡村博雅

列王記下:2章1〜12 

コリントの信徒への手紙二:4章3〜6 

マルコによる福音書:9章2〜9

 私達の父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン  様々な困難の中にある方々の言葉を聞くにつけ、私達にとって希望がどれほどかけがえのないものかと思います。この日、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを「連れて」、高い山に登った。それはやがて神の国の福音を伝える後継者となる彼らにご自分が変容した姿を見せて、ご自分が誰であるかを教え、死を超える希望を悟らせるためです。

 今日の福音箇所は「六日の後」という言葉から始まります。それは前章の8章31節を受けてのことでしょう。主イエスはご自分が多くの苦しみを受けて、宗教指導者たちによって殺される、そして三日目には復活するということを「弟子たちに教え始められた」とあります。主はご自分のことを語られただけでなく、主が与えてくださる命に生きようと願う者は、主と同じように自分の十字架を負って死ぬ者であることを学んで主に仕えるように求められました。そういう主に倣って生きるための教育を六日間なさったと考えられます。

 その教育内容ですが、主はご自身の復活を語りながらも、ご自分が苦しむこと、殺されることを語られました。弟子たちは、苦しんで殺されるという、主の「死」について語られる言葉に圧倒されたでしょう。そしてどうしても、受難、死という、そこに注意が行きます。弟子たちは目の前におられる主が死ぬことになるなんて、とんでもないことだと思ったでしょう。しかも、主イエスはその後で、あなたがたも自分の命を捨てることを学べとおっしゃったのです。

 あなたがたの命はとても大切なのだから、そのためにこそ、このことを教えると言われました。しかし、主ばかりか、自分たちまで死ぬのだとなれば、弟子たちの心はパニック状態だったと思います。

 神は十字架の死を経て主イエスを復活させることを私達は知っています。しかし私達は十字架を担って主に従う人生というものを、ただ苦しいもの、困難なことと思ってはいないでしょうか?私はどこかしらそう思っていました。 

 まだ主の復活を体験していない弟子たちはなおさらだったでしょう。主はこういう御心から遠い弟子たちを、忍耐し続け、ずいぶん苦労なさったのだと思います。

 この世にあって十字架を担って主に従って生きたときに、それはきっと苦労だけには終わりません。主は、それを上回る喜びがあり恵みがるのだと言うことを弟子たちに教えようとされました。

 2節の「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」という箇所は原文では受動態の動詞が使われています。それは主イエスがご自分で姿を変えたのではなく、この3人のために、父なる神によって姿を「変えられた」のだと示すためです。神は天における主イエスの輝きを垣間見せてくださいました。

 主イエスの本性をいっそう明確にするのは4節のモーセを伴ったエリヤの出現です。エリヤは天に取り去られたと信じられていました。そのエリヤが現れたことは、主イエスが天に属する存在であることを証ししています。つまりエリヤがモーセと一緒に姿を現したのは主イエスのためではなく、この弟子たちが、自分たちは今天の有様を目にしていると信じさせるためだと考えられます。

 この情景をこれは現実ではない。弟子たちは幻を見たと説明して納得を得ようとする人があります。しかし、気づくべきことがあります。初代教会の人々や、またその後三百年にわたる時代のキリスト者たちは激しい迫害を受け、実に多くの信仰者の血が流されましたが、教会はそれに耐え続けたということです。数え切れない信仰者たちが、十字架につけられた主イエスの後に自分の十字架を負ってついて行きました。この3人に与えられた体験が単なる幻や絵空事であったなら、激しい迫害の中を自分の十字架を負って主に従った無数の信仰者たちに永遠の命の希望を与えることは出来なかったでしょう。私達はこのことに目覚めていなければなりません。

 主イエスから「死」とか「十字架」とか「自分を捨てる」という言葉を聴いた弟子たちは、そういう言葉に押しつぶされそうだったと思います。私達も同じです。いくら望みの言葉だと言われても、望みや喜びより、黒雲に押しつぶされそうな思いがします。

 弟子たちがそういう真っ暗な思いの中にあったその時、語っておられる主イエスの後から射してくる光が主を覆って、弟子たちの前の主が真っ白に輝く姿に変えられました。

 ペトロは主の変容を見て言葉にできない喜びを味わいました。ペトロは興奮しましたが、それに溺れっぱなしではなく、この事態を確かなものにしようと知恵の限りに思い巡らして、それぞれに小屋を造り、この天の栄光を地上につなぎとめようと考えました。

 「あなたは、メシアです」(8:29)と信仰告白をしたことなど忘れて、ペトロは「先生(ラビ)」(9:5)と呼びかけています。マルコはすぐに注釈をつけて、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」と書いています。ペトロは正気を失っていたと言うのです。

 では弟子たちが正気に帰った時に、どんなことが起こったかです。8節「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。彼らにはもはやエリヤもモーセも見えません。主イエスの衣は白い輝きを失っている。いつものままの「イエスだけが彼らと一緒におられた」。いわば、彼らは、主イエスと一緒にいる自分たちに改めて気づいたというのです。それはただ虚しいことではなく、あの天の輝きの中におられた主イエスが自分たちと共にいてくださるということを、しっかりと見て取ることができたというのです。

 それこそが、このペトロたちに神から与えられた、本当に素晴らし体験でした。しかも、ただ見ているだけでなく「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が聞こえてきたのです。

 六日間厳しい言葉を聴き続け、半信半疑のまま、主の言葉に従うのは難しいことです。そのときに神が保証なさった。このイエスこそ、わたしの愛する子、わたしのわざを行う者なのだから、このイエスに聴き続け、このイエスに従い続けて間違いない、と神が宣言してくださった。教会は、そしてキリスト者はこの主によって歩くものであることが、はっきりと示されました。

 弟子たちはこの出来事を心に深く刻みつけて山を下りました。主はご自分が「死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。つまり、あなたがたは、主キリストの復活が明確な事実となった時にこそ、復活のいのちがどういういのちであるかということが分かるようになる。そして自分たち自身の復活についても語ることができるようになると言われたのです。確かに人間の中に復活の可能性を見つけることはできません。しかし、主の言葉を固く信じるとき、望みは開かれます。

 神は主イエスを復活させます。主イエスを墓から引き出します。やがて弟子たちはこれまでに味わったことのない確かな思いで、復活の光を見始めます。復活の主に出会うまでは、「これに聞け」という神の声に従えなかった弟子たちが使徒として、私達に連なる愛をもって主と教会に仕える者となっていきます。

 この高い山でのペトロたちの体験を通じて、神は信じる者に主の変容と復活の栄光を見せてくださいます。私達もこの出来事に励まされたい。十字架を背負って生きるとき、ある高い山で主が変えられた天上の輝く姿を心に描くことができるのは希望です。十字架を背負って生きることの意味はそのまま主の変容の意味に直結しています。

 実に自分の十字架を担って主に従う人生は喜びです。その真実を私は妻と共に、この11年の牧会生活で経験させていただきました。自分のためにだけ生きる人生はつまらない。自分のためばかりでなく、他者のためにも生きる、隣人と共に生きるとき、そこに本当に恵みがあり、喜びがあり、感謝があるということを噛みしめています。

 終わりの日には、私達の目から涙はことごとくぬぐわれる。(ヨハネ黙7:17,21:4)それまで私達には嘆きも労苦もつきまといます。それは避けようのないものです。そんな私達に、主は「だいじょうぶだ」「安心なさい」と栄光の姿を見せて励ましてくださいます。

 主はどんな苦難の中をも共に歩んでくださいます。私達を必ずや天の光の中へと伴ってくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年2月6日火曜日

そのために私は来た

 2024年2月4日 小田原教会  江藤直純牧師

イザヤ:40:21-31; 詩編:147:1-11, 20c; Ⅰコリント:9:16-23; マルコ:1:29-39

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 今は小学校から習っているようですが、私たちの頃は中学に入学して初めて学校で英語を習いました。そこで文法というものを教わりました。英語という言語の構造、仕組みやそれぞれの言葉の機能とその使い方などを初歩から少しずつ学んでいきます。その中には名詞や形容詞などと並んで動詞というものがあります。動詞の中で小学校では聞いたことのなかった不定詞というものが出て来て、しかもそれには名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法という三種類があるということでした。

 今朝私たちは礼拝をしているのであって、英語の文法の授業を受けているわけではありませんから、ここまでの話しはどうでもいいのです。ただ、申し上げたかったことは、不定詞の副詞的用法とはどういうものかということを理解するために教科書に出て来た例文の一つがなぜか今も私の印象に残っていたので、それをご紹介したいのです。

 その例文はこういうものでした。Do you live to eat, or eat to live? 直訳すれば、「あなたは食べるために生きるのですか、それとも生きるために食べるのですか」です。食べるために、おそらくは美味しいものを食べるためにあなたは生きるのですか、それとも生きるために、何かをやりたくて生きるためにあなたは食べるのですか。この単純な文は英文法の勉強のためのという以上の、人生の勉強のための貴重なヒントを与えてくれたと思えるのです。つまり、人生は何のために生きるのですか、という問いを投げかけているのです。

 元日の夕方突然襲ってきた地震と津波によって何百という尊い命が失われ、営々と築いてきた穏やかな生活は脆くも崩れました。日本だけでなく、パレスチナのガザではこの3ヶ月ほどで二万を大きく超える無辜の市民の命が奪われ、その半数近くは子どもたちで、至る所で住宅も公共施設も瓦礫の山と化しました。そういう現実を目の当たりにすると、人生は何のために生きるのかなどと悠長に考えてはいられない、考えようが考えまいが人の命なんか儚く脆いものさ、所詮考えるだけ無駄というものさ、と呟く人がいても非難できない気もします。

 しかし、命と人生を脅かす悪の力が存在するからこそ、それに打ち負かされないためには、あるいは倒れそうになっても立ち直るためには、人の命あるいは人生は何のためにあるのかということをしっかりと捉えておく必要があるでしょう。根本的な意味とか目的というものが明確であることが、命とか人生というものを重んじる大前提になるのです。

2.

 今朝与えられた三つの聖書の日課はこの問題を考えることへと私たちを導いてくれると思われます。まずはマルコによる福音書1章の「多くの病人をいやす」という小見出しが付いた記事から見ていきましょう。

 イエス様がガリラヤで伝道を開始され、湖のほとりで4人の漁師を弟子となさったあとのことです。カファルナウムという町に行き、安息日に皆が集まっている会堂に入り、そこで聖書に基づき神と人間について教えられ、また汚れた霊に取り憑かれた男をいやされました。教えといやしです。人々は皆驚き、大きな評判が立ちました。

 一行は会堂を出たあと、最初の弟子であるシモン、のちのペトロと、その兄弟アンデレの家を訪問なさいます。もう一組の兄弟ヤコブとヨハネも一緒でした。ところがそこではシモンのしゅうとめ、つまり同居している彼の妻の母親が熱を出して寝ていました。きっと微熱などではなく高い熱を出して苦しんでいたものだと思われます。だからこそ、その場に居合わせた人々はイエス様にお願いをしたのです。「是非とも先生のお力で直してやってください」と。人は心も病みますし、体も病むのです。生きていくのには心も体もどちらも大事なことです。

 イエス様が高熱に苦しむシモンのしゅうとめを癒してくださったら、彼女は何をしたでしょうか。マルコは簡潔に「彼女は一同をもてなした」(1:31)と記しています。治癒していただき、感謝の気持ちからご馳走を作っておもてなしをしたと額面通りに取っていました。しかし、今回準備の過程でいくつかの日本語や英語の聖書を読み比べていて、新しい気付きがありました。それはいくつかの訳は「彼女は仕え出した」とか「仕え始めた」となっているのです。この過去形は「それ以来○○をするようになった」とも翻訳することが文法的に可能なのだそうです。そこからのインスピレーションです。もちろん体調が戻ったのでその日の夕食を作り始めたという意味にも取れますが、もう少し深く大きく解釈すれば、「その時を境として彼女は仕える、奉仕するという生き方を始めた」という受け取り方もできるということです

 たとえば、重い病気から健康を回復させてもらった若者が、その時から自分も医師や看護師になって人の役に立つ人間になろうと思って実際そうなったとか、おじいさんやおばあさんが福祉施設で最後までよく介護されるのを目の当たりにして、自分も福祉職に就こうと決心して、念願叶ってそういう人生を生きてきたとか、実際身近でも聞く話しではありませんか。シモンの義理の母親ももちろん人並みに親切やもてなしはしていたとは思いますが、自分が病気をいやされた経験から「仕える、奉仕するという生き方」を自覚的に、本気で生き始めたということではないかと私は受け取ったのです。

 改めて今自分に与えられている健康、命、時間、所有物のことを思います。それをどう使うかは私の自由です。義務も規則も命令もありません。まったく私の自由なのです。好きに選んでいいのです。その選択に際して、立ち止まってそれらを何のために使うかを考える、或いは誰のために使うかを考える、それは取りも直さず、自分はどう生きるかを考えるということです。

 そんな固っ苦しいことなんてと一般に思われがちです。しかし、今から87年前に初版本が出版された吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』はすでに岩波文庫版だけで180万部も売れ、岩波文庫の累積販売部数でNo.1だそうです。『漫画 君たちはどう生きるか』も既に235万部売れたそうです。今回アメリカでゴールデングローブ賞を受賞した宮崎駿の長編アニメも同じ題名です。若い人も大人もやはり考えないではいられないようですね、このテーマを、「自分はどう生きるか」ということを。あるいは「何のために生きるのか」ということを。

 自分の命をどう使うかという重いテーマをぐっと考えやすくするためでしょうか、日野原重明先生は「命」を「時間」に置き換えて問いかけておられます。「あなたは自分の時間を何のために使いますか」と。シモンの義理の母は「仕えるために」生きると決心したのです。生きるために仕えるのではなく、仕えるために生きる道を選んだのでした。彼女はイエス様に、具体的にはだれか自分の力や時間や心を必要としている人のために「仕えるために生きる」ことを始めたのです。その手始めが一行へのおもてなしだったのです。

3.

 さて、では、イエス・キリストという方はどう生きられたのでしょう。何のために生きられたのでしょうか。3年間だったと言われていますが、主イエスの公生涯(公になっている生涯)の、とくにガリラヤ地方一帯での生活と働きは今日の日課の後半、1章の35節から39節にギュッと凝縮した形で書かれています。それは三つのことに集約されています。

 第一です。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(1:35)。祈りは理屈の上では内面での行為だから時と所とを選ばないはずだと言うこともできるのかもしれません。たしかにテレビが大きなボリュームで流れているリビングででも、ギュウギュウ詰めの満員電車の中ででも、暑さの中でも寒さの中でも祈りができないことはないかもしれません。

 しかし、祈りは個人の黙想ではありません。自己の内部で完結している、自分ともう一人の自分との対話、或いは独り言ではないのです。祈りは神への語りかけであり、同時に神からの語りかけを聴くことです。その繰り返しです。自分ともう一人の自分との対話ではなく、自分と神との対話なのです。面と向かい合って、言葉を発し言葉を聴く、重ねて言葉を発し言葉を聴く、そうしながら自分の心を注ぎだし、また神の心を受け止めるのです。それが祈りです。ですから、それを妨げるものは何であれ避けたいのです。

 だから「朝早く、まだ暗いうちに」なのです。そうです、世の中がまだ動き出す前の一人だけの静寂な時間においてです。だから「人里離れたところで」なのです。そうです、神と自分以外だれ一人として、何一つとして気を惹いたり心を騒がせたりする存在がない空間においてです。そこでただ神にだけ真向かって祈るのです。何一つ隠し立てすることなく、喜びも悲しみも、嘆きも怒りも、不安も疑いも言葉にし、時に言葉にならないままで思いを吐き出し、そんな自分への答に耳を傾けるのです。

 そのような対話の中で、「この神にとって」「一体全体自分とは何者であるのか」、「自分はどう生きるのか」、「何のために生かされているのか」ということを知らされていくのです。それが祈りなのです。祈りが土台、祈りが出発点なのです。私たちだけでなく、イエス様もまたそうであったに違いないと思うのです。マルコ福音書によれば、第1章に始まり、14章での逮捕・処刑を目前にしてのゲッセマネの祈り、15章の十字架上での絶叫のような祈りに至るまで公生涯の節目節目で主は祈りをなさってきました。

 第二は、言うまでもなく、神の福音の宣教です。ガリラヤでの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15)でした。教えの形で、論争の形で、たとえ話の形などさまざまな形で語られたことはすべて、神の国の到来の告知であり、福音を信じることの喜びの宣言であり、神の恵みである福音にふさわしいように悔い改めること、そのように生きることの勧めでした。

 そして第三が病気のいやしや悪霊の追放です。心や体の健やかさが脅かされ、落ち込みくずおれて、自分が望む生き方ができなくなっている人々をその重荷や囚われから解放することです。第1章だけでも「汚れた霊に取り憑かれた男をいやす」「多くの病人をいやす」という二つの小見出しがついた記事が記されています。その中にはシモンの義理の母親のいやしも含まれています。第二と第三のことを総括して、「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」(1:39)と言ってマルコは締め括っています。

 しかし、今ここではっきりと確認しておかなければならないことがあります。今のガリラヤでの活動の総括は、ただあれをしたこれをしたという行動のまとめに過ぎないのではないということです。その直前の38節を見落としてはならないのです。そこには主イエスご自身の言葉としてこう書かれています。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(1:38)。私は宣教をする。宣教と表裏一体になっている悪霊追放をする、いやしのわざを私は行うのだ。「そのために」私は出て来たのだと高らかに、明確に、強い意志を込めて主は言われています。私は「そのために」生きる、生きているというのです。それが私の生きる目的なのだ、私の命、私の時間、私のすべてを「そのために」捧げるのだ、そう宣言なさっているのです。わたしは福音宣教といやしをするために生きるのだ、こう公生涯の初めにおっしゃったのです。ただ一人朝早く人里離れたところで神と向き合って、神に祈り、つまり神に語り掛け、また神からの語りかけを聴いて、イエス様はご自分のアイデンティティを確かめ、自分の生きる目的を明確に、揺るぎないものになさったのです。

4.

 生前のイエス様には直接まみえることはなかったけれども、ダマスコ途上で思いもかけず復活のキリストの自己啓示に出会い、180度の生の方向転換、回心を経験したのがサウロ改めパウロです。しかし彼はただちに福音の宣教者となったのではありませんでした。使徒言行録には記されていませんが、自筆の手紙であるガラテヤ書にはこう書いてあるのです。「その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐに血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くことをせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラ1:16-17)。砂漠のあるアラビアに退いたということは、彼がただ一人静かに神さまに向かい合って祈りに専念する時間を持ったということでしょう。どの位の期間だったのかは書かれていません。数週間か、数ヶ月か、数年か。しかし、間違いなく、その祈りの期間があったからこそ、そのあとの20年余りの、質量共にものすごい福音宣教に従事できたのだと思われます。3次におよぶ地中海世界、小アジアとヨーロッパでの福音宣教をやり、その結果として殉教の死を遂げたのです。世界宗教としてのキリスト教の基礎を築いたのです。

 彼にとって福音宣教をするというとき、その内容と切っても切り離せないやり方がありました。それを彼自身の言葉で書き記しています。第一コリント書の9章、今日の使徒書の日課です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」(Ⅰコリ9:19)。彼にとって宣教とは相手を洗脳することではありませんでした。一人でも多くの人をキリストに導くこととは、キリストと出会わせ、キリストの命に触れさせ、キリストを信じキリストと共に生きる喜びを味わってもらうことなのです。そのためには自分はなんと「すべての人の奴隷」になるというのです。

 すべての人の奴隷になるというと抽象的で分かるようで分かりませんから、パウロはもっと具体的に語ります。「ユダヤ人を得るため」には「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになる」。民族的人種的にというよりも宗教的文化的に「ユダヤ人のようになる」と言うのです。生まれつきのユダヤ人であるパウロにはそれは何ら難しいことではありません。しかし、ユダヤ宗教の本質である「律法に支配されている人」になれるかと言えば、パウロはそれから解放されたのですから、またもや逆戻りして「律法に支配されている人」になるのは苦痛のはずです。それでもなお、律法に支配されている人を得るために、私も律法に支配されている人のように生きようと驚くべきことを言うのです。「律法を持たない人」と言えば、非ユダヤ人、ギリシャ人をはじめとする異邦人のことですが、彼らを得るためには、私は神の律法を持っておりキリストの律法に従っているのだけど、あえて律法を持たない人のようになろうと言うのです。パウロほど強い人はいないかも知れませんがそれでも、弱い人を得るためには喜んで「弱い人」になろうと言って憚らないのです。

 私たちは誰でも自分のアイデンティティを確立し、自分の生き方を定め、その枠を固めて、他とは違った、自分らしい自分として生きることを目指します。それこそが一人前の人間になることだと教えられてきました。パウロだってそうだったでしょう。しかし、彼は相手を得るためならば、その人を生かし、その人を愛し、その人をキリストの命に触れさせ、その人と福音の喜びを分かち合うためならば、折角確立した自分らしさを手放し自分の特性を改めることも、自分流の生き方を変えることも、自分を守る枠組みを解き放つことも敢えて辞さないと言うのです。ふつうそんなことはできないし、そんなことをした人なんかどこにもいないと思われるでしょう。

 しかし、一人だけそういう人がいたのです。パウロはフィリピの信徒たちへの手紙の中で、当時教会で歌われていたであろうキリスト賛歌を引用しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリ2:6-7)。そうです、相手を生かすためなら、相手を愛するためなら、相手を救うためなら、自分自身の大切にしているものを擲って少しも惜しくない方が一人だけいたのです。自分を捨てることで相手への愛を全うする、それが神の愛、それがキリストの本質でした。

 パウロはそれを知ったので、しかもキリストが自分を捨ててまで全うした愛の相手が、救おうとされた相手がこの自分自身だったということを知ったので、心を打たれたパウロは感謝をし、自分もイエスさまの生き方に倣おうと決心したのです。ですから、自分は律法に支配などされていないのに、律法に支配されている人のようになることを辞さなかったのです。律法を持たない人ではないのに、律法を持たない人のようにあえてなったのです。自分は弱い人などではないのに、喜んで弱い人になったのです。それはひとえにその人を得るため、つまり、その人を愛するため、その人にキリストに出会ってもらうため、キリストを信じキリストと共に生きる喜びを味わってもらうためでした。そうです、彼は「愛するために生きる」道を、「仕えるために生きる」道を選んだのです。だから福音宣教と奉仕のために生きたのです。それが彼の生きる意味、生きる目的になったのです。なぜなら、彼の主、救い主イエス・キリストがそのために来られたからです。私たちもパウロと共にイエスさまに倣いましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年2月4日日曜日

礼拝メッセージ「生き方がかわる」

 2024年2月4日(日)顕現後第5主日 岡村博雅

イザヤ書:40章21〜31 

コリントの信徒への手紙一:9章16〜23 

マルコによる福音書:1章29〜39

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆様方にありますように。アーメン 

 いまお読みしました主イエスの言葉「ほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである」という言葉から「宣教しよう」という主イエスの意気込みが伝わってきます。今日私たちは新しい1年にむけて、教会総会をもちます。宣教することの恵みに私たちが気づき、受け入れ、聖霊の助けをいただきながら、喜んでそれを生きる者としてくださいと祈ります。

 今日の教会総会に向けて、この11年の歩みを振り返りました。ボーマン宣教師がこの湯河原の地でイエス様の宣教を引き継いでから今年は69年目です。来年は70年の節目を迎えるんですね。その中の11年間を私もバトンを受け継ぎ、走らせていただけたことは本当に光栄なことでした。

 4月からは富島先生が来られてバトンを引き継いでくださいますが、主にあって敬愛する湯河原教会の兄弟姉妹の皆様と共に宣教と牧会に奉仕できましたことを心から嬉しく思っています。この11年間、特に私が思いを傾けてきたのは主日礼拝の説教と教会に来ることのできない方々や教会を離れておられる方々の問安でした。

 総会資料の牧師報告に数的なまとめを報告させていただきましたが、主が私のような未熟な者を召してくださり、破格の恵みを味わわせてくださったことを思い、感謝します。それは皆様がそれぞれ本当によく宣教し、互いの交わりを大切にしてきた結果であると思います。この11年の働きにおける恵みは、皆様が祈り、様々に助け、また補うことによって支えてくださった賜物と、感謝しております。

 私は今日のイザヤ書の言葉の真実さに打たれます。29節、神は「疲れた者に力を与え/勢いのない者に強さを加えられる」。この御言葉を実感しますし、本当に励まされます。31節には、「宣教しよう」とおっしゃる主イエスを感じます。もちろん人間としての体の疲れを持ちながら、しかし魂の姿としては力強い主イエスそのものを感じます。「主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない」。まさにこの主イエスが共にいてくださるのだと感じます。

 私たち湯河原教会の仲間は個性豊かで、考えも、思いもいろいろです。ですから画一的ではなく、多様性を大切にしながら、ともに主の福音にあずかる家族として、個人の思いはあっても、みんなで一致することによって、主キリストの体として育てられてゆくことを願ってきています。この11年間を振り返るとそんな恵みの日々であったと感謝に満たされます。

 さて福音書から聞いてまいりましょう。先週と今週の箇所は同じ一日の連続した出来事です。会堂で主イエスが悪霊払いをしたのを見て、人々は「イエス様、実はシモンのしゅうとめが熱を出して寝込んでいます」と告げた。この当時の人々は「悪霊」が病気をも引き起こすと考えましたから、シモンのしゅうとめに取り憑いた悪霊(熱病)も追い出してもらおうと期待したのでしょう。

 主の一行はすぐに、シモンとアンデレの家に向かった。主イエスが彼女の「手を取って起こされると」熱が引いた。主イエスは病気の人に触れて、その人をいやしました。私の父は内科医でした。子供の頃、具合が悪くなったときなど「どれ、見せてごらん」とシャツをめくって触診をする。父が体に触れてくれたときのなんともいえない安堵感を思い出しました。主イエスに優しく触れられることは、病人にとってきっと大きな励ましであり安心だったに違いありません。

 31節、彼女は回復して、すぐに「一同に仕えた」とあります。彼女は主イエスの一行を「もてなした」のですね。この「仕える」という言葉は、主イエスご自身の生き方を表す言葉です。また弟子たちの生き方を指し示す言葉です。マルコ10章43-45節にこうあります。

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 つまり、「もてなす人=仕える人」となったシモンのしゅうとめは、主イエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていった。マルコは、主イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わると伝えているのです。皆さんも人や本との出会い、また出来事を通じて、主イエスに出会い、「主による癒やし」を受けた、そういう個人的な体験があるはずです。

 34節には、主イエスは「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊がイエスを知っていたからである」とあります。ここにも注目します。先週読んだ1章24節では汚れた霊に取り憑かれた人が主イエスに向かって「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言いました。なぜ、悪霊は主イエスの正体を知っていたのか。それは「人間の力を超えた霊的な力によって」と言うしかありませんが、重要なのは、悪霊はイエスが誰であるかを知っていてもイエスとの関わりを拒否するということです。悪霊にとってイエスを理解していることはなんの役にも立たないからです。

 このことは私たちにも問われることかもしれません。私たちも学びによって、聖書がイエスは「神の子、キリスト」であると証していることを知っています。しかし、ただ単に知識として知っていてもそれだけでは何の役にも立ちません。問われているのは、私たちが、そのイエス・キリストという方とどのような関わりを持っているかです。

 34節の「悪霊がものを言う」というのは「悪霊が力をふるう」ことを意味しています。主イエスはそれを許さなかった。主イエスは「悪霊が思うままに力をふるう」ことを許しません。

 マルコ福音書によれば、主イエスの活動は「宣教し、悪霊を追い出す(=病人をいやす)」というものでした。「宣教する」というのは、「告げる、のべ伝える」ということです。何をのべ伝えるかといえば、1章14-15節にある「神の福音」につきます。すなわち「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。主イエスが告げたのは「神の国の到来」でした。主イエスの周りに集まった人々は、悪霊に取りつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのを見て、確かにここに「神の国」が始まっていると感じたにちがいありません。それは信仰によって伝えられ、その気づきは私たちにも続いています。

 主イエスは宣教といやしのために、私たちが互いに愛しあい、信頼しあうためにこの世にこられました。主イエスの神の国は決してセンセーショナルなものではありませんが、確かに、今、主イエスは共におられます。心を澄まして祈るとき、主はきっとその恵みに気づかせてくださいます。

 最後になりますが、35節の主イエスの祈りに目を向けましょう。それはどのようなものだったでしょうか。主イエスは何を祈っていたでしょうか。マルコは祈りの内容を伝えませんが、祈りの後で主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう」と弟子たちに呼びかけます。

 これは主イエスが祈りの中で受け取った「神の望み」だったのではないでしょうか。人間的な見方をすれば、主イエスの活動はカファルナウムで成功しています。悪霊の力は打ち破られ、病人は立ち上がり、主イエスは多くの人からの賞賛を受けています。

 主が出かけて行かなくても、そこを拠点として、人々の方が悪霊払いをしてもらおう、病気を治してもらおうとやって来ることに何の問題もなかったでしょう。しかし、主イエスは出かけて行きます。祈りの中で、人間の思いとは違う「神の望み」を見いだしたからです。

 神が一般的に何を望んでおられるかということは十戒やその他の聖書箇所に書いてあります。しかし、今、この状況の中で、この私に神が何を望んでおられるかということは聖書に書いてありません。それは一人一人が祈りの中で、沈黙のうちに語りかける神の言葉として受け取るしかないものです。私たちも御言葉の光に照らされながら、神に祈り、主イエスへの祈りを続けていくとき、きっと示しが与えられ、生き方が変えられていきます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年1月28日日曜日

礼拝メッセージ「新しい教え」

 2024年01月28日(日)顕現後第4主日

申命記:18章15〜20 

コリントの信徒への手紙一:8章1〜13 

マルコによる福音書:1章21〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 主イエスは神の国の福音を告げる活動を始め、まずガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしました(1:14-20)。マルコはそれに続いて、主イエスのカファルナウムでの典型的な一日を語ることによって、主のガリラヤでの活動の様子を伝えようとしています。

 ここで鍵になる言葉は「驚く」という言葉だと思います。22節「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。テレビなどでこのごろ「ガチで」というのをよく聞きますが、本気で、凄くという意味だそうですね。それで言えば「ガチで驚いた」とでもいうのでしょうか。

 この人々の「驚き」はなんとも新鮮な驚きです。いわば思いがけずに聖なるものに触れたときに、超越的な存在に出会ったときに、その威光に圧倒されて、それを前にしての新鮮な驚き、今までに見たこともないまったく新しい、未知のものに触れた、恐れではない、うれしい驚きです。それを思うとこの記事は短いですがなにか心をリフレッシュしてくれます。

 ガリラヤ湖畔で主イエスは「人間をとる漁師にしよう。わたしについてきなさい」と4人の漁師を弟子になさった。そして主の一行は安息日にカファルナウムに着くと、主は会堂に入り教え始めました。会堂では、希望すれば誰でも聖書を教えることが出来たようです。

 「会堂」は「シナゴーグ」といいます。「シナゴーグ」という言葉は「人々が集まること」を意味しました。ユダヤの信仰の歴史では初めは会堂というものはありませんでした。バビロンに侵略され、人々はバビロンに連れていかれました。もはやいくらエルサレムの神殿で礼拝したいと思い焦がれてもそれはできません。そこでバビロンの地でも、人々は集まって、礼拝し、聖書の言葉に耳を傾け、祈りをするようになりました。当然、集会のための建物が必要になりました。それが今や各地にある会堂のおこりだと言われます。

 やがて人々はユダヤの国に帰ってからも、会堂を建てて、そこに集まり、そこで律法を学び、礼拝をするようになった。会堂は礼拝だけでなく、学校として、法廷として、あるいは宿泊所としても用いられます。町や村の生活においてのひとつの拠点となりました。

 神学生時代にある安息日、土曜日に実習で都内にあるシナゴーグの礼拝に参加しました。セキュリティーの頑丈な家具の質がいい立派な建物でした。男性10人が集まればその日の礼拝が成立するそうです。ラビのリードで礼拝し、コックさんが作った昼食をごちそうになりました。私たちの行う礼拝の原形がそこにありました。

 主イエスの弟子たちは、ついこの前の安息日までは、漁師として、家族と一緒にこの会堂で礼拝にでていたかもしれません。しかし、今は家族を捨てて、主イエスの後について、主の弟子として会堂の中へ入って行きました。

 たぶん顔見知りの人が何人もいたでしょう。その日、そこで主イエスは説教をなさった。すると主の言葉を聞いて、そこに居合わせたすべての人々が「その教えに非常に驚いた」のです。弟子になった4人が誰よりも驚いたのではないでしょうか。後になって教会の人々に、「もう本当に、あの時は驚いた」と思い出すことが多かったのではないでしょうか。

 主が復活された後に、エルサレム、アンティオキア、ローマへと礼拝の拠点がつくられていくに従って、この驚きの体験は波紋のように語り伝えられて、聖書の記事にまでなったわけです。

 マルコは具体的なことを言いませんが、人々は一体何におどろいたのでしょうか。1:22に、人々の驚きはイエスが、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」だとあります。律法学者は、律法と口伝律法によって民衆を指導していました。口伝律法とは、昔の律法を今の生活の中でどのように実行するかについて、何世代にもわたる律法学者たちの解釈を集めたものです。「神はかつてモーセにこう命じられた、だからこうしなければならない」というのが律法学者の教えでした。

 一方、主イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。主イエスはそう言って、神の支配が始まった。あなた方は心を変えなさい。悔い改めなさい。自分たちの罪を認めなさい。神はあなたを愛している。安心しなさい。あなたは救われる。そう告げてくださったのです。

 それはこれまで人々が聞いてきた学者の解説ではなく、神が今まさに何かをなさろうとしているという宣言そのものでした。神の言葉、神の思いを面と向かって聴く。そこに人々は神から来たまったく新しいもの(=権威)を感じ、驚いたに違いありません。

 今日の第2朗読のコリント書8章1節に「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とあります。人々は、主イエスの言葉から、高ぶった学者のようでない、聴くもの魂が喜びで満たされる神の愛を感じたに違いありません。

 この主イエスの権威ある言葉を聞いて、慌てふためいたのはある男にとりついていた汚れた霊です。当時の人々には、現代の医学知識はありませんから、人々は病気というものを、しばしば汚れた霊のせいにしました。

 悪霊が人のさまざまな病気を引き起こすと考えられていましたが、特に他の人との落ち着いたコミュニケーションができなくなるような状態が「悪霊に取りつかれている」ことが原因だと考えられました。聖霊が「神と人、人と人とを結びつける力」だとすれば、悪霊は「神と人、人と人との関係を断ち切る力」だと言えます。

 事実、この箇所で悪霊は主イエスに毒づきます。24節、「ナザレのイエス、おれたちとおまえに何の関係があるってんだ?おれたちを滅ぼしに来たのか?おまえが誰かは分かってるぞ、神の聖者だ」。神から来た主イエスとの関係を拒否することが、悪霊の悪霊たる所以です。

 主イエスは悪霊を黙らせます。神との関係を拒否しているのは、目の前の人の本来の部分ではなく、何かしらその人を神と人から引き離そうとしている力だとすれば、その力を自由にさせておくわけにはいきません。この時、主イエスはその人の何を見ているのでしょうか。「悪霊に取りつかれている」と考えられているその人の様子ではなく、その奥にある本来の部分を見ているのではないでしょうか。そしてその場で結果として起こったことは、その人が他の人との普通の交わりを取り戻し、神とのつながりを取り戻したということです。

 古代の人にとって「汚れた霊=悪霊」はとても身近なものでした。現代人は、人間がほとんどの現象を理解し、コントロールできると考えますが、古代の人にとって、人間の理解や力を超えたものは周囲にたくさんありました。

 現代のわたしたちにとって、悪霊とはなんでしょうか?わたしたちの周りにも「神と人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力」が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

 神への信頼を見失い、人と人とが支え合って生きるよりも一人一人の人間が孤立し、競争に駆り立てられ、大きなストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴力となって爆発してしまう・・・そんな、一人の人間ではどうすることもできないような得体の知れない「力」が悪霊だと言ってもいいのかもしれません。

 そんな大きな力だけでなく私たちの日常の中でも、何かに囚われてしまうと、本来の自分を見失うことってよくありますね。悪霊は身近にあると受け止めて、私たちは主イエスが悪霊を追い出してくださることをもっと素直に、そのまま受け取ってもいいのかもしれません。

 27節の「権威ある新しい教えだ」という人々の驚きの言葉は、22節とよく似ています。人々は主イエスの教えの内容に驚いただけでなく、この出来事をとおして、主イエスの言葉が現実を変える力を持っていることに驚嘆しました。

 「神の国は近づいた」というメッセージは、主イエスが悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを失っていた人を、神や人との交わりに連れ戻すことによって、もうすでに実現し始めたのだと言えます。悪霊に覆われてしまっているような現象や人間のもっと深い部分にどのように触れ、どうしたらつながりを取り戻していくことができるかを、主の助けを信じ、主により頼みながら深めてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年1月21日日曜日

礼拝メッセージ「招きに応えて」

 2024年01月21日(日)顕現後第3主日

ヨナ書:3章1〜5、10 

コリントの信徒への手紙一:7章29〜31 

マルコによる福音書:1章14〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今年私たちは主にマルコ福音書を用いて主イエスの活動の歩みを思い起こしていきます。主はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、神から「愛する子」と宣言されました(マルコ1;9-11)。そして荒れ野で悪魔の誘惑を退けた(1:12-13)のち、きょうの箇所から神の子としての活動を始めます。

 このマルコ福音書は、主イエスの死と復活から40年くらい後、紀元70年ころに編纂されたとされる世界最初の福音書です。4つの福音書のうち、ヨハネ福音書は独自ですが、マタイとルカのものはマルコ福音書をもとにしています。マルコ福音書は、その1章1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。実に味わい深い言葉です。

 この一行にすでに、「さあ、福音の世界が始まった。もうだいじょうぶ。安心なさい」というマルコの思いが凝縮していて、うれしさで顔を輝かせたマルコの喜びの声が聞こえてくるようです。まずこの宣言について見ていきましょう。

 福音書というのは「もうここに救いは実現した」という宣言だと言えます。この福音書から、究極の世界、本当にすばらしい救いの世界が、恵みの世界が始まりました。この二千年間を振り返れば、それはもう、どれだけ言っても言い足りないくらいです。皆さんが、今日ここに集まっているのだって、その実りですし、数限りないキリスト者によって繋がれてきたその実りのおかげに違いありません。

 そして、主イエス・キリストの第一声が1章の15節にあります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。どうぞこの言葉を、今、主が、あなたに語りかけておられるのだと受け止めてください。(私は、なんだかこう心があたたかくなります)

 ここには、四つのことが書いてあります。

 最初の二つは宣言です。「時は満ちた」。そして「神の国は近づいた」。「時」というのは時間です。そして「国」というのは空間、場です。ですからこれは「時間も空間もすべてが、いまや神の恵みのうちにある。準備の時は終わり、いよいよ神の救いが実現する時が来た」と、そういう宣言です。

時間も空間もと言いましたが、それは、純然たるこの世の時間と空間のことではありません。この宇宙の時間、歴史に記録されるような時間ではなく、これはすべてを超えた「神の時」の話です。いつ洗礼を受けたらいいかとか、あと何年生きられるんだろうかとか、そんなこの世的な時を超えて、「今、決定的な神の時、永遠なる救いの時が始まった。もうすでに私たちは救われている!」という、そういう宣言です。

 「神の国」というのも、この世の空間ではありません。神の支配下に置かれた、神の場所です。どこどこという場所のことではなく、救いが現実している場そのものが「神の国」です。私たちにとって、この世界のどこなのかということが場所の意味ですが、主イエスの「神の国」においては、それが本質的に変えられたのです。この21世紀、世界の現状は戦争に溢れていて、まだ、まだ「神の国」は完成していませんけれども、「神の国」はもうすでに始まりました。

これは、この礼拝にたとえるなら、前奏、初めの歌と続いて、もう礼拝は始まっていますね。聖餐はまだいただいてないけれども、みんなでここに集まって、心を神にむけて、安心して、私たちは幸いだと座っておられませんか。それは、ここに主イエスがおられ、今日もみ言葉と聖餐と主の祝福が得られるからです。そんなこの場所で、神の国は、もう始まっています。

 このひとときが、みなさんがおられる、今、復活の主イエスがおっしゃるここが「神の国」であり、「神のとき」なのです。なによりも主イエスご自身が福音ですし、主イエスご自身が「神の国」なのです。主イエスは、ご自分が来られたことそのもので、すべての人に救いを宣言しています。主は「わたしがいる。もうだいじょうぶだ。あなたは救われた」と告げています。

 そして後半の二つは、その宣言を受け入れなさいという命令ですね。というのは、いくら宣言しても、聞いたその人が受け入れてくれなければ意味がないですから。だからまず、「耳を開いて、この福音を聴いてほしい」と主はおっしゃいます。

 「時は満ちた。神の国は始まった。さあ、心を開いて、受け入れて、信じてほしい」と、主イエスは、そう宣言し、命じています。

 主イエスが現れたとき、二千年前に、そこからすべてが始まって、今日に至っている。天に昇られる前、主は弟子たちに、父と子と聖霊による洗礼を広め、福音を世界中に伝えるように命じられました。次々と新しい人が生まれてくるわけですから、主の教会はずっと福音を伝え続けているわけです。主に従った先人のおかげで、私たちもこうして湯河原教会に集まれています。

 神の国はもう来ています。主イエスの救いは始まっています。だれが何と言おうと、どう反論しようと、それは事実であって、それを変えることはできないし、否定することもできません。私がみなさんと共に伝道させていただいたこの11年間にも、新たな人が救われてきました。あの方、この方の顔が思い浮かびます。ここに集い、繋がりをもった方々が喜んで天に召されていきました。私たちはそんな教会家族であり、主によって結ばれた仲間です。

 さて、ヨナ書にも触れたいと思います。ニネベという都ですが、風紀はかなり乱れていたんでしょう。お金お金の政治家たちや、性に取り憑かれた有名人たちみたいなものでしょうか。そんなニネベでヨナは預言者として、「40日したら、この都は、滅びる」と (ヨナ3:4)告げて歩いた。ある意味で、脅しですね。そうすると、ニネベの人たちは素直で、神を信じて断食して、悔い改めた。そこで、10節「神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった」(ヨナ3:10)とあります。これが、旧約の神です。

 確かに、この物語には神の憐れみ深さが表されていますが、この神は、悪は「滅ぼすぞ」と裁きを告げます。けれども、人々が、「すみません。ごめんなさい!」と回心したら、「それならば、滅ぼすのをやめよう」と思い直す。これは、神と人の関係が、ちょっと幼稚だと感じませんか。

 それは旧約の神が、まだ人類が幼い段階の神だからです。もちろん、幼いこと自体は悪いことではありません。子どもはそうやって育っていくわけですから、成長の過程で、必要な段階です。人類も同じで、初めのうちは、親が叱ったり、ちょっと脅したりもするし、子どもも「ごめんなさい!」と謝ったり反省したりしますね。そうすると親が、「もうしないでね」と赦してくれる。そんなやり取りをしますでしょう。つまり、神が人類を育てるプロセスなんです。

 子どものころは、みんなわがままですよね。そんなときにちょっと厳しく対応するのも、親心でしょう。でも、本気で、裁いて滅ぼすとか、神はそんな方ではありません。ですから、人類もいよいよ成長してきて、旧約の段階を卒業して、主イエスが真の親心を、本当の神の愛を、教え始めた。これが新約です。人類は親とちゃんと向き合えるだけの大人になったんです。そのために、神は主イエスを送ってくださって、主は「天の父は、すべてのわが子を救う」という福音を語ってくださっています。

 もし、旧約の段階の神でいいんだったら、ヨナなどの預言者がいればいい。主イエスもいりません。けれども、主イエスは来られました。みんなを救うために。主イエスは「決して神は罰しない」。「天の親は、神の子たちみんなを愛している、どの子も赦す。そして、必ず救う」と、ご自分の命捧げて教えてくれました。

 今日のまとめになりますが、「私に付いて来なさい」(マルコ1:17)という、イエスさまからの呼びかけがきっとみなさんに聞こえているでしょう。主はヨハネ15章16節でこうおっしゃっています。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。ここにおられる皆さんはみんな主の招きを受けたのです。主に選ばれたのです。

私たちが「ついて行くべきは、イエス・キリストです」。「罰するイエス」とか、「裁く神」を信じさせる宗教は偽物です。主イエスは、「どんなに失敗しても、そんな罪深いあなたをこそ、私は命がけで愛している」と受け入れてくれます。そのような、真の親。そのような、神。その神を証する主イエスに、付いて行きましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2024年1月14日日曜日

礼拝メッセージ「心の目で見る」

 2024年01月14日(日)顕現後第2主日 「心の目で見る」

サムエル記上:3章1〜10 

コリントの信徒への手紙一:6章12〜20 

ヨハネによる福音書:1章43〜51

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日は主イエスから声をかけられたフィリポとナタナエルが、主の弟子として従う箇所から聞いて行きたいと願います。今読んでいただいて気がつかれたとおもいますが、主イエスは、フィリポに出会った途端に「わたしに従いなさい」と告げます。それはいかにも唐突なことです。公な業として、まだ奇跡も説教も行っていない主イエスは、フィリポにとっては無名な存在であったはずです。うわべから見るイエスはナザレ出身のごく普通の若者にすぎません。しかし、そんなイエスの存在の奥に、神の神秘が隠れています。

 まずフィリポですが、彼はガリラヤ湖畔のベトサイダの人で、アンデレやペトロと同じ町の出身(1:44)でした。おそらくフィリポはアンデレやペトロをよく知っていたでしょう。フィリポも主イエスに従って12弟子の一人となります。しかし、ヨハネの関心はこのフィリポよりもこの後に出てくるもう一人の使徒となるべき人物に向けられます。

その人の名はナタナエルです。彼はガリラヤのカナの出身であるとされています。今日の福音の直後には「カナの結婚式で水をぶどう酒に変える」という奇跡物語が続きますが、イエスは間もなくガリラヤ地方のカナで最初のしるしを行い、そのキリスト的栄光を表そうとしておられました。その栄光の一端が、今、ここで、ナタナエルにも示されます。

ナタナエルに出会ったフィリポはこう言います。45節、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

それを聞いたナタナエルは、フィリポのその証言に大変な関心を持ちました。なぜなら、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」というのは、イスラエルの救い主、メシアにほかならないからです。けれども、そのメシアが「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」と聞いて、彼は、たちまちガッカリして偏見の虜となりました。これは私たちもよく陥る過ちですね。

 そして、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46)と疑うのです。これは、当然といえば当然のことで、これまでガリラヤからは狂信的な、偽メシアしか出てこなかったとう事実があったようです。フィリポは、偏見の虜になったナタナエルに、主イエスが最初の二人の弟子たちに言ったように「(あなたも)来て、(イエスを)見なさい」と告げます。偏見を打ち破るには証拠を見せるのが一番だからです。

 ナタナエルが一時は偏見に陥ったものの、フィリポの言葉を聞いて主イエスのもとに来たのは、彼が神の前に謙遜に生きようとする人物である証拠でした。そのような者こそ、「本当のイスラエル人」、まことの信仰者だと主はおっしゃっていますね。詩編32編2節にも「いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」と歌われているとおりです。ナタナエルはそんな人物だったのでしょう。

主イエスは優れた霊的洞察力によって、ナタナエルのうちに神の民としての純粋な誇りと期待があることを見抜かれました。そして「この人には偽りがない。」と告げました。

主の神秘的な力に触れたナタナエルは驚きを込めて「どうして私をご存知なのですか」と聞くのです。彼はフィリポの誘いに従って「来て」そして見たのです。それは彼にとって大きな信仰的冒険でした。そして彼は自分が見聞きしたことから深く心を動かされることになります。それは主イエスが、「ナタナエルがいちじくの木の下にいる」ことを言い当てたことです。

実に神秘的なことですが、これは主がいちじくの木の下にいるナタナエルを「見て」、その心の願いを知っておられたと考えられます。それは神の英知によることです。ナタナエルは一切の偏見を取り除かれ「先生、あなたは神の子です。イスラエルの王です」(49)と告白します。

 しかし、まだ彼の告白は十分とは言えず、彼の理解が不足していることがわかります。なぜなら主イエスの支配は地上の王たちのものとは違い、主はイスラエルだけの王ではなかったからです。彼はまだキリストが全世界の王として神から立てられていることを知りません。つまり、全世界が神の国となるはずであることをまだ知りません。

ナタナエルの告白は、真実な告白でしたが、まだ真理そのものとは言えませんでした。そこで、主イエスはナタナエルの信仰にさらに一歩踏み込んでおっしゃいます。50節-51節、「イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」この言葉にもなんだか唐突な印象を受けませんか。

主イエスはここで創世記28章12節の言葉を引用されました。それはおそらくナタナエルがいちじくの木の下にいた時、彼はこの箇所を黙想していたからです。かつてイスラエルの父祖ヤコブがベテルの地で夢を見た故事です。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。この箇所をナタナエルは黙想していたことを、主がご存知であったに違いないということが想像できます。

 ヤコブといえばアブラハム、イサク、と並んでイスラエルの偉大な先祖の一人です。ヤコブの階段(はしご)の話は皆さんご存知でしょう。双子の兄のエサウをだまして長子の権利を奪い取ったヤコブは、エサウの恨みを買い、命からがらハランにいる伯父ラバンのもとに逃れていきます。優しい父母のもとを去り、懐かしい故郷を離れて兄から命を狙われ、逃げる旅です。ヤコブには当然といえば当然の報いです。間もなくハランへさしかかろうとするところで日が暮れて、野宿することになります。家も寝床もなく、野原にあった石を枕にして眠るヤコブがその夜見た夢。それが、この天から地へと届く階段の夢でした。しかも、その階段を天使たちが上り下りしている。

 自分のやってしまったことの結果に恐れながら、不安な一夜を過ごしたヤコブが、なんと神の恵みが、今、ここにあることを知ります。自分は神から見捨てられていない!ここに天と地をつなぐ階段がかけられているではないか!この場所は天と地の出会っているところ、天の門だ!と気が付きます。ヤコブのこの畏れと、おののき、そして感動と喜びはどのように表現したらいいでしょう。ヤコブは枕にしていた石を立てて、生涯忘れることのできない恵みの出来事として、その場所をベテル(神の家)と名付けて記念しました。

 ナタナエルの主イエスに対する信仰が十分なものとなるためには、受肉した神の言葉であるイエスにおいて、天と地が出会っているところが必要でした。それがこのヤコブの夢に見た「階段」です。

私たちにも天に届く「ヤコブの階段」、いや、「イエスの階段」が必要ですね。時として、四面楚歌の中の私だったり、失敗の末のこんな情けない私だったりしますが、たとえそうであっても、神の恵みは私を離れないというこの確信、それは本当にありがたい確信です。そして、「天と地」、「神とわたしをつないでくれる架け橋」があるという信仰は涙の出るくらい嬉しいことです。

 天の栄光が地に降って人々の目に見えるものになった。これが主イエスです。この主イエスと出会うことによって、地上の私たちは天にまで上げられるのです。ナタナエルは、このヤコブの階段の話を通して、主イエスこそ天と地の間に立てられた「まことの架け橋」であることを知らされました。

神の子であって、人の子。100%神であって、100%人である方は、主イエスをおいてほかにありません。まさに天と地のつながり合うところに主イエスはおられます。主イエスこそが天の父と私たちをつなぐ「階段」、「架け橋」、「道」、です。

この主イエスとの断ち切れることのない交わりに生きたいと心底から願います。御言葉に聞き、祈り、隣人との交わりに生きる。まさに、神の神秘である主イエスによって、私たちは天に迎えられます。永遠の命に生きる者とされます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2024年1月8日月曜日

新たなる生

 2024.1.7. 小田原教会

新  た  な  る  生

創世記1:1-5; 詩篇29; 使徒言行録19:1-7; 

マルコによる福音書1:4-11

江藤直純牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 20代前半の頃だったでしょうか、『聖書と教会』という雑誌を読んでいました。その月の特集は「洗礼」でした。他は全部忘れましたが、今でも覚えている一つの記事というか一つのエピソードが載っていました。それはAという後に知り合いになった牧師が洗礼を受けたときの思い出です。その青年は洗礼式に臨んで非常に緊張していたそうです。

 その教会の伝統は洗礼槽といういわば一人用の小さなプールというか深いバスタブというか、それに入り、全身を水の中に沈めさせて洗礼を授けるやり方でした。ルーテル教会をはじめ多くの教会で行う滴礼という水を三度頭の上に降り注ぐというかかける、滴らせるやり方とは違って、全身を頭まで水に沈める浸礼というやり方です。ヨルダン川のほとりで洗礼者ヨハネが行い、主イエスもまた受けられた洗礼のやり方です。今でもバプテスト教会などはその伝統を守っています。ギリシャ語でバプティゾウという動詞は「水に浸す」という動作であって、バプティスマあるいはバプティスモスいう名詞は「水に浸すこと」です。「洗礼を施す者」はバプティステイスと言います。その雑誌に寄稿した方は緊張しつつ全身で肩まで洗礼槽に入り、今まさにバプティスマを受けようとしていたのです。

 ところがそこで事件が起こったのです。A青年は緊張の余りそこで気を失ったのです。目が覚めたときは、牧師館の一室で布団に寝かされていたそうです。そうなのです、彼は洗礼式において、死と生を、正確に言えば、死と新しい生を経験したのです。その方の文章はさらにその経験を思想的に、神学的に深めたものだったと思いますが、50年以上も前のことで私は詳しいことは覚えていません。ただ私が記憶していることは、彼が洗礼を受けるに際して文字通り死と新たな生を経験したということと、私はそのとき何だか羨ましい気持ちになったことです。

 私は生まれて一月後に幼児洗礼を受けたので、自分の洗礼のことなど何一つ記憶にはないのです。自分が洗礼を授ける側になって初めて、若い両親と共に聖壇に上がり、母親に抱かれた赤ん坊が牧師にそっと頭に三度水をかけられ、タオルで拭かれ、祝福を受ける姿を見て、自分が受けた洗礼というものがどういうものだったかを追体験するばかりです。あのA青年みたいなまことにドラマティックな洗礼体験は記憶にはないのです。だから羨ましいなと思ったのです。

 宗教改革の中で、本人の自覚的信仰というものを強く主張したグループは、当時ほぼすべての人が受けていた幼児洗礼を否定し、再洗礼派という運動を起こしました。今日は自覚的な成人洗礼を重んじる伝統がプロテスタントの中では大きな位置を占めています。幼児洗礼と成人洗礼をめぐっては話すべきことがたくさんありますが、本日はいたしません。A青年の出来事というか事件だけをご紹介することにとどめます。もう一度言えば、彼は短く、象徴的にではありますが、洗礼式の際に死と生を、死と新しい生、新たなる生を経験したのです。


2.

 そもそも洗礼とは何でしょうか。何のために行うのでしょうか。それを考える前に、今日の福音書の日課には洗礼には二種類あると記されていることに気がつかされます。それは洗礼者ヨハネが行った「水で授ける洗礼」と主イエスがなさるという「聖霊でお授けになる洗礼」の二つです(マコ1:8)。それらは何が違うというのでしょうか。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(1:3)との預言のとおりにヨハネが登場します。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ」(1:6)るという世間とはおよそかけ離れた特異な、はっきり言って異様な風貌で禁欲的な生活を送りながら、町中にではなく「荒れ野に現われて」(1:4)、相手構わず激しく「悔い改め」を迫ったのです。場所は「ヨルダン川沿いの地方一帯」(ルカ3:3)でした。

 ふつうの人ならいったい誰が自分に向かって手厳しく悔い改めを迫る人に好んで近寄るでしょうか。誰でも自分がかわいいのです。耳に痛い言葉を言う人など顔も見たくない、そんな話しなど聞きたくもない、そう思い、そんな人を避けるのが当たり前の反応ではないでしょうか。マタイは彼がただ「悔い改めよ」と言っただけではなく、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ3:7-8)と容赦なく言ったと記しています。ルカは集まった群衆の中には徴税人もいれば兵士もいたと伝えています。マタイは「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢」(マタ3:7)来たとまで書いています。マルコが「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」(マコ1:5)ヨハネのもとに集まって来たというのはいささか誇張があるかもしれませんが、集まったのはけっしてごく限られた人たちではなかったこと、むしろかなり大規模な社会現象が起こっていたことはたしかでしょう。

 それほどまでにヨハネの言葉は人々の心に鋭く深く突き刺さったのです。悪いことをしているのは自分だけでなく世間では多かれ少なかれ誰だってやっていることだなどという弁解は通じない、人の目はごまかせても神の目はごまかせない、このままでは神の怒りを免れることはできない、そう受け取った人々は自分の「罪を告白し」(1:5)、ヨハネが呼び掛ける「悔い改めの洗礼」を受けたいと申し出たのです。犯してしまったあのことこのことは取返しがつかないけれども、それらを悔い、そのようなことを繰り返すまいと願って、汚れた体と心を洗ってもらおうとヨハネの前に進み出たのです。何とかして、何としてもヨハネに救ってもらいたいと願ったのでしょう。その気持ちは私たちも共感、同感できます。

3.

 水で洗い清める、そのイメージはくっきりと明らかです。体が汚(よご)れたときに水で洗い清めます。日常生活の中でも手足がよごれたときは水で洗い流します。江戸時代も旅人が宿に着いたら盥に水を汲んで持ってきて埃まみれになった足を洗ってから、上がってもらいました。ユダヤでも同じ習慣がありました。家に客が来ればまず水で土埃を洗い流してあげていました。

 手の汚れ、足の埃は水で洗い流せます。そのことからの連想でしょう。悔い改めるときに心の汚れ、穢れを洗い流すということで表現するのです。水垢離という宗教的伝統は日本にもあります。斎戒沐浴いう言葉も生きています。ギリシャ語のバプティゾーは水に浸す、洗い清めるというのが元々の意味で、そういう行為が宗教的な意味合いを込めて行われる時に「洗礼を授ける、施す」と訳すのです。ヨルダン川に入る者も真剣でした。罪を告白し、罪を洗い清めていただきたいとひたすらに願いました。その者を水に浸し洗い清めて洗礼を施すヨハネもそれ以上に真剣でした。

この時代よりも千年も前のことでした。ダビデ王が部下の妻に心を奪われ不倫の関係となり、さらにはその夫を戦死させるように仕向けた罪を親友ヨナタンに指弾されて悔い改めたときの詩が詩編51編です。その詩はこう始まっています。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」(詩51:3-4)。自分の心がどれほど穢れているかに気づいた彼はさらにこう謳います。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪より白くなるように」(51:9)。ここでも罪を汚れのように払ってくださいとか、ほこりのように洗い流してくださいと表現しています。人間の言葉ですからそこには限界があります。どうしても比喩的な行為と言葉を使わざるを得ないのです。よごれけがれをきれいな水で洗い流すという象徴的な表現が洋の東西で用いられてきました。そのひたむきさ、真剣さをもちろん認めます。尊重すべきであって、けっして否定する者ではありません。

 しかし、これだけは申し上げなければなりません。心のよごれや穢れは当然ですが水では洗い流せません。清めることはできません。その心のよごれ、穢れ、キリスト教が罪と呼び、仏教が業と呼ぶ人間の本性は水でもって洗い流し清めることはできないのです。言い換えれば、人間のする反省や行いや努力や修行でもって人間の本性を変えることはできないのです。問題はそれほど根が深いのです。

 宗教改革者ルターが「95箇条の提題」の冒頭で「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」と言いました。ルターは自分のこととして知っていたのです、私たち人間は一度徹底的に悔い改め、罪が洗い流され清められたら、あとはもう大丈夫だとは思えないということを。全生涯が悔い改めであるとは、生涯にわたって悔い改めが必要だということです。なぜなら、心の奥底の罪は生きているかぎり残っているのだと知っていたからです。

 最近たまたま目にした親鸞聖人が遺された「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」の中にこういうものがありました。「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり 修善(しゅぜん)も雑毒なるゆえに 虚仮(こけ)の行とぞなづけたる」。800年前の日本語ですからちょっと難しいですが、現代語訳にはこうなっていました。「悪い本性はなかなかかわらないものであり、それはあたかも蛇やさそりのようなものである。だからたとえどんなよい行いをしても煩悩の毒がまじっているので、いつわりの行いというものである」と。悪い本性はなかなか変わらないのだと喝破しています。ルターにしろ、親鸞にしろ、人間の骨の髄にまで浸み込んだ罪を深く認識していたのです。

 だからこそ親鸞聖人が仏教の修行を通じて救いに入る道ではなく、ただ阿弥陀様の大慈悲にのみ縋ることによって救いに入れていただく道を主張したのだろうと改めて納得したことでした。ルターは信仰義認、あるいは恩寵義認ということを終生叫び続けたのです。人間のなす業によってではなく、ただ信仰を通してのみ、端的に言って神の恩寵、恵みによってのみ人は義とされ救われるのだと教え続けたのです。

4.

 洗礼者ヨハネが言った二つの洗礼、彼が授ける「水による洗礼」と、来たるべき主イエスがお授けになる「聖霊による洗礼」、その二つのうちの後者、聖霊による洗礼とは、人間の悔い改め、自己反省、自己否定、さらにはひたすらなる信心、修行、良い行ないによる罪の赦しを求めての水の洗礼とは真逆なのです。

 施す人が誰かという点から違います。水での洗礼をするのはもちろん人間です。本人の洗礼を受けたいという意思があり、たとえばヨハネと言った優れた宗教者の悔い改めの勧めとそれにふさわしい生活の指導があります。しかし、それは望ましいことではありますが、それによって人間の本性が変えられることはないのです。謂わば根本の所では「古い人間」が生きているのです。

 それに対して、聖霊による洗礼は逆立ちしても人間には施すことはできません。聖霊とは神の霊、キリストの霊です。それを思いのままに動かすことができるのは神さまだけ、キリストだけです。そして、水に対比される聖霊とは、神の働きでありキリストの働きです。使徒パウロは、私たちは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ロマ6: 3)のだと言います。キリストと結ばれる洗礼を受けたので「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(6:4)とはっきりと言いました。いいえ、キリストと共に死んだだけではありません。こう続けました。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:4-5)と。私たちは聖霊の洗礼によってキリストと共に死に、さらにキリストと共に新しい命を生きることになるのです。

 この恵みの洗礼は私たちが悔い改めたからいただけたのではありません。それが恵みであるのはあくまで無条件に、無前提で与えられるから恵みなのです。悔い改めはよいことです。必要なものです。しかし、それが立派に果たせたから、真人間の心を取り戻せたからご褒美として神の恵みを、つまり罪の赦しを、さらにはキリストと共に生きる幸いを与えられたのではありません。そもそも完全に悔い改めることなどできません。

 順序が逆さまなのです。恵みとしての聖霊の洗礼が授けられたから、キリストのほうからの一方的な救いが差し出されたから、弱さや欠け、破れ、総じて罪を抱えたままなのに罪の赦しを宣言していただいたから、罪人なのに無条件で神の子として受け容れられたから、不信心だったのに先に贖いとしてイエス様が十字架上で死んでくださったから、私たちはそのような恵みを受けるのに値しないにもかかわらずキリストの恵みをいただくことに心底驚きます。そして感謝します。そこから悔い改めの心が湧き上がるのです。「恵みから悔い改めへ」なのです。

 地上で生きるかぎり、悔い改めても、悔い改めてもそれでも私たちは罪を犯しますにもかかわらず、そういう私たちに十字架と復活の主イエス・キリストは赦しと愛とを与えられます。そのような、言葉に尽くせない神の恵みに全身を浸し浴させてくださることが「聖霊で洗礼をお授けになる」ことなのです。それによって、自力で生きようとする古い自己は死に、キリストの恵み、神の愛、聖霊との交わりによって生かされる新しい命を生きるようになるのです。

 のちに著名な牧師となった青年Aは、洗礼槽の中で気を失って溺れ、瞬間的に死を経験し、牧師館の一室で目が覚めたときに新しい生を歩み出しました。キリストと共に死に、キリストと共に新しい命を、新たなる生を生き始めたのです。これほどドラマティックな体験を伴うかどうかはともかく、私たちは皆このような聖霊の洗礼を受けたのです。あるいは招かれているのです。「主の洗礼」を記念するこの日に、主が授けてくださる洗礼の恵みを改めて思い起こしましょう。そうしながらこの新しい一年を一日一日生きて参りましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2024年1月7日日曜日

礼拝メッセージ「神の子として生きる」

2024年1月7日(日) 主の洗礼主日 創世記:1章1~5

使徒言行録:19章1~7

マルコによる福音書:1章4~11

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは先週、聖霊に導かれたシメオンとアンナが、この子こそ人々が待ち望んでいた救い主だという赤ちゃんイエス様に出会い、心の底からの魂の平安を得た出来事を祝いました。それはマリアを母としてお生まれになったイエス様が、神から遣わされた救い主であることを世の人々に明らかにした出来事で、主の顕現とか、主の公現と呼ばれています。

 そして今日は「主の洗礼」の祝日です。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、主が30歳頃のことですが、この時、神は、思いを込めた声をかけて、主イエスが「愛する子、かわいくてならない神の子」であることを示し、聖霊を降しました。この出来事は主イエスにとって救い主としての活動の出発点となりました。

 さて、今日の旧約日課は創世記の最初のところですね。138億年前に「光あれ」とこの宇宙が始まり、そして35億年前に地球には生命が生まれました。2020年末に「はやぶさ2」が隕石の粒を持ち帰りましたね。それは地球が生成されたころの隕石の粒ですから、「土の塵」から生命が誕生した痕跡が何か掴めるのかもしれません。

科学は宇宙と生命の始まりの仮説を立ててそれを証拠によって実証しようとます。一方聖書は聖霊に導かれて、神話の形で宇宙と人類の創生の出来事を語ります。この二つに共通することの一つは、始まりがあり終わりがあると伝えていることではないかと思います。

 ところで、今回私は「光あれ」の直前の言葉に注目しました。まず初めに神の霊が満ちていたことが述べられています。神が天地宇宙をお創りになる前、まだ何も形が整わなかったとき、1章2節、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と書かれています。

 21世紀になって、宇宙はダークマター(暗黒物質)と呼ばれる何かでできているということがわかってきました。その闇の面を神の霊が「動いている」と気付かされました。闇の面を神の霊が舞うように動いているところに、神は「光あれ」と宇宙を生み出してくださった。聖書がそう語っているように思えました。

 21世紀になっても、地球のあちこちで紛争や戦争が絶えず、私たちは暗闇の重苦しさを感じています。しかし、この地球を神の霊が覆っている。しかもそれは動いている。神の霊が私たちを、地球もろともに包み、常に生きて働きかけていてくださる。そう思うとなんだか励まされて、頑張ろう!という気持ちになります。

 神の霊が生きて満ちている中で天地宇宙が創造された。そして主イエスの洗礼の時、神の霊が再び新たに動き始め、主イエスに降った。マルコは10節、「“霊”が鳩のように」と言って、あたかもここに新しい創世の物語が始まったのだと告げているようです。主イエスへの聖霊の降臨によって、神は主イエスによるすべての人間への救いの歴史を開始なさったのです。マルコはこの壮大な真実に気づいて語っているのです。

では、今日の福音箇所に入ります。1章4節、5節「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた」とあります。

 この「バプテスマ」とは、本来は「水に沈めること、浸すこと」を意味する言葉です。そして、ヨハネはこう言います。8節「 私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる」。ヨハネは、私は水で、「その方は聖霊でバプテスマを授ける」と言いますが、ヨハネのイメージしていた「聖霊によるバプテスマ」と、実際に主イエスが神からお受けになった「聖霊によるバプテスマ」とは内容がまったく違います。

 ヨハネにとって、聖霊は聖なる裁きをくだす存在でした。ですからヨハネは「その裁き主である方」によって決定的に裁かれる前に、「今のうちに悔改めよ」、そして「罪を赦してもらえ」と人々に迫りました。そして9節「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた」のです。

 私たちと違って主イエスは神と人の前で悔い改める必要のない、罪のない方です。その主が「悔い改めの洗礼」を受けようと集まってきた人々、いわば「罪びとの群れ」の中に入っていって、みんなと一緒になってヨハネから洗礼を受けました。主イエスはなぜ罪人が受ける悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか。

 それは、私たちと一つになるためです。私はこう思いました。「なあんだ、イエス様もヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのか。じゃあ私たちと同じだね?」と。みんなと同じことをして、仲間になる。私たちがよくやることですね。主は悔い改めの洗礼を受けることによって私たちと同じ人間の一人となった。そこから新しく救いの歴史を始めるためです。これが主イエスがお始めなった人類を救う第一歩なのです。すべての人が悔い改めたら、世界中が真の平和で覆われると本当に思いませんか。

 こうして主イエスは本気で私たちの中に入ってこられた。罪人と同じ洗礼を受けて、人類と一致した上で、いよいよ救い主としての活動を開始した。マルコは、そこから話を始めます。

 主イエスはこの洗礼で、完全に、私たちと一つになりました。そう信じることが大事です。あらゆる罪びとと、あらゆる悲しみと、あらゆる痛みと一致する。そうすることによって、つまり、神から遣わされた方が私たちと一致することによって、私たちが救われる。主イエスが私と一つだから私は救われる。それこそが、「聖霊による洗礼」といういわば新たな創世記の始まりです。

 10節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。このことも聖書から見てみましょう。

 「天が裂ける」。これは神がこの世界に介入することを表す表現です。イザヤ書63章19節にこうあります。「私たちははるか昔から/あなたに統治されない者/あなたの名で呼ばれない者となっています。/あなたが天を裂いて降りて来てくださったなら/山々は御前に揺れ動くでしょうに」。この時ユダヤの人々はバビロンから侵略され、徹底的に痛めつけられて、悲惨な状況にあえいでいました。旧約聖書の「哀歌」はそれを具体的に語っています。

 信仰の基である神殿は破壊されつくし、道を示してくれた祭司たちは殺され、家族もバラバラになり、食べ物はない。飢えに堪えかねて、死んだ子供を煮炊きする人々まで現れた。頼りにするものがすべて奪われ、人々に残されたものは、恐怖と絶望だけという状況です。更に、人々は、そんな状態を招いてしまったのは、自分たちが神に背を向け、偶像礼拝に走ってしまったためだとう負い目をもっていました。

 しかし人々は「自分たちは神の恵みに値しない」と卑下しながらも、必死になって神に訴えました。「どうか、天を裂いて降ってください」と。この世界に介入してくださいと。神への背き、人間の悲惨さ。それは主イエスの当時にも、そして今の時代にも共通しています。

 主の洗礼の時、「天が裂けて」主イエスの上に「聖霊」が降ってきたということ、それは神が人類の歴史に介入なさったということです。主の洗礼によって、主イエスこそが人類の訴えに対する神の決定的な回答であることが明らかになりました。

 11節「すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』」とあります。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」この言葉は、神が、主イエスを通して、私たち一人ひとりに向けて、「可愛いねえ、大好き」とおっしゃっているのです。

(なぜそう言えるのか)

 悔い改めて救われる必要があるのは、われわれ、人類です。けれども、この主イエスという、聖霊に満ちた方が洗礼を受けて、十字架の死と復活を経て私たちの内に宿ったおかげで、私たちも聖霊に満たされ、聖霊による洗礼を受けたことになるのです。これこそが福音です。

 事実、主イエスは、もう来られました。そして、私たちと一つになりました。それによって、私たちはもう、聖霊による洗礼を受けているのです。この事実に目覚めましょう。今や私たちは神のみ心に適う者です。私たちも神の子です。

 神から愛され恵みを受けている私たちです。その恵みへの感謝の応答は私たちに託されています。あとは、神の子である私たちの番です。それに気づかずにいる人、救いを求めて右往左往している人たちに、「あなたはもう、聖霊による洗礼を受けている。救いのうちにある」という喜びを、主イエスと共に伝えていきましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン