2024年3月31日日曜日

礼拝メッセージ「キリストの復活」

 2024年03月31日(日) 主の復活 

使徒言行録:10章34~43 

コリントの信徒への手紙一:15章1~11 

ヨハネによる福音書:20章1~18

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

「ご復活、おめでとうございます。」「主キリストは生きておられる、ハレルヤ!」。今朝はその喜びを共に分かち合いたいと願っています。

 主の復活の朝の出来事を、ヨハネ福音書は伝えています。朝早く、まだ暗いうちに、墓を塞いでいた大石が取りのけてあるのを見たマグダラのマリアは、ペトロや弟子たちに、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わかりません」(ヨハネ20:2)と告げました。他の福音書にあるように、ほかの女性たちもそう伝えたのですが、弟子たちは信じません。しかし、マグダラのマリアは譲りません。「彼らは私の主を取り去りました」と必死に訴え続けました。

 彼女の訴えが尋常でないと感じた、ペトロとヨハネは急いで墓に向かいました。ヨハネが先に着き、墓の中に「亜麻布が置いてあるのを見ました」(6)。続いて到着したペトロが墓に入ると、イエスの頭と体を覆っていた亜麻布が頭の方と足の方にそれぞれ丸めて置かれていた。ヨハネも墓に入って「見て、信じた」(8)とあります。

二人は主イエスの遺体がないことを確認しました。マグダラのマリアが言うように、きっとユダヤ人の仕業に違いないと考えたでしょう。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」(9)という聖書の言葉は思い浮かばなかった。この事態を信仰ではなく理性で受け止めた彼らは帰って行きます。

彼らは他の弟子たちと、誰が遺体を取り去ったのか、ユダヤ人か、ピラトかと論議したことでしょう。主が復活されたという考えは微塵もなかったに違いありません。

 弟子たちも、女性たちも、みんなが帰ってしまっても、ただ一人墓に残った者がいました。マグダラのマリアです。復活の主イエスとマリアとの出会いは聖書中で最も美しい情景の一つですね。ここは聖書から味わいたいと思います。

 マリアは墓の外に立って泣きくれていた。身をかがめて墓の中を見ると、遺体を安置する台座だけが見えた。身も世もなく泣きながら台座の方を見ると、白銀の衣をつけた天の使いが二人、一人は頭の方に、もう一人は足の方にイエスの遺体の置いてあった場所にいるのが見えた。

白銀に輝く者は驚き恐れるマリアにこう言いました。「女よ、何故泣く」。マリアは取り乱しきっていました。「私の主を何者かがどこかへ奪ってしまいました」。そう言いながらマリアはなにかの気配を後ろに感じて振り返りました。背後にはいつの間にか人が立っていました。その人が朝日の輝きを背にしていたためでしょうか、マリアはそれが主だとわからず墓地の園丁だと思いました。その人はさり気なくたずねます。

「なぜ泣いている。誰を探している。」マリアは丁寧に答えます。「もし、あなた様があの方の遺骸をお移しになったのなら、その場所をお教えくださいませ。わたくしが参って、お引取いたしますから」。マリアは精いっぱい知恵を働かせます。

 マリアがこう言ったのは、主イエスが亡くなった金曜日の夕刻は誰も気がせいていましたし、その上、苦悩のさなかで誰も墓地管理者への手続きのことなど考えも及ばないまま、総督ピラトから許可をもらうや、そのまま墓に納めてしまったからです。ですから手続きが正式に終わるまでの間、園庭が遺体を保管しているのなら、引き渡しを許可してくれるだろう。マリアはそのように考えたわけです。

男性中心が当たり前であった当時の社会において、マグダラのマリアは、弱く小さくされた人たちの代表です。中でも、主イエス一行の世話をしてきたマグダラのマリアを始め幾人かの女性たちはゴルゴタの丘の処刑場にひしひしと迫ってくる恐ろしさやむごたらしさ、居丈高な祭司達や律法学者達という権威者の集団にもひるまず、男の弟子たちが近づき得なかった十字架近くに、ただ信仰と愛だけを力にしてたたずみ続けたのでした。私たちはこの女性たちのうちに愛の強さを見ます。主キリストはまずこうした女性たちの代表であるマグダラのマリアに現れ、彼女に復活の最初の証人の栄誉を与えました。

 主は「マリア」と彼女の名を呼びました。これまでに聞き慣れた、あのなつかしい声で、マリアはその人が主イエスだとわかりました。

マリアはじめは驚愕し、それから歓喜が彼女を包み込みました。「ラボニ!」。マリアは思わず両手を差し伸べて叫びました。 

 ところで新約聖書の原典はギリシア語で書かれていますが、「ラボニ」は、ヘブライ語です。そして16節に「先生という意味だ」という注釈がついています。「マリア」と呼ばれ、「ラボニ!」と叫ぶ。本当に美しい魂の響き合いです。

 嬉しさのあまり、主の足にすがりつこうとするマリアに、主はこう言います。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のところへ私は上る』と。」(20:17)

恐らくマリアは、ラボニが、復活以前の命、つまりこの世の命に戻られ、また今までどおりになられたと考えたのですが、主キリストは、それを否定されました。そして、今からは友人たちの間におけるような、触れ合いはもうなくなると示されました。キリストとこの世の間には、仕切りができた。しかし、仕切りはあるけれども主が共におられるということは変わらないのです。

主は「私にさわってはいけない」と言い、そして、彼女に「私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」と告げました。

 イエス・キリストは死に、葬られ、死人の中から復活し、今やこの世の命

からは離れています。死んだということは、もはや、この世のつながりからは断ち切れているということです。「私にさわってはいけない」とは、それを言っておられるのです。

ところが、触ってはいけないと言われたその次に、主キリストは「私の兄弟たちに伝えなさい」とマリアにおっしゃいます。

「私の兄弟」とは弟子たちのことです。ここには、天上のことと地上のこととが結び合わされているに違いありません。ルターは「あなたがたは、私の兄弟だ」と言われた主キリストの言葉に注意を払うべきだと言っています。弟子ではなく兄弟だ。あなた方はご自分と同じく天の父を父として慕い、そして従う「神の子」だと言っておられるということです。

主が兄弟姉妹であると言われるとき、旧約の兄弟関係と異なり、現代の法律が定めるように、兄弟は誰もが同等の権利をもっています。お互いに同等であり、上下の関係はありません。「私の兄弟たちのところへ行って伝えなさい」というこの主の言葉は私たちを誇らしくしてくれます。

主に命じられ、マリアは走り出しました。泣きながら笑い、笑いながら泣き、そして走りました。「ラボニは、『あなた方は私の兄弟だ』と伝えなさいとおっしゃられた。この恵みの言葉、救いの言葉を一刻も早く伝えよう。十字架から逃げ出して、自分を責めているあの人たちに今すぐ伝えよう。「ああ嬉しい!なんて嬉しい!」彼女は心の中でこう何度も、何度も繰り返し叫びながらひた走りました。

ところでこの間に主は「父のみもとに上り終えた」ようです。なぜなら、この後で、主は戸が閉まっているのに現れ、トマスに手と脇腹の傷を示されるからです。四福音書を総合すると、ヨハネ福音書が最後に書かれるまでの約60年の間に各福音書が補完しあいながら主イエスの死から昇天までの各段階が踏まれていることが見てとれます。

一人の歴史的な人物としての主イエスと、コリント書に見られるように、天的で霊的な主キリストをつないでいるのが福音書と使徒言行録に記されている弟子たちのイエス・キリスト証言だと言えます。

最後になりますが、私は、復活の主を思うとき、「主イエスは生きている」と信じ、またそのことを病気や引越しの日々の中でも実感しています。それはきっと信仰告白と似たものです。「今も実在している主イエス」こそが、私が皆さんと分かちあいたい復活の主です。

この11年の間、この温かな主、あなたを愛し抜いておられる主、あなたを大好きな主、責めずに忍耐して回心を信じて待ち、共に生き、深く憐れんでくださり、どこまでも赦してくださる主。皆さんと共にこの主の恵みにあずかって来られた幸いをここに深く感謝します。天への希望をもって、この主と共に生きていまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年3月17日日曜日

礼拝メッセージ「復活に向かって」

2024年03月17日(日)四旬節第5主日  岡村博雅

エレミヤ書:31章31〜34 

ヘブライ人への手紙:5章5〜10 

ヨハネによる福音書:12章20〜33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所は私たちにとても大切な主イエスの真理を示してくれます。それは主イエスがご自身を完全な犠牲として神にささげられるということです。というのはエルサレム神殿で行われてきた昔ながらのやり方では、祭司が犠牲の動物の頭に手を置いて、人間の罪をその動物に移し、その動物を屠って焼き尽くすことで自分の罪が赦されるというものです。ユダヤ人はモーセの律法に遡るそういう形ばかりの贖罪を続け、その一方で「神の家」を金儲けの場所にしていました。

 しかし心あるユダヤ人たちは詩編51編17-19節のように真実の祈りを捧げてきました。「わが主よ、私の唇を開いてください。/この口はあなたの誉れを告げ知らせます。あなたはいけにえを好まれません。/焼き尽くすいけにえを献げても/あなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。/神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません」。このようにその昔から、神の求めるいけにえは砕かれた霊であり、神は砕かれ悔いる心を喜んでくださる方なのに、主イエスの時代には神殿礼拝はもはや形ばかりとなって完全に腐敗していました。

 神殿を本来の神の家の姿に立ち返らせるため、神殿商人たちを激しく追い出した主イエスに対して、ユダヤ人たちは、主イエスが宮きよめをする権威があることを示す「しるし」を求めました。それに対して主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたことを私たちは読んできました。今日は主イエスがおっしゃる「新しい神殿」、「まことの神殿」について聞いていきたいと思います。

 この神殿について、第一朗読で神は、「その日が来る」、「彼らは皆、私を知る」、「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない」と言われています。すごい恵みです。

 そして第二朗読では、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました」。キリストは「完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となった」と高らかに宣言しています。

 今日の福音書箇所に入っていきましょう。まず注目するのは24節です。「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とあります。

 「麦が死ねば」とありますが、現代人の見方からすれば、地に落ちた麦はもちろん死ぬわけではありません。しかし、麦粒が麦粒のままでいようとすれば、1つの麦粒のままです。麦粒が畑に撒かれ、自分を壊し、養分や水分を受け入れ、ほかのものとつながってこそ、豊かないのちが育っていきます。

 ここで主イエスはご自分を麦の種にたとえています。種は、まかれると種そのものは壊れてしまう。その時種は自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのではなく、自らを壊して、新しいいのちに育っていきます。この種の譬え、それは主イエスのいのちのあり方そのものではないでしょうか。主イエスは、死を超えて、神とのつながり、人とのつながりに生きようとなさいました。

 そこにまことのいのち、永遠なるいのちが芽生えて、やがて想像を絶するほどの多くの実を結びます。種の中がすべてと思っていたときからは想像もつかないような、栄光の世界、復活の世界、神の国の世界が現れてきます。

 ではこの種は私だと思ってみてはどうでしょうか。新しいいのちのことは、種が種のままでいたら分からない。ここから永遠のいのちが生まれて、そこに、本当の私が誕生していくのだということは分からないでしょう。永遠のいのちの誕生を知らないままに、いくら種の中で考えても、種の意味など何も見いだせないということが、分からないわけです。

 昨日たまたま、ALSやパーキンソン病の方の報道番組を見たのですが、たとえば「もう死にたい」と言っているのは、「こんな種はもういやだ」と言っているようなものだと思いました。「死ぬのが怖い」と言っているのは、「この種が失われるのが怖い」と言ってるようなものです。

 どちらも、種の中の話に過ぎません。その種を脱ぎ捨てて、神さまのまぶしい栄光の世界に生まれ出て行ったときのことを考えずに。暗い種の中で、種の中のことしか考えてない。私たちっておうおうにしてそんな日々を送っているといえないでしょうか。

 またヨハネ12章32節で、主イエスが「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」と言っておられますね。

 主が「すべての人」っておっしゃるのですから、千人いたら千人、万人いたら万人、「ひとりも残さず」です。「ひとり残らず、自分のもとへ引き寄せよう」というのが、イエスさまの約束です。この主イエスの約束をこころに受け入れて信じるのがキリスト者です。

 「地から上げられるとき」というのは、つまり、「十字架と復活のとき」ですね。主イエスは真っ暗な夜、凍った冬をくぐり抜けて、そして、桜が満開のような喜びの日々を、私たちにもたらしてくださいました。私たちは、この希望を新たにします。

 「すべての人を」、「みんな引き寄せよう」と言われる。本当にありがたいです。

 「ああ、一人こぼれた」とか「一人落ちたようだけれど、まあいいか」とか、そんなことは、あり得ないわけです。「すべての人を、もれなく、主のもとに引き寄せてくださる。神がなさること、主イエスがなさることですから漏れも抜かりもありません。

 信仰って、単純なことなんですね。シンプルなものなんです。あんまり複雑にしてはいけないものです。私たちはちょっと考え過ぎる悪い傾向があって、恐れたり、悩んだり、いろいろ考えていろいろ言いますけど、「素直に」でいきましょう。私もこの14日にこれまで検査を受けてきた結果が出て、正式に「パーキンソン病」という診断が出ました。でも。大丈夫、大先輩方が前を歩いてくれていますし、何しろイエスさまがいつも一緒にいてくださり、一番いいことをしてくださる。とはいうものの人間としての不安は消えませんが、聖霊の助けがあり、力づけてくださいます。主を信じて安心しておまかせしようと思います。

 神は愛そのものですし、主イエスは、すべての人を、どんなダメな人でも、ご自分のもとに引き寄せてくださる。それはもう、「その人のあらゆる条件を超えて」です。もちろん、人間である私たちは、どうしてももっといい人になろうとか、もっと上手にやろうとか考えますが、それはそれでよしとしましょう。でも、そういう行いとか努力とかいった一切のことを圧倒的に超えた「神さまの愛の大きさ」っていうものを、素直に受け止めましょう。

 私たちは、「主イエスは復活した。神はすべての人を復活させてくださる。私たちもみんなで、天の国で喜びあえる」と、そういう本質を素直に信じましょう。確かに今はまだ、戦争の悲惨の中にいて忍耐している人々がいる、飢餓の中で助けを求めながら忍耐している子どもたちがいる、自然災害の困難な生活の中で忍耐している人々がいる。私たちもそれぞれなにか忍耐していることがあるんじゃないでしょうか。気候にしても、ちょっと寒かったり、ちょっとつらかったりしますけれど、それは、やがて復活の栄光の世界がくるっていうことのしるしです。

 今日はこの後で二見茜さんの召天後1年記念の祈りを行います。1年前の2月末に病床で洗礼を受けた茜さんは、いのちの神秘を悟って、3月17日に永遠のいのちを信じて召されました。そして今日は茜さんの記念の祈りのあと、茜さんが作ってくれたきっかけで湯河原教会に通い始めたお母様の二見美保子さんの洗礼式を行います。このように母と娘が同じ日に天の祝福を受けることになりました。この日は神が備えてくださったもの、天からの祝福です。

 最後に私のことも付け加えさせていただくなら、今日は私が湯河原教会の牧師として、引退前の最後の説教をさせていただいた日です。この日を洗礼式で締めくくれる。このような破格の恵みを主は与えてくださいました。主イエスの父なる神さまは、まことに、恵みの神、憐れみと慈しみの愛の神です。皆さん、この神を信じて決して間違いはありません。感謝です。本当に感謝です。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2024年3月10日日曜日

礼拝メッセージ「圧倒的な愛」

2024年03月10日(日)四旬節第4主日   岡村博雅

民数記:21章4〜9 

エフェソの信徒への手紙:2章1〜10 

ヨハネによる福音書:3章14〜21

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 「聖書の中であなたが最も大切にしている聖句は何ですか」と聞かれたら、私は迷わずに今日の福音書箇所、中でも3章16節をあげます。それは父親が私に信仰の手ほどきをしてくれた思い出に遡るみ言葉だからです。

 私は中学からあるキリスト教主義学校に入学しました。毎朝礼拝から始まり、週1コマの聖書の授業がありました。ある夜の団らんで、父は私にこう言いました。「英語を習っているんだろう?John three sixteen.て言えるかい?」「簡単だよ」と私が応じると、父は「John three sixteen. John three sixteen.」とゆっくりと繰り返し、「ヨハネ3章16節だ、小聖書と言われている箇所だ、ヨハネさん、ていうところが面白いだろ、ヨハネ3の16」とほほ笑みました。私は「John three sixteen、ヨハネ3の16」とまるで呪文のように、得意な思いでくりかえしました。この光景を思い出すたびに、あのゆっくりとした父の声音が聞こえてきます。私にとっての信仰の原風景です。

 後になってですが、この聖句は「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」という神さまの思いを徹底して強調している。「主イエスは一人残らず救う。その主イエスを全面的に信じる」ということこそが福音の鍵だと思うようになりました。

 私は神学校に入る前に一つ気になっていることがありました。それは「主を裏切ったユダは永遠に救われないのか」ということです。主イエスを裏切ったのは他の弟子たちも同じです。主が陰府にくだったのは、陰府にいる人々の霊を救うためではないのか。特に神学校で学んだ期間に、神が「一人残らず救う」ということを、心から信じたいと思っていました。というのは、一人残らず救われるのでなければ、この自分は救われないのではないかという思いがあったからです。

 今でこそ、「私は絶対救われます」という顔をして話していますし、実際、今はホントにそう信じています。最近、自分がパーキンソン病らしいということが分かって、診断が出るのは来週なんですが、すぐにではないだろうけれど、自分は天国に行くんだなということが現実感覚になりました。皆さんは、どう思いますか?天国を信じていますか? 

 言うまでもなく、皆さんも私も天国に入ります。もう主イエスの救いのみわざにおいて天国に入り始めておられるし、最終的には神さまが、みんな入れてくださいます。皆さまとも、いずれあちらでお会いしましょう、ということですね。

 けれども、神学校に入る前後は、そこを信じきることができなかった。自分はホントに救われるんだろうかと、不安でした。自分はご都合主義で人への思いやりが足りないし、愛のうすい自分を呪ったり、それまで身につけてきた、上から目線がちっとも変わっていかないし、それは本当は自分が弱いからだと、自分をはかなんだりしました。

 ですから、祈って、もっと頑張ろう、もっと立派な人間になろう、もっといい人間になろうともがいたけれど、これが、そうなれないわけです。自分でいうのもなんですが、私は、わりあいそういうところを純粋に頑張ったりするたちなんですが、そうなれない。変わらない。いつまでもおんなじ弱さ、おんなじ自分かわいさ、おんなじ冷たさが心に巣食っている。表面は取り繕おうとしても、ああ自分は愛がないなあ、自分は弱い人間だなあと思わされるばかりです。神学生当時はそういう自分と日々向かい合っていました。

 実際、いろいろなことがありましたが、わが身の弱さとか、自分のずるさとか汚さとか、そんなことばかりだったと思い出されます。でも隠したり、無視したりしていたそういう自分自身を少しずつですが明らかに認識できていきました。神学生時代ってそこが重要だったと思います。必死にきれいになりたい、立派になりたいと願いながらも、ぜんぜんそうならない自分というものに、やっぱり、苦しんでいたわけです。恐れてもいたわけです。

 そんな自分でも、神さまは、牧師として使ってくださるんじゃないかと期待して、ともかくがんばれば少しは進歩するだろうと思い込んで神学校にしがみついていたものの、ちっとも本質的には成長しない。そんな自分にとって、最大のテーマは「一人残らず救われる」という、救いの普遍性だったわけです。主イエスがおっしゃるところの、この「一人も滅びないで」というところを最後の砦にして、そこにすがっていないと、自分が救われないわけです。

 そんな日々が、懐かしいといえば、懐かしいです。こんな自分が神学校にホントに入れるだろうかと思った時があり、入ってからはこんな自分がホントに牧師になれるだろうかと思ったこともたびたびでした。牧師への道が閉ざされてしまいそうで、口には出せませんでしたが、私も救われるんだろうか、という思いがありました。もし99人が救われて一人が滅びるんであれば、その一人は自分だろうな、という思いです。

 しかし、もし100人救われるんであれば、こんな安心なことはないわけで、宣教研修に3度挑戦して、なんとか神学校にいる間に、ついに私はそれを信じることができました。主イエスこそは100人全員を救う方だ、最後の一人をも必ず救う方だ。神はそれを望んでいるからこそ、主イエスを遣わしてくださったはずだと、信じることができました。

 というか、もう信じる以外に何もなくなってしまいました。そのことで思い悩んで格闘して、いろんな体験もして、そして卒業前に間に合いました。私は「一人残らず神が救う」ということを確信できました。確信して教職受任按手を受けました。

 さて今日の第一朗読、民数記21章4-9節を踏まえて福音箇所の14節に「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とあります。この話ですが、紀元前13世紀、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の厳しい生活に耐え切れず、神とモーセに不平を言った。その時「炎の蛇」が民を噛み、多くの死者が出て、民はようやく回心した。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』と。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」というのです。

 蛇は古代の人々にとって、不思議な力を持つ存在で、人間を害するもの=罪や悪のシンボルでした。しかし、モーセの青銅の蛇以後は、同時に、いやしと救いのシンボルにもなりました。この2面性が十字架の2面性と通じています。十字架もまた、のろいと死のシンボルでしたが、キリスト者にとっては救いといのちのシンボルになりました。

 主はこの故事を踏まえて、ご自分も十字架にあげられなければならない。そのことによってすべての人が救われるのだとおっしゃいます。

 真の愛には条件なんてありえません。主イエスの愛は真の愛であって、主はすべての人を救うためにこの世にこられて十字架を背負われた。もう人種とか宗教とか、あるいは良い人とか悪い人とか、どれだけ理解したとか、していないとか、そういうことを十字架の愛は超越しています。神は、すべての人を必ず救います。問題は、そのことを信じているかどうかです。主イエスは神の愛そのものですから「イエスを信じる」というのは、まさにそれを自分自身が信じるかどうかです。

みんなが必ず救われます。主イエスはすべての人の救い主です。それを信じることが、救いです。

 もしここに信じない人がいるとしたら、「そうは言っても私は駄目かもしれない」と疑う人がいたら、その疑いがあなた自身を裁いてしまっているということを、今、ヨハネの福音書で読みました。その疑い、その恐れが、すでに裁きになっているというところです。

 ただどれだけそう語ったり宣言したりしても、人の中には恐れの気持ちというのがあって、そうは言っても私は駄目かもしれないとか、でも、あの人は無理でしょうとか、みんないろんなこと言い出します。

でも、第2朗読の8,9節、パウロの言い方でいうならば、「神は恵みによって私たちを救う。それは私たちの行いによるのではない」。つまり救いは人間の考えによらないのです。「あなたのことが大好きだ、あなたを愛している」というその神の恵み、憐れみ、圧倒的な神の愛、その愛を信じて生きていこうというのです。まさにルターが言うように救いは「恵みのみ」ですね。

 あなたも私も、そして全ての人が主イエスによって救われています。

お祈りします。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2024年3月4日月曜日

拝む前にすべきこと

 2024年3月3日 四旬節第3主日 小田原教会 

江藤直純牧師

出エジプト20:1-17;Ⅰコリント1:18-25;ヨハネ福音書2:3-22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 宗教とは何かーーいざ正面切ってこう問われたら、あなたはどうなさいますか。なにかしらの宗教を持っている人も自分は無宗教だと思っている人も、宗教とは何かと即座に簡潔に答えるのはおそらく容易ではないでしょう。学者なら一つの論文、一冊の書物が書けるかもしれません。そういう議論や研究はさておき、ほとんどどの宗教にも共通して見られる要素の一つに、人はそこで拝むという行為をするということがあります。私たちは体で表現する行為としてだけでなく、心の行為或いは姿勢として拝むということをするのです。拝む、自分より、人間よりも優れた存在に尊崇の念を抱き、自ずと頭を下げ、そればかりでなく背を曲げ、腰をかがめ、時に跪くことさえあります。五体投地という全身を地面に投げ出すこともあるのです。拝むこと、これは宗教と切っても切り離せない行為の一つです。

 日本人ならだれもがお馴染みの神社仏閣へのお詣りの際に、そのやり方には二礼二拍手一礼もあれば、型にはまらずにただお辞儀をするだけの場合もあるでしょうが、とにかく拝みます。イスラム教の信者は一日に五回礼拝の時を持ちます。インドネシアに行ったとき、朝の5時でしたか突然近くのモスクの塔の上のスピーカーからコーランの朗読が聞こえてきて驚きましたが、人々はそれを聞きながらそこで跪いて拝みます。ある時国際線の飛行機に乗っていたら、一人の人が機内の一番後ろのちょっとスペースがあるところに小さなカーペットを敷き、そこでイスラム式に拝み始めました。聖地メッカのほうを向いているということでした。

 キリスト教、とくにプロテスタントではあまり拝むという言葉を使わないかもしれません。むしろ礼拝という言葉を好みます。礼拝という言葉を辞書で引いてみましたら、キリスト教やイスラム教で神を拝むことと書いてありましたので、何だ要は同じではないかと思ったことでした。礼拝の拝は拝むことです。漢和辞典で「拝(拝む)」を引けば、テヘンにコツの組み合わせで、両手を平行に前に出し、頭をそこまで下げる礼の仕方だと説明されていました。

 礼という漢字の旧字体はシメスヘンに豊かというツクリの組み合わせです。豊の下半分は豆に見えますが、これはもともと高坏、供え物を載せる台です。その上にうず高く物を積み上げた形です。禮とは神にお供えをすること。お供えをするのは、神をたよりにして、幸福を招こうとすることで、そこから頼る、足がかりにする、さらには手順を尽くすこととなり、踏み行うべき道というようになってきたと説明されています。

 いささかマニアックな説明だったかもしれませんが、拝むとか礼拝するということの意味を、自分よりも優れた存在への尊崇の念の表現だと私は申しましたが、漢字の起こりから探っていけば、人間の幸福のために神に頼ろうという思いの表現だったということになります。その幸福は現世利益とか物質的なものの場合もあれば――この方が多いのですが――もっと精神的な場合もあるでしょう。しかし、突き詰めれば自分のためにする神に向けられた思いであり行為ということになるでしょうか。それのどこが悪いか、自分が自分のために生きて何が悪いのか、それが人間だと開き直ることもできるでしょう。

2.

 人間は不完全な存在です。万事が思うどおりにうまく行くわけではないし、怪我や病気もします。苦労もあれば不幸だと思うことも経験します。自分自身ではなく親しい者のために願いごとをすることもあります。その苦境から脱するために神仏を頼り拝むことをするのは当然だと思います。自力の限界を知り、神に頼り、願いごとをすることは当たり前です。しかし、そこで気をつけなければならないのは、いつのまにか人間が神を利用してはいないか、神を人間に仕えさせることになってはいないか、ということです。

 エジプトでの奴隷状態からの解放をと切に願い、神に聞き入れられて脱出、出エジプトの夢が叶えられたけれども、荒れ野での苦難が続いたときについに辛抱しきれなくなったイスラエルの民がやってしまったことは、金の小牛を作ってそれを拝むことでした。自分の願いを叶えてもらうために、自分たちの思い通りになる神を作ったわけです。それを拝み礼拝したわけです。出エジプト記32章に記されているこの出来事は四千年経った今も本質的には似たようなことが宗教の中に、と言うか私たちの生き方の中にあるのではないでしょうか。

 そのことを念頭に置いて、今朝の福音書の日課を見てみましょう。神殿でイエスさまが「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」そこで商売をしている者たちに激しい叱責の言葉を浴びせられたのです。イエスさまと言えば優しい愛の方だと思っているので、この力ずくのと言うか暴力的な振る舞いには正直度肝を抜かれます。しかし、その行動の是非を論じ始めると、ここでのイエスさまの憤り、怒りの原因、批判が向けられた事柄について考えることから逸れてしまいますので、気にはなっても、力の行使の問題はしばらく脇へおいておきましょう。

 イスラエルには宗教施設として二種類がありました。イエスさまご自身も子どもの時からそこで育ち聖書に親しみ教育を受け、成人して福音宣教を始められてからも安息日の礼拝の時に聖書の説き明かしをなさったのは町々村々にあったシナゴーグと呼ばれた会堂でした。安息日の礼拝では聖書が朗読され、誰かが説き明かしをします。祈りや詩編の讃美もなされたことでしょう。でも、そこではなされずに、エルサレムにある神殿でだけなされることがありました。それは、礼拝の時には動物の犠牲や穀物などが献げることでした。ユダヤの伝統で特に重視されたのは動物の犠牲、いけにえでした。清い動物とされた牛、羊、山羊が捧げられましたが、貧しい者は山鳩や家鳩を献げました。赤ちゃんイエスを主に献げるときには山鳩一つがいか家鳩の雛二羽だったとルカは記しています。その犠牲を献げる場がエルサレムの神殿の一角にありました。新共同訳聖書の訳語では、焼き尽くす献げ物、贖罪の献げ物、和解の献げ物、賠償の献げ物とされています。

 地方から都エルサレムに出て来たときに犠牲にする動物を連れてくるのは大ごとですから、神殿で買い求めることができるなら便利です。賽銭も流通していたローマの硬貨は神殿にふさわしくないので、ユダヤの硬貨に両替をしてもらうのが必要でした。ですから犠牲のための動物を買ったり、ユダヤの貨幣に両替をしてくれたりする商人たちの存在は必要と思われていました。たとえ、彼らが神殿当局と裏で通じて不当に儲けていたとしても、です。それが宗教でした。でも、それは人間の宗教です。人間が作り上げた宗教なのです。

 旧約聖書のあちこちに、たとえばアモス書の5章(22-24節)やイザヤ書の1章(11-17節)には、神が人間の犠牲を嫌って、むしろ倫理的な生き方をこそ求めていることが明確に語られています。詩編51編には詩人が真摯にこう謳い上げています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけには打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩51:18-19)。

 私たちは自分の願いごとを聞き入れてもらうことにばかり気を取られて、肝腎要の祈り願う当の相手がいったいどのような方であるのかをつい忘れてしまっているのです。礼拝すると言い拝むと言いながら、実は自分の願望という眼鏡を通してしか相手を見ていないのです。いやそもそも相手がどなたであるかを見ようとしていないのです。自分は何が得られるかが唯一最大の関心事なのです。だから、自分がする礼拝の仕方、犠牲の献げ方にばかり目が行ってしまい、あくどい輩はそんな宗教心につけ込んでそのような宗教的な人を商売の種にし、利益を貪っているのです。イエスさまが神殿で目にされたのはそのような悲しい人間の性でした。怒り、憤りは悲しさの裏返しです。

3.

 そのような私たちがなすべきことは何でしょうか。いったいどのようにしたら当の拝み礼拝するお方を知ることができるのでしょうか。その手掛かりとして今朝の旧約と使徒書の日課が与えられています。まずは出エジプト記20章です。神が語りかけられます。出だしはこうです。「わたしは主、あなたの神」(20:2)。神が私は神だ、主だと意味もなく繰り返しているのではありません。「私は主」であるということは誰かがそう認めたから主なのではない。人間がどう言おうと、認めようと認めまいと、信じようと信じまいと、私は主なのだ。あなたの支配者、保護者、導き手、どこまでもあなたに責任を持つ者であると自ら宣言なさるのです。そして続けて「あなたの神」であると言い切ります。抽象的な神でも一般的な神でもなく、あなたは私の子、私はあなたの神、あなたの命を造り罪と困難から救済した者なのだ。だから、十把一絡げにではなく、あなたに向かって「あなた」「だれそれよ」と親しく名前で呼び、人格的な交わりを求める神なのだと言われるのです。それだけでなく、あなたと歴史の中ではっきりとした関わりを持ったあの神だと名乗られます。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と。想い出せ、あの出来事を、私があの神なのだ、と声を掛けられるのです。

 その上で十戒を授けられますが、その一番目は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。汝我ノホカ何者ヲモ神トスベカラズ、と文語調で言えばなおのこと厳しく響きます。厳格な禁止命令のようです。しかし、ここはよくよく注意してこの語りかけを聞かなければなりません。ベカラズ、スベカラズばかり並んでいる印象ですが、十の戒めを語る前に神はそもそも自分がどのような神であるか、イスラエルの民とはどのような関係であるかを簡潔に語っています。私はあなたを奴隷状態から救出、解放したあの神だと言うのです。つまり、恵みの神、慈しみの神、あなたを救い出さないではいられない愛の神であることを思い起こさせるのです。だからあの第一戒は、私のほかにだれか別の神を拝むなという単なる禁止命令ではなく、あなたにはこのような私がいるのだから、あなたはもはや私以外の他の神を捜し求め、拝みひれ伏すなど全く必要はないのだと優しく諭しているのです。心を他の神に向けようとする者への怒りとか妬み嫉みなどから厳しい禁止命令を発しているのではなく、この神の本性を知れば、この神と自分との関係を想い出せば、他の神々などあなたの人生に出番はないはずだと気づかせようとしているのです。残りの九つの戒めも、宗教、倫理、道徳の集大成という受け取り方をするのではなく、愛の神が愛して止まない自分の子らに、愛されている者にふさわしい、自由で愛に満ちた生き方、在り方へと招いている言葉だと理解したいものです。願いごとを胸いっぱいに携えて、拝みひれ伏し犠牲を献げようとしている者たちに、先ずはその当の相手がいったいどのようなお方であるかを聞くことを旧約の日課は示しています。

 使徒書の日課は、イエス・キリストがどなたであるかということを使徒パウロの証言という形で私たちに明らかにしています。パウロはキリストのことを端的に「神の力、神の知恵」(Ⅰコリ1:24)と言います。キリストについて語られた言葉、いえ、それだけでなく、キリストが語られた言葉、突き詰めれば、キリストご自身という言葉を「十字架の言葉」(同1:18)だと言います。キリストの生涯と教えを凝縮すれば十字架なのです。だから使徒は「十字架につけられたキリストを宣べ伝えてい」(1:23)るのです。人間的に見るならば、惨めな敗北のしるし、屈辱と弱さそのものにしか見えない十字架、「ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなもの」(1:23)である十字架、しかしその十字架とは、それによってのみ私たちを救うことを決意され、御子によって実行された「神の力、神の知恵」なのです。私たちの理解を超える関わりをしてくださるのがこの神なのです。

 こういうことは私たちが外側から見るだけでは分からないことです。外観から判断できることではないのです。人間同士のことに置き直して考えてみましょう。あの人きれいだなとか、見てくれが悪いなとか、こちらからの観察、判断では相手の人の本当の姿、本質的なことまでは分かりません。相手が心を開いて、口を開いて、自分の思いや考え、とくに私に対する心情を語ってもらわないと、その方のほんとうの姿、本質は分からないのと同じです。神もまたそうです。私という神はこういう者だ、キリストという方の真の姿はこういうものだというのはあちら側から語ってもらい、それに耳を澄ませ、心の耳で聴き取ってはじめて、相手がどういう存在かが分かるのです。

 十字架は単に政治犯への処刑の道具としか受け取れず、ゴルゴダの丘での悲劇は残酷だなとか可哀想だなとしか思えなかったのが、神さまがイエスさまを死から復活させてはじめてそれが私たちを罪から救い出すための唯一の手段だったことが分かったのです。人間が作り上げた宗教では決して分からないこと、人間の想像を超えた神の思いと行動は唯だ聴くことから始まります。熱心ではあっても闇雲に拝む前に、まず神の言葉を聴こうではありませんか。心を開いて十字架の言葉に耳を傾け、語ってくださっているのがどなたなのかを知ることができるようにしていただこうではありませんか。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年3月3日日曜日

礼拝メッセージ「ここから運び出せ」

 2024年03月03日(日)四旬節第3主日

出エジプト:20章1〜17 

コリントの信徒への手紙一:1章18〜25 

ヨハネによる福音書:2章13〜22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所では主イエスが神殿から商人たちを激しく追い出したエピソードが語られています。「宮清め」と言われる出来事です。それは普段の主イエスから想像もできないほど激しいものです。福音書記者のヨハネはよほど驚いたのでしょう。その様子を詳しく書いています。過越祭でにぎわう神殿で、イエス様は激しく怒り、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「それをここから持って行け。私の父の家を商売の家としてはならない」。私たちも驚くこの主の行動は私たちに何を示しているのか。ともに考えてまいりましょう。

 主イエスが、お金とか、商売の道具とか「このような物はここから持って行け」とおっしゃっいました。なぜそういうことを言うかというと、「ここは父の家だ。神と人がひとつに結ばれる、聖なる場だ。ここに、商売の道具やお金は必要ない。そういうものがここにあると、そういうこの世の思いに支配されて、天の父のみ心が分からなくなってしまう。だから、この世のものはここから運び出してほしい」。主イエスはそう思っておられるからです。

 「ここから」運び出せという「ここから」は、主イエスが共におられる皆さんの心のことです。特に洗礼を受けたキリスト者と洗礼志願者の心のことです。確かに、いろいろとこの世の心配はあります。お金のこととか、仕事のこととか、この世の思いから完全に離れることは難しいですけれど、キリスト者はともかくそういうものを心から運び出して、心の中を神のみ心でいっぱいにしたいものです。

 「このような物はここから持って行け、運び出せ」という主イエスご自身は、あらゆる人間的な考えから離れて、ご自分を神さまのみ心でいっぱいにして、私たちの罪を贖うために不条理きわまりない十字架を背負い、この世の体から天の体へと復活していきます。

 聖書は、「この神殿」、まことの神殿とは主イエスの体のことだったんだと、さらには主イエスの体と連なる教会のこと、この私たち一人ひとりのことだったんだと教えてくれます。

 どうでしょうか。皆さんは、運び出せますか?何が今、皆さんの心を支配しているでしょうか。

 お金といえば、ずっと以前ですが「お金」についてのテレビ番組をやっていました。お金というものが、どうしてこの世界に生まれてきたか。そのお金が、人間の心にどのような影響を与えたか。それを解き明かす番組で、とても面白かったです。

 なかでも印象深かったことをお話すると、そもそも昔は、物々交換だったわけですね。ひと言でいえば「その日暮らし」だった。とってきたものをお互いに交換しても、腐ってしまいますから、取っておけません。だから、その日に食べるわけです。明日獲物がとれるかどうか分からないし、その先も分からない。その日に消費して、それで終わり。明日のことはまた明日という、そういう時代を人類は過ごしていました。

 ところが、お金というものが生まれると、これはいつでも交換できるし、取っておけるわけです。そうすると人類に何が起こってきたかというと、「未来の計画」ということが起こるんだそうです。番組ではそう言っていました。言われてみるとなるほどそうですね。

 もしもお金というものがなかったら人類はその日暮らしなわけで、明日以降の計画なんか立てようがない。でも、お金は貯めておけるし、いつでも好きな物に交換できますから、それじゃあこのお金をいつかこういうことに使おうとか、貯めておいて老後はこう暮らそうとか、やがては子どもにこれを残そうとか、そういうことが可能になってくる。すると、私たちは「未来」を考えるようになり、そして未来というのは計画できると思い込んだわけです。

 つまり、人類はそう思い込んでお金に支配されるようになってしまったといえないでしょうか。でも実は、それは思い込んでいるだけではないのか。なぜかと言えば、未来は本当の意味では決して計画できないからです。例えば、あの「ルカ福音書」のたとえにあるように、ある金持ちが「財産がたくさん貯まったぞ、これでこれから好きに遊んで暮そう」と計画したけれども、神はこうおっしゃる。「愚か者。今夜、お前の命は取り上げられる」と。それが真実です。明日のことはぜんぶ神のみ心のうちですから。いや明日どころか今日だって、ぜんぶ神のみ旨のうちです。

 それなのに、明日以降のことをある程度計画できるようになると、私たちの心に、ああもしたい、こうあってほしくない、こうしなけりゃいけない、とばかりに、いろんな人間的計画というものが出てきます。

 計画それ自体は、好きに計画すればいいことで、それほど悪いことではないかもしれしれませんけれども、そのせいで「神さまのみ旨」というものから、だんだん離れていってしまう。これが、お金がもたらした現実だとしたらどうでしょう。

 たぶん人間の頭の中に「お金」というものが入ってきてから、頭の中はそのことですっかり占められてしまって、神のみ心を思う余裕がなくなってしまったんじゃないでしょうか。

 お金は、いいものですけれども、自分の未来を自由にできると思ったら、実はそれが間違いの始まりなんだといういことです。主イエスは「明日を思い煩うな。明日のことは明日自らが思い悩む」そう言われます。「今日、神のみ旨を行う者が永遠の命に入る」。主イエスはそう言われます。お金は確かに便利でいいものですけども、それにとらわれていると神のみ心が見えなくなる。だから主イエスは「このような物は持って行け、運び出せ」とおっしゃるのです。

 今日はこの後でKさんの洗礼式があり、17日にはMさんの洗礼式があります。今や天におられる方々も湯河原教会の仲間が大喜びです。お二人には素晴らしい先輩方が信仰の模範を示してくれています。

 ある信仰の先輩はこんなことを言いました。「確かに、洗礼を受けたら、主は魔法の杖を持っていて、なんでもこの世の課題を解決してくださるわけではないです。でも主を仰ぎ、祈る時、私たちは余計な心配や恐れ、泥沼のような思いすごしから守られます。過剰な自己保身や被害妄想、極端な金銭への囚われから開放されます。そして、なにより落ち着きます。聖霊がともにいてくださるようになるからです。神が喜んでくださり私も喜べるそういった第三のアイディアや、創造的な思いつき、建設的な考えも湧いてきます。そして、ああ、これが恵みだな〜と思うのですが、思いもかけない助けが降ってきます。主を信じることは素晴らしいです。主の望まれる宮清めは素晴らしいです。」

 これは多くの信仰の先輩方の共通の思いだと思います。皆さんも、洗礼から先は、第二の人生です。いったん死んで、そこから神さまのみ業わざが始まります。この世のさまざまなものに一旦区切りをつける。聖霊の助けを信じて、囚われているものをこころの中から全部いったん、運び出してください。「このような物」を全部運び出したらなら、洗礼において、新たにいったい何が入ってくるか、どうぞ楽しみにしてください。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン