2023年10月29日日曜日

礼拝メッセージ「本当に自由になる」

 2023年10月29日(日) 宗教改革主日   岡村博雅

エレミヤ書:31章31〜34 

ローマの信徒への手紙:3章19〜28 

ヨハネによる福音書:8章31〜36

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日は、エレミヤ書、ローマ書、ヨハネ福音書から、またルターの『キリスト者の自由』を通して告げられている主の御声を皆さんと共に聞いていければと願います。

 今読んでいただいたエレミヤ書の箇所に旧約聖書で初めて「新しい契約」(エレ31:31)、という言葉が登場します。ある神学者は、「この箇所は、旧約聖書から新約聖書にバトンタッチするところなので、旧約聖書の最高峰だとかクライマックス」だと言います。

 旧約聖書はモーセの十戒をいわば金科玉条としてきました。けれどもこの箇所でエレミヤは、このモーセの十戒について、はっきりとそれは古い契約にすぎない、その契約ではもうだめだと言い切ります。

 その理由はイスラエルの裏切りです。十戒の第一戒「あなたは、他の神々をもってはならない」に示された愛の精神、神がイスラエルに向かって、わたしはこれほどまでにあなたを愛したのだから、あなたもわたしだけを愛さなければならないという、夫婦の間にかわされるような愛のつながり、そういう神とイスラエルとの愛の関係をイスラエルが裏切ったという事実のためです。

 エレミヤは、このイスラエルの裏切りに対する神の怒りを40年近く宣べ伝えてきたのですが、31章に達して、今ここで、神との全く新しい関係を伝えています。それは何か。34節、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めない」という「神の赦し」です。

 エレミヤは40年間、悪は徹底的にさばかれなければならないと語り続けてきた。ですが、31章になって、一転して神がイスラエルの悪を赦すという驚くべきメッセージを語ります。

 モーセの律法という古い契約は罪を犯すな、悪を犯すなという戒めです。また、罪を犯さず、悪を犯さなければ、神はイスラエルを愛するという、交換条件のある契約です。ですから、罪を犯し、神を裏切ったら神も愛さなくなる。むしろ神はさばくのだということだったのですが、それが、乗り越えられて「悪を赦す」というメッセージが宣言されました。

 さらにエレミヤは、あなた方はこれまでのように外からがみがみと言われるのではない。33節に「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」とあるように、律法の内面化が起こると告げます。新しい契約は内面的になる。そこに立つ者は、外から命じられて従うのではなくて、自発的に神を愛し人を愛するようになるというのです。

 このエレミヤが語った神との「新しい契約」とは何でしょうか。使徒パウロはそれは「イエス・キリストを信じること」だ、神による十字架の救いを信じることだと言います。今日のローマ書の箇所でパウロはイエス・キリストを信じる信仰についてひたすら語っています。それこそが「新しい契約」だからです。

 私たちは信仰によってのみ義とされます。信じるだけです。律法を守り、善い行いを積むからではない。聖人君子のようでなくていい。あなたはそのままで、不十分なままで救われるというのです。「イエス・キリストを信じる」だけで、神から赦される。義しいものとされる。救われる。すごい教えですが、リアリティーが薄いと感じませんか。

 案の定、こういう神の恵みについて、パウロが真摯に語ったにもかかわらず、その後のキリスト教会の歴史においては、実は人は善い行いによってのみ生きるのだという思いが復活しました。善い行いは目に見える。自分にも人にも明らかに見えるからでしょう。

 そういう中で、このローマ人への手紙を読み直したマルティン・ルターによって、信仰の理解について革命的な改革が起こりました。

 ルターはヨハネ福音書を愛読した人でした。彼はローマ書を読むことによって改革のヴィジョンを与えられたことは事実ですが、同時にルターは生涯に渡ってヨハネ福音書をとても大切にしました。

 主イエスはヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。この「真理」とは、たとえば「大学は真理を探求する場である」といった場合の真理のことではなく、この「真理」とは「イエス・キリストご自身」のことです。「主キリストはわたしたちを自由にする」というのです。

 また、主は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8:31)と言われましたが、まさにルターという人は、御言葉を熟考しつづけた人です。

 使徒パウロは「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(Iコリント9:19)と言いますが、ルターはこの言葉を熟考して『キリスト者の自由』という著作を残しました。その中でルターはキリスト者の自由について二つの命題を提示しました。そこに私たちが主キリストを信じる者としてこの世の日々を生きるときの指針を指し示してくれました。

命題の第1は「キリスト者は、すべての者の上にたつ自由な君主であって、だれにも服しない」です。ルターは、本当の自由とは、食べたいものを食べ、行きたいところへ行き、人の顔色を伺わずノビノビと生きること、つまり死や罪から解放されて、心の底から晴々と生きること、それこそがキリスト者の自由だと言います。その自由は、「キリストの与えたもう自由」だ。本当の自由は、神が与えてくださるとルターは言います。この自由とはすなわち人間が救われることです。実は自由と救済とは同じ一つのことなのです。

 神は、イエス・キリストの十字架の贖いによって人間の罪と悪を赦してくださり、少しも義しくない人間をこの「恵み」のみによって、義しい者として受け入れてくださる。この驚くばかりの神の救いの「恵み」を信じて感謝することがキリスト者の「信仰」だというのです。ちなみにルター神学では、「救われること」を「義とされる」と表現します。

 神が私たち人間に自由を与えて下さった。救いを与えてくださった。その救いの恵みを信仰をもって受け入れる。そうした神が与えて下さった自由を生きる者であるがゆえに、キリスト者は本当に「自由な君主」と言えます。

 ところがルターは命題(2)でまるで逆のことを語ります。「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕であって、だれにも服する」。

 キリスト者は「自由な君主」で「だれにも服しない」と言っておきながら、今度はキリスト者は「奉仕する僕」で「だれにも服する」と言う。どういうことでしょうか。

 神が人間に与えてくださった、自由、すなわち救いをより根源的に言えば、それはイエス・キリストという「神の恵みそのもの」です。キリストが、私たち人間に与えられたということです。そのキリストはどこにいるのか。キリストは私たちの中にいるのです。パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2:20)と言います。こうした驚くべき告白に勇気づけられて、いわば背中を押されるようにして、ルターは『キリスト者の自由』の中で「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになろう」(第27項)と述べました。

 そのキリストについてパウロはこう言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)。パウロの言い方に従えば、主キリストは自分のことはかえりみず、人々を助け守り十字架の死にまで至った方であり、徹底して人々に奉仕する僕、誰にでも服した人、隣人への愛の奉仕に生きた方です。それがイエス・キリストです。そのキリストが「わたしの内に生きておられる」。

 そうであるならば、「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになろう」、愛の奉仕に生きる人間になろう、とルターは宣言しました。これが「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕であって、だれにも服する」という命題の意味です。

 宗教改革の主日をアメリカでは、リフォーメーション・サンデーと呼びます。リフォーメーションは、作り替えること、新しくすることです。506年前、ルターによって、教会が新しくなる、信仰が新しくなる、私たちの神に対する姿勢を新たにする、そういうことが起こりました。

 主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8:31)と言われます。ルターは、自分自身の信仰を問い続けました。御言葉にとどまり続けました。そこから改革が始まりました。そのように、私たちが、御言葉の中にとどまり続けるとき、私たちは必ず主キリストに倣う者となっていきます。本当に自由になります。  

祈ります。

 主なる神さま。どんなに悲しいこと、つらいことがあっても、私たちを、あなたの御言葉の中にとどまり続ける者としてください。恵みと喜び、賛美と感謝の中を、何者にもおもねらず、互いに愛し合い仕え合う自由なキリスト者として歩ませてください。聖霊の力によって、望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年10月22日日曜日

礼拝メッセージ「神のものは神に」

 2023年10月22日(日)聖霊降臨後第21主日 岡村博雅

イザヤ書:45章1〜7 

テサロニケの信徒への手紙一:1章1〜10 

マタイによる福音書:22章15〜22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所はローマ皇帝への税金の場面です。主イエスと指導者たちとの対立はもはや決定的です。主イエスは「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「婚宴」のたとえ話によって当時の指導者たちやファリサイ派を批判してきました。今日の福音箇所の前のマタイ21章45-46節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」とあります。そして、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもって主イエスに近づいて来ます。

 まず今日の場面の背景を見ておきます。当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、各個人に対して一律に1デナリの税金を課す、人頭税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。また、支配地域の通貨には皇帝による支配の証として皇帝の肖像と銘が刻まれていました。

 このことはユダヤ人にとって神学的な難題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。

 この徴税問題はユダヤ人にとって解決が困難な悩みの種で、実際、主イエスが生まれた頃、この問題のためにローマ帝国に対するユダヤ人の反乱も起きたほどだそうです。

 この難題に対して、ファリサイ派はどのようにしていたでしょうか。「ファリサイ派」は律法を厳格に守ろうとしていた宗教熱心な人たちです。ですから、律法に反することになる皇帝への納税は原則としては認めません。しかし、現実には納税せざるをえませんでした。

 ここに登場するヘロデ派はどうだったでしょうか。「ヘロデ派」は宗教的なグループではありません。政治的な党派です。「ヘロデ派」はローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちですから、ローマ帝国への納税を当然のことと考えていました。

 本来、ファリサイ派とヘロデ派は相容れない立場でしたが、その両者が一緒にイエスのもとにやって来ます。謙遜なふうを装って、イエスに徴税問題を問いかけ、言葉じりをとらえて、イエスを罠にかけようと考えついたのです。

 その仕掛けはこうです。イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派が、お前は「神に背く者」だと言ってイエスを追及することができる。イエスが納税を否定すれば、ヘロデ派がお前は「ローマ皇帝への反逆者」だと言って訴えることができるわけです。

 彼らは実に礼儀正しく丁重に近づきます。言葉遣いとしては丁寧です。しかし実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅しです。

 「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。」と主は言われました。偽善者と言えば、普通、本心を隠してうわべを繕う態度を指しますが、聖書では、「偽善者」とは「神に心を向けようとしないかたくなさ」を意味します。彼らは口先ではイエスを「先生」と呼びながら、心ではイエスを罠にかけようと企んでおりその態度は偽善的です。しかし主が彼らを「偽善者たち」と呼ぶのは、むしろ、主イエスが神から遣わされた方であることを認めないばかりか、試そうとする、そのかたくなさが、神の意志を踏みにじっているからです。

 彼らの罠に対して主イエスはどう答えられたでしょうか。イスラエルの宗教は創造主である神以外の何者をも神とせず、偶像崇拝を禁ずるという点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものでした。しかし、日々暮らしていく上では誰もがその硬貨を使わざるを得なかったし、神殿の中にも持ち込まれていました。

 主は納税のためのローマのデナリオン銀貨を持ってこさせ、誰の肖像と銘が刻印されているかを尋ねます。「皇帝のものです」という彼らに、主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」とは当時のユダヤ人の納税の悩みに対して実に明快で十分な答えであると思います。民主主義社会では「国民のものは国民に返しなさい」ということになるでしょうか。

 では「神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。近代になってから「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考えが現れますが、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあるというのが当然でした。まして主イエスの時代、古代ではおよそ考えられないことです。主イエスは時代を先取りして政教分離の考えを示したというわけではないと思います。

 「神のものは神に返しなさい」というのはやはり聖書に立って解釈するべきだと思います。皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものだと主イエスは示されたわけですが、では神の像はどこに刻まれているでしょうか。それは一人一人の「人間」にだと考えることができます。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。

 もし主イエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、主がもっと根本的なことに人々の目を向けさせていると受け取れるのではないでしょうか。

 第1朗読のイザヤ書45章6節で神は「わたしのほかは、むなしいものだ。わたしが主、ほかにはいない」と、そう言われます。私たちが実はぜんぶ「神のものだ」と気づくこと、これが求められていると思います。

 ファリサイ派が問題にしたのは、人間の現実とは無関係な「神学的問題」でした。彼らは自分たちも解決できない神学上の問題を持ち出してイエスを陥れようとしました。しかし、主は現実の人間の苦しみを忘れてそのような神学論争に没頭していたファリサイ派の姿勢を批判してきました。「納税問題が神の問題なのか?神の目から見て、本当に大切な問題はなんなのか」主イエスはそう問いかけています。主イエスは私たち一人ひとりに「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているのか」と問われています。

 最後に、ある教会員の方が転送してくださった、「国境なき医師団」の人事や財務を担当するアドミニストレーターとして現在ガザ地区のエジプト国境で待機している白根麻衣子さんから白根さんのお母様に届いたメールメッセージをそのままお伝えします。

 「麻衣子です。いつ届くかわらないけど、今、10月15日午前10時です。

しばらく出られそうにないけど、ここでがんばります。

ガザの現状はきっとどこにも伝わっていないだろうけど、本当に地獄です。

避難民で溢れ、水もトイレも寝る場所もありません。私たちは外で寝泊まりをしてます。現地スタッフが一生懸命探してくれていますが、飲料水を見つけるのも、本当に本当に難しい状態です。

何百人もの人が、ひとつの部屋で寝そべる事もできずに過ごしています。

トイレも何千人に一つしかなく、シャワーも浴びれず、衛生状況は最悪で、すぐに感染症が広まるでしょう。

毛布も取り合いになっています。

この現状はどこにも伝わっていないので、支援も来ません。私たちも、着の身着のままで逃げてきたので、医療行為もできません。

そんな状況でも、空爆は止まらず本当に本当に大変なことになっています。

この現実をどうかみんなに伝えてください。」

日に日に厳しい状況になっていく様子をみて、『戦争を止めてください』と祈るばかりです。」

というものです。

 第2朗読ではパウロが強調する「信仰」と「希望」と「愛」が出てきました。地獄のようなという究極の状況にあっても私たちは信仰を捨てない、希望を捨てない、愛に立って祈り続けます。このメールから1週間後の21日に大型トラック20台分の人道支援物資が届けられたと報道されました。

 人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはないとルター派は受け止めています。私はこのメールに神様からの問いかけを感じ、「神のものは神に返しなさい」という主イエスのみ言葉を感じて、紹介させていただきました。お祈りします。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年10月15日日曜日

礼拝メッセージ「招かれたなら」

2023年10月15日(日)聖霊降臨後第20主日  岡村博雅
イザヤ書:25章1〜9 
フィリピの信徒への手紙:4章1〜9 
マタイによる福音書:22章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 皆さんハマスとイスラエルの軍事衝突に心を痛めておられることでしょう。報道をご覧になっていることでしょう。今やガザとイスラエル双方でますます死者と負傷者が増え、また、イスラエル側の多くの人々が人質に取られました。イスラエルのネタニヤフ首相は、徹底抗戦を宣言しました。
現在のパレスチナ問題の始まりは第2時大戦後のことです。第2時大戦中に600万人ものユダヤ人が殺害されたホロコーストなどの迫害と苦難の歴史を経て、ユダヤ民族の(シオニズム運動)聖書の「約束の地カナン」の理念に基づく国家の獲得運動は、1948年のイスラエル建国として結実しました。しかしながら、それはすでにその土地に暮らしていた、先住のパレスチナ人を抑圧し、排除する歴史の始まりともなりました。
 イスラエル建国以来、何十万ものパレスチナ人は難民として生来の土地を追われ、不安定な生活を余儀なくされました。国連が1948年12月に可決した「難民の故郷への帰還の権利保障」はイスラエルによって全く無視され、今日に至るまでパレスチナ人とイスラエル側とは度重なる武力紛争を繰り返してきました。 
 イスラエル建国から45年後の1993 年 9 月、ノルウェーの仲介による「オスロ合意」によってパレスチナ国家とイスラエルの国家が共存する道が多くの難題を残しながらも示されました。しかしその道は結局、21世紀に入り、挫折し、破綻するに至り、ついに今日の事態を迎えたといえます。
 そして、ヨルダン川西岸地区とガザ地区に暮らすパレスチナ人は今もなお、植民地支配を受けるような政治経済的な制約に縛られる過酷な現実を強いられています。 
 この度のハマスの暴挙は、このようなパレスチナの人々の歴史的に置かれてきた理不尽さを全く棚上げにしたまま、パレスチナの人々を更に閉じ込めようとする最近のイスラエルの動向への反発とも言われています。
 イスラエルは聖書のカナンの約束を根拠にするわけですが、聖書は彼らが踏まえるべき重要なメッセージを語っています。イスラエルの民に、神によって約束されたカナンの地とは、寄留者だったアブラハムたち、そしてエジプトの地で奴隷という寄留生活を強いられたイスラエルの民に示されたものであることを私たちは思い起こします。
 同時に、そのような苦難を経たイスラエルの民にカナンの地を約束された神は、出エジプト記23章9節(聖書協会共同訳)でこう命じておられます。「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」というものです。このように神は彼らを憐れみ、双方が対等の立場で共存することを望んでおられます。 
 湯河原教会の私たちも、イスラエルとパレスチナ自治政府の双方がこれまでに経てきた寄留者としての苦難の歴史を、憐れみの心で振り返り、隣人愛に立ち帰って、和解と平和の道に歩みだすようにと祈り続け、関心を持ち続けてまいりたいと思うものです。
 こういう情勢の中にあって、私は2014年、9年前に、17歳でノーベル平和賞を受賞した、人権活動家のマララ・ユスフザイさんを思い起こしました。イスラム教徒である彼女は恐れずに教育の必要性、特にイスラム教の地域で遅れている女子教育の必要性を訴えたためにタリバンの怒りを買い、15歳のとき、バスでの学校帰りに側頭部を銃撃されました。一時は重体でしたが奇跡的に回復して、活動を続けています(1997.7.12生。26歳)。
 彼女はこの奇跡的な復活の後、国連に招かれての演説でこう言いました。「私は暴力に屈しない。逆に、私はむしろ強くなった」と。「撃たれて、私の中の弱さや恐怖、絶望が死んだ」。「むしろ、力と強さ、勇気が生まれた」と。
 彼女の本心からの宣言に感嘆します。こういう言葉に、やはり、私たちは、励まされますね。さらには、こうも言いました。「私は、自分を撃った人を恨んでいない。むしろ、すべてのテロリスト、タリバンの息子さんや娘さん達にも教育を与えたい」と。そして、「このような慈悲と慈愛の心を、私は預言者ムハンマドと、キリストと、ブッタから学んだ」と、そう言っています。
 彼女の言っていることはもはや特定の宗教を超えています。暴力に屈しないこと、人権を尊ぶこと、そして自分を撃った人への赦しなどは、まさに主キリストと同じ「神の子」のありようです。隣人への思いやりの心は、時代や人種や国家や宗教を超えて全てに共通する普遍性があるということがわかります。こういう普遍性に立つことのできた彼女にとってはもう人々を分け隔てたり、体も心も閉じ込めるような「壁」がなくなったということです。
 暴力に屈しない。人間を分断する原理主義や、口を閉ざさせようとする力に負けない。むしろその壁を打ち壊していく。彼女はノーベル平和賞の受賞後のコメントでも、そのような閉ざす壁、分断する壁を打ち破ることの大切さを語りました。「肌の色、言語、宗教は問題ではない。互いに人間として尊重し、尊敬し合うべき」だと。
 こういうマララさんのような生き方を、どうしても固定観念に囚われてしまいがちな大人たちは、模範にできたらいいと思います。「壁」を軽やかに超えていくマララさんから、私たちは改めて励まされたいと思います。
 「肌の色とか、宗教とかではなく、人類のことを考えましょう」という囚われのなさ。これこそは、私たちキリスト者の理想でもあるし、まさに、すべての壁を打ち破ったイエス・キリストの別け隔てのない平和そのものです。
 さて、今日の福音で、主イエスが、おもしろいたとえを語っておられますね。ここで言う王子様の婚宴とは神の国です。神の国はもうすでに、用意はできているんですね。
 王子様の婚宴は、この世で最高の婚宴です。それに招待された名誉と喜びを想像します。それはとびきりの喜びです。それがもう用意できていて、私たちは招かれている。あとはそこに行けばいいというのです。
 ですが、このたとえでは、「いや、ちょっと畑に行かなきゃならないんで」とか、「商売がありますから」(マタイ22:5)と招待を遠慮します。畑は大事だし、儲け商売も大事です。
けれども、「神の国」は究極の宴ですから、それを思ったらもう、畑だの、商売だのは取るに足りないことです。にもかかわらず、私たちはそこに行こうとしない。自ら自分を閉じ込めるいわば壁を作っているからです。
 その壁によって、私たちは、神の国を見ることができないでいる。あるいは、神の国を求めている人たちに、それを見せることができないでいます。これは大変残念なことです。
 主イエスのたとえでは、最後に、王様が家来たちに、「見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい」と (マタイ22:9)言っていますね。
 そこで、家来たちは、見かけた人を、みんな連れて来る。この、「みんな連れて来る」ときの言い方が興味深いです。なぜだか「善人も悪人も」(マタイ22:10)と言うんです。
 つまり壁がない。「この人は善人だから、あの人は悪人だから」、そういうのがない。そして婚宴は、客でいっぱいになる。この別け隔てのなさ、だれもかれも全てという普遍主義こそが、主イエスが一番言いたいことではないでしょうか。
 そして、この宴席には「礼服」をつけていない人が登場します。ここで言う「礼服」とは、ただ単に倫理的に立派な生き方をすることではなくて、「神の愛を受けて人を愛すること」だと言えます。愛こそが神の「礼服」です。
 私たちも、自分が礼服を着た善人だとは言いづらいですが、大丈夫です。あなたは招かれています。胸を張って「はい!」と言って、その招待に応えていいのです。嬉しいですね。
パウロは(第2朗読の少し先の)フィリピ4章11-13節でこう言っています。「私は自分の置かれた境遇に満足することを学んだ。満腹でも、空腹でも、物が有り余っていても不足していても、どちらでもいい。いついかなる場合でも、この世で畑があろうが、なかろうが、商売がうまくいこうが、いくまいが、いついかなる場合にも対処する秘訣を、わたしは授かっている。私を強めてくださる方のお陰で、すべてが可能だ」と。このパウロの潔さはキリスト者の模範だと思いませんか。
 招かれて、礼拝にあずかり、聖霊にあずかる私たちには全てが可能です。主と共に全てを乗り越えながら進んで行きましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年10月8日日曜日

礼拝メッセージ「人に捨てられ、神に選ばれる」

2023年10月08日(日)聖霊降臨後第19主日  岡村博雅

イザヤ書:5章1〜7

フィリピの信徒への手紙:3章4b〜14

マタイによる福音書:21章33〜46

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 「二人の息子」のたとえに続き、主イエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。このたとえ話しは、迫り来る主イエスの受難を予感させるものだと言えます。

 今日の福音でマタイは、主イエスのたとえ話の中に「救いの歴史」全体を見ていると考えられます。(34-36節)神は旧約時代に預言者たちを遣わしたが、イスラエルの民は彼らを受け入れなかった。(37-39節)最後に神は自分の子イエスを遣わしたが、このイエスも迫害され、殺された。(42節)しかし、神はイエスを復活させ、救い主として立てた。(43節)そして神の救いはユダヤ人ではなく異邦人に与えられるようになった。(44節)イエスは最後にすべての人を裁くために来られる。これがマタイが見ている「救いの歴史」の内容だと言えます。

 さて、今日の福音のぶどう園のたとえと、第1朗読のイザヤ書の「ぶどう畑の愛の歌」は同じテーマをもっています。

 どちらも、ぶどう園の主人とは神です。そしてこのぶどう園とは、神が創造されたこの天地のたとえです。イザヤ5章2節には、神は肥沃な丘を「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのをまった」とあります。

 これは、神は「人類にすべてを委ねた」というような意味でしょう。「この完璧なぶどう園で、あなたたちは、知恵と愛をもって、素晴らしい実りをもたらしなさい」と神は「実り」を願って、人類に天地の管理と運営のすべてを委ねられた。素晴らし実りは、楽しいことですし、感動的なことです。神は人類にそういう使命をお与えになりました。そしてこれこそが人類が存在する意味だと言えます。

 ところが3節「実ったのは酸っぱいぶどうであった。」そこで神は、当時のユダの人々に問いかけます。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか」(4節)と。

 つまり、神は「わたしは、全部、ちゃんとやっている。それなのに、なぜ、あなたたちはちゃんと実を結ばないのか。それは、わたしのせいではない。あなたたちの問題だ」とおっしゃっるわけです。

 この問いかけを他人事ではなく、私たちへの問いかけとして受け取るとき、何が問題かというと、やはり、私たちにぶどう園を作ったその主人への全面的な信頼がないことであり、そして、その神からいただいた恵みの世界への全面的な愛がないことであり、そういう神への信頼とこの恵みの世界への愛というものを、私たちは自分の内にある弱さと恐れの中で、見失っているからではないかと思えてきます。

 私たちは実りをもたらすために、この世界に生まれているにもかかわらず、「実り」、すなわち、「神を信じ、人々を愛する」、そういうことができないでいます。キリスト者は誰もがそのように生きていきたいと願っていると言えます。けれども「言うは易く行うは難し」で、それが思うようにでききらない。厳しい言い方をしますが、それは神さまの信頼に応えていないということです。

 にも関わらず、神さまは、私たちを「信頼」しています。弱いわたしたちを分かっておられます。私たちがどれほど弱くても、頼りなくても、神は、私たちを「信頼」してすべてを任せておられます。ですから、私たちは、自分の弱さを恐れてはいけないのです。

 私はコリントの信徒への手紙二のパウロの言葉に励まされます。12章9節です。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とあります。

 私たちは「弱さこそ力」くらいに思って、「弱い私を神は信頼してくださっている。だから、この弱いままでもだいじょうぶなんだ」ということをしっかりと受け入れて信じていきましょう。自分の弱さを受け入れること、聖霊の取りなしに委ねて神を信じること、大事なのはそこです。

 そして福音書の主イエスのたとえでは、神はすべてを農夫である私たちに任せてくださっています。この愛の神をこそ主は語ってくださいます。マタイ21章33節「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」とあります。

 主人はすべてを用意して、全部農夫たちに貸してしまいます。これはつまり、農夫たちを全面的に信頼しているということです。この世界、この私という体、この環境、私たちの家族、すべて、何もかも、神は私たちを信頼してすっかり任せてくださっている。「あなた方を信じる」とおっしゃっているわけです。これはなんという信頼かと思います。

 ではこの信頼に応える生き方とはどのようなものでしょうか。それは「実り」を神にお返しするということに尽きるのではないでしょうか。私たちは、この恵みの世界を生きているわけですけれど、信仰によれば、それはすべて、神への信頼や人々への愛、そして、「神の国」という素晴らしい恵み、すなわち、「実り」を、神さまにお返しするためです。

 それなのに、主のたとえ話しで語られているように、その神が受け取るべき実りを私たちは「自分たちのものにしよう」とします。これは言わば、信頼を裏切る私たちの姿です。21節で農夫たちは「相続財産を我々のものにしよう」と言っていますね。

 この農夫たちの言葉は、私たちにとっても他人事ではないでしょう。私たちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは何でしょうか。それは多岐にわたるでしょう。地球の資源や環境?自分のお金や持ち物?力や才能?地位や立場、さまざまな特権?それらは皆、神がわたしたちに委ねられたものなのではないでしょうか。それを私たち人間は、いつの間にか、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっていることがあるのではないでしょうか。

 私たちは、体も心も環境も、命そのものも、ぜんぶ神から頂いているものなのに、それはすべて神にお返しするものなのに、まるで自分のものであるかのように所有しようとしますね。その感覚、「我々のものにしよう」 (マタイ21:38) というその利己主義、その欲得、それが、神にしてみたら、裏切りなわけです。けれども、私たちが何度そうして裏切っても、神のほうは信頼して、なおも恵みを与え続けてくださっています。

 ありがたいことです。そういうぶどう園に生まれてきて、実りをもたらすように任されて、もう、やろうと思ったら、私たちは何でもできます。知恵と愛をもってするところには、神さまも、具体的な応援をたくさんしてくださるということを、キリスト者なら、常に体験するはずです。

 「実り」を得るためには、私たちは主イエスとつながっていなければなりません。実りの「先どり」である主と共にあれば、もっと知恵も増し、もっと愛も深まって、もっと神の国のために働くことができるからです。結局、主イエス抜きでは、聖霊抜きでは、人間はなかなかちゃんと働けませんから、キリスト者は一所懸命に主イエスにつながっていようとするのではないでしょうか。

 マタイ21章37節には、神は最後に「自分の息子を送った」とありますね。私たちはこのぶどう園の農夫のように神の息子、主イエスを殺してしまうのではなく、受け入れて、その息子と共に豊かな実りをもたらしていきましょう。そしてすべてを主人にお返しする。それがキリスト者であり、教会の喜びだと言えるのではないでしょうか。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年10月2日月曜日

「ノーからイエスへ」か、「イエスからノーへ」か

 2023年10月1日 小田原教会 江藤直純牧師

エゼキエル18:1-4, 25-32; フィリピ2:1-13; マタイ21:23-32

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 「終始一貫」という言葉があります。あることに関して、最初に表明した主張や態度をことが終わるまで変わらず貫き通すことでして、そういう姿勢はいいこと、評価すべきことだというニュアンスがあります。一つの信念に固く立っている姿が浮かび上がります。宗教改革の時にルターがヴォルムスの国会に呼び出されて、これまでの主張をすべて撤回するように迫られたときに、それを断固として拒否して「われ、ここに立つ」と言い放ったことは歴史上の有名なエピソードです。人間としての土性骨がしっかりとあることを示しています。

 それとは逆に、「考えを変える」ことを「ぶれる」という言葉を使うとマイナスの響きが入ってきます。ぶれる度合いがひどいと「ぶれまくる」と言って笑いのネタにされてしまいます。思想的な迫害が激しかった時代に、ついに不本意ながら「転向」したことは人間としての汚点とされます。それでも転向にはある程度は中立的な響きがありますが、「変節」というとこれは明らかに批判、いえ非難されていることを表わしています。

 こうしてみると、人間の生き方としては、考えとか信念というものは変わらないほうが評価され、変わると低く見られるということになるようです。一般的にはそういうことが言えるかも知れません。

 しかし、いつもどんな場合でもそう言えるかと言えば、必ずしもそうではありません。もしも間違った「思い込み」をしてしまっていたとしたら、どうでしょうか。4年前に無差別大量殺傷事件が起こりました。放火をし、36人を殺し33人に重軽傷を負わせた人の裁判が進行中ですが、そこで被告は自分の書いた小説が盗作されて映画に使われたことを事件の原因だと主張しています。その人が主観的にはそうだと「思い込んでいる」ということはどうもそのようですが、その人が言うことが正しいのか。時系列的にも正確で、映画の中の一節はたしかに彼の小説の中の一節が盗作されたものだと事実関係が立証されるのかと言えば、新聞などで読むかぎり素人の私にはとても納得がいきません。ただ、この場は私見を述べるところではありません。ことの是非はあと数ヶ月の内に裁判で決着がつくでしょうが、もしも判決で事実関係が解明され、盗作などではなかったならば、そのときは是非とも「思い込み」は正して、自分の考えを変えてもらいたいと思います。

 言うまでもなく、生身の人間は有限で不完全です。有限で不完全な人間の考えることは当然絶対ではありません。ですから、「考えを変える」ということは時には必要なことであり、いいことです。それがその人個人にとっても、その人の属する社会にとっても「考えを変える」ことはいいことの場合があります。成長に繋がります。

 「考えが変わる」ことは良い悪いというだけでなく、生身の人間ですから何らかの理由でよくあることです。これが正しいと思っていても、違う見方に触れて、或いは異なる環境に置かれて、時間が経過して、冷静になって、その考えから離れることがあります。利害損得が絡む場合もあります。

 とにもかくにも、人間であるかぎり、「終始一貫」を果たせないことはあり得るのです。ですから、今朝の福音書の日課は考えや態度が一切変わらなかった人と変わった人を対比しているのではありません。人は変わるものだということ自体は認められ、前提されていると言っても言い過ぎではないでしょう。では、このたとえ話で何が対比されているかと言えば、どう変わったか、何から何へ変わったか、それが対比されており、その是非善悪が問われているのです。

2.

 28節からの段落には「『二人の息子』のたとえ」という小見出しが付いています。登場人物は父親である「ある人」と息子のうちの「兄」と「弟」です。兄も弟も終始一貫微動だにしなかった人間ではありません。どちらもぶれます。考えが変わり、行動が変化します。兄は父からぶどう園に行って働くように言われたとき、最初は「いやです」と答えますが、後で「考え直し」ます。ぶどう園に行こうと思い直し、実際働きに行きました。弟はどうかと言えば、兄と同じように父からぶどう園に行って働くように言われたときに、はじめは「承知しました」と色よい返事をしたのですが、その後で考えを改めて実際には「行かなかった」のです。鮮やかなコントラストです。

 二人の息子がどちらも考えを変え、行動が変化しましたが、どちらが父親を喜ばせたかと言えば、これは議論の余地はありません。考えを変え、行動を変化させた理由が何であれ、最初は「いやです」と言ったにせよ、後で考えを変えて実際にぶどう園に行ったほうの息子と、最初は父親を喜ばせるように「承知しました」と言っておきながら、後で考えを変えて実際にはぶどう園に行かなかったほうの息子のどちらが父親の思いに適ったかと言えば、前者のほうであるのに違いありません。動機が何であれ、途中経過はどうであったにせよ、最後は父の思いに適った行動を取った息子のほうが「神の国」に入れられることになるとイエス様はおっしゃっています。

 この二人の兄弟のうちで、最初は「承知しました」と言いながら、結局父親の望みを叶えなかったほうが「祭司長や民の長老たち」のことを指していて、最初は「いやです」と言いながら、あとで実際にぶどう園に働きに行ったほうの息子を「徴税人や娼婦たち」のことを譬えていることは明らかです。しかも、「徴税人や娼婦たち」が変わったのは「ヨハネが来て義の道を示した」ときにそれを「信じて」受け入れ、その義の道を歩んで行こうと決心したことが変化のきっかけであったことも聖書を読めば、これまた明らかです。

 ストーリーが簡潔明瞭であるなら、そこから引き出される教え、教訓もまた簡潔明瞭であろうかと思います。このたとえ話は、人間一人ひとりがどんな考えを持ち、どのように振舞っていようとも、最後は神の言葉を聞いて、それまでの自分の生き方、在り方を悔い改め、心を新たにして神の御心に適うように生きなさいとを教えているのでしょう。

3.

 さて、ここでちょっと立ち止まって、ご一緒に考えてみたいことがあります。それは、たとえの中の兄のように、最初は「いやです」と言っていたのに、後で考えを変えて、キリスト教的な言葉を用いるならば、後で「悔い改めて」、父親の思いに、つまり神の御心に添う生き方をし始めたら、誰もがその後は少しもぶれることなく、考えや態度振る舞いを変えることなく、人生を全うできるかということについてです。その逆もあります。「イエスからノーへ」であれ「ノーからイエスへ」であれ、ひとたび考えを変え生き方を改めたら、その後は死ぬまでずーっと変わらずに生きていくことができるかということです。

 この問いへの私の答は、「いいえ」です。ためらうことなく、「否」です。それはどのような理論付けも学問的根拠もなくても、間違いなく「できません」なのです。理論からではなくて、私自身の経験から反射的に「いいえ」という答が出て来てしまうのです。本気で悔い改めて、新しい生き方を選び取っても、聖書が示す「義の道」に導かれて神さまに喜ばれる生き方に踏み出しても、気がついたらその道から外れていることがあるのです。たとえ、表向きはそうは見えなくても、心の奥底で「ぶれて」いることがあるのです。情けないと思いますが、現実の自分は、ありのままの私は、ひとたび悔い改めたならばあとの人生はまっしぐら、一直線で生きていけるかと言えばそうではないのです。「終始一貫」でもなく「初志貫徹」でもないのです。再び「ぶれる」ことがあるのです。

 聖書が示す「義の道」が何であるか、聖書は何と教えているかを頭では知っているつもりであっても、理性では正解を理解し把握しているつもりであっても、心ではそこから遠ざかっていくことがあるのです。感情的には離れてしまうことがあるのです。自己中心性が再び首をもたげてきたり、高慢さがしぶとく生き延びていたり、弱さが顔を覗かせてきたり、つまり、罪が息を吹き返したりするのです。ですから、最初は「いやです」と言ったのに、せっかく考え直して、悔い改めて大真面目に「承知しました」と言って、そう生きようと決心しても、ぶどう園に行く途中で行くのを止めて、別のところに行ってしまうことがあるのです。或いはぶどう園で働き始めても、疲れたのか飽きたのか他の誘惑に負けたのか、ぶどう園から離れてしまうことがあるのです。

 では、こういう「ぶれる」ことがわたしたちの本性ならば、そのことを主イエス・キリストはどう受け止められるでしょうか。主イエスの福音宣教の第一声が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マコ1:15)だったことは余りにも有名です。そして、悔い改めた者たちに差し出されたのは罪の赦しの「洗礼」でした。それが洗礼の意味の最も大きなものでした。

 しかし、歴史が進む中で、罪の赦しの洗礼が重視されていくうちに、洗礼を受けたあとに再び罪を犯したらそれを赦すための二度目の洗礼はもう受けられないので、罪が赦される術はもはやないと教えられた時期がありました。しかし、生身の人間ですから、洗礼後も罪を犯しかねません。その困難を解決するために編み出された教えが、洗礼を受けた後再び罪を犯すことができないようにするために、洗礼を受けるのを死の直前まで延ばすということでした。皆さん、これについてどう思われますか。罪の赦しの見えるしるしとしての洗礼を死の間際まで受けられず、罪の赦しの確かさを与えられず、それゆえに罪の赦しの安らぎを得られないというのです。延ばしていた洗礼を受ける前に突然死に見舞われたら、とうとう洗礼の恵みに与れないことになるのです。この考え方はそもそも間違っています。

4.

 宗教改革者マルティン・ルターは悔い改めと洗礼について何といっているでしょうか。宗教改革運動の発端となったと言われている「95箇条の提題」、正確には「贖宥の効力を明らかにするための討論」の発表が1517年10月31日でしたが、その第1箇条にはこう記されていました。

    私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・』(マタイ4章17)と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。「信じる者の全生涯が悔い改めである」、これは驚くべきことです。一度洗礼を受けたらそのあとは二度と赦されないから、罪の赦しの洗礼は死の直前になどという教えはこのルターの考えに縁も所縁もありません。人は罪を犯し続ける者だという人間理解がここにあるのです。さらに、その都度悔い改めるならば、罪の赦しが得られるのです。何度でも。

 ただし、罪の赦しの洗礼を何度でも受けるのではないのです。洗礼は生涯に一度きりでいいのです。そのあと二度目の罪の時も三度目の時も十回目の時も、悔い改めるときには、ただ一度十字架にかかって罪人であるその人を贖い、その人に赦しを与えられたしるしである洗礼を思い起こすことが勧められているのです。端的に言えば、すでに赦されているのですから、その恵みの前で何度でも悔い改めるようにと言われているのです。

 今日の福音書だけを見れば、悔い改める道筋は洗礼者ヨハネが教えた「義の道」を聞くことが先だとなっています。それは正しいですが、イエス様が身を持って示された人間の悔い改めの道筋はそれだけではありません。

 たとえば、徴税人ザアカイの悔い改めのケースはどうだったでしょうか。悔い改めに到る前の孤独や不安からイエス様を追っかけていたザアカイがいちじく桑の木に登っていたときに、下からイエス様が「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と声を掛けられたことから悔い改めと新しい生き方が始まりました。

 ヨハネ福音書が伝える姦通の女の場合も、イエス様のほうからの語り掛け、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハ8:11)という赦しの宣言が先で、彼女の悔い改めと新しい生き方はその後でした。

 他の女性たちと共にガリラヤからユダヤ一帯での伝道旅行のお伴をしてイエス様の一行のお世話をし、それだけでなく、主の十字架の死を看取り、復活の証人第1号となったマグダラのマリアはイエス様によって七つの悪霊を追い出していただいたことが悔い改めと主に従う生活の出発点でした。

 彼ら彼女らに共通して言えることは、義の道を説き明していただく前に、文句なしに、理屈抜きでイエス様にこれ以上ないくらい優しく接していただいたことが先ずあったのです。神のいのちにあたたかく包まれて、その愛によって目を開かれて、心を開かれて、悔い改めに導かれて、新しい生き方が始まったのです。でも、彼らがその後ただの一度もぶれなかったとは書いてありません。

 そのようなイエス様の愛の関わりがたった一度きりで終わってしまうはずがありません。ペトロが「兄弟が罪を犯したなら、何回赦すべきですか」とイエス様に尋ねたあの問答を思い起こしてください。仏の顔も三度までと言いますが、ペトロは思いきって「七回までですか」と尋ねました。いくら何でもそこまで赦せば十分だろうと内心は思っていたでしょう。しかし、イエス様の答えはペトロの度肝を抜くものでした。「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」(マタ18:21-22)だったのです。

 今朝の旧約の日課をもう一度開いてみてください。預言者エゼキエルを通して語られた神の声です。神の魂の叫びです。30節から32節までを読んでみます。

 「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

 「イスラエルの家よ」というところを、たとえば「江藤直純よ」という具合に、御自身の名前を入れてみてください。「だれそれよ。どうしてお前は死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前は立ち帰って、生きよ」、そう神さまはおっしゃっていらっしゃるのです。お前が立ち帰るのをわたしは望んでいる。わたしは待っている。待ち焦がれている。さあ、立ち帰りなさい。そう諸手を広げて呼び掛けていらっしゃるのです。背いていた者が立ち帰るのを待っていると言われる神さまが、いざ罪人が立ち帰ってきたら、その人を受け入れ、抱きしめ、赦してくださらないということがありえるでしょうか。たとえそれが二回目であろうと、三回目であろうと、七回目であろうと、もっとであろうと、赦してくださるのです。生かしてくださるのです。それが聖書の神です。イエス・キリストです。

 そんな恥ずかしいことはできませんなどと言ってはいけないのです。そんな申し訳ないことはできませんなどと思ってはいけないのです。主なる神様の真心をもう一度聞きましょう。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。・・わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」。「あなたは何度でも立ち帰って、生きよ」、それが御心なのです。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2023年10月1日日曜日

礼拝メッセージ「主の呼びかけは」

 2023年10月01日(日)聖霊降臨後第18主日 

エゼキエル書:18章1-4・25-32

フィリピの信徒への手紙:2章1〜13

マタイによる福音書:21章23〜32

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは恵みを受けて、今朝もこうして共に集まって礼拝にあずかっています。暑かった夏の日々も少し秋めいてきて、本当に感謝なことです。さて、このところ私たちは、教会という場がどのようなものであればよいかという、教会共同体のあり方についての主イエスの教えを聞いてきました。

 今日の第2朗読でパウロは信仰生活を始めてまだ日の浅いフィリピの教会の人々に対して、パウロは自分の信仰を模範として示しながら、復活の主キリストを信じて、復活の主の霊と、すなわち聖霊と共に生きるとはどういうことなのかを説いてくれています。

 フィリピ2章1節以下でパウロは言っています。「そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」と。

 そして13節「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と信仰の核心を証します。

 私たちの内に働いてくださる神。その神は私たちに御心を分からせてくださる。そして、私たちにその御心を行わせてくださる。このパウロの信仰体験に裏打ちされた言葉に私たちは大いに励まされます。「私たちの内に働く神、その神が私たちに御心を分からせてくださる」。これは今日の福音に響く言葉です。

 次に第一朗読を見ますと、神が私たち人間のありようを、慈しみと憐れみをもって見守っておられることが分かります。エゼキエル18章1−4節を読むと、まず「父がすっぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」というイスラエルのことわざが引き合いに出されています。イスラエルには古くから部族生活を保つために「親が悪事を働いたら、その責任は子供にも及ぶ」という家族に連帯責任をとらせるという考え方があったようです。罪の責任の問題は知恵の書などにも取り上げられていますが、全体と個人という中で、個人の重要性を強調したのは、ここに見られるようにエゼキエルやエレミヤです。

 私たちも子が罪をおかすと、親はどうなのかとすぐ考えがちです。家族を巻き込んでその連帯責任を問う考えに陥りがちではないでしょうか。しかし神は悪人が回心したなら、その回心の故に救われる。また反対に、正しいといわれていた者が悪事を働けば、その罪のゆえに死ぬのだと告げて個人の責任を明確に告げています。

 エゼキエル18章25節と29節に「あなた方、イスラエルの家は、『主の道は公正でない』と言う」とありますが、これは悪人が回心して主に立ち帰ることを認めず、なおも連帯責任による裁きに固執する人々の誤った認識を取り上げています。神はこれを聞きながら、「悪人が悔い改めて救われることをあなた方はなぜ望まないのか、公正でないのはあなた方ではないか」と問いただします。そして32節に「・・・私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ」と告げています。これが神の御心です。深い慈しみと憐れみをもって、私たちを救おうと呼びかけている主なる神の御心です。

 神は人間が悪を犯し罪のままで死ぬことを喜びません。すべての人に、「立ち帰れ」と悔い改めるチャンスを与えます。そして新しい心で立ち帰る者は、正しく見えた人であっても罪人であっても誰でも赦し、その人が生きていくことを祝福してくださいます。神はこのような方だと知ることは福音(=喜びの知らせ)です。この神の御心こそが、今日の福音箇所で語られているテーマです。

 では今日の福音に入りましょう。マタイは21章から主イエスのエルサレムでの活動を語ります。神殿の境内で、主イエスは祭司長や民の長老という当時の指導者たちと論争しています。23-27節での権威についての論争で洗礼者ヨハネを「信じなかった」当時の指導者たちの見せかけの姿があらわにされたのを受けて、同じテーマの話として、この「二人の息子」のたとえ話が語られています。

 「ぶどう園へ行って働きなさい」という父親の言いつけを「いやです」と拒絶したものの、後悔してぶどう園に行く兄と、口先では「はい、お父さん」と丁重に応じながら、父親の言いつけを無視してしまう弟。前後の文章から察すると「兄」は徴税人や娼婦のことで、「弟」は祭司長や長老たちを象徴していることが分かります。

 このたとえ話の背景として、ユダヤの宗教指導者たちと主イエスとの対立があります。ユダヤの人々は、自分たちは神から特別に選ばれた民であると自負しており、神を主として選び、その神のみ旨を何よりも優先しなければならない、それに応えて行かなければならないと考え、全員がその考えに一致していました。

 そういうわけですから、ユダヤ社会で指導者であるための条件は、自分たちが神に選ばれたことを証している、モーセの律法に忠実に従うことでした。

 そこで、人々の前で、公に神の名を否定したり、神のみ旨である律法にそって行動することを拒んだりするような者は、ユダヤ社会のアイデンティティーを混乱させてしまう危険人物とみなされて、追放されてしまう恐れがありました。そのため宗教指導者たちの公の場での言動は、文句のつけようのないくらいに完璧でした。

 しかし、主イエスは、彼らの心には神への真の愛が生きておらず、彼らの見た目の完全さは自分の社会的な地位や名誉を保つためのものでしかないことを見抜いていました。

 彼らの生き方というのは、このたとえ話の父親の前では丁重に「はい」と言いながら、実際には父親を無視して生きている「弟」と同じです。言葉では「はい」と従いながら、行動としては神を否定しています。

 それ故に主イエスは彼らの偽善性を強く非難しました。主イエスはマタイ23章で「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである」(3)と始まる鋭い言葉で具体的にそして強烈に彼らを避難しています。外見上は立派でも、内側は欲望に満ちた人生は、死であり、闇だからです。そこに救いはありません。主イエスは31節「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」と彼らに宣言します。

 罪を犯してきた徴税人や娼婦たちは、最初は父親の言いつけに「いやです」と言った「兄」のように、父なる神の心を傷つけました。しかし、主イエスの呼びかけを受け入れて、回心した彼らは、「思い直した兄」と同じように、今や父なる神にしっかりと結ばれています。神との交わりは、口先の言葉や見た目を整えることによるのではなく、心の奥底から、すべてを神に開き、神に委ねていくことによって本物になって行きます。

 ところで、このたとえを私たちの日常の中で捉えるとしたらどうでしょうか。私たちにとって、「今からぶどう園に行って働きなさい」という「神の望み通にするということ」は、実はそう簡単ではないでしょう。「今から」といきなり言われて、果たして私たちはどう思うでしょう? 息子たちは二人とも、実のところは嫌だったんですね。兄は思い直したのですが、弟は「はい」と丁重に答えたのに実際には行きませんでした。それは父の手前を一応取り繕ったけれども本音は「いいえ、行きません」のままだったからでしょう。

 私たちにしても、たとえそれが主の望みであっても実際はそう簡単には行きません。私たちはイエスさまに従って生きていきたいと願っていますけれども、本当のところ悩みます。

 FEBCの記事に、岡シスターという方の文章が載っていました。「私たちは行動することよりも、行動するときの気持ちの方が大切」だというのです。この言葉は意味深いと思いました。限界ある肉体を持って生きている私たちは、迷ったり、苦しんだり、ジレンマに陥りながら、それでも主の御心を思い巡らして、一歩を踏み出します。その行動するときの気持ちが大事だというのです。

 人の目を気にしたり、また、自分の思いを伏せて回りや大勢に合わさせる圧力に私たちは常にさらされています。そんな弱い私たちに主は「聖霊を信頼して、NoはNoと言って良い」とそう言っておられるのだと思います。

 慈しみ深い神に祈り願います。私たちの人生は御心に背く思いを持ったり、悔い改めたりの繰り返しです。そんな私たちに主キリストは何度背いてもそのたびに悔い改める心を与えてくださいます。その愛を心にしっかりと刻んで主イエス・キリストの御名によって祈ってまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン