2023年10月29日日曜日

礼拝メッセージ「本当に自由になる」

 2023年10月29日(日) 宗教改革主日   岡村博雅

エレミヤ書:31章31〜34 

ローマの信徒への手紙:3章19〜28 

ヨハネによる福音書:8章31〜36

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日は、エレミヤ書、ローマ書、ヨハネ福音書から、またルターの『キリスト者の自由』を通して告げられている主の御声を皆さんと共に聞いていければと願います。

 今読んでいただいたエレミヤ書の箇所に旧約聖書で初めて「新しい契約」(エレ31:31)、という言葉が登場します。ある神学者は、「この箇所は、旧約聖書から新約聖書にバトンタッチするところなので、旧約聖書の最高峰だとかクライマックス」だと言います。

 旧約聖書はモーセの十戒をいわば金科玉条としてきました。けれどもこの箇所でエレミヤは、このモーセの十戒について、はっきりとそれは古い契約にすぎない、その契約ではもうだめだと言い切ります。

 その理由はイスラエルの裏切りです。十戒の第一戒「あなたは、他の神々をもってはならない」に示された愛の精神、神がイスラエルに向かって、わたしはこれほどまでにあなたを愛したのだから、あなたもわたしだけを愛さなければならないという、夫婦の間にかわされるような愛のつながり、そういう神とイスラエルとの愛の関係をイスラエルが裏切ったという事実のためです。

 エレミヤは、このイスラエルの裏切りに対する神の怒りを40年近く宣べ伝えてきたのですが、31章に達して、今ここで、神との全く新しい関係を伝えています。それは何か。34節、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めない」という「神の赦し」です。

 エレミヤは40年間、悪は徹底的にさばかれなければならないと語り続けてきた。ですが、31章になって、一転して神がイスラエルの悪を赦すという驚くべきメッセージを語ります。

 モーセの律法という古い契約は罪を犯すな、悪を犯すなという戒めです。また、罪を犯さず、悪を犯さなければ、神はイスラエルを愛するという、交換条件のある契約です。ですから、罪を犯し、神を裏切ったら神も愛さなくなる。むしろ神はさばくのだということだったのですが、それが、乗り越えられて「悪を赦す」というメッセージが宣言されました。

 さらにエレミヤは、あなた方はこれまでのように外からがみがみと言われるのではない。33節に「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」とあるように、律法の内面化が起こると告げます。新しい契約は内面的になる。そこに立つ者は、外から命じられて従うのではなくて、自発的に神を愛し人を愛するようになるというのです。

 このエレミヤが語った神との「新しい契約」とは何でしょうか。使徒パウロはそれは「イエス・キリストを信じること」だ、神による十字架の救いを信じることだと言います。今日のローマ書の箇所でパウロはイエス・キリストを信じる信仰についてひたすら語っています。それこそが「新しい契約」だからです。

 私たちは信仰によってのみ義とされます。信じるだけです。律法を守り、善い行いを積むからではない。聖人君子のようでなくていい。あなたはそのままで、不十分なままで救われるというのです。「イエス・キリストを信じる」だけで、神から赦される。義しいものとされる。救われる。すごい教えですが、リアリティーが薄いと感じませんか。

 案の定、こういう神の恵みについて、パウロが真摯に語ったにもかかわらず、その後のキリスト教会の歴史においては、実は人は善い行いによってのみ生きるのだという思いが復活しました。善い行いは目に見える。自分にも人にも明らかに見えるからでしょう。

 そういう中で、このローマ人への手紙を読み直したマルティン・ルターによって、信仰の理解について革命的な改革が起こりました。

 ルターはヨハネ福音書を愛読した人でした。彼はローマ書を読むことによって改革のヴィジョンを与えられたことは事実ですが、同時にルターは生涯に渡ってヨハネ福音書をとても大切にしました。

 主イエスはヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。この「真理」とは、たとえば「大学は真理を探求する場である」といった場合の真理のことではなく、この「真理」とは「イエス・キリストご自身」のことです。「主キリストはわたしたちを自由にする」というのです。

 また、主は「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8:31)と言われましたが、まさにルターという人は、御言葉を熟考しつづけた人です。

 使徒パウロは「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(Iコリント9:19)と言いますが、ルターはこの言葉を熟考して『キリスト者の自由』という著作を残しました。その中でルターはキリスト者の自由について二つの命題を提示しました。そこに私たちが主キリストを信じる者としてこの世の日々を生きるときの指針を指し示してくれました。

命題の第1は「キリスト者は、すべての者の上にたつ自由な君主であって、だれにも服しない」です。ルターは、本当の自由とは、食べたいものを食べ、行きたいところへ行き、人の顔色を伺わずノビノビと生きること、つまり死や罪から解放されて、心の底から晴々と生きること、それこそがキリスト者の自由だと言います。その自由は、「キリストの与えたもう自由」だ。本当の自由は、神が与えてくださるとルターは言います。この自由とはすなわち人間が救われることです。実は自由と救済とは同じ一つのことなのです。

 神は、イエス・キリストの十字架の贖いによって人間の罪と悪を赦してくださり、少しも義しくない人間をこの「恵み」のみによって、義しい者として受け入れてくださる。この驚くばかりの神の救いの「恵み」を信じて感謝することがキリスト者の「信仰」だというのです。ちなみにルター神学では、「救われること」を「義とされる」と表現します。

 神が私たち人間に自由を与えて下さった。救いを与えてくださった。その救いの恵みを信仰をもって受け入れる。そうした神が与えて下さった自由を生きる者であるがゆえに、キリスト者は本当に「自由な君主」と言えます。

 ところがルターは命題(2)でまるで逆のことを語ります。「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕であって、だれにも服する」。

 キリスト者は「自由な君主」で「だれにも服しない」と言っておきながら、今度はキリスト者は「奉仕する僕」で「だれにも服する」と言う。どういうことでしょうか。

 神が人間に与えてくださった、自由、すなわち救いをより根源的に言えば、それはイエス・キリストという「神の恵みそのもの」です。キリストが、私たち人間に与えられたということです。そのキリストはどこにいるのか。キリストは私たちの中にいるのです。パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2:20)と言います。こうした驚くべき告白に勇気づけられて、いわば背中を押されるようにして、ルターは『キリスト者の自由』の中で「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになろう」(第27項)と述べました。

 そのキリストについてパウロはこう言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)。パウロの言い方に従えば、主キリストは自分のことはかえりみず、人々を助け守り十字架の死にまで至った方であり、徹底して人々に奉仕する僕、誰にでも服した人、隣人への愛の奉仕に生きた方です。それがイエス・キリストです。そのキリストが「わたしの内に生きておられる」。

 そうであるならば、「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになろう」、愛の奉仕に生きる人間になろう、とルターは宣言しました。これが「キリスト者は、すべての者に奉仕する僕であって、だれにも服する」という命題の意味です。

 宗教改革の主日をアメリカでは、リフォーメーション・サンデーと呼びます。リフォーメーションは、作り替えること、新しくすることです。506年前、ルターによって、教会が新しくなる、信仰が新しくなる、私たちの神に対する姿勢を新たにする、そういうことが起こりました。

 主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」(ヨハネ8:31)と言われます。ルターは、自分自身の信仰を問い続けました。御言葉にとどまり続けました。そこから改革が始まりました。そのように、私たちが、御言葉の中にとどまり続けるとき、私たちは必ず主キリストに倣う者となっていきます。本当に自由になります。  

祈ります。

 主なる神さま。どんなに悲しいこと、つらいことがあっても、私たちを、あなたの御言葉の中にとどまり続ける者としてください。恵みと喜び、賛美と感謝の中を、何者にもおもねらず、互いに愛し合い仕え合う自由なキリスト者として歩ませてください。聖霊の力によって、望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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