2023年4月30日日曜日

礼拝メッセージ「命を豊かに受けるために」

 2023年04月30日(日)復活節第4主日   岡村博雅

使徒言行録:2章42〜47 

ペトロの手紙一:2章19〜25 

ヨハネによる福音書:10章1〜10

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 私たちはキリスト者として生活していて、常日頃から「聞く」ということの大切さを知っています。聖書に聞く、御言葉に聞く、主イエスに聞く、などなどですが、今日の主イエスによる羊飼いと羊のたとえ話からは「主イエスに聞く」ことの大切さは、羊にとっては死活問題ですらあることが感じられます。

 ローマ書10:13-15で、パウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ヨエル3:5)と宣言して、さらに救いへの道筋を語っています。宣教する者は「神に遣わされ、宣べ伝え」、救いを求める者は「それを聞いて、信じて、神を呼び求めて、救われる」のだと言います。救われたい者が行うべきことはまず「聞く」ことです。それが「信じる」ということにつながれば、救いへの道筋は開けていきます。「聞く」ことこそが救いの始まりです。

 今週の福音に語られる羊は、耳に馴染んだ羊飼いの声が自分の名を呼ぶと、その後について行きます。羊という動物は、その声を知らない者が呼んでも、決してあとについて行きません。今日の主イエスが語られた喩えにはどんな意味が込められているのでしょうか、御言葉に聞いていきたいと願います。

 ヨハネ10章の主イエスの言葉は、実は9章の「生まれながらの盲人」を主イエスがいやされた物語とひと続きになっています。9章では安息日の癒やしがテーマになっていました。思い出していただきたいのですが、主が生まれつきの盲人の目に、つばでこねた泥を塗り「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と言って、盲人の目を開けたという奇跡です。それは安息日のことでした。

 安息日は厳しく規定されています。出エジプト記31章14節「安息日を汚(けが)す者は必ず死刑に処せられる。だれでも安息日に仕事をする者は、民の中から断たれる」。当時のユダヤ社会で権威をもっていた宗教家たちは、「聖なる神」に喜んでいただくために、神が天地創造の仕事を終えて安息なさった日に由来するこの律法は、厳格に守らなければならないものだと思いこんでいました。

 しかし主イエスは、その日が安息日であり、その人を癒やせば仕事をしたとみなされ、宗教家たちとの間に確執を生むことを知りながら、その人の目を開き、その人を救いました。それは主イエスが、今ここで、この人が救われることが、その生まれながらの盲人にとって、どんなに大切で、天の父がどんなにお喜びになるかを分かっておられるからです。その人の魂が救われるために、天の栄光のために。しかしそれは当時のユダヤ社会にあっては自らの命をかけた行為であったわけです。

 この主イエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られています。そして主は「わたしは良い羊飼いである」(10:11)と愛情深く宣言されます。

 ここで羊飼いについて知っておきたいと思います。イスラエルの人々は半遊牧生活をしていたと言われています。ダニエル・ロップスの『イエスの時代の日常生活』という本などによりますと、羊飼いは50~100頭の羊の群れを追い、草のあるところを求めて旅していきます。羊は弱い動物なので、1頭だけでいたらすぐに野獣に襲われて食い殺されてしまいます。羊飼いの役割は、羊を1つの群れに集めて、狼や泥棒から守り、草のあるところに導いていくことでした。

 夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰かの持ち物というわけではなく、その囲いの中で、あちこちの羊飼いの羊がごっちゃになって夜を過ごします。

 朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いの声に付いていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹の羊を見分けることができたと言われています。こういう当時の実際の羊飼いの姿が背景にあって、今日のたとえが語られています。

 こうした予備知識を踏まえて今日の福音を見てみます。1節から5節では「聞く」と「知る」が大切な動詞だと読み取れます。3節に「羊はその声を聞き分ける」とあります。原文ではただ「聞く」という言葉なのだそうですが、ここは羊はその声を「聞き分ける」というように日本語訳が工夫されていて、羊が自分の羊飼いの声を「聞き分ける」、そしてその声に「聞き従う」ということが強調されています。

 4節には羊はその声を「知っている」とあり、5節には、ほかの者たちの声を「知らない」からとありますが、この「知る」はただ単に知識として知っているという意味ではなく、お互いの関わりを表している言葉だと思います。

 この箇所の先の14-15節で主はこう言っておられます。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と。この言葉には両者の深い交わりが感じられます。

 9章で目をいやされた盲人が、「あの方が罪人(つみびと)かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と言ったことも思い出されます。彼にとって主イエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなくて、自分を救ってくださった主イエスとのつながりそのものの問題でした。

 先程紹介したイスラエルの羊飼いは、一匹一匹の羊に名をつけ、あの子はこうで、この子はこうだと、それぞれの羊の容姿や特徴を把握して可愛がっていたことでしょう。羊の方も、そんな羊飼いに深く馴染み、その声をしっかりと聞き覚えて、信頼して従ったに違いないと思います。主イエスは羊飼いと羊のあるがままの様子をたとえにして語られましたが、それは、たとえ話を聞いている人々にとってよくわかったことでしょう。

 このたとえで羊とは人々のこと、私たちのことであり、良い羊飼いは主イエスです。律法を金科玉条として、弱い人の悩みや苦しみを顧みようとしないファリサイ派のような人はさしずめ、泥棒や野獣です。

 7-9節で主イエスはご自分を「羊の門」にたとえます。9節「わたしを通って入るものは救われる」これは、主イエスを通って神の国に入る、天の家に入るというイメージなのでしょう。それに対して次の「門を出入りして牧草を見つける」は実際の羊の囲いのイメージを思わせます。餌となる牧草はこの世では囲いの外にあるからです。どちらの場合も、主イエスが人々を豊かないのちに導く方であることが示されています。

 このたとえ話が語るのは、主イエスが「羊のために自らの命(プシュケー)を捨てる」方であり、同時に「羊が肉体の命を超える、根源的な命、永遠の命(ゾエー)を豊かに受けるために」この世界に来られた方だということです。

 主イエスはおっしゃいます。10節「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」と。この盗人は危険なカルト宗教や、あるいは独裁的な政治家や軍人の害悪をも思わせます。主イエスは私たちから何も奪いません。身勝手な盗人とは全く逆に、ご自身の命を私たちのために捨てることによって、その尊い豊かな命を私たちに与えてくださいました。

 主イエスははっきりとおっしゃいます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と。第二朗読でペトロが「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者のもとへ立ち返ったのです」と言うように、私たちはこの主の声を心に聞いて、主に従い続けていく者でありたいと願います。

 さて、今日の礼拝の最後に私たちは第一朗読の使徒言行録からも聞きたいと願います。復活の主イエスによって集められた主イエスの羊である初代教会の人々のことが46節以下に描かれています。「毎日ひたすら、心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って食事をし、神を賛美していたので民衆全体から好意をよせられた。こうして主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである」とあります。なんとも霊的な活気にあふれていて、私は素直にあこがれます。

 私たち小田原教会の姿は42節の「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」という方に近いと思います。私たちも、初代教会の信徒たちのように、心を一つにし、礼拝し、聖餐をし、食事をし、互いに仕え合いながら霊的に深められて行きましょう。そこには主イエスがくださる命を豊かに受けた群れの姿があります。恵みと希望があります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン 

2023年4月23日日曜日

礼拝メッセージ「心の目が開かれる」

 2023年04月23日(日)復活節第3主日  

使徒言行録2章14a、36〜41 

1ペトロ1章17〜23 

ルカ24章13〜35

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 昨日、湯河原の朝祷会があって、世話人の方が「そろそろ食事を再開したいと思うけれどもどうでしょう」と提案されて、参加者一同賛成しました。朝祷会は超教派の集まりですが、ともに説教を聞いて祈り合って、その後に食事の交わりをするのが習わしです。

 説教を聞いて、お互いに祈って、食事をする。これは主イエスが弟子たちとなさっていたことです。今日の福音箇所のエマオに向かった弟子たちも、聖餐式につながる食事の場面から大切な気づきを得ています。教会はそもそもそういう集まりだったことを思います。

 けれども、この伝統がここ3年、世界にまたがるコロナウイルス感染対策のために避けられてきました。それがやっと今年に入ってから徐々に集まって食事することも再開されています。原点に帰ろうということでしょうか。聖霊の風が吹き渡っているのでしょうか。私たちの小田原教会も対面の礼拝と聖餐式は続けてきたわけですが、無理のないところで、さらにもう一歩、食事の交わりも進めていきたいという思いをもちました。

 さてルカ福音書と使徒言行録は同じ著者によるとされます。そして復活のできごとというのが、この二つの書物を結びつけています。その中心は、今日の箇所のちょっと前のところの空の墓の場面で、天使が婦人たちに語った言葉、「イエスは復活なさった」というメッセージです。「イエスは生きておられる!」というこの神からのメッセージがルカの二つの書物を貫く最も根本的なメッセージだと言えます。

 さて、今日の福音箇所には2つのことが書かれています。前半はクレオパともう一人の広い意味での主イエスの弟子たちが悲嘆にくれながらエマオという所に向けて歩いていた場面です。そこに復活の主イエスが追いついて来た。しかし二人はその人がイエスだとわからない。二人はエルサレムでの話、十字架の出来事を話します。するとその人は一緒に歩きながら、メシアについて聖書を説き明かしてくださるというものです。

 きっとその情景を描いたと思われる19世紀のスイスの画家ロベルト・ツントの「エマオへの道」という絵画がありますね。白い衣をきた人を真ん中に3人の旅人が大木の木陰の道をゆっくりと歩いて行く、その後ろ姿を描いた美しい絵です。60スタディオンて11キロちょっとの距離です。

 そして後半はエマオに到着した三人が宿屋で食事をする場面です。その人はパンをとり、賛美の祈りをささげ、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。

 すると二人の目が開け、イエスだとわかった。このことがとても大事ですね。これは聖餐式の原型、原点だと言えると思いますが、二人はこのとき初めて主イエスと人格的に結びついたということでしょうか。

 突然イエスの姿が見えなくなったために、彼らは思い起こします。彼らはこの出来事を振り返って、道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えたではないか、本当だ、そうだ心が燃えたではないかと力が湧いてきます。

 悲嘆にくれて悲しい顔をして、目もうつろだったこの弟子たちが聖書の話を聞いて心が燃えた。そしてまた主イエスと共に食事を共にしたということで、心が燃えた。この心が燃えたということ、これが聖霊の働きの大きなしるしだと思います。聖霊の働きを受けた、そして心が燃えた。こうした言葉がこの物語が告げる福音の中心メッセージだと思います。

 エマオに向かうこの二人は、主イエスが殺されたことで、まったく絶望してしまった。十字架のできごとを回想するわけですから当然だといえますが、言葉は全て過去形です。力のある預言者でした。十字架につけてしまった。そして私たちはあの方に望みをかけていました。みんな過去形です。もう今は終わってしまったことを言うわけです。

 彼らは過去のことにすっかり取り憑かれて、そこだけを考えています。その起こったできごとが彼らにとってどんなに絶望的であったか、彼らの期待がどんなに裏切られてしまったか、どれほど落胆しているか、そういうことがぐるぐると頭をめぐる。それしか考えられないわけです。

 なんで彼らの目が開かれていなかったかと言えば、やはり過去のこと、過ぎ去ったことばかりを見つめて、そこにへばりついているからでしょう。そこから離れられないという状態に原因があったと言えると思います。彼らは後ろばかりを見て、そこから離れられないということです。

 私たちもそういうことがないでしょうか。起こったこと、もう過ぎたことなのに、その過去にやたらとこだわってしまって、後ろ向きにしか考えられない状態、そういうときには不平不満も出て来るし、物事を積極的に見ることもできないで、悲観的になってしまう。それでは主から復活を予告されていたことなどは当然心に起こってこないでしょう。

 これに対して復活というものは主イエスの墓にいた天使たちが「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」というふうに問いかけるところにはっきりと現れています。これは人間的な思考への挑戦ですね。

ヨハネ福音書では、空の墓を見つめ泣いていたマグダラのマリアは後ろを振り向いて復活のイエスと出会いました。マリアはイエスの遺体が持ち去られたと思い、それで心がいっぱいになっていた。すると園丁かという人から後ろから呼びかけられた。彼女は振り向いて、名を呼ばれて初めて主イエスに気づきます。そこに彼女の回心が表されています。

 今日の福音においても眼差しの向け方がポイントになるのではないでしょうか。復活の主は、終わった過去のできごとや、後ろばかりを見ているその眼差しを前に向けるように、上に向けるようにと示されているのではないでしょうか。

 私たちもマグダラのマリアと同じように目の前で起こっている、悩みごとに取り憑かれてしまいます。あるいは今日のエマオへ向かう旅人のように、過ぎてしまったことばかりに心が向いてしまう。そういう状態に陥ってしまいます。しかしそんな私たちの眼差しを、前に向けてみる、上に向けてみる、そのときに主によって新しいことが起こってくる。きっと希望が見えてくる。復活ということも視野に入ってくるのだと思います。

 復活の主キリストの物語は、つい過去にとらわれしまう、目の前のことにとらわれてしまう私たちの心を前に向けさせてくれます。上に向けさせてくれます。私たちを前に向けて起き上がらせ、天の栄光に向けさせる、そういう働きがあるのだということを思います。

 また、エマオへの物語からは、主イエスが復活してなおいっそう、目が曇っていたり、まだなお目が開けていない、そういういろんな弟子たち、いわば迷える羊たちを探し出して、自分のもとに連れ戻すために、一緒に旅をつづけている。そういう復活の主イエスの姿がみえてくるのではないかと思います。

 復活なさった主イエスは、エマオ途上の弟子たちに対してそうであったように、なお私たちの一人ひとりの歴史にも入ってきて共に歩いていてくださっている。「神がそこにいてくださる」ということ、私たちはこのことを味わってみることが大事ではないかと思います。

 さて、二人がエルサレムに取って返すと、他の人たちも、「私も主に会った!」「私たちも主に会った!」というふうにして、みんなが集まっていた。復活の主によって心の目を開かれた者たちが集まってきた。バラバラになりかけていた弟子たちを復活の主が、呼び集めて、聖霊が働いて、もう一度、主イエスを真ん中にした集まりが新たに始まったのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年4月16日日曜日

礼拝メッセージ「揺るぎない平和」

 2023年04月16日(日)復活節第2主日 

使徒言行録:2章14a、22〜32 

ペトロの手紙一:1章3〜9 

ヨハネによる福音書:20章19〜31

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週各メディアでは「チャットGPT」という文章作りをしてくれる人工知能のことが盛んに話題になっていました。30年くらい前のインターネットの黎明期と同じような盛り上がりっぷりだと思いました。自由に検索できて便利になったと思っていたら、今度は質問すると人工知能がまるで対話相手のように答えてくれる時代になろうとしていることは驚きです。

 私も試しに「イエス・キリストの復活について」と質問を打ち込んでみましたら、ほぼミスなく手際よくまとめられた百科事典的な回答をしてきました。本当に面くらいました。これが神学校での試験なら間違いなく及第点です。しかも回答までほんの2、3秒でした。今日の説教に出てくる「トマス」と打ち込んでみたらどんな回答が出てくるのか、ちょっと気になりましたが、やめました。今の所、AIは膨大なデータから瞬時にまとめる力はあっても、人の霊性に訴える力はないと思いました。けれども、「まてよ!」と思いました。もしかしたら将来、スピリチャルな答えを出してくれる牧師AIができるかもしれない。そんなことも思います。これから様々な私たちの日常がこういう人工知能と関わりながら進んでいくのでしょうが、主のみ心にかなう方向で発展して欲しいと本気で思いました。

 先週の主キリストの復活祭からもう一週間経ちました。復活の主は、昨日も今日もこれからも皆さんと共におられる、そのことを日々の生活の中で感じながら過ごせたらどんなにか素晴らしいことでしょう。そんなことを願いながら、主の復活が信じられなかったトマスについて、今日は聖書から聞きたいと思います。

 さて、今日の福音箇所は先程述べたトマスの信仰をめぐる記事が中心ですが、その中に示される福音は「復活した主キリストが与える揺るぎない平和」です。このトマスは主イエス・キリストの復活を知らされても信じなかった人として知られています。この記事を読むと私はひねくれ屋だった中学生の頃、父から英語ではdoubting Thomas「疑い深いトマス」というんだと聞かされて、トマスは自分みたいだと思ったことを覚えています。そのトマスがどんな仕方で遂に復活の主イエス・キリストを信じる信仰に達したのか?トマスのドラマチックな復活の主との出会いは絵画にも描かれ、讃美歌にも歌われていますね。彼は「疑う」という点では現代の私たちのようです。そのトマスが疑いから信仰へと復活信仰を深めていった。その意味でトマスは重要な人物です。

 ヨハネ福音書には主イエスが復活された日の夕方(イースターの夕方)、主が、弟子たちが集まっていた家に現れた時、トマスだけが、一緒にいなかったと記されています。ですから、彼は主イエスに会えなかったわけです。(ヨハネ20:24)そもそも弟子たちはなぜユダヤ人たちを恐れて家に閉じこもらなければならなかったのか?

 イエスはユダヤ人指導者たちにとって自分たちの秩序や伝統や信条を守るためには邪魔であったので彼らは何が何でもイエスを消し去ろうとしたわけです。そして、その目的のために冷酷なまでの力を十字架において見せつけました。弟子たちは彼らの残忍さをひしひしと感じないわけにはいかなかった。今日の福音箇所の初めの19節には、はっきりと「弟子たちは、ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸にみな鍵をかけていた」とありますね。

 十字架刑につけられた主イエスを目の当たりにして、「次は自分たちが狙われる」と脅えて、逃げて、隠れていたわけです。一つ家に鍵をかけて閉じこもっていても弟子たちは、自分たちは卑怯で、みじめだという激しい自己嫌悪で、心は乱れに乱れていたことでしょう。

 そんな状況の弟子たちがひとかたまりでいるところに復活の主は現れて、「あなたがたに平和があるように」と、罪に苦しむ弟子たちを温かく包み込んでくださいました。みんなに、「手とわき腹」をお見せになって、ご自分が死から復活なさったことを示します。こうしてこの世の破壊的な力に打ち勝つもっと大きな力、死の力に勝る神の力があるということを証しなさいました。「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。簡潔に書かれていますが、この一文に弟子たちの大きな安堵が読み取れます。

 主はすかさず「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃいます。(20:21)。それは、罪が支配するこの世界に向けてあなた方を愛の使者として派遣するということです。そして、主は「息を吹きかけて」、弟子たちに聖霊を与えられた。それは創世記で、神が「土の塵」で形づくられた人間に息を吹きかけて、人間を霊においても生きる者にしてくださった有様を彷彿させます。主キリストは、聖霊によって弱い弟子たちの霊と心を強めてくださいました。

 しかしこの時、その家にトマスはいませんでした。思うに、たぶんトマスは、他の弟子にも増して、怖かったんじゃないのかという気がします。トマスが一番怯えていた。だから、トマスは、「こんな所でみんなと一緒にいたら、見つかって捕まるかもしれない。でも、自分は助かりたい」と、そう思って、どこかに一人で引きこもっていたのかもしれない。そんな推測ができます。

 理由はともあれ、主が復活された日曜日の夕方、トマスは主に会えませんでした。トマスは実証的である一方、心はかたくなで独りぼっちでしたから、みんなが「主が現れてくださった。俺たちは主にお会いしたんだ!」と言っても、「俺は信じない!」と強情を張ったわけです。たぶん、そんなトマスの人柄をよく知っている仲間たちが、「トマス、おまえも一緒にいよう。一緒にいればおまえも主に会えるよ。独りだけでいてはダメだ」と、連れ帰ったのかもしれませんね。

 これでもしも、トマスが仲間から外れて独りで居つづけたら、復活の主イエスに会えなかったでしょう。「信仰は、独りのことではない」と言うことです。この「独り」というのは「孤立したままで」という意味です。「独りだけで信じる」つまり「一人ぼっちで、仲間から外れて」というのは信仰においては意味がありません。「独りだけ救われてどうするのか?」ということです。そもそも人間は、「独り」ということがあり得ません。

 神は「人が独りでいるのは良くない」(創2:18)と、アダムにエバを与えられました。私たち現代人は、自分は一人で考え、一人で行動し、一人でも生きていけるというような勘違いをしていますけれども、たとえそうできたとしても、それは、聖書的に言えば人間らしいことではありません。信仰というのは独りでいてはいけない。孤立していてはいけないのです。

 ですから、復活の日から八日目にはトマスも一緒にいたおかげで、主イエスにお会いできて、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と、心の底からの信仰告白ができました。

 そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と、主イエスから、そう力づけていただけました。これこそ、主イエスが私たちに言ってくださっていることです。「信じない者ではなく、信じる者になろう」と。まったく私たち向けて言われていることです。

 私たちにしても、みんなと一緒にいないと、なかなか、「信じる者」になるのは難しいです。みんなから孤立しているときに、「さあ、信じよう。見ないでも、信じよう」と、いくらがんばっても、恐れや疑いが先に立って、「信じない者」にしかなれない。信じるというのは、みんなでやることですから。

 ですから私たちも来られない方にお便りを書いて週報や「るうてる」、説教コピーを送ったり、また可能な限り問安をしたりしますね。それは主キリストにおける兄弟姉妹として繋がっていましょうと、孤立しないことを願うからです。

 たとえ手紙であっても、電話であっても、みんなで一緒にいれば、そこに聖なる霊も働き、主の祝福が豊かに注がれて、「共にいる」という喜びと平和があふれます。

 第二朗読のペトロの手紙に「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与える」とあります。ペトロの言う通りです。復活の主は、復活を信じる者に生き生きとした希望を与えてくださいます。私たちはこの礼拝において、今ここに共におられる復活の主によって、そのことを信じない者ではなく、信じる者になる。そこにこそ主キリストから賜る揺るぎない平和があります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年4月9日日曜日

礼拝メッセージ「主の復活」

 2023年04月09日(日)主の復活主日 

使徒言行録:10章34〜43 

コロサイの信徒への手紙:3章1〜4 

マタイによる福音書:28章1〜10

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 改めて、ご復活のごあいさつをいたします。

 ご復活、おめでとうございます。

 神は、どんなに私たちを愛しておられるかということを、主イエスの死と復活においてすべて表してくださいました。キリスト教においては復活こそが中心メーッセージです。世界の教会はその恵みにあずかって、感謝して、主日ごとに礼拝を続けています。私たちは、今、そのような神の愛による礼拝に与っているのだということを覚えたいと思います。

 今日はマタイ福音書の主の復活から聞きます。主の遺体は金曜の日没の前に、つまり安息日が始まる前に墓に納められました。主イエスを十字架につけさせた人々は、ローマ総督のピラトに申し出て、イエスの遺体が盗まれないようにと見張りの番兵たちをつけてもらいました。念には念をいれたわけです。

 マタイ28章は、「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」と始まります。この記述から、金曜から数えて三日目の朝、つまり土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に神は主イエスを復活させたと考えられます。

 マタイ福音書はマルコ福音書を元にしたと言われますが、幾つかの違いがあります。ここではマタイにそって見ていきます。主の墓に駆けつけてきた女性達が墓に着いた瞬間に墓が開きます。地震が起こり、それと共に天使が現れ、墓を塞ぐ大きな石をどけてくれました。マタイは彼女たちが墓に着いたとたんに墓が空であることを目にしたと言いたいのです。墓は閉じられていた。番兵も見張っていた。けれども墓の中には主イエスはおられなかった。

 見張りをしていた番兵達も女性たちも地震と天使の出現に「恐ろしさで震え上がり、死人のように」なりました。すると天使は彼女たちに「恐れることはない」(5)と語りかけます。これは「禁止の命令形」で、「恐れることをやめよ」という意味です。

 「恐れることはない。イエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、・・弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。・・あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」(5−7)。この驚愕の知らせに女性たちは恐れながらも大いに喜んだとあります。

 弟子たちに主の復活の出来事を一刻も早く知らせるようにと言われて、急いで走ってゆく女性たち。すると彼女たちの行く手に復活の主が立っていて「おはよう」と声をかける。これはギリシャ語の直訳では「喜べ」という意味です。

 彼女たちは主の足を抱いてひれ伏して礼拝した。主は「ガリラヤに行きなさい。そこで会おう」といいます。このあとの16節以下をみると、このガリラヤにおいて復活のイエスは弟子たちを世界宣教にお遣わしになります。

 実に生き生きとテンポよく、力強く語られているこの福音箇所だと思うのですが、これから何か新しいことが起きる、予想もしなかった何かすごいことが起きる、そんな「始まり」を私たちに予感させてくれる福音だと思います。

 今日の第一朗読には、キリスト教が異邦人伝道へとその第一歩を踏み出すというやはり「始まり」の物語が記されています。

 コルネリウスというローマの百人隊長は家族揃ってユダヤ教の信仰の厚い人でした。彼はある日、夢で使徒ペトロを自宅に招くよう神から掲示を受けます。同時期にペトロも異邦人にも伝道するようにとの掲示を神から受けます。

 その時のペトロの説教は今使徒言行録を読んでいただいたとおりです。コルネリウスとそこに集まっていた大勢の人々の上に聖霊が下りました。それは大きな驚きでした。

 ペトロはそれまで割礼を受けた神の民である自分たちが主イエスを信じたからこそ自分たちに聖霊がくだったと思っていたわけです。しかし、聖霊は、別け隔てなく、ユダヤ人ばかりか異邦人にも降ることをペトロはここで目の当たりにし、彼らに洗礼を授けました。

 この出来事を契機にして、それまで、ユダヤ人にしかイエス・キリストの福音を語っていなかったペトロたちでしたがそこが大きく変化します。この後、キリスト教はユダヤ人以外の世界中の人々によって受け入れられていきます。

 コルネリウスの物語は初期のキリスト教がユダヤ教の一派閥という枠組みを超えて世界宗教になっていった新しい始まりを示しています。

 ところで皆さんは「復活」というと、いったん死んで元に戻るという、「蘇生」みたいなイメージがありませんか。日本語だと、「敗者復活戦」みたいに、一度ダメになったけど元に戻るというイメージがありますが、そうではありません。

 聖書がいう「復活」とは、主イエスが死に打ち勝ち、神の永遠のいのちを生きる方となったということを意味します。復活はまさに、「永遠のいのちに誕生していく」というイメージです。全く新しい段階に入るのです。その意味ではやはり「始まり」だと言えます。

 人は死んで全てが終わるのではない。死というものを私たちはいやいや受け取らなければならないということではない。死というところで私たちは神と出会います。コロナであったり、戦争であったり、人権侵害であったり、そんな人生の危機に際してもなお世界は「復活という恵みに包まれている」のだと聖書は教えてくれます。

 しかし、現代人の多くが復活を認めません。むしろ死こそが確実なものだと思って、恐れています。今日の福音書の女性たちも空っぽの墓を見て恐れにとらわれています。そんな女性たちに天使も復活の主も「恐れることはない」と繰り返します。8節に女性たちは「恐れながらも大いに喜び」とありますように、この時点では「喜び」と「恐れ」が同居しています。

 彼女たちが本当に恐れから解放されるのは主イエスに出会ったときです。主イエスは「おはよう」と語りかけます。この言葉は直訳では「喜べ」です(あいさつの言葉でもあるので「おはよう」と訳されたそうです)。さらに主イエスは天使と同じ言葉で彼女たちに「恐れることはない」(10)と言います。この出会いが、彼女たちを根本から変えます。

 私たちの中にもさまざまなことに対する恐れがあるでしょう。時としてわたしたちは恐れに囚われて身動きできなくなっているかもしれません。その逆に「恐れ」から解放されて「喜び」に満たされていく体験もします。凍り付いていたわたしたちの心が動き始める体験、そういう体験をすることができたなら、それは主と共に味わう復活の体験だと言えるのではないでしょうか。私は共にいてくださる主イエスを知って、それまで体験したことのない安心と自由を味わってきました。今もそうです。クリスチャンは辞められないと思う所以です。

 さて、今日の第二朗読のコロサイの教会への手紙3:1に「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」とあります。「上にあるものを求める」、これは私たちの生き方へのメッセージです。

 私たちは上にあるものよりも下にあるもの、つまりこの世のことだけに目を向けていると、自分の力で所有できるもの、キラキラした目に見えるものだけを頼りにして生きるということになりかねません。それは上にあるものをまったく排除してしまっている生き方に思えます。しかし私たちは聖書から、そういう生き方ではなく、神からの恵みや恩恵など、上にあるものをこそ求めなさいと言われていることを覚えたいと思います。

 それはまた、憎しみや暴力に勝利するのは、実は愛なんだという神からのメッセージを、私たちが受け取って自分の生き方の基盤にするかどうかということが問われていることであって、それは他の誰かではない、それを始めるのは自分なんだということです。主の復活を信じ、自分のものとすること、その根本的な決断をするかどうかが復活という問題の一番中心にあることだと言われているのだと思います。

 復活の主キリストと弟子たちの出会い、それは2000年前に起こった一回限りの出来事というだけでなく、時空を越えて今もわたしたちの中で起こっている出来事であり、目には見えないけれど今も生きている主イエスと私たち自身との出会いの物語です。

 私たちは日常の生活のさまざまな場面において復活の主キリストと出会って、日々変えられていく、日々新しくされていく。今日の復活の主日に、「こんな人生はいかがですか?」と主は招いておられます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年4月2日日曜日

礼拝メッセージ「主イエスの十字架」

 2023年04月02日(日) 受難の主日 

イザヤ書:50章4〜9 

フィリピの信徒への手紙:2章5〜11 

マタイによる福音書:27章11〜54

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今週から聖週間に入ります。その頂点はすべての人の救いのために、主イエスが十字架の死から永遠の命へと過ぎ越す聖なる3日間です。最後の晩餐と洗足の教えの聖木曜日。主の受難と十字架の死の聖金曜日。そして金曜日の日の入りから土曜日の日の入りまで、教会は主の死をしのび、続いて復活前夜祭であるイースターヴィジル(この礼拝は日本のルーテル教会では三鷹の神学校で行われます)を経て主の復活の朝をむかえます。

 今日の聖書朗読では、主イエスの受難物語が読まれます。多少のニュアンスの違いはありますが、すべての福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)がそれを伝えていることからも初代教会にとって、主の受難がどれほど大切な意義をもっていたかがわかります。

 受難と死を通って主キリストが復活の栄光へと過ぎ越していく物語は、主イエス・キリストの生涯のもっとも中心的な出来事です。今日の礼拝では、キリストの受難の出来事が少しでも自分たちの出来事として感じられるように、朗読の役割を分担して聖書の人物になっていただいて福音箇所を読みたいと思いました。皆さんにはご自分の役割のところを声にしていただきました。どうでしょうか、この物語の中に入り込めましたでしょうか。みんなで本気になって「十字架につけろ」と叫ぶと伝わってくるものがありませんか。

 何故主イエスは十字架につけられたのかですが、それは、ユダヤ人の宗教的な権威者たちが主イエスを殺そうと決めたからです。その理由はいくつかあげられます。エルサレムに入城した主イエスを群衆がメシア(救い主)として大歓迎していること。主イエスが自分たちの権威や神殿の秩序をないがしろにするような発言をしたこと。主イエスが自分を神の子だと主張したことなどから、これでは自分たちの宗教秩序に対して大変おおきな妨げになるということで、イエスを排除すべきだと決めたからです。

 ユダヤ人の宗教的な権威者たちは初めからイエスを亡き者にしたいと思っていたわけですけれども、しかし死刑を執行する権限はローマ帝国の総督であるピラトにしか与えられておらず、ユダヤ人は十字架刑を執行できません。そこで彼らは夜中に形だけの裁判を開いて、次の日の朝、イエスを総督ピラトに引き渡すことを決定しました。

 ユダヤ人たちにとってイエスがメシアであるということは宗教的、教義的な問題です。ただしメシアであるということは、イスラエルの王として支配する者という政治的な意味でもあるので、それはローマ帝国にとっては反乱者とみなされます。

 ユダヤ人たちはこれを利用してイエスをローマの裁判にかけさせ処罰させようとたくらみました。今日の福音はそこから始まります。

 ユダヤ人の指導者たちから、「イエスは自らユダヤ人の王であると称した」という告発を受けた総督ピラトは、これは一応重大なことだというわけで、まず、イエスに向かって「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねるわけです。しかし、ピラトはイエスという男は単なる夢想家に過ぎないというくらいにしか思っていません。ローマ帝国にとってなんら実害を及ぼす人間でないことを実はよく分かっていました。ピラトにとっては騒ぎや暴動を起きず平穏であることが重要でした。

 ピラトはイエスに過ぎ越し祭の恩赦を与えて解放したかったし、民衆もそれを望むだろと思っていたわけですが、ところが、宗教的権威者たちは、群衆をそそのかして、強盗のバラバでなく、イエスをこそ十字架につけろとみんなで騒いだわけです。

 ユダヤ人の指導者たちがもし真理に従っていたならば、主イエスをローマ帝国の総督に渡すなんてことはできなかったはずです。またイエスに何の犯罪も認めていなかったピラトもイエスをローマ帝国への反逆罪のかどで処罰するなんてことはしなかったはずです。ここには目の前の利害のために、自分が本来大切にしていたはずの思想や原理原則をいとも簡単に投げ捨ててしまうという、そういう人間の罪の姿が現れていると思います。

 また、主イエスとピラトの間での真理をめぐる問答というのは、政治において真理がどのように働くのかという人類の歴史や運命にとっても、本当はとても重大な問題が提起されているというふうにも見ることができると思います。

 マタイは、鞭打たれて疲労困憊し、憔悴した主イエスの姿にこそ人間そのものの姿が現れているということを言いたかったんじゃないでしょうか。その主イエスの姿には強い者の犠牲者として踏みつけられて、冷たく、理不尽な、社会や人々から打ち捨てられた者の苦しみというものが現れていないでしょうか。

 あるいは無力な者を踏みつける権力者たち、そういうことをする加害者である側の非人間性というものも現れていないでしょうか。それは人間が神から目をそむけた有様だと言えます。自分が世界を支配して王になろうとするエゴというものが現れているのだと思います。それは私たち人間にとっての最も深刻な罪です。

 主イエスは十字架につけられて苦しみ、最後に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのか」という言葉を叫んで死ぬわけですけれども、この主イエスの叫びをどういうふうに解釈するかが問われます。

 これは詩編22編の最初の言葉だと言われますが、その詩編22編をずっと後の方まで読んでいくと、神をほめたたえる内容に変わっていきます。ですから主イエスは詩編22編をとなえて、神をほめたたえたのだと解釈されることがあります。

 少なくとも主イエス個人の人間的な絶望の叫びであったというわけではないと思います。やはり、先程言ったような、人々から理不尽な扱いを受けることによって苦しむ人々、すなわち、神がいない、神の真理がない社会や世界において苦しむ人々すべての嘆きを主イエスは自らが引き受けて担われたのだと言えるのではないでしょうか。それが十字架の上での主イエスの死であると思います。

 そのことを第2朗読のフィリピの信徒への手紙では、神と等しい存在であったイエス・キリストが自分を無にして、自らの自由意志で私たちの中に入ってきて、人間と等しくなられて、その苦しみを受けたということが言われています。

 当時の社会の奴隷の立場を考えてみれば、これは驚くべきことだったということがわかると思います。奴隷というのは、その身分は生まれながらに決められてしまっていてどうにもできない。運命の名のもとに縛り付けられているのです。しかし、主イエスは、その奴隷の立場に自ら入ってこられて、さらにそれ以上に悲惨な十字架の死に向かって従順に歩んで行かれました。

 そこに神の自由があるということがこのフィリピ書では言われています。私たちも、この主イエスの神に対する自由を自分のものにすることによって、本当の自由に至るということが言われているのだと思います。

 そして主イエスの十字架と復活において、死を前にしての本当の希望というものが生まれたのではないでしょうか。それは死に勝利することであり、復活することを信じることです。それがキリスト教なのだと思います。

 死は真っ暗闇なものかもしれません。それは神秘に違いありません。しかし死とは実はすべてを包み込むものなのではないでしょうか。宇宙は把握できないほど大きいけれども、神はもっとそれよりも広大で、すべてをお造りになった神秘なる方です。その方が静かに私たちを迎えて歓迎してくださる。私たちは主イエスによってそういうことを信じることができます。

 命が終わろうとする時、私たちは死を恐れて不安になって、この世の虚しいものにより頼んで、すがろうとするのではなくて、理解不能な死というものに入って行くときにも、もう何かにしがみつく必要はない。もう戦う必要もない。あれこれいろんなことを、追い求めて、あれをやろう、これをやろうとする必要もない。ただあるがままで、よりどころとなるものを何も持たずにそこに入っていくことによって、けれども本当に祝福されて、この世の旅路を終えて、本当の自分の家に帰る、天の家族に迎えられるということを信じることができる。永遠の命を生きるのだと希望することができる。主イエスの十字架の死と復活によって、それをしっかり捉え直すのがこの受難の主日なのだと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

明るさの中の闇、暗さの中の光  江藤直純牧師

 2023年4月2日 主の受難     ルーテル小田原教会

イザヤ50:4-9a;フィリピ2:5-11;マタイ26:14-27:66

1.

 毎週毎週教会で、しかも全世界の教会で、さらには過去二千年間にわたって、私たちの主、世界の救い主はこの人の下で苦しみを受けたと公に告白されるとは、ご本人からしてみれば、「頼むからもう勘弁してくれよ」と言いたくなるのではないでしょうか。「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ」これは使徒信条の一節です。ニケア信条では「ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け」という文言で唱えられています。主イエスの受難の元凶はピラトだと言っているようです。たしかに彼は当時のローマ帝国のユダヤ属州総督で、主イエスの死刑の最終的な責任者でした。歴史上の実在の人物です。当時の制度では、ユダヤ人には死刑の判決を下し、執行する権限はなく、ただ総督にのみあったのですから、「ポンテオ・ピラトの下で」と言われても仕方はないでしょう。

 しかし、マタイ福音書が書き記している裁判の成り行きを見れば、彼にすべての責任を負わせることは適切ではないでしょう。むしろ、彼はなんとかしてイエスさまの死刑を避けようとしていたようです。しかし、祭司長や長老たちに扇動されて興奮した群衆の「イエスを十字架につけろ」(27:22,23)という叫びに気圧されて、「群衆の前で手を洗って」「わたしには責任がない」(27:24)と猿芝居を打った上で、処刑を許したのでした。

 それでは、イエスさまの十字架刑の責任は群衆にあるのでしょうか。僅か数日前には「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(21:9)と歓呼の叫びを挙げていたあの群衆に。

 いえいえ、愚かな彼らを巧みに扇動したユダヤ社会の指導者たち、祭司長や長老や律法学者たちにこそ十字架の責任があるのではないでしょうか。彼らは群衆を扇動したばかりか、総督ピラトさえも脅して死刑の判決を勝ち取ったのです。あるいは、無抵抗のイエスさまを十字架に釘付けし、槍で脇腹を刺すという処刑の実行者である兵士たちが責任を負わされるのでしょうか。

 前の晩にゲッセマネの園で「苦しみもだえ」「汗が血の滴るように」落ちる中を「いよいよせつに祈っておられた」(ルカ22:44)イエスさまと共に祈ることができず眠りこけてしまった弟子たちは主の十字架の苦しみと無縁でしょうか。この方のためならたとえ火の中水の中にでもと力んでいたのに、イエスさまを守ることができなかったばかりか、巻き添えを恐れてゴルゴダの丘から逃げ出した弟子たち、その代表格でありながら三度主を否んだペトロやその他の弟子たちは何の責めも負わないでいいのでしょうか。

 そして、忘れてはならないのが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのどの福音書も十二弟子の紹介の時に、その最後に決まって「イエスを裏切った」と書き足しているイスカリオテのユダです。とくにヨハネ福音書には彼への悪意、憎しみが籠もっているようです。『広辞苑』を引くと、「ユダ」の項では、十二使徒の一人で裏切ったと記した後、②「転じて、裏切者、背教者」と書かれています。そうならば、この人こそが主イエスが十字架にかけられたことに最も重い責任があるのでしょうか。世間でも教会でもそう思われているようです。

2.

 そう評価し、そう判断することは簡単ですが、本日はこのユダという人間についてしばらく思いを巡らせてみましょう。先ず、いくつかの客観的な事実を確認しましょう。彼は正真正銘の十二弟子の一人でした。しかも、志願してきた「押しかけ弟子」ではなく(もちろん熱心さは当然あったでしょうが)、イエスさまがお選びになったから弟子になったのです。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」とヨハネ6章(70節)にあり、さらに15章でも再度「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)と仰っています。そのような「選ばれた」一人だったのです。

 彼の名は「イスカリオテのシモンの子ユダ」(ヨハ13:2)です。諸説あるにしろ、イスカリオテがイシュ・ケリヨトに由来するならば、ユダヤの村の一つ「ケリヨト」の「イシュ(人)」ということになります。すると、彼はイスラエルの南のユダヤの出身ということになり、十二弟子の大半は北部のガリラヤ地方の出ですから、やや珍しく思われます。彼がどういう経緯でイエスさまと出会い、その弟子集団に加わったのかは知る術がありませんが、きっとイエスさまの明確な選びがあったのではないかと推測されます。

 もう一つ覚えておきたいことは、ユダの弟子集団の中での役割は「会計係」だったということです。男だけでも13人、それにガリラヤ以来一行の世話をしながらずっと従っていた女性たちがおそらく5人以上はいた(ルカ8:2-3)ことを思うと、その大所帯の生活と旅を管理・手配し、経済的なやりくりの責任を負っていたとすれば、ユダはかなりの実務能力があり、また財布を預けられるだけの信頼を得ていたものと想像されます。漁師であり情熱的で一途なペトロなどのリーダーたちと比べるとかなり異色な存在でした。

 十字架の出来事から30年以上あるいは5,60年近く経った後、裏切り者という評価がすっかり定着してから書かれた福音書には、ユダへの手厳しい、ときに憎しみさえ込められた記述が見られますが、十字架に至るまでの数年の間はユダがいつも白い目で見られていたということはなく、弟子集団にとって、それだけでなくイエスさまにとってなくてはならない人間だったと思って間違いはないと思われます。ユダもイエスさまを敬愛していました。

 しかしながら、彼が最後の晩餐の席からそっと去ったこと、その前日か前々日に祭司長たちのところに行き、銀貨30枚で主イエスを売り渡す秘密の取引を交わしていたこと、食事の後の夜ゲッセマネの園での祈りの後、逮捕にやってきた人々に対して、接吻という親愛の情を表す行為によって、この人がイエスだと教えたことも取り消せない事実です。

 夜が明けたところで、イエスへの有罪の判決が下ったことを知ったユダは「後悔し」、もらっていた銀貨を返そうとし、受け取ってもらえないと、「神殿に投げ込んで」、「首をつって死んだ」(マタ27:2-5)のでした。これがユダのやったことです。しかし、「わたしは罪のない人」を死に追いやったことをすぐに後悔したことを思うと、もともとイエスさまへの深い信頼・尊敬・敬愛の念をもっていたことは疑えません。

3.

 さて、イエスさまがおめおめとこのユダに裏切られることになると予め分かっていなかったのならば、それはずいぶんとうかつだったのではないでしょうか。神の子なのに、と思われるでしょう。しかし、そうではありません。福音書を読めば、ほかの弟子仲間はだれ一人気づかなくても、イエスさまだけは彼の裏切りをご存じだったことは明らかです。過越の食事の中での会話にははっきりとそう書いてあります。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(マタ26:21)と。

 しかし、不思議に思えますが、その言葉を聞いても、その後ユダがそこを抜け出して行っても、11人の弟子たちの中のだれ一人として、彼が裏切りの実行のために動き出したとは気づかなかったのです。追いかけて止める人もいませんでした。今日の聖餐式の原型となるパン裂きとぶどう酒の回しのみが行われ、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(26:30)。弟子たちは悲壮な覚悟でというよりも、過越祭の食事を終え、昂揚した気分でまた明るい表情でふだんの祈りの場へと出向いていったのでした。

 イエスさまにとっての「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され」ること、それで終わらず「三日目に復活する」(マタ16:21)ことは早くから覚悟しておられ、弟子たちにも二度三度と予告なさっていたことでした(17:22, 20:18-19)。イエスさまは口にこそ出してはいらっしゃいませんが、殺されるまでの過程で、弟子の一人が裏切るということも承知していらっしゃったかも知れません。誰かが引き金を引かなければならないのは自明だからです。

 しかし、繰り返しますが、イエスさまはご自身の十字架への道のりを自ら止めようとはけっしてなさいませんでした。十字架は生まれたときからイエスさまに与えられていた神からの使命だったのです。マタイ福音書は東の国からやってきた学者たちが持ってきた捧げ物の中に遺体に塗る「没薬」があったことを記しています。神の子は地上で十字架の死を死ぬことにより人々の救い主となることが定められていたのです。

 主イエスはユダがあれほど愛され信頼され期待されていたのに、最後の最後で悪魔に魅入られ裏切りの実行犯になったとき、万事を承知で「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハ13:27)とおっしゃったのです。十字架は神からの使命だったからです。

4.

 神の国の福音を告げ広めるために、また愛と癒しのわざを行うために、イエスさまは弟子たちを召し集め、寝食を共にし、宣教の働きをつぶさに見せ、実際その訓練をなさって、後事を託すおつもりでした。そのために召されたのがペトロであり、ヨセフやヨハネであり、トマスであり、そしてユダだったのです。一人ひとり個性は違い、能力や得意とすることも弱いところも欠点も異なり、経歴もそれぞれですが、一つだけ共通のことがありました。それは、その誰もが間違いなくイエスさまに選ばれ、召し出され、弟子として訓練され、福音宣教へと派遣される人たちであったということです。端的に言えば、イエスさまに愛されていました。人間的な、或いは信仰的な不完全さを抱えていてもそうなのです。いいえ、不完全さを、弱さを、罪を抱えているからこそ、罪赦され、救われるのです。愛されるのです。彼らは、人が生きていくのにはどうしても神が必要であり、事実神の恵みによってはじめて生かされていることの生きた見本でした。

 弱さを抱えた弟子たちは、愚かさそのものの群衆は、憎しみに満ち満ちていた祭司長や長老たちは、自己保身に凝り固まっていたピラトは、そしてなかんずく悪魔に負けて主を敵に売り渡したユダは、だからこそイエスさまの赦しがどうしても必要であり、救いが与えられなければ生きていけないのです。愛されなければいのちが保たないのです。彼らがあのような彼らだからこそ、イエスさまの十字架が必要だったのです。ユダがあのように一時的であるにせよ悪魔に入り込まれ裏切りをしてしまうユダだったからこそ、十字架が、罪赦しが彼のために必要だったのです。

 私は思います、なぜ彼の名前はユダだったのかと。イスカリオテのマタイでもよかったはずです。ペトロでもよかったでしょう。でも、彼の名前はユダでした。ユダと聞いて何を連想するでしょうか。そうです、ユダヤです。ユダヤ人、神の民です。ユダはユダヤ人を、神の民を代表しているとは考えられないでしょうか。神の民とは全世界の人々、神の被造物である人間全体に祝福をもたらす(創12:1-3)ために選ばれた民のことです。ユダは選ばれかつ罪を犯す神の民を象徴的に表します。大きく言えば、全世界の人々の代表ということになるでしょう。

 主の死とは彼らに罪の赦しと救いをもたらすための十字架の死だったのです。そうであるならば、この十字架の死とそれによる罪の赦しと救いとが、その代表あるいは象徴であるユダに与えられないはずはないのです。ルカが書き残している十字架上の主の言葉の一つ、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:

34)の「彼ら」の中にユダが入っていないはずはないのです。むしろ、いの一番に入っているのです。もちろん、弟子たちも、群衆たちも、祭司長や長老たちもピラトも含まれます。ユダを演じ、弟子たちや群衆や祭司長・長老たちを演じ、ピラトを演じた私たちも同じことです。最後の晩餐にも招かれ、キリストの体とその血に与るのです。

 神の民を象徴的に表すユダが神の前の罪と神による罪の赦しを証ししているように、異邦人を代表するローマの軍人、百人隊長は十字架の一部始終を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と告白しました。異邦人である私たちもまたこの告白と賛美の列に加わりましょう。アーメン