2023年2月26日日曜日

礼拝メッセージ「四旬節の心構え」

2023年02月26日(日)四旬節第1主日  岡村博雅

創世記:2章15〜17、3章1〜7 

ローマの信徒への手紙:5章12〜19 

マタイによる福音書:4章1〜11

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 ルーテル教会は、先週の灰の水曜日から四旬節に入りました。教会の伝統では四旬節は復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための期間でした。私たち信仰者にとって洗礼は、主キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生き始めることを表すサクラメントです。四旬節は洗礼志願者のための季節として始まりましたが、今ではキリスト者全体が主キリストの死と復活にあずかるための期間となっています。四旬節は救いの時、節制の時ですが、同時に恵みの時であるということがとても大事だと思います。

 私は小田原教会でも湯河原教会でも、今回洗礼をお受けになる方はおられないだろうと思っていましたところ、先週のこと、ご家族が入院しておられるという方が訪ねてこられ、お話を伺いました。

 病院のチャプレンと話したいと望まれたが、ドクターから、今チャプレン制度はいないので、ご自分で探してくださいと言われ、教会を訪ねてきたということでした。

 ご自分は無宗教でどうしていいかわからないというその方に、人をお造りになった神は、主イエス・キリストによって、あなたを救い、ご家族を救おうとしておられます。教会の門をくぐられたのは、偶然ではなく、神があなたを愛し、家族を愛しておられて、ここに招かれたからですと信仰入門のお話をしました。

 ご家族にそうした話を伝えたところ、牧師に会いたい、そしてできるなら洗礼を受けたいということでした。そこで今週、病室をお訪ねする約束をしました。復活の主は生きておられる。いつも私たちに先立って働いておられることを、身を持って感じる機会となりました。

 さてこの四旬節第一主日のテーマは何でしょうか。それは罪とは何か?原罪とは何か?ということだと思います。今日の第一朗読は創世記の初め、エデンの園におけるヘビと女のやり取りです。ヘビは女に誘いかけます。(3:4-5)「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」このヘビの言葉が重要です。罪の原点は、神の代わりに自分が神になってしまうことです。罪を犯す時は、私たちは自分のエゴが中心になっています。そして神の場所に神はいなかったことにして、そこを空っぽにして、そこに自分のエゴを置く。これが神に対する罪、原罪というものの根本的なありさまです。私たちの誰もがこういう体験があるのではないでしょうか。

 この罪によって、エデンの園は荒廃していきます。パラダイスであるはずだった「エデンの園」は「荒れ野」に変わってしまったというわけです。創世記の物語の中では、続く4章でカインとアベルの兄弟殺し、そして神の怒りの洪水と「ノアの方舟」の物語、さらにバベルの塔の物語と続き、そしてこの荒れ野の連鎖は今に至るまで続いています。

 2月24日はロシアがウクライナに軍事侵攻して1年目でした。ミャンマーにおいても民主化を求める人々が弾圧を受け続けています。あるいは日本においても、特に政治のリーダーたちや犯罪者たちの中に荒れ野が続いていると言えるでしょう。

 そして第二朗読のパウロのローマ人への手紙の5章では、サタンの誘惑に負けて、エデンの園から追い出された罪の人アダムと、それに代わるサタンに打ち勝った新しい人間、イエス・キリストのことが語られます。アダムは罪に囚われている人間の代表であり、主イエスはそれに対して罪の囚われやしがらみから開放された新しい人間の代表です。

 アダムの子孫であったイスラエルの民は、神との約束の地に入るために40年間「荒れ野」を彷徨いましたが、それはエデンの園を追い出された人間の有様を象徴するものでもあると思います。

 主イエスが荒れ野に導かれてサタンの試みを受けた期間が40日。イスラエルの民が荒れ野を放浪した苦難と試練の期間が40年。四旬節は、これらの40という数字に、主イエスと私たちの歩みとが重ね合わされています。

 荒れ野の旅を続けたイスラエルの民は、神の約束による安住の地に導かれた後も律法を破り、神をないがしろにします。罪人の道を歩み続けていくその歩みは、神を忘れている私たちの歩みでもあることを思い起こします。そして神に立ち帰るということが、この四旬節に私たちに呼びかけられています。

 福音書箇所に入ります。悪魔は三度にわたって主イエスを試みました。悪魔とは人格化された悪の根源にある力です。人間を神から引き離そうとする力です。

 主イエスの悪魔との戦いは、生涯の最後まで絶えることのない一生の戦いでした。それは私たちの歩みでもあります。その戦いは私たちの人生にとっても模範になるものです。

 その悪魔との戦いの中心は何でしょうか。それは神との関係という点だと思います。私たちは神との関係がどうかということを普段の生活の中で、どうも無視しがちです。それによってますます罪のしがらみと苦しみに苦しむことになってしまうということなのだと思います。

 さて、主イエスが受けた第一の誘惑はパンの問題でした。悪魔は、「もしあなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ4:3)というわけです。ここで悪魔は主イエスが神に願い求めるのではなく、主ご自身に、神と同じような力を発揮させるということに導こうとしています。

 この誘惑も次に来る二つの誘惑も、またすべての罪においても、先程見た原罪が、共通にあります。それは神を試みるということです。神を見ないことにして、神を追い出して、自分の力を信頼する。「自分」がすべての中心であり、神の座につくものだとなるように人間をそそのかす。これが悪魔のわざの核心にあるものです。

 主イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と言いますが、私たちの置かれている現実としてはむしろ「人は言葉だけで生きるものではない」でしょう。人はやはりパンで生きている。これが多くの人々の感覚ではないでしょうか。けれども、ヨハネ福音書では主イエスこそが「命のパン」(6:35,48)だと言われていおり、本当の解決はそこにあります。神の祝福なしには、パンも、パンによって支えられる命も虚しいものです。神の望みと一つになった力の源としてパンをいただくということこそが、本当の命の充実だということをヨハネ福音書は言おうとしています。

 主イエスが受けた第二の誘惑は5節です。主を神殿の屋根の端に立たせて、「そこから飛び降りて、神が救いに来るかを試してみろ」というわけです。ここでも悪魔は主に神を試みさせようとしています。神が自分の歩みを最後まで導き支えてくださっているのだということを信じ抜くということが、できるのかどうか、そこが問われるわけです。

 主イエスが受けた三つ目の誘惑は何かというと、8節にあります。悪魔が高い山につれていって、この世のすべての栄耀栄華を見せて、そのさまざまな喜びに引きずられるかどうか、それによって神から離れていくかどうか、神の栄光よりもこの世の喜びを選ぶかどうかというところを突いてくるというのがこの三つ目の誘惑です。

 ここで言われているこの世の栄耀栄華を選ぶのであれば、神の代わりに悪魔を礼拝しろというわけです。それは最も恐ろしい荒れ野をもたらすわけですが、今世界を見渡せば、そこに人々がどんどん巻き込まれていくということが続いていることが分かるのではないでしょうか。

 このように悪魔の誘惑は神を私たちの視界から遠ざけようとします。神を見失わせようとします。これに対してどういうふうに対処したらいいのかというとそれは主イエスが示されたように一つしかありません。神の力を示すことです。

 勇気をもって悪魔に「退け」ということ。主イエスのように主なる神のみを礼拝して、神のみを信ずるということをはっきり決心して、そこで生きていくことです。しかしそこのところが悪魔によってうまく隠されてしまっています。悪魔の誘惑が巧みであるために、現実世界ではうまくいかないということが続くのだと思います。

 今もやはりこの世の「荒れ野」が、世界の中にも、日本の中にも、あるいは私たちの心の中にもあると思います。私たちを神から切り離そうとする悪魔の力は今も働いています。しかし主イエスはこの悪魔の誘惑の力に打ち勝ってくださいました。私たちは主の勝利にあずかり、主の後に従っていくことができます。この恩寵に感謝します。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年2月19日日曜日

礼拝メッセージ「主イエスの変容」

 2023年02月19日(日)主の変容主日   岡村博雅

出エジプト記:24章12〜18 

ペトロの手紙二:1章16〜21 

マタイによる福音書:17章1〜9

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは今週の22日、灰の水曜日から四旬節に入ります。四旬節はこの期間、主イエスの弟子として、私たちが「主の受難・死・そして復活にあずかる」ことがテーマです。このテーマに具体的にあずかるために、四旬節にはいつも以上に主の受難と復活に心を向けて祈り・日頃の生活を節制し・愛の行いに励もうと呼びかけられています。

 ある兄弟姉妹がこう言われました。「自分は、四旬節の時を過ごす心構えは、ある意味で、自分を生きるのに苦しい、ぎりぎりのところに置いてみることだと思う。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみる。だからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟姉妹と連帯しようという思いが湧いてくる」。そう伺って、今、特にこういう思いは大切だと感じました。

 世界はコロナウイルスによるパンデミックを克服できておらず、ウクライナへのロシアの軍事侵攻が続いており、ミャンマーの軍事政権は弾圧を強め、さらにはトルコ・シリアの地震により、未曾有の被害がおこり、国際社会からも懸命な援助がなされています。湯河原教会としても、ウクライナ支援の献金に続き、シリア・トルコへの支援献金を行おうとしています。多くの人々が苦しみと悲しみの中にあるこのような時に私たちが四旬節を過ごすことに主の御心を思わずにおれません。

 今日の福音の7節で、主イエスはご自分の方から弟子たちに近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない」と励ましておられます。触れられた手の温かなぬくもり、それは主の福音そのものです。私たちは主からこの慈しみを受けています。今日は主の変容の出来事から聞いてまいりましょう。

 今日の第一朗読である、出エジプト記24章にはイスラエルの民がモーセを通じて、どのようにして神の教えと戒めが記された石の板を授けられたか、その次第が語られています。十戒を授けられたのはモーセ一人だけですが、モーセは途中まではアロンとナダブ、アビブと70人の長老たちを連れて主なる神のもとに上ったと24章に記されています。

 主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて、高い山に登られました。なぜ三人なのか、申命記19章15節には、「二人ないし三人の証人の証言よって、その事は立証されねばならない」とあります。主は、この三人を、主の変容のできごとの証言者になさろうとしのだと思われます。

 福音書記者のマタイはモーセのシナイ山での出来事と、主の変容の出来事とを比べています。神の栄光を見たモーセの顔の肌は神の栄光を反射して「光を放っていた」(出34:29)と言います。一方、マタイは主イエスの顔が「太陽のように」輝いたと表現します。太陽は自ら輝きます。つまり、主の輝きは、モーセのように神の光りを反射しての輝きではなく、まったく光そのものとして輝いていたというのです。

 この主の顔の輝きは黙示録1章16節の「顔は強く照り輝く太陽のようであった」という復活のキリストを思わせるものです。マタイは主イエスこそが、新たなモーセとして、神への道を指し示し、死を乗り越えて永遠の命をもたらす方だと証言しているのです。

 第二朗読にあるように、この時にその場にいた証言者の一人として、ペトロは、「わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではない。わたしたちはキリストの威光を目撃したのだとその手紙に(2ペト1:16)書いています。ペトロはその手紙に「聖なる山」で自分が主イエスと共にいたときに見たこと、聞いたことを偽りなく語り、それが預言の成就であること、そして「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」と宣言します。

 さて福音書に戻りますが、マタイは、主イエスがモーセとエリヤと共に話し合っているのを見たペトロが、いきなり「口をはさんで」、「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」(4)と言ったと書いています。

 それはペトロが、モーセとエリヤが目の前で主と話し合っているという夢のように素晴らしいこの今の状況がこれからもずっと続けば良いと、とっさに考えたからに違いありません。その時のペトロの心の思いはきっとこんなふうだったのではないでしょうか。

 ここは本当に素晴らしい。主を悪しざまに言う者どもも、十字架などという不吉なことも届かないこの場所で、この光りに包まれて、小さな小屋を建てたらいい。そしてここを、岩の上に建てられる教会とやらの拠点としたらいい!そうすれば安泰だ・・・ああ、この光!この平安!もうここを離れたくない。ここにいよう。主が口になさる十字架などはまっぴらだ!

 そうだ、仮小屋を三つ建てよう。一つは主のため、一つはモーセ様に、一つはエリア様に。そして主よ、ここにズーットいましょう。こんな素晴らしい所はありません。

 無我夢中で主の方に這いずり、近寄りながらこんなことをペトロが口走っていると、まるで、神がペトロの考えを遮断するかのように、「光り輝く雲」が彼らを覆いました。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえたとあります。

 この「光り輝く雲」は、その昔奴隷の地エジプトからの脱出の際に記された雲、イスラエルの民に臨んだ全能の神の栄光の雲です。神の臨在の象徴です。光にあふれる雲が、ただでさえ輝き渡っているそのあたり一面に垂れ込めてきました。

 それまで、神が自分たちに何をなしたか、これから神がイエスに何をさせようとされているかということについて、弟子たちに語って聞かせたモーセとエリアの声は消えて、代わりに一切を告げる神の声が、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者、これに聞け」という神の声が雲からとどろくように聞こえたのでした。

 この声は主の洗礼を思い起こさせます。このように主の洗礼のときも、この山上の変容のときにも、視覚的に、そして聴覚的に神が介入されたことがよく分かります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という神の示しが向けられた相手は、受洗の時は洗礼者ヨハネであり、変容の時は弟子たちです。

 ペトロたちは思ったでしょう。洗礼者ヨハネは主の洗礼の時、神の声を聞いたのだ。そして聖霊が主に下るのを見たのだと気づいたペトロたちは、同時に、今自分たちは神の前に主の変容の証人として選ばれたのかと気づき、初めて大いなる畏れに捉えられたと思います。

 とどろく声が長い尾をひいて消えていった時、ペトロたちは地上が普通の地上に戻ったことを感じました。地にひれ伏していた顔に、土の匂いや地面の固さを感じた時、一つの手が肩にやさしく置かれたことを感じました、それは主イエスの手でした。 

 神の臨在を知り、畏れおののいてひれ伏した弟子たちに主イエスご自分の方から近づきました。マタイ福音書の登場人物たちは、だいたいは人々の方が、畏敬の念をだきながら、主イエスに近づこうとします。しかし、ただ二回だけ、主イエスが自ら、人々の方に近づいていかれます。それは今日の福音箇所と、もう一つは28章18節です。28章では復活した主イエスが弟子に近寄り、宣教へと派遣するにあたり「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。マタイはこのイエスがご自分の方から私たちに近づいてこられるのだということを、とても大切な主イエスの本質だと捉えたのではないでしょうか。

 マタイは、変容の出来事は復活の出来事に結びあい、つながっていると示してくれています。復活した主イエスは、いつも、どんなときにも弟子たちと共におられます。私たちと共におられます。主の変容はただ主イエスの神秘を垣間見せただけでなく、宣教に取り組もうとする教会を励ます出来事でもあります。

 主の変容を目にしたペトロの理解は間違ってはいませんでした。けれどもその当時は表面的で信仰の深みに欠けるものでした。だからこそ光り輝く雲から神が声をかけ、「これに聞け」と理解の不足を補ってくださいます。私たちも「これに聞け」という声を聞きます。主イエスは私たちに寄り添い、優しく背中に触れて助け起こしてくださいます。宣教に向かう弟子たちは、この主イエスと一緒です。この主が今日もあなたと共におられます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年2月12日日曜日

礼拝メッセージ「主の愛による完成の道」

 2023年02月12日(日)顕現後第6主日

申命記:30章15〜20 

コリントの信徒への手紙:3章1〜9 

マタイによる福音書:5章17〜37

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイによる福音書の5章から始まり7章に終わる主イエスの「山上の説教」は「八つの幸い」を負う者に「あなたがたは地の塩である、世の光である」ということが言われました。主から、その祝福を受けた人々に求められるそれぞれの生き方についての教えが続きます。そこには主イエスが「律法や預言者を完成する」というメシアとして使命と目標が示されています。私たちが日々どのように生きたらよいか主イエスから聞いてまいりましょう。

 今日のコリント書にあるように、初代教会の中で、どのように教会を作っていくかということを巡って、「私はパウロにつく」、「いや私はアポロだ」というように、いわば派閥争いが起きたのでしょう。パウロは「お互いの間にねたみや争いが絶えない」(1コリ3:3)ことを嘆いています。しかしそんな彼らを諭して、パウロは3章9節、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と、神のために力を合わせて働こう、あなたがたは世に恵みをもたらすもといなのだと励ましています。これは私たちへの励ましでもありますし、今日の福音箇所につながるものだと感じます。

 おそらく、マタイの教会でも信仰者たちの間で意見の対立がおきたと考えられます。そのマタイの教会で、最も大きな争点になったのは、モーセの「律法」をめぐる問題だったでしょう。

 律法は、神がモーセを通して、エジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民に与えた掟です。律法の前提には神のこの救いのわざがあり、律法の中に示されるのは、神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか、ということです。

 また「預言者」はその時代、その社会の中で神からのメッセージを告げるために選ばれた人々でした。ですから17節の「律法や預言者」は旧約聖書全体を指す言葉です。そこに神の意思・望み・み旨が示されていると主イエスの時代のユダヤ人は信じていました。

 主イエスが福音宣教をしていた当時、ユダヤ教の指導者たちは、主イエスの態度に不満を持ち、攻撃しましたが、それは『イエスは律法をまるで無用なものように扱った。イエスは律法を破棄した不信仰な者だ』と誤解していたからだと考えられます。

 そして復活の主イエスの昇天後に初代教会が始まってからは、パウロの手紙にも見られるように、マタイの教会でもその内部では争いがおきたと思われます。それは律法を遵守することを救いの条件と考える保守派のグループと、その他に律法はイエスによって無用とされたのだから、律法は捨て去ることができると考えるグループもまた存在したと思われます。マタイはこうした人々が主イエスを誤解していることを知り、それを正すために17〜20節を記したと思われます。では、そこで主イエスが述べる「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」とは、どういう意味なのでしょうか。

 ファリサイ派やその派の律法学者たちは主イエスの宣教活動の主要な場面には必ず登場します。彼らは熱心に律法を学び、律法を守ることこそ、神に従う道であると確信していました。

 主イエスも律法や預言者を否定しません。しかし、主イエスの律法に対する態度は、律法学者やファリサイ派の態度とは明らかに違っていました。律法学者たちは、主を十字架に追い込んでいく上で大きな役割を果たしましたが、その対立の原因は「律法」の理解にあります。それぞれの「律法」に対する考えが大きく違っていました。では、主イエスは、そして律法学者たちは、「律法」をどのように理解していたのでしょうか。

 当時のユダヤ教徒たちは、モーセから伝えられた律法を尊び、それをどのように日常生活の行いや作法によって具体化するかについて、知恵を尽くして非常に細かい掟の体系を作り上げました。けれども貧しさや、仕事がらなどからそうした掟に従えない人々を仲間はずれにしていました。それは主イエスの目から見れば、彼らは掟を表面的に、文字通りに守ることにこだわり、その本質を見失っていると見えます。主イエスと律法学者たちが、するどく対立している場面では、必ずと言ってよいほど、今目の前で、苦しんでいる人、悲しんでいる人へのまなざしが問題になっています。

 杓子定規で、硬直した律法解釈でその人を裁く律法学者たちのまなざしは冷たいです。逆に主イエスのまなざしは、優しさにあふれて、一人ひとりの人をいとおしみ、その痛み、苦しみ、悲しみに共感し、その人のありのままを包み込もうとしています。律法学者たちに対する主イエスの辛辣な言葉は、「今、目の前にいる」気の毒な人が無視されることに対する憤りからのものだと思われます。

 マタイが書き記したように、主イエスは十戒などに定められた、律法を肯定しています。これらの掟は社会の秩序を維持していくための土台です。この世界は、それぞれの権利と義務を尊重するという約束の上に成り立っています。しかし、主イエスは、そこにとどまらず、目を天に上げて、ときには自らの権利を放棄することを求めました。

 21節から37節おいて主は、目を天に上げて律法を見るように、つまり神が望まれる人間の生き方を愛という一点に集中させるように、あなたがたは「愛による完成の道」を生きていくようにと自分の体をもって、行為をもって教えてくださっています。

 言い方を変えれば、ご自身が愛そのものである主イエスは、「この私に現れている神の愛を、信じて、受け入れて、互いに愛し合いなさい」と、自ら実行してみせて、そう言いたいのだと思います。

 ファリサイ派や律法学者たちのように外面的なこととか、掟に頼るとか、自分は正しいと言い張るとか、そういうことではなくて、ほんの少しの優しさで目の前の人を受け入れたり、たったひと言でも励ましたりする。そんなことで、すべてはうまくいく。それこそが神の国だということを、主イエスは言っておられるのだと思います。

 私などは、「人殺しなどしていません」と胸を張るわけですが、主イエスは「いやいや、そういうあなたは、乱暴な車の運転者を『ばかじゃないの』と罵っているじゃないか。目の前の大切なパートナーのことを怒鳴ったりするじゃないかと言われる。これは、最高の掟であるはずのあなたの愛はどうしたんだということにちがいないですね。

 確かに律法には、『人を殺すな』と書いてある。けれども、『ばか』ひと言でも、相手の魂を傷つけ、『愚か者』ひと言でも、相手の存在を否定し、追い詰めます。それは殺したのとおんなじです。いじめ自殺のことを思えばよくわかります。

 律法を守るというのは、外面的なことではなく、まずは神が与えてくださった、心の奥の優しい気持ちを何よりも大切にすることなのだ」と、主はそういうことを言っておられるのでしょう。

 姦通の罪についても、当時はまったくの男性中心の社会で、女性の権利なんてまるで考えない世の中だったので、たとえば、妻がいるのに他の人の妻と関係を持ったら、もちろん「それは罪」ですけれども、それは、その相手の女性の夫の権利を侵しているから罪だと、そういう考え方です。だから、未婚の女性とだったら、罪にならなかった。それを神学校の授業で知って、唖然としたことを思い出します。

 これなんかはもう、「私は律法を守って、姦通の罪を犯していません」などと言ったって、実際には女性をないがしろにしています。相手の気持ちを考えずに、もし自分の都合や自分の欲望だけで生きているなら、もうすでにその状態が罪です。もっとあたたかい心で、優しい気持ちで、もうひとりの誰かと関わるときにこそ、そこに神が語りかけている天の国が実現するのだということを、主イエスは言いたいのです。

 私たちが、神が望まれる人間の生き方をしようと、目を天に上げるとき、そして私たちの思いを、愛という一点に集中させるとき、そこに神の国が生まれてきます。それこそが、私たちが、主イエスに従い、神のみ旨を果たす「愛による完成の道」であり「神による完成の道」だと言えるのではないでしょうか。どこまでも不十分な私たちですが、こんな私たちのままでも神にいだかれ愛されている私たちです。神が望まれるように、主が望まれるように、私たちもきっと愛という一点に立って生きていけます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年2月7日火曜日

「それでも『デアル』」と言われる不思議」   江藤直純牧師

 2023年2月5日 顕現後第5主日  小田原教会

イザヤ58:1-9a;Ⅰコリント2:Ⅰ-12;マタイ5:13-20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 「洗礼」とか「十字架」という言葉は正真正銘のキリスト教の用語です。しかも中心的な意味を持つ用語です。しかしながら、これらの言葉は別にキリスト教徒とかキリスト教に関心のある人にだけ通じる言葉ではなくなっています。高校野球の花形でドラフト一位でプロ野球に入り活躍が期待されている新人投手が開幕早々ホームランを打たれると、新聞テレビは「彼はプロの洗礼を浴びた」というように表現しますし、キリスト教には何の関係もない大多数の読者・視聴者はそれでよく通じるのです。十字架もそうです。人生で大きな苦労を背負わされていると、たとえば医療ミスで大きな障害を負うことになり勉学もましてや就職もままならず悪戦苦闘をしていると、「あの人は十字架を背負って生きている」などと言われ、それを聞く人たちもなんとなく事情を理解することができます。

 洗礼とか十字架とかほどは普及してはいませんが、聖書に出てくる「地の塩」とか「世の光」という言葉もそれなりに知られています。青山学院のスクールモットーは「地の塩、世の光」です。カトリックの学校に光塩女子学院という名の学校があります。光塩は光と塩です。京都には世光教会という榎本保郎牧師が始めた教会があります。世光、世の光です。京都大学には地塩寮という名のYMCA学生寮があります。地塩で地の塩です。これらの名前を見て、少なくともクリスチャンなら「ああ、この名前は聖書から取られたのだな。ここはキリスト教に基づいている施設だな」と気づかれることでしょう。

 実際に聖書を紐解いて、その言葉を読んだことまではなくても、地の塩とか世の光というと受取手にはなんらかのイメージが湧き上がります。塩がピリッと辛いので少量でも味付けするのに不可欠だとか、魚などを塩付けするのは腐敗を防ぐために必要だとか、雪が降るところでは融雪剤として役に立つとか、さらには大相撲で塩をまいたり、葬式のあと玄関で塩を振ってから家に入るとか、宗教的な意味で清めに使われるとかを知っています。

 災害などで辺り一面停電になったときとか、街頭もない夜道を歩くときには、小さなろうそくや今ならスマホについているモバイルライトという小さな照明のありがたさを経験しています。ですから、地の塩と聞き世の光と聞くと、なくてはならない、しかも大切な役割を果たすものだとだれもが容易に想像できるのです。そうならば、「地の塩になれ、世の光になれ」、或いはもう少し穏やかに「地の塩になろう、世の光になろう」と語りかけられると、ミッションスクールでそう教えられると、自然に「そうだな、それはいいことだ。そうなりたいものだ。わたしはクリスチャンではないけれども、そうなるように努めよう」という気持ちになるのではないでしょうか。教会の礼拝でこのマタイ福音書5章が読まれると、牧師は「イエス様は山上の説教の中で、皆さんに地の塩・世の光になりなさいと教えていらっしゃるのですよ。祈りながら、少しでもそうなれるように努めていきましょう」と説教の中で勧めるのではないでしょうか。そうすると、心の中で「アーメン、そうなれるように励みます」と心の中で頷くのではないでしょうか。人生訓として、また座右の銘としても立派なものです。

2.

 宗教というものは、キリスト教であれ仏教であれどんな宗教であれ、それを信じる者たちに人間的な成長を目指し、人格・人間性を陶冶するように努め、欠点を改め、心を豊かにするようにと勧め、それを人生の目標として掲げるように促し、この世的・世俗的価値観からもっと高尚な生き方へと教え導くものだと一般に受け取られています。それが他ならない宗教の役割だと思われていますし、世の宗教はどれもそうであろうとやってきたと思われます。中にはいかがわしい宗教もありますが、長い年月を経る中で、それらは自ずと自然淘汰されてきます。

 ですから、「地の塩となれ、世の光となれ」という教えは、その鮮やかなイメージと共に、また印象的な口調や響きを伴いながら、優れた宗教的な教えとして高く評価され、広く受け入れられているのではないでしょうか。そのことを否定するつもりは全くありません。

 しかし、しかしながら、次のことを見逃したくはないのです。次のことに気づいていただきたいのです。それは、聖書を見てみると、日本語の聖書がそうですし、英語の聖書であれドイツ語の聖書であれ、もちろんのこと原語のギリシャ語の聖書であれ、どれを見ても「地の塩となれ」「世の光となれ」とは書いてないということです。どうぞ、聖書をもう一度開いて見てください。マタイ福音書5章13,14節です。ここには「地の塩となれ」「世の光となれ」とは書いてなくて、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と書いてあるではありませんか。「トナレ」「ニナレ」ではなく「デアル」と書いてあるのです。ということは、主イエス様は「デアル」と仰ったのでした。「あなた方は地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。こうなれと命令されているのではなくて、こうであると宣言されているのです。

 1987年に刊行された新共同訳聖書でも2018年に出された聖書協会共同訳でも同じです。岩波訳だけが「あなたたちは大地の塩である」「あなたたちはこの世の光である」と地と世を大地とこの世と訳していますが、「あなたがたは・・・である」という肝心のところは変わりません。多くの英語訳はYou are the Salt of the Earth. You are the Light of the World.ですが、ひとつだけYou are salt for the earth. You are light for the world.という具合にof the Earth、of the Worldがfor the earth、for the worldとなっていますが、肝心のYou areというところはどの英訳聖書でもまったくそのままです。つまり、イエス様がおっしゃったのは、ニナレという命令でもなく、ニナロウという呼びかけでもなく、あるいはニナルデアロウという未来の予測でも期待でもないし、ニナルトイイネという願望でもありません。アナタガタハ・・デアルという事実の宣言なのです。

3.

 山の上でイエス様を取り囲んで、いったい何を教えてくださるのだろうと固唾を呑んで聞き耳をそばだてていた弟子たちや大勢の群衆たちは、これを聞いてさぞやビックリしたことでしょう。今ここに集まって来ている俺たちが地の塩だって! わたしたちは世の光ですって! これほど驚かせる話はありませんでした。そこにいた人々はきっと我が耳を疑ったに違いありません。

 しかし、実は彼らが驚いたのはこれが初めてではありませんでした。山上の説教の冒頭に記されている「八福」或いは「八つの幸い」もそれこそ腰を抜かすほど驚かされる主の言葉でした。新共同訳の3節は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」です。4節は「悲しむ人々は、さいわいである、その人たちは慰められる」です。文字通り読むと、次のように受け取れます。どこの誰かはしらないけれども、心の貧しい人々や悲しんでいる人々は幸いだそうだ、なぜなら、天の国はその人たちのものだから、あるいは慰められるから。ふーん、そういうものかなー。そういう人々っていったい誰のことだろうと。これだけ聞けば、ここで言われていることは、わたしのことでもなく、あなたのことでもなく、第三者のことのように聞こえかねません。

 でも、11節を見ると、「あなたがたは幸いである」、12節には「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言われていますから、これは第三者のこと、他人事ではなく、イエス様はこの私に向かって語りかけておられるのではないかと気がつきます。並行記事と呼ばれるルカ福音書6章の「平地の説教」を見れば、もっとはっきりと誰に向かって語られているかが分かります。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」とあるように、この主の言葉は聞いている目の前の「あなたがた」に語られていることが分かります。今ここに集まってイエス様を囲んでいる群衆たちに向かって「あなたがたは・・幸いである」と仰っているのです。

 ですから、フランシスコ会訳聖書は「貧しいあなたがたは幸いである」「今飢えているあなたがたは幸いである」「今泣いているあなたがたは幸いである」という具合に貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々とは、いまここで聞いているあなたがたなのだということがはっきりと伝わるように訳しています。岩波訳もいくつもの英語訳もそうなっています。

 ルカと違ってマタイの山上の説教の八つの幸いは、原典でも「あなたがた」はなく「彼ら」になっていますから、邦訳でも英訳でも「あなたがたは」は入っていませんし、「その人たち」という三人称が用いられています。そのことを承知の上で、私はこう思うのです。イエスさまのお気持ちを忖度して、文法的な直訳ではなくなりますけれども、あえて私訳をしてみれば、「あなたがた心の貧しい人々は、幸いである、天の国はあなたがたのものである」「あなたがた悲しんでいる人々は、幸いである、あなたがたは慰められる」となります。文法的には三人称で語られています。しかし、わたしは思うのです、聞いている人々は「あなたがたは」と二人称で語りかけられているとたしかに受け止めていたのに違いないと。文法的には三人称です。しかし、イエスさまは三人称を使うことで抽象的に一般論を語っておられるのではないのです。他人事を話しておられるのではありません。まさに今ココデ目の前にいる人々に向かって「あなたがたは幸いである」と熱く、断定的に語っておられるのです。もしそうでなかったならば、この山上の説教は二千年もの間語り継がれてくることはなかったでしょう。人々の心にそれほど印象的に響き、それほど深く染み入ることはなかったでしょう。一般論を通してならば、読む者、聞く者の魂に常識では考えられない「あなたがたは幸いである」との神の言葉の力、慰め、希望がもたらされることはなかったでしょう。しかし、目の前の人々に向かって「あなたがたは幸いである」と語りかけられたのです。まことに不思議な宣言です。

 それとまったく同じことが、続く13節以下でも起こったのです。今度は文法的にもズバリ二人称で、一般論としてではなく明らかに目の前の人々への宣言として、イエスさまはおっしゃったのです、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。聞いている民衆たちはどれほど驚いたことでしょう、事実彼らは貧しく、時に飢えており、不正義や不公平のゆえにしばしば泣くこともある、運命に翻弄されることもある、社会的には下層階級だからエリートや支配階級からは貶まれているのです。こんな自分たちに向かって、イエスさまが、気休めでもなくダメと承知でハッパを掛けるのでもなく、躊躇わずに、何一つ条件を付けずにズバッと宣言なさったのです。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。驚かないではいられません。これを不思議に思わないではいられないではありませんか。

4.

 私が現代世界で、同時代人として「地の塩」「世の光」として生きた人を一人だけ挙げるとするならば、それは中村哲という方です。1946年生まれ、2019年逝去。アフガニスタンで銃撃されたのです。医師でした。皆さんもクリスチャン・ドクター、中村哲さんのことをご存じでしょう。

 この方は1984年にキリスト教海外医療協力会からパキスタンに派遣され、のちにアフガニスタンに移ります。ペシャワール会が支えてきました。先生は医療活動をやっていくうちに気がつきます。戦乱と干魃と貧困にあえいでいる民衆を救うためには診療所を増やすだけではだめだ。彼らが人間らしく生きるためには水が必要だ。井戸から衛生的な水を汲み出すだけではなく、乾ききった大地を潤し、麦や野菜などを育てるための灌漑用水が必要なのだと。そう思い定めたドクター中村は自ら多くの井戸を掘り、さらに自分が先頭に立って重機を操縦して、民衆と共についに全長25キロの用水路を造り上げたのです。それによって65万人の人々の生活を一変させたのです。「緑の大地計画」というまるで夢のような、途方もない大計画を実現したのです。その挙げ句の果て、何者かによって銃撃されて、73年の生涯を彼の地で終わりました。アフガニスタンに住む多くの人々にカカムラト、ナカムラのおじさんと呼ばれて慕われ、尊敬された生涯でした。平和で豊かな日本に生きる人々に大きな影響を与えた人生でした。

 外国で戦乱と干魃と貧困にあえいでいた人のために生きて死んだこのような人をこそ「地の塩」「世の光」と呼ぶのにふさわしいと思いますし、皆さんもそう思われるでしょう。おそらく誰にも異存はないでしょう。

 そのことを認めた上で、申し上げたいのです。イエスさまが山上の説教を語られた当の民衆とは、言うならばこのアフガニスタンの、ドクター中村が共に生きたあの人々と同じだったのです。ということは、大胆に言えば、イエスさまはあのアフガニスタンの民衆の人々に向かっても「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とおっしゃった、おっしゃっているということになります。最後に、この不思議をしっかりと考えてみましょう。

5.

 ドクター中村は今その肉声をうかがうことはできませんが、その言葉は彼が書いた何冊もの書物の中に書き留められています。多くの心に残る言葉の中から三つだけをご紹介しましょう。「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる、それは普通のことです」「みんなが生きていかなくちゃ」「命に対する哀惜、命を愛おしむという気持ちで物事に対処すれば、大体誤らない」。どれひとつ取っても、高尚な思想とか高邁な真理だという表現には似つかわしくないような、実に平易な言葉です、ごくごく普通のことです、誰もがアーメンと唱和したくなるような、共感共鳴できるような教えです。

 しかし、「道で倒れている人がいたら誰もが手を差し伸べる」はずですが、そうなっていないのがこの世です、私たちです。「普通」のはずですが、実際は普通にはなっていないのです。「みんなが生きていかなくちゃ」というのは自明のはずですが、この世界は昔よりもずっと豊かになったと思われていますが、現実は貧富の格差は昔よりもひどくなっているのではないでしょうか。この世のみんなが生きていくのに必要な富も食糧もあるのに、そのようには分配されていないのです。飢餓状態の人々は相も変わらず大勢います。「命に対する哀惜」が行き渡っていたら、毎日毎日報道されているような残虐非道の戦争が起こるはずも続いているはずもないのです。

 ドクター中村が口にされた言葉、それは私にはドクター中村を通して語られた神の言葉だと思われます。そう聞こえます。私はそう信じます。人間にとって普通であり自明であるはずですが、もろもろの欲に支配されている人間にとっては、実現できてない神の言葉です。

 中村先生はそれを実践されました。まさに地の塩、世の光です。そして、アフガニスタンの民衆たちも先生に触れて、先生に導かれて、刀や銃を捨てて、鍬やスコップをもって荒野を掘り、水を引き、畑を耕し、みんなで働きながら、共に生きていく生き方を始めました。道で倒れている人がいたら手を差し伸べるのです。みんなが生きていかなくちゃと心を合わせ、力を合わせたのです。彼らもまた、極端な貧富の差があり、食糧や医療や教育でものすごい格差があり、戦争が止むことのない、命がこれ以上ないほどに軽んじられているこの世界にあって、神さまから見たら「普通」の生き方をし始めたのです。まさに地の塩であり世の光です。

 でも、そのような地の塩・世の光としての生き方を始めたから、「あなたがたは地の塩である・世の光である」と言われたのではありません。そうなる前から宣言されたのです。それはなぜでしょうか。それは神さまがそのように生きるようにしようとお決めになったからです。そうお決めになったら、必ずそうなるのです。創世記の天地創造の物語を思い出してください。「光あれ」とご意志を言葉にして発されたのです。そうしたら、「光があった」のです。神の言葉は必ず成就するのです。それが神の言葉なのです。今地の塩っぽく見えなくても、世の光らしく思えなくっても、神さまは必ずそうすると意志なさったのです。必ず実現すると決意なさったのです。

 繰り返しますが、「あなたがたは地の塩である・世の光である」と宣言なさったら、神さまはその言葉を必ず成就なさるのです。事実、アフガニスタンの民衆はそのような生き方を始めたのです。まさに地の塩・世の光になっていくのでした。ドクター中村だけでなく、彼らもまたそうなのです。そのように宣言していただくから、彼らは幸いなのです。紛れもなく地の塩なのです。世の光なのです。

 わたしたちはイエス・キリストを通して神の言葉を聴いています。神さまの宣言を聴かされています。それは神さまのご意志であり、お約束です。必ず成就するとの神さまのお約束です。その宣言です。そのことを信じ、受け容れましょう。そのお働きに身を委ね、そのようにしていただきましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2023年2月5日日曜日

礼拝メッセージ「かけがえない者だから」

 2023年02月05日(日)顕現後第5主日 

イザヤ書:58章1〜9 

コリントの信徒への手紙一:2章1〜12 

マタイによる福音書:5章13〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音は先週の山上の説教の中で教えられた「八つの幸いの教え」の続きです。主イエスはガリラヤ湖畔の丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらの言葉を語りました。弟子たちも、「いろいろな病気や苦しみに悩む」(マタイ4:24)人々もこの言葉を聞いていました。

 13節、14節で、主イエスは、あなたがたは「地の塩になれ」「世の光になれ」とは言っていないですね。驚くことに、主イエスは、私たちに向かって断言します。「あなたは地の塩だ」「あなたがたは世の光だ」と。主は真っ直ぐに、大真面目にあなたにそうおっしゃるのです。そればかりか、さらに主は、あなたの光を輝かしなさいと求めます。その「光」とは、主イエスをとおして神からくる光です。

 15節、「ともした火を升の下に置く者はいない」、つまり誰もせっかくともした光をすぐに覆ったりはしません。それは愚かなことです。また、山の上の町は、その光のゆえに隠れることができません。このように、神から与えられた光を覆い隠さず、外に反射させるようにと主イエスは願っています。

 光は外から来るのであって、人間は自分の内に光を作り出すことはできません。私たちが光を生むのではありません。創世記の初めにあるように、「光あれ」と命じることのできる方だけが、光を与えることがおできになります。

 私たちが「世の光」なのは、与えられた光を世に向けて照り返すからです。

16節に、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とあります。「光を輝かしなさい」をもとのギリシャ語を直訳すれば、「光が輝け」となります。私たちに求められていることは、受けた光を覆い隠さず、明るく反射させることです。

 しかし、私たち自身はいろんな個性を持っていて、皆一人ずつ違っていて、おまけに決して完全ではない者達だということを知っています。それでも私たちが「地の塩、世の光だ」と言われる存在なのは、私たちがただ一人の神である主イエスを信じる者達だからです。そんな個人的な経験をお話したいと思います。

 先々週のことですが、私は大失敗をしました。その日は礼拝後に小田原教会の総会資料をみんなで作ることになっていました。ところが、肝心な資料も、その日の説教原稿もすっかり車に積み込むのを忘れて、積み込んだ気になって湯河原の牧師館を出発してしまいました。小田原教会に着いてお昼のカレーの準備などを積み降ろして、あれ、資料がない!と気づきました。役員の方への連絡を妻に頼んで、急いで湯河原にとって返しました。

 本当に牧師が礼拝に遅れてしまうなどは、全く牧師として面目を失うような失敗です。なさけないという自責の念が浮かびそうになります。その一方で、これで事故でも起こしたらそれこそ大変。ここは運転に集中しよう。主は私がよく失敗することをご存知だ。ご存知のうえでなお救ってくださる。落ち込むことはないと言ってくださる。役員さんもきっと補ってくださる。そういう思いが湧いてきました。それは今日のみ言葉で言うなら、「博雅、お前は地の塩だ」「世の光だ」と全面的に私を認めて、この落胆の危機を、ほほえみいっぱいに主が支えてくださるということですね。

 主に支えられてハンドルを握り、1時間以上かかって小田原教会に戻りました。この間に教会ではどうだったか、これは後から妻から聞いたことです。その朝、来られた役員のお一人に、牧師が遅れる理由を説明すると「何も心配いりませんよ。大丈夫」と言われて落ち着いておられるので、妻はほっとしたそうです。そして、その日、本当に久しぶりに礼拝に来られた一人の兄弟が、スマホに送られてきた週報をコンビニで印刷してきますと申し出てくださって、週報が準備されました。そして、代議員さんが礼拝堂にいた皆さんに事情を説明して、これから礼拝を始めますが、御言葉の歌の前まで私が進めて、そこからは、一人ずつ全員で祈祷をして牧師の帰るのを待ちましょうと話されたそうです。ウクライナのこと、小田原教会の今後のことなどに加えて、牧師が無事に帰ってこられるようにとみなさんが祈ってくださったことを知りました。そして、最後の一人が祈り終わったときに、本当にこれが神の時というように、ピタリと私の車が礼拝堂の窓の外に駐車したのが見えたそうです。

 誰も文句一つおっしゃらず、ひたすら牧師の帰りを待ってくださったことに、妻は本当に感謝の思いが溢れ、涙が出てきたそうです。神を信じ、お互いを信頼し合うことのありがたさが心底身にしみた出来事だったと話してくれました。

 私の方は礼拝堂に入ると、「ちょうど皆さんが祈り終わったところです」と代議員さんがおっしゃったので、私はみ言葉の歌をみんなで歌い、説教に入りました。みなさん、まったく自然にそこにおられ、礼拝はいつもどおりに終わりました。

 こんな大失敗をしでかしたのに、牧師失格だと言われても仕方がないのに、どなたからも責められない。それどころか皆さんが礼拝のためにできることをして、祈り合って待っていてくださった。この経験は主と会衆のみなさんからいただいた最高の贈り物でした。福音をしっかりと味わった時でした。そして牧師冥利につきる経験でした。

 今日も主は、一人の人間として見れば欠点だらけである私たちをかけがえのない者として「あなたは他の兄弟姉妹と共にすでに地の塩です。すでにあなたは世の光です」と言ってくださいます。地の塩になれ、世の光になれ、ではありません。「あなた方は地の塩だ」、「あなた方は世の光だ」と言われるのです。それは本当に福音です。主は皆さんの塩としての、光としての素晴らしさを、ますます知らせてくださっています。私たちがこの感謝を、この喜びを素直に出していけますようにと願い、祈ります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン