2021年8月2日月曜日

江藤直純牧師「ぼくのできることから」

 小田原教会・2021年8月1日【平和主日】

ミカ4:1-5;エフェソ2:13-18;ヨハネ15:9-12

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

8月になりました。この月は多くの日本人が何らかの形で「平和」に思いをいたし、「平和」を祈る季節です。オリンピックも古代ギリシャの時代から、たとえ戦争をやっていても、それを中断したと言われています。本来の意味で「平和の祭典」であるべきものです。今年、日本ではその8月とオリンピックが重なっています。

ところで、上皇陛下は天皇ご在位のときから、自分には平和を祈念する日が4つあると言われていました。ヒロシマとナガサキの原爆投下の日と終戦記念日或いは敗戦記念日の三つだけではなく、もう一つ、6月23日の沖縄慰霊の日を加えた四つだと仰り、事実それらの日を非常に大切になさっていました。

「六二三、八六八九八一五、五三に繋げ、我ら今生く」これは2014年度の朝日歌壇賞を受賞した岸和田市の西野防人(さきもり)さんという方が詠んだ短歌です。朝日の「天声人語」で取り上げられて有名になったので、記憶されている方もいらっしゃるかもしれません。「ろくにさん」6月23日、「はちろくはちく」8月6日、8月9日、そして「はちいちご」8月15日です。そしてその後の「ごさん」は5月3日、憲法記念日です。わたしにとっては、悲惨な戦争の記憶から平和を目指した憲法を実現していくことの大切さを自覚させられた短歌でした。

戦争の被害は沖縄、広島、長崎の三箇所だけではなかったのは言うまでもありません。全国に及びました。わたしの故郷の熊本でも空襲はあり、東京では10万の死者を出した有名な大空襲が起こり、横浜もそうでした。この近くでも藤沢も平塚も空襲があったとネットで知りました。ひとたび全面戦争が起これば無傷ですむところなどどこにもないのです。日本では戦後76年目を迎えても、未だ戦闘が続いているところが世界のあちこちにあることも忘れてはいけません。

世界大戦の悲劇を二度と繰り返してはならないと決意して設立された国際連合の本部があるニューヨークには、国連ビルのすぐ近くに「Isaiah Wallイザヤの壁」と呼ばれる記念碑が建てられ、そこには何と聖句が刻まれているのです。それがイザヤ書2章4節です。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。この言葉はイザヤの少し後の時代のミカ書にもそっくりそのまま収められています。今朝の旧約の日課ミカ書4章3節にも記されています。預言者に示された終わりの日に関する幻がこれでした。紀元前8世紀の人々も、20世紀の人々も、そして21世紀に生きる私たちもこの幻が実現する日の一日でも早いことを祈り求めるのです。


2.

「ろくにさん」も「はちろく」も「はちく」も「はちいちご」も政府を代表する人の言葉の力のない型通りの挨拶には失望しますが、それに比べて、たとえ自分自身の戦争体験はなくても平和な未来を目指す少年少女のメッセージには毎度深く心を打たれます。たまたま手許に2013年の「ろくにさん」6月23日に沖縄慰霊の日記念式典で発表された小学1年生の男の子の「へいわってすてきだね」というメッセージがありますので、ご紹介したいと思います。お聞きください。

「へいわってすてきだね」

沖縄県与那国町立久部良(くぶら)小学校1年 安里有生(あさとゆうき)

へいわってなんかな。/ぼくはかんがえたよ。/おともだちとなかよし。/かぞくがげんき。/えがおであそぶ。/ねこがわらう。/おなかがいっぱい。/やぎがのんびりあるいてる。/けんかしてもすぐなかなおり。/ちょうめいそうがたくさんはえ、/よなぐにうまが、ヒヒーンとなく。/みなとには、フェリーがとまっていて、/うみには、かめやかじきがおよいでる。/やさしいこころがにじになる。/へいわっていいね。へいわってうれしいね。/みんなのこころから、/へいわがうまれるんだね。

せんそうは、おそろしい/「ドドーン、ドカーン。」/ばくだんがおちてくるこわいおと。/おなかがすいて、くるしむこども。/かぞくがしんでしまってなくひとたち。

ああ、ぼくは、へいわなときに、/うまれてよかったよ。/このへいわが、ずっとつづいてほしい。/みんなのえがおが、ずっとつづいてほしい。

へいわなかぞく、/へいわながっこう、/へいわなよなぐにじま、/へいわなおきなわ、/へいわなせかい、/へいわってすてきだね。

これからも、ずっとへいわがつづくように、/ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ。

安里有生くんのこの詩には、平和は単に怖い戦争がなく、恐ろしい爆弾が落ちてこないこと、あるいは飢餓の苦しみや愛する家族の死がないことにとどまってはいません。もちろん、それらは平和のなくてはならない前提であり要素ではあり、戦争などがあるなら望ましい平和な状態にあるとは言えないのです。しかし、有生君の詩に謳われている平和は戦争がない状態以上のものです。「おともだちとなかよし」、そうです。豊かな、共に生きる人間関係です。「かぞくがげんき」、収入がどれ程多く経済状態がどれほどリッチかどうかは触れてありません。でも、「げんき」に明るく暮しているのです。「えがおであそぶ。ねこがわらう。おなかがいっぱい。やぎがのんびりあるいてる。けんかしてもすぐなかなおり。ちょうめいそうがたくさんはえ、よなぐにうまが、ヒヒーンとなく。みなとには、フェリーがとまっていて、うみには、かめやかじきがおよいでる。やさしい心がにじになる」。笑顔で遊び、お腹は満たされているのは率直に幸福です。それだけでなく、地上や水中の動植物とも共生ができています。争いや憎しみや無関心ではなく優しい心、愛し慈しむ心がなによりなのです。「みんなのこころから、へいわがうまれるんだね」、有生君のこの言葉は真実を言い当てています。


3.

 すったもんだの挙げ句、7月23日に始まった東京オリンピックですが、その理念として打ち出されていることの一つが「多様性と調和」です。「人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無などあらゆる面での違いを肯定し、自然に受け入れ、互いに認め合う」ことが声高く謳い上げられています。ということは、裏を返せば、人間生活の様々な面で多様性が認められておらず、調和が図られていない現実があるということです。

アメリカでのブラック・ライブズ・マターやその後のアジアン・ライブズ・マターも続いています。ブラックであってもアジア人であってもその命はかけがえもなく大切なものだと必死で訴えないと疎かにされる現実があります。

5年前の7月26日、相模原の津久井やまゆり園での障がい者無差別殺傷事件は今も深く心に残っていますが、つい先日もニュースを見て心を痛めたのは、やまゆり園の敷地に慰霊碑が建てられたのですが、そこには7人の犠牲者の名前が彫られているということでした。亡くなった入居者は19名です。覚えていらっしゃるでしょうが、裁判の時も、被害者の名前は、殺された19歳の女性一人だけが名字はふせたまま「美帆さん」と母親が明かし、負傷した24人の内でもたった一人だけが親の意向で姓名を明かし顔も公表されました。しかし、その二人以外の残りの多くの被害者は皆名前は公表されませんでした。慰霊碑に刻まれた7人の内5人の家族はその氏名が報道されることを望まないということです。殺されあるいは大けがをさせられたのに、障がい者であるがゆえにその氏名を世間に公表することが憚られる社会とはいったいどういう社会でしょうか。親御さんたちはどうしてそういう選択をしなければならなかったのでしょうか。

様々な面での違いが違いとして肯定されず、認められず、受け入れられないのです。むしろその違い故に偏見を持たれ、差別され、さらには排除される現実が21世紀の先進国と呼ばれるこのわたしたちの社会に存在するのです。これは平和とは呼べない現実です。「みんなのこころから、へいわがうまれるんだね」。この平和の最大の難敵、差別とか偏見、憎しみ、排除の気持ちはいったいどうやったら克服できるのでしょうか。

今朝の第2の聖書日課のエフェソの信徒への手紙の2章には、差別と和解、平和の実現についての大切なメッセージが語られています。14節に「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」というくだりがあります。「隔ての壁」は文語訳や口語訳では「隔ての中垣」と訳されていたので、印象的に覚えておられる方もいらっしゃることでしょう。わたしは今回初めてこの「隔ての壁」あるいは「隔ての中垣」がもともとどのようなイメージで語られたのかを知りました。日本語訳の聖書はいくつもありますが、その内の一つ「フランシスコ会聖書研究所訳」という邦語聖書ではこの「人を隔てていた壁」について次のような興味深い注を付けていました。

「本節の『人を隔てていた壁』に関して、パウロが考えていたものにもっとも近いと思われるものは、エルサレム神殿内に築かれていた高さ1メートル半の石の壁である。この壁は、ユダヤ人のみが入ることを許された神殿そのもの、およびそれに続く中庭を、『異邦人の庭』から分離するためのもので、この境界を侵害した異邦人には、死刑が課せられた」と記されています。神殿があり、その目の前には男性のユダヤ人だけが入れる庭があり、その手前は「女性の庭」と呼ばれ、女性はそこまでしか入れませんでした。男女が厳しく区別されていました。

男女のユダヤ人が入れるところの外は「庭」がぐるりと囲んでいて、そこにソレグと呼ばれた背の低い仕切りあるいは壁が設けられていて、それより中には異邦人は入れないことになっていたのです。それが「隔ての壁」なのです。神さまの前にはすべての人間は平等だったのではなく、神の民と称されていたユダヤ人と唯一の神を信じない異邦人とはこれまた厳然と区別されていたのです。宗教の世界においてさえそうでした。いいえ、宗教の世界だからこそそのような区別あるいは差別が生じ、宗教の名によって正当化され、厳しく守られていたのです。人間の間の差別の正当化のために神さまが引っ張り出されてきていたのです。


4.

しかし、聖書が語ることはその真逆です。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(2:12)と使徒パウロは言います。

新約聖書が描くユダヤ人は自らが神の民であることを誇り、律法を遵守することで神に近づけると高慢になっていました。それは取りも直さず、異邦人を見下し、律法を守れない人たちを貶むという、人間の情としてはありえても、間違いなく神の愛には反する大きな罪を犯していたことになります。ユダヤ人と異邦人が背中を向け合っていたのは当然の結果でしょう。しかし、神さまはそれを良しとはなさいませんでした。イエス・キリストは自ら十字架に架かることで、律法を守れない異邦人に救いの道を開いてくださいました。しかし、それだけではありません。神の愛に反する罪を犯しているユダヤ人の罪をも自らに引き受けてくださり、赦しを差し出してくださったのです。あとはユダヤ人が罪を悔い、差し出された神の赦しを感謝して受け容れるばかりです。もしもそうなると、神とユダヤ人、神と異邦人の和解が成り立つだけでなく、ユダヤ人と異邦人との和解も成り立ち、平和な関係が作り上げられるのです。エルサレムの神殿にあった「隔ての壁」は「取り壊される」のです。己の宗教的な正当化が他者の否定になるという人間の罪が思いがけない形で解決されるのです。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(2:16)。

やまゆり園で何の落ち度もない、無抵抗の障がい者19名を殺害し、26名に大怪我を負わせた男の動機は「彼らには存在する価値がない」「生きている意味がない」という思いでした。そう言って憚らないのは、自分を神の高みにおいて、当然の如く自己を正当化して、他の人間たちを裁いているからです。これこそが罪です。とうとう後悔の素振りも見せず、死刑の判決を受けましたが、このような自分を神とするような姿勢では差別意識も敵意も拭い去ることもできず、悔い改めることもできず、神が良しとされるような人の道を歩むことなど思いも及ばない状態に陥っている人には、自力で救いを獲得することはできません。厳罰では秩序は保たれますが、救いはもたらされません。

だからこそ、彼の悔い改めと救いのためには、犯してしまい取返しの付かない罪の償いのためには、彼の罪を引き受ける十字架が必要だったのです。あの人だけでなく、他者を見下し、差別し、排除しようとする心の傾きは程度の差はあっても誰の心の中にもあるのです。わたしたちも、わたし自身も例外ではありません。わたしたちにも、このわたしにも十字架による罪の贖いと、それによる神との和解、そして関係が悪くなった人との和解が必要です。しかも、ありがたいことにそれは間違いなく与えられるのです。既に与えられているのです。「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(2:13)神の前に立てるように救いが差し出されているのです。十字架によって初めて自分の罪に気づき、悔い改めヘと導かれ、それに全く価しないのに差し出された赦しを感謝をもって受け取ることへと誘(いざな)われます。神との間の和解です。それがすべての基礎です。

そこから初めて、人と人との和解と平和も可能になるのです。そのためにわたしたちがなすべきことは何か。それは今日の福音書に端的に書かれています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)。安里有生君が書いた詩の結びはこうでした。「これからも、ずっとへいわがつづくように、ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ」。ぼくのできること、それはぼくの近くにいる人を愛することです。近くから次第に遠くの人のことまで愛していくのです。「へいわなかぞく、へいわながっこう、へいわなよなぐにじま、へいわなおきなわ、へいわなせかい」、隣の人と互いに愛し合うことから平和の波紋は広がっていくのです。そのための土台はキリストの十字架によってしっかりと与えられているのですから、そのことを信じて、有生君とともに決心しましょう。「ずっとへいわがつづくように、ぼくも、ぼくのできることからがんばるよ」。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン