2024年1月28日日曜日

礼拝メッセージ「新しい教え」

 2024年01月28日(日)顕現後第4主日

申命記:18章15〜20 

コリントの信徒への手紙一:8章1〜13 

マルコによる福音書:1章21〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 主イエスは神の国の福音を告げる活動を始め、まずガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしました(1:14-20)。マルコはそれに続いて、主イエスのカファルナウムでの典型的な一日を語ることによって、主のガリラヤでの活動の様子を伝えようとしています。

 ここで鍵になる言葉は「驚く」という言葉だと思います。22節「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。テレビなどでこのごろ「ガチで」というのをよく聞きますが、本気で、凄くという意味だそうですね。それで言えば「ガチで驚いた」とでもいうのでしょうか。

 この人々の「驚き」はなんとも新鮮な驚きです。いわば思いがけずに聖なるものに触れたときに、超越的な存在に出会ったときに、その威光に圧倒されて、それを前にしての新鮮な驚き、今までに見たこともないまったく新しい、未知のものに触れた、恐れではない、うれしい驚きです。それを思うとこの記事は短いですがなにか心をリフレッシュしてくれます。

 ガリラヤ湖畔で主イエスは「人間をとる漁師にしよう。わたしについてきなさい」と4人の漁師を弟子になさった。そして主の一行は安息日にカファルナウムに着くと、主は会堂に入り教え始めました。会堂では、希望すれば誰でも聖書を教えることが出来たようです。

 「会堂」は「シナゴーグ」といいます。「シナゴーグ」という言葉は「人々が集まること」を意味しました。ユダヤの信仰の歴史では初めは会堂というものはありませんでした。バビロンに侵略され、人々はバビロンに連れていかれました。もはやいくらエルサレムの神殿で礼拝したいと思い焦がれてもそれはできません。そこでバビロンの地でも、人々は集まって、礼拝し、聖書の言葉に耳を傾け、祈りをするようになりました。当然、集会のための建物が必要になりました。それが今や各地にある会堂のおこりだと言われます。

 やがて人々はユダヤの国に帰ってからも、会堂を建てて、そこに集まり、そこで律法を学び、礼拝をするようになった。会堂は礼拝だけでなく、学校として、法廷として、あるいは宿泊所としても用いられます。町や村の生活においてのひとつの拠点となりました。

 神学生時代にある安息日、土曜日に実習で都内にあるシナゴーグの礼拝に参加しました。セキュリティーの頑丈な家具の質がいい立派な建物でした。男性10人が集まればその日の礼拝が成立するそうです。ラビのリードで礼拝し、コックさんが作った昼食をごちそうになりました。私たちの行う礼拝の原形がそこにありました。

 主イエスの弟子たちは、ついこの前の安息日までは、漁師として、家族と一緒にこの会堂で礼拝にでていたかもしれません。しかし、今は家族を捨てて、主イエスの後について、主の弟子として会堂の中へ入って行きました。

 たぶん顔見知りの人が何人もいたでしょう。その日、そこで主イエスは説教をなさった。すると主の言葉を聞いて、そこに居合わせたすべての人々が「その教えに非常に驚いた」のです。弟子になった4人が誰よりも驚いたのではないでしょうか。後になって教会の人々に、「もう本当に、あの時は驚いた」と思い出すことが多かったのではないでしょうか。

 主が復活された後に、エルサレム、アンティオキア、ローマへと礼拝の拠点がつくられていくに従って、この驚きの体験は波紋のように語り伝えられて、聖書の記事にまでなったわけです。

 マルコは具体的なことを言いませんが、人々は一体何におどろいたのでしょうか。1:22に、人々の驚きはイエスが、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」だとあります。律法学者は、律法と口伝律法によって民衆を指導していました。口伝律法とは、昔の律法を今の生活の中でどのように実行するかについて、何世代にもわたる律法学者たちの解釈を集めたものです。「神はかつてモーセにこう命じられた、だからこうしなければならない」というのが律法学者の教えでした。

 一方、主イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。主イエスはそう言って、神の支配が始まった。あなた方は心を変えなさい。悔い改めなさい。自分たちの罪を認めなさい。神はあなたを愛している。安心しなさい。あなたは救われる。そう告げてくださったのです。

 それはこれまで人々が聞いてきた学者の解説ではなく、神が今まさに何かをなさろうとしているという宣言そのものでした。神の言葉、神の思いを面と向かって聴く。そこに人々は神から来たまったく新しいもの(=権威)を感じ、驚いたに違いありません。

 今日の第2朗読のコリント書8章1節に「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とあります。人々は、主イエスの言葉から、高ぶった学者のようでない、聴くもの魂が喜びで満たされる神の愛を感じたに違いありません。

 この主イエスの権威ある言葉を聞いて、慌てふためいたのはある男にとりついていた汚れた霊です。当時の人々には、現代の医学知識はありませんから、人々は病気というものを、しばしば汚れた霊のせいにしました。

 悪霊が人のさまざまな病気を引き起こすと考えられていましたが、特に他の人との落ち着いたコミュニケーションができなくなるような状態が「悪霊に取りつかれている」ことが原因だと考えられました。聖霊が「神と人、人と人とを結びつける力」だとすれば、悪霊は「神と人、人と人との関係を断ち切る力」だと言えます。

 事実、この箇所で悪霊は主イエスに毒づきます。24節、「ナザレのイエス、おれたちとおまえに何の関係があるってんだ?おれたちを滅ぼしに来たのか?おまえが誰かは分かってるぞ、神の聖者だ」。神から来た主イエスとの関係を拒否することが、悪霊の悪霊たる所以です。

 主イエスは悪霊を黙らせます。神との関係を拒否しているのは、目の前の人の本来の部分ではなく、何かしらその人を神と人から引き離そうとしている力だとすれば、その力を自由にさせておくわけにはいきません。この時、主イエスはその人の何を見ているのでしょうか。「悪霊に取りつかれている」と考えられているその人の様子ではなく、その奥にある本来の部分を見ているのではないでしょうか。そしてその場で結果として起こったことは、その人が他の人との普通の交わりを取り戻し、神とのつながりを取り戻したということです。

 古代の人にとって「汚れた霊=悪霊」はとても身近なものでした。現代人は、人間がほとんどの現象を理解し、コントロールできると考えますが、古代の人にとって、人間の理解や力を超えたものは周囲にたくさんありました。

 現代のわたしたちにとって、悪霊とはなんでしょうか?わたしたちの周りにも「神と人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力」が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

 神への信頼を見失い、人と人とが支え合って生きるよりも一人一人の人間が孤立し、競争に駆り立てられ、大きなストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴力となって爆発してしまう・・・そんな、一人の人間ではどうすることもできないような得体の知れない「力」が悪霊だと言ってもいいのかもしれません。

 そんな大きな力だけでなく私たちの日常の中でも、何かに囚われてしまうと、本来の自分を見失うことってよくありますね。悪霊は身近にあると受け止めて、私たちは主イエスが悪霊を追い出してくださることをもっと素直に、そのまま受け取ってもいいのかもしれません。

 27節の「権威ある新しい教えだ」という人々の驚きの言葉は、22節とよく似ています。人々は主イエスの教えの内容に驚いただけでなく、この出来事をとおして、主イエスの言葉が現実を変える力を持っていることに驚嘆しました。

 「神の国は近づいた」というメッセージは、主イエスが悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを失っていた人を、神や人との交わりに連れ戻すことによって、もうすでに実現し始めたのだと言えます。悪霊に覆われてしまっているような現象や人間のもっと深い部分にどのように触れ、どうしたらつながりを取り戻していくことができるかを、主の助けを信じ、主により頼みながら深めてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年1月21日日曜日

礼拝メッセージ「招きに応えて」

 2024年01月21日(日)顕現後第3主日

ヨナ書:3章1〜5、10 

コリントの信徒への手紙一:7章29〜31 

マルコによる福音書:1章14〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今年私たちは主にマルコ福音書を用いて主イエスの活動の歩みを思い起こしていきます。主はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、神から「愛する子」と宣言されました(マルコ1;9-11)。そして荒れ野で悪魔の誘惑を退けた(1:12-13)のち、きょうの箇所から神の子としての活動を始めます。

 このマルコ福音書は、主イエスの死と復活から40年くらい後、紀元70年ころに編纂されたとされる世界最初の福音書です。4つの福音書のうち、ヨハネ福音書は独自ですが、マタイとルカのものはマルコ福音書をもとにしています。マルコ福音書は、その1章1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれています。実に味わい深い言葉です。

 この一行にすでに、「さあ、福音の世界が始まった。もうだいじょうぶ。安心なさい」というマルコの思いが凝縮していて、うれしさで顔を輝かせたマルコの喜びの声が聞こえてくるようです。まずこの宣言について見ていきましょう。

 福音書というのは「もうここに救いは実現した」という宣言だと言えます。この福音書から、究極の世界、本当にすばらしい救いの世界が、恵みの世界が始まりました。この二千年間を振り返れば、それはもう、どれだけ言っても言い足りないくらいです。皆さんが、今日ここに集まっているのだって、その実りですし、数限りないキリスト者によって繋がれてきたその実りのおかげに違いありません。

 そして、主イエス・キリストの第一声が1章の15節にあります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。どうぞこの言葉を、今、主が、あなたに語りかけておられるのだと受け止めてください。(私は、なんだかこう心があたたかくなります)

 ここには、四つのことが書いてあります。

 最初の二つは宣言です。「時は満ちた」。そして「神の国は近づいた」。「時」というのは時間です。そして「国」というのは空間、場です。ですからこれは「時間も空間もすべてが、いまや神の恵みのうちにある。準備の時は終わり、いよいよ神の救いが実現する時が来た」と、そういう宣言です。

時間も空間もと言いましたが、それは、純然たるこの世の時間と空間のことではありません。この宇宙の時間、歴史に記録されるような時間ではなく、これはすべてを超えた「神の時」の話です。いつ洗礼を受けたらいいかとか、あと何年生きられるんだろうかとか、そんなこの世的な時を超えて、「今、決定的な神の時、永遠なる救いの時が始まった。もうすでに私たちは救われている!」という、そういう宣言です。

 「神の国」というのも、この世の空間ではありません。神の支配下に置かれた、神の場所です。どこどこという場所のことではなく、救いが現実している場そのものが「神の国」です。私たちにとって、この世界のどこなのかということが場所の意味ですが、主イエスの「神の国」においては、それが本質的に変えられたのです。この21世紀、世界の現状は戦争に溢れていて、まだ、まだ「神の国」は完成していませんけれども、「神の国」はもうすでに始まりました。

これは、この礼拝にたとえるなら、前奏、初めの歌と続いて、もう礼拝は始まっていますね。聖餐はまだいただいてないけれども、みんなでここに集まって、心を神にむけて、安心して、私たちは幸いだと座っておられませんか。それは、ここに主イエスがおられ、今日もみ言葉と聖餐と主の祝福が得られるからです。そんなこの場所で、神の国は、もう始まっています。

 このひとときが、みなさんがおられる、今、復活の主イエスがおっしゃるここが「神の国」であり、「神のとき」なのです。なによりも主イエスご自身が福音ですし、主イエスご自身が「神の国」なのです。主イエスは、ご自分が来られたことそのもので、すべての人に救いを宣言しています。主は「わたしがいる。もうだいじょうぶだ。あなたは救われた」と告げています。

 そして後半の二つは、その宣言を受け入れなさいという命令ですね。というのは、いくら宣言しても、聞いたその人が受け入れてくれなければ意味がないですから。だからまず、「耳を開いて、この福音を聴いてほしい」と主はおっしゃいます。

 「時は満ちた。神の国は始まった。さあ、心を開いて、受け入れて、信じてほしい」と、主イエスは、そう宣言し、命じています。

 主イエスが現れたとき、二千年前に、そこからすべてが始まって、今日に至っている。天に昇られる前、主は弟子たちに、父と子と聖霊による洗礼を広め、福音を世界中に伝えるように命じられました。次々と新しい人が生まれてくるわけですから、主の教会はずっと福音を伝え続けているわけです。主に従った先人のおかげで、私たちもこうして湯河原教会に集まれています。

 神の国はもう来ています。主イエスの救いは始まっています。だれが何と言おうと、どう反論しようと、それは事実であって、それを変えることはできないし、否定することもできません。私がみなさんと共に伝道させていただいたこの11年間にも、新たな人が救われてきました。あの方、この方の顔が思い浮かびます。ここに集い、繋がりをもった方々が喜んで天に召されていきました。私たちはそんな教会家族であり、主によって結ばれた仲間です。

 さて、ヨナ書にも触れたいと思います。ニネベという都ですが、風紀はかなり乱れていたんでしょう。お金お金の政治家たちや、性に取り憑かれた有名人たちみたいなものでしょうか。そんなニネベでヨナは預言者として、「40日したら、この都は、滅びる」と (ヨナ3:4)告げて歩いた。ある意味で、脅しですね。そうすると、ニネベの人たちは素直で、神を信じて断食して、悔い改めた。そこで、10節「神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった」(ヨナ3:10)とあります。これが、旧約の神です。

 確かに、この物語には神の憐れみ深さが表されていますが、この神は、悪は「滅ぼすぞ」と裁きを告げます。けれども、人々が、「すみません。ごめんなさい!」と回心したら、「それならば、滅ぼすのをやめよう」と思い直す。これは、神と人の関係が、ちょっと幼稚だと感じませんか。

 それは旧約の神が、まだ人類が幼い段階の神だからです。もちろん、幼いこと自体は悪いことではありません。子どもはそうやって育っていくわけですから、成長の過程で、必要な段階です。人類も同じで、初めのうちは、親が叱ったり、ちょっと脅したりもするし、子どもも「ごめんなさい!」と謝ったり反省したりしますね。そうすると親が、「もうしないでね」と赦してくれる。そんなやり取りをしますでしょう。つまり、神が人類を育てるプロセスなんです。

 子どものころは、みんなわがままですよね。そんなときにちょっと厳しく対応するのも、親心でしょう。でも、本気で、裁いて滅ぼすとか、神はそんな方ではありません。ですから、人類もいよいよ成長してきて、旧約の段階を卒業して、主イエスが真の親心を、本当の神の愛を、教え始めた。これが新約です。人類は親とちゃんと向き合えるだけの大人になったんです。そのために、神は主イエスを送ってくださって、主は「天の父は、すべてのわが子を救う」という福音を語ってくださっています。

 もし、旧約の段階の神でいいんだったら、ヨナなどの預言者がいればいい。主イエスもいりません。けれども、主イエスは来られました。みんなを救うために。主イエスは「決して神は罰しない」。「天の親は、神の子たちみんなを愛している、どの子も赦す。そして、必ず救う」と、ご自分の命捧げて教えてくれました。

 今日のまとめになりますが、「私に付いて来なさい」(マルコ1:17)という、イエスさまからの呼びかけがきっとみなさんに聞こえているでしょう。主はヨハネ15章16節でこうおっしゃっています。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」。ここにおられる皆さんはみんな主の招きを受けたのです。主に選ばれたのです。

私たちが「ついて行くべきは、イエス・キリストです」。「罰するイエス」とか、「裁く神」を信じさせる宗教は偽物です。主イエスは、「どんなに失敗しても、そんな罪深いあなたをこそ、私は命がけで愛している」と受け入れてくれます。そのような、真の親。そのような、神。その神を証する主イエスに、付いて行きましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2024年1月14日日曜日

礼拝メッセージ「心の目で見る」

 2024年01月14日(日)顕現後第2主日 「心の目で見る」

サムエル記上:3章1〜10 

コリントの信徒への手紙一:6章12〜20 

ヨハネによる福音書:1章43〜51

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日は主イエスから声をかけられたフィリポとナタナエルが、主の弟子として従う箇所から聞いて行きたいと願います。今読んでいただいて気がつかれたとおもいますが、主イエスは、フィリポに出会った途端に「わたしに従いなさい」と告げます。それはいかにも唐突なことです。公な業として、まだ奇跡も説教も行っていない主イエスは、フィリポにとっては無名な存在であったはずです。うわべから見るイエスはナザレ出身のごく普通の若者にすぎません。しかし、そんなイエスの存在の奥に、神の神秘が隠れています。

 まずフィリポですが、彼はガリラヤ湖畔のベトサイダの人で、アンデレやペトロと同じ町の出身(1:44)でした。おそらくフィリポはアンデレやペトロをよく知っていたでしょう。フィリポも主イエスに従って12弟子の一人となります。しかし、ヨハネの関心はこのフィリポよりもこの後に出てくるもう一人の使徒となるべき人物に向けられます。

その人の名はナタナエルです。彼はガリラヤのカナの出身であるとされています。今日の福音の直後には「カナの結婚式で水をぶどう酒に変える」という奇跡物語が続きますが、イエスは間もなくガリラヤ地方のカナで最初のしるしを行い、そのキリスト的栄光を表そうとしておられました。その栄光の一端が、今、ここで、ナタナエルにも示されます。

ナタナエルに出会ったフィリポはこう言います。45節、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

それを聞いたナタナエルは、フィリポのその証言に大変な関心を持ちました。なぜなら、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」というのは、イスラエルの救い主、メシアにほかならないからです。けれども、そのメシアが「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」と聞いて、彼は、たちまちガッカリして偏見の虜となりました。これは私たちもよく陥る過ちですね。

 そして、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46)と疑うのです。これは、当然といえば当然のことで、これまでガリラヤからは狂信的な、偽メシアしか出てこなかったとう事実があったようです。フィリポは、偏見の虜になったナタナエルに、主イエスが最初の二人の弟子たちに言ったように「(あなたも)来て、(イエスを)見なさい」と告げます。偏見を打ち破るには証拠を見せるのが一番だからです。

 ナタナエルが一時は偏見に陥ったものの、フィリポの言葉を聞いて主イエスのもとに来たのは、彼が神の前に謙遜に生きようとする人物である証拠でした。そのような者こそ、「本当のイスラエル人」、まことの信仰者だと主はおっしゃっていますね。詩編32編2節にも「いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」と歌われているとおりです。ナタナエルはそんな人物だったのでしょう。

主イエスは優れた霊的洞察力によって、ナタナエルのうちに神の民としての純粋な誇りと期待があることを見抜かれました。そして「この人には偽りがない。」と告げました。

主の神秘的な力に触れたナタナエルは驚きを込めて「どうして私をご存知なのですか」と聞くのです。彼はフィリポの誘いに従って「来て」そして見たのです。それは彼にとって大きな信仰的冒険でした。そして彼は自分が見聞きしたことから深く心を動かされることになります。それは主イエスが、「ナタナエルがいちじくの木の下にいる」ことを言い当てたことです。

実に神秘的なことですが、これは主がいちじくの木の下にいるナタナエルを「見て」、その心の願いを知っておられたと考えられます。それは神の英知によることです。ナタナエルは一切の偏見を取り除かれ「先生、あなたは神の子です。イスラエルの王です」(49)と告白します。

 しかし、まだ彼の告白は十分とは言えず、彼の理解が不足していることがわかります。なぜなら主イエスの支配は地上の王たちのものとは違い、主はイスラエルだけの王ではなかったからです。彼はまだキリストが全世界の王として神から立てられていることを知りません。つまり、全世界が神の国となるはずであることをまだ知りません。

ナタナエルの告白は、真実な告白でしたが、まだ真理そのものとは言えませんでした。そこで、主イエスはナタナエルの信仰にさらに一歩踏み込んでおっしゃいます。50節-51節、「イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」この言葉にもなんだか唐突な印象を受けませんか。

主イエスはここで創世記28章12節の言葉を引用されました。それはおそらくナタナエルがいちじくの木の下にいた時、彼はこの箇所を黙想していたからです。かつてイスラエルの父祖ヤコブがベテルの地で夢を見た故事です。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。この箇所をナタナエルは黙想していたことを、主がご存知であったに違いないということが想像できます。

 ヤコブといえばアブラハム、イサク、と並んでイスラエルの偉大な先祖の一人です。ヤコブの階段(はしご)の話は皆さんご存知でしょう。双子の兄のエサウをだまして長子の権利を奪い取ったヤコブは、エサウの恨みを買い、命からがらハランにいる伯父ラバンのもとに逃れていきます。優しい父母のもとを去り、懐かしい故郷を離れて兄から命を狙われ、逃げる旅です。ヤコブには当然といえば当然の報いです。間もなくハランへさしかかろうとするところで日が暮れて、野宿することになります。家も寝床もなく、野原にあった石を枕にして眠るヤコブがその夜見た夢。それが、この天から地へと届く階段の夢でした。しかも、その階段を天使たちが上り下りしている。

 自分のやってしまったことの結果に恐れながら、不安な一夜を過ごしたヤコブが、なんと神の恵みが、今、ここにあることを知ります。自分は神から見捨てられていない!ここに天と地をつなぐ階段がかけられているではないか!この場所は天と地の出会っているところ、天の門だ!と気が付きます。ヤコブのこの畏れと、おののき、そして感動と喜びはどのように表現したらいいでしょう。ヤコブは枕にしていた石を立てて、生涯忘れることのできない恵みの出来事として、その場所をベテル(神の家)と名付けて記念しました。

 ナタナエルの主イエスに対する信仰が十分なものとなるためには、受肉した神の言葉であるイエスにおいて、天と地が出会っているところが必要でした。それがこのヤコブの夢に見た「階段」です。

私たちにも天に届く「ヤコブの階段」、いや、「イエスの階段」が必要ですね。時として、四面楚歌の中の私だったり、失敗の末のこんな情けない私だったりしますが、たとえそうであっても、神の恵みは私を離れないというこの確信、それは本当にありがたい確信です。そして、「天と地」、「神とわたしをつないでくれる架け橋」があるという信仰は涙の出るくらい嬉しいことです。

 天の栄光が地に降って人々の目に見えるものになった。これが主イエスです。この主イエスと出会うことによって、地上の私たちは天にまで上げられるのです。ナタナエルは、このヤコブの階段の話を通して、主イエスこそ天と地の間に立てられた「まことの架け橋」であることを知らされました。

神の子であって、人の子。100%神であって、100%人である方は、主イエスをおいてほかにありません。まさに天と地のつながり合うところに主イエスはおられます。主イエスこそが天の父と私たちをつなぐ「階段」、「架け橋」、「道」、です。

この主イエスとの断ち切れることのない交わりに生きたいと心底から願います。御言葉に聞き、祈り、隣人との交わりに生きる。まさに、神の神秘である主イエスによって、私たちは天に迎えられます。永遠の命に生きる者とされます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2024年1月8日月曜日

新たなる生

 2024.1.7. 小田原教会

新  た  な  る  生

創世記1:1-5; 詩篇29; 使徒言行録19:1-7; 

マルコによる福音書1:4-11

江藤直純牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 20代前半の頃だったでしょうか、『聖書と教会』という雑誌を読んでいました。その月の特集は「洗礼」でした。他は全部忘れましたが、今でも覚えている一つの記事というか一つのエピソードが載っていました。それはAという後に知り合いになった牧師が洗礼を受けたときの思い出です。その青年は洗礼式に臨んで非常に緊張していたそうです。

 その教会の伝統は洗礼槽といういわば一人用の小さなプールというか深いバスタブというか、それに入り、全身を水の中に沈めさせて洗礼を授けるやり方でした。ルーテル教会をはじめ多くの教会で行う滴礼という水を三度頭の上に降り注ぐというかかける、滴らせるやり方とは違って、全身を頭まで水に沈める浸礼というやり方です。ヨルダン川のほとりで洗礼者ヨハネが行い、主イエスもまた受けられた洗礼のやり方です。今でもバプテスト教会などはその伝統を守っています。ギリシャ語でバプティゾウという動詞は「水に浸す」という動作であって、バプティスマあるいはバプティスモスいう名詞は「水に浸すこと」です。「洗礼を施す者」はバプティステイスと言います。その雑誌に寄稿した方は緊張しつつ全身で肩まで洗礼槽に入り、今まさにバプティスマを受けようとしていたのです。

 ところがそこで事件が起こったのです。A青年は緊張の余りそこで気を失ったのです。目が覚めたときは、牧師館の一室で布団に寝かされていたそうです。そうなのです、彼は洗礼式において、死と生を、正確に言えば、死と新しい生を経験したのです。その方の文章はさらにその経験を思想的に、神学的に深めたものだったと思いますが、50年以上も前のことで私は詳しいことは覚えていません。ただ私が記憶していることは、彼が洗礼を受けるに際して文字通り死と新たな生を経験したということと、私はそのとき何だか羨ましい気持ちになったことです。

 私は生まれて一月後に幼児洗礼を受けたので、自分の洗礼のことなど何一つ記憶にはないのです。自分が洗礼を授ける側になって初めて、若い両親と共に聖壇に上がり、母親に抱かれた赤ん坊が牧師にそっと頭に三度水をかけられ、タオルで拭かれ、祝福を受ける姿を見て、自分が受けた洗礼というものがどういうものだったかを追体験するばかりです。あのA青年みたいなまことにドラマティックな洗礼体験は記憶にはないのです。だから羨ましいなと思ったのです。

 宗教改革の中で、本人の自覚的信仰というものを強く主張したグループは、当時ほぼすべての人が受けていた幼児洗礼を否定し、再洗礼派という運動を起こしました。今日は自覚的な成人洗礼を重んじる伝統がプロテスタントの中では大きな位置を占めています。幼児洗礼と成人洗礼をめぐっては話すべきことがたくさんありますが、本日はいたしません。A青年の出来事というか事件だけをご紹介することにとどめます。もう一度言えば、彼は短く、象徴的にではありますが、洗礼式の際に死と生を、死と新しい生、新たなる生を経験したのです。


2.

 そもそも洗礼とは何でしょうか。何のために行うのでしょうか。それを考える前に、今日の福音書の日課には洗礼には二種類あると記されていることに気がつかされます。それは洗礼者ヨハネが行った「水で授ける洗礼」と主イエスがなさるという「聖霊でお授けになる洗礼」の二つです(マコ1:8)。それらは何が違うというのでしょうか。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(1:3)との預言のとおりにヨハネが登場します。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ」(1:6)るという世間とはおよそかけ離れた特異な、はっきり言って異様な風貌で禁欲的な生活を送りながら、町中にではなく「荒れ野に現われて」(1:4)、相手構わず激しく「悔い改め」を迫ったのです。場所は「ヨルダン川沿いの地方一帯」(ルカ3:3)でした。

 ふつうの人ならいったい誰が自分に向かって手厳しく悔い改めを迫る人に好んで近寄るでしょうか。誰でも自分がかわいいのです。耳に痛い言葉を言う人など顔も見たくない、そんな話しなど聞きたくもない、そう思い、そんな人を避けるのが当たり前の反応ではないでしょうか。マタイは彼がただ「悔い改めよ」と言っただけではなく、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ3:7-8)と容赦なく言ったと記しています。ルカは集まった群衆の中には徴税人もいれば兵士もいたと伝えています。マタイは「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢」(マタ3:7)来たとまで書いています。マルコが「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」(マコ1:5)ヨハネのもとに集まって来たというのはいささか誇張があるかもしれませんが、集まったのはけっしてごく限られた人たちではなかったこと、むしろかなり大規模な社会現象が起こっていたことはたしかでしょう。

 それほどまでにヨハネの言葉は人々の心に鋭く深く突き刺さったのです。悪いことをしているのは自分だけでなく世間では多かれ少なかれ誰だってやっていることだなどという弁解は通じない、人の目はごまかせても神の目はごまかせない、このままでは神の怒りを免れることはできない、そう受け取った人々は自分の「罪を告白し」(1:5)、ヨハネが呼び掛ける「悔い改めの洗礼」を受けたいと申し出たのです。犯してしまったあのことこのことは取返しがつかないけれども、それらを悔い、そのようなことを繰り返すまいと願って、汚れた体と心を洗ってもらおうとヨハネの前に進み出たのです。何とかして、何としてもヨハネに救ってもらいたいと願ったのでしょう。その気持ちは私たちも共感、同感できます。

3.

 水で洗い清める、そのイメージはくっきりと明らかです。体が汚(よご)れたときに水で洗い清めます。日常生活の中でも手足がよごれたときは水で洗い流します。江戸時代も旅人が宿に着いたら盥に水を汲んで持ってきて埃まみれになった足を洗ってから、上がってもらいました。ユダヤでも同じ習慣がありました。家に客が来ればまず水で土埃を洗い流してあげていました。

 手の汚れ、足の埃は水で洗い流せます。そのことからの連想でしょう。悔い改めるときに心の汚れ、穢れを洗い流すということで表現するのです。水垢離という宗教的伝統は日本にもあります。斎戒沐浴いう言葉も生きています。ギリシャ語のバプティゾーは水に浸す、洗い清めるというのが元々の意味で、そういう行為が宗教的な意味合いを込めて行われる時に「洗礼を授ける、施す」と訳すのです。ヨルダン川に入る者も真剣でした。罪を告白し、罪を洗い清めていただきたいとひたすらに願いました。その者を水に浸し洗い清めて洗礼を施すヨハネもそれ以上に真剣でした。

この時代よりも千年も前のことでした。ダビデ王が部下の妻に心を奪われ不倫の関係となり、さらにはその夫を戦死させるように仕向けた罪を親友ヨナタンに指弾されて悔い改めたときの詩が詩編51編です。その詩はこう始まっています。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」(詩51:3-4)。自分の心がどれほど穢れているかに気づいた彼はさらにこう謳います。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪より白くなるように」(51:9)。ここでも罪を汚れのように払ってくださいとか、ほこりのように洗い流してくださいと表現しています。人間の言葉ですからそこには限界があります。どうしても比喩的な行為と言葉を使わざるを得ないのです。よごれけがれをきれいな水で洗い流すという象徴的な表現が洋の東西で用いられてきました。そのひたむきさ、真剣さをもちろん認めます。尊重すべきであって、けっして否定する者ではありません。

 しかし、これだけは申し上げなければなりません。心のよごれや穢れは当然ですが水では洗い流せません。清めることはできません。その心のよごれ、穢れ、キリスト教が罪と呼び、仏教が業と呼ぶ人間の本性は水でもって洗い流し清めることはできないのです。言い換えれば、人間のする反省や行いや努力や修行でもって人間の本性を変えることはできないのです。問題はそれほど根が深いのです。

 宗教改革者ルターが「95箇条の提題」の冒頭で「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」と言いました。ルターは自分のこととして知っていたのです、私たち人間は一度徹底的に悔い改め、罪が洗い流され清められたら、あとはもう大丈夫だとは思えないということを。全生涯が悔い改めであるとは、生涯にわたって悔い改めが必要だということです。なぜなら、心の奥底の罪は生きているかぎり残っているのだと知っていたからです。

 最近たまたま目にした親鸞聖人が遺された「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」の中にこういうものがありました。「悪性(あくしょう)さらにやめがたし こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり 修善(しゅぜん)も雑毒なるゆえに 虚仮(こけ)の行とぞなづけたる」。800年前の日本語ですからちょっと難しいですが、現代語訳にはこうなっていました。「悪い本性はなかなかかわらないものであり、それはあたかも蛇やさそりのようなものである。だからたとえどんなよい行いをしても煩悩の毒がまじっているので、いつわりの行いというものである」と。悪い本性はなかなか変わらないのだと喝破しています。ルターにしろ、親鸞にしろ、人間の骨の髄にまで浸み込んだ罪を深く認識していたのです。

 だからこそ親鸞聖人が仏教の修行を通じて救いに入る道ではなく、ただ阿弥陀様の大慈悲にのみ縋ることによって救いに入れていただく道を主張したのだろうと改めて納得したことでした。ルターは信仰義認、あるいは恩寵義認ということを終生叫び続けたのです。人間のなす業によってではなく、ただ信仰を通してのみ、端的に言って神の恩寵、恵みによってのみ人は義とされ救われるのだと教え続けたのです。

4.

 洗礼者ヨハネが言った二つの洗礼、彼が授ける「水による洗礼」と、来たるべき主イエスがお授けになる「聖霊による洗礼」、その二つのうちの後者、聖霊による洗礼とは、人間の悔い改め、自己反省、自己否定、さらにはひたすらなる信心、修行、良い行ないによる罪の赦しを求めての水の洗礼とは真逆なのです。

 施す人が誰かという点から違います。水での洗礼をするのはもちろん人間です。本人の洗礼を受けたいという意思があり、たとえばヨハネと言った優れた宗教者の悔い改めの勧めとそれにふさわしい生活の指導があります。しかし、それは望ましいことではありますが、それによって人間の本性が変えられることはないのです。謂わば根本の所では「古い人間」が生きているのです。

 それに対して、聖霊による洗礼は逆立ちしても人間には施すことはできません。聖霊とは神の霊、キリストの霊です。それを思いのままに動かすことができるのは神さまだけ、キリストだけです。そして、水に対比される聖霊とは、神の働きでありキリストの働きです。使徒パウロは、私たちは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」(ロマ6: 3)のだと言います。キリストと結ばれる洗礼を受けたので「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(6:4)とはっきりと言いました。いいえ、キリストと共に死んだだけではありません。こう続けました。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(6:4-5)と。私たちは聖霊の洗礼によってキリストと共に死に、さらにキリストと共に新しい命を生きることになるのです。

 この恵みの洗礼は私たちが悔い改めたからいただけたのではありません。それが恵みであるのはあくまで無条件に、無前提で与えられるから恵みなのです。悔い改めはよいことです。必要なものです。しかし、それが立派に果たせたから、真人間の心を取り戻せたからご褒美として神の恵みを、つまり罪の赦しを、さらにはキリストと共に生きる幸いを与えられたのではありません。そもそも完全に悔い改めることなどできません。

 順序が逆さまなのです。恵みとしての聖霊の洗礼が授けられたから、キリストのほうからの一方的な救いが差し出されたから、弱さや欠け、破れ、総じて罪を抱えたままなのに罪の赦しを宣言していただいたから、罪人なのに無条件で神の子として受け容れられたから、不信心だったのに先に贖いとしてイエス様が十字架上で死んでくださったから、私たちはそのような恵みを受けるのに値しないにもかかわらずキリストの恵みをいただくことに心底驚きます。そして感謝します。そこから悔い改めの心が湧き上がるのです。「恵みから悔い改めへ」なのです。

 地上で生きるかぎり、悔い改めても、悔い改めてもそれでも私たちは罪を犯しますにもかかわらず、そういう私たちに十字架と復活の主イエス・キリストは赦しと愛とを与えられます。そのような、言葉に尽くせない神の恵みに全身を浸し浴させてくださることが「聖霊で洗礼をお授けになる」ことなのです。それによって、自力で生きようとする古い自己は死に、キリストの恵み、神の愛、聖霊との交わりによって生かされる新しい命を生きるようになるのです。

 のちに著名な牧師となった青年Aは、洗礼槽の中で気を失って溺れ、瞬間的に死を経験し、牧師館の一室で目が覚めたときに新しい生を歩み出しました。キリストと共に死に、キリストと共に新しい命を、新たなる生を生き始めたのです。これほどドラマティックな体験を伴うかどうかはともかく、私たちは皆このような聖霊の洗礼を受けたのです。あるいは招かれているのです。「主の洗礼」を記念するこの日に、主が授けてくださる洗礼の恵みを改めて思い起こしましょう。そうしながらこの新しい一年を一日一日生きて参りましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2024年1月7日日曜日

礼拝メッセージ「神の子として生きる」

2024年1月7日(日) 主の洗礼主日 創世記:1章1~5

使徒言行録:19章1~7

マルコによる福音書:1章4~11

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは先週、聖霊に導かれたシメオンとアンナが、この子こそ人々が待ち望んでいた救い主だという赤ちゃんイエス様に出会い、心の底からの魂の平安を得た出来事を祝いました。それはマリアを母としてお生まれになったイエス様が、神から遣わされた救い主であることを世の人々に明らかにした出来事で、主の顕現とか、主の公現と呼ばれています。

 そして今日は「主の洗礼」の祝日です。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、主が30歳頃のことですが、この時、神は、思いを込めた声をかけて、主イエスが「愛する子、かわいくてならない神の子」であることを示し、聖霊を降しました。この出来事は主イエスにとって救い主としての活動の出発点となりました。

 さて、今日の旧約日課は創世記の最初のところですね。138億年前に「光あれ」とこの宇宙が始まり、そして35億年前に地球には生命が生まれました。2020年末に「はやぶさ2」が隕石の粒を持ち帰りましたね。それは地球が生成されたころの隕石の粒ですから、「土の塵」から生命が誕生した痕跡が何か掴めるのかもしれません。

科学は宇宙と生命の始まりの仮説を立ててそれを証拠によって実証しようとます。一方聖書は聖霊に導かれて、神話の形で宇宙と人類の創生の出来事を語ります。この二つに共通することの一つは、始まりがあり終わりがあると伝えていることではないかと思います。

 ところで、今回私は「光あれ」の直前の言葉に注目しました。まず初めに神の霊が満ちていたことが述べられています。神が天地宇宙をお創りになる前、まだ何も形が整わなかったとき、1章2節、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と書かれています。

 21世紀になって、宇宙はダークマター(暗黒物質)と呼ばれる何かでできているということがわかってきました。その闇の面を神の霊が「動いている」と気付かされました。闇の面を神の霊が舞うように動いているところに、神は「光あれ」と宇宙を生み出してくださった。聖書がそう語っているように思えました。

 21世紀になっても、地球のあちこちで紛争や戦争が絶えず、私たちは暗闇の重苦しさを感じています。しかし、この地球を神の霊が覆っている。しかもそれは動いている。神の霊が私たちを、地球もろともに包み、常に生きて働きかけていてくださる。そう思うとなんだか励まされて、頑張ろう!という気持ちになります。

 神の霊が生きて満ちている中で天地宇宙が創造された。そして主イエスの洗礼の時、神の霊が再び新たに動き始め、主イエスに降った。マルコは10節、「“霊”が鳩のように」と言って、あたかもここに新しい創世の物語が始まったのだと告げているようです。主イエスへの聖霊の降臨によって、神は主イエスによるすべての人間への救いの歴史を開始なさったのです。マルコはこの壮大な真実に気づいて語っているのです。

では、今日の福音箇所に入ります。1章4節、5節「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた」とあります。

 この「バプテスマ」とは、本来は「水に沈めること、浸すこと」を意味する言葉です。そして、ヨハネはこう言います。8節「 私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる」。ヨハネは、私は水で、「その方は聖霊でバプテスマを授ける」と言いますが、ヨハネのイメージしていた「聖霊によるバプテスマ」と、実際に主イエスが神からお受けになった「聖霊によるバプテスマ」とは内容がまったく違います。

 ヨハネにとって、聖霊は聖なる裁きをくだす存在でした。ですからヨハネは「その裁き主である方」によって決定的に裁かれる前に、「今のうちに悔改めよ」、そして「罪を赦してもらえ」と人々に迫りました。そして9節「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた」のです。

 私たちと違って主イエスは神と人の前で悔い改める必要のない、罪のない方です。その主が「悔い改めの洗礼」を受けようと集まってきた人々、いわば「罪びとの群れ」の中に入っていって、みんなと一緒になってヨハネから洗礼を受けました。主イエスはなぜ罪人が受ける悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか。

 それは、私たちと一つになるためです。私はこう思いました。「なあんだ、イエス様もヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのか。じゃあ私たちと同じだね?」と。みんなと同じことをして、仲間になる。私たちがよくやることですね。主は悔い改めの洗礼を受けることによって私たちと同じ人間の一人となった。そこから新しく救いの歴史を始めるためです。これが主イエスがお始めなった人類を救う第一歩なのです。すべての人が悔い改めたら、世界中が真の平和で覆われると本当に思いませんか。

 こうして主イエスは本気で私たちの中に入ってこられた。罪人と同じ洗礼を受けて、人類と一致した上で、いよいよ救い主としての活動を開始した。マルコは、そこから話を始めます。

 主イエスはこの洗礼で、完全に、私たちと一つになりました。そう信じることが大事です。あらゆる罪びとと、あらゆる悲しみと、あらゆる痛みと一致する。そうすることによって、つまり、神から遣わされた方が私たちと一致することによって、私たちが救われる。主イエスが私と一つだから私は救われる。それこそが、「聖霊による洗礼」といういわば新たな創世記の始まりです。

 10節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。このことも聖書から見てみましょう。

 「天が裂ける」。これは神がこの世界に介入することを表す表現です。イザヤ書63章19節にこうあります。「私たちははるか昔から/あなたに統治されない者/あなたの名で呼ばれない者となっています。/あなたが天を裂いて降りて来てくださったなら/山々は御前に揺れ動くでしょうに」。この時ユダヤの人々はバビロンから侵略され、徹底的に痛めつけられて、悲惨な状況にあえいでいました。旧約聖書の「哀歌」はそれを具体的に語っています。

 信仰の基である神殿は破壊されつくし、道を示してくれた祭司たちは殺され、家族もバラバラになり、食べ物はない。飢えに堪えかねて、死んだ子供を煮炊きする人々まで現れた。頼りにするものがすべて奪われ、人々に残されたものは、恐怖と絶望だけという状況です。更に、人々は、そんな状態を招いてしまったのは、自分たちが神に背を向け、偶像礼拝に走ってしまったためだとう負い目をもっていました。

 しかし人々は「自分たちは神の恵みに値しない」と卑下しながらも、必死になって神に訴えました。「どうか、天を裂いて降ってください」と。この世界に介入してくださいと。神への背き、人間の悲惨さ。それは主イエスの当時にも、そして今の時代にも共通しています。

 主の洗礼の時、「天が裂けて」主イエスの上に「聖霊」が降ってきたということ、それは神が人類の歴史に介入なさったということです。主の洗礼によって、主イエスこそが人類の訴えに対する神の決定的な回答であることが明らかになりました。

 11節「すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』」とあります。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」この言葉は、神が、主イエスを通して、私たち一人ひとりに向けて、「可愛いねえ、大好き」とおっしゃっているのです。

(なぜそう言えるのか)

 悔い改めて救われる必要があるのは、われわれ、人類です。けれども、この主イエスという、聖霊に満ちた方が洗礼を受けて、十字架の死と復活を経て私たちの内に宿ったおかげで、私たちも聖霊に満たされ、聖霊による洗礼を受けたことになるのです。これこそが福音です。

 事実、主イエスは、もう来られました。そして、私たちと一つになりました。それによって、私たちはもう、聖霊による洗礼を受けているのです。この事実に目覚めましょう。今や私たちは神のみ心に適う者です。私たちも神の子です。

 神から愛され恵みを受けている私たちです。その恵みへの感謝の応答は私たちに託されています。あとは、神の子である私たちの番です。それに気づかずにいる人、救いを求めて右往左往している人たちに、「あなたはもう、聖霊による洗礼を受けている。救いのうちにある」という喜びを、主イエスと共に伝えていきましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン