2023年12月21日木曜日

目を覚ましていなさい

 2023年12月3日 小田原教会 江藤直純牧師  

イザヤ63:19b-64:8; 詩80:2-8, 18-20; Ⅰコリ1:3-9; マコ13:24-37

1.

 アドベントの第一週は必ず終末に関する日課が与えられます。マルコ福音書の13章はマルコの小黙示録と昔から言われてきました。ここの小見出しを並べてみると、神殿の崩壊の予告、大きな苦難の予告、人の子が来る、いちじくの木の教え、目を覚ましていなさいとなっていて、まさしくこの世界の終わりに関する予告や教えがぎっしりです。

 終末、一週間の終わりのことではなく、世界の終わり、歴史の終わりのことだと思うとどうしてもネガティブな気持ちになります。ですから正直言って聖書には余り出て来てほしくない部分です。バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井いっぱいに描かれているミケランジェロの「最後の審判」は実に名画だと思います。絵としては首が痛くなるまで見上げていたくなります。しかし、自分がその中に審判を受ける者の一人としていると思うと、穏やかな気持ちではいられません。自分が立派な人間だとは決して思えなくても、最後の審判とか、断罪とか、滅びとかと聞くと、逃げ出したくなる気がします。それがキリスト教が教える神さまのご計画であり、歴史の流れだというのなら避けられないとは思うものの、聖書が説く終末とはほんとうにそのように恐ろしいものなのかと立ち止まって考え直したいのです。東洋的仏教的な末法思想とは別物であるはずです。

2.

 世界の終末、歴史の終末というだれも経験したことのない事態について考えを深めようとするのは至難の業ですが、一人の人間の終末ということならば、自分自身の体験としてはいまだ未経験ですが、身近で見たり聞いたり経験したりすることはあります。抽象的観念的な死ではなく、愛する人が死ぬという個別具体的な事実、出来事を経験するのです。オギャーという喜びの泣き声とともに始まるこの世でのいのちは、長いか短いかの違いはあっても、平凡か波瀾万丈かは別としていろいろな出来事の積み重ねで豊かなものとされていきます。ファミリーヒストリーならぬパーソナルヒストリーは様々なエピソードに溢れています。100回以上も続いているNHKの朝ドラも大半は一人の主人公の子供時代から晩年までが描かれていて、見る人たちを笑わせたり涙ぐませたり喜ばせたり励ましたりします。それが私たちの人生です。しかし、誰であれ最後の時を迎えます。それが死です。誰にも誕生があり死があります。しかし、多くの場合、その死は、或いは死の直前までが穏やかなもの、安らかなものだとは限りません。

 現に今私が10日前にお見舞いに行った方は、夏前にガンが見つかったときにはすでにステージ4だったのです。部位も難しいところで発見された時期も遅かったので、手術での治療はできませんでした。病院でできる治療はすべてやった後、今は娘さんが休暇を取ってご自宅に引き取って介護をなさっています。いわば在宅ホスピスです。夫の方はご高齢なので、お一人で暮らすのが精一杯で、末期の妻の介護も看取りもご自分で引き取ってできる状態ではありません。お見舞いに伺ったときも、その方は酸素マスクで命を支えられており、娘さんは何度も何度も繰り返し痰の吸入をなさっていました。もちろん口から食事を摂ることもできなくなっているので点滴が繋がれていますが、しかし、この時点で栄養を入れると浮腫んでかえって苦しいので、今はむしろ栄養分は控えています。もはや時間の問題です。私はいつ電話がかかってくるかと案じつつ、祈りつつ毎日を過ごしている状態です。

3.

 患者の方のこういう状態を終末期というのでしょう。では、それは迫りくる死とか最後の審判とか滅びという言葉に代表され恐るべきものでしょうか。色で表わすならば黒、闇黒、くらやみでしょうか。たしかに、その方の状態を見て、そう思われる方もいらっしゃることでしょう。これこそまさにその人の終末だ、と。

 先日若松英輔というカトリックの信徒で文芸評論家また批評家の方が著わした『悲しみの秘儀』という書物を読んでいて、その中で紹介されていた岩崎航(わたる)という人のごく短い一編の詩と出会いました。岩崎航という人は三歳の時に筋ジストロフィーを発症し、それ以来ずっとベッドの上での生活を強いられてきた人でした。身動きが自由でないばかりではなくて、呼吸すら医療機器の助けを必要とする人です。人はこれを見て、人生即終末だと思うかも知れません。若松は岩崎が書いたある詩を私に教えてくれたのです。

   どんな/微細な光をも/捉える/眼(まなこ)を養うための/くらやみ

 私は一瞬息を呑み、言葉が出て来ませんでした。何度か静かに読み返しました。著者の若松英輔はこの詩の後に次のような彼の思いを書いていました。

 「暗闇は、光が失われた状態ではなく、その顕現を準備しているというのだろう。確かに人は、闇においてもっとも鋭敏に光を感じる」。そう言ってさらにこう続けています。

 「ここでの光は、勇気と同義だが、同時に希望でもある。勇気と希望は、同じ人生の出来事を呼ぶ二つの異名である。内なる勇気を感じるとき人が、ほとんど同時に希望を見出すのはそのためだ。この詩集の序文で岩崎は、真に希望と呼ぶべきものは『絶望のなか』に見出したと語る」と。そして、岩崎のもう一つの言葉を引用しています。

 絶望のなかで見いだした希望、苦悶の先につかみ取った「今」が、自分にとって一番の時だ。そう心から思えていることは、幸福だと感じている。

 岩崎航という詩人が三歳の時から、自分の置かれた状況のことを「どんな/微細な光をも/捉える/眼を養うための/くらやみ」と捉えることができるようになるまでの十年間だか二十年間だかは、傍から見てだけでなく、ご本人にとっても間違いなく「くらやみ」だったことでしょう。「絶望」と「苦悶」の日々だったことでしょう。彼が終末とはまさにこう言うものかと思っていたとしても少しも不思議ではありません。

 しかし、その「くらやみ」は言葉の本当の意味での終末ではありませんでした。その「くらやみ」は「どんな/微細な光をも/捉える/眼を養うための/くらやみ」だったのです。「希望」を見いだすための「絶望」だったのです。たしかにあれは客観的に言えば「苦悶」だったでしょうが、今は「幸福」と感じることができるようになったのです。これこそ終末としか言いようがないと思っていた事態の先に、本物の、幸福な終末が待っていたのでした。

4.

 マルコ13章の今日の日課の前の三つの段落には、神殿の崩壊の予告、終末の徴、大きな苦難の予告という重たい、まさに暗闇を予感させる話しが続いていました。本日の福音書の日課が始まる「人の子が来る」という段落にも次のように書いてあります。「これらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。24-25節です。

 しかし、それが終わりではありませんでした。26-27節を見落とさないでください。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と。暗黒のまっ唯中にまったく異なるものが登場するのです。

 その次の「いちじくの木の教え」の段落の中にも、29-31節にこう記されています。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代はけっして滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。わたしの言葉は滅びない。わたしの約束は変わらない。わたしの意志はどんなことがあっても、天地が滅びるようなことが起こっても、必ず成就される。すべての者を救いに招くとのわたしの愛は決して決して滅びない、決して変わらない、必ず成就されるのだと宣言なさっているのです。

 32節以下の段落には「目を覚ましていなさい」と小見出しが付けられています。それはこの段落の中で、主イエスが「目を覚ましていなさい」と三度もおっしゃっているからです。では、目を覚ましていなさいとは、一睡もするな、24時間起きていなさい、今日も明日も明後日も眠ってはダメだ。その時がいつ来るかは「だれも知らない。天使たちも子も知らない」終末の到来に備えて、ずっと起きていなさい、目を覚ましていなさいという命令でしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろ、くらやみの中にあっても、たとえ微細であれ、光を捉える眼を養っていなさいとの勧めのことではないでしょうか。今くらやみに包まれていても、必ずその中に、その奥に光はあると信じる勇気を持つこと、あるいは、光は必ず光のほうから訪れてくるとの希望を持つことを勧められているのではないでしょうか。言い換えれば、主イエスが終わりの時にすべての人を招く、救うとの言葉を、約束を、意志を揺るがずに信頼していなさいということではないでしょうか。

 27節の言葉が気になります。それは「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と語られているからです。呼び集められるのは「彼によって選ばれた人たち」だと言うのです。では、「選ばれた人たち」とはいったい誰のことでしょうか。やはりごく限られた、優れた人たちのことでしょうか。

 10月15日の礼拝で聞いたマタイ福音書22章の「婚宴のたとえ」の中の一節を思い出してください。終末の時に到来する天の国は「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(マタ22:1)と言われました。いざ婚宴のときが来たとき、招待されていた人たちが無礼にも断り、呼びに来た人たちを殺してしまいました。神の救いの約束を無視し、足蹴にしてしまったのです。その結果どうなったか。王は家来たちにこう命じました。「だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(マタ22:9)。実際「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」(マタ22:10)のです。一人でも多く婚宴に招きたい、それが王の思いでした。

 テモテヘの手紙一には「神はすべての人々が救われ真理を知るようになることを望んでおられるのです」(2:4)と書かれています。ペトロの手紙二には「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(3:9)と言われています。そうです。聖書のどこを見ても、くらやみ、苦難、滅びの中で罪人が潰れ、消え去るのではなく、一人でも多くの人が真の終末に、真の救いに、新しい天に入れられていくのを神さまは望んでいらっしゃるということが書かれているのです。そのための主イエス・キリストのご降誕であり、十字架であり、復活なのです。

5.

 冒頭でご紹介したガン末期の方は、不治の病いというくらやみと夫を残していくという苦しみの中で、確かに光を見出していました。最初はドクターにその身を委ねられましたが、もはや回復は望めないと知り、ご自分のすべてを子どもの時から信じ信頼し従って来た主イエス・キリストに委ねることを明らかになさいました。あの日牧師が枕元で祈りを捧げたとき、もはや声は聞こえませんでしたが、たしかにその唇は「アーメン」と唱和していました。「では、帰るからね」と夫の方が告げたとき、はっきりと首を横に振り「イヤです。ここにいてほしい」という意思表示をなさいました。慎ましやかな彼女は60年になろうとする結婚生活でそういう自己主張をどれくらいしてきたかは分かりませんが、これ以上ない愛の表現だと思いました。高齢の夫はただちに残ることを決め、手を握りしめ、やさしく撫でさすり続けました。普段人前ではしない愛の表現でした。その手の温もりを通して神さまの手の温もりが伝わったことを信じます。この信仰と希望と愛があるのですから、光を捉えているのですから、魂の目は覚めているのですから、いつ真の終末を迎えても安心して「アーメン」と応えるでしょう。私たちもそうしましょう。アーメン

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