2021年5月3日月曜日

「書いた、愛した、生きた」江藤直純牧師

 2021.5.2.小田原教会

書いた、愛した、生きた

使徒8:26-40,Ⅰヨハ4:7-21, ヨハ15:1-8

江藤直純

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

「生きた、書いた、愛した」。これは『赤と黒』などの小説を書いた、19世紀のフランスの作家スタンダールの墓に刻まれた有名な言葉です。日本ではこの順序「生きた、書いた、愛した」の順序でよく知られていますが、イタリア語で書かれた実際の墓碑銘は「書いた、愛した、生きた」の順です。「生きた」が最初に出てこようが最後に出てこようが、彼が自分の人生を振り返って、生涯を掛けてやったことは何かと言えば、軍人とか官僚とかにも一時従事しましたが、何よりも作家として長編短編の作品を多数書いたこと、そして何人もの女性を愛したことであり、そのようにして生を全うしたのだと総括したのです。実に簡潔に、明確に、印象的に自分の人生をまとめているのです。

これを真似して、スポーツ選手なら、「走った、愛した、生きた」とか「投げた、愛した、生きた」とか言えるでしょうし、ほかの職業に就いた人は「教えた、愛した、生きた」とか、「研究した、愛した、生きた」とか、「作った、愛した、生きた」とか、「育てた、愛した、生きた」などさまざまな変化形で人生を締め括ることができることでしょう。

○○をした、そして、愛した、そのように生きたと言うときの「愛した」ということはだれにでも共通でしょうか。その内容は同じでしょうか。スタンダールの「愛した」はおそらく情熱的な恋愛をいくつもしたという意味でしょう。あるいは、ある人は大好きな夫を或いは妻を生涯一筋に愛したと言うこともできるでしょう。特定の人間ではなく、芸術や自然や趣味を愛したという人もいるでしょう。それは人それぞれでしょうし、ほかの人がその愛をああだこうだと評価したり批判したりするべきでもないでしょう。その愛の対象は、ほかの人から見てどうであれ、なぜかこの人にとってはこよなく価値あるものであり、尊いものであり、その人を惹きつけてやまないものであり、好きにならずにはいられないので、この人はその人を、或いはそのものを、そのことを愛したのです。ああ、美しいなとか、きれいだな、かわいいな、或いは優しいな、とか不思議だなとか、おもしろいなとか感じて、愛するようになるのです。人間にはそのようななにか素敵なもの、価値あるものを愛さないではいられない能力というか性質というか本能が備えられています。そして、そのように「愛する」ことはとても良いことだし、人間的なことだと私も思います。


2.

わたしが十代の頃だったと思いますが、たぶん牧師先生に勧められて読んだ本に、北森嘉蔵先生というもともとはルーテルの牧師で戦後東京神学大学の教授になった方の『愛における自由の問題』というラジオでの講演がもとになった本がありました。その中に今でも忘れられない一節があります。そこではパスカルという哲学者の次の言葉が紹介してあったのです。「彼は十年前に愛した婦人をもはや愛さない。そのはずである。彼女は以前と同じではなく、彼も同じではない。彼も若かったし、彼女も若かった。今や彼女は別人である。彼は、彼女が昔のようであったなら、今もなお愛したかもしれない」。

北森先生はこの言葉が提示している問題、つまり、なぜ人はかつて愛した相手を今は愛さなくなるなどということになるのかということを手掛かりに、愛というものの本質を考えていらっしゃったのです。答は単純です。それは、相手に対する愛が、相手の持つ価値、値打ちというものに依存しているからだというのです。そして、簡単な例として、わたしたちが花を愛するのは、花が美しさという価値とか、香りの良さという価値を持っているからだというのです。それを持っているバラとか百合を部屋に飾ることはしても、そのような価値を持っていない道端の雑草を飾ったりはしないのです。枯れてしまった花を飾りません。その価値の故にその花を愛し、または愛さないのです。相手が人間の場合も同じだというのです。

つまり、パスカルが言わんとすることをきっかけに、相手が何かしらの価値を持っているから相手を愛するという愛は、たとえそうすることが人間にとっては自然であり本能にかなってはいても、はたしてそれはほんとうに自由な、何ものにも縛られない、自発的に湧き出した、そして報いを求めない愛だろうかと問いを深めていくのです。そうは言っても、と呟く方もいらっしゃるでしょう。好きになるとか愛するとかいう人間にとってごく自然な、本能的なことを小難しい理屈を並べ立てて議論しなくてもいいではないかとお考えになっても当然でしょう。

しかし、今朝わたしたちは第二の日課、ヨハネの手紙一の4章や、ヨハネによる福音書15章の中で何度も何度も「愛」とか「愛する」という言葉を聴きましたが、そこで聴く「愛」とか「愛する」は、わたしたちが日常生活の中で何気なく使っている「愛」とか「愛する」と同じ意味でしょうか。スタンダールが「書いた、愛した、生きた」と自分の墓碑銘に刻ませたときの「愛した」と、聖書が言っている「愛」や「愛する」とは同じ内容、同じ質でしょうか。さらに、ヨハネの第一の手紙やヨハネ福音書のメッセージと第一の日課、使徒言行録8章のエチオピア人の宦官がフィリポに導かれて読んだイザヤ書53章とはどういう関係があるのでしょうか。もう一度聖書を開き、御言葉に耳を傾けてみましょう。


3.

ヨハネ15章は、イエス様の告別説教と言われている、逮捕と十字架刑の前に弟子たちに語られたいくつもの教えの一部ですが、この15章は「わたしはまことのぶどうの木」で始まっており、5節で改めて「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と宣言なさっています。枝は木、つまり幹から生え出ており、その枝は豊かに実を結んでいます。先に幹があり、その幹から支えと水分と栄養分とをもたらされて枝は生きており、さらに実を結ぶことができるようになります。枝も実も言ってみれば木の一部だとも言えます。

3節を見ると、「わたしの話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている」とあります。別の訳を見ると、「私があなたがたに語って来たことばのゆえに、あなたがたは既に清い」、あるいは「わたしが語ったことばによって、あなたたちはすでにきれいになっている」と訳されています。幹であるイエス様が語ってくださった言葉、愛と赦しの言葉によって、わたしたちはすでに清くしていただいているとおっしゃっているのです。

4節「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」は、「もしあなたがたがわたしにつながっているならば、もしそう努力するならば、わたしも、その努力に応えて、あなたがたにつながっていてあげよう」と言われているのではありません。「わたしに安心してつながっていなさい。すでにわたしはあなたがたとつながってあげているのだから」というニュアンスが聞こえてきます。だからこそ、続けてこうおっしゃっているのです。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と。しかし、心配しないでください。実は、私はあなた方としっかりつながっているのだ。既にそうなっているのだ。この事実が大前提なのです。だから、イエス様はこう言われます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と。

さらに、9節以下を見れば、実を結ぶとは愛することだということが分かります。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」で始まるヨハネの手紙一の4章7節以下では、「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」と言われています。ぶどうの幹から枝へと水分も栄養分も送られていて、だから枝の先に美味しいぶどうが実っているのです。愛は神から出るものなのです。なぜなら「神は愛だからです」と8節は言います。

そこで肝腎なのは、神から出る愛とはいったい何かということです。9節には「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」と神がなさったこととその目的が明瞭に記されています。この聖句を読む人はだれでも小聖書とさえも呼ばれるヨハネ福音書3章16節を思い出されることでしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。17節にはさらにこう言われています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と。これが神の愛だとヨハネの福音書も手紙も告げるのです。

4.

ここで第一の日課をもう一度開いてみましょう。使徒言行録の8章26節以下のフィリポとエチオピアの高官の出会いの場面です。エチオピア人は馬車の上で聖書を読んでいます。「彼は、羊のように屠殺場に引かれて行った。云々」。この箇所はどこでしょう。そうです。旧約のイザヤ書53章7節をお聞きください。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように」。昔から「主の苦難の僕」と呼ばれてきたある人のことを、預言者イザヤは53章全部を使ってこれ以上ないくらい印象的に描写しています。長くなりますが、丁寧に読んでいきましょう。1節です。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」何の話しが始まるのでしょうか。次のような人のことです。2節「渇いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」どんなに貧相だったことでしょうか。

さらに続けます。3節「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」あらゆる苦難、病い、苦しみを経験していたというのです。病気や苦難は、当時の考え方では、罪を犯したから神さまから罰を受けたのだ、だから自業自得なのだ、と思われていたのです。

しかし、真実はこうでした。4節「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」ところが実は違うのです。5節「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。」それでどうなったのか。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」のです。これがあの人物が苦難をたくさん背負っていることの真相だったのです。

53章の終わりのほうにはこう書かれています。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しいとされるために、彼らの罪を自ら負った」「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」。

十二使徒の一人フィリポが霊に導かれて、エルサレムからエチオピアヘ帰る途中の高官に寄り添いました。そして、彼が読んでいた聖書の箇所、すなわちイザヤ書53章の主の苦難の僕に関する預言を、つい最近十字架刑に処せられたイエス・キリストと結びつけて説き起こしたのです。そして、このお方こそがまことの主の苦難の僕であること、この方の苦難と死によってわたしたちの罪が贖われ、赦しと平和と癒しが与えられたこと、今や甦られてわたしたちに新しい命を授けてくださることを語ったのです。エチオピア人はその場で水の中に入り、フィリポから洗礼を受けたのでした。

5.

ヨハネ福音書とヨハネの手紙が証ししている神の愛とはまさにこのことでした。神さまは立派な生き方をする、信仰深い、愛するに十分価する、大好きな人間を引き寄せてかわいがり、愛してくださるということが聖書の神さまの愛ではないのです。そういう人はほっておいても誰かに愛されるでしょう。しかし、もしもその人が立派な生き方から逸れてしまったり、信仰に迷いが生じたり、愛するに価しない存在にずり落ちてしまったりしたら、どうなるのでしょうか。わたしたちはしばしばそうなってしまうのです。わたし自身そうです。そのときには、もはや愛されなくなってしまうのでしょうか。もしもそれが人間の愛ならば、たしかにそうでしょう。

しかし、神さまの愛はそうではありません。主の苦難の僕が身を持って示した愛は、愛の対象の価値いかんに関係なくというか、価値がないにもかかわらず、自分自身がその人の苦難を引き受けてでも愛する愛でした。ヨハネの手紙にははっきりとこう書いてあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

神さまはわたしたちを、罪があっても、弱さがあっても、不完全であっても、枝として幹にしっかりとつなぎ止めてくださいます。幹の語る言葉によってすでに清くしてくださっています。さらに、幹は大地から水分も栄養分も吸い上げ、どんなに細く小さな枝であろうと、そこへ水分も栄養分も送り込んでくださいます。そうであるならば、わたしたちにできること、わたしたちがするべきことはただ一つ。送り込まれる水分と栄養分とを使って実を結ぶことしかないではありませんか。たとえ、その実が小さくても、多少とも酸っぱくても、形が不格好でも、ぶどうの実を実らせるのです。ぶどうの実とは愛することだと聖書は言っています。幹から水分と栄養分とを送り込まれるので、枝は実を結ぶのです。神さまから愛を与えられるので、わたしたちも愛することを実行するのです。ヨハネの手紙は言います。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。ヨハネの福音書もこう言います。5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。そして12節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

この神の愛をわたしたちの人生の只中で受けて、それによって神と人とを愛するようにされるのです。わたしたちは一人ひとりに与えられた務めがあり、ライフワークがあります。それが何の働きをすることかは人一人ひとり違います。それでいいのです。しかし、それだけではありません。もう一つ、大事なことがあります。わたしたちは墓に「○○をした」と書くだけでなく、「○○をした、愛した、生きた」と書くようにしたいものです。遺された家族がそう書き、刻ってくれるようにしたいものです。

その時の「愛した」とは、いうまでもなく情熱的な恋愛を何度もしたという意味ではなく、たとえ派手さはなく、たとえそれで有名にならなくても、自発的な、無償の、見返りを求めないけど、だれかを生かすために愛するという意味です。このわたしも神さまから無償の愛をいただいたのですから、わたしみたいなものであっても、小さくても、不十分でも、不完全でもいいから、人に尽くすように愛してみましょう。ぶどうの枝はぶどうの木がしてくださったことをできるのです。そうされているのです。地上の生涯を終えるとき、神さまがあなたに「誰それよ、あなたは○○をした、愛した、生きた」と言ってその生涯を祝福してくださることを信じます。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。