2021年6月6日日曜日

「蛇のせい、ひとのせい、神のせい」江藤直純牧師

 聖霊降臨後第2主日       2021年6月6日

蛇のせい、ひとのせい、神のせい

創世記3:8-15;Ⅱコリント12:2-10;マルコ3:20-35

江 藤 直 純

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1. エデンのリンゴ

 Adam’s apple、Pomme d’Adam 英語とフランス語ですが、どちらもアダムのリンゴという意味です。これは実は喉仏のことを指します。喉仏とは俗称ですが、喉の頭と書いて喉頭、その喉頭隆起、甲状軟骨の隆起したもののことです。これが特に成人男子に顕著に見られることと関係があるのでしょうが、西洋キリスト教文化圏ではこれをアダムのリンゴといいます。おそらく、アダムがリンゴを食べていたとき、神さまに声を掛けられてビックリしてリンゴが喉につかえてできたと思ってこの呼び名ができたのではなかろうかと勝手に推測しています。リンゴと言えば、新しいところでは、現在世界中で毎日のように目にするものに右側をかじられたリンゴのロゴマークがあります。アップルという会社が作ったコンピューター関連の器具に描かれていますね。

 この呼び方とかロゴの由来をご存じかどうかは別としても、クリスチャンであろうとなかろうと広く知られているのは、キリスト教では最初の人間、アダムとエバがエデンの園で神さまに禁じられていたリンゴを食べたので楽園から追放されたとか、このことが罪の始まりだ、原罪だとか教えているらしいということです。もっとも聖書――創世記ですが――にはどこにもリンゴとは書いてなくて、「園の中央に生えている木の果実」とだけ書いてあるだけですが、いつのまにかその木はリンゴということになってしまいました。その禁断の木の実を食べたせいで、人間には知恵が付いてしまったと思われています。

 聖書の冒頭の創世記では天地創造が、そしてその最後には人間の創造が語られています。最初の人間アダムはエデンの園に連れて来られて、そこで園を「耕し守る」役目を与えられます。その後、人が一人でいるのは良くないということでパートナーを与えられます。彼女はのちに命を意味するエバと名付けられます。

 この二人が経験した有名な出来事が創世記3章に描かれており、新共同訳聖書は「蛇の誘惑」という小見出しを付けています。6-7節にはこう書いてあります。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」

 彼女は、園の木の果実は食べていいのだけれども、園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけないと神さまに禁じられていることを知っていたのですが、蛇のたくみな誘惑の言葉にまんまとひっかかって、自分も男も二人ともその果実を食べてしまったのです。さあ、問題はこれから先です。

 皆さんは聖書に親しみ、この話しもよくご存じでしょうから、この後の展開も結論もご存じのことでしょう。しかし、今日は日課の8節以下を少し丁寧に読み直してみましょう。彼らは楽園追放という罰を受けてしまいますが、そうなったのはいったい何が本当の問題だったのでしょうか。どうすれば良かったのでしょうか。何か別の展開の可能性はなかったのでしょうか。


2.二つの罪

 禁断の木の実を食べてしまった――これは誤魔化しようのない事実です。神さまがお命じになっていた戒めを守らなかった、もっとはっきり言えば、神の戒めを破ってしまったのです。なぜ神はそんな戒め、禁令を語られたのか。それは神さまには神さまの深い意図というかお考えがおありだったのでしょう。わたしはあれこれ推測はしても、正直言って正解を持ち合わせていません。また人間には人間の言い分があったことでしょうが、だからと言って、言い分がありさえすれば神の戒めを好き勝手に破っていいかと言えば、もちろんそうではないでしょう。

 ドラマは次のように展開します。先ず、神さまが近づいてくる足音が聞こえたので、男と女は「園の木の間に隠れ」ます。二人は自分たちが悪いことをした、罪を犯したという自覚があるのですね。

 神さまは彼らに向かって声を掛けられます。「どこにいるのか」。神さまは二人がどこにいるか分からないので大声で探していらっしゃるのでしょうか。全能の神さまならば二人がどこに隠れたか分からないというのはおかしいでしょう。それでは、なぜ「どこにいるのか」とおっしゃったのでしょうか。それは「隠れていないで出てきなさい」とう呼び掛け、促し、招きをなさっていらっしゃるからです。しぶしぶとではなく、自ら進んで現れること、もっと言えば、神さまの前に出て来て、自ら罪を告白し、お詫びすることを期待なさったからでしょう。

 しかし、男の反応はそうではありませんでした。神さまの声を聞いてすぐには現れません。もちろん返事をするのですから逃げおおせるとは思っていないのでしょうが、進んで姿は現わしません。隠れたままで、隠れていることの弁解、言い訳をするのです。「あなたの足音が聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」と答えます。

 それを受けて神さまは、裸であることを誰が告げたのかと尋ね、「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問い詰められます。この問い掛けをなさったときの神さまのお気持ちはどうだったでしょうか。この問い掛けに対してどういう反応を期待しておられたのでしょうか。男の、そして女のそれに対する答は神さまの期待に適ったものだったでしょうか。

 男の答はこうです。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。それを聞いて神さまが女を叱られると、女はこう答えます。「蛇がだましたので、食べてしまいました」。

 男と女の答は神さまを満足させたでしょうか。神さまは蛇を罰し、続いて男と女にも罰を与え、楽園から追放されます。明らかに御心には適わなかったのです。でも、彼らは噓をついたり事実を隠蔽したりしたでしょうか。「蛇がだました」「女が取ってくれたので食べた」というのは事実そうでした。噓はついていません。だのに、神さまは罰を下されました。禁止の命令に背いたので仕方ないと言えば仕方ないですね。しかし、罪を犯してしまった後、どうすればよかったのでしょうか。ほんとうにこの結論しかなかったのでしょうか。何か別の展開はあり得なかったのでしょうか。神さまが求めておられたものは一体何だったのでしょうか。

 違反の行為をした後の二人の最初の行動は、隠れることでした。そして、「どこにいるのか」との呼び掛けを聞いても、声だけ返事はしましたが、神さまの前に姿は現しませんでした。「どこにいるのか」という言葉は、彼らがどこに行ったのか分からないから探しているのではなく、自ら出てくるようにとの促しだったのにもかかわらず、彼らはその期待に応えませんでした。姿を現さなかったばかりか、罪を認めてそのことを悔い、謝ることもしませんでした。したのは、なんとかして自己正当化をしようという言い訳だけでした。

 女は罪を認めたでしょうか。「蛇がだましたので、食べてしまいました」。罪は蛇にあって、罪を犯すことになったのは蛇のせいだと言い、あたかも自分は蛇の被害者だと言っているかのようです。蛇がたくみにだましたのは事実ですが、その言葉に乗って、禁止命令を破ったことの責任を負おうとする主体的な姿勢は少しもありません。男もまた「女が、木から取って与えたので、食べました」と言って、今度は女のせいにします。いいえ、そればかりか、彼の言った言葉をよく聞くと、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と言っています。これではまるで一番悪いのは女を与えてくださった神さまだと言っているようなものではありませんか。自分は悪くない。悪いのは女だ、いいえ、女を与えてくださった神さま、あなたが悪いのだと言っていることになります。自分の責任などかけらも自覚していません。

 私たちは、男と女が犯した罪とは神さまが禁じられた戒めを破ったことだと思っています。禁断のリンゴを食べたことだと。それはたしかに一つの罪でした。守っても守らなくてもどちらでもいいことではなく、守るべきことを守らなかったのですから、これは紛れもなく罪です。

 しかし、わたしは思います、彼らはそのこと以上に大きな罪を犯してしまったのだと。それは何かと言えば、自ら進んで神さまと向き合って、神さまを信頼して真摯に自分の思いを打ち明けることをせず、さらには、自分の罪を認めて責任を負おうとせず、それを逃れるためにその罪を他者のせいにしようとしたことでした。蛇のせい、女のせい、挙げ句の果てはその女を与えてくださった神さまのせいにして、自己を正当化しようとしたのです。こちらのほうが禁令を破ったことよりもはるかに重い罪になるのではないでしょうか。

 もしも呼び掛けを受けた時に、すぐに神さまの前に現れ出ていたらどうなっていたでしょうか。もしも言い訳をせず、他者のせいにしないで罪を認め告白していたらどうなっていたでしょうか。もしも受けるべき罰を素直に受けようと自分を神さまに委ねていたらどうなっていたでしょうか。

 しかし、実際に起こったことはすべてその逆でした。そうまでされてしまっては、神さまは彼らを赦すことができないではありませんか。ですから、神さまは怒って、いいえ、実は、悲しみにくれながら、二人を罰し、楽園から追放なさったのだと思われてなりません。彼らが向き合うべきだった神さまとはそもそもどのようなお方だったのでしょうか。


3.「あなた」とお呼びする神さま

 今朝わたしたちは礼拝の冒頭に詩編を交読しました。それは詩編130編でした。どうぞ旧約聖書の973頁をお開きください。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」との一節で始まるこの詩編は、教会讃美歌300番「悩みのなかより われは呼ばわる」と訳されているルターの作詞作曲の賛美歌の元歌としても有名です。

 詩人は「深い淵の底から」つまり困難の真只中から叫んでいますが、それは単に困り果て苦しみ悩んでいるというだけではありません。「深い淵の底から・・呼びます」とは自分の犯した、取返しのつかない罪の現実の最中(さなか)で叫んでいるということです。「あなたを呼びます」というのは、己の罪を承知で、あなたを信頼しているから縋(すが)ろうとしているのです。「この声を聞き取ってください」というのは、きっと聞きとってくださると固く信じているからこう嘆願しているのです。「わたしの声に耳を傾けてください」というのは、このお方は必ずやわたしの声に耳を傾けてくださるに違いないと確信しているから、こうお願いしているのです。

 3節、4節ヘと読み進めば、この詩人の思いはより明らかになります。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」。そうです。義しさと聖さの極みである神さまの前ではどのような罪も見逃されるはずはなく、罪人はその罰を逃れることはできないと重々知っているのです。しかし、彼はそれと同じように、いえ、それ以上に大切なことを知っているのです。それは「しかし、赦しはあなたのもとにあ」るということです。神さまは罪を犯さないではいられないほどの弱さを持つ人間への愛と慈しみを持っていらっしゃるということです。この神さまは罪を赦し罪人を憐れみ救ってくださる恵みの神さまだということです。

 ですから、5節、6節で「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます」と謳い上げるのです。そして7節、8節は詩人の信仰の極致を謳っています。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる」。自分の罪を重々認識していて、罰せられずにはすまない自分だということを知っているのに、いいえ、知っているからこそ、彼は自分が信頼し信じてやまない主なる神さまに、罪を告白し、赦しを乞うのです。ルターもこの詩に深く共鳴し、あの「悩みのなかより」という賛美歌を作ったのです。

 この詩人の神さまへの信仰と信頼とは、あのエデンの園で罪を犯した男と女の神さまへの態度とどれほど隔たっていることでしょう。正反対と言っても言い過ぎではないでしょう。詩人の信仰とあの男と女の不信仰、彼の信頼と彼らの不信。両者は真逆でした。

 わたしがあえて大胆な推測を述べることを許されるなら、こう申し上げたい。「禁断の木の実を食べたあの男と女は、自分の罪を認め、神さまの前に進み出て、その罪を告白し、自らを神さまにお委ねしていたら、神さまはきっと喜んで彼らを赦してくださったに違いない」と。罪を非としながら、罪人を愛し、受け容れ、赦し、新しい命を生きるように導いてくださるお方こそが、聖書が示す神さまなのです。第2コリント書で縷々自らの弱さを告白している使徒パウロもそのような愛と赦しの神さまを信じていたのです。


4.イエスさまの宣言

 今朝の福音書の日課には「ベルゼブル論争」と「イエスの母、兄弟」という小見出しが付いた二つのエピソードが記されていますが、今日はその中の二つの節だけに注目しましょう。マルコ3章の28、29節です。そこにはこう記されています。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する罪は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。

 人の子ら、つまりわたしたちが罪を犯してしまうこと、神さまへの冒涜の言葉を吐いてしまうことが大前提にされています。どう頑張っても罪を犯してしまうのです。冒涜の言葉を吐いてしまうのです。しかし、それでもなお、「すべて赦される」とイエスさまはおっしゃっています。創世記3章のあの神さまと男と女の会話を思い返すと、罪を犯したときに、神を冒涜する言葉を吐いてしまったときに、神さまに真正面から向き合わず、逃げ隠れようとしたり己の罪を認めずに、だれか他者のせいにしようとしたりしてしまうと、赦されることはありません。しかし、正直に、誠実に神さまに向かい合い、罪を認め、告白し、自分自身を神さまにお委ねするならば、きっと愛と恵みの神さまは赦してくださるのです。イエスさまは驚くほど明々白々に「すべて赦される」と宣言なさっているではありませんか。

 しかし、赦されないときが一つだけあるともおっしゃっています。それは聖霊を冒涜する時だというのです。聖霊を冒涜するとはどういうことでしょうか。冒涜するとは、国語辞典を引くと、「神聖なものの権威をけがし、傷つけること」と説明してありました。神の権威をけがし、傷つけると言いますが、そもそも神の権威とは何でしょうか。それは、神さまだけがおできになること、これをなさるからこそ真の神なのだということ、つまり神さまの本質が愛であること、それゆえに神さまだけが罪を犯してしまう人間を赦してくさるということです。それこそが神さまがまことの神たる所以なのです。それこそが神の権威なのです。しかし、神が愛と赦しの神であることを否定するならば、それは神の権威をけがし、傷つけることなのです。それだけはしてはならないとイエスさまは厳しい言葉で戒めていらっしゃるのです。

 あの男と女は、罪を犯してしまいました。けれども、それでもなお赦されることができたのに、自らそれを投げ出してしまいました。詩編130編の詩人も同じように何かの罪を犯してしまったのですが、彼は神さまには赦しがあることを信じていましたから、あのような悔い改めと賛美の詩を声高らかに謳い上げることができたのです。

 わたしたちの前には、あの男と女の生き方と130編の詩人の生き方の二つがあります。わたしたちはそのどちらを選ぶのでしょうか。それよりも前に考えるべきことは、そのどちらを選ぶことを神さまはお望みになっておられ、どちらを選ぶことをお喜びになるのでしょうかということです。それに対する答は明らかです。それを身を持ってわたしたちに告げるために、主イエスさまは来られたのです。今もなお聖霊をとおしてその答を語り続けていらっしゃるのです。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン