2023年11月6日月曜日

「上へ降りるか、下へ昇るか」 江藤直純牧師

 2023年11月5日 小田原教会

ミカ3:5-12、詩43、一テサ2:9-13、マタ23:1-12

1.

 「神は我がやぐら」、教会讃美歌では「力なる神は」ですが、有名なこの讃美歌はルーテル教会では宗教改革主日の礼拝でよく歌われます。小田原教会でも先週歌われたのではないでしょうか。作詞がマルティン・ルターであることも、作曲もルターであることもこの賛美歌への愛着を増す理由の一つであるように思いますが、それだけでなく、この歌詞と曲の力強さも皆さんに愛される理由でしょう。今はフランスの国歌であり、元々はフランス革命の勝利の行進曲「ラ・マルセイエーズ」になぞらえて「宗教改革のラ・マルセイエーズ」と称されていたこともあったほどです。パイプオルガンの音量を最大にして、トランペットの音を高らかに響かせながら、大人数で歌うと興奮を覚えるほどです。まことに力強い信仰の勝利の歌と思われます。

 しかし、それはルターがこの讃美歌を作ったときの心情とは遠く隔たっています。そもそも彼が詞の下敷きにした詩編46編の詩人がこの詩を謳った状況とも違っています。詩編46編の出だしはこうです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。/苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。/わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩46:2-4)。大きな困難の只中にあってもわれわれがお頼り申し上げる神様はなんと力強いお方であることか、と謳い上げているのですから、先ほど申し上げた信仰の勝利の歌であるとの見方は少しも間違ってはいないと思われます。

 そうなのですけれども、神への信仰、信頼はたしかにそうなのですけれども、現実に詩人が置かれている状況はと言えば、「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」という比喩的な表現で描かれているとおりに、言葉に尽くせないほどの大きな困難の只中にあるというのです。いえ、東日本大震災を、あの大地震と大津波を身近に経験した私たちは、この詩人が描き出している場面が大袈裟な誇張でもなく、ましてや作り話などではまったくないことを知っているではありませんか。詩人が描写していることは現実に起こりうるのです。

 たしかに詩人が実際に経験しているのはあのような天変地異ではなかったかもしれません。しかし、それに匹敵するような、とてつもない大惨劇が起こったのです。「都は揺らぎ」「すべての民は騒ぎ、国々が揺らぐ」大混乱をこの目で見、肌で感じたのです。そのような悲劇的な状況の真っ只中で、「人間は何と無力であることか」「世界中どこにもこれっぽっちの希望もないではないか」と嘆き悲しまないではいられない状況に置かれているのです。その中で神様だけが頼りの綱だと告白しているのです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」、これは偽らざる、心からの信仰告白でした。

 ルターが「神はわがやぐら」「力なる神は」を作ったとき、宗教改革運動は行き詰まっており、四面楚歌、八方塞がりの状態でした。そのような状況の只中にあったからこそ、唯一の助けまた支えである神への賛美の歌を作り、皆で歌ったのです、いえ、なにより自分自身のために歌ったのでした。そうやって魂の安らぎを得たのです。

2.

 今朝の旧約、使徒書、福音書とともに指定された詩編は43編でした。そこではやはりこの詩人は途方もない困難の中に置かれています。自然災害ではなく、もっと社会的な問題のようです。「神よ、あなたの裁きを望みます。/わたしに代わって争ってください。/あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください」(詩43:1)。2節では「なぜ、わたしは見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか」と、自分の置かれた最悪の状況を、美辞麗句など全く使わずに、ありのままの苦しみ悲しみを訴えているのです。そして終わりの合唱の部ではこうも歌われています。「なぜうなだれるのか。わたしの魂よ/なぜ呻くのか。/神を待ち望め。」(43;5)と。そうです。この詩人はうなだれているのです。呻いているのです。それ以外にどうしようもない絶望の淵に陥っているのです。人間的な一切の希望が持てない状況にいるのだから、最後の最後に「神」に叫び、神を待ち望んでいるのです。「神を待ち望め。/わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。/わたしの神よ」(43:5)。

 わたしたちは46編や43編を読むとき、詩人が持っている神への信頼の強さにばかり目を奪われ、あのように神様を賛美したいものだと思いがちです。しかし、その信頼のリアリティーは彼が置かれている状況の厳しさ、苦しさ、酷さをリアルに想像することなしには、ただのきれい事に終わってしまうでしょう。

 なぜ、今朝このようなお話しをしているかと言えば、先日もテレビのニュースで「神さま、助けてください!」とこれ以上ないくらい悲惨な表情で訴えているパレスチナの人が映し出されているのを見たからです。10月7日のハマスの攻撃に端を発したイスラエル軍の連日の猛攻撃によりガザ地区は公共施設も一般の住宅も病院も学校も難民キャンプさえも、町中至るところが見るも無惨に破壊され、1万人ほどの無辜の市民が容赦なく殺され、しかもそのうちの半数近くは子どもたちで、水や食糧や医薬品や燃料はすでに底をついているのです。不安、いや恐怖の中での暮しですからガザ地区には早産がとても多いそうです。お産も暗闇の中でろうそくの光をたよりになされているとも報じられています。

 イスラエルの首相は「停戦はしない」「ハマスを殲滅する」と冷酷に言い放ちました。国際世論にもかかわらず、安全保障理事会は停戦の提案を何度も否決しているのです。人道的支援を訴える日本の代表もハマスへの非難が含まれていないと言って停戦決議に棄権をしている始末です。その中で、「神さま、助けてください!」とどうしようもない嘆きと怒りをない交ぜにした叫びをテレビカメラが捕らえていました。

3.

 グティエレス国連事務総長は、ハマスのイスラエル攻撃を非難しつつ、しかし、それは何もないところで突然起こったことではないと言ったことで、イスラエルの猛反発を食らい、辞任を要求されました。事務総長はこのパレスチナ側の暴力には歴史的、社会的な背景があるとの認識を示したのです。それは何でしょうか。

 私が中学生のときに住んでいた熊本に「栄光への脱出」というタイトルのアメリカ映画が来ました。当時まだ珍しかった70ミリの映画でしたし、評判だったので観に行きました。映画の英語の題はThe Exodusでした。旧約聖書にあるあの出エジプトです。イスラエルの建国物語です。紀元70年にローマ帝国によって滅ぼされたイスラエルはそれから1900年近く国のない民族でした。ヨーロッパ各地にゲットーを作ってそこに住み、ユダヤ教という宗教を拠り所にして、教育と金で自らを守りながらしたたかに生きてきました。しかし、キリスト殺しの民だと非難され、反ユダヤ主義によって迫害され、ついにヒトラーにより「最終解決」の対象とされました。600万人ものユダヤ人が殺害されたと言われています。「アンネの日記」のアンネ・フランクもその一人でした。

 ですから、ユダヤ人は自分たちの生命を守るためには自分たちの国が絶対必要だと確信し、自分たちの国を造ることに全精力を傾けました。ユダヤ人への迫害を何世紀にもわたってやってきたヨーロッパ諸国は負い目があり、彼らの願いを支援しました。それでも、1947年の国連の決議はユダヤ人の国家とアラブ人の国家の二つを作り、それが平和共存するという案でした。なぜなら、過去の長い長い間、エジプト、ヨルダン、シリアに囲まれ地中海に面したこの地域全体はパレスチナと呼ばれ、アラブ人つまりパレスチナ人も残っていたユダヤ人もともに暮らしてきていたのです。そこにユダヤ人たちが各地から集まって来てイスラエルという国家を造るのならば、その土地にそれまでそこに住んでいたパレスチナ人のための国家をも作るのは理の当然でした。しかし、念願叶ってExodusして建国し独立したイスラエルは自分たちの安全を守るためにパレスチナ建国を認めず、4度にわたる中東戦争を経て、やっと1993年にイスラエルとパレスチナ解放戦線PLOは相互承認とパレスチナの暫定自治原則を認める「オスロ合意」を結ぶに至りました。

 しかし、イスラエル側の保守勢力はパレスチナ領内に入植を今に至るまで続け、自治区を8メートルの壁で封鎖しています。PLO内部が分裂し、穏健派はヨルダン川西岸地区を治め、イスラエルと激しく敵対するイスラム強硬派のハマスはイスラエルの存在そのものを認めません。イスラエルも2008年以降4度にわたってガザを攻撃し、過酷な軍事封鎖を続けており、その結果、燃料も食糧も日用品も医薬品も慢性的に不足し、失業率は高く、世界一の人口密度で、難民キャンプで生まれ育ち死んでいく状態が今に至るまで続いているのです。どの専門家も、今後どれだけ争いを続けても、どちらにも軍事的・暴力的な解決はありえないので、二国家の平和共存しか将来にわたる真の解決策はないと語っています。こういう状況の下で、何の罪もない市民たちが毎日何百何千の単位で死んでいっているのです。聖書の中での呻き声を上げている人たちと全く同じような状態です。

4.

 聖書には嘆き悲しむ人間のことだけでなく、自分たちにとっての絶対的な正義と平和を主張し、そのためにどれほど批判や非難を浴びようとも最終的な勝利を目指して争いと戦いを止めようとはしない人間たちに向かってのキリストの教えが語られています。11節ではイエス様はこうおっしゃっています。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。この御言葉と現在のイスラエル・パレスチナ戦争とはどのような関係があるのでしょうか。

 自分たちの民族が絶対的な平和と安全を得なければならない。それも遠い昔民族の父祖たちに約束された「乳と蜜の流れる国」において。今のイスラエルとパレスチナの領土は「神の約束の地」なのだ。こう信じて止まない人々は、自分たちの国家を建設し死守するために、二千年近くもそこに平和的に住んでいた民族を追い出し、抑圧し、事実上支配しようとするのです。かつて自分たちがされたように国を奪われ、差別され、抑圧され、あまつさえ虐殺されてきたのと同じことをしているとしか私には思えません。彼らには苦難の歴史があったことは間違いなく確かなことですが、今現在は自分たちの考え、利益、安全を「いちばん」に考え、「高ぶっている」のではないでしょうか。

 パレスチナの人々がこの75年間に味わってきた、そして今も味わい続けている苦難は取り除かれ、自分たちの生存が守られ、安心安全に暮すことができるようになることを求めるのはまことにもっともであり、世界の理解と支援を受けながらそれを実現するために戦うのも認められ実現されるべきことです。しかし、イスラエルの存在そのもの、イスラエル国家そのものを認めず、抹消しなければならないというならば、それもまたいつのまにか自らを「いちばん」と考え、「高ぶっている」ことにならないでしょうか。

 絶対的な価値はいのちの尊さであり、人間としての尊厳が守られるべきことです。それだけと言っても言い過ぎではないでしょう。しかし、どちらの側もいのちと人間の尊厳を犠牲にすることを厭ってはいないかのようです。はっきり言って、それ以外のことはすべて相対的な価値です。どのような理屈や理論、主義主張も、地上のことですから、絶対を唱えることはできません。知恵のかぎりを尽くして妥協点を見出し、相違点を認め合い、憎しみを乗り越えなければなりません。そのためには「仕える者になりなさい」「へりくだる者になりなさい」とイエス様はおっしゃるのです。いえ、教えられるばかりではなくて、そのとおりに実践なさったのです。十字架の死に至るまで神にのみ従順で、いのちを棄ててまでへりくだり、仕える生を全うなさったのです。弱さと無力さの極みに見え、惨めな敗北と思われた十字架の死を死なれました。しかし、そうなさることで罪人を赦し、生かし、新しくされたのです。世界を神と和解させ、そうすることで人々の間の和解の基礎を造られたのです。正義や平和を等閑にするのではなく、逆にそれを実現する道を開かれたのです。相手の存在を無視し、いのちを脅かすことで自分の存在を守り、安全と繁栄を謳歌するのでなく、敵であった相手を尊重し、和解し、正義と平和を実現するのです。「仕える」「へりくだる」、これは単なる個人の道徳ではなく、世界を造り替える唯一の神の真理です。神さまに信頼しつつそうすることによって、必ず真の和解が成り立ち、正義と平和が実現するのです。その日の到来を信じて待ちましょう。アーメン

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