2023年9月17日日曜日

礼拝メッセージ「私たちも人を赦します」

 2023年9月17日(日)聖霊降臨後第16主日 岡村博雅

創世記:50章15〜21

ローマの信徒への手紙:14章1〜12

マタイによる福音書:18章21〜35

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 マタイ18章には教会生活を送る者への教えがまとめられていますが、きょうの箇所はその結びの箇所です。このたとえ話は、神の赦しをいただいている私たちが、その恵みへの応答として隣人に対する赦しの道を生きていくようにと示している、そのような話だと言えます。

 先週の福音箇所で私たちは主にある兄弟姉妹への忠告について主の言葉を学びました。主イエスは、ペトロたちに(つまり私たちに)「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい、忠告しなさい」と命じられ、忠告にあたってはその手段や手順を大切にするように勧められました。また、どうしてもその人が忠告を聞き入れないときには、その人を突き放すのでなく、主イエスがそうなさったように、あなたがたもむしろその人の懐に飛び込んでいくようにと促されました。

 そして私たちは主の名によって集まるように、また主の名によって祈ることを忘れてはならないことを示されました。私たちが主の名によって集まるとき、主はかならずその場にいてくださるからです。

 この学びに続くのが今日の福音です。「罪を犯した兄弟には、行って二人だけのところで忠告しなさい」と聞かされたペトロは、さっそく主イエスのところにやって来て尋ねます。こんな対話を想像します。「主よ、忠告することについては分かりました。では伺います。「きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」。つまり、こういうことです。「主よ、忠告するからには、その人を赦してやったということでしょう。では何回赦すべきでしょうか」とペトロは言いたいわけです。

 ユダヤの人々は、赦しには限度というものがあると考えていました。旧約聖書においては、復讐することは肯定されていました。創世記の4章には「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」と記されています。これは際限のない復讐を肯定するものです。ですからペトロたちは、神は復讐することを肯定しておられる。だから相手を赦すことには限度があるはずだと考えていました。

 ところが、主イエスは、たとえを用いて彼らに考えさせました。(18章12節以下)あなた方はどう思うか。ある羊飼いが、迷わずにいる九十九匹の羊を山に残しておいて、迷い出てしまった一匹の羊を見つけに行った。あなた方はそんな羊飼いのことをどう思うかというわけです。主は迷いでた羊を罪人にたとえて、どんな罪人をも受け入れていくようにと言われます。弟子たちにもこのたとえの意味がわかりました。

 しかし、そういう主イエスの言動には、弟子たちがこれまで身につけてきたユダヤ社会の常識の枠組みでは理解できない何かがあります。ペトロは、それを明確にしたくて、「兄弟の罪というのは、何回赦すべきでしょうか、七回までですか」と尋ねたのです。

 「七」という数はユダヤでは「完全さ」を表す数だと言われます。そこでペトロは七回も赦せば主から完全だと褒めてもらえると思ったのでしょう。ところが主は「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と、つまり「無限に」赦しなさいと言われました。それはペトロの予想を全く超えるものです。そこで主イエスは弟子たちが赦しの本質について理解できるようにたとえ話をなさいました。

 このたとえ話にはタラントンとデナリオンという貨幣の単位がでてきます。1デナリオンは、一日の日当です。そして1タラントンは1デナリオン(1日の日当)の6000倍にあたると言われます。つまり、この家来の主人に対する負債、1万タラントンは、この家来が仲間に貸したお金、100デナリオンの60万倍ということになります。仮に日当を一日に1万円として計算すると、1万タラントンは60億円になります。あまりにも桁違いな額ですから、弟子たちは、これはどうみても返済不能だと思ったでしょう。

 借金の清算が始まり、25節「しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた」とあります。そこで家来は必死になって主君に訴えます。26節「家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返ししますから』と懇願した」とあります。

 人は確かに罪を「負債」のように感じることがあります。だから何とか返済(埋め合わせ)しなければと思いますが、実は「罪」という借金を返済することはできません。また、罪を犯したという事実は永遠に消えることはありません。

 主イエスは、それでも神はゆるす。「罪」がなかったこと(帳消し)にしてしまうというのです。この必死に懇願する家来の姿を見て主君は、27節「憐れに思って」とあります。この思いこそが愛なる神の秘訣です。「憐れに思う」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」で、目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられるという、深い共感compassionを表す言葉です。なぜ神が人の罪をゆるすのか、その答えがここにあります。「深い共感から神が人を憐れんで赦す」それが、救いの本質です。

 ところが問題が起きます。この家来は、莫大な負債を免除してもらった直後に、百デナリオンを貸している仲間に出会うなり掴みかかり、相手の首を絞めて、借金を返せと迫りました。29節、仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』と頼んだのに、この家来は赦さず、借金を返すまでその人を牢に入れました。百デナリオンは、この家来が主君から帳消しにしてもらった額の60万分の1に過ぎません。

 この家来は一方で信じがたいほどの神の無限の赦しを体験しながら、自分が帳消しにしてもらった負債に比べたらごくわずかでしかない借金を赦しませんでした。弟子たちは、なんと身勝手な家来だと批判したことでしょう。私たちもそう思うでしょう。でも振り返って考えてみれば、主イエスは、この身勝手な家来とは実はあなたのことだとおっしゃっているのではないでしょうか。

 さて、今日の第一朗読を見てみましょう。これはヨセフ物語のクライマックスの場面です。(創世記を読んでおられない方があれば、ぜひご一読ください。とても楽しめます。)亡くなった恋女房の忘れ形見として父親から偏愛されたヨセフは、兄たちから妬まれ、兄たちのはかりごとにあい、奴隷としてエジプトに売られて行きます。そこでは次々に悪と不幸が続きます。しかし、この悪と不幸が媒介となって神の救いが実っていきます。

 もしヨセフが兄たちからいじめられないで、エジプトに売り渡されなかったらどうだったか、奴隷となった家の主人の妻から誘惑されなかったらどうだったか、牢獄に叩き込まれることがなかったらどうだったか、クーデターが起こらなかったらどうなったか、謀反人たちと同じ牢獄で暮らさなかったらどうだったか、全部逆算すると答えはおのずと明らかです。

 悪が実在したために、その悪にもまさる善が、神の恵みとして実現しました。ヨセフ物語では最後には善である神の支配が告白され、賛美されます。

 兄弟たちは、今やエジプトの国務大臣として、ファラオに次ぐ地位にあるヨセフから、自分たちが行った悪の仕返しをされるのではないかと恐れます。しかし、どんなに困難なときにも神に信頼し、神により頼んできたヨセフの信仰は最後まで変わりません。

 ヨセフは恐れおののく兄たちに率直に語っています。19節以下です。「ヨセフは言った。『心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。ですからどうか心配しないでください。あなたがたと幼い子どもは私が養いましょう。』」ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた」とあります。ヨセフは自分が神からいただいた恵みと憐れみを感謝して、今度は自分が兄弟たちを憐れみ、彼らの悪を赦しました。

 このヨセフの兄たちへの憐れみと赦しとは、主イエスのたとえ話に通じています。実に私たちは、神の憐れみを受け、主イエスの十字架によって罪を赦され、救われていながら、身近な人の罪を責めてしまっていることがあるのではないでしょうか。神は罪人の私たちを見捨てません。それどころか、罪という負債をすべて、帳消しにしてくださるのです。

 「神の憐れみ」、この恵みをいかすためにも、私たちは聖霊の力をいただいて、私たちと同じ、罪ある隣人に最後の最後まで関わっていけるように願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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