2023年11月19日日曜日

礼拝メッセージ「神の思い、人の思い」

 2023年11月19日(日)聖霊降臨後第25主日  岡村博雅

ゼファニヤ書:1章7、12〜18

テサロニケの信徒への手紙一:5章1〜11

マタイによる福音書:25章14〜30

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日はイエスさまが、タラントンのたとえ話から天の国について語ってくださいました。この譬えからわかるのは、私たちは誰もが、素晴らしい力と、恵みと、可能性を与えられているということです。

それは体が丈夫でも、丈夫でなくても、関係ありません。若いか、年を取っているかも、まったく関係ありません。健康であろうと、病気であろうと、良い人であろうと、悪い人であろうと関係ない。まったく関係ないです。「すべての」人に、神が、今日も、タラントンを与えています。恵みを与え続けています。ご自分の聖なる息を吹き込んでいます。

 ある説教者が私たち人間をこわれやすい笛のようなものにたとえて語っていてなるほどと思いました。いわく、自分という笛をちょっときれいに磨いて、ゴミや目詰まりを取って、自分を大切にしていれば、きっと神が力を与え、私たちを用いて働いてくださる。それがタラントンを増やすということですし、私たちはそれを信じるのみだというのです。

 私たちはこの世の命というメロディーを奏でますが、神は永遠の命というメロディーを奏でてくださる。私たちが神のメロディーに自らをゆだねて、喜んでそれを奏でていれば、その恵は何倍にでもなるでしょう。最終的には、それが何倍になったかなんていうことは、もはや、人間が量ることではないのでしょう。神だけが、それが何倍にもなっていることを知っておられるし、それを褒めてくださるし、一緒に喜んでくださいます。

 何歳になっても、たとえ体が弱っても、私たちはそのような、神の小さな楽器として鳴り響くことができるというのは、本当に大きな希望ですし、「さあ、今日からまたやってこう!」という、そういう励ましになります。

 今日のタラントンのたとえの後半の所は、タラントンを増やさなかった人が叱られるという話ですが、これは、神から頂いた恵みの素晴らしさを疑ったり、恵みをもらえないんじゃないかと怯えたりしてはけないという意味です。

 私たちはついつい疑ってしまいますね。神様から「そんなにたいしたものはもらってない」とか、「どうせなくなってしまう」とか、でも決してそんなふうに思わないでください。神からいただいているものは必ず増えると信じて、自分はそれを増やすことができると信じて、日々小さなチャレンジを重ねて、それを神に捧げていけばいいのです。かならず素晴らしい報いがあります。

 今日の福音書の25章15節に「5タラントン預けられている」とありますが、それがどれくらいのものか知らなければ、「えっ?5タラントン?ですか」と軽く思うだけでしょう。でも、どれほどのものか知っている人だったら、「え~そんなに!」ときっと驚く話です。

 「1タラントンは、一人の人の約20年分の賃金」だといいます。「20年分の賃金」というと1タラントンは6千万円から1億円くらいでしょう。5タラントンはその5倍ですから、3億円から5億円くらいでしょうか。まあ正確にはどれくらいの額なのかはともかくとしても、主イエスがこのたとえを話したとき、聞いていた人たちは、間違いなく「ほー、なんとも莫大な額のタラントンを預けたんですね」などと、とても驚いたはずです。

 ここにイエスさまの意図を感じませんか?聞いている人に、「ということは、私も神さまからそんなに預かっているのか?」と、そう思わせたい。でも私たちはだれもがそれ以上に預かっているのです。皆さん。「5タラントン」どころか、100タラントンをもすでに、預かっているんです。神からの大いなる恵み。こうして皆さんと出会い、今ここで、この時間を過ごしているというだけでも、これは、たとえどんなに金銭を積んでも、お金で買えるものじゃないです。

 神が与えてくださった、究極の、この「わたし」という恵みは、5タラントン、10タラントンをはるかに超えるような恵みでしょう。この恵みは、皆さんが決めるのではないです。「私はこんな人間だから、まあワン・コイン、500円くらいかな」とか、そんなことを思う必要はありません。「神が」与えてくださるのですから。この「わたし」にはとてつもない価値があります。それを信じてください。

 そうしてこう信じましょう。「神が、主キリストをとおして、共におられ、共に働いておられる」と。「主キリストを通して、キリスト者である私を通して、素晴らしいことがたくさん起こる」と。私はそう信じます。牧師にしていただいて、この10年余りを過ごしてきて、一人のキリスト者として、皆さんに申し上げられることがあるとするなら神の助けによって、皆さんの助けによってなしえたということです。

 皆さんもそうでしょうが、私にも自分なんかがと尻込みしたくなる気持ちがあります。でも天の父も、主も、聖霊もこぞって助けてくださる。だからキリスト者はだれでもできます。ルターが、恵みのみ、信仰のみと宣言している通りです。「自分を通して、神が働く」と信じてください。誰もが、素晴らしいことができます。

 今日の第2朗読で「その日はふいに来る」という意味のことが言われました。一度の人生ですから、できるときに精一杯生きていきたいものです。教会に新しいトイレが寄付され、椅子も寄付されてということを体験しながら、それが目に見えても、見えなくても、こうしてみなさんが精一杯生きようとしておられることをきっと主キリストは喜んでおられることを思います。

 テサロニケ一5章2節以下に「盗人が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っている…。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う…。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」とあります。

 これは私たち全員のことです。ここで「主の日」とはこの世の最後の日と受け取ってください。その日が来ます。誰もその日からは逃れられない。神の御前に立つその日が来る。私はやはり、その日には後悔しないで、こんな自分だですが、「でも、神さま、そこそこやりました」と言いたいです。「こんなダメダメな自分だったけれど、それなりに頑張りました。神さま、あなたは知っておられます」と言いたい。「皆さんの話をひたすら聴いて、福音を語りあいました。それが、与えられたタラントンだと信じてやってきました。恵みというタラントン、イエス・キリストの福音というタラントンを喜んで分かち合う仲間がジワジワと生まれてきました。テサロニケ一5章5節にある通り、皆が『光の子、昼の子』です。『私たちは、夜にも闇にも属していません』」と。

 さて、このたとえ話の中心テーマは1タラントン預けられた人だと思います。この人は、それを埋めたとありましたが (マタイ25:18) 、この人は神を恐れたということでしょう。その理由はこの人が、今日のゼファニヤ書にあるように、神は義と怒りをもって人間を裁く方だと思いこんでいるからです。この人はそんな神の前に自分をさらけ出すことを恐れたのです。この人は恐れから弱い自分、だめな自分を隠しました。

 でもこの人が見るべきはキリストの真実です。テサロニケ一5章9節にあるように、「神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められた」のです。主キリストが共にいてくださる今、自分のどんな罪も主が身代わりになって担ってくださる。主キリストが神の赦しを与えてくださる今、もはや恐れる必要なんて、ぜんぜんないわけです。

 神は私たちの弱さをまったくご存知だし、むしろ神のお考えで、こんな情けない自分のままで、恐れなくていい、恥じなくいいと、今いる場所に置いてくださっているからです。私自身は、失敗は多いし、身勝手だし、愛に溢れているなんてとても言えない。でも、こんな自分でも、神さまのお役に立てるのであれば、少しでも何かやろう」と、そんな思いで自分の心を開くと、そこにたくさんの、素晴らしいことが起こります。そういう体験を重ねてきました。

 人間の思い込みや決めつけに陥らないようにしっかりと主イエスを見上げましょう。この主イエスは私たちが神の恵みを味わい感謝のうちに生きてゆくようにと、その1タラントンを10倍にも、いや100倍にもしてくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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