2024年4月7日日曜日

釘  跡  と  指

 2024年4月7日 小田原教会 江藤直純牧師

使徒言行録 4:32-35

詩編 133 

ヨハネの手紙一 1:1-2:2; 

ヨハネによる福音書 20:19-31

1.

 多くの読者に愛された小説家、遠藤周作が亡くなって今年で28年になります。私が高校三年生の夏に読んで大きな衝撃を受けた『沈黙』と絶筆となった『深い河』、その間に書いた、人間の真相を描き出した純文学の小説やユーモア溢れる『おばかさん』や「ぐうたら」シリーズ、そして『イエスの生涯』や『死海のほとり』など聖書を題材にした作品等々、どれもこれも読者の心を打ち、人生を考えさせる作家でした。

 カトリックの信者であることを公言していた遠藤は、文庫本にもなっている『日本人のための聖書入門 私のイエス』という本も書きました。その中にこういう一節がありました。小見出しは「信仰とは『99%の疑いと1%の希望』である』というものです。出だしは、キリスト教の歴史には十字軍だったり魔女裁判のような明らかにキリスト者の過ちもあったこと、信者の中には偽善者と言われるような人もいることなどの反省を述べた上で、「ところで、かく言う私自身を振り返ってみますと、皆さんと同じように、キリスト教に対する先に述べた誤解や偏見にとらわれ、ずいぶん懐疑的になったり悩んだことがあります」と述べ、さらに、「それどころか、もっと本質的な問題である『神の存在』について、現在にいたるまでも、『神はまったくいないのではないか』、という恐ろしい疑いにとらわれることがないとは、言い切れないのです」とまで告白しています。

 その上で、遠藤はこう言います。「しかし、私は神の存在に疑問を抱いたからといって、それがキリスト者として間違った態度だとは考えていません。信仰というものはそういうものであって、99%の疑いと1%の希望なのですから」と。信仰とは95%の確信と5%の疑いであるとでも言うのならば、そうかもしれないと思えるのですが、なんと遠藤は「信仰とは、99%の疑いと1%の希望である」と言うのです。この大変気になる言葉を心に止めながら、今朝の聖書に聴いていきましょう。

2.

 主がその日の早朝復活なさった日曜日の夕方、弟子たちが一軒の家に身を潜めていました。外の者から身を隠すために、扉には鍵が掛けてあったと記されています。どれほど不安いえ恐怖に打ちひしがれていたかが想像できます。それだけに、彼らは復活の主の顕現に大喜びしました。しかし、何の用事だったのか、その場にいなかったトマスはどれほど残念がったことでしょうか。自分もあの日あの時あの場所に居さえしたら、皆と同じように復活の主を信じることができたのに。そう思っては悔しがったことでしょう。彼だって信じたかったのです。ありえない主の復活という奇跡を信じたかったのです。信じたいのに、理性が、常識が邪魔をするのです。トマスの口から出た言葉は、素直な願望の言葉ではありませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしはけっして信じない」(20:25)。

 幸いなことにその一週間後、次の日曜日の夕方、主イエスは再び弟子たちの真ん中に現われてくださいました。しかも、今度はトマスもその場に居合わせたのです。たまたま今度はトマスも居合わせたというよりも、トマスがいる時を見計らって主は現われてくださったのでしょう。それが証拠に、主イエスは一同への平和の挨拶の後、ただちに、戸惑うトマスに向かって語りかけられるのです。一週間前トマスが言ったことを主イエスの方が先手を打ってあのことをするようにと仰るのです。「トマスよ、あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(20:27)と。気が済むまで何度でも指で、手で傷跡を調べなさい、と言われたのです。科学的に、実証的にあなたの目の前のキリストは紛れもなく十字架のイエスが復活なさった方だということを証明するために調べ尽くしなさいと申し出てくださったのです。これは疑いを晴らす絶好の機会です。疑いから信仰へと変わる掛け替えのないチャンスです。ですが、トマスは折角のこのチャンスを生かしませんでした。自ら放棄しました。そして、なんと「わたしの主、わたしの神よ」との信仰告白をしたのです。

 なぜでしょう。主イエスの申し出とトマスの驚くべき信仰告白の間にいったい全体何が起こったのでしょうか。ここに焦点を当てて御言葉に聴いていきましょう。

3.

 もしトマスが、手とわき腹の傷跡に近づいてよく観察しなさい、ルーペを持ってきてしっかり見なさい、指を入れて調べなさいと言われたならば、彼の疑いを解く姿勢は相手を対象として客観的に、科学的に、実証的に見据えて、距離をおいて観察したり、分析し検査をする、近代人、現代人である私たちのものの見方に通じるでしょう。それは物事への一つのアプローチの仕方でしょう。しかし、そこからは「わが主、わが神よ」という全実存をかけての、主体的な信仰告白が出て来ることは決してないでしょう。

 トマスはどこまで深く考えていたのかは分かりませんが、願ったこと、一週間前に口走ったことは「あなたの手の釘跡に私の指を入れてみる」「あなたのわき腹の槍の傷跡に私の手を入れてみる」ことでした。そして、それを主イエスは許し、二度目の顕現の時に自らトマスにそうするように申し出られたのでした。

 皆さんは子どもの時に手や足に血が出る怪我をして、数日して薄くかさぶたができているところをうっかり触ってしまってかさぶたが破れてしまった思い出はありませんか。今はバンドエイドなどが普及していますから、そんなことは先ずないでしょうが、私も昔は赤チンを塗っただけの簡単な手当をしてまた遊びに出て、かさぶたが破ける痛い思いをしたことがありました。下手すればまた血が出ます。また怪我をしたことになります。

 それなんです。トマスが主イエスに「さあ、いいから、あなたがやりたいことをやってみなさい」と言われたこと、それは、残酷な描写になりますが、主イエスの手の釘の跡に指を突っ込むことは、言うならば、もう一度手に釘を打つことでした。わき腹の槍の傷跡に手をさし入れようとすることは、言うならば、もう一度わき腹に槍を刺すことでした。

 そのことに気づいたとき、トマスはハッともう一つのことに気づいたのでした。それはゴルゴタの丘の上で十字架につけて主イエスを死に至らしめたのは、ローマの兵士でもなく、ピラトでもなく、ユダヤの宗教指導者たちでもなく、ましてや群衆でもなく、実はこの私だったのだとトマスは気づいたのでした。私が、私の罪が主イエスを十字架上で死なせてしまった、そのことにハタと気がついたのです。

 それだけではありませんでした。十字架の死が死で終わっていたならば、トマスは死ぬまで主を死に至らしめたことの負い目を背負い続けなければならなかったことでしょう。しかし、神さまは十字架の主イエスを死んだままで終わらせることはなさいませんでした。主イエスを甦らせることによって、死を死なせて、永遠の命を与えられることによって、十字架の死ヘと導いたトマスとその罪を、神さまはお赦しになったのです。主イエスを復活させられたことにより、トマスは赦され、新しいいのちへと導かれたのです。

 この十字架と復活の秘儀が「さあ、あなたの指を私の手の釘跡に入れてみなさい。あなたの手を私のわき腹の槍の傷跡に入れてみなさい」とのお言葉により、一瞬にしてトマスに明きらかにされたのでした。あなたは私の罪を赦す方、あなたは私の古い命を滅ぼし新しい命を与えてくださる方、だからあなたこそが「私の主、私の神です」と思わず告白しないではいられなかったのです。私の罪、十字架、復活、罪の赦し、新しいいのち、信仰告白、これらが一つとなってトマスに示され、彼は感謝の叫びを上げたのでした。

4.

 トマスは教会の歴史の中で長いこと「疑いのトマス」「疑い深いトマス」と呼ばれてきました。近代人の理性的、合理的な思考法に近い人間だとも思われてきたかも知れません。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書ではトマスの名前は十二使徒のリストの中にしか登場しない地味な存在ですが、ヨハネ福音書ではこの箇所を含めて三度も表れるのです。一つはヨハネ11章で、ベタニアのラザロが死にそうになったとき、いえ、主イエスがラザロは死んだのだと仰ったとき、トマスはエルサレムに近づくのを恐れていた仲間たちに「私たちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)と言います。彼は見当外れというか的を射てはいないのですが、熱い血の通った、積極的な人間だという気がしませんか。

 同じく14章では、主イエスがあなたがたのために場所を用意しに行くと仰ったときにも、彼はその意味を正しく理解できません。しかし、だから黙ってしまうのではなく、イエスさまに食らいついて質問をします。「主よ、あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14:5)。この質問もトマスが主イエスへの信仰の核心には至っていないことを示しています。しかし、なんとしてもイエスさまのことを知りたいと思えばこそ、この質問をしたのです。そして、その質問はした甲斐があったのです。イエスさまはこのトマスの問いをきっかけにあの極めて大事なメッセージを話されたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。さらに続けて、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない、云々」と言って、キリスト教信仰のもっとも肝腎な、父なる神と子なるイエス・キストと私たちの関係を明らかになさったのです。

 三度目の登場で、復活のキリストを直ぐに受け入れ信じることを否むかのような、強い言葉で疑っているかのようなトマスの言葉はまたもや十字架と復活の秘儀を明らかにするのに役立だったのです。その結果が「わが主、わが神よ」という信仰告白でした。

 「信仰とは『99%の疑いと1%の希望』である」との遠藤周作の言葉を思い出します。トマスのエピソードを聞き、また私たちの経験を振り返って、私は疑いというものには実は二種類あるのではないかと思うようになりました。あることを疑うことによって、疑いを徹底することによって、あることを「否定」する、そのような場合があります。行き着く答えはすでにあるのです。それはあることの否定です。そのために必要なプロセスとして疑うのです。否定のためのステップなのです。もう一つは、あることを「肯定」するためのプロセスとしての疑いです。その疑いを消し去ることができたなら、願っているあるものを受け入れ、肯定することができるのです。今目の前にいるあなたは、ほんとうに十字架上で死んだイエスさまなのか。そうであってほしいと思うけど、そう簡単には信じられない。でも、信じたい。あなたはほんとうに十字架上で死んで、墓に葬られ、復活したキリスト・イエスなのか。そうならば、釘跡に私の指を入れさせてくれ、わき腹の槍の傷跡に手を入れさせてくれ。無茶苦茶な要求のようです。信仰とは正反対の疑いの心そのもののようです。しかし、違うのです。彼は何とかして復活の主イエスを「肯定」するために疑いの声をあげないではいられなかったのです。

 イエスさまはご自分からトマスに向かって釘跡を示し、わき腹の傷を見せて、さあ指を入れなさい、手を入れなさいと言われました。しかし、トマスは指を入れませんでした。手を入れませんでした。指を入れて、手を入れて信じたのではありませんでした。もしそうしたのだったら、もしかしたら次に別の注文、別の疑いを持ち出して、十字架上で死んだイエスだと証明することを求めたかもしれません。理性的な、科学的な、実証的な、いわゆる客観的な証明方法に頼ろうとするかぎり、疑いは際限なく出て来ることでしょう。

 しかし、トマスはこの主イエスとの問答の中で、それとは全く違った、疑いの克服を経験したのです。釘跡に指を入れてみなさいと言われたとき、わき腹に手を入れてみなさいと言われたとき、トマスは気がついたのです。そうすることは主イエスにあの手に釘を打ち付けることと同じ痛みをもう一度与えること、わき腹に槍を刺すことと同じ痛みをまた与えることだと気がついたのです。いいえ、それだけでなく、ゴルゴタの丘で主イエスの手に釘を打ち付けたのも、わき腹を槍で刺したのも、それは自分自身だったということに思い至ったのです。その罪のために主は死なれ、その罪を赦すために主はよみがえらされたのだという十字架と復活の秘儀を神さまから知らされたのです。キリストが身を持って語りかけてくださったのです。これが聖霊の働きだったのです。

 トマスにはこれ以上の疑いもそれを解くための証明や説明ももはや要りませんでした。でも、彼がこの信仰の核心にたどり着くためにはあの疑いが必要でした。信仰に至るためのプロセスとして疑いは必要でした。ただ、その疑いを解く鍵は、客観的な、科学的な証明ではなく、全く別な気づきでした。十字架と復活の見方、理解の仕方は全く変わったのです。繰り返しますが、そこに至り着くためには、あの疑いが必要でした。疑いから解き放たれるための、否定ではなく確かな肯定に行き着くための疑いは私たちにも必要です。99%が疑いでもいいのです。1%の希望がありさえすれば。その希望が疑いを肯定に導いてくれるのです。そうです、疑いのトマスと呼ばれてきたトマスが、福音書の中で最も単純明快な、最も真実な信仰告白へと、「わが主、わが神よ」との主イエス・キリストへの信仰告白へと導かれたのです。私たちにも神さまはそうしてくださいます。アーメン