2024年2月25日日曜日

礼拝メッセージ「自分の十字架を背負って」

 2024年02月25日(日)四旬節第2主日 創世記:17章1〜7、15〜16 

ローマの信徒への手紙:4章13〜25 

マルコによる福音書:8章31〜38

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の3つの聖書箇所に共通しているのはなんでしょうか。それは「まことの信仰のはじまりについて語っている」ということではないかと気づきました。

 今日の3つの聖書箇所を黙想するなかで、創世記17章1節の「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた」という言葉にはっとしました。そうだ、神と人類には「始まり」というものがあったのだと気づいたからです。人類の救いにとっての第1の始まりはアブラハムとサラ、そして第2の救いの始まりは、神からイスラエルの民に与えられた律法。そして第3の救いの始まりはすべての人を救う主イエスの死と復活です。

 今日の日課はこの神からの救いの歴史がどのように実現してきたかということでつながっていると思えました。今日は私たちにとっての決定的な救いである主イエスによる救いについてご一緒に思い巡らし、また味わって行ければと願います。

 第一朗読に「アブラムが九十九歳になったとき」とあります。この当時の年齢の数え方は今とは違うでしょうが、それにしてもアブラハムはきっとかなりの壮年であり、妻のサラもとうに妊娠はできない年齢だったことを聖書は語っています。人生の酸いも甘いも噛み分けて、喜びも悲しみも知り尽くしている円熟した老年のアブラハムに神は前触れなく現れ、ご自分を明かしました。

 神はアブラハムとその子々孫々に、あなたがたの神となるという契約を結ばれた。まったく一方的に神がイニシアチブをとってアブラハムに指示し、宣言なさいました。アブラハムはひたすらひれ伏します。まさに神がこの宇宙世界を造られた時のように、神はアブラハムの神となり、繁栄させるという契約を宣言された。アブラハムはその神を信じました。こうして神はアブラハムに、彼の子孫が、いつの日にか地上の全家族とともに平和な生活を営む日が来ることを約束したのです。

 そしてこのアブラハム契約から800年ぐらい後に神はイスラエルの民にモーセを通じて律法を与えます。それは第2の始まりです。律法による義の始まり、律法を守ることによって神の前に正しく生き、幸せになるという救いの始まりです。

 パウロは第2朗読のローマ書において、このアブラハムとその子孫に与えられた契約は律法遵守ではなく、「信仰によって実現される約束である」と説きます。イスラエルの民は律法をきっちり守ることによって神から義と認められようとして、およそ1300年に渡って律法による生活を続けようとしました。主イエスの宣教なさった時代も、この律法に従うことによって救われようとする、そういう時代だっだわけです。しかしパウロは、アブラハムとその子孫への約束は信仰による義に基づいてなされたものであり、律法に基づいてのものではないと断言します。なぜならば、人は律法を守りきれず、神の怒りを招いてしまうだけだからです。彼はアブラハムのように愛の神を信ずる一途な信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となると宣言します。

 パウロはアブラハム夫妻は肉体的にはとうてい不可能な年齢であったのに、約束の男子を与えられた。それはアブラハムが神を信じて、信仰を強められ、神を賛美し、不信仰に陥らず、神を疑わなかったからだと、その秘密を証します。

 そして、主イエス・キリストを死者の中から復活させた神を信じれば、私たちも神から義と認められる。すべての罪を赦され、神の子として受け入れられる。救われて永遠の命を受けると言うのです。

 さて福音書に入ります。神がもともとアブラハムに約束されたすべての人を救う救い、第3の救いは、主イエス・キリストの死と復活を信じることによってあずかることが出来ます。そのことを今日の箇所から見ていきましょう。

 今日の福音書箇所は、主イエスの宣教活動が大きなターニングポイントを迎えた時期のエピソードです。これまでガリラヤ地方を中心に宣教活動をしてきた主イエスは、いよいよエルサレムへと向かいます。私は、すべての人を救うという救いの始まりは、主が十字架と復活へと向かうところか始まったと考えます。

 ここで主はまず27節「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねます。人々の反応は様々でした。最初、人々の間では3:21「あの男は気が変になっている」とか3:22「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などでした。しかし、やがて主の奇跡と教えが圧倒的な力で人々を引きつけるようになると、それは、6:15「預言者の一人ではないか」と尊敬を込めたものに変わっていきます。

 しかし、そうした答えは、主イエスから見れば不十分です。そこで主は弟子たちに尋ねます。彼らは主イエスの説教を身近に聞き、奇跡を目の当たりにしていますから、一般の人々よりもずっと深く、また正しく主イエスの神秘を理解できたはずです。

 彼らはまず人々の評判を伝えますが、主イエスは「あなた方は、どう思うか」と彼ら自身の判断を求めます。そこでペトロが「あなたは、メシアです」と答えますと、主は、ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。つまり、主イエスはペトロの答えを肯定されなかったということです。

 そしてペトロの言葉の直後に、ご自分が受ける苦しみについて教え始められました。弟子たちは主から教えられる必要がありました。「苦しみを受け・・・排斥されて殺され、そして復活する」と苦しみを強調するのは、それこそが主イエスがメシアとしての本領をはっきするところだからです。苦しみにおいてこそ、どんな人々をも救うというメシアの本領が発揮される。それが真実だからです。

 苦しむメシアなんて、ペトロには受け入れ難いことでした。ですから、彼は主イエスをいさめます。主イエスはそんなペトロを悪の誘惑そのものだと「サタン」呼ばわりします。

 当時のユダヤの人々にとってのメシアとは、その人がいかに人々を思いのままに操り導く力を持っているかでありました。いわゆるカリスマ性です。ですから、ペトロにして見れば、病人をいやし、悪霊を追い出し、数々の奇跡を行って群衆を引きつけるイエスは、メシアその人であったことでしょう。しかしそれは大きな誤りです。

 主イエスの力は、そして神の力は、強さではなく、愛に支えられた「弱さ」にあります。

 この弱さこそ、十字架です。しかし、同時に十字架は強いのです。ペトロを叱った主はこのあと、私たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」とおっしゃいます。

 私たちは「自分の十字架を担って主に従う」ということをどのようなことだとイメージするでしょうか?ときに、特別なことだと思わないでしょうか?大変苦しいもの、好ましくないことというふうに思うのではないでしょうか?

 たしかに、一生に一度、命をかけた十字架というのもあります。塩狩峠でブレーキの効かなくなった列車を自らの体を犠牲にして止めた鉄道職員永野信夫さん。そして、9,11テロの時に人々を救出するために最後までツインタワーに残って死んだ消防隊員、こういう人たちの十字架もあります。

 またこうした殉教者のような十字架ばかりではなく、もう少し、手の届きそうな十字架を担うこともあります。たとえば、アメリカ滞在での経験ですが、教会の友人でボルボの中古車を安く買って、必要な部品を取り寄せ、自分で修理して、暮らしの豊かでない人に使ってもらう、そういうことをしている人がいました。それも何台もです。代金なしです。彼は、笑顔で「This is my mission.」「これが僕の任務だよ」とにこやかに言います。今考えると、彼は彼のできることで十字架を担って主のあとに従っていたのだと気が付きます。

 そして、今日、私たちの日々の生活そのものにも十字架があると思うのです。失敗して自分の弱さにがっかりしてしまうようなことがあっても、その弱さに踏み留まる。捨て鉢にならず、自己否定に陥らず、弱い自分からまた始めてゆく。それは静かですが、たくましい生き方です。聖霊に助けられての生き方です。

 私たちが自分の十字架を担いながら主に従う時、それは霊的な挑戦となります。それは苦しみとは全く別の意味を持ちます。主との共同作業の喜びを私たちは味わうことができます。

 それは、主の求めておられるまことの信仰の始まりです。

 四旬節の第2週、私たちもなにか身近なことで信仰のチャレンジをしてみませんか?

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年2月18日日曜日

礼拝メッセージ「四旬節に思う」

 2024年02月18日(日)四旬節第1主日

創世記:9章8〜17 

ペトロの手紙一:3章18〜22 

マルコによる福音書:1章9〜15

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の週報でお知らせしていますが、4月から牧会をしてくださることになっていた富島裕史先生に脳腫瘍が見つかり、急遽、手術を受け、療養されることになり、湯河原教会での牧会ができなくなりました。まずはご一緒に祈りましょう。

 主よ、富島先生の手術が成功しますように。そして、手術の後、順調に回復されますように。憐れみの主が、富島先生を癒やし、心の平安を与えてくださいますように。また私達の教会に最もよいことを備えてください。主の御名よってお祈りします。

 今日は恵みの予定がもりだくさんです。この後で、入江美奈子さんの私達の教会への転入式があり、主が新たに一人の姉妹を私たちの群れに加えてくださいます。嬉しいですね。

 また、礼拝後には二見美保子さんとデッカー恵子さんの洗礼諮問会を行う予定です。どうぞ皆さん、温かい目で見守ってください。会衆席からお祈りをたくさん注いでください。洗礼を志願している方たちは、やっぱり迷いもある。さあいよいよだという思いと同時に、不安もあるでしょう。皆さんの励ましのお祈りが、何より大切です。よろしくお願いします。

 先ほど、ノアの箱舟の箇所が読まれましたけれども、まさに、洗礼志願者のお二人、そして私達も、救いの大きな船に乗った気持ちになってください。どんな洪水でも、湯河原教会のみんなで一緒に乗り越えていけるというふうにです。

 「洗礼を受けたら強い信仰を持って、一人でも荒波を泳いで渡れるはずだ」などというのではありません。「イエス・キリスト」という安心で大きな船に乗り込んで、「神の国」という港に入ったも同然の私達の航海です。人生を旅する教会の仲間たちと一緒に、救いの喜びを分かち合っていきましょう。恐れずに、一緒にやっていきましょう。

 さて、キリスト教会は、灰の水曜日から四旬節(英語でLent)に入りました。旧約時代には回心のしるしとして,灰を頭にかぶりましたが、キリスト教会ではこのならわしを踏まえて、灰の水曜日の礼拝では回心して福音を信じる印として額に灰の十字を印すようになりました。

 四旬節の原点は、荒れ野での主イエスの40日の体験にあります。主イエスが宣教生活に入られる前に荒れ野で40日間断食をされたことにならい、教会では、古くはこの期間に、断食や節制が行われてきました。それはキリスト者が自分たちも主イエスの断食と祈りに倣いたいという思いから、ごく自然におこってきたものだといわれます。

 今では、祈ること、感謝すること、そして愛の行いが強く勧められています。ある人はレント献金箱を作って、食卓テーブルに置いて、次のレントまで1年間、なにか感謝なことがあるたびに献金をするそうですが、昨年はすべてをウクライナの人道支援や災害被災地への献金にささげたと聞きました。

 四旬節はもともと、節制したり、断食をしたりすることが伝統でした。私の神学生時代でも、ルーテル教会で育った神学生たちは、四旬節になると、タバコ断ちをするとか、アルコール断ちをするとかとやっていました。

 「もっとしっかりした信仰者になろう」とか、「もっとがんばって祈ろう」とか、「罪を捨ててもっと清くなろう」というようなことです。いわば上昇志向というか、駄目な自分を罰する志向というか、何かそういうものがイメージとして感じられます。

 今思えば、それはつまり、1年は無理だけど、40日ならなんとかなるということだったかなと思います。なんとなれば四旬節が過ぎれば、これまでのままに、また飲んで吸うわけですから。

 ある説教者が、これは実は逆なんだっていうことを言っていて、はっとしました。この方いわく、四旬節には、もっと神に信頼して、もっと安心して、「神さまにすべてを委ねる」ということを学ぼうというのです。

 一般論としてですが、キリスト者は真摯な方が多くて、せっかく洗礼を受けているのに、もっと良くなろうとして、こんな自分じゃだめだと嘆く人が多い。そして四旬節になると、ますます、「こんなに自分は罪深いし、もっと清くならなくちゃならないのに、でも、そうなれない。どうしよう」と、なんだか暗い気持ちになる人が多い。もしそうだとするなら、それは「逆」だというのです。

 むしろ四旬節は、主イエスが荒れ野で神の愛にのみ信頼したことに由来するときなのだから、1年間自分を責めてきた人が、それをやめるときだというのです。いうなれば「がんばって、がんばるのをやめる」。がんばって、いい人になるんじゃなくて、がんばって、悪い人である自分を受け入れる。私は「神に受け入れてもらっている」と、そのことに、目覚める。これが四旬節だというのです。まったくその通りだと膝を打ちました。

 そうです。四旬節は、普段に増して神の愛を感じとる時なんです。だから普段、自分を責めたり、こんな自分はダメだと思っている人が、40日間がんばって、「こんな私でも、だいじょうぶだ!」「こんな私だからこそ、救われるんだ!」とそう自分に言って聞かせる時として、この期間を過ごしていただきたいと思います。

 私、妻から、聖書や式文の読み間違いで、ちゃんとしてくださいと言われる。こんなんじゃだめだと落ち込みそうになりますが、そんな時こそ、四旬節の恵みに立ち返ってダメな自分に踏みとどまる。こんな自分でも神は愛してくだっているとしっかりと思い起こします。そうすると落ち着きます。

 今日の福音書箇所で、主イエスが荒れ野でサタンの試みとか、誘惑を受けますね。この「誘惑」というのは、ひとつには「あなたは、まだ足りない者だから、もっとこうすると幸せになるよ」とか、「あなたは不完全だ、だから、こういうふうに頑張れば、完全になって救われていくよ」というようなそういう誘惑です。いずれも、神の愛に包まれている満足から目をくらませようとするものです。

 今日の箇所では読まれていませんが、マタイとルカでは、悪魔が三つの誘惑をする話が出てきますね。空腹の時に「この石をパンに変えたらどうだ」とか、山の上から繁栄している国々を見せて、「私を拝むなら、これをぜんぶあげよう」とか、そういう誘惑をしてくる。

 悪魔は何をしているかというと、「あなたは空腹だろ? 足りなくて不幸だろ? もっといろいろ欲しいだろ?さあ、がんばって自分を満足させようじゃないか」ということです。

 主イエスは何と答えたか。

 「人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)

 どうぞ主の洗礼主日に主イエスの洗礼の聖書箇所を読んだことを思い出してください。天からの声がしましたね。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)と。主イエスはすでに、「神の口から出る一つ一つの言葉」で生きているわけですから、つまり「お前を愛しているよ」という神の言葉で生きているのだから、パンがなくたって、ある意味満腹しているわけです。

 主イエスは、神のこの愛の言葉で満たされているから、他に何もいらない。もうすでに、満たされているわけです。

 「さあ、空腹だろう?」

 「さあ、足りないだろう?」

 「不幸だなあ、お前は。こうすれば幸せになれるぞ」

 「ほら、この権力、この繁栄、この世のすべてを見てみろ。お前はそれを持ってないだろう?」

 サタンはそう言います。

 すると主イエスは答える。

 「『ただ神にのみ仕えよ』と、そう聖書に書いてある」(マタイ4:10、ルカ4:8)。なぜなら、神こそがすべてだからですね。

 主イエスはもうすでに豊かです。満たされています。だから、悪魔が山の上に連れていって、「さあ、これを見ろ。欲しいだろう?」と言っても、主は「こんなもの、滅びるものでしょう。別に、私にはいらないものだ。私は、神に満たされていて、十分幸せだ」と、そうお答えになる。

 結局、誘惑というのは、「あなたはダメだ」という話です。「あなたは不幸だ」という話です。「あなたは汚れている」「あなたはふさわしくない」「あなたは足りない存在だ」と目に見させ、耳につぶやいてくる、これが誘惑です。その誘惑に負けて、人は「神ならざるもの」を必死に求めるようになる。

 私たち、思い当たることがないでしょうか?

 四旬節は、この誘惑に打ち勝つときです。「自分は神さまに愛されているんだ」という安心で満たされて、余計なものが欲しくなくなるときです。

「私達は『お前を愛してるよ』という、神の言葉でこそ生きています」。

そして、「サタンよ退け、私は神の言葉で生きる!」と唱えてください。

 (祈ります)主よ、今年も四旬節を過ごすことのできる幸いを感謝します。不十分な自分を嘆くような時にも、あるがままで、主によって受け入れられ、愛されていることを思い出すことができますように。また、自分の過ちに気づき、不十分な自分に絶望するときには、主がそんな私を憐れんで、赦しを与えてくださる恵みをますます深く味わうことができますようにと祈り願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年2月11日日曜日

礼拝メッセージ「主の変容に励まされ」

2024年02月11日(日)主の変容 岡村博雅

列王記下:2章1〜12 

コリントの信徒への手紙二:4章3〜6 

マルコによる福音書:9章2〜9

 私達の父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン  様々な困難の中にある方々の言葉を聞くにつけ、私達にとって希望がどれほどかけがえのないものかと思います。この日、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを「連れて」、高い山に登った。それはやがて神の国の福音を伝える後継者となる彼らにご自分が変容した姿を見せて、ご自分が誰であるかを教え、死を超える希望を悟らせるためです。

 今日の福音箇所は「六日の後」という言葉から始まります。それは前章の8章31節を受けてのことでしょう。主イエスはご自分が多くの苦しみを受けて、宗教指導者たちによって殺される、そして三日目には復活するということを「弟子たちに教え始められた」とあります。主はご自分のことを語られただけでなく、主が与えてくださる命に生きようと願う者は、主と同じように自分の十字架を負って死ぬ者であることを学んで主に仕えるように求められました。そういう主に倣って生きるための教育を六日間なさったと考えられます。

 その教育内容ですが、主はご自身の復活を語りながらも、ご自分が苦しむこと、殺されることを語られました。弟子たちは、苦しんで殺されるという、主の「死」について語られる言葉に圧倒されたでしょう。そしてどうしても、受難、死という、そこに注意が行きます。弟子たちは目の前におられる主が死ぬことになるなんて、とんでもないことだと思ったでしょう。しかも、主イエスはその後で、あなたがたも自分の命を捨てることを学べとおっしゃったのです。

 あなたがたの命はとても大切なのだから、そのためにこそ、このことを教えると言われました。しかし、主ばかりか、自分たちまで死ぬのだとなれば、弟子たちの心はパニック状態だったと思います。

 神は十字架の死を経て主イエスを復活させることを私達は知っています。しかし私達は十字架を担って主に従う人生というものを、ただ苦しいもの、困難なことと思ってはいないでしょうか?私はどこかしらそう思っていました。 

 まだ主の復活を体験していない弟子たちはなおさらだったでしょう。主はこういう御心から遠い弟子たちを、忍耐し続け、ずいぶん苦労なさったのだと思います。

 この世にあって十字架を担って主に従って生きたときに、それはきっと苦労だけには終わりません。主は、それを上回る喜びがあり恵みがるのだと言うことを弟子たちに教えようとされました。

 2節の「イエスの姿が彼らの目の前で変わり」という箇所は原文では受動態の動詞が使われています。それは主イエスがご自分で姿を変えたのではなく、この3人のために、父なる神によって姿を「変えられた」のだと示すためです。神は天における主イエスの輝きを垣間見せてくださいました。

 主イエスの本性をいっそう明確にするのは4節のモーセを伴ったエリヤの出現です。エリヤは天に取り去られたと信じられていました。そのエリヤが現れたことは、主イエスが天に属する存在であることを証ししています。つまりエリヤがモーセと一緒に姿を現したのは主イエスのためではなく、この弟子たちが、自分たちは今天の有様を目にしていると信じさせるためだと考えられます。

 この情景をこれは現実ではない。弟子たちは幻を見たと説明して納得を得ようとする人があります。しかし、気づくべきことがあります。初代教会の人々や、またその後三百年にわたる時代のキリスト者たちは激しい迫害を受け、実に多くの信仰者の血が流されましたが、教会はそれに耐え続けたということです。数え切れない信仰者たちが、十字架につけられた主イエスの後に自分の十字架を負ってついて行きました。この3人に与えられた体験が単なる幻や絵空事であったなら、激しい迫害の中を自分の十字架を負って主に従った無数の信仰者たちに永遠の命の希望を与えることは出来なかったでしょう。私達はこのことに目覚めていなければなりません。

 主イエスから「死」とか「十字架」とか「自分を捨てる」という言葉を聴いた弟子たちは、そういう言葉に押しつぶされそうだったと思います。私達も同じです。いくら望みの言葉だと言われても、望みや喜びより、黒雲に押しつぶされそうな思いがします。

 弟子たちがそういう真っ暗な思いの中にあったその時、語っておられる主イエスの後から射してくる光が主を覆って、弟子たちの前の主が真っ白に輝く姿に変えられました。

 ペトロは主の変容を見て言葉にできない喜びを味わいました。ペトロは興奮しましたが、それに溺れっぱなしではなく、この事態を確かなものにしようと知恵の限りに思い巡らして、それぞれに小屋を造り、この天の栄光を地上につなぎとめようと考えました。

 「あなたは、メシアです」(8:29)と信仰告白をしたことなど忘れて、ペトロは「先生(ラビ)」(9:5)と呼びかけています。マルコはすぐに注釈をつけて、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」と書いています。ペトロは正気を失っていたと言うのです。

 では弟子たちが正気に帰った時に、どんなことが起こったかです。8節「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。彼らにはもはやエリヤもモーセも見えません。主イエスの衣は白い輝きを失っている。いつものままの「イエスだけが彼らと一緒におられた」。いわば、彼らは、主イエスと一緒にいる自分たちに改めて気づいたというのです。それはただ虚しいことではなく、あの天の輝きの中におられた主イエスが自分たちと共にいてくださるということを、しっかりと見て取ることができたというのです。

 それこそが、このペトロたちに神から与えられた、本当に素晴らし体験でした。しかも、ただ見ているだけでなく「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が聞こえてきたのです。

 六日間厳しい言葉を聴き続け、半信半疑のまま、主の言葉に従うのは難しいことです。そのときに神が保証なさった。このイエスこそ、わたしの愛する子、わたしのわざを行う者なのだから、このイエスに聴き続け、このイエスに従い続けて間違いない、と神が宣言してくださった。教会は、そしてキリスト者はこの主によって歩くものであることが、はっきりと示されました。

 弟子たちはこの出来事を心に深く刻みつけて山を下りました。主はご自分が「死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。つまり、あなたがたは、主キリストの復活が明確な事実となった時にこそ、復活のいのちがどういういのちであるかということが分かるようになる。そして自分たち自身の復活についても語ることができるようになると言われたのです。確かに人間の中に復活の可能性を見つけることはできません。しかし、主の言葉を固く信じるとき、望みは開かれます。

 神は主イエスを復活させます。主イエスを墓から引き出します。やがて弟子たちはこれまでに味わったことのない確かな思いで、復活の光を見始めます。復活の主に出会うまでは、「これに聞け」という神の声に従えなかった弟子たちが使徒として、私達に連なる愛をもって主と教会に仕える者となっていきます。

 この高い山でのペトロたちの体験を通じて、神は信じる者に主の変容と復活の栄光を見せてくださいます。私達もこの出来事に励まされたい。十字架を背負って生きるとき、ある高い山で主が変えられた天上の輝く姿を心に描くことができるのは希望です。十字架を背負って生きることの意味はそのまま主の変容の意味に直結しています。

 実に自分の十字架を担って主に従う人生は喜びです。その真実を私は妻と共に、この11年の牧会生活で経験させていただきました。自分のためにだけ生きる人生はつまらない。自分のためばかりでなく、他者のためにも生きる、隣人と共に生きるとき、そこに本当に恵みがあり、喜びがあり、感謝があるということを噛みしめています。

 終わりの日には、私達の目から涙はことごとくぬぐわれる。(ヨハネ黙7:17,21:4)それまで私達には嘆きも労苦もつきまといます。それは避けようのないものです。そんな私達に、主は「だいじょうぶだ」「安心なさい」と栄光の姿を見せて励ましてくださいます。

 主はどんな苦難の中をも共に歩んでくださいます。私達を必ずや天の光の中へと伴ってくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2024年2月6日火曜日

そのために私は来た

 2024年2月4日 小田原教会  江藤直純牧師

イザヤ:40:21-31; 詩編:147:1-11, 20c; Ⅰコリント:9:16-23; マルコ:1:29-39

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 今は小学校から習っているようですが、私たちの頃は中学に入学して初めて学校で英語を習いました。そこで文法というものを教わりました。英語という言語の構造、仕組みやそれぞれの言葉の機能とその使い方などを初歩から少しずつ学んでいきます。その中には名詞や形容詞などと並んで動詞というものがあります。動詞の中で小学校では聞いたことのなかった不定詞というものが出て来て、しかもそれには名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法という三種類があるということでした。

 今朝私たちは礼拝をしているのであって、英語の文法の授業を受けているわけではありませんから、ここまでの話しはどうでもいいのです。ただ、申し上げたかったことは、不定詞の副詞的用法とはどういうものかということを理解するために教科書に出て来た例文の一つがなぜか今も私の印象に残っていたので、それをご紹介したいのです。

 その例文はこういうものでした。Do you live to eat, or eat to live? 直訳すれば、「あなたは食べるために生きるのですか、それとも生きるために食べるのですか」です。食べるために、おそらくは美味しいものを食べるためにあなたは生きるのですか、それとも生きるために、何かをやりたくて生きるためにあなたは食べるのですか。この単純な文は英文法の勉強のためのという以上の、人生の勉強のための貴重なヒントを与えてくれたと思えるのです。つまり、人生は何のために生きるのですか、という問いを投げかけているのです。

 元日の夕方突然襲ってきた地震と津波によって何百という尊い命が失われ、営々と築いてきた穏やかな生活は脆くも崩れました。日本だけでなく、パレスチナのガザではこの3ヶ月ほどで二万を大きく超える無辜の市民の命が奪われ、その半数近くは子どもたちで、至る所で住宅も公共施設も瓦礫の山と化しました。そういう現実を目の当たりにすると、人生は何のために生きるのかなどと悠長に考えてはいられない、考えようが考えまいが人の命なんか儚く脆いものさ、所詮考えるだけ無駄というものさ、と呟く人がいても非難できない気もします。

 しかし、命と人生を脅かす悪の力が存在するからこそ、それに打ち負かされないためには、あるいは倒れそうになっても立ち直るためには、人の命あるいは人生は何のためにあるのかということをしっかりと捉えておく必要があるでしょう。根本的な意味とか目的というものが明確であることが、命とか人生というものを重んじる大前提になるのです。

2.

 今朝与えられた三つの聖書の日課はこの問題を考えることへと私たちを導いてくれると思われます。まずはマルコによる福音書1章の「多くの病人をいやす」という小見出しが付いた記事から見ていきましょう。

 イエス様がガリラヤで伝道を開始され、湖のほとりで4人の漁師を弟子となさったあとのことです。カファルナウムという町に行き、安息日に皆が集まっている会堂に入り、そこで聖書に基づき神と人間について教えられ、また汚れた霊に取り憑かれた男をいやされました。教えといやしです。人々は皆驚き、大きな評判が立ちました。

 一行は会堂を出たあと、最初の弟子であるシモン、のちのペトロと、その兄弟アンデレの家を訪問なさいます。もう一組の兄弟ヤコブとヨハネも一緒でした。ところがそこではシモンのしゅうとめ、つまり同居している彼の妻の母親が熱を出して寝ていました。きっと微熱などではなく高い熱を出して苦しんでいたものだと思われます。だからこそ、その場に居合わせた人々はイエス様にお願いをしたのです。「是非とも先生のお力で直してやってください」と。人は心も病みますし、体も病むのです。生きていくのには心も体もどちらも大事なことです。

 イエス様が高熱に苦しむシモンのしゅうとめを癒してくださったら、彼女は何をしたでしょうか。マルコは簡潔に「彼女は一同をもてなした」(1:31)と記しています。治癒していただき、感謝の気持ちからご馳走を作っておもてなしをしたと額面通りに取っていました。しかし、今回準備の過程でいくつかの日本語や英語の聖書を読み比べていて、新しい気付きがありました。それはいくつかの訳は「彼女は仕え出した」とか「仕え始めた」となっているのです。この過去形は「それ以来○○をするようになった」とも翻訳することが文法的に可能なのだそうです。そこからのインスピレーションです。もちろん体調が戻ったのでその日の夕食を作り始めたという意味にも取れますが、もう少し深く大きく解釈すれば、「その時を境として彼女は仕える、奉仕するという生き方を始めた」という受け取り方もできるということです

 たとえば、重い病気から健康を回復させてもらった若者が、その時から自分も医師や看護師になって人の役に立つ人間になろうと思って実際そうなったとか、おじいさんやおばあさんが福祉施設で最後までよく介護されるのを目の当たりにして、自分も福祉職に就こうと決心して、念願叶ってそういう人生を生きてきたとか、実際身近でも聞く話しではありませんか。シモンの義理の母親ももちろん人並みに親切やもてなしはしていたとは思いますが、自分が病気をいやされた経験から「仕える、奉仕するという生き方」を自覚的に、本気で生き始めたということではないかと私は受け取ったのです。

 改めて今自分に与えられている健康、命、時間、所有物のことを思います。それをどう使うかは私の自由です。義務も規則も命令もありません。まったく私の自由なのです。好きに選んでいいのです。その選択に際して、立ち止まってそれらを何のために使うかを考える、或いは誰のために使うかを考える、それは取りも直さず、自分はどう生きるかを考えるということです。

 そんな固っ苦しいことなんてと一般に思われがちです。しかし、今から87年前に初版本が出版された吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』はすでに岩波文庫版だけで180万部も売れ、岩波文庫の累積販売部数でNo.1だそうです。『漫画 君たちはどう生きるか』も既に235万部売れたそうです。今回アメリカでゴールデングローブ賞を受賞した宮崎駿の長編アニメも同じ題名です。若い人も大人もやはり考えないではいられないようですね、このテーマを、「自分はどう生きるか」ということを。あるいは「何のために生きるのか」ということを。

 自分の命をどう使うかという重いテーマをぐっと考えやすくするためでしょうか、日野原重明先生は「命」を「時間」に置き換えて問いかけておられます。「あなたは自分の時間を何のために使いますか」と。シモンの義理の母は「仕えるために」生きると決心したのです。生きるために仕えるのではなく、仕えるために生きる道を選んだのでした。彼女はイエス様に、具体的にはだれか自分の力や時間や心を必要としている人のために「仕えるために生きる」ことを始めたのです。その手始めが一行へのおもてなしだったのです。

3.

 さて、では、イエス・キリストという方はどう生きられたのでしょう。何のために生きられたのでしょうか。3年間だったと言われていますが、主イエスの公生涯(公になっている生涯)の、とくにガリラヤ地方一帯での生活と働きは今日の日課の後半、1章の35節から39節にギュッと凝縮した形で書かれています。それは三つのことに集約されています。

 第一です。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(1:35)。祈りは理屈の上では内面での行為だから時と所とを選ばないはずだと言うこともできるのかもしれません。たしかにテレビが大きなボリュームで流れているリビングででも、ギュウギュウ詰めの満員電車の中ででも、暑さの中でも寒さの中でも祈りができないことはないかもしれません。

 しかし、祈りは個人の黙想ではありません。自己の内部で完結している、自分ともう一人の自分との対話、或いは独り言ではないのです。祈りは神への語りかけであり、同時に神からの語りかけを聴くことです。その繰り返しです。自分ともう一人の自分との対話ではなく、自分と神との対話なのです。面と向かい合って、言葉を発し言葉を聴く、重ねて言葉を発し言葉を聴く、そうしながら自分の心を注ぎだし、また神の心を受け止めるのです。それが祈りです。ですから、それを妨げるものは何であれ避けたいのです。

 だから「朝早く、まだ暗いうちに」なのです。そうです、世の中がまだ動き出す前の一人だけの静寂な時間においてです。だから「人里離れたところで」なのです。そうです、神と自分以外だれ一人として、何一つとして気を惹いたり心を騒がせたりする存在がない空間においてです。そこでただ神にだけ真向かって祈るのです。何一つ隠し立てすることなく、喜びも悲しみも、嘆きも怒りも、不安も疑いも言葉にし、時に言葉にならないままで思いを吐き出し、そんな自分への答に耳を傾けるのです。

 そのような対話の中で、「この神にとって」「一体全体自分とは何者であるのか」、「自分はどう生きるのか」、「何のために生かされているのか」ということを知らされていくのです。それが祈りなのです。祈りが土台、祈りが出発点なのです。私たちだけでなく、イエス様もまたそうであったに違いないと思うのです。マルコ福音書によれば、第1章に始まり、14章での逮捕・処刑を目前にしてのゲッセマネの祈り、15章の十字架上での絶叫のような祈りに至るまで公生涯の節目節目で主は祈りをなさってきました。

 第二は、言うまでもなく、神の福音の宣教です。ガリラヤでの第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15)でした。教えの形で、論争の形で、たとえ話の形などさまざまな形で語られたことはすべて、神の国の到来の告知であり、福音を信じることの喜びの宣言であり、神の恵みである福音にふさわしいように悔い改めること、そのように生きることの勧めでした。

 そして第三が病気のいやしや悪霊の追放です。心や体の健やかさが脅かされ、落ち込みくずおれて、自分が望む生き方ができなくなっている人々をその重荷や囚われから解放することです。第1章だけでも「汚れた霊に取り憑かれた男をいやす」「多くの病人をいやす」という二つの小見出しがついた記事が記されています。その中にはシモンの義理の母親のいやしも含まれています。第二と第三のことを総括して、「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」(1:39)と言ってマルコは締め括っています。

 しかし、今ここではっきりと確認しておかなければならないことがあります。今のガリラヤでの活動の総括は、ただあれをしたこれをしたという行動のまとめに過ぎないのではないということです。その直前の38節を見落としてはならないのです。そこには主イエスご自身の言葉としてこう書かれています。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(1:38)。私は宣教をする。宣教と表裏一体になっている悪霊追放をする、いやしのわざを私は行うのだ。「そのために」私は出て来たのだと高らかに、明確に、強い意志を込めて主は言われています。私は「そのために」生きる、生きているというのです。それが私の生きる目的なのだ、私の命、私の時間、私のすべてを「そのために」捧げるのだ、そう宣言なさっているのです。わたしは福音宣教といやしをするために生きるのだ、こう公生涯の初めにおっしゃったのです。ただ一人朝早く人里離れたところで神と向き合って、神に祈り、つまり神に語り掛け、また神からの語りかけを聴いて、イエス様はご自分のアイデンティティを確かめ、自分の生きる目的を明確に、揺るぎないものになさったのです。

4.

 生前のイエス様には直接まみえることはなかったけれども、ダマスコ途上で思いもかけず復活のキリストの自己啓示に出会い、180度の生の方向転換、回心を経験したのがサウロ改めパウロです。しかし彼はただちに福音の宣教者となったのではありませんでした。使徒言行録には記されていませんが、自筆の手紙であるガラテヤ書にはこう書いてあるのです。「その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐに血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くことをせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラ1:16-17)。砂漠のあるアラビアに退いたということは、彼がただ一人静かに神さまに向かい合って祈りに専念する時間を持ったということでしょう。どの位の期間だったのかは書かれていません。数週間か、数ヶ月か、数年か。しかし、間違いなく、その祈りの期間があったからこそ、そのあとの20年余りの、質量共にものすごい福音宣教に従事できたのだと思われます。3次におよぶ地中海世界、小アジアとヨーロッパでの福音宣教をやり、その結果として殉教の死を遂げたのです。世界宗教としてのキリスト教の基礎を築いたのです。

 彼にとって福音宣教をするというとき、その内容と切っても切り離せないやり方がありました。それを彼自身の言葉で書き記しています。第一コリント書の9章、今日の使徒書の日課です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」(Ⅰコリ9:19)。彼にとって宣教とは相手を洗脳することではありませんでした。一人でも多くの人をキリストに導くこととは、キリストと出会わせ、キリストの命に触れさせ、キリストを信じキリストと共に生きる喜びを味わってもらうことなのです。そのためには自分はなんと「すべての人の奴隷」になるというのです。

 すべての人の奴隷になるというと抽象的で分かるようで分かりませんから、パウロはもっと具体的に語ります。「ユダヤ人を得るため」には「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになる」。民族的人種的にというよりも宗教的文化的に「ユダヤ人のようになる」と言うのです。生まれつきのユダヤ人であるパウロにはそれは何ら難しいことではありません。しかし、ユダヤ宗教の本質である「律法に支配されている人」になれるかと言えば、パウロはそれから解放されたのですから、またもや逆戻りして「律法に支配されている人」になるのは苦痛のはずです。それでもなお、律法に支配されている人を得るために、私も律法に支配されている人のように生きようと驚くべきことを言うのです。「律法を持たない人」と言えば、非ユダヤ人、ギリシャ人をはじめとする異邦人のことですが、彼らを得るためには、私は神の律法を持っておりキリストの律法に従っているのだけど、あえて律法を持たない人のようになろうと言うのです。パウロほど強い人はいないかも知れませんがそれでも、弱い人を得るためには喜んで「弱い人」になろうと言って憚らないのです。

 私たちは誰でも自分のアイデンティティを確立し、自分の生き方を定め、その枠を固めて、他とは違った、自分らしい自分として生きることを目指します。それこそが一人前の人間になることだと教えられてきました。パウロだってそうだったでしょう。しかし、彼は相手を得るためならば、その人を生かし、その人を愛し、その人をキリストの命に触れさせ、その人と福音の喜びを分かち合うためならば、折角確立した自分らしさを手放し自分の特性を改めることも、自分流の生き方を変えることも、自分を守る枠組みを解き放つことも敢えて辞さないと言うのです。ふつうそんなことはできないし、そんなことをした人なんかどこにもいないと思われるでしょう。

 しかし、一人だけそういう人がいたのです。パウロはフィリピの信徒たちへの手紙の中で、当時教会で歌われていたであろうキリスト賛歌を引用しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリ2:6-7)。そうです、相手を生かすためなら、相手を愛するためなら、相手を救うためなら、自分自身の大切にしているものを擲って少しも惜しくない方が一人だけいたのです。自分を捨てることで相手への愛を全うする、それが神の愛、それがキリストの本質でした。

 パウロはそれを知ったので、しかもキリストが自分を捨ててまで全うした愛の相手が、救おうとされた相手がこの自分自身だったということを知ったので、心を打たれたパウロは感謝をし、自分もイエスさまの生き方に倣おうと決心したのです。ですから、自分は律法に支配などされていないのに、律法に支配されている人のようになることを辞さなかったのです。律法を持たない人ではないのに、律法を持たない人のようにあえてなったのです。自分は弱い人などではないのに、喜んで弱い人になったのです。それはひとえにその人を得るため、つまり、その人を愛するため、その人にキリストに出会ってもらうため、キリストを信じキリストと共に生きる喜びを味わってもらうためでした。そうです、彼は「愛するために生きる」道を、「仕えるために生きる」道を選んだのです。だから福音宣教と奉仕のために生きたのです。それが彼の生きる意味、生きる目的になったのです。なぜなら、彼の主、救い主イエス・キリストがそのために来られたからです。私たちもパウロと共にイエスさまに倣いましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年2月4日日曜日

礼拝メッセージ「生き方がかわる」

 2024年2月4日(日)顕現後第5主日 岡村博雅

イザヤ書:40章21〜31 

コリントの信徒への手紙一:9章16〜23 

マルコによる福音書:1章29〜39

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆様方にありますように。アーメン 

 いまお読みしました主イエスの言葉「ほかの町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。私はそのために出て来たのである」という言葉から「宣教しよう」という主イエスの意気込みが伝わってきます。今日私たちは新しい1年にむけて、教会総会をもちます。宣教することの恵みに私たちが気づき、受け入れ、聖霊の助けをいただきながら、喜んでそれを生きる者としてくださいと祈ります。

 今日の教会総会に向けて、この11年の歩みを振り返りました。ボーマン宣教師がこの湯河原の地でイエス様の宣教を引き継いでから今年は69年目です。来年は70年の節目を迎えるんですね。その中の11年間を私もバトンを受け継ぎ、走らせていただけたことは本当に光栄なことでした。

 4月からは富島先生が来られてバトンを引き継いでくださいますが、主にあって敬愛する湯河原教会の兄弟姉妹の皆様と共に宣教と牧会に奉仕できましたことを心から嬉しく思っています。この11年間、特に私が思いを傾けてきたのは主日礼拝の説教と教会に来ることのできない方々や教会を離れておられる方々の問安でした。

 総会資料の牧師報告に数的なまとめを報告させていただきましたが、主が私のような未熟な者を召してくださり、破格の恵みを味わわせてくださったことを思い、感謝します。それは皆様がそれぞれ本当によく宣教し、互いの交わりを大切にしてきた結果であると思います。この11年の働きにおける恵みは、皆様が祈り、様々に助け、また補うことによって支えてくださった賜物と、感謝しております。

 私は今日のイザヤ書の言葉の真実さに打たれます。29節、神は「疲れた者に力を与え/勢いのない者に強さを加えられる」。この御言葉を実感しますし、本当に励まされます。31節には、「宣教しよう」とおっしゃる主イエスを感じます。もちろん人間としての体の疲れを持ちながら、しかし魂の姿としては力強い主イエスそのものを感じます。「主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない」。まさにこの主イエスが共にいてくださるのだと感じます。

 私たち湯河原教会の仲間は個性豊かで、考えも、思いもいろいろです。ですから画一的ではなく、多様性を大切にしながら、ともに主の福音にあずかる家族として、個人の思いはあっても、みんなで一致することによって、主キリストの体として育てられてゆくことを願ってきています。この11年間を振り返るとそんな恵みの日々であったと感謝に満たされます。

 さて福音書から聞いてまいりましょう。先週と今週の箇所は同じ一日の連続した出来事です。会堂で主イエスが悪霊払いをしたのを見て、人々は「イエス様、実はシモンのしゅうとめが熱を出して寝込んでいます」と告げた。この当時の人々は「悪霊」が病気をも引き起こすと考えましたから、シモンのしゅうとめに取り憑いた悪霊(熱病)も追い出してもらおうと期待したのでしょう。

 主の一行はすぐに、シモンとアンデレの家に向かった。主イエスが彼女の「手を取って起こされると」熱が引いた。主イエスは病気の人に触れて、その人をいやしました。私の父は内科医でした。子供の頃、具合が悪くなったときなど「どれ、見せてごらん」とシャツをめくって触診をする。父が体に触れてくれたときのなんともいえない安堵感を思い出しました。主イエスに優しく触れられることは、病人にとってきっと大きな励ましであり安心だったに違いありません。

 31節、彼女は回復して、すぐに「一同に仕えた」とあります。彼女は主イエスの一行を「もてなした」のですね。この「仕える」という言葉は、主イエスご自身の生き方を表す言葉です。また弟子たちの生き方を指し示す言葉です。マルコ10章43-45節にこうあります。

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 つまり、「もてなす人=仕える人」となったシモンのしゅうとめは、主イエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていった。マルコは、主イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わると伝えているのです。皆さんも人や本との出会い、また出来事を通じて、主イエスに出会い、「主による癒やし」を受けた、そういう個人的な体験があるはずです。

 34節には、主イエスは「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊がイエスを知っていたからである」とあります。ここにも注目します。先週読んだ1章24節では汚れた霊に取り憑かれた人が主イエスに向かって「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と言いました。なぜ、悪霊は主イエスの正体を知っていたのか。それは「人間の力を超えた霊的な力によって」と言うしかありませんが、重要なのは、悪霊はイエスが誰であるかを知っていてもイエスとの関わりを拒否するということです。悪霊にとってイエスを理解していることはなんの役にも立たないからです。

 このことは私たちにも問われることかもしれません。私たちも学びによって、聖書がイエスは「神の子、キリスト」であると証していることを知っています。しかし、ただ単に知識として知っていてもそれだけでは何の役にも立ちません。問われているのは、私たちが、そのイエス・キリストという方とどのような関わりを持っているかです。

 34節の「悪霊がものを言う」というのは「悪霊が力をふるう」ことを意味しています。主イエスはそれを許さなかった。主イエスは「悪霊が思うままに力をふるう」ことを許しません。

 マルコ福音書によれば、主イエスの活動は「宣教し、悪霊を追い出す(=病人をいやす)」というものでした。「宣教する」というのは、「告げる、のべ伝える」ということです。何をのべ伝えるかといえば、1章14-15節にある「神の福音」につきます。すなわち「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。主イエスが告げたのは「神の国の到来」でした。主イエスの周りに集まった人々は、悪霊に取りつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのを見て、確かにここに「神の国」が始まっていると感じたにちがいありません。それは信仰によって伝えられ、その気づきは私たちにも続いています。

 主イエスは宣教といやしのために、私たちが互いに愛しあい、信頼しあうためにこの世にこられました。主イエスの神の国は決してセンセーショナルなものではありませんが、確かに、今、主イエスは共におられます。心を澄まして祈るとき、主はきっとその恵みに気づかせてくださいます。

 最後になりますが、35節の主イエスの祈りに目を向けましょう。それはどのようなものだったでしょうか。主イエスは何を祈っていたでしょうか。マルコは祈りの内容を伝えませんが、祈りの後で主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう」と弟子たちに呼びかけます。

 これは主イエスが祈りの中で受け取った「神の望み」だったのではないでしょうか。人間的な見方をすれば、主イエスの活動はカファルナウムで成功しています。悪霊の力は打ち破られ、病人は立ち上がり、主イエスは多くの人からの賞賛を受けています。

 主が出かけて行かなくても、そこを拠点として、人々の方が悪霊払いをしてもらおう、病気を治してもらおうとやって来ることに何の問題もなかったでしょう。しかし、主イエスは出かけて行きます。祈りの中で、人間の思いとは違う「神の望み」を見いだしたからです。

 神が一般的に何を望んでおられるかということは十戒やその他の聖書箇所に書いてあります。しかし、今、この状況の中で、この私に神が何を望んでおられるかということは聖書に書いてありません。それは一人一人が祈りの中で、沈黙のうちに語りかける神の言葉として受け取るしかないものです。私たちも御言葉の光に照らされながら、神に祈り、主イエスへの祈りを続けていくとき、きっと示しが与えられ、生き方が変えられていきます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン