2023年12月17日日曜日

礼拝メッセージ「闇に勝つ光」

 2023年12月17日(日)待降節第3主日 岡村博雅

イザヤ書:61章1〜4、8〜11 

テサロニケの信徒への手紙:5章16〜24 

ヨハネによる福音書:1章6〜8,19〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 バラ色のローソクに火が灯りました。主の到来の喜びを表すバラ色です。アドベントは御子の降誕の喜びをワクワクしながら待つ時であり、またもう一方では悔い改めが求められる時です。喜びと悔い改め、待降節にはこの両面があります。

 ある方が教会に来て神様の前に悔い改めることを知るようになって心が落ち着いたと証ししてくださいました。この方は少し前に大変悲しい、苦しい経験をされた方ですが、いま教会に導かれて聖書を学び、聖書に照らしてご自分の過去を顧みる事ができるようになってきたとおっしゃいます。

 教会に来る前は罪というのは犯罪のことだと思っていたので自分に罪があるとは考えられなかった。自分は正しいことを言っているし、正しいことをしようと頑張っていた。けれども、人に対しては寛容になれなかった。今、自分はずいぶん変わったと思う。固まっていたものが溶けたようでとても楽になった。そうおっしゃいました。

 その方ばかりでなく、私たちはどうしても自分を正しいと思う。人間とはそういう者ですね。自分は正しくて、間違っているのは相手なんだと思いがちです。しかし、謙虚にされ、悔い改めに導かれるとき、過去や現在の囚われから解放されます。

 そういう経験をすると、私たちは嬉しくなります。喜びに満たされるからです。悔い改めというのは実は深いところでの、いわば魂の充足なんですね。神は恵みによって私たちを喜びで包んでくださり、やがてその喜びは、神への信頼、救いへの希望へとつながっていきます。誰にも心底、悔い改める経験があると思いますが、悔い改めは喜びの経験ですから恵みというよりほかありません。このアドベントの第3週、喜びの主日に神の前に悔い改めることこそが本当の喜びなのだということをまず心に留めたいと思います。

 今日の福音は先週に続いてヨハネが登場します。「ヨハネは証しをするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるためである」(ヨハネ1:7)と宣言します。ヨハネは闇の世界に光として来られる主イエスを証しする役割のために来たのです。この世界は暗闇であるということ報道から感じます。ガザ地区の戦闘、ウクライナでの戦争、アラブの武装勢力などに目を向ければ、全くそのとおりです。人類はきっと有史いらい常に争いあい、殺し合っています。そして私たちの心の中にも暗闇がありますね。

 そんな人類の住む闇の世界に、光として、真の救いとして来てくださった主イエスを指し示すこと、それがヨハネの役割でした。

 聖書教会共同訳ではヨハネ1章5節を「光は暗闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と訳しました。新共同訳では「暗闇は光を理解しなかった」としていますが、「闇は光に勝たなかった」という言葉こそがヨハネ福音書が伝えるメッセージではないかと思います。なぜならキリストはかならず人類の闇に勝利してくださるからです。それが聖書全体が伝える終末における世の完成のありさまであるからです。

 さて、第1朗読をご覧ください。イザヤの預言ですが、イザヤ61章1節に、「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた」とあります。これはもちろん主イエスご自身のことですけれども、主によって聖霊の洗礼を受けたことに目覚めた、私たちのことでもあります。

 主が私に聖なる霊を注いでくださいました。聖なる霊が私をとらえています。何のためでしょうか。協力するためですね。聖霊に協力するためです。つまり、「遣わされて、貧しい人に良い知らせを伝えるため。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人に解放を告げる」ためです。(イザヤ61:1)

 これを私たち、このクリスマスへの準備の時に、できたらいいなあと思います。まだクリスマスまで一週間あります。祈りながら、主イエスの思いを心に浮かべながら、身近なところでやっていきましょう。「打ち砕かれた心」の人、きっとまわりにいます。その人の思いを聞いて、それを、主のみ心を思ってそっと包みます。いろんなことに「捕らわれている人」はあなたに向き合ってもらい、聞いてもらううちにきっと真理に気づき自由になります。

「だいじょうぶ。あなたは救われている」という「解放」の喜びを、心に思って、できれば言葉に出して告げ知らせて、共に喜べたなら、それも私たちの証しにちがいありません。

 イザヤ書10節にあるように、「主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」(イザヤ61:10)。まさにこの日を、私たちは待ち望みます。

 これは、限りのある人間の言葉で表現していますが、あらゆる想像を超えたこの日を、私たちは待ち望みます。どうぞ私たち自身が縛られている認識や良識の縄目を取り払って、自由に豊かに思い描いてください。神はどんな「晴れ着」をまとわせてくださるのか、どのように「花婿の冠」「花嫁の宝石」で飾っていただけるのか、聖書の言葉にそって楽しみにしたいです。確かに闇が深い時は忍耐がいります。しかし、神には、私たちを用いようとされる「とっておき」の計画があるのです。私たちはその日を待ち望みたいですね。

 11節には「主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」(イザ61:11)とあります。この私にそんな栄誉が与えられるなんて夢のようですが、これが神の約束です。それを、私たちは信じます。それはすべて神のご計画であり、その聖書的な表現ということですね。

 最後にパウロの手紙から聞きたいと思います。一テサロニケ5章23節に「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」とあります。「くださいますように」ということは、未来の話で、これからのことですね。「平和の神御自身が」やがて「あなたがたを全く聖なる者として」くださるというのです。嬉しいことです。

 また、続いて、「霊も魂も体も何一つかけたところのないものとして守って、主イエスの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」とあります。「イエス・キリストの来られるとき」とは未来のことです。つまり、神の国が完成するそのときです。まさに世に対する真の勝利の時です。パウロは神が「やがてそうしてくださる」と確証してくれているのです。

 私たちは、実はいつも、何か「そこが欠けている、ここも欠けている」と様々なことについて不十分に思っていませんか。それこそ世の中のことも自分のことも欠点だらけだと思ってはいないでしょうか。でもそれは、神がそういったものをこれから「欠けたところのないもの」、「非のうちどころのないもの」としてくださるためだと思ってください。

 パウロは24節で「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ず・ ・そのとおりにしてくださいます」(一テサ5:24)と、そう結んでいます。

 だからこそ、この真実に立つからこそ、あなたは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサ5:16)と命じて私たちを励ましています。そして、それこそが、主、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(一テサ5:18)。と高らかに宣言するのです。これはまさに神の助けによる聖霊による仕業です。私たちはこれを、このクリスマスの心備えとして、喜び、祈り、感謝を実践していきましょう。

 私たちは、やがて主のみもと、神のみもとで「救いの衣」を着せていただき、「恵みの晴れ着」をまとわせていただき、「花婿のように輝きの冠を」かぶらせていただき、「花嫁のように宝石で飾って」いただくことを、夢見ます。(イザヤ64:10)その喜びのために、「永遠なる」「神からの」「とっておきの」ご褒美を楽しみにいたしましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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