2023年12月24日日曜日

礼拝メッセージ「イエス・キリスト誕生」

2023年12月24日(日)主の降誕主日  岡村博雅

イザヤ書:9章1〜6 

テトスへの手紙:2章11〜14 

ルカによる福音書:2章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

クリスマス、おめでとうございます。教会暦の上では今日は待降節第4主日ですが、湯河原教会では主の降誕主日として祝います。今日も神様はすべての人を礼拝に招いています。

ですから、ルーテル湯河原教会は世界中のどの国の人も、男の人も女の人も、お年寄りも子供も、一人ひとり違う考えの人も別け隔てなく受け入れます。そして、私たちは今日、この礼拝ですべての人の救い主としてお生まれになった御子イエス様を喜んで迎えます。

子どもたち、前にいらっしゃい。(子供の礼拝)(子どもたち席に戻る)

 今日の福音書のルカ2章1〜7節にはイエス様の誕生のいきさつが述べられています。学者たちの研究によれば、細かな矛盾や未解決の問題があるものの、この記録は大筋では信頼できます。イエス・キリストの誕生は、今からおよそ二千年前のことです。それは広大なローマ帝国が完成してからまだ間もない頃です。そのローマ帝国の支配下に置かれたユダヤの社会の片隅でイエス様は誕生します。イエスがなぜベツレヘムで生まれたのか、それはルカ2章の初めにあるように住民登録のためでした。

 学者たちが現在までに発見した人口調査に関する古文書から、皇帝アウグストゥスの頃から、ほぼ14年ごとに人口調査が実施されたことが推定できるそうです。また、その登録は各人が故郷に戻って行ったということも、エジプトから発見されたパピルス文書によって確認できるのだそうです。つまりルカは1節から7節でマリアとヨセフの経験は作り話ではない、歴史的な出来事なのだと語っているのです。

 そして8から14節ではイエスの誕生の意味が語られます。登場するのは羊飼いたちと、主の天使と天の軍勢です。羊飼いたちは天の側から、すなわち神から、救い主の誕生を知らされます。この物語は羊飼いたちの信仰によって語り継がれたものであることことがわかります。彼らは自分たちが経験した真実を語っており、ここに記されている、喜びに満ちたやり取りから彼らの信仰とイエス様の誕生の意味が伝わってきます。

 イスラエルの人々はバビロン捕囚という苦難を経て、長い間救い主の誕生を心待ちにしていました。第一朗読をご覧ください。イザヤたち預言者は救い主の誕生を預言していました。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た」。「一人のみどり児が私たちのために生まれた」と。

 2000年前のある夜、野宿をしていた羊飼いたちはなんの前触れもなく「恐れるな、今日、救い主がお生まれになった」と預言が成就したことを知らされました。そのときの情景と言い、天の軍勢の高らかな賛美の声といい、羊飼いたちは、これは本当のことだと素直に信じたに違いありません。

 「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」が神からのしるしだと告げられた彼らは、そのお告げを信じました。仲間どうしで声をかけあって、これがしるしだと言われた「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を探して夜の闇の中に、みんなで声を掛け合って出かけていきました。「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と。この言葉からは、喜び勇んで赤ちゃんイエス様に会いに行く羊飼いたちの有様がありありと浮かんできますね。そしてついに彼らは粗末な小屋に宿をとっていた、マリアとヨセフ、そして、「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を見つけるのです。この出来事にイエス様の誕生の意味が示されています。

 イエスの誕生の意味は、その出来事を正確に、かつ詳細に調べ、理解すれば分かるというものではありません。それはむしろ心を開いて待つ者に明かされていくのです。羊飼いたちがそうであったように、天使は、心を開いて待つ者に近づき喜びを告げました。「心を開いて救いを待つ」。そうすることで誰もが自分にとってのイエスの誕生の意味を悟ることができます。その人の生まれや育ち、家庭や社会環境の違いなどは一切問題になりません。大切なことは、「聞いて信じる」心があるかどうかです。羊飼いはまさに、「聞いて信じる」心の人々でした。

 ではマリアとヨセフをめぐる状況はどうだったでしょうか。皇帝が求める住民登録に、不満を言うこともなく、ただ淡々と従って故郷に戻るこの無名のカップルには、人々が憧れたりするものがまったく無かったと言えます。この二人には、私たちが関心を抱き、目を奪われるような、能力も業績も地位も何もありません。全く特別ではありません。

 また「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」という言葉からは、今にも出産しそうな女性を受け入れて面倒に巻き込まれたくない、貧しい旅人ではもうけにならない、そんな人々の冷たさと居場所のなさが響いてきます。

 粗末な小屋で出産したマリアが初子をくるんでやったものは、一枚の使い古された布であり、その子が寝かされた場所は飼い葉桶です。しかし、これこそが神がすべての人の救い主である乳飲み子のためにマリアとヨセフを通じて供えてくださったものです。

 物の面ではほぼどん底にいる彼らですが、しかし心の面ではどうでしょうか。この両親は神と共にあり、お互いを慈しみあい、いたわりあう優しさに溢れていたでしょう。与えられたすべてを善いものとして感謝して受け止めていたのではないかと思います。彼らにあっては物や力を重視する価値基準が完全に逆転しています。

 この出来事には人間の常識ではとうてい考えられない神秘があります。イエス・キリストの誕生は神の救いのご計画によるものです。そのもっとも深いところには、すべての人を別け隔てなくどこまでも愛して、そのために、独り子をも惜しまずに与えてくださったという神の私たちへの愛があります。

 その愛はすべての人への愛です。それは、国籍によらず、人種によらず、主義主張によらず、まったく差別をしない、人類すべての救い主としてお生まれになった御子イエス・キリストの普遍的な愛です。

 しかしイエス・キリストの誕生の意味は即座に理解できるものではありません。それは、聞いて、信じて、訪ねあてるとき初めて私たちにも明かされてきます。救い主は2,000年前の「今日」生まれただけではありません。私たちが人間社会に居場所を見つけられずに飼い葉桶に寝かされた幼子を訪ねあてる「今日」、救い主は私たちのうちに、あなたのうちにきっとお生まれになります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

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