2023年11月5日日曜日

礼拝メッセージ「喜びにあふれて」

 2023年11月5日(日)全聖徒主日(白) 岡村博雅

ヨハネの黙示録:7章9〜17 

ヨハネの手紙一:3章1〜3 

マタイによる福音書:5章1〜12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日、この聖壇に掲げられているお写真の方々は私達の教会家族です。聖書には聖徒という表現はないのですが、全世界のルーテル教会では11月1日を「オールセイント・デイ」、「全ての聖徒の日」と定めて、信仰を持って亡くなった方々を記念して、天にある方々と地にある私達が共に礼拝を持つ日としています。

 今は亡き方々を霊として覚えるという点では日本のお盆と似たところがあると思います。この方々は私達といつも交わりがあるということをこの礼拝によって改めて覚えたいと思います。

 私達にしても彼らの信仰の人生に触れることは意味深いことです。使徒信条に「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、とこしえの命を信ず」とありますが、「全聖徒の日」はこの「聖徒の交わり」を信じる信仰に裏付けされています。天にある方々が過去の思い出の人ではなく、今も、私達のために祈り、支えてくれていると信じて、霊的な深い交わりをするということで私達の人生は本当に豊かになりますね。

 私は2013年に湯河原教会・小田原教会に着任しましたが、両教会で32人の方のご葬儀をさせていただきました。私が洗礼を授けた17人の方の内、6人の方がすでに天におられます。今は亡きあの方この方のことが思い浮かびます。ここにはその方たちを含めて60人の方々の写真が掲げられています。今日は、その方たちが、「おっ、あら、椅子が新しくなりましたね」などと言いながら今もそこに座っておられるような気がます。

 そうして思い巡らしていると、はたと、そうか亡くなった方たちはいわば、席を譲ってくださったのだと気づきます。もし、この写真の60人の方々を含む、名簿をお配りした湯河原教会ゆかりの召天者92人の方々が今もが健在だったら、この礼拝堂がいっぱいになってちょっと大変でしょう。

 もし亡くなるということが無かったら、新しい人が入る余地がないわけです。そう思うと、死とはつまり、譲ることであり、一番大事な人、一番愛する人に一番すばらしい贈りものをするということなのだと気づかされます。死者が私達生者を生かしてくれているのです。この主日にしみじみとそのように感じていただけたらと思う次第です。

 こうして礼拝していると身近で亡くなられた親しい方が、何故あのときに、あのように天に召されたのかと思われることでしょう。でもすべては神のみぞ知る神秘です。亡くなられた方は、生きている間もみなさんを愛しましたけれども、死へむかうプロセスを通して、もっと完全に、もっと深く皆さんを愛しました。

 神様は、その人の死を、残された者への何かとても素晴らしい最高の贈りものにしてくださったのです。そうして、彼らは天の国に生まれ出ていって、そこで何のとらわれも無く、自由に、神のみ心とひとつになって、愛する人のために良いわざを為そうとする。これこそ、私達が死と呼んでいるできごとの真実ではないでしょうか。

 世界の状況から平和な中で死を迎えた方々ばかりでなく、不条理で過酷な死で命を終えた方々があることが思われます。特にガザとイスラエルで天に召されていった多くの子供たちを含む1万人を超える人々を思わずにおれません。決して赦されない死でありますが、神は、この方々を天に迎えてくださることを思います。

 今日の黙示録の箇所には「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである」(黙示録7:16-17)とあります。天に迎えられた方々は、今や聖なる者として本当の安らぎと喜びの中におられることを信じて祈ります。

「全聖徒の主日」に、私達は死んだ人のためにお祈りしますけれども、どうもそれは逆なのではないかと思います。なぜなら、死んだ人のために祈るというよりは、死んだ人がこの世にある私達のために祈ってくれているはずだからです。

 ヨハネの手紙にあるように、私達はこの世にあって主キリストの執り成しによって「今すでに神の子ども」(1ヨハネ3:2)とされていますが、まだ不完全なままです。しかし、天にある方々は、神に清められて完全な神の子どもとなっています。

 ということは、あちらの方々の方がいわば格が上なわけですね。この世は限界がある身勝手な人間たちの世界です。しかし、今や天の国に生まれ出ていった方々は、神に清められ、ほんとうに神のみ心のままに、清い愛をもって、自由自在に、私達のために祈り、助けてくれています。ですから、私達はまずはこの私のために神に祈ってくださいと、そう祈ったらいいと思います。

 この、すでに天にある方々が私達のために祈っているという信仰は、福音的な信仰です。亡くなった家族・友人が天にあって神のそばで私達のために神にとりなしてくれる。主イエス・キリストは、そのように永遠の天の世界と不完全な地の世界をしっかりと結んで天地の通路として、天への「道」(ヨハネ14:6)となってくださっています。

 天の国に生まれる日こそが私達の待ち望むこの世の旅路の到達点です。そして洗礼というのは、その日の先取りと言えます。皆さんはもうその洗礼を受けている、あるいは受けようとしているわけですけれども、洗礼は言うなれば、一旦死んだということです。主キリストと共に葬られ、神の命の世界に新たに生まれ出て、いわばもう死者の世界に半分入ったようなものです。

 洗礼というのは、この世にありながら、天の国の住民票を先にもらって、この先何があっても落ち着く先が決まっていて安心だという、そういう天の恵みを生き始めることなのです。

 洗礼を受けた方は半分は死んでいると申し上げましたが、実はこうした教えは仏教にもあって、臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師がこんな歌を残しています。「若い衆や 死ぬが嫌なら今死にやれ ひとたび死ねば もう死なぬぞや」と。ひとたび死ねばもう死なない。死ぬのが怖いなら先に死んどけ、というわけです。これは洗礼と重なりますね。主キリストと共に、私達は洗礼によって、もう体の半分は天国を生きている者です。あとは、全身が天国に入ることをただただ待ち望んで、天の栄光を仰ぎ見るばかりです。

 私達は、完全に天に生まれ出る前の段階であっても愛し合って生きていますけれども、考えるまでもなく、天で愛し合う愛の方が格が上のはずですし、天の方々が私達を愛してくれている愛のほうがずっと強い愛です。そういう天上の愛に支えられてようやく私達もこの世界で愛を必要としているお互いのために手を差し出すことができます。

 たぶん、本当に愛するために私達は死ぬのです。もう亡くなった方々が、そのような愛で私達を生かしてくれていることを決して忘れてはならないと思います。そのすべてが主イエスにおいて実現しました。地を生かす天の愛の目に見える最高の姿が、主イエス・キリストです。主は私達を完全に愛するために神の世界に生まれでていった方です。

 最後に、この礼拝に共に与っている湯河原教会ゆかりの方々のお名前を読み上げてその方々を覚えたいと思います。

祈ります。

望みの神さま。この全聖徒の主日に私達は天にある方々と共に礼拝に与っています。この恵みと幸いを感謝いたします。あなたは信仰からくるあらゆる喜びと平安とを私達に満たしてくださいます。どうぞ私達を聖霊の力によって、この世を生きる望みに溢れさせてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン


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