2023年11月26日日曜日

礼拝メッセージ「決定的なことは」

 2023年11月26日(日)聖霊降臨後最終主日  岡村博雅 

エゼキエル書:34章11〜16、20〜24 

エフェソの信徒への手紙:1章15〜23 

マタイによる福音書:25章31〜46

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今読んだ箇所はマタイ福音書では主イエスの最後の説教です。来週からは待降節に入ります。主イエスが再び来られる時、すべての国の人々が主の前に集められ、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:32)とあります。これはエゼキエル34章17節にあるように「最後の審判」についての古代からの表現ですが、ここで主イエスは世の終わりの裁きの様子を話されたのではありません。主は、神の目から見て何が決定的に大切なのかを示されたのです。ですからみなさん、今日はこの福音そのものを味わって受け取ってください。

 主イエスは羊と山羊を分けると話されました。実は山羊について、こんな話を聞きました。日本の離島などでは山羊を放し飼いにしておいたりするそうです。山羊はたくましくて、放おって置いても増えるので、増えたらその山羊を捕まえて、その肉を売るのだそうです。

 でも、そう簡単なことではないようです。ずっと以前に小笠原でも大問題になりましたが、山羊は、天然記念物だろうがなんだろうが、貴重な植物を全部食べてしまう。そして、どんどん増える。増え過ぎて、あらゆる植物の芽を食い尽くして、緑がなくなっていく。植生が変わってしまう。ついには、土の地肌が露出する。そなると、崖崩れにまでなります。

 これは奄美大島の無人島でキャンプを楽しんでいる人からの話ですが、この無人島に地元の人が山羊を4頭放したそうです。山羊は毎年増えて、貴重な島ユリなどを食べてしまう。毎年島にキャンプしに行っていた人たちが、地元の人に、「山羊、なんとかならないですか」と言っても、地元の人も高齢化で山羊が捕まえられない。「捕まえて食ってもいいよ」なんて言われても、山羊は素早くてとても捕まらない。角を生やしているし、結構怖いということでした。

 けれども、山羊は増え過ぎると、だんだん食べるものがなくなって、減っていくのだそうです。それで一時は山羊がわんさかいたのに、この島では、あと3頭、しかも雄だけになった。絶滅しつつあると言います。

 この話をしてくれた人が、これはあくまで自分の偏見かもしれないけれどとことわりながらこう言っていました。「山羊というのはどうも強情で、自分勝手で、人に頼らないで自分でやっていくという感じがして好きになれない」と。そう聞いて、今日の箇所が思い浮かびました。なるほど、主イエスもこういう山羊の感じをイメージしておられたのでしょう。

 一方羊ですが、これは、ずっと以前にテレビで見たどこだったかの羊牧場の話なんですが、羊飼いがピーッと笛吹くと、犬に導かれて、羊たちがみんなパーっと寄ってきて、一頭もはぐれずに群れるわけです。羊は性格もおとなしくて、素直で、人間を主人のように慕って、人間に守られていることに、全てを委ねているという感じがします。

 その動物から感じるものが、羊と山羊とでは決定的に違います。つまり、羊は、羊飼いに自分のすべてを委ねているし、羊どうしも、みんな一つになって群れている。いうなれば、お互いに信頼し合い、助け合い、共にいます。

 片や山羊は、なんというか「俺は一人で生きてくぜ、誰の世話にもならないぜ」みたいな顔をして、誰にも懐かず、助けも求めず、どんどん植物を食べ尽くして、一時は繁栄しても結局は滅んでいってしまう。羊も山羊も、私には馴染みがないので、ピンとこなかったのですが、こうして見ると羊と山羊の違いというのは分かりやすいですね。

 ただし、イエスさまのこの話を読んで、「私の信仰は羊的だろうか」とか「私は山羊的になっていないか」などと気にするとしたら、それはちょっと違います。確かに、これは最後には羊と山羊を、右に、左に分けるという話ですけれども、これは、マタイ福音書特有の傾向です。大切なのは「あなたは羊だ」ということであって、私はどちらだろうかという裁きの線引きの話ではありません。ですから、心配する必要はありません。主イエスはどんなおりにも福音を語っておられるのですから、そんな不安になるような読み方はしなくていいのです。

 一人の人間が、完全に羊になったり、完全に山羊になったりするはずはありませんし、そもそも神さまは、決して線を引きません。神さまは、すべての人をひとつの群れとして養っておられます。エゼキエル書34章11節「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」とある通りです。神は一匹たりともとりこぼさないで世話をされます。

 でも、16節には「しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす」とありますね。これは、「誰かを滅ぼす」というより、「私たちの中の山羊的なる部分を滅ぼしてくださる」ということで、神はその人の心の中の山羊的なるものを滅ぼされると、そういう希望として読んでください。

 こう考えてください。「私たちの心の中に、山羊と羊がいる。主イエスは、その山羊を服従させ、すべての人を羊のように完成させてくださる。だから、日々、羊のように主イエスを信頼して、羊のように生き、完成の日、終わりの日に備えよう」と。「私たちの内なる羊と山羊」、「羊」なる部分がかけらもない人なんてありはしないし、逆に誰もが「山羊」を抱えています。「山羊」なる自分は、自分一人で生きているかのように思い、自分で自分を救おうと思い、自分の力で何とかしようともがき、心から信頼して交われない。羊飼いにすべてを委ねるという喜びを知らないでいる。私たちの心の中には両方があります。私たちは誰もが山羊であり、羊であるんです。

 主イエスがマタイ25章42節以下で「食べさせてくれなかった、飲ませてくれなかった」と言ってますが、山羊的な心のことを言ってるんですね。自己本位な心は、「食べさせたり、飲ませたり」なんてしませんから。「しない」というより、気づかないんだと思います。たぶん「一緒にいる」という感覚がないんです。「お互いがつながってるという感覚」がない。

 羊だったら、みんなで身を寄せ合っているし、一緒に行動するし、一緒にいる感覚がある。山羊はもう、個人主義ですから、自分一人でなんとかしている。逆にいえば、他人がのどが渇いていようが、裸でいようが、どうでもいい。「私とは関係ありません」ということですから。ここが一番、「羊的」「山羊的」の違うとこじゃなかと思います。

 皆さんも時には、「あっ、この人かわいそうだ。助けてあげよう」と思ったり、「この人とはご縁があるから関わろう」と思ってつながったりしているでしょう。そのときの心はきっと「羊的」なんです。

 でも時に、「もう、人のことなんか構っちゃいられない。私はこれで、目いっぱいだ」とか「誰も信じられない」などと思うのは「山羊的」な思いになっているんです。

 でも皆さん、主イエスは、最後には、この山羊的なる部分を、ぜんぶ羊的なるものに変えてくださいます。これは福音です。主イエスはそのためにこの世にきてくださり、私たちと共にいてくださいます。それを私たちは信じて、お互いに協力します。愛し合います。もっと羊なる者になれるように工夫しますし、実際に羊どうし集まって祈ります。今こうして集まっている私たちは羊の群れですね。そう思ったらいいと思います。

 最後にパウロの励ましからも聞きたいと思います。私たちは「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」、すなわちキリストの体である教会につらなっています。そしてパウロは私たちのために祈ってくれています。1章17節以下、「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神…が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知り…、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟らせてくださるように」と。

 主イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と一つになる道だったと言えます。だからこそ、主イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。

 私たちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、主イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためです。

 主イエスがくださる愛を受けて、終わりの日、完成の日にむかって、共になって歩みを進めてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年11月19日日曜日

礼拝メッセージ「神の思い、人の思い」

 2023年11月19日(日)聖霊降臨後第25主日  岡村博雅

ゼファニヤ書:1章7、12〜18

テサロニケの信徒への手紙一:5章1〜11

マタイによる福音書:25章14〜30

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日はイエスさまが、タラントンのたとえ話から天の国について語ってくださいました。この譬えからわかるのは、私たちは誰もが、素晴らしい力と、恵みと、可能性を与えられているということです。

それは体が丈夫でも、丈夫でなくても、関係ありません。若いか、年を取っているかも、まったく関係ありません。健康であろうと、病気であろうと、良い人であろうと、悪い人であろうと関係ない。まったく関係ないです。「すべての」人に、神が、今日も、タラントンを与えています。恵みを与え続けています。ご自分の聖なる息を吹き込んでいます。

 ある説教者が私たち人間をこわれやすい笛のようなものにたとえて語っていてなるほどと思いました。いわく、自分という笛をちょっときれいに磨いて、ゴミや目詰まりを取って、自分を大切にしていれば、きっと神が力を与え、私たちを用いて働いてくださる。それがタラントンを増やすということですし、私たちはそれを信じるのみだというのです。

 私たちはこの世の命というメロディーを奏でますが、神は永遠の命というメロディーを奏でてくださる。私たちが神のメロディーに自らをゆだねて、喜んでそれを奏でていれば、その恵は何倍にでもなるでしょう。最終的には、それが何倍になったかなんていうことは、もはや、人間が量ることではないのでしょう。神だけが、それが何倍にもなっていることを知っておられるし、それを褒めてくださるし、一緒に喜んでくださいます。

 何歳になっても、たとえ体が弱っても、私たちはそのような、神の小さな楽器として鳴り響くことができるというのは、本当に大きな希望ですし、「さあ、今日からまたやってこう!」という、そういう励ましになります。

 今日のタラントンのたとえの後半の所は、タラントンを増やさなかった人が叱られるという話ですが、これは、神から頂いた恵みの素晴らしさを疑ったり、恵みをもらえないんじゃないかと怯えたりしてはけないという意味です。

 私たちはついつい疑ってしまいますね。神様から「そんなにたいしたものはもらってない」とか、「どうせなくなってしまう」とか、でも決してそんなふうに思わないでください。神からいただいているものは必ず増えると信じて、自分はそれを増やすことができると信じて、日々小さなチャレンジを重ねて、それを神に捧げていけばいいのです。かならず素晴らしい報いがあります。

 今日の福音書の25章15節に「5タラントン預けられている」とありますが、それがどれくらいのものか知らなければ、「えっ?5タラントン?ですか」と軽く思うだけでしょう。でも、どれほどのものか知っている人だったら、「え~そんなに!」ときっと驚く話です。

 「1タラントンは、一人の人の約20年分の賃金」だといいます。「20年分の賃金」というと1タラントンは6千万円から1億円くらいでしょう。5タラントンはその5倍ですから、3億円から5億円くらいでしょうか。まあ正確にはどれくらいの額なのかはともかくとしても、主イエスがこのたとえを話したとき、聞いていた人たちは、間違いなく「ほー、なんとも莫大な額のタラントンを預けたんですね」などと、とても驚いたはずです。

 ここにイエスさまの意図を感じませんか?聞いている人に、「ということは、私も神さまからそんなに預かっているのか?」と、そう思わせたい。でも私たちはだれもがそれ以上に預かっているのです。皆さん。「5タラントン」どころか、100タラントンをもすでに、預かっているんです。神からの大いなる恵み。こうして皆さんと出会い、今ここで、この時間を過ごしているというだけでも、これは、たとえどんなに金銭を積んでも、お金で買えるものじゃないです。

 神が与えてくださった、究極の、この「わたし」という恵みは、5タラントン、10タラントンをはるかに超えるような恵みでしょう。この恵みは、皆さんが決めるのではないです。「私はこんな人間だから、まあワン・コイン、500円くらいかな」とか、そんなことを思う必要はありません。「神が」与えてくださるのですから。この「わたし」にはとてつもない価値があります。それを信じてください。

 そうしてこう信じましょう。「神が、主キリストをとおして、共におられ、共に働いておられる」と。「主キリストを通して、キリスト者である私を通して、素晴らしいことがたくさん起こる」と。私はそう信じます。牧師にしていただいて、この10年余りを過ごしてきて、一人のキリスト者として、皆さんに申し上げられることがあるとするなら神の助けによって、皆さんの助けによってなしえたということです。

 皆さんもそうでしょうが、私にも自分なんかがと尻込みしたくなる気持ちがあります。でも天の父も、主も、聖霊もこぞって助けてくださる。だからキリスト者はだれでもできます。ルターが、恵みのみ、信仰のみと宣言している通りです。「自分を通して、神が働く」と信じてください。誰もが、素晴らしいことができます。

 今日の第2朗読で「その日はふいに来る」という意味のことが言われました。一度の人生ですから、できるときに精一杯生きていきたいものです。教会に新しいトイレが寄付され、椅子も寄付されてということを体験しながら、それが目に見えても、見えなくても、こうしてみなさんが精一杯生きようとしておられることをきっと主キリストは喜んでおられることを思います。

 テサロニケ一5章2節以下に「盗人が夜やって来るように、主の日が来るということを、あなたがた自身よく知っている…。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う…。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」とあります。

 これは私たち全員のことです。ここで「主の日」とはこの世の最後の日と受け取ってください。その日が来ます。誰もその日からは逃れられない。神の御前に立つその日が来る。私はやはり、その日には後悔しないで、こんな自分だですが、「でも、神さま、そこそこやりました」と言いたいです。「こんなダメダメな自分だったけれど、それなりに頑張りました。神さま、あなたは知っておられます」と言いたい。「皆さんの話をひたすら聴いて、福音を語りあいました。それが、与えられたタラントンだと信じてやってきました。恵みというタラントン、イエス・キリストの福音というタラントンを喜んで分かち合う仲間がジワジワと生まれてきました。テサロニケ一5章5節にある通り、皆が『光の子、昼の子』です。『私たちは、夜にも闇にも属していません』」と。

 さて、このたとえ話の中心テーマは1タラントン預けられた人だと思います。この人は、それを埋めたとありましたが (マタイ25:18) 、この人は神を恐れたということでしょう。その理由はこの人が、今日のゼファニヤ書にあるように、神は義と怒りをもって人間を裁く方だと思いこんでいるからです。この人はそんな神の前に自分をさらけ出すことを恐れたのです。この人は恐れから弱い自分、だめな自分を隠しました。

 でもこの人が見るべきはキリストの真実です。テサロニケ一5章9節にあるように、「神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められた」のです。主キリストが共にいてくださる今、自分のどんな罪も主が身代わりになって担ってくださる。主キリストが神の赦しを与えてくださる今、もはや恐れる必要なんて、ぜんぜんないわけです。

 神は私たちの弱さをまったくご存知だし、むしろ神のお考えで、こんな情けない自分のままで、恐れなくていい、恥じなくいいと、今いる場所に置いてくださっているからです。私自身は、失敗は多いし、身勝手だし、愛に溢れているなんてとても言えない。でも、こんな自分でも、神さまのお役に立てるのであれば、少しでも何かやろう」と、そんな思いで自分の心を開くと、そこにたくさんの、素晴らしいことが起こります。そういう体験を重ねてきました。

 人間の思い込みや決めつけに陥らないようにしっかりと主イエスを見上げましょう。この主イエスは私たちが神の恵みを味わい感謝のうちに生きてゆくようにと、その1タラントンを10倍にも、いや100倍にもしてくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年11月6日月曜日

「上へ降りるか、下へ昇るか」 江藤直純牧師

 2023年11月5日 小田原教会

ミカ3:5-12、詩43、一テサ2:9-13、マタ23:1-12

1.

 「神は我がやぐら」、教会讃美歌では「力なる神は」ですが、有名なこの讃美歌はルーテル教会では宗教改革主日の礼拝でよく歌われます。小田原教会でも先週歌われたのではないでしょうか。作詞がマルティン・ルターであることも、作曲もルターであることもこの賛美歌への愛着を増す理由の一つであるように思いますが、それだけでなく、この歌詞と曲の力強さも皆さんに愛される理由でしょう。今はフランスの国歌であり、元々はフランス革命の勝利の行進曲「ラ・マルセイエーズ」になぞらえて「宗教改革のラ・マルセイエーズ」と称されていたこともあったほどです。パイプオルガンの音量を最大にして、トランペットの音を高らかに響かせながら、大人数で歌うと興奮を覚えるほどです。まことに力強い信仰の勝利の歌と思われます。

 しかし、それはルターがこの讃美歌を作ったときの心情とは遠く隔たっています。そもそも彼が詞の下敷きにした詩編46編の詩人がこの詩を謳った状況とも違っています。詩編46編の出だしはこうです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。/苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。/わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」(詩46:2-4)。大きな困難の只中にあってもわれわれがお頼り申し上げる神様はなんと力強いお方であることか、と謳い上げているのですから、先ほど申し上げた信仰の勝利の歌であるとの見方は少しも間違ってはいないと思われます。

 そうなのですけれども、神への信仰、信頼はたしかにそうなのですけれども、現実に詩人が置かれている状況はと言えば、「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも」という比喩的な表現で描かれているとおりに、言葉に尽くせないほどの大きな困難の只中にあるというのです。いえ、東日本大震災を、あの大地震と大津波を身近に経験した私たちは、この詩人が描き出している場面が大袈裟な誇張でもなく、ましてや作り話などではまったくないことを知っているではありませんか。詩人が描写していることは現実に起こりうるのです。

 たしかに詩人が実際に経験しているのはあのような天変地異ではなかったかもしれません。しかし、それに匹敵するような、とてつもない大惨劇が起こったのです。「都は揺らぎ」「すべての民は騒ぎ、国々が揺らぐ」大混乱をこの目で見、肌で感じたのです。そのような悲劇的な状況の真っ只中で、「人間は何と無力であることか」「世界中どこにもこれっぽっちの希望もないではないか」と嘆き悲しまないではいられない状況に置かれているのです。その中で神様だけが頼りの綱だと告白しているのです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」、これは偽らざる、心からの信仰告白でした。

 ルターが「神はわがやぐら」「力なる神は」を作ったとき、宗教改革運動は行き詰まっており、四面楚歌、八方塞がりの状態でした。そのような状況の只中にあったからこそ、唯一の助けまた支えである神への賛美の歌を作り、皆で歌ったのです、いえ、なにより自分自身のために歌ったのでした。そうやって魂の安らぎを得たのです。

2.

 今朝の旧約、使徒書、福音書とともに指定された詩編は43編でした。そこではやはりこの詩人は途方もない困難の中に置かれています。自然災害ではなく、もっと社会的な問題のようです。「神よ、あなたの裁きを望みます。/わたしに代わって争ってください。/あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください」(詩43:1)。2節では「なぜ、わたしは見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか」と、自分の置かれた最悪の状況を、美辞麗句など全く使わずに、ありのままの苦しみ悲しみを訴えているのです。そして終わりの合唱の部ではこうも歌われています。「なぜうなだれるのか。わたしの魂よ/なぜ呻くのか。/神を待ち望め。」(43;5)と。そうです。この詩人はうなだれているのです。呻いているのです。それ以外にどうしようもない絶望の淵に陥っているのです。人間的な一切の希望が持てない状況にいるのだから、最後の最後に「神」に叫び、神を待ち望んでいるのです。「神を待ち望め。/わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。/わたしの神よ」(43:5)。

 わたしたちは46編や43編を読むとき、詩人が持っている神への信頼の強さにばかり目を奪われ、あのように神様を賛美したいものだと思いがちです。しかし、その信頼のリアリティーは彼が置かれている状況の厳しさ、苦しさ、酷さをリアルに想像することなしには、ただのきれい事に終わってしまうでしょう。

 なぜ、今朝このようなお話しをしているかと言えば、先日もテレビのニュースで「神さま、助けてください!」とこれ以上ないくらい悲惨な表情で訴えているパレスチナの人が映し出されているのを見たからです。10月7日のハマスの攻撃に端を発したイスラエル軍の連日の猛攻撃によりガザ地区は公共施設も一般の住宅も病院も学校も難民キャンプさえも、町中至るところが見るも無惨に破壊され、1万人ほどの無辜の市民が容赦なく殺され、しかもそのうちの半数近くは子どもたちで、水や食糧や医薬品や燃料はすでに底をついているのです。不安、いや恐怖の中での暮しですからガザ地区には早産がとても多いそうです。お産も暗闇の中でろうそくの光をたよりになされているとも報じられています。

 イスラエルの首相は「停戦はしない」「ハマスを殲滅する」と冷酷に言い放ちました。国際世論にもかかわらず、安全保障理事会は停戦の提案を何度も否決しているのです。人道的支援を訴える日本の代表もハマスへの非難が含まれていないと言って停戦決議に棄権をしている始末です。その中で、「神さま、助けてください!」とどうしようもない嘆きと怒りをない交ぜにした叫びをテレビカメラが捕らえていました。

3.

 グティエレス国連事務総長は、ハマスのイスラエル攻撃を非難しつつ、しかし、それは何もないところで突然起こったことではないと言ったことで、イスラエルの猛反発を食らい、辞任を要求されました。事務総長はこのパレスチナ側の暴力には歴史的、社会的な背景があるとの認識を示したのです。それは何でしょうか。

 私が中学生のときに住んでいた熊本に「栄光への脱出」というタイトルのアメリカ映画が来ました。当時まだ珍しかった70ミリの映画でしたし、評判だったので観に行きました。映画の英語の題はThe Exodusでした。旧約聖書にあるあの出エジプトです。イスラエルの建国物語です。紀元70年にローマ帝国によって滅ぼされたイスラエルはそれから1900年近く国のない民族でした。ヨーロッパ各地にゲットーを作ってそこに住み、ユダヤ教という宗教を拠り所にして、教育と金で自らを守りながらしたたかに生きてきました。しかし、キリスト殺しの民だと非難され、反ユダヤ主義によって迫害され、ついにヒトラーにより「最終解決」の対象とされました。600万人ものユダヤ人が殺害されたと言われています。「アンネの日記」のアンネ・フランクもその一人でした。

 ですから、ユダヤ人は自分たちの生命を守るためには自分たちの国が絶対必要だと確信し、自分たちの国を造ることに全精力を傾けました。ユダヤ人への迫害を何世紀にもわたってやってきたヨーロッパ諸国は負い目があり、彼らの願いを支援しました。それでも、1947年の国連の決議はユダヤ人の国家とアラブ人の国家の二つを作り、それが平和共存するという案でした。なぜなら、過去の長い長い間、エジプト、ヨルダン、シリアに囲まれ地中海に面したこの地域全体はパレスチナと呼ばれ、アラブ人つまりパレスチナ人も残っていたユダヤ人もともに暮らしてきていたのです。そこにユダヤ人たちが各地から集まって来てイスラエルという国家を造るのならば、その土地にそれまでそこに住んでいたパレスチナ人のための国家をも作るのは理の当然でした。しかし、念願叶ってExodusして建国し独立したイスラエルは自分たちの安全を守るためにパレスチナ建国を認めず、4度にわたる中東戦争を経て、やっと1993年にイスラエルとパレスチナ解放戦線PLOは相互承認とパレスチナの暫定自治原則を認める「オスロ合意」を結ぶに至りました。

 しかし、イスラエル側の保守勢力はパレスチナ領内に入植を今に至るまで続け、自治区を8メートルの壁で封鎖しています。PLO内部が分裂し、穏健派はヨルダン川西岸地区を治め、イスラエルと激しく敵対するイスラム強硬派のハマスはイスラエルの存在そのものを認めません。イスラエルも2008年以降4度にわたってガザを攻撃し、過酷な軍事封鎖を続けており、その結果、燃料も食糧も日用品も医薬品も慢性的に不足し、失業率は高く、世界一の人口密度で、難民キャンプで生まれ育ち死んでいく状態が今に至るまで続いているのです。どの専門家も、今後どれだけ争いを続けても、どちらにも軍事的・暴力的な解決はありえないので、二国家の平和共存しか将来にわたる真の解決策はないと語っています。こういう状況の下で、何の罪もない市民たちが毎日何百何千の単位で死んでいっているのです。聖書の中での呻き声を上げている人たちと全く同じような状態です。

4.

 聖書には嘆き悲しむ人間のことだけでなく、自分たちにとっての絶対的な正義と平和を主張し、そのためにどれほど批判や非難を浴びようとも最終的な勝利を目指して争いと戦いを止めようとはしない人間たちに向かってのキリストの教えが語られています。11節ではイエス様はこうおっしゃっています。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。この御言葉と現在のイスラエル・パレスチナ戦争とはどのような関係があるのでしょうか。

 自分たちの民族が絶対的な平和と安全を得なければならない。それも遠い昔民族の父祖たちに約束された「乳と蜜の流れる国」において。今のイスラエルとパレスチナの領土は「神の約束の地」なのだ。こう信じて止まない人々は、自分たちの国家を建設し死守するために、二千年近くもそこに平和的に住んでいた民族を追い出し、抑圧し、事実上支配しようとするのです。かつて自分たちがされたように国を奪われ、差別され、抑圧され、あまつさえ虐殺されてきたのと同じことをしているとしか私には思えません。彼らには苦難の歴史があったことは間違いなく確かなことですが、今現在は自分たちの考え、利益、安全を「いちばん」に考え、「高ぶっている」のではないでしょうか。

 パレスチナの人々がこの75年間に味わってきた、そして今も味わい続けている苦難は取り除かれ、自分たちの生存が守られ、安心安全に暮すことができるようになることを求めるのはまことにもっともであり、世界の理解と支援を受けながらそれを実現するために戦うのも認められ実現されるべきことです。しかし、イスラエルの存在そのもの、イスラエル国家そのものを認めず、抹消しなければならないというならば、それもまたいつのまにか自らを「いちばん」と考え、「高ぶっている」ことにならないでしょうか。

 絶対的な価値はいのちの尊さであり、人間としての尊厳が守られるべきことです。それだけと言っても言い過ぎではないでしょう。しかし、どちらの側もいのちと人間の尊厳を犠牲にすることを厭ってはいないかのようです。はっきり言って、それ以外のことはすべて相対的な価値です。どのような理屈や理論、主義主張も、地上のことですから、絶対を唱えることはできません。知恵のかぎりを尽くして妥協点を見出し、相違点を認め合い、憎しみを乗り越えなければなりません。そのためには「仕える者になりなさい」「へりくだる者になりなさい」とイエス様はおっしゃるのです。いえ、教えられるばかりではなくて、そのとおりに実践なさったのです。十字架の死に至るまで神にのみ従順で、いのちを棄ててまでへりくだり、仕える生を全うなさったのです。弱さと無力さの極みに見え、惨めな敗北と思われた十字架の死を死なれました。しかし、そうなさることで罪人を赦し、生かし、新しくされたのです。世界を神と和解させ、そうすることで人々の間の和解の基礎を造られたのです。正義や平和を等閑にするのではなく、逆にそれを実現する道を開かれたのです。相手の存在を無視し、いのちを脅かすことで自分の存在を守り、安全と繁栄を謳歌するのでなく、敵であった相手を尊重し、和解し、正義と平和を実現するのです。「仕える」「へりくだる」、これは単なる個人の道徳ではなく、世界を造り替える唯一の神の真理です。神さまに信頼しつつそうすることによって、必ず真の和解が成り立ち、正義と平和が実現するのです。その日の到来を信じて待ちましょう。アーメン

2023年11月5日日曜日

礼拝メッセージ「喜びにあふれて」

 2023年11月5日(日)全聖徒主日(白) 岡村博雅

ヨハネの黙示録:7章9〜17 

ヨハネの手紙一:3章1〜3 

マタイによる福音書:5章1〜12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日、この聖壇に掲げられているお写真の方々は私達の教会家族です。聖書には聖徒という表現はないのですが、全世界のルーテル教会では11月1日を「オールセイント・デイ」、「全ての聖徒の日」と定めて、信仰を持って亡くなった方々を記念して、天にある方々と地にある私達が共に礼拝を持つ日としています。

 今は亡き方々を霊として覚えるという点では日本のお盆と似たところがあると思います。この方々は私達といつも交わりがあるということをこの礼拝によって改めて覚えたいと思います。

 私達にしても彼らの信仰の人生に触れることは意味深いことです。使徒信条に「われは聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、とこしえの命を信ず」とありますが、「全聖徒の日」はこの「聖徒の交わり」を信じる信仰に裏付けされています。天にある方々が過去の思い出の人ではなく、今も、私達のために祈り、支えてくれていると信じて、霊的な深い交わりをするということで私達の人生は本当に豊かになりますね。

 私は2013年に湯河原教会・小田原教会に着任しましたが、両教会で32人の方のご葬儀をさせていただきました。私が洗礼を授けた17人の方の内、6人の方がすでに天におられます。今は亡きあの方この方のことが思い浮かびます。ここにはその方たちを含めて60人の方々の写真が掲げられています。今日は、その方たちが、「おっ、あら、椅子が新しくなりましたね」などと言いながら今もそこに座っておられるような気がます。

 そうして思い巡らしていると、はたと、そうか亡くなった方たちはいわば、席を譲ってくださったのだと気づきます。もし、この写真の60人の方々を含む、名簿をお配りした湯河原教会ゆかりの召天者92人の方々が今もが健在だったら、この礼拝堂がいっぱいになってちょっと大変でしょう。

 もし亡くなるということが無かったら、新しい人が入る余地がないわけです。そう思うと、死とはつまり、譲ることであり、一番大事な人、一番愛する人に一番すばらしい贈りものをするということなのだと気づかされます。死者が私達生者を生かしてくれているのです。この主日にしみじみとそのように感じていただけたらと思う次第です。

 こうして礼拝していると身近で亡くなられた親しい方が、何故あのときに、あのように天に召されたのかと思われることでしょう。でもすべては神のみぞ知る神秘です。亡くなられた方は、生きている間もみなさんを愛しましたけれども、死へむかうプロセスを通して、もっと完全に、もっと深く皆さんを愛しました。

 神様は、その人の死を、残された者への何かとても素晴らしい最高の贈りものにしてくださったのです。そうして、彼らは天の国に生まれ出ていって、そこで何のとらわれも無く、自由に、神のみ心とひとつになって、愛する人のために良いわざを為そうとする。これこそ、私達が死と呼んでいるできごとの真実ではないでしょうか。

 世界の状況から平和な中で死を迎えた方々ばかりでなく、不条理で過酷な死で命を終えた方々があることが思われます。特にガザとイスラエルで天に召されていった多くの子供たちを含む1万人を超える人々を思わずにおれません。決して赦されない死でありますが、神は、この方々を天に迎えてくださることを思います。

 今日の黙示録の箇所には「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく/太陽もどのような暑さも/彼らを打つことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり/命の水の泉へと導き/神が彼らの目から涙をことごとく/拭ってくださるからである」(黙示録7:16-17)とあります。天に迎えられた方々は、今や聖なる者として本当の安らぎと喜びの中におられることを信じて祈ります。

「全聖徒の主日」に、私達は死んだ人のためにお祈りしますけれども、どうもそれは逆なのではないかと思います。なぜなら、死んだ人のために祈るというよりは、死んだ人がこの世にある私達のために祈ってくれているはずだからです。

 ヨハネの手紙にあるように、私達はこの世にあって主キリストの執り成しによって「今すでに神の子ども」(1ヨハネ3:2)とされていますが、まだ不完全なままです。しかし、天にある方々は、神に清められて完全な神の子どもとなっています。

 ということは、あちらの方々の方がいわば格が上なわけですね。この世は限界がある身勝手な人間たちの世界です。しかし、今や天の国に生まれ出ていった方々は、神に清められ、ほんとうに神のみ心のままに、清い愛をもって、自由自在に、私達のために祈り、助けてくれています。ですから、私達はまずはこの私のために神に祈ってくださいと、そう祈ったらいいと思います。

 この、すでに天にある方々が私達のために祈っているという信仰は、福音的な信仰です。亡くなった家族・友人が天にあって神のそばで私達のために神にとりなしてくれる。主イエス・キリストは、そのように永遠の天の世界と不完全な地の世界をしっかりと結んで天地の通路として、天への「道」(ヨハネ14:6)となってくださっています。

 天の国に生まれる日こそが私達の待ち望むこの世の旅路の到達点です。そして洗礼というのは、その日の先取りと言えます。皆さんはもうその洗礼を受けている、あるいは受けようとしているわけですけれども、洗礼は言うなれば、一旦死んだということです。主キリストと共に葬られ、神の命の世界に新たに生まれ出て、いわばもう死者の世界に半分入ったようなものです。

 洗礼というのは、この世にありながら、天の国の住民票を先にもらって、この先何があっても落ち着く先が決まっていて安心だという、そういう天の恵みを生き始めることなのです。

 洗礼を受けた方は半分は死んでいると申し上げましたが、実はこうした教えは仏教にもあって、臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師がこんな歌を残しています。「若い衆や 死ぬが嫌なら今死にやれ ひとたび死ねば もう死なぬぞや」と。ひとたび死ねばもう死なない。死ぬのが怖いなら先に死んどけ、というわけです。これは洗礼と重なりますね。主キリストと共に、私達は洗礼によって、もう体の半分は天国を生きている者です。あとは、全身が天国に入ることをただただ待ち望んで、天の栄光を仰ぎ見るばかりです。

 私達は、完全に天に生まれ出る前の段階であっても愛し合って生きていますけれども、考えるまでもなく、天で愛し合う愛の方が格が上のはずですし、天の方々が私達を愛してくれている愛のほうがずっと強い愛です。そういう天上の愛に支えられてようやく私達もこの世界で愛を必要としているお互いのために手を差し出すことができます。

 たぶん、本当に愛するために私達は死ぬのです。もう亡くなった方々が、そのような愛で私達を生かしてくれていることを決して忘れてはならないと思います。そのすべてが主イエスにおいて実現しました。地を生かす天の愛の目に見える最高の姿が、主イエス・キリストです。主は私達を完全に愛するために神の世界に生まれでていった方です。

 最後に、この礼拝に共に与っている湯河原教会ゆかりの方々のお名前を読み上げてその方々を覚えたいと思います。

祈ります。

望みの神さま。この全聖徒の主日に私達は天にある方々と共に礼拝に与っています。この恵みと幸いを感謝いたします。あなたは信仰からくるあらゆる喜びと平安とを私達に満たしてくださいます。どうぞ私達を聖霊の力によって、この世を生きる望みに溢れさせてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン