2023年9月24日日曜日

礼拝メッセージ「もっと豊かに生きる」

 2023年9月24日(日)聖霊降臨後第17主日

ヨナ書:3章10〜4章11

フィリピの信徒への手紙:1章21〜30

マタイによる福音書:20章1〜16

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の聖書箇所はどれも神の思いと人の思いについて語っていると思います。第一朗読はヨナ書ですが、粗筋はこんなです。神はヨナに敵国ニネベの都に行って、彼らに悔い改めるように呼びかけよと命じるのですが、ヨナは「とんでもない、いやです」と船に乗って反対方向に逃亡します。ニネベは敵国ですから救う必要はない、滅びてしまえというのがヨナの本音でした。すると神は船で逃亡したヨナを嵐に遭遇させます。そして、海に放り出されたヨナを大きな魚に飲み込ませて救いました。

 九死に一生を得たヨナは神への感謝と悔い改めに導かれ、改めてニネベに行って主の言葉を告げ回ります。悔い改めなければ40日後にこの都は滅びると言う神の言葉を聞くと、ニネベの人々は皆神を信じ、王様から下々の者に至るまで断食して悔い改めました。神はそれをご覧になって、ニネベの人々を赦し、滅ぼすことをやめられます。普通はこれで、「良かったね」となるところですが、神のみ心が今日の4章に示されます。

 1節の通りで、ヨナは、神のこの寛大な対応が不満で、怒り、神に訴えました。この神とヨナとの対話がクライマックスです。ヨナが「死んだほうがましです」と不平を言う。神は「お前は怒るが、それは正しいことか」と問う。ヨナは都の外に小屋を建てて、ニネベのその後を見届けようとします。ヨナの気持ちは「今にニネベはもとの悪に戻るに決まっている」というものだったからでしょう。

 ニネベは現在のイラクに位置していました。強烈な暑さからヨナを救うため神はトウゴマの木を生えさせて日陰を与えました。ヨナは喜びました。しかし、翌日になると神は虫に命じてトウゴマを枯らしてしまいます。こうしてヨナは東から吹き付ける熱風と照りつける太陽のためぐったりして、「生きているよりも、死ぬ方がましです。怒りのあまり死にたいぐらいです」と死ぬことを願います。

 すると、神はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのトウゴマの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

 神はヨナに「右も左もわきまえない人間」への神の深い憐れみと赦しを伝えようとヨナを導き、神の愛をより深く悟るようにとヨナに試練を与えたのでした。こうしたヨナ書のテーマは今日の福音に繋がっています。

 さて、今日の福音ですが、このたとえ話の直前には金持ちの青年の話があります。律法に従って模範的に暮らしているのに、自分の持つ富が捨てられない故に、神の国に入るのが困難だと語られます。これを受けてペトロは主イエスに尋ねます。マタイ19章27節「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と問い、これに対して主イエスは弟子たちに大きな報いを約束します。同時に20章のすぐ前、19章30節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と弟子たちに注意されたのです。この同じ言葉が、今日の福音の最後20章16節でも語られます。今日の「ぶどう園の主人と労働者のたとえ話」は、この「先の者が後に、後の者が先になる」という神の国のあり方を伝えるためのものです。

 このたとえ話は最初からよく働いた弟子とそうでない弟子の話に聞こえます。また、本来は、ファリサイ派の人や律法学者に向けて語ったと考えることもできます。その場合「自分たちは神に忠実に生きてきた」と考えるファリサイ派は朝早く(6時)から働いた人で、主イエスのメッセージを聞いて回心した徴税人や娼婦、病人や貧しい人が最後の一時間しか働かなかった人ということになります。

 主人は夜が明けたばかりの6時ごろ出かけていって労働者を一日1デナリオンの賃金で雇います。彼らは朝の6時から夕方6時まで働きます。昼食と休憩に1時間をみても炎天下で11時間、重労働です。

 主人はお昼の12時頃と午後3時頃にも人を雇いに出かけますが、更に夕方にも人を雇に出かけます。すると、夕方の5時になっても雇ってくれるのを待って、ただひたすら広場で立ち続けている人々がいました。「だれも雇ってくれないのです」(7節)という叫びは、私たちの身近にもあるのではないでしょうか。

 政府が雇用促進と賃金上昇を働きかけている中ですが、非正規雇用が増えているというような現実。その中で短時間しか働けず、低賃金に甘んじている人も大勢います。いろいろな事情でまったく仕事のない人もいます。

 マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音=良い知らせ」そのものだと言えないでしょうか。

 この主人である神は、1時間しか働かなかった人にも「同じように(1日分の賃金を)払ってやりたい」と言います。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方だからです。

 夕方になって賃金を支払う際、主人は最後の人から順番に賃金を渡すようにします。もし朝から働いた人が先に賃金をもらえば、彼らは初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらったのを知ってしまいました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不平を抱くようになります。

 主人は、朝早くからずっと自分のために働いたこの人々に何かを伝えたいがために、わざとこのようにしたのだとも言えそうです。実際、主イエスはファリサイ派であれ、主の弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったのではないでしょうか。

 この人たちが一所懸命に働いたこと、それは主もお認めになっているのです。主は、ただ「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人(神)の心を分かってほしい、と語りかけているのです。

 「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」。そのことを表す典型的な言葉は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)でしょう。

 私たちが常識的に持っている「応報思想(努力は報われるという考え方)」の問題点を主イエスは見抜いていました。第一の問題は、人間の働きばかりに関心が向いてしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うことです。もう一つの問題は、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬してしまうということです。今日の箇所で朝早くから働いた人たちの陥った問題はまさにこの「嫉妬する」ことです。

 私たちは、「人と人とを比較することはあたりまえ」「競争原理はよいことだ」という社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしています。またその逆に、「自分は(人に比べて)よくできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。きょうの福音は、そういうところから私たちを解放して、もっと豊かな生き方へと私たちを招いてくれています。

 私は想像するのですが、夕方から来てほんの少ししか働けなかった人は思いがけず一日分の賃金をもらって、どんなにか有り難く感じたことか!家族を思って、どれほどホッとしたことかと思います。たとえば私たちが自分を早朝から汗にまみれて主人と一緒に一日中働いた労働者の立場において見たらと考えます。

 イエス様は、目の前で、この破格の恵みに与って嬉しそうにしている人たちに対して、あなたは心から「よかったね」と言えるようにと願っておられると思うのです。私たちの父である神は持ち前の気前の良さと深い憐れみの心でその人を救おうとなさいます。私たちが、その隣人と共に喜べたなら、私たちは全くもって、神の国の喜びを自分のものにできるのだと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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