2023年9月24日日曜日
後なる者のように
ぶどう園で朝早くから働いた人と、夕方から最後の一時間しか働かなかった人が同じ報酬を受けた。契約通りの賃金だから不正はない。しかし、早朝から働いた人にとっては同じ報酬では道理に合わないと不満が残った。
それにしても、最後に来てほんの少ししか働かなかったのに、一日分の賃金をもらえた人はどんなにか嬉しかったことだろう。功績らしい功績もないのに分不相応の恵みを受けたのだから、それは破格というより他ない。
主イエスは「先なるものは後になり。後なるものは先になる」と、私たちの心の奥底に巣食っている「貪りの罪」に警鐘を鳴らす。もし、先に来た人が他人と比べず、後なる隣人にもたらされた恵みを一緒に喜べたなら、きっと神の国の幸いを神とともに味わったことだろう。
ぶどう園で朝早くから働いた人と、夕方から最後の一時間しか働かなかった人が同じ報酬を受けた。契約通りの賃金だから不正はない。しかし、早朝から働いた人にとっては同じ報酬では道理に合わないと不満が残った。
それにしても、最後に来てほんの少ししか働かなかったのに、一日分の賃金をもらえた人はどんなにか嬉しかったことだろう。功績らしい功績もないのに分不相応の恵みを受けたのだから、それは破格というより他ない。
主イエスは「先なるものは後になり。後なるものは先になる」と、私たちの心の奥底に巣食っている「貪りの罪」に警鐘を鳴らす。もし、先に来た人が他人と比べず、後なる隣人にもたらされた恵みを一緒に喜べたなら、きっと神の国の幸いを神とともに味わったことだろう。
2023年9月17日日曜日
みんな元気で感謝、感謝!
2023年9月10日日曜日
主イエスが共にいてこそ
「忠告する」というのは難しい。忠告の「忠」というのは、「真心」のこと。忠告は真心をもって、相手の悪いところを指摘して直すように勧めることだ。
多くの場合、私たちは真心からというより義さから忠告をしようとする。この裁きの過ちに陥らないように主イエスは、まず祈ることを勧めてくださった。「「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)」と。
密室の祈りと呼ばれる一人の祈りは大事だ。しかし、気をつけないと独善になりやすく、願いばかりが先行する。二人、三人での祈りは自分が謙遜にさせられる。主が一緒にいてくださるからだ。主の憐れみを、みんな共に受ける豊かさへと導かれる。
「忠告する」というのは難しい。忠告の「忠」というのは、「真心」のこと。忠告は真心をもって、相手の悪いところを指摘して直すように勧めることだ。
多くの場合、私たちは真心からというより義さから忠告をしようとする。この裁きの過ちに陥らないように主イエスは、まず祈ることを勧めてくださった。「「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)」と。
密室の祈りと呼ばれる一人の祈りは大事だ。しかし、気をつけないと独善になりやすく、願いばかりが先行する。二人、三人での祈りは自分が謙遜にさせられる。主が一緒にいてくださるからだ。主の憐れみを、みんな共に受ける豊かさへと導かれる。
2023年9月3日日曜日
9月、新しい気持ちで
2023年8月27日日曜日
どこをとっても恵み
2023年8月20日日曜日
もうちょっと頑張れるかな?
この夏のものすごい湿気と暑さの中、高齢の猫たちの世話は楽ではないと、家人を見て思う。餌が食べられなくなった猫に食べさせる。嫌がる猫に投薬と点滴をするのだから決してすんなりではない。家人も疲れてさすがに続けられない日もでてきた。
猫でさえこうなのだから、病人を家庭で看ている人達の心身の重荷はどれほどだろうか。そうでなくても高齢の方がこの夏を乗り越えるのは並大抵ではない。
家人は言う。「大変、大変と思っているうちはどんどん意識が低下して、本当に体も心も疲れてくる。でも、主の助けによって、もうちょっと頑張れるかな?と思ったら楽になった。底なしの淵へ落ちてゆく意識を引っ張り上げてくれた」。神に感謝します。
この夏のものすごい湿気と暑さの中、高齢の猫たちの世話は楽ではないと、家人を見て思う。餌が食べられなくなった猫に食べさせる。嫌がる猫に投薬と点滴をするのだから決してすんなりではない。家人も疲れてさすがに続けられない日もでてきた。
猫でさえこうなのだから、病人を家庭で看ている人達の心身の重荷はどれほどだろうか。そうでなくても高齢の方がこの夏を乗り越えるのは並大抵ではない。
家人は言う。「大変、大変と思っているうちはどんどん意識が低下して、本当に体も心も疲れてくる。でも、主の助けによって、もうちょっと頑張れるかな?と思ったら楽になった。底なしの淵へ落ちてゆく意識を引っ張り上げてくれた」。神に感謝します。
2023年8月13日日曜日
神の助けによって
2023年8月6日日曜日
平和の想いを新たに
8月は平和を思う月だ。6日のヒロシマ、9日のナガサキ、15日は終戦記念日だ。
先日、井伏鱒二の原作を映画化した「黒い雨」をDVDで見た。よく描かれた映画だと思った。広島の原爆が多くの人の命を奪ったことは知識として知っているが、一人一人の人生を変えてしまったことに改めて思いがゆく。戦争で心に傷を負った若者がようやく主人公によって、新たな希望を見出した。しかしその途端、主人公は原爆直後の黒い雨などによる被爆で死んでゆく。
原爆は人から人生も希望もむしり取っていく。戦争の悲惨さは知識としては知っている。が、知識は感覚を伴わない。この8月、改めて戦争の悲惨さを目で見て感じ、聞いて感じ、平和への思いを新たにしたい。
8月は平和を思う月だ。6日のヒロシマ、9日のナガサキ、15日は終戦記念日だ。
先日、井伏鱒二の原作を映画化した「黒い雨」をDVDで見た。よく描かれた映画だと思った。広島の原爆が多くの人の命を奪ったことは知識として知っているが、一人一人の人生を変えてしまったことに改めて思いがゆく。戦争で心に傷を負った若者がようやく主人公によって、新たな希望を見出した。しかしその途端、主人公は原爆直後の黒い雨などによる被爆で死んでゆく。
原爆は人から人生も希望もむしり取っていく。戦争の悲惨さは知識としては知っている。が、知識は感覚を伴わない。この8月、改めて戦争の悲惨さを目で見て感じ、聞いて感じ、平和への思いを新たにしたい。
2023年7月30日日曜日
生きているのは素晴らしい
今年の夏の暑さは耐え難い。蝉まで暑い暑いと言って鳴いている。毎日の天気予報で40℃に近い気温が予想され、聞くだけで気持ちが凹む。
午後、「こんなに暑いのだから、なにか口当たりがよく、涼しくなれるようなものをお見舞いにして」と、家人が寒天ゼリーを作ってくれた。これを携えていつもどおり一ヶ月に一度の問安をする。
夜、ホームに居る別の方から電話がかかってきた。高齢のご家族は訪ねることがないという。「先生、来てください」「近いうちにお訪ねしますからね」と電話を終える。暑さで凹んでいた気持ちも膨らんだ。
それにしても朝から夜まで鳴いている蝉は暑さ知らずだ。蝉にとって今、生きているのが素晴らしいのだ!
午後、「こんなに暑いのだから、なにか口当たりがよく、涼しくなれるようなものをお見舞いにして」と、家人が寒天ゼリーを作ってくれた。これを携えていつもどおり一ヶ月に一度の問安をする。
夜、ホームに居る別の方から電話がかかってきた。高齢のご家族は訪ねることがないという。「先生、来てください」「近いうちにお訪ねしますからね」と電話を終える。暑さで凹んでいた気持ちも膨らんだ。
それにしても朝から夜まで鳴いている蝉は暑さ知らずだ。蝉にとって今、生きているのが素晴らしいのだ!
2023年7月23日日曜日
この夏を早起きで
2023年7月16日日曜日
たとえ思うようでなくても
2023年7月9日日曜日
我らの国籍は天にあり
南伊豆にある叔母の家を取り壊すことになった。
叔母が南伊豆を離れて10年、天に召されて3年になって家はすっかり老朽化した。かつて叔母の三人の姉達や晩年の父がこの家に住んだ。この家は先祖の土地、お墓のある土地の一角に建っている。
私の曽祖父はここで開業した。その病院と土地の絵図がパリ万博に出品されて紹介されている。しかし、祖父はキリスト教に改宗して家を捨てた。クリスチャンの両親から育てられた私の父はといえば「我らの国籍は天にあり」と土地や家には全く無頓着だった。
叔母は先祖のお墓を大事に考えてここに家を建てた。だが、今や住む人はなく取り壊して、土地は国に権利を譲る予定だ。私たちの住むところは天にあるのだから。
南伊豆にある叔母の家を取り壊すことになった。
叔母が南伊豆を離れて10年、天に召されて3年になって家はすっかり老朽化した。かつて叔母の三人の姉達や晩年の父がこの家に住んだ。この家は先祖の土地、お墓のある土地の一角に建っている。
私の曽祖父はここで開業した。その病院と土地の絵図がパリ万博に出品されて紹介されている。しかし、祖父はキリスト教に改宗して家を捨てた。クリスチャンの両親から育てられた私の父はといえば「我らの国籍は天にあり」と土地や家には全く無頓着だった。
叔母は先祖のお墓を大事に考えてここに家を建てた。だが、今や住む人はなく取り壊して、土地は国に権利を譲る予定だ。私たちの住むところは天にあるのだから。
2023年7月2日日曜日
40年前の愛がわかる
久しぶりに、2歳の孫がやって来た。
やって来るという日の朝、日頃の猫使用の我が家を2歳児使用にするため、急いで片付けと掃除をする。
やって来た孫を食事に連れ出し、その後砂場道具を持って海岸に行った。ちょうど引き潮とあって、砂浜の感触が気持ちいいのだろう、孫は歓声を挙げて波間を走る。その姿を私は追いかけ回った。孫はすっかり遊び疲れて昼寝をしたあと帰っていった。あとには大量の洗濯物と砂場道具が残された。妻が砂場道具をきれいに洗って片付ける。「また、来年ね・・・」と。
40年前、私たちはよく長男を連れて帰省したが、あの当時の父母の思いが今になって蘇ってきた。あの時受けた愛が今分かる。有り難いことだったと振り返る。
久しぶりに、2歳の孫がやって来た。
やって来るという日の朝、日頃の猫使用の我が家を2歳児使用にするため、急いで片付けと掃除をする。
やって来た孫を食事に連れ出し、その後砂場道具を持って海岸に行った。ちょうど引き潮とあって、砂浜の感触が気持ちいいのだろう、孫は歓声を挙げて波間を走る。その姿を私は追いかけ回った。孫はすっかり遊び疲れて昼寝をしたあと帰っていった。あとには大量の洗濯物と砂場道具が残された。妻が砂場道具をきれいに洗って片付ける。「また、来年ね・・・」と。
40年前、私たちはよく長男を連れて帰省したが、あの当時の父母の思いが今になって蘇ってきた。あの時受けた愛が今分かる。有り難いことだったと振り返る。
2023年6月25日日曜日
聖霊の力に励まされ
主イエスは12弟子を宣教に派遣するにあたって、弟子たちに権能を授けて送り出したと言う。
今、日本で私たちが宣教している状況は、2000年前の当時とは大きく異っている。使徒パウロの時代にキリスト者が受けた迫害はない。しかし、困難があると言うなら、自己責任型のゆとりのない社会、忙しさの中で隣人に関心を向けられない社会、そんな中で自分の時間を隣人のためにとことん削ることかもしれない。
人から相談を受ける時、たいてい私は聞く側に徹する。確かに人の話を聞くことは忍耐がいる。だがそこには主がともにいてくださるという希望がある。聖霊から励ましと力を得て元気になれる。これこそが私たちに与えられたキリストの権能ではないか。
主イエスは12弟子を宣教に派遣するにあたって、弟子たちに権能を授けて送り出したと言う。
今、日本で私たちが宣教している状況は、2000年前の当時とは大きく異っている。使徒パウロの時代にキリスト者が受けた迫害はない。しかし、困難があると言うなら、自己責任型のゆとりのない社会、忙しさの中で隣人に関心を向けられない社会、そんな中で自分の時間を隣人のためにとことん削ることかもしれない。
人から相談を受ける時、たいてい私は聞く側に徹する。確かに人の話を聞くことは忍耐がいる。だがそこには主がともにいてくださるという希望がある。聖霊から励ましと力を得て元気になれる。これこそが私たちに与えられたキリストの権能ではないか。
2023年6月18日日曜日
「従え」は救いの言葉
2023年6月11日日曜日
終りがあることを知る
梅雨に入った。毎日シトシト、ジメジメが続く。猫たちは家から出られず、窓の外を眺めている。
梅雨の候が好きだという人はすっかり減ったように思う。少し涼しいなかで、静かな雨音を聞きながら室内にて読書をする、こんな風情はすっかり遠のいた。油断をすると、シトシト雨はゲリラのように豪雨となって私たちを襲う。地球温暖化のせいだといいながら、私たちはちっとも便利な生活を手放すどころか、より便利な生活を追い求めている。
「どんな種も必ず滅びるんですよね」とは先日のあるテレビ番組で恐竜学者が語っていた。何億年の先に終わりのあることにハッとする。改めて創世記から黙示録に至る神の壮大なご計画の世界を覗いた気がした。
梅雨に入った。毎日シトシト、ジメジメが続く。猫たちは家から出られず、窓の外を眺めている。
梅雨の候が好きだという人はすっかり減ったように思う。少し涼しいなかで、静かな雨音を聞きながら室内にて読書をする、こんな風情はすっかり遠のいた。油断をすると、シトシト雨はゲリラのように豪雨となって私たちを襲う。地球温暖化のせいだといいながら、私たちはちっとも便利な生活を手放すどころか、より便利な生活を追い求めている。
「どんな種も必ず滅びるんですよね」とは先日のあるテレビ番組で恐竜学者が語っていた。何億年の先に終わりのあることにハッとする。改めて創世記から黙示録に至る神の壮大なご計画の世界を覗いた気がした。
2023年6月4日日曜日
ヨハネさんの16
「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じるものが独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」。このヨハネ3章の16節を、私の父は「ヨハネさんの16だよ」と中学生だった私に教えてくれた。12歳で実家を離れて、キリスト教主義の寄宿学校に入った私に、この聖句を覚えやすいようにと、そんなふうに教えてくれた。
父の聖書を開くと、この箇所に黄色でハイライトしてある。そして、「神の力におまかせして霊によって生まれ変わる」と書き込みがあった。
私にとって、父の愛は天の父の愛に通じている。若い頃の跳ねっ返りだった私に教えてくれた「ヨハネさんの16だよ」という父の声が今も懐かしい。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じるものが独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」。このヨハネ3章の16節を、私の父は「ヨハネさんの16だよ」と中学生だった私に教えてくれた。12歳で実家を離れて、キリスト教主義の寄宿学校に入った私に、この聖句を覚えやすいようにと、そんなふうに教えてくれた。
父の聖書を開くと、この箇所に黄色でハイライトしてある。そして、「神の力におまかせして霊によって生まれ変わる」と書き込みがあった。
私にとって、父の愛は天の父の愛に通じている。若い頃の跳ねっ返りだった私に教えてくれた「ヨハネさんの16だよ」という父の声が今も懐かしい。
2023年5月28日日曜日
ペンテコステは日々起こる
2023年5月21日日曜日
聖霊の風よ吹け
聖霊降臨祭の礼拝に赤い衣服を着けて来るという習慣をアメリカのルーテル教会で知った。五旬祭に「炎のような舌が一人ひとりの上に留まった」ことによる。
赤いシャツ、赤いネクタイ、赤いブラウス・・・中でもご高齢の婦人たちが真っ赤なスーツ姿で教会に来ていたのが印象に残る。白髪に赤のスーツはよく似合っていた。赤色は魂を燃え上がらせる聖霊を象徴する。
そういえば、私の子供の頃祖母が風呂の釜炊きをしながら火吹き竹で火をおこしていたという話を思い出した。木が湿って煙ばかりで燃え上がらない焚口で、祖母は「私の信仰もこれと同じ、どうか信仰を燃え上がらせてください」と祈っていたという。
聖霊の風よ、吹け!我が心よ、我が魂よ、燃えよ!
聖霊降臨祭の礼拝に赤い衣服を着けて来るという習慣をアメリカのルーテル教会で知った。五旬祭に「炎のような舌が一人ひとりの上に留まった」ことによる。
赤いシャツ、赤いネクタイ、赤いブラウス・・・中でもご高齢の婦人たちが真っ赤なスーツ姿で教会に来ていたのが印象に残る。白髪に赤のスーツはよく似合っていた。赤色は魂を燃え上がらせる聖霊を象徴する。
そういえば、私の子供の頃祖母が風呂の釜炊きをしながら火吹き竹で火をおこしていたという話を思い出した。木が湿って煙ばかりで燃え上がらない焚口で、祖母は「私の信仰もこれと同じ、どうか信仰を燃え上がらせてください」と祈っていたという。
聖霊の風よ、吹け!我が心よ、我が魂よ、燃えよ!
2023年5月14日日曜日
その一羽さえ
我が家の愛猫が巣から落ちたスズメの子をくわえて帰ってきた。雛は目を閉じ、口を大きく開けたまま動かない。しかし、家人が手にしてみると生きていた。
気がついて鳴き始めた雛をダンボール箱に入れて、餌を買いに走り、餌を与えるのに割り箸を削ってヘラを作っている。野生の鳥を育てるのは不可能に近いと思うが、家人はとにかく雛に餌を食べさせ、飛べるようにして、親に返したいとひたすら願っているようだ。
しかし、雛は助からなかった。その雛を家人は丁寧に庭に埋めてやった。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」「父の許しがなく」とは「父無しには」だ。このみ言葉が慰めだと家人は言う。あの雛が地に落ちたときにさえ天の父が共にいてくださったと信じられるからだ。
我が家の愛猫が巣から落ちたスズメの子をくわえて帰ってきた。雛は目を閉じ、口を大きく開けたまま動かない。しかし、家人が手にしてみると生きていた。
気がついて鳴き始めた雛をダンボール箱に入れて、餌を買いに走り、餌を与えるのに割り箸を削ってヘラを作っている。野生の鳥を育てるのは不可能に近いと思うが、家人はとにかく雛に餌を食べさせ、飛べるようにして、親に返したいとひたすら願っているようだ。
しかし、雛は助からなかった。その雛を家人は丁寧に庭に埋めてやった。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」「父の許しがなく」とは「父無しには」だ。このみ言葉が慰めだと家人は言う。あの雛が地に落ちたときにさえ天の父が共にいてくださったと信じられるからだ。
2023年5月7日日曜日
主に信頼して生きる
2023年4月30日日曜日
われら主イエスの羊
当方の猫たちは、昼間はほとんどゴロゴロ寝て、好きなときに外にでかけて過ごしたりしている。お気に入りのご飯を食べ、トイレの始末をしてもらい、顔や耳を拭いてもらってご機嫌だ。家人が名前を呼ぶと、ほぼ3分以内に戻ってくる。それには、いつも感心する。家人と猫との間には信頼関係が出来上がっている。私が呼ぶとどうなるか?試すまでもないか・・・。
主イエスの「羊飼いと羊のたとえ」は「聞く」ことは大切!どころか、死活問題だと教えてくれる。
主は私たち一人ひとりの世話をしてくださり、いつも名前を呼んで帰りを待っている。羊飼いと羊は主イエスと私だと捉えることによって初めてこのたとえ話が現実味を帯びてくる。家人と猫も同じようだな〜。
当方の猫たちは、昼間はほとんどゴロゴロ寝て、好きなときに外にでかけて過ごしたりしている。お気に入りのご飯を食べ、トイレの始末をしてもらい、顔や耳を拭いてもらってご機嫌だ。家人が名前を呼ぶと、ほぼ3分以内に戻ってくる。それには、いつも感心する。家人と猫との間には信頼関係が出来上がっている。私が呼ぶとどうなるか?試すまでもないか・・・。
主イエスの「羊飼いと羊のたとえ」は「聞く」ことは大切!どころか、死活問題だと教えてくれる。
主は私たち一人ひとりの世話をしてくださり、いつも名前を呼んで帰りを待っている。羊飼いと羊は主イエスと私だと捉えることによって初めてこのたとえ話が現実味を帯びてくる。家人と猫も同じようだな〜。
2023年4月23日日曜日
心が燃えるとき
エマオへの道をトボトボ歩く二人に、闊達な足取りで追いついてきた方は二人と並んで歩き出した。二人は、イエスが十字架につけられてしまった事で自分達の希望は費えてしまったと意気消沈していた。
しかし、その方は聖書から神の約束された救いを解き明かしてくれた。その夕、その方がパンを裂いて渡した瞬間に、二人はその方が主イエスだとわかった。あの時、エマオへの道を一緒に歩いた時、「我々の心は燃えていたではないか!」と二人は叫んだ。
ロベルト・ズンドの描いた「エマオの途上」には、緑の木立の道を復活の主を真ん中にゆったり歩く二人の弟子。この時、二人の心は燃えていたのだ!
2023年4月16日日曜日
AIはスピリチュアルにも???
2023年4月9日日曜日
復活の主によって、何度でもやり直せる
主キリストは復活された。ハレルヤ!
私が40代だった頃、米国に仕事を得て、家族を連れて暮らしたことがある。年齢からは最後の夢だった。しかし、渡米した丁度その年、9.11の同時多発テロが起き、職場は6年後に撤退を決め、私の夢は潰えた。
半ば失意の中で一時帰国した。それまで住んでいた小さな集合住宅のベランダに忘れて置かれたままのサボテンを見つけた。手にとって愕然とした。「生きている!」そこに僅かだが緑の芽が出ていた。涙がとどめなく出た。「まだやれる。大丈夫だ」そう思えた。生命の力を感じた。復活のキリストは生命そのものだ。
人は復活の主によって日々新しくされる。人生は何度でもやり直せる。私は神学校へと進み、今がある。
主キリストは復活された。ハレルヤ!
私が40代だった頃、米国に仕事を得て、家族を連れて暮らしたことがある。年齢からは最後の夢だった。しかし、渡米した丁度その年、9.11の同時多発テロが起き、職場は6年後に撤退を決め、私の夢は潰えた。
半ば失意の中で一時帰国した。それまで住んでいた小さな集合住宅のベランダに忘れて置かれたままのサボテンを見つけた。手にとって愕然とした。「生きている!」そこに僅かだが緑の芽が出ていた。涙がとどめなく出た。「まだやれる。大丈夫だ」そう思えた。生命の力を感じた。復活のキリストは生命そのものだ。
人は復活の主によって日々新しくされる。人生は何度でもやり直せる。私は神学校へと進み、今がある。
2023年4月2日日曜日
「聖週間」を過ごす
聖週間は主キリストの足跡を聖書を通して辿る時だ。
日曜日、主はロバの子に乗ってエルサレムに入場。月曜日、主は神殿で宮清めをする。火曜日、主は神殿の境内で教える。祭司長や長老たちと問答する。水曜日、主はオリーブ山で祈る。木曜日、主は弟子たちと過ぎ越しの食事を祝い、弟子たちの足を洗う。ゲッセマネの園で祈り、逮捕され、ユダヤの最高法院で裁判を受ける。金曜日、主は明け方にローマ総督ピラトに引き渡され、裁判にかけられ、十字架刑により正午頃息を引き取り埋葬される。そして神は、日曜日の早朝までに主イエスを復活させた。
十字架への道を進まれた主の一週間をたどりながら、私もまた主の側に「付かず離れずの弟子」の一人だと思った。
2023年3月26日日曜日
人の目には不可能に見えるが
主はラザロを甦らせた。科学的にも常識的にもにわかには信じがたく、それは不可能に見える。
絶対に不可能と思われるようなことに立ち向かう人がいる。医師の中村哲さんは自ら重機を操作して、アフガニスタンで24.3キロの用水路を7年がかりで掘った。「殆どの病気は十分な食べ物都清潔な水があればかからない。飢えや乾きは薬では直せない」と気づいたからだ。今や、水無し地獄だったカンベリに緑が戻り農業ができるようになり、人々はスイカが食べられる。
死んでしまったラザロを生き返らせるためエルサレムに向かって行く主イエスの姿の片鱗を、不可能に向かって突き進んだ中村哲さんの姿に見ることができる。
2023年3月19日日曜日
もう今は愛だけ
先週のこと、ホスピスにおられるAさんと面会した。ようやく聞き取れる言葉と筆談でAさんが語った言葉。
「以前はキラキラしたものに心を惹かれた。でも、今は愛だけ」この言葉を聞いて、私は大きくうなずいた。Aさんは続いて、「私はお母さんから愛されていないと思っていた。でも、今はお母さんが大好き。お母さんの愛がわかる。」それを聞いて、Aさんを抱きかかえるようにして支えていたお母さんが涙された。
Aさんは2週間前に病床洗礼に与った。この世界で価値あるもの、キラキラしたものは自分にとってはもうどうでもいいものだ。自分にとって大切なのは愛だけなのだとAさんは言う。神にある愛だと受け取った。
2023年3月12日日曜日
まことの水を求める勇気
四旬節は主イエスとの出会いを深めるときだ。
今日のサマリア人の女性のように私達も心の奥底に潜めて見ないようにしている自分というものがある。
暑さと旅の疲れで休んでいた主イエスは喉の渇きを覚えて、サマリアの女性に水を乞う。そして、主はこの女性に「決して渇くことのない水」を求めるよう促す。その出会いから始まる主との対話、それに導かれるようにしてこの女性は救われてゆく。
私達の身の回りにはその場しのぎに飲んで、その時々の乾きを潤す飲み物がたくさんある。主イエスという「まことの水」を求めるということ、主と本気で出会うことは勇気がいる。だが、素晴らしい!
2023年3月5日日曜日
聖霊は風のように
私たちはすでに新しい命に生きるものとされているにもかかわらず、ニコデモのように旧い自分に囚われてなかなかその恵みの中を生きられない者だ。しかし、聖書は後にニコデモが主イエスの埋葬をしたことを伝えてくれている。(ヨハネ19:39)
ニコデモがいつ、どのように生まれ変わったのか、聖書は語らない。しかし、主イエスはニコデモとの対話の中で、神の存在を風に例えて教えている。聖霊は風のように思いのままに吹いて、ニコデモを新しくしてくださったに違いない。
聖霊の風は大枝を揺り動かし、そして小さな草花の葉をかすかに震わせて私達の魂に働きかけ続ける。
2023年2月26日
「新しい枝がスクッと伸びた」
小田原教会の牧師館の跡地は今では防草シートと砂に覆われて、他の木々は牧師館の解体とともに一本残らず綺麗さっぱり取り払われた。
解体後の敷地は建材の破片が残っていてそのままでは危険で人が踏み込めない。子どもたちの遊び場などとはとんでもない。高齢化の進んだ小田原教会にとって、雑草取りに追われることなく一番楽に管理する方法が砂利を敷くことだった。雑草対策には成功したが、砂利一面の庭では殺風景というほかない。
ところが、すっかり枝を払って幹だけになった梅の木に新しい枝がスクッと伸びた。今、そこに梅の花が咲いている。生きている!本当に嬉しかった。
2023年2月19日
「灰の水曜日におもう」
今週の「灰の水曜日」から教会の暦は四旬節に入る。私たちはこの日から復活祭までの40日間を主の受難・死・そして復活にあずかりながら過ごす。
四旬節の日々を過ごす心構えは、ある意味で、自分を生きるのに苦しい、ぎりぎりのところに置いてみることだと言えるのではないか。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおす。そうすることで、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟姉妹との連帯を思うことができる。私にも何かができると思う。
ウクライナに続いて今、トルコ・シリアが新たな隣人として与えられた。祈りと連帯は四旬節にふさわしい。
2023年2月12日
「プロフェッショナル」
先週のこと、パソコンのトラックパッドが突然動かなくなった。あれこれ思いつくことはやってみたがダメ。パニクってメーカーのサービスに電話した。
電話の主は女性だった。慌てふためいているこちらの説明を冷静に聞いて、一つひとつ指示を出してトラブルの原因を探っていく。私の方は指示に従って必死に操作をしているうちに急にトイレに行きたくなった。遠慮がちに「あの、すみませんがトイレに行きたくなって・・・」と言うと、「どうぞ」との返事にホッと。
結局、外付けのマウスで問題は解決した。パニクって電話した私に、辛抱強く手順を踏んで気長に教えて下さって本当に有難かったと感謝が湧いてきた。
2023年2月5日
「寄り添う父なしには」
我が家の猫のマーブルはこの2ヶ月ほど具合が悪い。獣医師からは治療しても治らない病気だと言われて緩和ケアを続けている。それが動物にとって果たして幸せなことなのかどうか。ともすると、延命、過剰な医療ではないかという不安もある。
しかし、マーブルは大好きな妻のベッドの上で最後の時を過ごしている。苦しそうな様子を見るのは辛いがこの小さきものが命を終える時、神が寄り添ってくださっていると信じる。
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ10:29)」とある。ギリシア語本文では「父なしには」だと知った。
2023年1月29日
「春の日は近い」
朝起きてみると、昨日降った雨が屋根の上で凍っている。さすがに今は大寒の最中なのだ。しかし、すっかり葉を落とした木の枝にはもう新芽が膨らんでいるのに気がついた。春の日は近い!と元気づけられる。
「春の訪れ」は神様からの恵みのプレゼントに違いない。特に長く寒い冬を過ごす地域の人たちにとっては、日差しが長くなるのが本当に嬉しい。それだけで力が湧く。毎日の生活に起こるこんな小さな恵みは不思議な支えだ。
葉っぱを落としたはだかの木は「頑張ろう、頑張ろう、春の日近いと歌っている(まど・みちお)」。外界が厳しければ厳しいほど天の父の懐にいる幸いを思う。
2023年1月22日
「もう一日、待ってみよう」
朝、家人から「お誕生日おめでとう!」と言われて、今日が私の誕生日だということを思い出した。
ちょうど教会総会の準備の真最中で、家人の提案で誕生日祝いは月曜日に延期することになった。
ところが、どうも落ち着かない。いつもなら子どもたちからLINEで次々に「お誕生日、おめでとう」と送信されてくるはずなのだが・・・来ていない。チラチラとスマホを見る。家人も気にしてか「三人とも、よほど忙しいのよ」と、さり気なく慰めてくれた。それにしても、みんな順調だろうかと、老婆心から心配になった。
遠く離れて暮らす子どもたちの上に「主の平和」を祈る。そして思った。もう一日、待ってみよう。
2023年1月15日
「良しとされた」
いつもお父さんに連れられて牧師館の前の道を通るHくんは軽度の知的障害がある。彼は我が家の猫のJDが大のお気に入りで、前を通るたびに「Jちゃーん」と名前を呼びながら猫に会いにやってくる。年寄りのJDは寝ていることが多く、私も妻も少し面倒なときは知らん顔して出ていかないことがあった。
先日のこと、Hくんはたいへん取り乱して、「Jちゃーん」と泣き叫んでやってきた。お父さんに来ることを制止されたらしいことがひと目でわかった。お父さんが私たちに迷惑をかけたくないと思ったということもよく理解できた。すぐにJDを抱いて玄関に出た。
Jの頭をしばらく撫で、Hくんは満たされて帰っていった。ああ、良しとされたと私たちは思った。
2023年1月8日
「新しい境地」
年のはじめから季節外れの暖かい日が続いて、昼間は春のようだ。教会の庭には菜の花が咲き、牧師館の庭にも水仙、ミニバラが咲いている。
昨年の暮、必要に迫られてとうとうそれまでのガラケイからスマホに買い替えた。いろいろ操作が覚えられなくてまごつくことしきりなのだが、すごく感心したことがある。それはGoogleレンズと言うアプリだ。
試しに窓際においてある鉢植えの写真を撮ってみる。写真と同時にその花の名前がでて「花きりん」だとわかった。妙に気に入った。さっそく外に出て庭の花を撮ってみる。自分が花の写真を撮るなんて考えても見なかった!なんだか新しい境地に立ったのかな?
2023年1月1日
「新しい年、2023年を迎えて平和を願い祈る。」
昨年はロシアがウクライナへの軍事侵攻を初めた年だった。多くの人々が犠牲になり、その中には多くの子供たちが含まれている。マタイ福音書にはヘロデ王によるベツレヘム一帯にいた幼児皆殺しの物語が記されている。凄惨な記事であるがこれは史実だ。彼らは何のために犠牲になったのだろうか?
第二次大戦で死んでいった人々が起き上がり、「自分たちは何のために死んだのか?」と問いかけてくる映画の一場面を思い出した。世界中のあちこちで未だ戦い続ける私達に、平和を作り出すための祈りと働きが求められている。ウクライナでの戦争が終わるよう、「神の国」が来ますようにと祈り、支えてゆきたい。
2022年12月25日
「友からのクリスマス・カード」
クリスマスに旧来の友からクリスマスカードが届いた。
何歳になっても友達は良いものだが、お互いに子育てが終わって、夫婦ふたりになってからはなおさらに良い。リタイアして仕事や子育ての責任を終えた今、高齢になった親や孫の世話をしながら家事を楽しんでいるという。教会の奉仕にもゆとりがにじみ出ている。毎日の生活の一つ一つがこんなに楽しいものだと初めて味わったと書いてあり、カードの隅っこには、「今年は暖かくなったらそちらに行きます。」とあった。
ここ何年も会うことのなかった友達との再開を心待ちにする。私のこころのうちを照らしてくれた友からのクリスマスカード、壁にピンで留める。
2022年12月18日
「アドヴェントのロウソク」
アドヴェントの第4週を迎えた。「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」を表す4本のロウソクに火が灯る。
わたしが子どもだったころ、雷などで停電する事が度々あった。そんなときは、懐中電灯というのもあるにはあったがたいていロウソクが活躍した。
暗闇の中で電灯がつくのを待ちながら、ぼーっと明るく周りを照らすロウソクの周りに集まってどこか神秘的で温かい光を見つめていたことを覚えている。
冬至に近づくこの季節、日はますます短くなってゆく。電気のなかったその昔、アドヴェントのロウソクの光はそのまま人々の心に「暗闇を照らす光」として感じられたに違いない。
2022年12月11日
「みんなでするって、楽しい!」
アドヴェントの第1週は「待望」から始まって、第2週の「準備」、そして今週は第3週の「喜び」だ。
だから今週、教会に集った教会家族で何かを一緒にできたらいいなーと思う。
今までも時々、礼拝後にみんなで草抜きをしたりした事がある。つい最近は礼拝堂の前の歩道の落ち葉掃きをした。その後で、お汁粉を食べた。そして思った。みんなでするって、ホントに楽しい!
火曜日は小田原教会の牧師館の跡地整備の予定だ。みんなで働いて、お昼にはカレーを食べよう。きっと幸いな時となる。たとえ小さくても神の国での喜びを味わおう。世間の喜びとはひと味もふた味も違うはず。
2022年12月4日
「マイ プレジャー(My pleasure)」
アドヴェント第2週を迎え、一日一日クリスマスが近づいてくる。会堂の椅子カバーも洗濯され、庭も清掃され、クリスマスの飾り付けもすっかりできた。
アドヴェント・クランツにろうそくが灯されるのを見ながら願う。昨年までとは何か少し違うクリスマスを迎えたい。つまり、新しい気付きが与えられて、クリスマスへの思いが深められることを願う。
世界にいる助けを必要とする見知らぬ誰かや、日常生活の中で出会う隣人への奉仕は喜びだと知りたい。そして、奉仕をしたなら、「これは私の喜び」“マイ プレジャー”と言おう。2000年前のクリスマスの夜、主イエスはそんな喜びの中に生まれたのだから。
2022年11月27日
「目を覚ましていなさい」
先日、国会中継を聞いていたら、これからの高齢化社会は健康寿命、経済寿命、生きがい寿命の3つの寿命について課題を抱えると言っていた。
人生百年時代、確かにこのうちのどれ一つ失っても暗闇に生きることになる。不安は尽きない。果たしてこれらのことを回避できるか?かなり困難な気がする。
主は「目を覚ましていなさい」と言われる。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」の中に、キリストにある希望、恵み、喜びがあると言われる。それを忘れてしまえばそれこそ、暗闇の中に沈み込んでしまう。隣人への愛に目を覚ましていられますようにとアドヴェントの初めに願う。
2022年11月20日
「三本の十字架」
小田原教会の十字架は珍しいと思うが三本の十字架が組み合わされて一組の十字架になっている。
主イエスが十字架につけられたときに、主の右と左に二人の犯罪人が十字架につけられた。確かにあの時、ゴルゴタの丘には、三本の十字架が立てられていたのだ。この三本の十字架を見れば、十字架刑を受けている三人の情景がはっきり見えてくる。(ルカ23:32以下)
右の犯罪人は「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と願う。
彼の願いどおり、主は「今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された。三本の十字架を仰ぐとき、真っ先に天国入りを果たしたこの右の犯罪人がまぶしい。
2022年11月13日
「対面は何かが違う」
月曜日は牧師の休日である。少し前に、今度の月曜日に来たいと長女が連絡してきた。孫たちを連れてくるのかと思えば、自分一人だという。
長女は夫と4歳と1歳の子供のいる家庭の主婦であり、またフルタイムで仕事をしている社会人でもある。
日々、忙しく過ごしている彼女が有給休暇を私の休みに合わせて取ったのだという。私たちが娘と水入らずに過ごしたのは、15年ぶりのことだと思いだした。
長女の話を聞きながら、お昼ご飯を食べる。孫の話、夫の話、仕事の話・・・たったの2時間を一緒に過ごすために往復6時間かけて来た。LINEで始終話しているようなのだがやはり生はいい!対面は何かが違う。
2022年11月6日
「天も地も、元気に楽しくやろうじゃないか! 」
全聖徒の主日を迎えた。昨年の全聖徒主日から今日までのこの一年間に、お二人の兄弟姉妹が天に迎えられた。今年も90名余りの写真を聖壇に飾って、お一人お一人との懐かしかった日々を思い出す。
私たちの教会は一人の兄弟と一人の姉妹を天へと送り出し、ちょっと寂しくなった。けれども天国では、お二人を増して、賑やかになったに違いない。
天の国ではイエス様みずからホストとなって、食卓を整え、ぶどう酒を盃に溢れさせてくださる・・・そんな豊かな、楽しげな宴の有様が脳裏に浮かぶ。
地上にいる私たちも天国の宴に触発されて、大いに隣人を喜ばせて、元気に楽しくやろうじゃないか!
2022年10月30日
「ザアカイ!」と歌うと
米国で過ごしたとき、長男が通っていたサンデースクールではよく「ザアカイの歌」に振りをつけて歌っていた。言わば、子どもたちのお気に入りの歌だ。
「ザアカイは本当にちっちゃな人だ。ザアカイは木に登る。イエスはやって来て、「ザアカイ、下りて来なさい。今日あなたの家に泊まります」。全く聖書の通りの歌だけれど、子ども達が「ザカイ!」と指さしながら歌うと不思議なことにこの場面がいきいきしてくる。
「あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある」とイエスはザカイを見つめた。そういう眼差しに出会ったとき、人はきっと本当に新たに生きる力を与えられる。
2022年10月23日
「ちょっと粋がってもいい」
私も若かった頃は、「好玉必打だ!いい球が来れば、必ず打つ」と、そんなふうにけっこう粋がって、やっていたと思う。
自分は頑張っているし、やればできると、自分の力で生きているような感覚になっていた。たとえ謙遜でなくても、それが「若さ」ということだ。だから、若いころはちょっと粋がって、自分の力だけで頑張っているような気になって、たくさん失敗を重ねていい。
そういう日々があればこそ、自分の限界を知り、人間の弱さを知って、神の愛に目覚めていく。人生には、そういう若いときも必要だ。この鼻持ちならないパリサイ人も救いに招かれている。(ルカ18:9〜14)
2022年10月16日
「主キリストは人を自由にする」
某宗教団体に「解散命令」の要請をだすよう連日国会で審議されている。マインドコントロールによって人を不安にし、恐怖をあおって束縛する。「ねばならない」という思いにさせる。結果、多額の献金をさせ、家庭崩壊や子どもへの様々な人権侵害が起きている。
しかし、私たちの主キリストは人を自由にする。罰せられるべき罪ある私たちの身代わりとなって、自ら十字架にかかってくださった。そして、私たちは無償で無罪放免になった。ピラトの公邸でキリストの代わりに放免されたあのバラバのことをふと思う。ああ、恵み、この自由、この軽やかさ・・・涙を拭う。今、自由の翼にのって、主のために何でもできる気がする。
2022年10月9日
「こいつね、ドジなんだよ」
思い切って久しぶりに東京に出た。所要があって中高時代の友達に会うためだった。ところが、肝心なものを忘れてしまった。それがなくては会う意味がない。気がついたときは目的地に到着する電車の中だった。仕方がない、会うだけで帰るとしようと決めた。
彼の工場に訪ねてみると、懐かしい顔で迎えてくれた。冷たいお茶やコーヒーをテーブル代わりのトラックの荷台に並べて勧めながら、「こいつね、ドジなんだよ」と、家人に高校生時代の私の失敗を告げ口する。
私の重大な忘れ物も「なんでもないよ」とばかりの口ぶりだ。目がニコニコ笑っている。相変わらず、いいやつだなー。主にある友人にすっかり温められた。
2022年10月2日
「叔母をなつかしむ」
先日、叔母の納骨式を彼女の母教会で済ませた。
叔母は日曜日の朝、礼拝が始まる15分前に亡くなった。あの日10時30分、湯河原教会の礼拝堂のいつものあの席に、叔母は座っているように感じたことを覚えている。肉の体から解き放たれて、自由な霊の存在で叔母は確かに礼拝に与っていた。
叔母はいつも教会が大好きだった。「物心ついたときにはもう両親に連れられて教会に行っていたのよ。世の中の人はみんな教会にいっていると思っていたわ。」と言っていた。生涯独身だった叔母の95年の人生は教会と共にあったと言っても差し支えない。賛美を捧げ、よく仕えた。改めて、叔母に敬意を表したい。
2022年9月25日
「主イエスの声が響いてくる」
自然災害は平等に人を襲う。だが、その影響と立ち直る力は貧富の格差によって、決して平等ではない。
パキスタンの大雨と洪水の影響は深刻だ。国連が援助を訴える。「パキスタンの人々は前代未聞の大雨や洪水の影響に直面している。南アジアは気候変動の危機が顕著に現れる地域だが、今日のパキスタンで起きていることは、明日のあなたの国でも起きるかもしれない」と。
今日、「金持ちとラザロの話」から響いてくる福音に耳を傾ける。この金持ちは門前の物乞いラザロの困窮を知っていながら一切、憐れみをかけなかった。彼は「自己中心の罪」を問われている。私達の中に巣くう「怠りの罪」に改めて気付かされる。主イエスの愛を私の中に燃やしてくださいと祈る。
2022年9月18日
「信仰の飛躍が求められている」
赤とんぼが飛び、彼岸花が咲き始めた。夏から秋へと季節が進み始めていることを感じる。
9月、小田原教会では礼拝堂に隣接して建っていた牧師館を取り壊した。後には一軒分の更地が現れた。
牧師館の解体までには多くの準備があった。それらの一つ一つが手順を追って進められて、ようやくこの状況にまでたどり着いた。
今、更地に立って思うこと。それは、この土地は新たな宣教の手段として与えられたということだ。どのように利用するか。それは、どのように宣教していくのかということだ。これまでと同様の関わりでいいのか。一人ひとりに信仰の飛躍が求められている。
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