2022年12月25日日曜日

礼拝メッセージ「それは愛」

 2022年12月25日(日)主の降誕主日

イザヤ書 52章7~10 

ヘブル人への手紙 1章1〜4 

ヨハネによる福音書 1章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 クリスマスおめでとうございます。クリスマスを迎えて小田原教会の2022年を振り返って思うことは、なんと言ってもこの一年は牧師館の解体と跡地の整備という大きな課題に取り組んできた一年だったということです。皆さん、すでにお気づきのことと思いますが、牧師館の跡地が防草シートで覆われ、その上に砂利が敷かれてきれいになっています。ちょうどクリスマス前にこのようなご奉仕をいただいて、跡地を安心感のある気持ちのいい状態にしていただいて、素晴らしいクリスマスプレゼントをいただけた喜びに満たされます。

 主は小田原教会を愛しておられる。これまでも先に立って導き支えてくださったように、これからも主は私たちと共にあってくださると、信仰を新たにして、このクリスマスを迎えられますことを心から感謝しています。

 今日の福音書箇所の先の16節に「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。「恵みの上に、更に恵みを受ける」。それが実感できるのは本当に幸せなことです。今日は、こういう神の愛と恵みについてご一緒に思い巡らしていければと願います。

 今日の第1朗読では、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(イザヤ52:7)とあります。旧約時代、もうすでに預言者は「良い知らせ」、すなわち、主イエスの到来を語っています。

 福音を知らせる主イエス・キリストの足は、「なんと美しいことか」。イエス様はすべての人に神からの福音、「あなたを愛している」という福音、「あなたは必ず救われる。いや、もう救われている」という福音を伝えるために各地を歩き回ったわけです。それはなんと尊いことかと思います。

 第2朗読では、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで語られたが、・・・今御子によって、(主キリストによって、)わたしたちに語り掛けられました」(ヘブ1:1-2)とあります。「良い知らせ」は今までにも預言者たちが伝えていたけれども、主キリストによって、更にはっきりと豊かに告げられたということです。この主イエスが告げて下さった福音を、今やキリスト者である私たちが伝える番です。日々のなかで出会う方々、特に助けを必要としている人の中にその機会があるように思います。

 さて今日の福音ですが、「初めに言があった」とある、言(神の言と人の言葉を訳し分けている)と訳されている語はギリシャ語のロゴスです。ロゴスは神の意志を表す言葉で、神の本質である愛を表します。ですから、「初めに言があった」というのは「この天地創造の初めに愛があった」ということです。

 「『愛』と『言』は違うんじゃないか」と思われるかもしれませんが、考えてみてください。たとえどんなに愛があっても、それを言葉に出して相手に伝えなければ、どうでしょうか、伝わりませんよね。言葉というのはお互いが通じ合うためにある、誰かに何かを伝えるためにあるわけですから。


 聖書は、宇宙のはじめに、神がおられた。そして、天地万物をおつくりになりになったと証します。ではなぜ神はこの世界を造ったのかといえば、それは、神の本質が愛だからです。ですからヨハネはその手紙で、「神は愛」(1ヨハネ8,16)だと繰り返します。

 天地創造の初めにあったもの、それは「愛」です。「愛」そのものです。

 私たちは、なにか素晴らしいと思うことがあると、それを表したくなりませんか。その思いを人に伝えたくなりませんか。そして、喜んでもらいたくなりませんか。それは神がそういう方だからだと思うのです。だから神は私たちもご自分のようにお造りになった。

 神は私たちにご自分の愛をあらわしたいのです。ご自分の愛を受け止めてほしいのです。そしてご自分の愛に目覚めた人たちみんなに喜んでもらいたいのです。だから神は、天地創造の初めに、まず、「愛を語り掛けたい」と思った。そして、その「愛」の表れとして、すべてが生み出され、私たちもまた生み出されました。

 神はご自分の愛の受け取り手である世界と私たちに、きっとこのように語りかけたいのだと思います。「あなたは素晴らしい存在だ」。「あなたは愛されるために生まれてきた」。「あなたは神の愛に目覚めるために生きてるんだ」と。神はそう語り掛けたいと思ったにちがいない。聖書からはそういう神の熱い思いが響いてくると感じます。

 そして、その愛を私たち人間が理解できるようにと、神の言そのものである主イエス・キリストを私たちのもとに遣わして下さいました。

 ある説教者が、このヨハネ福音書1章1節〜3節を「初めに言ことばがあった」と読むときに、「言」を「愛」に代えて読んでみるといいと言います。分かりやすくなると思いますし、神の愛を味わえる気がします。そしてなんといっても嬉しくなります。言を愛に代えて読んでみます。

 「初めに「『愛』があった。『愛』は神と共にあった。『愛』は神であった。この『愛』は、初めに神と共にあった。 万物は『愛』によって成った。成ったもので、『愛』によらずに成ったものは何一つなかった。」

 この神の『愛』が、私たちが信仰と理性で理解できる「ことば」となりました。それがイエス・キリストです。

 4節と5節も代えてみます。「『愛』の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 つまり「『愛』の内に命があって、その命は光だ」というのです。ですから、5節の「暗闇は光を理解しない」というのは、「暗闇」は「愛」を理解しないということになります。私たちの内には暗闇がありますけども、その暗闇は、愛を理解していない。だからこそ暗闇なんですね。

 6節から8節は洗礼者ヨハネのことですから、9節、10節に移ります。光も言も主キリストのことですから、光と言を『愛』に代えて言います。

 「その『愛』は、まことの愛で、世に来てすべての人を照らすのである。『愛』は世にあった。世は『愛』によって成ったが、世は『愛』を認めなかった」。

 これは私たちのことです。「世は『愛』を認めなかった」。「『愛』は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」これも、私たちのことです。

 ヘブル書1:3に、御子イエスは「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」とある通りです。神の愛は来ているのに、私たちは気づかずにいて、自分を責めて、他人を責めて、この世を責めています。もちろん、悪いことはたくさんあるわけですが、しかし本質は愛です。

 ヨハネ福音書にもどります。12節を見てください。「言」と「名」を「愛」に変えます。「愛は、自分を受け入れた人、その愛を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。

 私たちは、最初から神の子なんですけれども、「自分は神に愛されている」と気づいたときに、本当の意味で、神の子になれる。そういうことを言っているわけです。

 この前久しぶりにある方から電話を頂いて、「自分は悪い人間だと思ってしまう」「やるべきことがちゃんとできていない」「罪悪感で苦しい」「こんな自分は死んだ方がいい。生きているのが怖い」と自分を責めているのです。

しかし、だからこそイエス様はそういう自分を責める暗闇を抱えて苦しんでいるあなたのところへ、「自分は駄目だ」と思って苦しんでいる、あなたのところにこそ来てくださるとお伝えしました。

「あなたは神から愛されている。あなたはイエス様から大切にされている。私たちの、ダメさ、できなさ、足りなさをイエス様はすべて分かっておられる。そんなあなたをいとおしんでおられる。だからこそ、そのままのあなたを愛して、一緒にいてくださるんです」とお伝えしました。その方に、「大丈夫です、安心してください、そして一緒にイエス様の礼拝に与りましょう」と、私はお伝えしました。

しばらくして、その方が7,8年ぶりに礼拝にこられて、にっこりされた。それを目にして、ああ、イエス様がご一緒だと思えてなんとも嬉しかったです。

 神は、2千年前に、この世界に御子イエスを送ってくださって、「さあ、送ったぞ!これでよし」なんていうことではなくて、日々、私たちに救い主を送り続けてくださっています。私たちは、この熱い神の愛に時々刻々支えられています。主イエスは、私たちのすべての瞬間に宿っています。だからこの一年のことを振り返るときっと「ああ、恵みをうけた!」と感謝に満たされます。

 最初に触れたヨハネ1章16節に「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とある通りです。だから安心して、また新しい一年をやっていきましょう。神の愛は、もうすでに、私たちの内に来ています。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン