2021年9月6日月曜日

江藤直純牧師:「エッファタ(開け)」との御言葉は誰に向けられたのか

2021年9月5日・小田原教会 聖霊降臨後第15主日

イザヤ35:4-7a; ヤコブ2:1-10,14-17; マルコ7:24-37

1.

テレビドラマは3ヶ月おきに、あるいは6ヶ月おきに次から次に新しい番組や、何年も続いているシリーズものが登場します。実にさまざまなキャラクターが現れますが、私の見るところ、大きく分けると二つのジャンルが圧倒的に中心のようです。その二つとは、一つは刑事ないし検察、弁護士、警官が主役のもの。もう一つは医師と看護師の物語です。刑事たちは人間が紡ぎ出す社会悪を正し、医師たちは人間の体の、あるいは心の病を癒します。それがドラマチックに、また魅力的に描き出されていきます。人間の癒し、これは人類の歴史とともにある、永遠の課題です。だからこそ宗教も深く関わっています。

2.

四つの福音書の中で一番古いマルコによる福音書には、合わせて十五の癒しの出来事が記述されています。場所はカファルナウムやゲラサやその対岸あるいはベトサイダ、ゲネサレトなどガリラヤ湖の周辺の町や村、またそのずっと北の、もはやユダヤ人の住まない異邦の地ティルス地方等々、さらにはぐーんと南の都エルサレムがあるユダヤではエリコが一箇所挙げられています。癒す相手は主としてユダヤ人ですが、今日の登場人物のひとりのようにギリシャ人の女性も稀に含まれています。

彼らが苦しみ悩んでいた病気あるいは障がいの種類もさまざまです。「汚れた霊に取り憑かれた」人、その結果精神を病み、あるいはひきつけ、痙攣を起こしている人、また高熱に苦しんでいた人、視覚障害者、聴覚障害者、片手の萎えた人、婦人科の病いに長年苦しんできた女性、病名不明だが命取りになる病い等々。

それらへの癒し方も多種多様です。汚れた霊に向かって「出て行け」と叱りつける場合や、手で触れたり、当時の医者がやっていたような仕方で患部を治癒したりする場合もあれば、病人のほうからイエスさまの衣服に触れて癒していただく場合もありますし、さらには患者は遠隔の地にいたのになぜか瞬時に治った場合などもあります。

本人が必死で助けを求めてきた場合もあれば、親や友人たちが懇願しあるいは連れて来た場合もあれば、イエスさまのほうが近寄られた場合もありました。群衆の真ん中で癒しを行なわれた場合もありましたし、群れから離れた、人目に付かないところでそっと癒しを行なわれた場合もありました。そういう場合には癒しの出来事が起こったことを内密にするよう口止めされたことも何度もありました。もっともそれは守られませんでした。

癒しが起こった場所、相手の症状、癒しの方法などどれも千差万別です。しかし、確かなことは、それらが実際に起こったということです。だからこそ、目の当たりにした人々はこのことを口伝えに広めないではいられなかったのです。

新約聖書は当時の世界共通語とも言うべきコイネー・ギリシャ語で書かれていますが、イエスさまや十二弟子たちが日常的に話していたのはヘブライ語に近いアラム語でした。そのアラム語の言葉がギリシャ語聖書に何カ所か残っているのは、その時それを語られたイエスさまのイメージとなさった癒しの業が分かちがたく結びつき、しかも非常に印象的だったからでしょう。中でも最も有名な言葉といえば、癒しの場面ではありませんが、十字架の上で最後に叫ばれた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」(マタイ27:46)でしょう。そしてマルコが癒しの出来事の時に書き残したのは、「タリタ・クム(少女よ、私はあなたに言う、起きなさい)」(マルコ5:41)と「エッファタ(開け)」(同7:34)です。使徒パウロのギリシャ語で書かれた手紙の結びにある「マラナ・タ(主よ、来てください)」(Ⅰコリ16:21)もアラム語です。

今日の日課に記されている耳が聞こえず舌の回らない男性の癒しの際にイエスさまが発されたこの「エッファタ(開け)」という言葉が残っているのは、この出来事がよほど印象深かったからでしょう。

3.

ところで、もう二十年くらい前のことになるかと思いますが、教会の先輩の女性がスイスのジュネーブから帰国後に私は大変興味深いことを伺いました。彼女はルーテル世界連盟のある集まりに参加してきたのでした。教会は障がい者をどう理解し、どのように関わり、どういう社会を作っていくべきかということが主題であったそうです。ご自身身体障害を抱えているその方はその会議で理論的にも実践的にもさまざま意見を交わして来たのですが、この会議の中の聖書研究の指導者から次のような問いかけがあったそうです。それは「さて、皆さん、天国には障がい者はいるでしょうか、それともいないでしょうか」という、まったく意表を衝いた質問でした。

ここにいらっしゃる皆さんはどうお考えになりますか。皆さんならどう答えますか。私はその話しを聞いたとき、一瞬ウッと詰まり、考え込みました。「天国に障がい者はいるか、否か」。天国というものがヨハネ黙示録に描かれている新しい天と新しい地と同じならば、そこでは神さまは「彼らの目の涙をことごとく拭い去ってくださる」のであり、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)と約束されているのです。ですから、これまで地上で障がいの故に言い尽くせないさまざまな苦労を味わい、悲しみも嘆きもさんざん経験した障がい者は天国ではすっかり癒されているだろう。そうならば、天国には障がい者はもはやいなくなっているだろう――そう考えて少しも不思議ではありません。「天国には障がい者はいません」、そのように答える人は少なくないのではありませんか。

しかし、この問い掛けをした聖書研究の指導者は問いに続いて、思いがけない視点を示されたそうです。「もしも天国には障がい者はいないと言うのならば、今地上にいる障がい者はほんとうはその存在はないほうがいいということですか」。この問いは驚きです。論理的に考えれば、現実の地上にはさまざまな理由で、あるいは理由も原因も分からないけれども障がい者がいるけれども、理想的な状態である天国にはそのような不都合な実態は解消されているほうがいい、つまり障がい者はもはやいないほうがいいということになりませんか。「かわいそうな障がい者」のことを真面目に考えればそうなるのではありませんか。理詰めでそうなるばかりではなく、感情的にもそうなってほしいという願望があるのではないでしょうか。

それはそうだろう、障がい者の苦労を、あるいは障がい者の親の苦労を少しでも知っているならば、そう考えるのが当然だろう――そう仰る方も世間にはきっとたくさんいらっしゃるでしょう。生活の困難、社会的な偏見や差別、それらが天国にまで引っ張られてはあまりにかわいそうではないか――そういう思いをお持ちの方も少なからずいらっしゃることでしょう。そして、そう思わせる現実が過去にも今も確かにあるのです。

もちろんこの話しは非常にデリケートですし、たくさんの難しさも含んでいますし、一刀両断でケリを付けることは困難な点があることをよくよく承知の上で、しかし、あえて申し上げれば、この指導者の方の問い掛けは無視できません。無視できないどころか、いやでも応でも真剣に考えなければならないと思います。天国にいないということは地上にもできるならいないほうがいいということになりはしないでしょうか。

もう二十三年も前のことになりますが、一冊の本が大きな関心を呼びました。『五体不満足』、乙武洋匡(ひろただ)という生まれつき重い障害をもった、ユニークな方が書いた本です。読んだことのない人でも彼が言った「障がいは不便です。しかし、不幸ではありません」という言葉を記憶している方もいらっしゃるでしょう。その後の彼にさまざまな評価があることを踏まえてもなお、与えられた身体を自分自身として受け入れ、逞しく生きていくその生き様を見るとき、「障がいは不便であっても不幸ではない」という言葉には、負け惜しみとかきれい事と言い切ることはできない、障がい者本人だけが言える重み或いは真実があると思います。

我が子に知的障がいがあっても、それゆえに子育てに苦労はしても、その子を慈しみかわいがり、自分の生き甲斐と思う親は多いのです。相模原のやまゆり園の事件のあと、犯人とも何度も何度も文通をしてきた哲学者の最首悟さんは重い知的障害を持つ一人娘の人格をこよなく尊び、その世界を尊重し、その生き方を支えてきました。その姿は書物だけではなくテレビの映像でもごく自然に公開されてきました。ある臨床心理士の方が千人を超すダウン症の親の意識調査をした結果を読んだことがあります。「さまざまな苦労はあったものの、この子と一緒に生きてきてよかった」と肯定的に受け止めている方が九割もいらっしゃったのです。もちろん、そう思えない一割の親がいるということも忘れてはいけませんが、普通「かわいそうな子」「かわいそうな親」と外から決めつけがちな私たちですが、この結果は真剣に受け止めなければならないもうひとつのたしかな事実です。

みんなにヒロノブ君と呼ばれていた私の友人とは、十代前半で初めて知り合ってから六十歳で亡くなるまで教会を通しての長い付き合いがありました。親もなく、施設で一生を過ごしたのですが、彼に接する人を心から信頼して疑うことを知らず、たえず「アリガトウ」と言う優しい心根の人でした。純真という言葉がぴったりでした。障がい者を天使扱いする気など毛頭ありませんが、私など自分の内面と比べるとき恥ずかしくなるようなピュアな人でした。パラリンピックに出場したアスリートたちから多くのメッセージを受け取ったことでしょう。

挙げていけばキリがありませんが、こういう人たちは実際存在するのです。思い切って言えば、このようないのちのありよう、人間の生き方が、地上からなくなったほうがいいとは間違っても言えないのです。様々な心身の条件・状態の下でさまざまにいのちが輝いているのです。もしもいなかったら、「健常」と言われる人たちだけだったとしたら、私たちの人間理解はどれほど浅薄なものだったことでしょうか。

障害という言葉はどういう意味合いを込めて作られ、使われてきたのでしょうか。障害という単語を国語事典で引いてみると、その一番目に出てくるのが「物事を予定通り進める上で邪魔になるもの。【その用法例】重大な障害にぶつかる。障害になる。障害を除く(乗り越える)。」とあります。その次に「身体の一部に正常に機能しないところがあること。【用例】には身体障害者、胃腸障害、意識障害、視覚障害、言語障害」などが挙げられています(『新明解国語辞典』)。障害の「障」も元々の用字の「碍」(石偏に㝵ガイ)もどちらも「さわり」「さしつかえる」の意味です。もしも、道を歩くときに差し支えになるものを障害物と呼ぶのと同じ感覚で、その存在が、その人にとってではなく、社会にとって差し支えがあると見做された人が障害者と呼ばれたとするならば・・・これは一大事ではありませんか。

4.

いささか極端な話をしたかもしれません。しかし、これらのことを心に留めておいて、マルコ福音書、とくに七章の主イエスの癒しの業をもう一度見直してみましょう。

マルコ福音書に書き留められている十五件の癒しの記述の中で、癒しを実行したイエスさまの感情、心の中の思いが記されているのは、私が気がついた限りでは三回だけです。一章四十節以下で「重い皮膚病を患っている人」が自ら近づいてきてひざまずきます。彼は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言って主にお願いをします。その病者の相貌や貧しげな服装をご覧になったからでしょうか、心底へりくだった真剣な懇願の姿勢と言葉の故でしょうか、「イエスが深く憐れんで」手を差し伸べてその人に触れ、清めの言葉を発して、癒しをなさったのでした。「イエスが深く憐れんで」と訳されているギリシャ語スプラングニゾマイという動詞ですが、そのもととなった名詞スプランクノン、つまり肝臓や腎臓といった内蔵は、昔の中東の人たちにはそこが感情の座と思われていたので、スプラングニゾマイは直訳的に言えば「はらわたが痛む」です。そこからかわいそうに思うとか同情するとか憐れむという意味になりました。岩波版の新約聖書では、この箇所は「そこでイエスは、腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られ」と訳されています。この深く激しい感情は何に起因し、誰に向けられているのでしょうか。

マルコ三章一節以下の「片手の萎えた人」が人々によって連れて来られたときのイエスさまの対応は、もちろん癒されるのですが、記録されているところによれば、「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」手を伸ばすように命じて癒されたのでした。ここでのイエスさまの怒りと悲しみの原因は何か。それは、人々が「安息日にこの人の病気をいやされるかどうか」を試し、事と次第によってはイエスを訴えるための罠として病者を利用したからでした。この人の病は癒されましたが、人々に向かっては怒りと悲しみとを隠そうとされませんでした。

七章三十一節以下の本日の日課ではこれまた少し違った記述がなされています。耳が聞こえず舌の回らない人を人々が連れて来たときに、イエスさまはこの人だけを群衆の中から連れ出して、指を両耳に差し入れ、唾をつけて舌に触れたあと、「エッファタ(開け)」とおっしゃって癒されたのですが、実は今読み飛ばしたことが一つだけあります。指で耳と舌に触れたあと、「そして、天を仰いで深く息をつき」、それから「エッファタ」と仰ったのです。「深く息をつき」、こう訳されたステナゾウという動詞は溜息をつく、嘆息する、呻くという意味です。一体なぜイエスさまはさあ今から人助けをするための肝腎要の瞬間に嘆息し、呻かなければならなかったのでしょうか。ある学者が推測するようにそうすることが癒すために集められた力を爆発させるための呪文のような意味があったのでしょうか。ここ以外の十四箇所では癒しの場面でイエスさまが嘆息するとか呻くとか深く息をつくという描写はないのです。

重い皮膚病の人に、穏やかに言えば「深く憐れみ」、強く訳せば「腸がちぎれる思いに駆られ」たのは、病気に対してであると同時に、差別と偏見、排除をしている社会に対しての憤りと悲しみの故ではないでしょうか。片手の萎えた人の場合、彼への心からの同情のゆえではなく、主イエスを陥れるために病気と病人を利用さえする親切ごかしの人々の思惑に対して怒りと悲しみを顕わにされたのに違いありません。そう考えると、「深く息をつき」は生理的に酸素を大きく吸い込むためではなかったでしょう。その人が生まれてこの方が聾唖という言わば不条理とも言える身体的な条件の下であってもなお、周囲が共同体の中でその人をあるがままに受け入れて、その人らしい生活を送れるように、また、与えられた能力を発揮できるように、互いにふさわしく支え合う生き方をしていたのならば、必ずや、その人もまた、たとえ独自の在り方であっても、穏やかな、心豊かな、満ち足りた生き方を全うできていたことでしょう。そのことをご存じのイエスさまは、それが未だ叶っていない現状を目の当たりにして、「深く息をつく」のです。「嘆息」し「呻き」をあげないではいられないのです。イエスさまの魂の苦悩です。悲しみと憤りのない交ぜになった思いでしょう。神の創造の賜物として、神の愛の対象として、造られ生かされているのですから、天国を待たずして、この地上で病者も障がい者も幸せに生きていけるように願っていらっしゃるのです。なのに、現実は!だからイエスさまは「嘆息」し「呻き」声をあげないではいられなかったのではないでしょうか

そのように「深く息をつく」イエスさまは、それでもなお、癒しの業をなさるのです。そのときにはっきりと声に出しておっしゃった「エッファタ(開け)」という言葉は、その耳が聞こえず舌の回らない人に向かってだけではなく、固唾を呑んで待っている群衆にも、そして私たちにも、病者や障がい者と共に生きるようにとの神さまの声を聴くために心の耳を開くように、また愛の言葉を話すために舌を解きほぐすようにと強く語りかけてくださっているのです。私たちもまた、いえ、私たちこそ癒されなければなりません。主は命じられます、呼びかけられます、「エッファタ(開け)」と。アーメン