2015年6月21日日曜日

宣教60周年記念礼拝 「主の命にあずかる日」

2015621日(日)

申命記 51215 
コリントの信徒への手紙二 4718 
マルコによる福音書 22328

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

皆さん、お気づきだと思いますが、今日は礼拝堂の入り口で、ボーマン先生が皆さんをニコニコ顔で出迎えてくださいました。
ボーマン先生の一回り大きな写真があると思い出して、十字架の元に置かせていただいたりもしたのですが、「そうだ、礼拝に来られる方を、是非ボーマン先生に出迎えていただこう」と思い、玄関のあの場所にさせていただきました。
さて今日は、岐阜のルーテル大垣教会からバーナダ・ボーマン夫人が来てくださっていて、さらにアメリカから二男のマーク牧師夫妻と、お二人の義理の息子さんが来てくださっています。(Welcome to the 60th anniversary service of Yugawara Lutheran Church.)
昨年10月の役員会でボーマン夫人をお招きして60周年記念礼拝を持ちたいということが話し合われました。そこで、今年の3月になって、私はボーマン夫人に621日の記念礼拝に、おいでいただけますかと電話をしました。すると、夫人の返事はこうでした。「いいおばあちゃんは家族と一緒に過ごそうと思って家で待っているものですね、私86歳だから。けれども、私は湯河原にいきます。家族は湯河原に来るかわからない」。そんなふうに言われました。
このボーマン夫人の返事をもう少し説明させて頂きますと、こういうことです。アメリカにいる家族が6月にわたしを訪ねてくる予定だけれど、まだはっきりした日程やどういうことをしたいのかはわからない。
そうなると、86歳になるおばあちゃんは、息子夫婦や孫たちの家族がはるばるアメリカから来るのだから、普通は家族のことを第一に考えて家で待っているものでしょう。
でも、わたしは家族の予定にかかわらず、湯河原に行きますよ。そう言うことがお返事の内容でした。私は感激しました。
そして先日、ボーマン夫人に電話をしましたところ、「アメリカから7人来ます。全部で8人が行きます」と言われて、「わ~すごい!」と思ったまではいいですが、ここで牧師3年目の私、ちょっと外してしまいました!
こう言ってしまいました。「偶然に皆さんの予定がついたのですね、すごいですね!」すると即座に夫人から「そう思わないよ」と言われました。私はハッとして、「これは神のご計画ですね。神が招いてらっしゃるんですね」と言い直しますと、「そうでしょう。そう思いますよ」と夫人は言われました。
今日の福音箇所にイエス・キリストは「安息日の主である」とあります。それは日曜日と言う安息日は、イエス・キリストが、主を求める私たちに、特に仕えて下さる日であるということです。イエス・キリストは安息日の恵みを求める者に対して、安息日の主となって下さいます。
 ボーマン夫人の「家族の予定には関係なく、私は湯河原教会の60周年記念礼拝に行きます」という返事も、この恵みにあずかりたい、この恵みをのがさないということではないでしょうか。
そうしたら、アメリカから来られる7人もの方たちも予定をそこに見事に合わせてくださった。そして神は日本に来たボーマン先生の二男夫妻のご家族のうち、3人とボーマン夫人とを今日、湯河原教会60周年記念礼拝に集わせてくださった。安息日の主がとりはからってくださり、整えて下さいました。
私はこうして、神のご計画という信仰を、自分たちがではなく、神がという信仰を改めて示していただいて感謝で一杯です。
今日、マルコ福音書で、主イエスは、「わたしは安息日の主である」と言われます。これは神話的な表現としてのことですが、神は6日間天地万物を創造するという働きをし、7日目に休まれ、この7日目を他の6日間から区別して、特別に聖別された日とされました。そこで安息日は生活を立てるための労働から離れて、神の安息を思い、体を憩わせる日であると考えられていました。本来、安息日は人にやさしいものでした。
しかし、ここに登場するファリサイ派の人々は、空腹のため、畑の道を通りながら麦の穂を摘んで食べる弟子たちに、「あなたがたは、安息日にしてはならないことをしている。働いてはいけないという安息日の律法の教えに背いていいのか。こんな事ぐらいと思うのは間違いだ。神に背くお前たちは悪の報いを受けるぞ」と相手を正そうとしています。弟子たちはギョッとしたでしょう。
何か悪いことしてしまった時、どうしたらいいかという時、私たちは恐れてビクビクして、不安に包まれてしまう。何かにつけてわたし達はそういう経験します。
先日妻が用事でアメリカに行きました。飛行機が空港について、荷物を上の棚からおそろうとしたら、荷物がいきなりすべり落ちてきてしまった。とっさのことで受け止めきれずに、座席にいた人の頭にあたってしまった。何度謝っても、大丈夫だと言ってくれない、その人は怒ったまま飛行機から降りて行った。妻は、もっと注意が必要だったのに、自分はなんてことをしたのかと心底の後悔に沈み込みました。
立ちすくんでいる妻をフライトアテンダントが「大丈夫ですから、どうぞもう、いらしてください」と促してくれたので、ちょっとは救われた気がしたそうですが、妻はその火曜日から土曜日までこの大失敗が頭を離れずに苦しんだと言います。
もしも、後遺症でも起きたらどうしよう。この自分の不注意をどう償おうか・・・。そして、自分という人間は体も、気力も不十分で不完全な存在だという惨めさをイヤというほど味わって、この思いからなんとか救われたいと感じたと言います。
そして日曜日、新しい町に引っ越したばかりの娘にルーテル教会を探してもらって礼拝に一緒に行った。神は、安息日の主を求める妻のために、聖マルコ・ルーテル教会(ELCA St. Mark’s Lutheran Church)という、丁度この湯河原教会のような小さな教会を、この日、備えてくださいました。
英語で聞く説教は充分にわからないけれども、そこで受けた聖餐が罪の赦しと救いを確かに与えてくれた。パンと杯をいただいたら、本当に不思議なくらい恐れと不安が消えたと言います。
さて今日は、60周年の記念礼拝ですから、ボーマン先生ご夫妻のこの地での宣教開始当時のことを少し皆さんにご紹介をしたいと思います。
1955616日にボーマン夫妻は湯河原に来られた。そして19日の日曜日、クリスチャンの方の家で初めての礼拝が行われた。今日の日から60年と2日前です。
そして、710日からはボーマン先生のお宅で礼拝が持たれるようになった。出席者は12名くらいだった。更に、7月の終わりには8人の方の洗礼準備が始まった。
この湯河原だけでなく、小田原、熱海、福浦といったところで時には100名を超える子どもたちが集まっての子供会を開いたり、夏にはバイブルキャンプをしながら、伝道は進んでいきました。19571月には米国の宣教師会が教会堂として購入した民家を改造して、そこで礼拝が行われるようになった。
1958年の夏、その教会堂に、東京の下町の母子寮のこどもたち30人を招いて、三泊四日のサマーキャンプが行われました。このキャンプの写真と様子を書いた文章が雑誌に掲載されて、子どもたちの本当にいきいきした様子を知ることが出来きます。
ボーマン先生夫妻は、この地域での伝道を10年余りされた後、岐阜にいかれ、そこで伝道の傍ら「あゆみの家」という心身障害児童の通園施設を信徒の方たちと共に立ち上げ、その運営に深く関わってこられた。
昨年4月、ボーマン先生を偲んで、そのあゆみの家の創立記念日に、ボーマン先生召天十周年の記念礼拝が行われた。その時に配られたボーマン先生を紹介した資料と湯河原での教会キャンプの記事を岐阜大垣教会のある信徒の方が、小田原教会に出席されたときに、教会の歴史だからともって来てくださいました。
こういうポツンポツンと起きる一つひとつのことは、人の目には偶然にすぎないでしょうが、主が聖霊によって信仰の目を与えてくださると、そこに神のご計画が見えてきます。
マタイ28:19-20で主はこう言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。まったくボーマン先生の宣教は、神のご計画に従って、私たちに主イエス・キリストを指し示してくだるためでした。
昨年、この会堂にエアコンを取り付けるために、電気屋さんが屋根裏に入ったことで、大きな飯炊き釜と、大きな鍋、それからたくさんの折りたたみ椅子などが見つかりました。今回ボーマン夫人からお話を聞いて、この鍋や釜は教会キャンプのたびに何度も活躍したものだと分かりました。
 先ほど言った信徒の方がくださった雑誌の記事にキャンプファイヤーでの子供の感想がのっていました。焚き火を囲む子どもたちに、ボーマン先生が「みなさん、魚の歌を聞いたことがありますか」というので、みんなは先生の歌を今か今かと待っていると、先生は口をパクパクしている。「私たちはいっぱい食わされました」っていうんですよ。目に浮かびますね。
 こんなユーモアたっぷりのボーマン先生ですから、食卓の交わりに活躍した“釜”を、今度は洗礼の水をたたえる器にしたいとお伝えしたら、きっと喜んでくださると思います。
最後に、ここに67人の方々の写真が掲げられています。この60年の間に湯河原教会で葬儀をされた皆さんです。永遠の生命に生きておられる皆さんです。
このあと聖餐を頂きますが、この方々と共に、また今日、教会に来ることのできない、その場所で祈っておられる兄弟姉妹と共に、この湯河原教会の60周年を祝い、主の命にあずかりましょう。


望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。 アーメン