2021年10月4日月曜日

人間の願望と神の深慮 江藤直純牧師

 2021年10月3日・小田原教会

創世記2:18-24;ヘブル1:1-4;マルコ10:2-16

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1. 結婚と離婚を見直す

 今朝の旧約聖書の日課、つまり創世記2章と福音書の日課、マルコ福音書の10章を読んだときに、ずいぶん昔のことですが、神学校の寮で聞いたある神学生の他愛もない言葉遊びを思い出してしまいました。文語風に言うと、「神合わせたもうものを、人離すべからず」との御言葉を、すました顔をしてその裏返しをこう言ったのです。「神合わせられなかったものを、人結びつけるべからず」と。深く考えずにすっと受け取ると、「なるほど、そうだね。おもしろいね」となります。

 しかし、今になって考えると、人間の社会におそらく歴史と共にある結婚という現象と離婚という出来事とのある真実を指摘しているように思えるのです。キリスト教の結婚式で新郎新婦が結婚の誓約を神と会衆の前で述べたあとに、牧師が二人をおごそかに祝福し、そのあとに必ず語る聖書の言葉がこれです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。そう宣言されることで、本人たちもそこに集った者たちもみな、この結婚は「神が結び合わせてくださったもの」だと信じ込むのです。そう信じるのはそうであってほしいとの人間の願望の反映という面があるでしょうが、はたしてこの結婚は神のご意志だとの保証はどこにあるのでしょうか。牧師がそんなことを言ってどうするのかとお叱りを受けるかもしれませんが、私は今冗談を言っているのでもなく、屁理屈を言っているのでもありません。現実を見ながら、結婚とはなんだろうと真面目に考え直してみたいのです。

 現在の日本では結婚する人の数は減ってきましたが、それでも年間に60万組ほどが婚姻関係に入ります。それでは離婚の数はどれくらいだと思われますか。この一年間に届けられたのは約20万組です。身の回りで実感する割合よりもずっと多い気はしますが、これは統計が示す事実です。わたしたちの暮しの実態です。

2. 新約聖書に見る結婚と離婚

 ヨハネ福音書が記すイエスさまの最初の奇跡は、カナでの婚礼の際に水をブドウ酒に変えられた出来事でした。このことからイエスさまが若い二人の門出を祝福されていると理解されています。

 洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパス王によって斬首されたきっかけは、異母兄弟の妻だった女性へロディアに横恋慕し、離婚させて彼女と再婚したことをヨハネに非難されたからだと伝えられています。幸せそうな結婚もあれば、悲劇につながる離婚もあるのです。

 今朝の福音書の日課が描き出しているのは、イエスさまに表向きは教えを乞うような素振りをしても、ホンネは難癖をふっかけて困らせようとしているファリサイ派の人々です。彼らが持ち出したのが離婚の是非でした。申命記24章には離婚をする場合に踏むべき段取りが規定されているのです。そうすれば離婚は合法的なのです。それでは、創世記2章の「神が合わせられたものを人は離すべからず」はどうなるのでしょうか。

3. 創世記に見る最初の男と女――人間関係の原型

 創造主である神さまは、ではそもそも一体どういうお考えで最初の人間アダムにもう一人の人間を創造されて共に生きるようにされたのでしょうか。ここを深掘りしなくてはなりません。アダムは真面目で働き者ではあったでしょうが、神さまは彼の生活をご覧になって「人が独りでいるのはよくない」と仰います。「人が独りでいるのはよくない」。ここで言う「ひとり」とは一人二人三人の「一人」ではなく、孤独の独の「独り」です。独は独でも独立の独ではありません。他の人との交わりがない生き方、それは本当の意味での人間の生き方ではないのです。空間的に離れていて一人暮らしをするという意味ではありません。他の人と無関係に、或いは他の人に無関心に生きているという意味での「独り」でいることが問題だと言われているのです。

 良く言われることですが、人という漢字は二人の人が支え合っている形からできたと言われていますし、人間という熟語は人と人との間、つまり人間関係を生きているのが人間の本当の在り方だと暗示しているようです。だから独りで生きている人間に向かって、神さまは「この人に合う助ける者を造ろう」と決心なさったのです。「この人に合う助ける者」、それは、他の翻訳を見ると、「ふさわしい助け手」と訳してあるのもあれば、英語には「パートナーであるヘルパー」という訳もありました。

 「彼に合う」あるいは「彼女に合う」、「ふさわしい」、「パートナー」などと訳されている原語が表わそうとしている意味は、相手と真正面から向き合い、相手に深く関わり、相手をいいところも悪いところもひっくるめて全部をよく理解し、心から共感し、互いに受け容れる存在のことです。なくてはならない人生の相棒・同伴者であり、あたかも二頭の牛が一本の軛につながれて共に労苦し、共に重荷を負い合うような存在です。ローマ書の言葉を借りるならば、その人が喜んでいるときに共に喜び、悲しんでいるときに共に泣く、そういう存在なのです。瞬間的な快楽だけでなく、長い長い時間を共に過ごしながら、しばしば忍耐を重ねながら、いのちを共有している存在です。ということは、言葉の最も純粋な意味でその人を信じ愛する存在と言えます。これが一方的にだけではなく相互にそうなる関係が求められています。「二人は一体となる」(2:24)という印象的な言葉が表現しているのは、二人の人間が互いに相手にとってそのような関係にあるということでしょう。

 「助ける者」「助け手」「ヘルパー」という言葉を、仕事や生活をする上での便利なお手伝いさんと取っては大きな間違いでしょう。たしかに具体的な援助者、助手としての働きもするでしょうし、それも実際必要ですが、何を助けるのかということについて、わたしはこう思っています。アダムが、またイブが相手にとっての「助ける者」「助け手」というのは、その人がいてくれて、その人が関わってくれて、その人が愛してくれることによってはじめて、わたしが真のわたしになっていける場合、その人はわたしが生きていく上での真の「助ける者」「ヘルパー」だということなのです。相繋がり合い、相補い合い、独りのときにはけっしてなれなかった新しい自分になっていくことを助ける者です。独りのときにはできなかった新しいもの、新しいいのち、新しい人生の価値を生み出すことを助ける者なのです。

 このような掛け替えのない人生の相方が人間に必要だとお考えになり、そのような存在となるようにパートナーを創造されたのです。「二人は一体となる」ためにです。そして、これこそが夫婦だけでなく、人間関係の原型と言えるのではないでしょうか。

 ところが、神さまのお考えはそうであったのですが、現実の人間はすぐに正体を現してしまいます。創世記の第3章の「蛇の誘惑」と小見出しが付けられた出来事を思い出してください。一体となったはずの二人は、まんまと蛇の誘惑に負けて、神からの戒めを破って禁断の木の実を食べてしまいます。しかも、それだけではなく、神さまに問い詰められると、男はその罪を女になすり付けてしまいます。こんなことを信じ愛する人にされたら、百年の恋も一瞬に冷めてしまうでしょう。

 「堕罪」と後に呼ばれることになるこの出来事があっても、神さまは二人を別れるようにはされずに、楽園を追放されたあとの苦難に満ちた人生を二人して生きていくようになさいました。これ以後の旧約39巻に描かれている波瀾万丈の歴史は、ある意味人間の罪の歴史でありましたが、同時にそれは神さまがなんとかして人間を罪から救い出そうとする歴史でもあったのです。

4. 真のパートナー、花婿キリスト

 人と人との交わりの不完全さ、そしてその背後にある人と神との関係の不完全さをどうやったら補い、正し、克服できるのでしょうか。神による救済の歴史の最後の最後の手段として神さまが選ばれたこと、それは神が人間となること、そして人間が求めてやまない交わりを神自らが人間となって交わりを生き抜き,死をもって完成させることでした。ご自身で「その人に合う」「ふさわしい」「パートナー」となって、その人の足りないことを補い、罪を贖い、本来のその人となって新しいいのちを生きるように「助ける」、それがイエス・キリストなのです。

 宗教改革者マルティン・ルターはその代表作『キリスト者の自由』という書物の中で、「喜ばしい交換」という興味深い言葉を使って、主イエス・キリストとわたしたち人間の関係を非常に印象的に描き出しています。これはルターが強調する「恵みにより、信仰を通して成就される義認」についての説明の一節です。義認というのは、罪人がキリストの十字架によって神さまに義しいと認められる、つまり、救われる、分かり易くいえば、神との正しい関係を回復していただくことですが、それがどうやって可能になったかの説明です。その時にルターはその際、中世以来の花嫁神秘主義と呼ばれるやや神秘的な比喩と、誰もが知っている婚姻法を用いたのです。

 彼はこう書いています。「信仰は、魂が神のことばと等しくなり、すべての恩恵で充たされ、自由で救われるようにするばかりでなく、新婦が新郎とひとつにされるように、魂をキリストとひとつにする」と。ひとつにされると何が起こるのでしょうか。ルターは続けます。ひとつとなった両者は「両方の所有、すなわち、幸も不幸もあらゆるものも共有」するようになると言うのです。ですから、「富んだ、高貴である」新郎キリストが所有するものは信仰ある魂のものとなり、「貧しくいやしく、悪い娼婦である」魂が所有するものはキリストのものとなると言い切ります。キリストの所有とは「いっさいの宝と祝福」であり、魂のそれとは「いっさいの不徳と罪」でしたから、結婚によってその逆転が起こるのです。そのことをルターは「喜ばしい交換と取り合い」と呼んだのです。

 結婚とか新郎と新婦という比喩を用いてのキリストと罪人、神と人間の交わりと救いの描写はまさに創世記2章に示された「二人は一体となる」ということの現実化です。キリストこそが「彼に合う」「ふさわしい」「パートナー」であって、その人抜きでは、その人の「助け」なしではけっして誰もなりえないところの新しい人間――罪赦され、自由にされ、神の前でまた人々の間で愛と真実をもって生きる新しい人間――になることができるのです。まさに、キリストは神からの恵み、神からの賜物です。さらに、キリストはいまだ完成に至らないわたしたちの地上での歩みに同伴してくださり、私たちが出会う人との交わりの在り方、関係の生き方を身を持って示し、模範となってくださいます。

 生身の人間同士の交わりの最も凝縮された形の一つが結婚で生まれる夫婦という人間関係でしょう。社会という集団の最も基礎となる単位は夫婦なのです。最小基本単位なのに、その夫婦は血縁などまったくなく、もともとは赤の他人です。これからは変わっていくでしょうが、少なくともこれまでは男と女というように性も異なります。そのようなまったくの他人同士、異なる存在である二人が「一体」となっていくためには、一人ひとりがどのような生き方、在り方をしなければならないかを主イエスは身を持って示してくださいました。

 でもそれは自分自身が一人の完全な人間になれということではありません。日本の古い言い伝えにある「割れ鍋に綴じ蓋」という表現はなかなかいいと思うのです。ひびの入った鍋、欠けたところのある鍋と壊れたのを繕い直した蓋というような二人であっても、補い合えばちゃんと役に立つ道具になれるのです。聖書の言う「彼に合う」「ふさわしい」「パートナー」となり、相手のいのちと生活の「助ける者」「助け手」として生きることです。

 今日の福音書にはモーセの律法に離婚が合法的に認められる手続きにも触れてありました。結婚は神さまと人々の祝福を受けて出発しますが、その関係を全うすることがどれほど難しいかは見聞きしているとおりです。見えてこない、聞えてこない苦しみもキッと経験しているでしょう。そもそも「神が合わせられたもの」だったかどうかも確かではないかもしれません。そのような中にあって、主イエスは離婚に至らざるを得ない二人を断罪するのではなく、理解し、受け容れ、支え、新しい人生へと送り出されるのです。そこでもまた「ふさわしい」「助け手」になってくださるのです。なってくださっているのです。私たち人間同士の関係はどこまでいっても不完全、未完成であっても、そのような人生の営みを紡ぐ私たち一人ひとりに対して、どこまでも「ふさわしいパートナー」、なくてはならない「助け手」となり、どこまでも「一体」となってくださっているのです。そのようなお方がいらっしゃることを信じ、そのお方に信頼して、そのお方に少しでも倣って、生きていこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン