2023年3月26日日曜日

礼拝メッセージ「死からいのちへ」

 2023年03月26日(日)四旬節第5主日

エゼキエル書:37章1〜14 

ローマの信徒への手紙:8章6〜11 

ヨハネによる福音書:11章1〜45

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音箇所は、主イエスが墓に葬られたベタニアのラザロを「死からいのちへ」と移していく物語です。ラザロの生き返りは、確かに主イエスの復活とは違います。ラザロは地上のいのちに戻されますが、それはいつかまた死ぬことになるいのちです。これに対して、主イエス・キリストの復活のいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びず、今もいつも生きているいのちです。

 このような違いはありますが、それでもこの物語には主イエスが墓にいたラザロを、また時に墓にいるかのように生きている私たちを、大声をかけて呼び出し、その墓を開き、「死から復活のいのちへ」と移してくださるという福音のイメージがはっきりと示されていると思います。

 さて第一朗読では今から2500年以上も昔、預言者エゼキエルが神から示された幻が語られています。死んだ人間の肉体は腐って土に溶け込み、最後は骨だけが残りますが、この枯れた骨の復活の箇所は、まるで逆回しのビデオを見るかのように、死んだ者たちの骨が組みあわされて、そこに筋が付き、さらに肉と皮膚に覆われて人の形に戻るのですが、その人の中に霊が吹き込まれて初めて人間は生き返ることが語られます。

 この幻が、今日の福音が伝える主イエスが生き返らせたラザロの物語につながっていると思うのは37章12節以下です。「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」というわけです。

 主イエスの当時、死んだ人はラザロのように墓に埋葬されるわけですが、しかし私たちは身体的、生物的には死んでいなくても、生きていながら心や魂が墓の中にいるような状態にもなり得ることが思われます。つまり心の中にも墓というものがあるではないかと思うのです。

 その人のすべては、しかばねとして地中に埋められて、また亡きものとして、やがてこの世の人々から忘れられていきます。墓とはそういうものだと思います。しかし、神はそういう墓を開き、しかもそこに霊を吹き込むというのです。

 聖書によれば霊というのは神の息(ルーアハ)です。創世記2:7にあるように神は人を心と身体に創造したとき、そこに神の息(霊、魂)を吹き込みました。この霊は私たちの精神や魂を新しくするものでもあるわけです。ですからその人の内で神の霊が「生きている」ことこそがその人が生きていることだと言えます。

 それは第二朗読にもかかわってきます。第二朗読のローマ人への手紙の8章10節以下にこうあります。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。この手紙を書いたパウロはとても美しい言葉ではっきりと語っています。

 私たちは心が墓にいるような状態、つまり心が死んだような状態に陥ることがあります。しかしパウロは、神の霊が、死んだようになっている私たちの魂を生かし、心を生かすのだということを力強く証しています。

 私たちは生きる中で、体の苦痛や心の苦しみ、挫折とか、失敗とか、別れなどを日々繰り返していますが、それは言うなれば、私たちの身体と心が日々小さな死を繰り返しているということだと思います。そしてその総決算として最後の肉体の死を迎えるのだと思います。誰もその小さな死から最後の究極的な死まで、それを免れることはできません。

 しかしそうでありながら、主イエス・キリストはそういう人間の人生の中にも死を通して永遠のいのちに至る道があるということを示しているわけです。そういう道があるんだということ、それがキリスト教の真髄ではないでしょうか。

 とはいえ、キリスト者でない人が復活を信じるのはなかなか難しいことだとは思います。そしてまたそれがイエスという2千年前の一人の人といったいどんな関わりがあるのかということになると、さっぱりわからないという人も多いのではないかと思います。

 確かにイエスとなんて出会ったこともないわけですし、そこに何が起こったのか、イエスと復活がどういう関係があるのかなんてことはよくわからない。そんなイエスのことをリアリティーをもって感じ取るなんて無理でしょうという人が多いと思います。

 私たちは主イエスと直接会ったわけではないわけですから、ラザロの生き返りの話は、聖書から想像するしかないわけですけれども、ともあれ聖書によれば、ラザロはすでに死んだのだということは、主イエスには疑いなく分かっています。

 けれども、主は、そのラザロを「起こしに行く」と行動を開始します。マルタは主イエスと出会って、主から11:23「あなたの兄弟は復活する」と断言されます。そう聞いてもマルタには今、ここで愛するラザロが復活するという実感は起こらなくて、それは宗教上の教えの上でのことで、だからこそ11:24「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」という言葉が自然に口をついて出たのだと思います。

 しかし主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と断言したのは、これはそんな将来のいつ起こるか分からないことではないということです。主は、今私がここでラザロと出会い、マルタと出会っていることそのものがすでに復活なのだということを断言されました。遠い将来の、なにか観念的な終わりの時に最終的な救いが来るなどというようなあいまいなもやもやした話ではなくて、今ここにその救いは始まっているということを主は言われた。そして主イエスは「このことを信じるか」と更に踏み込んでマルタに問いかけます。マルタはそれに対して「はい、わたしはあなたを、メシアであると信じます」と答えます。

 私たちの周りにも不可能を可能だと思って取り組む人や、そういうことを行っている人がいます。近年では、アフガニスタンで頻発する干ばつに対処するために、約1,600本の井戸を掘り、今やその水で65万人以上の命が支えられているという、全長25.5kmの灌漑用水路を約17年間かけて造り、枯れた大地を復活させた中村哲医師のような方が必ずおられることを思いますが、そういうところで、私たちはラザロを生き返らせた主イエスの片鱗のようなものに出会うことが出来るのではないかと思います。

 今のこの世の人生というのはある意味で、牢獄の中のような、外にも出られないままそこで死刑になる、その朝をおののきながら待っている死刑囚とある意味似たような境遇の中にいると言えるかと思います。

 先週私は、40歳でホスピスから旅立たれた方の葬儀をさせていただきましたが、死というものが、深い不安や恐怖となって私たちの実存を絶えず揺るがしていることを思います。そういう私たちに、主イエスはその墓の石を取り除けなさいと強い言葉で憤って言うわけです。そして、さらにそこから「ラザロ出てきなさい」と言われます。

 この言葉は直訳すれば「ラザロ、こっちだ、表だ!」という、そういう言葉なのだそうです。それを主イエスは大声で叫んで、ラザロを呼び出す。そのように主は私たちを呼び出してくださるのです。私たちはまるで自分の墓の中に引きこもっているようなときがあるかもしれません。すなわち、自分が築いた壁の中で、なんとなく自分だけは安心していられるような、しかし、実は心が死んでしまっているような状態に陥ることがあるかもしれません。主イエスは、そんな墓から、私たちを呼び出してくださいます。

 私たちにとって、それはまさに復活であるわけです。新しいスタートであるわけです。主イエスがこの墓の中のラザロに叫ばれたように、私たちもまた「石を取り除けなさい、そして出てきなさい、こっちだ!」という力強い主の声を心の中で聴く者でありたいと祈り願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年3月19日日曜日

礼拝メッセージ「闇から光へ」

 2023年03月19日(日)四旬節第4主日  岡村博雅

サムエル記上:16章1〜13 

エフェソの信徒への手紙:5章8〜14 

ヨハネによる福音書:9章1〜41

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今朝の物語は、思い込みや先入観にとらわれた人間の愚かさを明らかにしながら、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」というこの物語を締めくくる主の言葉に向かって進んでいきます。

 私達がただ目でみるだけではなく、それを超えて心で見るとはどういうことか。見るためには光が必要ですが、主イエスはその光りの意味について、すなわち真の光りである主イエスを知るとはどういうことなのかについて気づかせてくださいます。この四旬節に私達も主イエスという光を心に受けて、光の子として生きていきたいと願います。

 第一朗読では偉大な王であったダビデ王が選ばれたとき、神がどのように人を選ぶかをサムエルに語ったことが記されています。7節、「主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」。これらの言葉は、今日の朗読全体に響いています。人間というのはサムエルのような賢者でさえ、つい見た目に動かされます。しかし神はそうではない。その人を心によって見られます。心に刻んでおきましょう。

 そして第二朗読では、今日の朗読全体の結論をのべるような内容が語られています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」このように光の子となって主に結ばれ、復活に生きるあり方が語られています。これも四旬節に私達が心に刻む言葉です。

 では福音書に入ります。9章1節の「見かけられた」という言葉から主イエスがどんな人に関心を持たれるかが分かります。その視線を追うと、そこには苦しんでいる人がいます。5章では38年間も病気で苦しんでいる人でした。ここでは「生まれつき目の見えない人」です。まさに主イエスは何よりもその人の心をご覧になり、その苦しみからその人を解放されます。

 この苦しむ人は乞食をしていました。両親は生きています。それなのに乞食をして暮らしていました。彼が生れつき失明していたからです。今の時代盲目のアーティストやスポーツ選手、様々に活躍しておられる方が思い浮かぶと思いますが、駅のホームから転落される方は後をたちません。障害を負うことの困難とご苦労を思います。

 主イエスの時代は盲目即乞食をするしかないという社会だったことを思います。彼は生きる意味を見失い、今の苦しみをただ運命として耐えていたのではないでしょうか。

 そうした社会背景において、最初に弟子たちが、思い込みにとらわれている人間の一人として登場します。弟子たちはこんな不幸な人がどうしてこの世に存在するのかと思い、主イエスに問います。2節「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 これは、当時のユダヤ人社会では、苦難のあるところには罪もある。苦難と罪は関連していて病気は罪の結果であると考えられていたからです。弟子たちはその通念にとらわれていました。

 それにしても、弟子たちの言葉は、苦しみの只中にいる人を前にして、あまりに無神経だと感じられます。その根底には、健康に恵まれて生きてきた人間のごう慢さが見られないでしょうか。私達は、自分が健康であり、経済が安定しているというような恵まれた環境にある時にも、病弱な人々や貧しい人々の苦しみや悲しみが見えなくなってしまいがちです。それは人間の悲しい性です。

 ヨブ記ではヨブの友人たちがそうでした。ヨブの苦難は、人間には原因不明でした。それなのに友人たちはかたくなにヨブが有罪だと主張して、ヨブの苦しみに輪をかけました。

 ここに登場するファリサイ派の人々も同様です。彼らは主イエスのことを「安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と断定します。彼らは、きまじめです。真剣におきてを守ろうとしている人々です。彼らには、自分たちはおきてを守ることによって、神に受け入れられているという堅い信念があり、そもそも主イエスのやっていることやメッセージを一切認めません。彼らは自分たちの信念と正しさにこだわるあまり、最も根本的なことが見えなくなっています。

 ホセア書にはこういう神の言葉があります。6:6「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」。彼らはこうした神の真理が見えなくなっています。そこに彼らの誤りがありました。主イエスはその点をとがめました。

 主イエスには、おきてを否定する意図はないと思います。主が彼らをとがめた理由は、あくまでも、彼らが「おきてを守るか、守らないか」という二元論の中にとどまっていて、愛の神を見失ってしまっているために、貧しく苦しむ人々の悲しみや喜びに共感できない人間になってしまっていたからです。

 生まれた時から目が見えないこの男性にとって視力が回復したことは、本人にとってはたとえようもないほどに大きな喜びであったに違いありません。けれども、その喜びにファリサイ派の人々は無関心です。まったく共感していません。それは彼らが一つの信念に凝り固まっているからです。ここに人間のもつ不気味さや恐ろしさが感じられないでしょうか。

 この盲人の目を開いた奇跡によって、主イエスは信仰について大切なことを示してくださっています。それは、ただその目で見るか、あるいは、心の目でみるか、それが、真の信仰に生きる者となるか、あるいは不信仰を生きる者となるかの分かれ道となるということです。

 目を開かれた人は、はじめ、自分を癒やしてくれた主イエスがまったくわかりませんでした。それまでは目が見えなかったからです。ただ、自分が見えるようなった、その奇跡をそのまま受け止めて、徐々にこの人は変わっていきました。治してくれたイエスがどういう方なのか、どういう力をもつ方なのか、主イエスのことを目で見るだけではなく、心において深く知っていくように信仰が深まって行きました。

 癒やされた盲人は主イエスを信じたいのかと問われて、36節「信じたいです」と答えます。それに対して主イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言い、盲人は「主よ、信じます」とはっきりと信仰宣言をします。心の目が開かれたのです。実際の視力が回復しただけではなく、それまで暗闇だったところに真の現実であるイエス・キリストの姿が像を結びました。心の目にもそれがはっきりと見えるようになりました。

 主イエスにまったく反対の立場をとるファリサイ派に、主は「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」とおっしゃいました。ここで「裁く」とは、「側を切り裂いて中身が何であるかあからさまにする。人々の本当の心が暴露されて見えるようになる」ということです。

 これを聞いたファリサイ派は、自分たちは一番エリートで、神のこと、おきてのこと、宗教のことはみんなわかっているのに、この生意気なイエスは何を言っているんだというわけです。われわれは見えていないと言うのかと憤りました。

 主イエスはこれに対して、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と答えました。

 目だけで見ているファリサイ派はそこだけにとどまっています。物事の外側だけを見て自分の判断は正しいと思いこんでいる、そういう態度はやはり少し足りないと言えます。むしろそれを超えた恵みの世界に眼差しを開くこと、すなわち主イエスという光を信じて「心の目」で見ることこそが、本当の永遠の命に至る、そういう見方につながっていく道なんだとこの目を開かれた盲人の物語は示しています。私達もこの四旬節に主によって心の目を開いていただきましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年3月12日日曜日

礼拝メッセージ「主イエスに出会う」

2023年03月12日(日) 四旬節第3主日  岡村博雅

出エジプト記:17章1〜7 

ローマの信徒への手紙:5章1〜11 

ヨハネによる福音書:4章5〜42

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 ヨハネ福音書は一つ一つの出来事から主イエスとはどういう方であるかを語ってくれます。今日の福音をとおしてヨハネは「主イエスこそがいのちの水の与え主である」こと、そして、あるサマリア人の婦人の気づきを通して「まことの礼拝」について伝えてくれます。

 4章のハイライトと言うべき23、24節には「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」とあります。その意味で、この物語はその昔のどこかの誰かの話ではなく、「復活して今も生きているイエス・キリスト」とわたしたちとの出会いに気づかせてくれる物語だと言えると思います。

 今日の福音の背景であるサマリアは、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂したとき、北王国の中心になった地方です。北の人々は、エルサレムを中心とする南のユダ王国と対立して、ゲリジム山(標高881メートルの石灰岩でできた山)に独自の聖所を造り、後にサマリア人となって、民族的にもユダヤ人と分かれました。

 さて今日の福音は、「サマリアの女」と言う表現で描かれている一人の女性が主イエスと出会うところから始まります。この女性はひと目を避けて、太陽が燦々と照りつける正午ごろにヤコブの井戸に水汲みに来ました。そこには旅の途中で、暑さと疲れのために喉が乾いた主イエスが一人休んでいました。そこで出会った主イエスとサマリアの女性との間の対話を通じてヨハネはこの婦人が3つの壁によって人との自由な交わりを妨げられていたことを語っています。

 彼女は主から「水を飲ませてください」と頼まれ、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私にどうして水を飲ませてくださいと頼むのですか」と驚嘆し抗議します。

 この答えからも分かるように、第1の壁は民族間の「壁」です。真の礼拝をする神殿のありかはエルサレムか、ゲリジム山かを巡って、ユダヤ人とサマリア人は激しく対立していました。

 主イエスは喉の渇きを潤す水を求めただけでしたが、対話するなかで、この女性が実は魂の渇きを潤す水を必要としていることを見抜きます。そして、主は女性に「この井戸の水を飲む者は誰でもまた乾く。しかし、私が与える水を飲む者はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃいます。

 主は魂の渇きを潤す水のことをいっているのに、水は由緒正しい井戸からのものでも、ただ単に生活の必要を満たすためのものだとしか理解しないこの女性に対して、主は彼女を核心に導きます。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」。

 このことはおそらくこの女性にとって触れられたくない問題だったに違いありません。今一緒にいる男性は夫ではなく、彼女は過去に5人の夫を持ったことを主イエスは指摘します。ここに女性の前に立ちはだかる第2の壁があります。それは、男女間の「壁」です。彼女は、幸せを求めながらも、パートナーに恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついていたことが分かります。

 男の身勝手と風評に傷つき、暑さ真っ盛りの正午ごろに、重労働の水汲み仕事にやってくる。そんな人目を避けてひっそりと暮らしている、彼女の辛さ、悲しさ、恥ずかしさが伝わってきます。

 当時のパレスチナの社会では、女性は男性の所有物であり、また性的欲望の対象であって、だからこそ守られるべき存在だと見られていました。ですから主イエスのように、道端で、男が見知らぬ女性に声をかけ、立ち話をするということは考えられないことでした。それで9節、27節のように、この女性も弟子たちも主イエスが彼女に声をかけ、彼女と話していることに驚いたわけです。

 そして第3の壁は、人を交わりから遠ざけ孤立させる、人々の無理解による「壁」です。このサマリアの女性の生い立ちについてヨハネは語りませんが、おそらく不遇な中で育ち、5度の結婚に破れ、今や日陰者の暮らしをしていて、近所では後ろ指を刺される、外面的にはそういう生活だったのではと想像されます。

 ところで、今日の福音を読み進めていくと、この女性は主イエスに伴われるように主との対話に導かれて、まるでこれらの壁など存在しないかのように、次第に新たな境地に進んでいくことに気づきます。主イエスは、この女性の心の痛みを感じ取っておられて、彼女を憐れみ、愛おしみます。彼女を恥と囚われの思いから自由にして救おうとされます。そのために神の賜物である、決して渇かない、永遠の命にいたる水を与えようとされます。主イエスは、私達一人ひとりをこの女性のように導かれます。

 主イエスが彼女のプライバシーに踏み込んで語りかけたのは、彼女を辱めて、罪を自覚させ、悔い改めに導くためではありません。そうではなく彼女の心を福音でいっぱいに満たすためです。彼女が神の憐れみを知り、今のままで、神から愛されている自分を受け入れるためです。主イエスを信じて、真の礼拝にあずかりながら、希望を持って生きて行くためです。

 水はいのちのシンボルです。10節、11節の「生きた水」は、ヨハネ7章37-39節では「聖霊」を意味していますが、ここでは「人を真に生かすもの」と受け取れます。主イエスはまず、主のほうから「水を飲ませてください」(7)と言って彼女と関わり始めました。主イエスの彼女との関わり方は、「あなたも渇くし、わたしも渇く」という彼女への連帯性と共感に立つものでした。

 そして最後に主イエスはまことの礼拝について証します。23、24節 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と。

 「霊と真理による礼拝」、その霊とは「神からの力」であり、真理とは「主イエスにおいて現されたこと」だと言えます。つまりは「真心をもってする礼拝」と受け取ってもよいと思います。「共に集まり、お互いを愛し、愛され、真心をもって神を崇め礼拝する」、それこそが「霊と真理による礼拝」であり、人と人とを隔てる壁を乗り越える道だと言えるのではないでしょうか。

 主イエスとの出会いによってこの女性は飛躍しました。この女性の中に喜びと希望が湧き起こりました。それまで彼女は町の人々を避けてきたのかもしれませんが、主イエスに出会った彼女は28、29節「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません』」と言います。この女性は主イエスのことを告げ知らせる者になっていきました。

 そして、その彼女の言葉を、いや、人目を避けていた彼女がすっかり新しく変えられた姿を、神の愛を受け入れて喜びで開放された姿を町のサマリア人たちは受け入れ、主イエスを信じるようになっていきました。そして最後には直接主イエスに会って、「その言葉を信じるようになった」(39)とあります。

 心に傷を負った女性とサマリアの町の人々と主イエスとの間で心が通じ合ったいま、目の前でもうすでに神の救いの働きが実現しています。私達もそれに気づき、受け入れて行きたいと願います。

 パウロはローマ書5章の2節から5節でキリストの愛が私達を新たに造り変えてくださることを喜びと確信をもって語っています。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。

 主イエスとの出会いはある意味で私達にとって苦難です。真実の自分に出会わされるからです。その苦難は戦いです。その戦いは忍耐を呼び起こします。忍耐によって私達は主イエスによって訓練されます。そして、主イエスは私達に新しくされる喜びと希望を与えてくださいます。主との出会いは素晴らしいものです。主を信じる者は、今やいつでも、どこででも主イエスに出会うことができます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年3月6日月曜日

「闇の中でも陽の下でも」 江藤直純牧師

2023年3月5日 小田原教会

創世記12:1-4a;ローマの信徒への手紙4:1-5, 13-17; ヨハネによる福音書3:1-17

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 おそらくありえないことではありますが、もしも「イエス物語」とか「イエスの生涯」というものを日本でNHKの大河ドラマのような形で制作・放映がなされたら、これは面白いことになるでしょう。空海とか親鸞とか日蓮などならば映画になったこともありますが、イエス・キリストを主人公にして日本で映画なりテレビドラマが制作されることは先ずありえないでしょう。アメリカでは「偉大なる生涯の物語」とか何本ものキリスト伝が映画化されました。日本でも「ジーザス・クライスト・スーパースター」というミュージカルが上演されたことがありました。

 映画やドラマでは誰が何の役を演じるのか、そのキャスティングに関心が集まります。登場人物をどのように描き出すかということとその役を誰が演じるかということは密接に結びついています。イエスさまと言えば長身、面長、金色の長髪と髭とハリウッド映画では決まったイメージがあるようです。しかし、私がアトランタにある黒人のための神学校に行ったとき、校舎の中に飾ってあったイエスさまの絵は真っ黒な、逞しい体格の、鋭い目つきの男性でした。そうか、黒人にとってのイエスさまとはこういうイメージなんだと思ったことが印象に残っています。洗礼者ヨハネと言えば、十代の頃に見たチャールトン・ヘストンこそまさにヨハネだと納得したものです。母マリアは、マグダラのマリアは、或いはペトロは、ピラトは・・。それぞれを日本人の俳優ならば誰が演じるのかは興味津々です。

 それでは、今日の福音書の日課に登場するニコデモという人には、誰が選ばれるでしょうか。彼は一般には聖書物語の中で地味な脇役、しかも一度きりしか登場しない、あまり目立たない存在のように思われます。この人のキャスティングを考える際には、いったいこの人はどういう人なのか、姿形もさることながら、どのような内面性、どのような思想や信仰を持ち、いったいどのような生き方をしていた人なのかを、知りうる限りの材料を集めて、想像できる限り想像をたくましくしなければ、その人を演じる俳優も選べません。

2.

 私にはニコデモは単なる端役ではなく、イエスさまと出会った多くの人々の中でも、無視できない、いえ、実に興味深い人物だと思えて仕方がないのです。福音書ではマタイ・マルコ・ルカの3福音書にはまったく出て来ませんが、ヨハネ福音書にはなんと3回も登場しているのです。3回です。お気付きでしたか。1回目はもちろん今日の日課、ヨハネ3章です。新共同訳聖書では3章の冒頭に「イエスとニコデモ」という小見出しが付けられていますが、私たちはついこれは1節から15節までのエピソードのことと思い、16節のあの有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに(馴染んだ口語訳なら「賜ったほどに」)、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、小聖書とも言われる珠玉のメッセージに注目して、ニコデモのことは忘れてしまいかねませんが、実は、この福音の核心とも言える、全福音書を凝縮したような聖句は、他でもないあのニコデモに語りかけられているのです。この事実だけでも、ニコデモの存在は無視できません。

 ニコデモは聖書に3回登場すると申しましたが、2回目はいつ、どこだったでしょうか。それはヨハネの7章です。6章で5千人に食べ物を与え、ご自身のことを「私がいのちのパンである」(6:34)と言われたあと、ユダヤ人たちがイエスさまを巡って様々に議論します。感心する者、敬意を懐く者もいたでしょうが、疑問を抱く者、批判する者、悪口を言い、敵対心を持つ者も明らかに増えてきました。そして7章に進むと、仮庵祭になってイエスさまがガリラヤからエルサレムに上り、神殿の境内で教えを述べられると、群衆の間でますます騒ぎは大きくなり対立も広がります。祭司長やファリサイ派の人々、最高法院の議員の間でもイエスさまを非難する人々が出てきました。そのような危険な空気が漲り、律法を振りかざして攻撃的な声が高まってきたときに、一人だけ冷静沈着に、しかし勇気を奮って、反イエスの感情を高ぶらせている人々に向かって「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっている」(7:51)と言って、暴走を食いとめたのがニコデモでした。正論によって踏みとどまらせられた人々がニコデモに対して嫌みや負け惜しみを言ったことも記されています。

 ニコデモという名前が3度目に現れるのは、十字架の処刑の直後でした。遺体の引き取りと埋葬のときです。マタイ・マルコ・ルカが揃って書き留めているのは、アリマタヤのヨセフという金持ちで議員であった人がその役を果たしたということですが、ヨハネ福音書だけはアリマタヤのヨセフが総督ピラトに願い出た時のことをこう記しています。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らは(つまり、アリマタヤのヨセフとニコデモは)イエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の(安息日の)準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた」(19:39-42)。この葬りはアリマタヤのヨセフがいなければ起こらなかったでしょうが、ヨハネ福音書の記者はニコデモにも大事な役割を無言の内に演じさせています。しかもニコデモは予め香料を用意していたのです。ニコデモはヨセフと同じ気持ち、同じ考えだったに違いありません。

 3章、7章、19章に登場したニコデモは、それぞれの場で大事な役割を演じているのです。こうしてみると、ヨハネ福音書はニコデモに特別の関心を抱いていることが分かります。

 では、このニコデモという人はどういう人だったのでしょうか。3章1節には「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」と書いてあります。それだけではなく、イエスさまは会話の中で「あなたはイスラエルの教師でありながら」と言われていますから、聖書に精通し、人々の宗教生活を指導し、人々に尊敬されていた人だと想像できます。71人から成る最高法院サンへドリンの議員の一人であったということは、彼が単なるファリサイ派の一員で律法学者だったというだけでなく、社会的に高い地位の人だったことが伺えます。アリマタヤのヨセフも議員でした。

 さらにはイエスさまに問答の中で「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と言われたときに、「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか」と聞き返していますが、この「年をとった者」というのが単に一般論としてのこととしてではなく、「私のような年をとった者が、生まれかわりたいと思っても、一体どうやって生まれかわることができるでしょうか」という実存的な、我が事としての真剣な問い直しだと解釈できるならば、ニコデモはそれなりに「年をとっていた」者だと推察できます。

 つまり、彼は祭司という職業的な宗教家ではないけれども、聖書とユダヤ教の伝統の深い知識を習得し、ファリサイ派に属する者らしく真面目に忠実な宗教生活を送っていた人であり、律法学者の一員として最高法院の議員に選ばれていたほどの人であり、それなりの年齢を重ねた人生の経験者であったことでしょう。更に言えば、アンチ・イエスの勢いに押されず、アリマタヤのヨセフと同じように「同僚の決議や行動に同意しなかった」(ルカ23:50)し、公開の十字架による処刑によって都中が興奮のピークに達した中で、堂々とピラトに申し出てイエスさまの遺体を引き取り、丁寧に埋葬をするという行動をとることができた人間だったのです。これがニコデモという人でした。ペトロ以下の十二弟子たちとはかなりタイプを異にする人物でした。

3.

 ニコデモがイエスさまを訪問したのは「ある夜」だったとヨハネ福音書は告げます。何故昼間ではなかったのか。夜陰に乗じてというのは、その行動が人の目に触れることを避けたかったからに他ならないでしょう。

 2章の13節以下によれば、ユダヤの三大祭りの一つである過越祭のために大勢の人が都に上ってきて、町は大賑わいになってきていたときに、イエスさまは選りも選って人々が集まっている神殿の境内で商売人たち、両替商たちを境内から追い出し、さらに46年もかかって造営された神殿を三日で建て直すと言われたので、町中は彼の話題でもちきりになっていました。

「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)と書いてありますから、大評判になっていたことが分かります。しかし、彼をもて囃す人たちがいたと同時に、苦々しく思っている人たちも少なからずいたことでしょう。とりわけ、社会的・宗教的な支配層の人々、体制護持派の人たち、既得権益の持ち主たち、保守的な立場の人々は、ガリラヤの片田舎から出て来た、言うならばどこの馬の骨だか分からないのに民衆のヒーローになり始めた男のことを好ましく思ってはいなかったでしょう。

 だからこそ、社会的・宗教的に高い立場にあるニコデモは、昼日中に表立ってイエスさまを訪ねることは避けて、しかしそれでもなお会わずにはいられないので、夜、人目を忍んで訪問してきたのです。何のためでしょうか。宗教的な真理を巡って質問したかったのでしょうか。ニコデモの第一声はそうではありませんでした。

「ラビ(これは「先生」というよりももっと敬意の籠もったニュアンスの「師よ」という感じではないでしょうか)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(3:2)。これは単なる美辞麗句ではありません。口先だけの挨拶ではなく、初対面ではあるけど「師」と仰ぐに相応しい方だと見定めた相手への、真摯で、誠実な、礼を尽くした向き合い方です。人間的に優れているという月並みな褒め言葉ではなく、「神のもとから来られた教師」また「神が共におられる方」というのはほとんど信仰告白です。何か質問をしてその答え次第では褒め言葉を言おうという上から目線の、高飛車な姿勢ではありません。彼の来訪の第一の目的はこの思いを伝えることではなかったでしょうか。

4.

 さて、これを受けて、イエスさまは単刀直入に対話に入られます。それこそニコデモが求めていた真理探究のための対話だったことでしょう。しかし、はっきり言ってイエスさまの最初の言葉はニコデモを驚かせ、面食らわせました。なぜなら、それは彼の理解をはるかに超えるものだったからです。高い知性と豊かな知識を持っているニコデモをしてもすぐには受け容れることのできないレベルの話しでした。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)。

 人間は低いところから、つまり生まれたすぐのゼロの地点から、人生の高みへと少しずつ上って行く。そのために学問を積み、心身を修練し、祈りつつ真理と神秘を模索していく。様々な経験を重ねて人間と世界を知っていく。それの導き役をしてくれるのが宗教である。そのように教えられ、自分でもそう信じて、この道を歩いてきたのです。その結果、世間からは律法学者と認められ、イスラエルの教師とまで呼ばれるようになり、最高法院の議員にまで選ばれるに至ったのです。そのように自己認識しているニコデモはさらなる高みを目指して、今真に「師」と呼ぶべき方を見出したと思って、夜ではありましたが、この方をお訪ねしてきたのです。さらなる学び、更なる霊的成長のために足を運んできたのです。

 しかしながら、イエスさまの語りかけは全く想定外のものでした。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。この「新たに」という言葉は原語のギリシャ語ではもう一つの意味があります。それは「上から」とも訳せるのです。上から、つまり神の御心により、神の側からの働きにより、別な言い方をすれば、聖霊の働きにより、はじめて人は生まれかわるのだと仰っているのです。人間の側の努力によってではないのです。ましてや年齢が高いか低いかも関係ないのです。「霊から生まれる」(3:8)のです。

 一体全体どうやってそういうことが起こるのでしょうか。風が吹けば枝は揺れ、葉はそよぎます。霊が吹けば私たち人間は動かされるのです。私たちの内面も外面もそうです。神さまがそうしようと思われたら、霊は吹き、私たちは動かされるのです。私たちには無理と思えても、神には人を生まれかわらせることもおできになるのです。

 神さまがそうしようと思われたらと申しましたが、果たしてほんとうにそう思われるのでしょうか、思われないのでしょうか。つまり、神さまはどうなさろうというのでしょうか。神の御心とは何でしょうか。そのことをイエスさまはニコデモにはっきりと、断言なさったのです。14-17節にはこう記されています。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。さらに続けて言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。もう一度繰り返されます。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。

5.

 この福音の神髄をイエスさまは、なんとこの時点で、他ならぬニコデモに明かされたのです。十字架によって人が救われること、永遠の命を私たちが得るようにしてくださること、このことを宣言されたのです。それこそ新たに生まれかわらせようとおっしゃったのです。十二弟子のだれもまだ聴かされる前に、このニコデモに対して、ご自身の十字架の死によって私たちが救われるという使信を告げられたのです。

 この時点でニコデモが十字架の救いの秘儀をはっきりと分かったとは書いてはありません。ニコデモの福音の受容と信仰の告白が今ここでなされたとは記されてはいません。しかし、そんなことは受け容れられない、信じられないと言って、悲しみながら立ち去ったとも書いてはありません。そうならば、彼はきっとこの言葉を胸の底にしまって、その後もずっとそれを温めていたのではないでしょうか。だからこそニコデモは、最初に申しましたように、7章では、たとえ自分が不利になろうとも、イエスさまを擁護する言葉を臆せずに述べたのです。真昼の明るさの中ででした。そして何と、十字架の処刑が目の前で現実のものとなったときは、アリマタヤのヨセフと共に、勇敢にも遺体を引き取り、丁重に墓に葬ったのです。マタイ福音書はアリマタヤのヨセフのことを「この人もイエスの弟子であった」(27:57)と記していますが、それならば彼と一緒に敢えて葬りまでやったニコデモのことも「この人もまたイエスの弟子であった」と言えるのではないでしょうか。

 今私は、もう一人の男のことを思い出します。彼もまた大胆にもイエスさまのもとに近寄って来て、何をすれば永遠の命を得ることができるかと教えを乞うたところの議員であり、金持ちとも青年とも言われている男のことです。彼は、イエスさまからすべてを捨てて私に従えと言われたところ、「悲しみながら立ち去った」(マタイ19:32)と三つの福音書に記されています。青年か老人かは別にして、ユダヤ社会の中で支配層に属し、宗教的には熱心で、世間的な評価が真っ二つに分かれているイエスさまに謙遜にも救いを求めてやって来たのに、この人は悲しみながら立ち去りました。しかし、ニコデモはそうではありませんでした。立ち去らなかったばかりか、後には逆に一歩前に踏み込み、最後はグンと前に歩み寄りました。他の誰にもできないことをしたのです。

 富める青年と老ニコデモの違いは何だったでしょうか。二人とも自分のキャパシティーには収まらない、自分の常識では受け止められない言葉を投げかけられたのです。すべてを捨てて、自分に従えと言われた青年は、その言葉とその言葉を言ったイエスさまを捨てました。ニコデモもまた新たに生まれかわるよう求められたことは理解不能、実行不可能でしたが、しかし、その言葉を捨てずに、そう言ったイエスさまから離れずに、自分を開いたままにしておきました。「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、この私を愛されたとの神の言葉が自分に語りかけるままにしておいたのです。

 木が風に吹かれるままにしておくと、葉はそよぎ、枝は揺れます。人が霊に吹かれるままにしておくと、やがてその魂は揺さぶられ、動かされるのです。神の言葉が語りかけるままにしておくと、いつしか心と思いは新たに生まれかわらせられるのです。

 4世紀頃「ニコデモによる福音書」というものが書かれたと伝えられています。東方正教会の伝承によれば、ニコデモはキリスト教徒になり、ユダヤ人の手にかかって殉教の死を遂げたそうです。受洗や殉教の歴史的な真偽はわかりませんが、そういう後日談ができたのももっともだと頷けます。

 「イエス物語」という大河ドラマが制作されるときに、いったい誰がニコデモの役を演じるのが相応しいでしょうか。それはともかくとして、ニコデモのような生き方をすること、ニコデモのようなイエスさまへの関わり方をすることは、俳優ではなくても、たとえ僅かであっても、私たちにもできるのではないでしょうか。今すぐには分からないことを言われても、そうおっしゃる方に誠実に向かい合い、その方に心を開いておき、その方の霊が吹いてくるのに己を任せて生きる生き方を私たちもしたいものです。神の霊が私の心を、あなたの心をそよがせ、揺さぶり、動かし、やがて新しく生まれかわらせてくださるのですから。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2023年3月5日日曜日

礼拝メッセージ「愛と救いと命のために」

 2023年03月05日(日)四旬節第2主日 岡村博雅

創世記:12章1〜4a 

ローマの信徒への手紙:4章1〜5、13〜17 

ヨハネによる福音書:3章1〜17

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 先週、四旬節第一主日のテーマは罪について、原罪についてでしたが、今日の聖書箇所のテーマは人は信仰によって新しく生きる者とされるということだと思います。

 今日の第一朗読は、神に従ったノアの子孫の中から、神が信仰の祖先と言われるアブラムを召し出した箇所です。神はアブラムを選び、人類に対する神の祝福の源にしようと望まれました。アブラムは初老の年齢にもかかわらず、神を信じ、神の言葉に従って全く新たな人生へと旅立ちました。

 そして第二朗読でパウロは、このアブラハムの召命を取り上げ、アブラハムがひたすら神を信じて神の言葉に従ったこと、神はその信仰を義と認められたと述べます。アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信仰の父と言われます。パウロはこう言います。4:13 「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」と。

 神が私達の信仰のゆえに私達を義としてくださることは、すなわち神が、私達を、水と霊とによって、新たに永遠の命に生きる者として神の国に迎えてくださるという今日の福音につながっています。

 では福音書に入ります。このニコデモと主イエスとの対話は新約聖書の中で最も重要な場面の一つだと私は思います。なぜならそこで出会ったのは、旧約の教えと新約の教えそのものであったからです。ニコデモは唯一絶対の神に救われることを目指しているものの、そこに至る道は、他のユダヤ人たちと同じく、モーセが伝えた神の律法を守りぬくことだと固く信じています。それは律法が定める正しい行いを積み重ねて、下から上に昇っていく道です。それに対して主イエスが教える新しい命にいたる道は、上から下へ、つまり神が人間に与える霊によって、神の霊によって人間の内面的な命、霊的な命が新しくされる。それこそが救いなのだという、実に自由でかつ普遍的な教えです。

さてこのニコデモはどんな人物でしょうか。彼はファリサイ派というユダヤ教正統派の信者で、社会的には上流社会に属し、ユダヤの七十人議会の議員というエリートです。年齢的には、老境に入っていたでしょう。つまり、精神的にも、経済的にも、安定しているはずの人物です。けれども彼は若いイエスから教えを請おうとやって来ます。

 ヨハネ福音書は、ニコデモは「夜」やって来たと言います。昼間ではイエスが民衆に囲まれていてじっくり話せないからということでしょうか。訪問にあたりニコデモはイエスについて情報を集めたことでしょう。洗礼者ヨハネとのこと、病人への癒やしや奇跡のこと、更には神殿から商人たちを追い出した事件などです。ファリサイ派の仲間たちはすでにイエスをマークしています。人々から勘ぐられないように、ひと目を避けて夜の闇の中を来たということかもしれません。

 恵まれて暮らし、社会的には何の不足もないニコデモですが、人は社会的地位が上がれば上がる程、年齢を重ねれば重ねるほど、悩みが深くなり、不安になることがあります。加えて律法による救いに寄り頼んでいるニコデモには、自分は一つも律法に違反していないと言い切れないジレンマもあったでしょう。しかし、彼は弱音を吐けず、どうして良いかわからなくなっていた。そこで、噂のイエスを訪ねてみようと思い立ったのではないでしょうか。現代に生きる私達も、そんなニコデモと似たりよったりではないかと思います。

 ニコデモは「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(3:2)と実に率直に謙遜にイエスの教えを聞こうとしました。

 しかし、主イエスは一段飛躍して宣言しました。「はっきり言っておく。(原文はアメーン、アメーン。荘重な前置きの言葉)。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)、この「新たに」(デノーテン)は「上から」とも訳せます。「上から」つまり神の力によって人は新たに生まれるのだ。そうすれば人は神の国を見ることが出来るというのです。

 ニコデモは狼狽して言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と。有能、勤勉、誠実なニコデモにはイエスの答えがあまりに想定外だったのでしょう。

 年を重ねたニコデモは自分の余命が刻一刻と終わりに向かっていることがわかっています。今までの生き方では先は闇のままで、希望がもてない。だからといって新たに生まれ変わってやり直すことなどできない。あくまでこの世的に考えるニコデモは途方にくれました。

 主イエスは再び繰り返します。5節、アメーン、アメーン。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。

 主イエスは、この「上から新たに生まれる」とは「水と霊とによって生まれる」ことだと言うのです。水はこの地上でのバプテスマ(洗礼)のことだと理解できます。そして「洗礼の水」は、これまでの自分が「水」によって水死することを象徴します。すなわち主イエスは、「ニコデモよ、これまでのあなたは死に、そして霊によって新しく生まれなさい」と言われたのです。

 「肉から生まれたものは肉である」。それは生まれながらの人間が、どんなに努力し英知を極めてこの世での成功を熱心に追求しても、たとえ力を尽くして神の戒めと法とを守り、奉仕に努めて神に祝福されようとしても、そうした人間の努力や能力の延長線上に神の国はないということです。「肉から生まれたものは肉」とはそういう意味です。

 しかし「霊から生まれたものは霊」だと主イエスはおっしゃいます。昔、神は預言者エゼキエルによって「新しい霊」(エゼキエル11:19)を授けることを予告されました。神の霊の力によって新しい命が吹き込まれない限り、新しく生まれることは不可能です。新しく生まれるためにはまず旧い自分のあり方を終わらせなければなりません。

 その夜は風が強く吹いていました。主イエスはそこで一つのたとえを示します。「風は思いのままに吹く。・・・霊から生まれた者も皆そのとおりである」。(3:8)(ヘブライ語もギリシア語も風には霊という意味を含みます)。ニコデモよ、風の音が聞こえるだろう。風は見えないが、力強く吹き渡っている。霊の世界も同じなのだ。霊は、上から、すなわち神から吹いてくる。

 ニコデモよ、肉に死んで、つまり罪に死んで、自分自身への囚われに死んで、旧い自分に死んで、そして霊的に復活する道こそが、神の国に入る道であることが信じられるか。あなたが死んで復活しないとでも言うのか。人を復活させることは、人にはできないが、神にはできる。神にはできないことはない。ニコデモよ、わたしを信じるか。主イエスはそう迫りました。

 この物語で最も大切なことは、私達の誰もがこのニコデモのように、新たに生まれることを可能にする主イエスを信じるか、信じないかという、この二者択一の前に立たされているということだと思います。

 この人間が霊的に新しく生まれるということを理解することはできません。人間の自然と知恵と力の立場に固執する限り到底理解することはできません。信じる以外にありません。そこで主イエスは3章11節から15節で最後の駄目押しをされます。

 主イエスは分かりえない私達を導くために、主ご自身が十字架に架かって死に、復活させられ、天の栄光に入られました。ニコデモのいう通り人間には誰もそんなことはできません。主イエスのみがこの道を切り開きました。

 モーセは荒れ野で人々が毒蛇に噛まれて死んだとき、神の命令で青銅の蛇を造り、旗竿の先に掲げました。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(民数21:9)とある通りです。

 それと同じように、十字架の主イエスを信じて仰ぐこと、それのみが、水と霊とによってその人が新たに生まれ、永遠の命を得ることを可能にします。 (ヨハネ3:14,15)

 私達は神の国の門の前で、立ちすくみ、死の闇に怯えます。しかし主イエスは死に打ち勝ってくださいました。主は復活して私達と共にいてくださいます。主は私達が永遠の命に入る道を備えてくださいました。私達は「主よ、信じます」と告白して、主の十字架にあずかりながら人生を歩む者です。その決断をして踏み出して行くとき、そこに永遠の命と神の国の祝福が待っています。 

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン