2021年11月8日月曜日

「ごく僅かはたくさん」 江藤直純牧師

聖霊降臨後第24主日 2021.11.7.小田原教会 江藤直純牧師

列王記上17:8-16;ヘブライ9:24-28;

マルコ12:38-44

1.

 この10月はいつもにも増して賑やかなというか騒がしい一月でした。一週間前に国政選挙があったこともありますが、それ以上にマスコミを賑わせたのは二人の若者の結婚を巡ってでした。轟々たる非難を浴びて、あたかも彼らが国中の総反対を押し切ったような報道ぶりでした。しかし、いざ信念を貫くと、その結婚を祝福したいという国民のほうが反対の人たちよりも倍以上も多い世論調査も発表されました。

 わたしは今この場でこの事件の是非善悪を滔々と論じようとは思いませんし、そうするのが良いとも思っていません。ただ、ネットや一部マスメディアのセンセーショナルで声高な論調もたしかにありましたが、静かに見守っていた人々もいたということ、別な言い方をすれば、一つの事柄をどの角度から、どの視点から見るかによって、また、いったい何が最も大切なことかという観点から考えるかによって、出来事の見え方は全く変わってくるということを改めて知ったのでした。

 わたしたちの日常には、社会全体が大騒ぎをするようなこともあれば、ほとんどの人の目にも触れず気も引かない出来事もあります。それは今の時代ももちろんそうですが、昔もまたそうでした。そのとき、わたしたちは大きな、勢いのいい風潮に付和雷同して、上っ面の見方にとどまってしまうか、それともそれとは全く違った見方、考え方を、たとえそれがどんなに少数であっても、することができるか、今日の福音書の出来事から自分を見つめ直してみたいと思います。

2.

 今日の登場人物は、一人の名もなき女性です。「貧しいやもめ」です。岩波訳では「赤貧の寡婦」と書いてあり、寡婦に「やもめ」とルビが振ってあります。「乞食の寡婦」とも訳されています。現代社会の中で夫に先立たれた女性の多くは経済的にも社会的にもさまざまに困難を背負っていますが、二千年前の、今よりももっともっと男性中心の社会で夫に死なれた女性が一人で生きていくのに、もしかしたら子どもを抱えて生きていくのにどれほど大きな苦労を強いられていたかは想像に難くありません。

 その彼女がエルサレムにあるあの壮麗な神殿にやって来たときの話しです。彼女はなけなしの財布から最後の二枚の小銭、レプトン銅貨二枚をそっと賽銭箱に入れます。その横でこれ見よがしにジャランジャランと大きな音を立てながら賽銭を放り込む金持ちの男たちがいました。そして、それをじっと見ていたイエスさまがいらっしゃいました。

 これ以上話を進める前に、当時のエルサレム神殿での賽銭についてご説明をいたしましょう。エルサレム神殿は町を取り囲む城壁の中での最大の建造物です(『コンサイス聖書歴史地図』「キリスト時代のエルサレム」参照)。先ず紀元前10世紀にソロモンの神殿と呼ばれる壮大な神殿が建てられ、紀元前6世紀にはバビロン捕囚から解放されて帰国した人々が破壊されていた神殿を再建しました。世に第二神殿と呼ばれるものです。紀元前1世紀にはヘロデ大王が全面的に改装・拡張しました。イエスさまがエルサレムに上り、宮清めをしたり群衆に教えを語ったり崩壊の予告をしたのがこのヘロデの神殿です。

 聖所と至聖所があり、その前にエルサレムの庭と呼ばれる男性だけが入れる庭があり、その外側に女性の庭と呼ばれる庭があります。そこは神殿本体の中で女性が入れる最も奥まったところです。ここに多くの柱廊が立っており、ぐるりと建物が取り囲んでいます。女性の庭と呼ばれていますが、ここは女性だけでなくもちろん男性も入れます。そのまた外側にイスラエル人が入ることができる区域と、「隔ての中垣」で区切られた異邦人の庭と呼ばれる区域があり、参拝に来た異邦人はここまでしか入れないのです。これら全体を回廊が取り囲んでおり、これがいわゆるエルサレム神殿です(「キリスト時代の神殿の丘」参照)。ここは普段も賑わっていますが、今日は三大祭りの一つ、過越祭が目前でしたから、さぞや大賑わいであったことでしょう。

 本日の出来事の舞台はここです。賽銭箱は女性の庭の柱廊の前に13個並べてあったのです。7つは目的別の賽銭箱、6つは自由な賽銭箱です。賽銭箱というと、わたしたちは神社やお寺にある、長方形で、上の面は賽銭が滑り落ちるけれども、外からはお金を取り出すことはできないように桟が覆っている木の箱を思い浮かべることでしょう。エルサレム神殿の賽銭箱はお金を入れる上半分の形が全く違います。金属製でラッパのような口を開いていて、そこから硬貨を投げ入れると、管を通って箱に落ちていくまでにチャリンチャリンとかガランガランとか音を立てるのです。ですから、たくさんの硬貨を投げ入れれば、大きな金属音がするし、僅かな軽い銅貨入れれば微かな音しかしません。紙幣、お札というものがない時代です。銀貨が主ですが、価値の低い小銭は銅貨です。重さや大きさも違います。

 さらに、ちょっと信じられない気がしますが,ある文献によれば、賽銭箱の横に祭司が立っていて、投げ入れる人にいくら献金するのかを尋ねて、投げ入れる前に大声でいくらいくらと言うそうです。金額が公表され、多量の硬貨がジャランジャラーンと大きな音を立てながら落ちていくとき、たくさんの賽銭を入れる金持ちの表情はどんなでしょうか。満足げな、得意げな、誇らしげな顔を容易に想像できます。しかも、そのような金持ちが何人もいたのです。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とマルコは記しています。

 そして、赤貧洗うがごとしと言った、乞食のような、貧しいやもめの人が金持ちたちの横で賽銭箱の前に立ったとき、その人はどういう思いがし、どういう仕草、振る舞いをし、どんな表情になっていたでしょうか。これまた、わざわざ想像力を働かせるまでもなく、彼女の顔を思い浮かべることができるのではないでしょうか。人と目を合わせないように、じっと俯いて小さな銅貨をそっと滑り落としていたことでしょう。

3.

 そもそも人はなぜ賽銭をあげるのでしょうか。手許の国語辞典には賽銭のことをこう説明しています。「神仏に参詣したときに、供えるお金」。もっと詳しく知りたくて、『広辞苑』を引いてみました。すると、「(賽)は神仏にむくいる意」と先ず漢字の説明がされていて、それから「①祈願成就のお礼として神仏に奉る賽物の銭。」そして「②神仏に参詣して奉る銭」とありました。第一義的には「祈願成就のお礼」、お礼参りのしるしだそうです。二番目が主には参詣のときにするのが願いごとならば、その願いを叶えていただきたくて捧げるお金なのでしょう。

 あの金持ちにはお礼をする理由が十分にあったでしょう。なぜなら彼はすでに人も羨むほどの金持ちなのですから。しかも宗教的にもファリサイ派などとして尊敬を集める立場でした。さらには、それゆえに社会的にも指導的・支配的な地位を勝ち得ていました。宗教的、経済的、社会的に高い評価を得ているのですから、それは神の恵みの賜物だと受け止め感謝して、多額の捧げ物、賽銭をしても言わば当然でしょう。彼らは自分がどんなに恵まれているかをひけらかして、これ見よがしに派手に賽銭を投げ入れているのです。謙遜にではなく、自慢げに,傲慢そうに大きな音を立てています。金持ちにとっては、大きな賽銭をすることは十分にペイしているのです。いい取引ではありませんか。

 それでは、あの貧しいやもめはどういう理由で、レプトン銅貨二枚を賽銭として捧げたのでしょうか。そうしてしまえばもはや財布の中は一文無しになってしまうような状態です。いったい何に対してお礼をしようというのでしょうか。神さまの恵みを受けているならば何故どうして、若くして夫に死なれ、経済的にどん底の状態に陥り、社会的に見れば最下層に属すことになったのでしょうか。「神さま、なぜですか」さらに「世の中、神も仏もあるものか」と恨み言を呟いて、神殿に背を向けても少しもおかしくない境遇です。

 すでにお恵みに十分に与っているからお礼の意味で賽銭をするのではなく、この状態から何とか救い出していただきたくて、心の底からの願い事を叶えていただくための捧げ物だということでしょうか。ごく僅かですが、これでよろしくお願いしますと言っているのでしょうか。たしかに、そう考えられないこともないかもしれません。

 しかし、そうは言っても、たったレプトン銅貨を二枚捧げて幸運を買おうというのでしょうか。レプトンとは「ローマの銅貨で、1デナリオンの1/128」なのです。1デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。今日の豊かな日本と二千年前のイスラエルでは比べものになりませんが、2021年度の神奈川県の最低賃金は1040円です。8時間働いて得るのは8320円です。その1/128は僅か65円です。こういう言い方は適切ではありませんが、たった65円で夢のような願い事を叶えてくださいとは、いくらなんでも虫が良すぎるのではないでしょうか。このやもめは本気でレプトン銅貨二枚で神さまに取り引きを持ちかけているのでしょうか。そんなはずはないでしょう。金額はごくごく僅かだけれども、彼女にとってみればそれは生活費のすべてだから、自分の財産のうちの賽銭の割合、率から言えば、あの金持ちと比べればずっと高い比率で賽銭を上げているという計算、理屈を彼女は腹の中で考えているのでしょうか。そんなにしたたかとはとても思えません。

 たしかにイエスさまは、こうおっしゃいました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と。そう言いながら、彼女の信仰を高く評価し、神さまの祝福があることを宣言なさいました。

 ありがたいことです。感謝すべきことです。イエスさまはそう言って彼女を受け止め、受け容れてくださいました。しかし、彼女の真意は? 別の味方をしてみましょう。

4.

 先週の礼拝でわたしたちが思い起こした宗教改革者マルティン・ルターは、他の人間との比較ならばいざ知らず、完全な義である神さま、まったき愛である神さまの前では、自分という人間はなんら誇るところのない人間であること、否、それどころか、むしろどこまでも自己中心的な罪ある人間に過ぎないこと、どんなに努力しても自力では自分の救いを勝ち取ることなど決してできない人間であることをはっきりと認めざるを得ない人でした。ですから、救いのためには自分が持っているものはゼロでしかない以上、神さまの前に差し出すことのできるものと言えば、ただ一つだけです。それは何かと言えば、自分の破れ、欠けです。自分の弱さであり、醜さです。そうです、神さまに対しては誇ることなどなにひとつできはしないのです。持っているのは、自分の罪だけなのです。

 あの金持ちの男たちのように、賽銭をジャラジャラと大きく派手な音を立てて投げ入れては、周囲の人に向かって、ということは実は神さまに向かって、自分の豊かさをひけらかし、富を振りかざし、優越感に浸るのではありません。彼女が音もしないようにそっと入れたごく僅かの賽銭、レプトン銅貨二枚とは、自分の持っている物は無に等しいのですと、周囲の人にも、そしてなにより神さまに向かって、自分をさらけ出して告白しているのと同じではないでしょうか。自分は無です。ごく僅かであっても神さまに差し出して、これで救いを与えてくださいとお願いできるような物は何も持ってはおりません。ですから神さま、どうかそのようなわたしを憐れんでください。主よ、憐れみたまえ。そして、わたしを救ってください。わたしにできることは只一つです。あなたの御手にわたし自身をお委ねすることだけです。貧しいやもめの信仰とは、そういうものではなかったでしょうか。そうでなければ、ごく僅かなレプトン銅貨二枚を投げ入れるなど、世間的に見ればただ恥をさらすだけのことをどうしてわざわざ人前でするでしょうか。

 賽銭箱の前でこのことの一部始終をご覧になっていたのがイエスさまでした。

この出来事が起こった数日後、イエスさまは捕らえられ、裁判にかけられて、ゴルゴダの丘の上で十字架刑に処せられ、わたしたち人間の罪を一身に引き受けて贖いの死を遂げられました。それは、無に等しい者、ゼロでしかない者、否、マイナスの存在、罪ある者を救うためにです。自分が無であり、罪人であり、恵みによってでしか救われないことを知っている者こそ、最も救いに近い者です。最も神に近い者です。他の誰が気づかなくてもキリストはその人をご存じです。骨の髄までご存じです。それだけでなく、その人を受け容れ、愛し、救いへと導かれます。永遠の命という、これ以上ない豊かなキリストの富を与えてくださるのです。あの貧しいやもめはキリストのものなのです。アーメン