2021年12月6日月曜日

「道備えという生き方」 江藤直純牧師

 待降節第2主日 2021年12月5日 小田原教会

マラキ3:1-6;フィリピ1:3-11;ルカ3:1-6

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。

1.

 頑強そうな体つき、伸ばし放題のひげ面に眼光鋭く見詰める二つの目、服装はと言えばらくだの毛衣と革の帯、食べ物はいなごと野蜜。「荒れ野に叫ぶ声」という形容がまさにピッタリの、年の頃30歳ほどのこの男性の名はヨハネ。ザカリアの子ヨハネ、最近は洗礼者ヨハネと呼ばれています。

 人里離れた荒れ野に住んでいるからと言って、俗世間を離れて暮らしているからと言って、彼はけっして世捨て人でも隠遁者でもありません。人間嫌いでもありません。彼のほうから町や村に入っていかなかったにせよ、遠くや近くの町々村々の人のほうから彼のもとに訪ねてくるのです。しかも、彼の厳しい言葉遣いで語る話は、少しも耳障りのよいものでも、心温まる人情物語でもないのです。その真逆です。「悔い改めよ。悔い改めよ。罪の赦しを得るために悔い改めの洗礼を受けよ」と叫んでいるのです。聞けば震えあがらんばかりの鬼気迫る声です。「悔い改めよ。悔い改めよ」。魂を揺さぶります。

 来週の福音書の日課は、彼のもとに集まった人々に彼が何を語ったかが記されており、さらには彼が領主ヘロデの結婚問題で激しく責め立てたので、ヘロデが彼を逮捕し牢につないだことが述べられています。挙げ句の果てにヨハネは首を刎ねられてしまいます。人々には彼の「悔い改めよ」との迫りがどれほど重く厳しかったかが想像できます。

 このように話すと、わたしたちがよく知っている洗礼者ヨハネのイメージはいっそう強められます。人間の不義を少しも許さず、倫理的に正しい生き方をどこまでも求めているようです。そうすることが神の前に生きる人間の在り方だと主張しているようです。そうしなければ神の前に出る資格はないと言っているようです。

 たしかにそのような印象を受けます。そのことを否定するものではありません。しかし、彼ヨハネが宣べ伝えた「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とはどういうものなのか、今朝はそのことに深く思いを巡らせてみましょう。

2.

 ふつう「悔い改め」という言葉を使うのは、よほど悪いことをしたときに、そのことを深く反省し、後悔し、もう二度としないという決心をするときでしょう。とんでもない罪を犯したときもそうでしょうし、人を傷つけたり、取返しの付かない失敗をしでかしたりしたときもそうでしょう。ですから、日常会話でそう頻繁に使う言葉ではないと思われます。

 ところで、この悔い改めと訳されている言葉は日本語の聖書ではほとんどが「悔い改め」という言葉を当てていますが、一つだけ岩波訳は「改心」、心を改めるという訳語を当てています。同じ岩波訳でマルコとマタイでは「回心」、心を回すという訳語を用いています。「悔い改めよ」は「回心せよ」となっているのです。けれどもルカだけはとくに倫理的側面が前面に押し出されているという理由で、あえて訳語を変えて心を改める方の「改心」を選んだと注に書いてあります。

 では、原語のギリシャ語ではどうなっているかを見てみますと、「メタノイア」という言葉なのです。辞書を引きますと、「心の変化、悔い改め、改心」、そして「転向」と書いてあることに注目したいのです。名詞のメタノイアの元になった動詞では「考え直す、心を変える、悔い改める、改心する」などと記されています。

 なんだか大学の講義みたいになってきましたが、申し上げたいことはただ一点だけです。それは「メタノイア」は、ふつうはいわゆる悔い改めとか改心と訳されていますが、大元は「心を変える、転向する、向きを変える」という意味だったということです。心を変えれば当然そこから悔い改めにつながっていきますが、そもそもは心の向きを変えること、いのちの方向転換をすることだというのです。

 「心の向き」とはどういうことでしょうか。いくつか例を挙げてみましょう。

 皆さんは「成長」という言葉を聞くとどんなイメージを持たれますか。どんな印象を持たれますか。「柱の傷はおととしの5月5日の背比べ・・」。最近は子どもが歌う童謡には入っていないかもしれませんし、マンションの壁に傷をつけることも許されないでしょう。でも、ここにいらっしゃる皆さんには懐かしく思い出される端午の節句の頃歌う歌ですね。子どもの背が伸びることは成長の目に見える証しです。子どもに背の高さを追い抜かれるとホンネでは親は嬉しくなるものです。日本経済がかつてのように成長しないことに先行き不安を感じることもあるでしょうが、この場合も経済の規模が右肩上がりに大きくなっていくことが成長と思われています。これまた上向きの動きのことですし、背の高さも経済活動も成長するということは基本的に善、良いこと、プラスのイメージで捉えられています。

 ところで、先日若松英輔という人の本を読んでいたときに「植物的成長」という言葉に生まれて初めて出くわしました。「植物的成長」、これは木を見ればすぐに分かることですが、木の成長とはただ上に上に伸びていくことだけではありません。木は、ご存じのとおり、上に伸びると同時に、いえ、上に伸びるためには、下に向かって伸びていき、さらには地下で横にも広がっていくのです。下に、地下に、見えないところに潜っていくというか伸びていくことが上への成長のためには必須のことなのです。なるほど、これが植物の成長なのだと気づかされましたし、このことは植物の成長だけでなく人間の成長にとっても同じことが言えるのではないかと思わされたことでした。これはものの見方の大きな転換でした。

 ずっと以前に読んだ新聞記事に、ある人が「ウサギとカメ」の話しをある子どもにしたときのビックリした思い出が書いてありました。どなたもご存じのウサギとカメの話しですから今更ストーリーをおさらいする必要もないでしょう。油断をして眠ってしまっていたウサギと違ってカメは一生懸命歩き続け、ウサギを追い越し、とうとう先にゴールインしてしまったのです。わたしが中学生の時に英語で読んだこの話は、今も忘れない次の一文で締め括られていました。Slow and steady wins the race. ゆっくりこつこつであっても地道に努力すれば最後には競争に勝利するとでもいった意味でしょうか。こういう教訓、人生の教訓が子ども向けのお話しにも込められているのですね。

 この話をした大人がビックリしたのは、それを聞いた子どもが怪訝な顔をしてこう尋ねたからでした。「ねえ、おじさん。そのカメはどうしてウサギを起こしてあげなかったの?」。そんなことをしたら、カメは競争に負けてしまうではないかなどと言ったとしてもその子はきっと納得しないことでしょう。その子どもにとっては、カメには別の選択肢があったと思えて仕方がなかったのです。

 それからまたずっと後に、ある知的障害者の施設から募金のお願い状がわたしのもとに届きました。その募金趣意書にはいわゆるお願いも書いてありましたが、園で暮らしている子どもや青年たちのエピソードも綴ってあって、こういうことを大事にしている施設だから支援を頼むということでした。そのエピソードの一つはこうです。地域のスポーツ大会に施設の青年もマラソンに参加したそうです。ところが彼は運動は得意ではなく、後のほうを走っていたところ、前を走っていた地元の青年が急にお腹が痛くなってしゃがみ込んでしまったのです。するとあとからやっと追いついてきた施設の青年は近寄ってしゃがみ込んでいる青年の背中やお腹を懸命に優しくさすっているというのです。暫くしてからやっとその人は起き上がり、施設の青年は彼と一緒にゆっくり歩いてゴールに向かったそうです。もちろんその時二人は他の選手たちからずっと遅れてビリだったのです。募金趣意書には園長先生がそのエピソードを嬉しそうに、むしろ誇らしそうに綴っていたのでした。

 ウサギとカメの話しを不思議に思って訊いた子どもも、マラソンで勝つことよりもお腹が痛くなって困っている人を助けようとした青年も、いわゆる競争社会ではおそらく勝利とは縁がないかもしれません。勝ち組ではなく負け組でしょう。でも、彼らには、彼らが大切にしているもう一つの価値観がある、彼らが生きているもう一つの世界がある、彼らにとって大切なもう一つの人間関係がある――わたしはそのことに改めて気づかされたのです。

 人生で何が大切なことか、どちらの方向を向いて生きるか・・・そのことを深く考えます。その時に、こっちではない、あっちの方向に向きを変えよう、方向転換をしよう、そう決心することが「メタノイア」なのです。

3.

 そう言えば、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」を訴えたヨハネが言うところの「罪」ということもこの際考え直さなければなりません。罪というとわたしたちはすぐに犯罪ということを連想します。悪いことをしてしまったときそれを罪と言います。行為の倫理性、心情の道徳性と結びつけて罪を捉えがちです。それは間違ってはいませんけれども、実は肝心要のことではないのです。

 またまたギリシャ語ですが、罪の原語は「ハマルティア」と言います。辞書を引くと、「失敗、過ち」そして「罪、罪の行い」などと説明されています。しかし、その動詞の形ハマルタノウは「標的に当て損なう、し損じる、誤る、過ちを犯す」となっています。ハマルティアとは「弓を引いて矢を放っても標的に当て損なうこと」、端的に言えば「的外れ」のことなのです。飛んでいく矢の方向が間違っていると、的にはけっして当たらないのです。問題は標的に正しく向き合っているかどうかなのです。正しく向き合っていないならば、的に当たらないのです。まじめかどうか、一生懸命かどうかではないのです。標的に当たるためには正しい方向を向いていないといけないのです。ですからそこで必要なことはほかでもありません、「メタノイア」なのです。方向転換です。

 洗礼者ヨハネが声をからして多くの民衆たちや兵士たちに、指導的な宗教家たちに、さらには権力をもつ領主にさえも訴えていたのは、生き方の向きを変えよ、人生の目標目的に到達したければ方向を根本的に転換せよ、自己中心ではなく神中心に生きよ、そのことが人間にとって根本的に大切だということに気づきなさい! このことでした。もろもろの行為はそれに伴って出てくるものなのだから、結果として出てきてしまった行為の一つひとつの是非善悪の反省とそれによる悔い改めだけを考えるのではなく、大元の生きる向きを転換するのだ! このことでした。

 では、どうしたらその方向転換「メタノイア」ができるのでしょうか。ルカは4節から6節にかけてイザヤ書にある預言者の言葉を、ヨハネの登場の記述の直後に、語っています。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。でこぼこの道を、ぐねぐねと折れ曲がった道をまっすぐで平らな道にせよとの主の言葉は、いつ、どんな状況で語られたのでしょうか。ルカが引用しているのはイザヤ書40章の3節から5節です。その預言の言葉が語られた状況は1節と2節に明らかです。旧約の1123頁です。小見出しは「帰還の約束」です。帰還とはどこからどこへ帰ることでしょうか。イザヤ書にはこう記してあります。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ」。なんとこれは「慰めの言葉」だというのです。主は何とおっしゃるのでしょうか。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と」。苦役の時、すなわち紀元前586年からほぼ半世紀の間、正確には48年間にわたって、バビロニア帝国にユダヤの主だった人々は連行され、バビロン捕囚と呼ばれる民族的な大きな苦しみを経験したのですが、神さまはそのもととなった罪を赦し、故国に帰ってよいと解放してくださったのです。だから「慰めよ、わが民を慰めよ」なのです。彼女の、神に背いた民族としての罪と咎は「償われた」と宣言してくださったのです。「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」のだから、さあ心安んじて故国に帰還し、今度こそ神の御心を心とし、神の御旨に従い、神を中心とした新しい生き方を始めなさいと慈しみ深く語りかけてくださったのです。

 そのような神の恵みが、神の赦しの愛がすでに与えられているのだから、あなたたちは神さまのために広く、まっすぐで、平らな道を備えよと預言者は語るのです。もう一度言いますが、神のあなたがたへの赦しの恵みと愛、これが先で、だからあなたがたは神へと方向転換をし、メタノイアして、それにふさわしい生き方をしなさいと招いておられるのです。そのことの象徴が広くまっすぐな平らな道です。

 でも、そのようにイメージでやや抽象的に語られても、今ひとつピンと来ないのももっともです。ですから、わたしたちの生きる道とは何かを聖書の中に見出しましょう。するとあるではありませんか。ヨハネ福音書の14章の6節にこう書いてありますね。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。わたしとはイエスさまのことです。イエス・キリストは道である。この道へと方向転換し、この道を歩いて行けば、さっそうとでものろのろとでもとにもかくにもこの道を歩いて行きさえすればいいのです。「わたしは道である。・・わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハ14:6)。言い換えれば、わたしを通って行けば、必ず父のもとにたどり着ける。父なる神の側から近寄ってきてくださる。だから、さあ、この道へと、この方向へと生き方を転換しよう、「メタノイア」しよう――洗礼者ヨハネはこう呼びかけているのです。そうすれば、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3:6)のです。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。