2023年6月25日日曜日

礼拝メッセージ「神を畏れ、人を恐れない」

 2023年06月25日(日)聖霊降臨後第4主日 岡村博雅

エレミヤ書:20章7〜13 

ローマの信徒への手紙:6章1b〜11 

マタイによる福音書:10章24〜39

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音は、主イエスが弟子たちを伝道に派遣なさった時の言葉です。福音の中心は27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」というところにあると思います。

 主は今や「暗闇で」つまり弟子たちに対してひそやかに語ったことを、「明るみで」つまり公にすべきだとおっしゃいます。主はご自分が救い主であること、また、どのようにして人々に救いをもたらすのかということを、これまではひそやかに語ってきましたが、今やその真理を世界中に言い広める仕事を、ご自分だけでなさるのでなく、弟子たちに委ねられました。弟子たちにはこれから迫害と苦難が待ち受けていることが予告されます。しかしそこで怯んでしまうのではなく、信仰を告白し続けるようにということが勧められます。そのために、「恐れるな」という言葉が3回繰り返されています。

 弟子たちは主イエスの福音宣教に従って旅をしながら、彼らは現実の無関心というか冷淡さにぶつかって、がっかりしたり、無力感にとらわれたりすることが多かったのではないでしょうか。この福音は10章から始まっていてその続きですが、弟子たちだけを宣教に送り出すにあたって、主イエスは勿論そういう弟子たちの遭遇するであろう困難を承知しておられました。だからこそ、今日の福音はそういう弟子たちが恐れないで宣教に出かけられるようにと弟子たちを励まし、また鼓舞しておられます。

 今日の福音の24節で「弟子は師にまさるものではないのだから、弟子は師のようになればいい」と言って、まず、弟子たちを安心させていますね。イエスさまは、きっと肩に力を入れず、ほうぼうの自然や景色を眺めて楽しんだり、疲れれば湖を渡る舟で居眠りもしたり、招かれたところで皆と食事をしながら笑い、人々の体や魂を癒やし、貧しく低くされた人々を憐れんで力づけられたことでしょう。主はあなた方は自分ひとりでミッション(使命)をおこなっているのではない、私が共にいる、だから恐れるなと励まされます。

今日の福音書のなかでは、そのミッションに派遣されるにあたって弟子たちは恐れることはないということについて主は3つの理由を挙げておられます。

その第1は「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という真理です。主はこの言葉によって人間がどんなに福音を抑圧して、押し込めても、いつか必ず、そういう障害を突破して、外に表れ出てくる。いわば神の真理は、不滅であることを示されます。福音は必ず、いつか表れ出てきて人々に効果を及ぼす、これをちゃんと信じよということだと思います。

 主イエスはこの福音の力を信じるがゆえに、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と命じられました。主の命令に従って弟子たちは大胆に信仰を告白して宣教に励んでいくことができるわけです。

 旧東ドイツではソビエトの支配下で弾圧されていた自由と民主主義が次第に力を蓄え、芽を出し、ついにベルリンの壁崩壊につながったことが思い浮かびました。権力者たちは自由思想を弾圧し、音楽や旅行までを厳しく制限してきました。しかし、市民が自由を求めるその魂を抑圧することはできませんでした。マタイの表現を借りるなら、人々は自由に対する魂の叫びを明るみで叫び、屋根の上で言い広めたということですね。

 次に「恐れるな」という第2の理由はこういうふうに書かれています。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」というのです。

 この言葉は、何よりもまず神を恐れ敬うのであれば、それ以外のどんな恐れからも、むしろ解放される。なぜなら神が死者を復活させる力を持っているからだと主はおっしゃいます。そして、弟子たちにその復活の力に信頼することがまず一番大事なのだと教えられます。

 そして第3番目の恐れるなと言われることの理由は、それは神が最も小さなものをも漏らすことなくいつも配慮して心にかけてくださっているということです。一アサリオンは最小のローマの小銭で10円とか20円にあたりますが、それで雀が2羽買える。そんな雀にしても、神の配慮によって生きてちゃんと自分の生活を送っている。そのような自然界にある小さいことにも主は弟子たちの目を向けさせ、神の深い命への慈しみに気づきを与えます。

 このような励ましを受けた弟子たちは後になって主の復活後に始まる苦難においても主イエスへの信仰を告白し続けます。

 今の時代に日本に生きる私たちは、弟子たちのような迫害こそ受けませんが、生きる上にはいろいろなことで困難もあり忍耐が必要ですね。しかし、最後まで主イエスへの信仰を告白し続ける者だけが、最後の審判の時に主イエスの仲間だと認められると主はおっしゃいます。そして、それを目標に、それを心の糧にして、進んでいきなさいということが今日の福音では言われていると思います。

 人々を恐れるなという言葉は第1朗読のエレミヤの預言の中でも言われています。エレミヤは20章11節で「しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます」という言葉を語っています。ありとあらゆるわたしの恐れに対して、主なる神は共にいてくださる。神は「いつもわたしはあなたと共にいる」ということを言っている神なのだというわけです。その神の言葉と神の実在、そこに信頼をおいて生きる、それがとても大事です。

 そして32節に「人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者」とあります。これは人の前で主イエスを賛美するという意味です。それは主イエスをほめたたえ、救い主と信じて、心から受け入れるということです。「信仰を持つ」というのは、自分自身の思いや考えにとらわれないで、何よりも主イエスを認める、主イエスをほめたたえるというこの一点に尽きます。主イエスをほめたたえ、救い主と信じて、心から受け入れるとき恐れから解放されます。神以外の何者をも恐れなくなります。

 信仰に生きるということは、主の恵みと祝福に与ることです。信仰に立って築き上げる親子関係、夫婦関はすばらしいものです。しかし信仰によらない肉の関係では、多くの事件につながることを私たちは知らされています。

 神を真実に恐れることを知る者を、主は受け入れてくださいます。主は私たちの名を呼んで、父なる神にきっとこう言ってくださいます。「この◯◯は、まだ不信仰です。まだ依然として恐れを抱き、まだ罪を犯します。まだ成すべきことを成しきらない、怠りの中に生きています。しかし、どうぞ滅ぼさないでください。この者は私のものです。」そう言ってくださいます。

私たちは罪赦されて恵みのもとに生きているわけですが、それはまだ完成されているわけではありません。私たちは依然として罪を犯し続けています。しかし、罪を犯し続ける私たちの現状からの脱却をパウロは今日の箇所で語っています。

 6章1節に「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」とあります。これは神からの一方的な恵みによる赦しの恩寵を説いたパウロの信仰を逆手にとった考えです。「赦されるのだから、罪を犯しても大丈夫」という信仰態度です。パウロは誰もがそこを間違わないように全力でチェックします。2節「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」とパウロは続けます。そして「私たちはキリストと共に罪に死んだ人間だ。罪に対して死んでいるものが、どうして罪の中に生き続けることができようか、いやできない」というのです。

 ローマ書6章の今日の箇所でパウロが述べていることをまとめるなら次のようになるでしょう。「罪の赦しは現状のままの赦しだ。あるがままで救われるのだ。けれどもその救いの中には力が込められていて、その赦しの中に込められている力が、あるがままの私たちを作り変えて、新しいあり方に変えていくのだ」と、そのように言っているのです。

 主によって宣教に送り出された弟子たちは、失敗し、罪を犯し、それでも赦しに与って、どれほど悔恨と感謝の涙を流したことかと思います。私たちもそうしながら弟子たちのように霊的に深められ成長してゆきたいと願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年6月18日日曜日

礼拝メッセージ「憐れみの主」

2023年6月18日(日)聖霊降臨後第3主日 岡村博雅

出エジプト記:19章2〜8 

ローマの信徒への手紙:5章1〜8 

マタイによる福音書:9章35〜10章8

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 今日の福音書箇所に、主イエスは群衆が「弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)とあります。この主イエスの心の内はどのようでしょうか。

 私たちは、悲しいこと、苦しいこと、また腹の立つことにも出会わずに生きていくことはできないことを思います。日々の身近なことばかりではなく、国内に目を向け、世界に目を向ければ、悲しく痛ましい事件が次々に起こっており、報道を通じて弱り果て、打ちひしがれている人々の姿を目にします。私たちの良心はそんなとき「主よ、私たちはどうすればよいのでしょうか、何ができるのでしょうか」と自問します。

 そんな私たちのために、今日の福音は主イエスがどんな思いで人々をご覧になり、人々に寄り添おうとなさったか、その主の心の内を知ることで私たちが弟子として主に倣えるようにと促されていることに気づかされます。今日与えられた箇所から聞いてまいりましょう。

 マタイは福音書の初めのところ4章23節と今日の9章35節で主イエスが人として地上にあった時の働き全体をまとめて、ほぼ同じ言葉でこう述べています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。

 こう言った後でマタイは最も大切なことを語ります。彼は主がご自身の活動を通じて人々をどのように見て、どう感じたかという、主イエスの「深い憐れみ」について語っています。36節、主は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と。この人々への「深い憐れみ」とは「深い共感」と言い換えてよいと思います。この深い共感こそが、主イエスを主イエスたらしめるものです。キリスト者とは、この主イエスの憐れみのこころを、深い共感を自分のものとしていけるようにと祈り願う者です。

 ところで旧約聖書の時代イスラエルの人々は神をどのように見ていたのでしょうか。旧約日課の出エジプト19:5に「今、もし私の声に聞き従い、私の契約をまもるならばあなた達は私の宝となる」とありますが、古代イスラエルの人々は、「神は聖なる方であり、万物の主である。罪を犯すものは罰し、掟に忠実なものには豊かな報いを与える」という、そういう契約を結ぶ神だと理解していたことが旧約聖書全体から分かります。

 しかし預言者エレミヤは、繰り返し神に背くイスラエルに対して、神は理屈なしに心の底から深く憐れみ揺り動かされてしまう方だと伝えようとしました。

 そして神は、神の人間への憐れみそのものである独り子主イエスをこの世に送ってくださいました。主イエスは神が義の神でありながら、至らない者、過ちを犯す者をも深く憐れみ、愛のゆえに辛抱強く待ってくださり、赦し、救ってくださる方であることを、身をもって知らせてくださいました。

 弟子たちの派遣に触れる今日の福音は、この主イエスによる救いの働きが、まず12弟子たちに託された次第を語ります。そして今や人々の魂への働きが、聖霊の助けによって、教会に招かれている私たちに託されていることを語ります。

 さてマタイ福音書に戻りますが、弟子たちを宣教に派遣するという事になったのは、主が「弱り果て、打ちひしがれている人々を見て、深く憐れまれた」からでした。主は弟子たちに言われました。「収穫は多い」、「収穫のために働き手を送ってくださるように、神に願いなさい」(37,38)と。

 まったくそうです。助けを必要としている人は多いが、働き手が少ないのです。今、この時にも戦闘下にある国や地域では抑圧する者も、抑圧される者もふらふらになっていると思います。それだけでなく、私たちの身近でも、やはり生活や健康に多くの不安を覚えている方々が多々あるのではないでしょうか。そのような私たちの社会にはどうしても人を助ける者、導く者が必要です。

 苦しんでいる人達というのは、むしろ救いのすぐ近くにある人達だと言えます。ですが、例えば殻を破り卵からかえろうとがんばる雛鳥を親鳥が助けるように、外から殻を突っついてやる、そういう人が足りない。だから、そういう人が与えられてくるように、神に祈りなさいと主は言われるのです。

 9章はそういうふうにして終わるわけです。そしていよいよ祈りが聞かれて、その働き人が与えられた。今度は主イエスが働き手である12弟子を送り出す話が10章というわけです。今日の福音はそんな位置づけがされています。

 主イエスは12弟子を呼び寄せて、彼らに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすための権能をお授けになった」とあります。マルコやルカにも弟子の派遣の話があって、ルカは72人を派遣したと言いますが、弟子の派遣についての要点は、人数ではなく、「権能をお授けになった」というその「権能を授ける」ということにあります。

 マタイは10章7節以下で「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と述べます。その通りに読むと、これはまさに主イエスがなさっていたことの全てです。ですから、主イエスは弟子たちに、主がなさっていたことと同じことができるという権能を授けた、弟子たちにご自分と同じ神の子の力を委ねられたというふうに読めます。

 でも私たちは、それはイエス様だからできたけれども、私たちはイエス様ではないから、とてもイエス様と同じことなどできないと思う。もしそこで権能を委ねられた者として責任も問われるとなれば避けたくなるでしょう。

 しかし主が弟子を派遣するという主イエスの宣教はそういう責任論ではありません。現代において病気を治すのは医学の領域のことです。しかし、その人の魂の領域において主の権能は今も働きます。その人の魂の痛みや悲しみに寄り添い、癒すことを主イエスは私たちに求めておられるのです。

 主がまず言われたことは10章7節「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」ということです。

 主イエスが弟子たちに権能を授けられるのは、まずこの神の愛、神の力を人々に伝えるため、あなたは神に愛されていると伝えるためです。主イエスは神が創造してくださった大地に立って、弟子と同じ、人としての弱さをもって生きるなかで、教え、また数々の業をなさりながら働かれたわけです。

 主は12弟子たちにも人としての弱さや限界があることをじゅうじゅう承知のうえで派遣されたのです。だからあなたは主の名によって、つまり主の愛と一つになって、神の愛を伝え、祈りをもって病人の魂をいやし、死んだも同然だった人を生き生きとさせ、悪の思いから解放しなさいと言われるのです。

 弟子たちは、出て行った先々で触れ合った人々から様々なことを学んだと思います。当然失敗があったでしょう。しかしそれでもくじけず、弱り果ててしまった人々への深い共感を続けることを主は弟子たちに期待しておられたに違いないのです。主ご自身が深く憐れまれたようにです。それこそが主イエスから弟子たちへの大きな期待でもあるわけです。

 今日、主イエスはそのように私たちを世に派遣されます。私たちを派遣するにあたって主イエスはただ派遣するのではありません。主は私たちが出ていった先々で恵みの体験ができることを知っておられ、また期待しておられます。そして希望に溢れて派遣してくださいます。

 使徒パウロは、ロマ書5章1節から5節で、どんなに困難な状況にあってもそこには主にある希望があることを語ってくれています。そして、その根拠は「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからだ(ロマ5:5)」と宣言しています。「聖霊による神の愛」これこそが主イエスが私たちに委ねてくださる権能の源、主の憐れみの源です。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年6月11日日曜日

礼拝メッセージ「あるがままで」

 2023年06月11日(日)聖霊降臨後第2主日 岡村博雅

ホセア書:5章15〜6章6 

ローマの信徒への手紙:4章13〜25 

マタイによる福音書:9章9〜13

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音はこのマタイ福音書を書いたと言われるマタイが主イエスから「わたしに従いなさい」と弟子になるように招かれたときのエピソードです。しかしこの短い物語の主人公はあくまで主イエスです。主がくださる深く貴い神からの憐れみです。この憐れみについては皆さんはすでに式文にある「キリエ」でご存知のことかもしれませんが、かわいそうと思うというより、深く共感することと言っていいと思います。

 私たちは苦しみの時、悲しみにある時には家族や友人などに共感してほしいと願いますね。しかしそのような時、主に祈り求めるとき、主は必ず深く胸を痛めて私たちに共感してくださいます。どういう方法でかはわかりませんが、わたしたちは真の慰めを受けることができます。私たちはすでに神からの憐れみの内にあります。今日はその恵みに与っているということを聞きとっていきたいと願います。

 弟子たちは主に召されたわけですが、その召しには違いがあることに気付かされます。主イエスはペトロとアンデレ兄弟を弟子に召されたときには、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)とおっしゃり、漁師だった二人は網を捨てて従ったとあります。それに比べ、マタイの場合は極めてシンプルです。主はマタイが収税所に座っているのを見かけて「わたしに従いなさい」と言声をかけ、「彼は立ち上がって」主イエスに従った。それだけです。

 漁師だった二人は、また漁師に戻ることができます。事実主イエスの死後に彼らは再び漁師に戻ります。しかし、マタイは一旦収税所を出れば、自分が二度と徴税人に戻れないことは自分自身の自覚から明らかだったと思います。マタイの覚悟は後戻りのない厳しさを伴うものであったと思われます。

 徴税人というと、ザアカイの物語を思い出しせんか。徴税人は支配者であるローマにへつらい、またいなおって、あこぎなことをしながら、ローマの手先になってユダヤ人同胞から税を取り立て、それを支配者に収めることを生業としていました。ですから、徴税人はユダヤ社会の嫌われ者です。ユダヤ人同胞からは裏切り者、罪人とさげすまれ、憎まれていたことが思われます。

 おそらく主イエスはマタイが収税所で座っている様子を一目見て、この男の心に深く根を降ろした苦しみを見抜いたのでしょう。能力があり、ローマの権威を笠に着て金に困らず、しかしユダヤ人同胞からは屈辱的な扱いをされている。そのマタイの心は自分では抜け出そうにも抜け出せない卑屈で自虐的な自己顕示に満ちていたのではないでしょうか。

 福音書の9節、主イエスはそんなマタイを一目見かけるなり声をかけ、マタイも主の声にそのまま従った。この「主は私を召し、私は立ち上がった」という出来事は彼にとってまったく奇跡的なことだったのではないかと思います。マタイは、それが確かに自分の身に起きたと証する自筆のサインのようにそれを記しました。そしてマタイは主イエスとともに在る喜びを、主の福音を「マタイによる福音書」として私たちに伝えました。

 注解書によれば、「マタイ」とは「主の賜物」という意味です。彼の生来の名は「レビ」です。主に弟子入りした「シモン」が「ペトロ」と呼ばれたように、生粋のヘブライ人である「アルファイの子レビ」(マル2:14)は弟子入りして「マタイ」というギリシア語の名を与えられたと考えられます。

 主に従ったそのマタイがまずしたことは、主イエスを必要としている人々を自分の家に招いて盛大な宴を開くことでした。10節にその宴の席には「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた」とあります。

 ここで罪人と言われるのは、律法学者たちの教え通りに生活することがあまりにも困難で律法を守ることができない人たちです。ユダヤ教の口伝律法には数多くの規定や指示があり、戒律や義務だけでも613個もあるといわれますから、その日暮らしで賢明に社会の底辺で生きている人々、娼婦や、盲人、障害者などを含む罪人とされた人々がファリサイ派のように教えに従って生きることなどとうてい不可能でした。また徴税人は豊かですが、仕事柄異邦人と触れて汚れているということで罪人の代表でした。主の弟子となったマタイはそういうユダヤ社会から分断された人々が主イエスと交わり、主の慈しみに触れてもらう機会を作りたかったのでしょう。

 11節に大勢が笑いさざめくあり様を見たファリサイ派の人々が「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難します。

イスラエルでは共に食事をすることは深い意味を持つといわれます。他人を食卓に迎えることは、その人を尊敬しているしるしであり、その人への信頼と友好と赦しの確認であり、神の前で一つであることを表すしるしだといわれます。

 けれどもファリサイ派の人々は、罪はその人と交わることによって伝染すると信じており、自分が汚れないように罪人との間に距離を置いて遠ざけ、決して罪人とは交わりませんでした。

 ですから彼らにとって、主イエスが、罪人と言われて見下されていた人たちと席を共にすることは、彼らのしきたりに真っ向から反することで、我慢のならない、断罪すべき行いであったわけです。

「なぜ、罪人と一緒に食事をするのか」と問われた主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われました。主は、マタイも、ここに招かれた人々もみな神の前には罪人であると認めます。しかし、罪人とは、人が断罪して、交わることを避けるべき相手ではない。

 罪人は神に癒やされるべき病人なのだと彼らの霊的な理解が不足していることを指摘されました。そして、主イエスはファリサイ派の人々に対して、ホセア書6章6節を引用して「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とおっしゃって、神は神殿の祭儀に忠実であることよりも、彼らが分け隔てなく隣人を愛することを求めておられる、預言者ホセアはそう伝えているではないかと諭されました。

 主イエスが罪人と食事を共にしたのは、彼らに神からの愛情と憐れみを深く感じとってもらうためです。神の救いを表すためです。彼らは一緒になって、笑いあい、くつろぎあいながら、なんの偏見もない優しく豊かな主の心と、また、踏みつけにされている彼らの痛みと悲しみへの主イエスの深い共感を感じ取って、主の愛に心を動かされたことでしょう。

 最近はよく「共生」という言葉が聞かれます。「共に生きる」と書きますが、主イエスはすでに2000年前の、偏見と差別に満ちたユダヤ社会において、社会的弱者との「共生」を示しておられたと理解することができます。

 ちなみに、ルーテル教会では様々な施設を通しての働きによって共生を目指す試みが続けられていますが、そこにはなんと言っても、主イエスの貧しい人々、小さくされた人々への慈しみの眼差しに倣うということが共通していると思います。言い換えるなら、神が創造なさった人間とは、人種によらず、国籍によらず、性別や信条によらず、障害のあるなしにかかわらず、あらゆることで差別されず、偏見で見られず、主の名によって歓迎されている一人ひとりだということを主イエスは示してくださったということです。

 最後になりますが、13節の「行って学びなさい」と言われたその「行って」という言葉は「出て行け」という意味です。主はファリサイ派に対して「あなたがたは自分が立てこもっている信仰の砦から出なさい」、自分にとって美しい場所、潔癖を守れる場所、道徳を守れる場所、そう思っている場所から出て行きなさいと言われたのです。

 主イエスは、マタイが収税所から立ち上がって出て行ったように、私たちにも、あなた方も自分の信仰の砦から出て、差別と偏見を捨てて、真実の憐れみを学ぶことができる場所へ行かなければならないと促しておられます。

 なぜなら、ありのままの私たちは決して公平ではなく、人を偏り見るものだからです。また、私たちはいつも充実していて元気で毎日を生きていくことなども不可能です。主はそのことをよくご存知ですから、あなた達にはいつも医者が必要だとおっしゃったのですね。マタイは医者を必要としていました。そして救われました。もしマタイが、主から共感による憐れみを受けず、悔い改めだけを要求されていたなら、マタイの中に主に従うという奇跡は起きなかったのではないかとすら思います。主はまことに神の憐れみそのものです。だからこそ「わたしに従いなさい」と私たちを招いて、私たちを救ってくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年6月5日月曜日

それでも疑う。それでも共にいる。 

2023年6月4日 ルーテル小田原教会 江藤直純牧師

創世記1:1-2:4; Ⅱコリ13:11-13; マタイ28:16-20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 「信仰」という言葉を聞くと、日本社会では口に出しておおっぴらには言いませんけれども、どこか浮世離れしている感じを持たれたり、日常生活や実生活とはあまり縁がないようなものと受け止められがちです。科学技術が飛躍的に進歩し、やれITだやれAOだという今の世にはおよそ時代遅れのように思われているのではないでしょうか。

 しかし、そういう風潮であっても、いいえ、そういう風潮だからこそ、マザー・テレサとか中村哲とかといった生涯かけて全身全霊を傾けて神を信じ隣人に仕えるキリスト者を知れば尊崇の念を持ち、あるいはそれこそ命懸けで千日回峰の修行を成し遂げるお坊さんが出ると阿闍梨と呼び生き仏として崇めたりするのも確かです。使徒パウロとか先年宗教改革500年を記念したマルティン・ルターにも、今年生誕850年を迎える親鸞聖人にも正直心を打たれるのです。彼らの生、いのちのありようや生き方は自分にはおよそ理解もできなければ、とてもとても及びもつかないけれども、そこにはたしかに「真実」があると思えるのです。「本物の人間」を垣間見るのです。「信仰という世界」を本気で生きている人、利害損得も世のしがらみもかまわないで、大いなる方の前であくまで謙遜になり、信じるところに向かって誠実に歩む真摯な「信仰者」の姿を前にして、世間の人々は畏敬の念、畏れ敬う思いを抱かないではいられないのではないでしょうか。「信仰」あるいは「真実の信仰者」を色に譬えるならば、私には、澄み切った青空の光のような無色透明、あるいは明るく、清らかで、眩しくて、ある種神々しく、凜とした佇まいを見せる「純白の色」のように思えます。

 それと比べると、「疑い」という言葉は暗い、ネガティブな、あるいは時として弱い印象を帯びています。本来ならば一途な信仰、全幅の信頼、固い信念のほうがどう考えても望ましいと思われるのに、何かがそれを遮り、妨げているのです。蛇の誘いだったりサタンの唆しだったりの場合もあります。自分の理性に因る探究の場合もあります。それが「疑い」という心情であり、「疑う」という行動なのです。「信仰」が白なら、「疑い」は灰色でしょうか。グレーの濃淡はさまざまでしょう。ほとんど白に近い淡いグレーもあれば、ほとんど全否定とか憎しみとか敵対心さらには死をも表す黒に近い濃いグレーもあるでしょう。灰色の度合はいろいろあることでしょうが、はっきりしていることは灰色は純白ではないということです。

2.

 今朝どうしてこういう話しをし始めたかと言いますと、今日の福音書の日課に、「信仰と疑い」、「信じる者と疑う者」についてのごく短いけれども非常に興味深い言及がなされているからです。主イエスの十字架と復活の後、「11人の弟子たちは」彼らの故郷、ガリラヤに戻り、生前イエスさまが指示なさっていた「山に登った」のでした。あの山上の説教が語られた山だったでしょうか、山上の変容の舞台ではないかと言われているタボル山でしょうか。エルサレムのずっと北方のガリラヤ地方ということ以外は分かりませんが、ガリラヤは彼らのイエスさまとの出会いと活動の原点です。山は神が自己顕現なさる場、人との出会いの場であると言われていますので、主と弟子たちの地上での最後の出会いの場としては、「山に登った」という場面設定はどの山であれ、実にふさわしいことです。

 17節「そして、(弟子たちは)イエスに会い、ひれ伏した」と記されています。お辞儀をしたとか手を合わせたなどという姿勢ではなく、「ひれ伏した」というのは復活の主へのこれ以上ない真剣な礼拝行為です。仏教で言う五体投地にも匹敵する、全面的な最高の礼法だと言えるでしょう。弟子たちは頭も両手も両膝も地に付けて、畏れと敬いと服従の思いを表現したのです。信仰者としての心を体全体で表明したのです。

 しかし、マタイ福音書の記者は、驚くべきことを書いています。皆ひれ伏したのですが、「疑う者もいた」、幾人かは疑った、信じるのを躊躇った、と記しているのです。マタイに拠るならば、主が十字架の上での悲惨な最期を遂げられたので弟子たちは失意のどん底にたたき落とされましたが、復活の主はマグダラのマリアともう一人のマリアと再びまみえてくださり、彼女らを通して「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と弟子たちに伝えさせられたのです。ですから、エルサレムにおいてではなく、故郷であり、イエスさまと初めて会った地であり、宣教活動に数年間汗水流した地域、彼らの信仰の原点であるガリラヤで彼らは復活の主と相まみえることになるのです。事実、あの山の上で、復活の主とお会いできたのです。彼らは驚愕し、さらに歓喜に打ち震えながら、「ひれ伏した」のです。自分の目で懐かしの主の顔を見て、自分の耳で聞き慣れた御声をたしかに聞いたのです。約束されていたことは現実となったのです。信仰の世界が現にここに現れたのです。

 それなのに、「しかし、疑う者もいた」というのです。いったいどういうことでしょう。疑うなどとなぜそうなのでしょう。その場にいた弟子たちはみな同じ体験をしているのに、信じる者と疑う者に分かれたのです。疑った者たちは信じた者よりも一等劣っているのでしょうか。名前が書かれていませんが、疑った弟子たちとは誰のことでしょうか。もしかしたら、一人の人の中で信じることと疑うことが同居しているのかもしれません。もしも私たちが、もしもあなたがその場に居合わせたら信じたでしょうか、それとも疑ったでしょうか。両方でしょうか。そもそも疑うことはいけないことなのでしょうか。

3.

 ここに聖書と賛美歌があります。どちらも私のものですので、皆さんの聖書と賛美歌とは違います。個体としては違いますけれども、私のこの本も皆さんが持っていらっしゃる本もどちらも聖書であり讃美歌です。疑うまでもありません。疑うならば両方を並べてちょっと調べてみれば、どちらも日本聖書協会が発行した新共同訳聖書であり、日本福音ルーテル教会が出版した教会讃美歌であることは紛れもない事実であることがすぐ分かります。どちらもが新共同訳聖書であり教会讃美歌であることを疑う人などはいません。そもそも明らかな事実をことさらに信じるなどと大上段に振りかぶって言う、いわば信仰告白をする必要などありません。簡単に証明できるからです。

 では、私が信じ皆さんが信じている神さまが存在するということはどうやって証明できるでしょうか。聖書や讃美歌の存在のように表紙を見比べたり、中身を照らし合わせたり、いろいろな作業をして聖書と讃美歌であることを確認するように、神さまの存在を調べたり、確認作業をして、証明することはできるでしょうか。たしかに昔から神の存在証明ということは論理学とか宗教哲学とかでさまざまになされてきました。そうやって神は存在すると証明できたという人が地球上の90億人の中にはいるかもしれませんが、それで宗教が盛んになったとか、信者が増えたとか、平和が実現し幸福が広まったとかは聞いたことがありません。つまり、神さまが存在するという信仰の大前提というか基礎の基礎は、聖書や讃美歌やモノがあるというのと同じように扱うわけにはいかないのです。そうであるならば、信じる人がいて、信じない人あるいは疑う人がいても、それは当然なのです。

 先々週の日曜日は「主の昇天」を記念する主日でした。あの日の日課である使徒言行録の1章やルカ福音書の24章の記述は、復活のイエスさまが、あたかもロケットが宇宙に向けて打ち上げられて昇っていくように、地上から大空に向かって昇って行かれたと描かれています。西洋の宗教画にもそう描かれています。あなたはそれを信じられますか。

 もうかなり以前のことですが、人類が宇宙飛行というものができるようになったとき、最初の宇宙飛行士は「地球は丸く青かった」という言葉で報告をしました。別の飛行士は「天に昇ったけれども神さまはいなかった」と言いました。天には神はいなかったというのと同じ伝で言うならば、地球に深く穴を掘ったけれども地獄も黄泉の国もなかったと言えるかもしれません。大昔の世界観では、天は空の上にあり、人はこの地にいて、黄泉の国は地下にあるという三階建てになっていましたし、だからそう説明してきました。神さまのお住まいである天はこの空のずっと上にあるのだと。あなたはそれを受け容れ、信じますか。疑い、信じませんか。ある宇宙飛行士は、宇宙旅行の経験の後、キリスト教の宣教師になりました。

 今私たちはそういう三階建ての世界観を疑い、信じてはおらず、そのような世界観から解放されています。地球は丸いし太陽系の惑星の一つだと知っています。果てしない宇宙の広がりを、自分では行ったことはなくても学問的に教えられ、本や映画で見、またコンピュータが描くグラフィックデザインでその構造を目で見ることに慣れています。

 それなら、古い世界観を疑い、信じなくなり、そこから解放されたと同時に、神さまの存在も疑い、信じなくなったのでしょうか。いいえ、そうではありません。そうではなく、未だ有限な人間の知恵では捕らえきれない神の存在を何とかして新しい仕方、新しいイメージで捕らえようとしているのです。依然として私に語りかけ、挑戦し、生かし、人生を導くお方はいらっしゃるのです。依然として生きて、存在し、働いていらっしゃるのです。そのお方をより生き生きと、よりリアルにとらえるために、新しい世界観、宇宙観、人生体験を持つ私たちはその感性と霊性でもって生ける神をとらえようとしているのです。その出発点に疑うという命の営みがあるのです。

 日本で半世紀近くキリスト教の宣教師またカウンセラー、神学者として貢献なさり、90歳を超えた今もカリフォルニアに住みながら、日々思索し、著述しておられるケネス・デール先生が最近出版なさった書物がこの春に『神はいずこに』という題で翻訳されました。デール先生はこの本で神の新しいイメージを新しいたとえ(隠喩)を用いて縦横に語り、私たちに分かち合っていらっしゃいます。たとえば、その中に私たちを取り囲み、見えないけれどもそれがなければ生きていけない「空気」とか、魚にとってその中でしか命が維持される「水」とか、コミュニケーションを可能にする「電波」や「インターネット」とか、一つの秩序の中で働いている「引力」とか、さらには「光」とか「音」とか「炎」とか「太陽」とか、さまざま挙げておられます。それによって神さまとはどういうお方、どういう存在であるかを知るインスピレーションが与えられるのです。

 疑うことで古い思考の型から解放され、いのちの源であり愛である神の新しい理解、現代的感覚によりマッチする受け止め方、より生き生きとした、より意味深い信仰へと創造的に導かれるのです。神様はそのような人間のいのちの営みを喜んで許してくださいます。

4.

 弟子たちは「ひれ伏した」「しかし、疑う者もいた」、イエスさまはそのことを少しも意に介することなく、「近寄ってきて」(18)大切な使命を与えられます。「行って、すべての民を私の弟子にしなさい」「洗礼を授け」「教えなさい」(19-20)と。それを託されたのは100%「信じた人」だけではありません。「疑う者」にもです。疑っていい、真摯に疑いなさい、誠実に疑いなさい、神に問い続けなさい。そうすることであなたはきっと自分を縛っていた古い型から解放されます。新しい創造的な神関係に入れるのです。その日まで「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20)、これが復活の主イエスのお言葉です。これがキリストのお約束なのです。だから安心して疑っていいのです。疑うことは信じることと表裏一体です。光と影の関係です。私たちは信じますが、「それでも疑います」。たとえ私たちがそうであっても、主イエスは「それでも共にいてくださいます」。11人の弟子たちは、皆それぞれに使徒とされ、キリストの証人とされ、教会の礎石とされました。殉教してもこれ以上ない豊かな人生を送ったのです。「それでも疑う」、それでいいのです。なぜなら主は「それでも共にいてくださる」のですから。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン 

2023年6月4日日曜日

礼拝メッセージ「父と子と聖霊の愛なる神によって」

 2023年06月04日(日)三位一体主日  岡村博雅

出エジプト記34章4〜6,8〜9 

コリントの信徒への手紙二13章11〜13 

ヨハネによる福音3章16〜18

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 聖霊降臨の主日で復活節は終わりました。ルーテル教会では聖霊降臨後の第1主日を「三位一体の主日」として祝います。この日は、「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、霊的な洞察を深める日として位置づけたいと思います。主イエスの受難と死と復活を見つめ、聖霊降臨を祝った私たちが、神が私たちを救ってくださるその救いの出来事を振り返りながら、今日は父と子と聖霊の働き全体をご一緒に味わいたいと願います。

 今日の福音箇所は、ヨハネ福音書3章1節から始まる主イエスとファリサイ派の議員ニコデモとの対話の中で語られている言葉です。ファリサイ派は福音書ではしばしば主イエスに敵意を抱くユダヤ教の指導者として登場しますが、ニコデモはその中にあって主イエスの言葉に深く感銘していて、へりくだって主イエスに教えを求めた例外的な人物でした。彼は仲間たちと同様に神学的な教養は豊かでしたが霊的な洞察力に欠けていました。ニコデモは主から教えを受けたいと思い、ある夜、主を訪ねてきました。今日の福音はその時の主イエスとの会話です。

 今日は特に16節から18節に焦点を当てますが、その前に、主イエスがご自分の死の重大な意味を説明した13節から15節を見ておきましょう。主はこうおっしゃいました。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。

 この言葉の背景にあるのは民数記21:4−9の物語です。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野を旅したとき、彼らは指導者のモーセにそむいて罪を犯したため、毒蛇に噛まれて苦しみました。その時モーセは、神の憐れみを祈り願い、神から一つの青銅の蛇を作るように指示され、全ての人に見えるように、それを旗竿の先に掲げました。青銅の蛇を仰ぎ見た者たちは、命が助かったという物語です。この物語は、第一朗読の6節、神がご自分を宣言した言葉「主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち〔た者。〕」という言葉の具現化だと言えます。

 「神の憐れみ」を具現化した青銅の蛇のように、人の子である主イエスも、全ての人に見られるように、上げられなければならない。「人の子が上げられる」という言葉には、「十字架の木の上に上げられる」と同時に復活の主が「天に上げられる」という二重の意味が含まれています。そこには青銅の蛇の場合と同様に神の愛の具現化、ラビングアクションという意味があります。

 主イエスはなぜ「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」のか、それが15節、「信じる者が皆、主イエス(の十字架)によって永遠の命を得るため」です。では神はなぜそこまでしてくださるのか。それが16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からであり、「主イエスを信じる者が皆滅びないで、永遠の命を得るため」です。

 そしてこの16節の「お与えになった」というのは単に「イエスを世に遣わした」、「派遣した」ということよりも「神は我が子イエスを十字架の死に至るまで与え尽くされた」と受け取ることができるのではないでしょうか。

 「世」という言葉は、ヨハネ福音書では特に「神を知らず、神から離れたこの世界」を指します。主イエスは、しかし神は自分を裏切り背く、そういう「世の人々を愛された」のだとおっしゃいます。ですからこの世界は神に見放された世界ではなく、神が主イエスをとおして大きな愛をもって救おうとなさっている世界だということを私たちは確信しましょう。この神の愛に思いを深めたいと願います。

 18節の「裁き」は「断罪する」の意味ですから「信じない者は既に裁かれている」という言葉は厳しく響きます。「私の夫は、私の家族はクリスチャンではない。では裁かれてしまうのか」と、そんな疑問も浮かびます。しかし、この続きで語られる「光と闇」のイメージがそうした疑問に答えていると思います。

3章19-21節にこうあります。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。

 主の教えを聞いたヨハネは、神はその人が神に背いたからといって断罪なさらないと言うのです。神は圧倒的な光として主イエスを与え、闇の世を照らそうとされた。その光を受け入れたときに、そして家族などの内に輝くその光を受けたときに、人は救いの中に入っていきます。私は赦され、救われた体験があります。私たちは赦される体験を通して主の救いを知っているのではないでしょうか。しかし、その光を拒否するならば、結果として闇の中に留まることになるわけです。

 ヨハネは「闇の中に留まること」が「裁き=断罪されること(救いから外れること)」であると考えています。このようにヨハネが感じているのは、ヨハネ自身が闇の中で主イエスの光を見いだしたという、神の愛を感じたという体験を持っているからにちがいありません。

 16節の「与える」というのは、無償で何かをプレゼントすることですが、どんなモノよりも、その人のために時間を使うこと、その人と一緒にいて共に時間を過ごすこと、それこそが最高の愛だと、若かった私を一ヶ月に渡って家族同様にホームステイさせてくれた、あるクリスチャンの友人から教わったことを思い出します。“Love is time.”本当にその通りだと思います。

 主イエスは「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)でとおっしゃいますが、このことから「神が独り子をお与えになった」ということを考えてみて気づきました。「神が主イエスと一つであることにおいて、神はご自分のすべてを与えてくださった」のです。

 主イエスのなさったすべてのこと、主イエスの生涯のすべては、神が私たちと共にいてくださり、私たちにご自分のすべてを与えてくださったことの表れなのだと気づかされて、私は感謝に満たされました。

 主イエスの弟子たちは、神が二通りの仕方で人間を救おうとされたことを体験しました。一つは「主イエスの派遣」、もう一つは「聖霊の派遣」です。例えばニコデモとなさった対話のように、イエス・キリストという具体的なひとりの人間の言葉と生き方をもって、神は人に語りかけ、人が神に近づく道を示されました。また弟子たちは、主イエスと寝食をともにしながら主から教えを受け、主の全てから、神の愛と神の救いを知りました。

 一方主イエスが世を去って神のもとに行かれた後、弟子たちは自分たちのうちに働き、自分たちを導く内面的な力を感じ、それが生前、主イエスが約束なさった聖霊の働きだと分かるようになりました。聖霊はどの時代のどんな人の中にも直接働きかける神の力です。そうです。私たちの一人ひとりが聖霊の働きを受けています。心を静めてみてください。きっと聖霊の働きかけが感じられます。

  主イエスの父である神が、子である主イエスと聖霊を通して私たちに決定的な救いの働きかけをしてくださっています。初代教会の人々は、神が父として、主キリストとして、そして聖霊として、一つになって、つまり「三位一体」の神として自分たちに働いてくださることに深く気づきました。

  だからこそ使徒パウロはその手紙を「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という言葉で閉じます。愛と希望に満たされて、そうせずに居られないのです。

 また、私たちが神に向かって歩んでいこうとするときにも、この三位一体の愛が大切になります。キリスト者は「キリストの言葉と生き方」を見つめ、「聖霊という内面に働きかける神からの力」に支えられながら、父である神への道を歩んでいきます。

 しかし、このことはキリスト者はいつも正しく、品行方正で、模範的な信仰生活を送るものだということではありません。悩みの多いこの世に生きる私たちは「ああ、しまった!」とつい道を外すこと“しばしば”です。にもかかわらず、神は親心をもって、真の友として、癒やし、立ち上がる力として、私たちを支え、望み、愛し続けておられます。

 「父と子と聖霊」は不思議な気づきを持って日々私たちを闇から救い出し、光へと導いてくださっています。神は、私たちの日々に「父と子と聖霊」としてダイナミックに関わってくださっています。皆さんも祈りの中で感じておられることでしょう。「父と子と聖霊」である神、愛である神の働きに信頼しながら、祈りながら日々歩んでまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン