2023年11月26日日曜日

礼拝メッセージ「決定的なことは」

 2023年11月26日(日)聖霊降臨後最終主日  岡村博雅 

エゼキエル書:34章11〜16、20〜24 

エフェソの信徒への手紙:1章15〜23 

マタイによる福音書:25章31〜46

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今読んだ箇所はマタイ福音書では主イエスの最後の説教です。来週からは待降節に入ります。主イエスが再び来られる時、すべての国の人々が主の前に集められ、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:32)とあります。これはエゼキエル34章17節にあるように「最後の審判」についての古代からの表現ですが、ここで主イエスは世の終わりの裁きの様子を話されたのではありません。主は、神の目から見て何が決定的に大切なのかを示されたのです。ですからみなさん、今日はこの福音そのものを味わって受け取ってください。

 主イエスは羊と山羊を分けると話されました。実は山羊について、こんな話を聞きました。日本の離島などでは山羊を放し飼いにしておいたりするそうです。山羊はたくましくて、放おって置いても増えるので、増えたらその山羊を捕まえて、その肉を売るのだそうです。

 でも、そう簡単なことではないようです。ずっと以前に小笠原でも大問題になりましたが、山羊は、天然記念物だろうがなんだろうが、貴重な植物を全部食べてしまう。そして、どんどん増える。増え過ぎて、あらゆる植物の芽を食い尽くして、緑がなくなっていく。植生が変わってしまう。ついには、土の地肌が露出する。そなると、崖崩れにまでなります。

 これは奄美大島の無人島でキャンプを楽しんでいる人からの話ですが、この無人島に地元の人が山羊を4頭放したそうです。山羊は毎年増えて、貴重な島ユリなどを食べてしまう。毎年島にキャンプしに行っていた人たちが、地元の人に、「山羊、なんとかならないですか」と言っても、地元の人も高齢化で山羊が捕まえられない。「捕まえて食ってもいいよ」なんて言われても、山羊は素早くてとても捕まらない。角を生やしているし、結構怖いということでした。

 けれども、山羊は増え過ぎると、だんだん食べるものがなくなって、減っていくのだそうです。それで一時は山羊がわんさかいたのに、この島では、あと3頭、しかも雄だけになった。絶滅しつつあると言います。

 この話をしてくれた人が、これはあくまで自分の偏見かもしれないけれどとことわりながらこう言っていました。「山羊というのはどうも強情で、自分勝手で、人に頼らないで自分でやっていくという感じがして好きになれない」と。そう聞いて、今日の箇所が思い浮かびました。なるほど、主イエスもこういう山羊の感じをイメージしておられたのでしょう。

 一方羊ですが、これは、ずっと以前にテレビで見たどこだったかの羊牧場の話なんですが、羊飼いがピーッと笛吹くと、犬に導かれて、羊たちがみんなパーっと寄ってきて、一頭もはぐれずに群れるわけです。羊は性格もおとなしくて、素直で、人間を主人のように慕って、人間に守られていることに、全てを委ねているという感じがします。

 その動物から感じるものが、羊と山羊とでは決定的に違います。つまり、羊は、羊飼いに自分のすべてを委ねているし、羊どうしも、みんな一つになって群れている。いうなれば、お互いに信頼し合い、助け合い、共にいます。

 片や山羊は、なんというか「俺は一人で生きてくぜ、誰の世話にもならないぜ」みたいな顔をして、誰にも懐かず、助けも求めず、どんどん植物を食べ尽くして、一時は繁栄しても結局は滅んでいってしまう。羊も山羊も、私には馴染みがないので、ピンとこなかったのですが、こうして見ると羊と山羊の違いというのは分かりやすいですね。

 ただし、イエスさまのこの話を読んで、「私の信仰は羊的だろうか」とか「私は山羊的になっていないか」などと気にするとしたら、それはちょっと違います。確かに、これは最後には羊と山羊を、右に、左に分けるという話ですけれども、これは、マタイ福音書特有の傾向です。大切なのは「あなたは羊だ」ということであって、私はどちらだろうかという裁きの線引きの話ではありません。ですから、心配する必要はありません。主イエスはどんなおりにも福音を語っておられるのですから、そんな不安になるような読み方はしなくていいのです。

 一人の人間が、完全に羊になったり、完全に山羊になったりするはずはありませんし、そもそも神さまは、決して線を引きません。神さまは、すべての人をひとつの群れとして養っておられます。エゼキエル書34章11節「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」とある通りです。神は一匹たりともとりこぼさないで世話をされます。

 でも、16節には「しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす」とありますね。これは、「誰かを滅ぼす」というより、「私たちの中の山羊的なる部分を滅ぼしてくださる」ということで、神はその人の心の中の山羊的なるものを滅ぼされると、そういう希望として読んでください。

 こう考えてください。「私たちの心の中に、山羊と羊がいる。主イエスは、その山羊を服従させ、すべての人を羊のように完成させてくださる。だから、日々、羊のように主イエスを信頼して、羊のように生き、完成の日、終わりの日に備えよう」と。「私たちの内なる羊と山羊」、「羊」なる部分がかけらもない人なんてありはしないし、逆に誰もが「山羊」を抱えています。「山羊」なる自分は、自分一人で生きているかのように思い、自分で自分を救おうと思い、自分の力で何とかしようともがき、心から信頼して交われない。羊飼いにすべてを委ねるという喜びを知らないでいる。私たちの心の中には両方があります。私たちは誰もが山羊であり、羊であるんです。

 主イエスがマタイ25章42節以下で「食べさせてくれなかった、飲ませてくれなかった」と言ってますが、山羊的な心のことを言ってるんですね。自己本位な心は、「食べさせたり、飲ませたり」なんてしませんから。「しない」というより、気づかないんだと思います。たぶん「一緒にいる」という感覚がないんです。「お互いがつながってるという感覚」がない。

 羊だったら、みんなで身を寄せ合っているし、一緒に行動するし、一緒にいる感覚がある。山羊はもう、個人主義ですから、自分一人でなんとかしている。逆にいえば、他人がのどが渇いていようが、裸でいようが、どうでもいい。「私とは関係ありません」ということですから。ここが一番、「羊的」「山羊的」の違うとこじゃなかと思います。

 皆さんも時には、「あっ、この人かわいそうだ。助けてあげよう」と思ったり、「この人とはご縁があるから関わろう」と思ってつながったりしているでしょう。そのときの心はきっと「羊的」なんです。

 でも時に、「もう、人のことなんか構っちゃいられない。私はこれで、目いっぱいだ」とか「誰も信じられない」などと思うのは「山羊的」な思いになっているんです。

 でも皆さん、主イエスは、最後には、この山羊的なる部分を、ぜんぶ羊的なるものに変えてくださいます。これは福音です。主イエスはそのためにこの世にきてくださり、私たちと共にいてくださいます。それを私たちは信じて、お互いに協力します。愛し合います。もっと羊なる者になれるように工夫しますし、実際に羊どうし集まって祈ります。今こうして集まっている私たちは羊の群れですね。そう思ったらいいと思います。

 最後にパウロの励ましからも聞きたいと思います。私たちは「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」、すなわちキリストの体である教会につらなっています。そしてパウロは私たちのために祈ってくれています。1章17節以下、「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神…が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知り…、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟らせてくださるように」と。

 主イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と一つになる道だったと言えます。だからこそ、主イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。

 私たちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、主イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためです。

 主イエスがくださる愛を受けて、終わりの日、完成の日にむかって、共になって歩みを進めてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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