2023年8月20日日曜日

礼拝メッセージ「神の憐れみ」

 2023年08月20日(日)聖霊降臨後第12主日 岡村博雅

イザヤ書56章1、6〜8 

ローマの信徒への手紙:11章1〜2、29〜32a 

マタイによる福音書:15章21〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは主日ごとに式文に導かれて、「憐れんでください」と神に祈りますが、今日の福音箇所は私たちは何をおいてもまず第一に、神の憐れみを願い求めることの大切さを教えています。

 神の憐れみを願い求めること、これは、信仰の基本ですけれど、私たちって分かっているようで、やっていない。誰もが、まず、自分の力を使おうとするからです。日々の中で、自分の弱さ、無力さを認めて、まず神の憐れみにより頼んでみてください。「神の憐れみ」これさえあれば、あとは何があろうとも、真の安らぎが生まれます。

 今日の福音は「神の憐れみを求めた」ある母親の物語です。カナンの女と紹介されているこの女性はユダヤ人から見たら明らかに異邦人(外国人)でした。その人が、ここ異邦人の村に主イエスが来ておられると知ってやって来ます。そして22節「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と叫びます。

「ダビデの子」とは、あなたは、あのイスラエルのダビデ王のような素晴らしい方ですという尊敬を込めた褒め言葉です。この女性は、精一杯、主イエスの気持ちを引こうとしていることが分かります。そして続けて「私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と必死な思いで懇願しました。

 当時は「悪霊」が肉体的な病気をも引き起こすと考えられていました。この人の娘がどんな病気であるかは分かりませんが、医学が発達した現代と違い、子どもが育つことはとにかく大変だったのですね。

 続く22節から25節のやりとりは同じ内容を記しているマルコ福音書にはなくマタイ福音書だけにあるものです。皆さんここでの主イエスは、率直に言ってちょっと冷たいと感じませんか。主は、「いや、あなたのためには、癒やしのわざを行えない」というようなことを言うわけです。

 何か主イエスなりの事情がおありで、そういわれるのでしょうけども、でも、このカナンの母親にしてみたら、そんな主イエスの都合なんて関係ありません。「わが子」が「悪霊」に「ひどく苦しめられている」。なんとか救っていただきたい。ひたすらそれだけでしょう。

 私たちも、時には悪霊の働きかと思わせるような現実を経験することがあります。そんな時、その当事者の親御さんが、どれほど心配したり祈ったりするかというのは、想像がつきます。この母親もそうです。もう必死です。

 ですから、このカナンの母親は、主イエスの所に来て、言うんです。

 「主よ、私を憐れんでください」と。(マタイ15:22)

 「あなたの憐れみが必要です。娘が悪霊に、ひどく苦しめられています」と。(マタイ15:22)

 この母親はきっと今までにやれるだけのことをしてきたでしょう。あらゆる手だても尽くしたことでしょう。でも、どうにもならない。そんな時に主イエスが来ておられると聞きつけた。そして彼女は主の元に駆けつけて来た。彼女は主イエスの前に無力な自分をさらけ出し、そしてなりふりかまわず自分を投げ出して言います。それがこの「憐れんでください」という言葉です。

「イエスさま、私にはあなたを信じるほかありません。あなたが憐れんでくださるほか娘が助かるすべはありません」と叫びます。

 しかし、主イエスは、23節、何も答えなかったり、24節「わたしはイスラエルの人々のためにしか遣わされていない」と実にそっけなくて取り付く島もありません。

 でもこの女性は主イエスに腹をたてた様子がまったく見られない。それどころか、彼女は主イエスの前にひれ伏します。主イエスはどんどん先に行こうとしています。そこで彼女は、主イエスの前にひれ伏して、25節「主よ、私をお助けください!」と主の憐れみを一心にもとめます。

 そしてここから事態が急展開します。主イエスがおっしゃった「子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」と言う一言からです。主イエスがどんな使命や事情を抱えておられるかなど、この女性には想像できないことでしたが、ここで主イエスが告げた「子どもたちのパンをとって小犬にやる」という言葉はある決定的なイメージをこの女性に与えたと思います。

 それは当時、小犬を飼っている家ならきっと世界中のどこでも見られるある情景です。家庭で食事が始まると、テーブルの下に可愛がられている小犬も来て食事のおこぼれを期待している。そうすると何が起こるか想像できますね。うちの猫も、焼き魚などあれば頂戴とやって来ますので、だめだと言っても誰かしらがちょっと端っこの方をとって与えたりします。

 主イエスのこの一言で、彼女の心に小犬のいる家庭の食事風景がイメージされた。そこからの主イエスとこの女性とのやり取りは痛快です。まるで息の合ったコントのように感じられます。

 26節、主イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とおっしゃいます。「子供」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指します。犬は今ではペットとして愛されていますが、当時のイスラエルでも日本でも人を犬呼ばわりするということがありました。それは犬が持つリーダーに従うという習性を、人間が権力のある人にへつらったり、すりよったりする様子に重ねて見たためでしょう。また、犬が優れた嗅覚を持つため嗅ぎ回る習性があることから、人の身辺を探るのになぞらえることもあります。犬は犬の習性で生きているだけで、人間のありようとは無関係なわけです。してみると、主イエスは異邦人のカナンの女性を犬扱いをしたわけではないと思えてきます。

 しかもここでは小犬ということですから、大人の犬とは微妙にニュアンスが違いますね。しかし、いずれにしてもここでカナンの女性は自分の娘を小犬と呼んだこのイエスの言葉に込められた真意をしっかり受け取りました。

 なぜなら、イエスさまは子どもに与えるべきパンを小犬に投げてやるのは良くないと言いながら、小犬にパンを与える情景を女性にイメージさせておられるからです。カナンの女性は主の言葉をまっすぐに、しかし主の真意をつかんでしっかり受け取って答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(マタイ15:27)。可愛がられている小犬が、家族の食卓に一緒にいる、そんな情景を共有しながら主イエスとこの女性の会話のキャッチボールはなされています。

 彼女は言います。「イエスさま、あなたのおっしゃるとおりです。あなたが神の恵みを食卓の恵みにたとえておっしゃっていることはそのとおりです。パンの恵みはイスラエルのテーブルに溢れています。その恵みはとても豊かで、あまりの豊かさのゆえにテーブルからから満ち溢れて、テーブルの下へとこぼれ落ちています。そのこぼれた恵みをテーブルの下にいる小犬も一かけいただいてもいいのではありませんか?」。

 主イエスは彼女のこの姿勢を待っておられたと思います。主はこの女性から真の信仰を引き出された。主イエスはおっしゃいました「あなたの信仰は立派だ」と、「あなたの願いどおりになるように」と。(マタイ15:28)

 こうして選民イスラエルにだけ与えられていた神の憐れみがとうとう異邦人に与えられました。ハレルヤ!です。実はこれはもともと主の願っておられたことでした。

 今日の第2朗読に、驚くべきことが書いてありますね。(ローマ11:32)「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです」と。

 神に対する「不従順の状態」というのは、神から離れて、闇の中を生きている状態です。順風満帆な時って私たちは神のことを思わないでしょう。でも本当に辛くて、出口が見えないようなとき、このカナンの母親がそうであるように私たちは神の憐れみを求めます。「神の憐れみを知るということが、どれほど素晴らしいか」ということを、ちゃんと分かっておられるから、恐らく神はそうなさっている。

 逆にいうと、私たちは神の憐れみを知るために存在しているし、神の憐れみに寄りすがるときに、神と本当につながる。歓喜、平和、希望が、そこに与えられます。

 そして第1朗読の最初の所を見てください。(イザヤ56:1)「主はこう言われる。/公正を守り、正義を行え。/私の救いが到来し、私の正義が現れる時は近い。」

 「近い」、神の国は「近い」んです。「もうチョット」です。いろいろ思うようにならないこと、辛いことがありますが、主イエスによって神の憐れみは表されました。神の国は来ています。だから今はまだ本当に辛くても、もうチョット持ちこたえられます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年8月13日日曜日

礼拝メッセージ「神の子と気づく」

 2023年08月13日(日)聖霊降臨後第11主日

列王記上:19章9〜18 

ローマの信徒への手紙:10章5〜15 

マタイによる福音書:14章22〜33

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の第1朗読の記事ですが、10節に背景が語られています。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 これは、預言者エリヤは殺されかけて、逃げてきたということですね。彼は、神の山ホレブに来て、もう、あとは死ぬしかないというギリギリのところだったのですが、主はエリヤに、要するに、「逃げ隠れするな! 出てきて主の前に立て」と言うわけです。(王上19:11)。

 そのときに、11節「非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた」。まさに激しい竜巻や台風のような暴風を思います。怖いですね。さらに「風の後のちに地震が起こった」。地震の怖さは私たちには言うに及ばずです。12節、「地震の後に火が起こった」。山野を焼き尽くす火事これも怖いです。しかし、この「風」だろうが、「地震」だろうが、「火」だろうが、そういう自然災害の中に「主はおられなかった」というわけです。 (王上19:11-12) 。

 さて命からがら逃げて洞窟に隠れていたエリヤに主が声をかけて、「出てきて、わたしの前に立て」と言うので、エリヤは主の前に立とうとしますが、そのとき、「大風」「地震」「火」とものすごく恐ろしい、怖い目に遭う・・・。

 これは、私たちが逃れられない現実ですけれども、そのとても怖い現実を前に、「しかし、そこに主はおられなかった」と言うのです。けれども、その後で、12節「静かにささやく声が聞こえた」とエリヤは告げます。心の奥底に響くかすかな声、それが、主なんです。

 恐れの中に、主はいない。恐れているときは、主に会えない。そういう経験は、きっと皆さんにもあることでしょう。 もう、怖くて、震え上がったとき、叫んでいるとき、そこに主はおられない。しかし、心に静かにささやく声、その「恐れではなく、静かにささやく声」、これが、信仰によって聞く声です。・・・どんな状況であっても、主が語りかけてくださる。ここに、主がおられる。「だいじょうぶだ。信じて待っていよう」と。

 この静かにささやくように聞こえてくる声。それが今日の福音書が告げる、「安心しなさい。わたしだ。恐れるな」 (マタイ14:27) という主イエスの声と繋がっています。

 福音書に入ります。今日のエピソードの前(マタイ14:14-21)には、主イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人の飢えを満たしたという話が伝えられていて、それに続くもう一つの不思議な出来事が今日の箇所です。弟子たちはこのような体験をとおして、次第に主イエスを特別な方、神からの力に満ち溢れた方だと気づくようになっていきます。

 本当に主イエスは湖の上を歩いたのでしょうか。聖書に書いてあるとおりだという人達があります。いや、信じられないという人もあります。事実はどうだったのかと議論しても平行線で、そういう議論に実りはなさそうです。

 この話はマルコ、マタイ、ルカに共通する主が「嵐を静める」出来事(マタイ8:23-27)とも似ている面があります。これらの話は誰かが頭の中で考え出した空想物語、フィクションということではなく、弟子たちがガリラヤ湖で何かしらの不思議な体験をして、それが伝えられていくうちに今の福音書のような物語になったと考えられます。

 さて、彼らが向かった「向こう岸」は、34節によれば「ゲネサレトという土地」です。異邦人の土地ではありませんが、見知らぬ土地のイメージなのでしょう。

 ある人はこの出来事についてこう考えました。「弟子たちはイエスを残してガリラヤ湖に船出した。自分たちだけで見知らぬ土地に行く不安がある。案の定、逆風にあい、いつの間にか舟は岸に押し戻されていた。イエスは近くの岸辺を歩いてきたが、弟子たちは自分たちが湖の真ん中にいると思い込んでいたので、イエスが湖の上を歩いているのだと思った。」

 こういう想像は現実味を感じるかもしれませんが、何の根拠もありません。大切なのは実際の出来事そのものがどうであったのかということよりも、弟子たちにとってそれがどういう体験だったのか、ということだからです。

 この体験は弟子たちが主イエスは特別な方であると気づく体験だったと言えます。また、22節に「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とありますから、この体験は主イエスがご自分の特別さに気づかせようと意図なさったものだとも言えます。ですからマタイではこの物語を「本当に、あなたは神の子です」という信仰告白で結んでいます。

 この物語の中で大切にしたいのは「恐れと疑いから信頼へ」というイメージです。「信仰」と言うと「神の存在を信じる」ことだと考えがちですが、福音書の中で問題になっているのは、「神が存在するか否か」というようなことではありません。問題は「神に信頼を置くかどうか」です。「疑い」とは神に信頼しないこと。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき、私たちは「恐れ」に陥るのではないでしょうか。

 聖書の中には、主イエスご自身が語られた言葉が、いくつも残されています。弟子たちはそれを何度も聞いて心に留めたことでしょう。心に留めたものを主イエスの語り口を思い出しては繰り返し、繰り返しみんなにも語ったでしょう。ですから、かなり正確に、主イエスご自身がそれを語られたときのニュアンスがちゃんと残っている、そういう言葉がいくつもあります。

 今しがたお読みした箇所ですが、私は牧師として、その言葉を本当に必要としている方に向かって、今ここで、主イエスが語っている言葉として朗読しました。お聞きになったとおりです。マタイ14章27節「安心しなさい」「わたしだ」「恐れることはない」。

 私は、電話をいただいたり、相談に来られた方に、「大丈夫です」とお話しすることがよくあります。そのときは必ず、主イエスが「安心しなさい」とそう呼びかけているという、その事実によって、主イエスのお言葉どおり、そうお伝えしています。

 猛り狂う嵐の中、この時、主イエスは恐怖のどん底にいる弟子に向かって「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけます。「わたしだ」と訳された言葉は「幽霊などではない、わたしだ」と言っているように聞こえるかもしれません。

 この「わたしだ」は、ギリシア語では「エゴー・エイミego eimi」で、英語で言えば「I am」という言い方です。この「エゴー・エイミ」は「わたしがいる」とも訳せます。「わたしがいる」は、「わたしはあなたとともにいる」という意味でもあります。「安心しなさい。わたしがともにいる。だから、恐れることはない」。主イエスは今もさまざまな恐れに囚われている私たち一人一人にそう呼びかけているのではないでしょうか。

 また、この「エゴー・エイミ」は、旧約聖書、出エジプト記3章14節では神がご自身を表すときに用いられた表現として「わたしはある」と訳されています。ですから、その意味でもこの「わたしだ」は、主イエスが神としての威厳と力を持っていることを宣言していると受け取ることもできます。

 28-31節のペトロの箇所はマタイだけが伝えているものです。このような物語は、主イエスの地上での活動中にガリラヤ湖で起こった出来事というよりも、むしろ、復活して今も生きている主イエスと弟子との出会い、そして主キリストを信じて歩もうとする私たち全ての歩みを表していると考えたらよいのではないでしょうか。

 私たちもペトロのように水の上を(あるいは、水の上でなくても主イエスに従う道を)歩みたいと願っています。しかし「強い風」(さまざまな困難)のために「怖くなり」、「主よ、助けてください」と叫びたくなることがあります。主イエスはそんな弟子に対して、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださるというのです。そのような主イエスの助けを私たちも感じることがあるのではないでしょうか。私など、主に叫んでは、助けていただいてばかりです。

 また、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉も、「もっと大きな信頼を持つように」という温かな励ましとして受け取ることができます。

 私たちは福音書を読むときに、2000年前の出来事として読むだけでなく、今のわたしたちと父なる神、あるいは、復活して今も生きている主イエス・キリストとの出会いの物語として読んで、恵みを受けてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年8月8日火曜日

「『戦争は心の中で』か」  江藤直純牧師

 平和の主日      2023年8月6日 小田原教会

ミカ4:1-5; 詩編85; エフェソ2:13-18; ヨハネ15:9-12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 8月6日、9日、そして15日を平和を心に刻むための特別の日として覚えることは日本人なら誰もが理解していることです。それに上皇陛下が忘れてはいけないとおっしゃったのが6月23日です。甚大な犠牲者を出して沖縄での戦闘が終結した日です。沖縄県はこの日を「慰霊の日」と定め、沖縄全戦没者追悼式を催します。8月6日が広島市民だけの記念日ではないように、9日が長崎市民だけの記念日ではないように、6月23日も沖縄の人だけの記念日であっていいはずはありません。

それぞれの国、それぞれの民族は、その歴史との関わりで、過去に戦争が起きたこと、起こしたことを痛切に反省しその犠牲者を深く悼み、心から平和を祈る日を持ちます。日本のルーテル教会も8月の第1日曜を平和の主日と定めて、礼拝を守ります。今日がその日です。今年は広島原爆投下の日と重なりました。

 聖書には随所に平和という言葉が出て来ます。今日の日課の詩編85編には「わたしは主が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます」(85:9)とあります。使徒書の日課のエフェソ書には「実に、キリストはわたしたちの平和であります」「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました」(2:14, 17)と記されています。福音書には有名な山上の説教があり、その中で「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と主イエスは声高らかに謳われています。

 平和は誰もが願い求めます。ですから、当然、平和の主張に反対する人などいません。そうなると、平和の主張をすることは、言うならば、むずかしいことではないことになります。耳障りのいい、聞き心地のいいメッセージということになります。でも、平和のメッセージとはそれほどに安易に語ることができ、安易に聞くことができるものなのでしょうか。

2.

 今生きている日本人のうち78歳以下の人、つまり国民の内の圧倒的多数は戦争をじかに経験していません。つまり、戦争などないのが当たり前の世界に生まれ生きてきました。しかし、明治維新以来終戦までの78年間は、明治10年の西南戦争で内戦は終わりましたが、対外的には戦争の連続でした。朝鮮と台湾は戦争らしい戦争をしなくて植民地化しましたが、その後は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、そして昭和に入ってからの日中戦争、太平洋戦争と半世紀の間に戦争に次ぐ戦争を行い、ついには全国の主だった都市は空襲に遭い、沖縄では住民の4分の1が死亡するほどの攻撃に晒され、広島と長崎には史上初の原子爆弾が投下され、国の内外で兵士と市民に数え切れない程の犠牲者を出し、ついに無条件全面降伏に追い込まれます。現在のロシアによるウクライナ侵略戦争の自己防衛という名目の領土拡大という戦争目的、無辜の市民と民間施設への残虐で悲惨な攻撃、そして最新兵器を駆使しての両国の激烈な戦闘を毎日報道で知らされると、我が身を振り返って、ロシアばかりを批判非難できない気持ちになります。

 それにしても、500日以上続いていて、途方もなく甚大な人命が奪われ、穏やかな市民の生活とその生活基盤、豊かな農業や発達した産業、美しい自然環境が破壊されることがいつ終わるのか見通しがまるで立たないロシア・ウクライナ戦争です。第二次世界大戦後世界の各地でたくさんの戦争が繰り返されてきました。朝鮮戦争もベトナム戦争も湾岸戦争もありましたが、このウクライナでの戦争ほど規模も大きく、身近に感じる戦争はありませんでした。

 第一次世界大戦そして第二次世界大戦という20世紀前半に起こった史上例を見ない世界中を巻き込んだ二度の大戦への深刻な反省から、何とかして紛争を抑止し、何としても戦争を回避するために作られたのが全世界の国々が加盟する国際連合でした。その他にももろもろの国際機関が創設され、国際法が定められ、いくつもの地域連合もでき、また軍事同盟も締結されています。

 国連は政治や経済や軍事の仕組みを作ることで、また社会的な発展を促し貧困から抜けだし人権が重んじられる努力を積み重ねることで戦争の原因を取り除くことに全力を挙げてきました。それは極めて大事なことで、どうしても必要なことです。

 しかしながら、それでもロシア・ウクライナ戦争は回避できませんでした。停戦の仲介をする見通しさえも立っていません。そうであるならば、地上から戦争をなくすことは不可能だということでしょうか。いつの日か第三次世界大戦も起こりうるのでしょうか。これが人類の歴史のどうしようもなく悲しい現実なのでしょうか。

 国連を構成している200あまりの国々だけではなく、数多くのNGO非政府組織もまた戦争を防ぐためにさまざまな努力をしています。ICAN(アイキャン)と呼ばれる核兵器廃絶国際キャンペーンという団体は各国政府に働きかけ、ついに2017年に国連の会議で「核兵器禁止条約」が採択され、それから3年経った2020年には発効の要件である50ヶ国が批准したので条約は発効したのです。実に画期的なことです。しかし、核兵器保有国がどこも批准していないので、この条約の実際的な効果は今のところは出ていません。唯一の被爆国と称する日本も批准していません。これが現実です。

3.

 国連がやったことは、世界から戦争の恐怖を取り除くために政治、経済、軍事の仕組みを作ることだけではありませんでした。1945年11月16日に憲章が採択され、その1年後に創設されたのがUNESCO国際連合教育科学文化機関です。今朝このUNESCOについて触れるのは、そのUNESCO憲章の前文に、私の心を打ち、みなさんと是非とも分かち合いたいところの至高の名文がそこには書いてあるからです。

 この憲章の当事国政府は、その国民に代わって次のとおり宣言する。

 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

 このような書き出しで憲章の前文は始まっているのです。「戦争は人の心の中で生まれる」、そうだから「人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と言っているのです。さらにこう続けます。

 相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにしばしば戦争となった。

 UNESCO憲章の前文はこう述べて、自分以外の他の民族、他の国民の文化、生活、宗教を含めた精神についての無知と偏見から相手への疑惑と不信が生じ、不平等を肯定する価値観となり、そこからやがては戦争になるというのです。終わったばかりの第二次世界大戦の根本的な原因はそこにあったのだから、UNESCOとその加盟国とは文化の普及と正義と自由と平和のための教育を通して相互への関心と相互に援助する思いを養わなければならないと訴えます。それらから導き出される結論はこうです。

 政府の政治的及び経済的取り組みに基づく平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。

 なんとかして政治的、経済的、軍事的な取り組みをすることで戦争を防ぎ平和を守ろうと国連も各国政府も必死の努力をしているのに、その同じ国連と各国政府自身がこの憲章の中で、政治的および経済的な取り組みをすることだけでは永続する平和は守れないと認めているのです。私たちはついつい個人的に心の中で平和を願うだけでは戦争という巨大な悪は止められない、地政学的、歴史的な要因をよくよく考慮した上での政治的経済的軍事的な取り組みこそが戦争を防ぐことができるのだと思いがちです。しかし、UNESCO憲章はそうではないと言っているのです。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とはっきりと宣言しているのです。

4.

 それでは、「人の心の中に平和のとりでを築く」とは一体どういうことでしょうか。UNESCOは他民族、他国民の風習と生活、宗教を含めた文化を知る必要がある、だから教育が必要だと訴えます。まったくその通りだと思います。しかし、その学びの中で相手側は自分たちとは異なる生活と文化を持っていると知っただけでは、真の相互理解も平和も生まれないのです。

 第二次世界大戦のさなかに600万人のユダヤ人がナチス・ドイツによって強制収容所で殺されたと言われています。ナチスはユダヤ人のことを知らなかったのか、そうとも言えません。大雑把に言えば、違いを知った上でユダヤ民族は劣っており、自分たちアーリア民族は優秀だ、だからユダヤ人は抹殺されるべきだと、余りに極端ですが、そう結論づけたのです。違いがあるから優劣をつけるのではなく、違いを違いとしてそのまま受け容れ合う、認め合う、尊重し合う、これがなければ差別と偏見、支配と隷属の関係が生まれてしまうのです。挙げ句の果てに殺戮や戦争に至るのです。事実そうなったのです。

 現在のロシアも歴史の一時期ロシア領であったウクライナをロシアと一体であると主張し、再びロシアの支配下に入ることを要求しています。ウクライナとの違いを認め、受け容れ、尊重していないから、あの国では戦争が正当化されています。

 よくユダヤ教にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ一神教というものは、自分たちが信じる神さまのみが真の神さまだとし、それ以外の神を拝むのは偶像崇拝だとして貶む傾向がある。一神教の排他性こそが争いの元凶だと言って批判することがよくあります。

 それは自分或いは自分の国や民族と自分たちが信じる神さまとの関係に致命的な誤りがあるから、そういった排他的な、不寛容な、他者を虐げ滅ぼしても構わないといった見方が出て来てしまうのです。自分の神を自分の後ろ側に位置付けると、自分はその神さまを後ろ盾とし、自分の背後に立っているその神さまのご威光によって自分を聖化し栄光化し、他者を差別することも支配することも抹殺することも正当化してしまうのです。まるで自分と神とを同一化するようです。そうすることで自分を絶対化してしまうのです。そこから排他性も不寛容も差別と偏見もおのずと生まれてくるのです。

5.

 しかし、もしも自分を神さまに向かい合うように位置付けると、話しはガラリと変わります。一人の神の前に自分も立つしそれ以外の民も立っているのです。或いは自分もそのお方の前に跪くし、他の人々も同じく跪くのです。なぜなら、自分たちも他の民族も等しく神に創造され、生かされ、愛されている存在だからです。ミカ書には「終わりの日に・・もろもろの民は大河のようにそこに(つまり主の神殿の山に)向かい、多くの国々が来て言う。主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう、と」(4:1-2)。諸民族は歴史のゴールに向かって、違いを抱えたままで、等しく、並んで歩いていると言うのです。どの民族は滅ぼされて良く、どの国は貶まれて良いなどとの差別は一切ないのです。もちろん、人間はさまざまな過ちや罪を犯しますから、これまた等しく裁かれ戒められ、変化することを求められます。同じくミカ書にはこう記されています。「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる」。その結果、何が起こるかといえば、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(4:3)のです。争いは止めて和解し、戦いは止めて共に働き共に生活するようになるのです。

 文化も違い宗教も違うもろもろの国々も諸民族も、一人の神の前には等しく創造され、愛され、戒められ、導かれて造り替えられる存在なのです。争い滅ぼし合う者同士ではなく、理解し合い、受け容れ合い、助け合って存在するものだと、つまり平和のうちに共存するものだと知るのです。人間が傲慢にならず、憎み争わないようになるためには、差別も偏見もなくすためには、人間を超えたお方の存在を信じることが必須なのです。

 マタイ福音書には「父は(つまり神さまは)悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45)とのイエスさまの言葉が記されています。使徒パウロも「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(ロマ10:12)と言っています。

 それでもなお敵意や憎しみが私たちの間には根深く残ります。自分ではどうしようもできない心の汚れがあります。両者はずっと隔たっています。そういう現実を私たちは生きています。それをどうしたらよいのか。使徒パウロはエフェソ書で声高らかに「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります」(2:13-14)と言い切っています。「心の中のこと」だと言っても、だから自分で心の中を自由自在に扱えるわけではないことは私たちもみな経験上知っていることです。パウロでさえも内在する罪に苦しんで、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ロマ7:15)と嘆いているほどです。

 だからこそ、キリストの執り成しが必要であり、和解のための十字架という仲介が必要なのです。いえ、ただ必要なだけではなく、現にそれが無償で差し出されているのです。エフェソ書でパウロはもう一度明瞭に断言しています。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました(2:17)。

 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」というUNESCO憲章の前文の冒頭の言葉を改めて噛み締めます。そして、その平和のとりでを築くための真の土台として、何よりもまず神が与えてくださる平和、キリストの平和を感謝して受け取りましょう。そうして初めて私たちは平和のための祈りが、平和創造のための働きができるようになるのです。そうさせていただきましょう。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2023年8月6日日曜日

礼拝メッセージ「主の平和」

2023年08月06日(日) 平和の主日  岡村博雅

ミカ書:4章1~5 

エフェソの信徒への手紙:2章13~18 

ヨハネによる福音書:15章9~12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 ルーテル教会は毎年8月の第一主日を「平和の主日」として記念します。第一朗読のミカ4章の平和についての神の言葉が読まれます。3節「……彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国にむかって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。

 「もはや戦うことを学ばない」と告げるミカと同時代の預言者イザヤもまた同じメッセージを語っています。ミカもイザヤも紀元前8世紀の預言者です。ミカとイザヤはその当時のエルサレムの人々が犯した罪を容赦なく告発しました。そして神の裁きを受けて、エルサレムの都はやがて完全に破壊されると預言しました。

 その一方で、やがて人々が神のみ心に背いたことを回心し、神から赦していただいた後に、真の平和に導かれることを預言します。

 過ちは裁かれる。しかし、神は真の平和が実現する日に向かってたゆみなく私たちを導き続ける。敗戦後の日本を考えるとき、この預言者が告げたメッセージはこの日本において曲がりなりにも実現していると思います。それは憲法によって戦争することを捨てさせられたからではないかという思いを持ちます。

 しかし人間は貪ることを捨てられない。ウクライナで、ミャンマーで、また中東でも、アフリカでも覇権をめぐる戦いが続き、混迷の度を増していると感じられます。そんな中ですが、主イエスが弟子たちに目を覚ましているようにとたびたび言っておられるように、私たちはこの世界に「主の平和」がなることを願って、目を覚まして祈り続けてまいりましょう。そして神のみ心に叶うことをたとえ小さなことであってもなしていきましょう。預言者の告げた神の言葉は揺るがない励ましです。

 また、平和の主日には、使徒書としてエフェソ2章13~18を読みます。そこには「実に、キリストはわたしたちの平和である」2:14と記されています。キリストは自ら十字架を負うことによって、敵意を滅ぼし、神と和解させてくださいました。使徒パウロは今やわたしたちはキリストと一つの霊に結ばれて、父なる神に近づくことができると証しています。わたしたちは主キリストと一つの霊に結ばれる者だということ、これも大きな励ましです。この恵みを本心から受け止めましょう。

 主イエスが自ら十字架を負ってまでも平和を実現し、私たちを救おうとしてくださる、それほどまでに私たちを強く愛するというその動機はどんなものでしょうか。それを証ししているのが今日の福音書箇所です。

 主イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(15:9)と、私たちの一人ひとりの命を尊び、慈しむ父なる神の愛を強調します。この愛は、また、私たちにおいては他者の眼差しに答えるという愛です。

 先日、この平和の主日のことを思って、「黒い雨」という1989年、戦後44年目に公開された映画をDVDで見ました。被爆者の日記を原資料にした、井伏鱒二の小説を映画化したものです。

 原爆の投下によって広島の人々に何が起きたのか、これでも控えめに描いていると感じる瓦礫と化した広島市内、多くの怪我人や遺体を間近に見ながら、閑間重松(シズマシゲマツ) 、シゲ子夫妻と姪の矢須子の3人は徒歩で重松の職場である工場にたどり着きます。矢須子は海から市内に戻る途中空から降ってきた黒い雨に打たれていましたが、被爆した閑間夫妻共々特に大きな症状もなく、工場で寝泊まりしながらそのまま終戦を迎えます。

 映画では被爆時のまさに地獄の有様が描かれ、それから5年後の平和な山村の美しい自然と日常が対照されながら進められていくために,原爆の悲惨さと恐ろしさがいっそう際だちます。

 5年後、福山市の田舎で暮らす閑間重松、シゲ子夫妻と姪の矢須子、そして近所の人達の日常の交流が淡々と描かれます。重松の知人から結婚適齢期を迎えた矢須子に縁談を持ちかけられても、矢須子が原爆投下後に広島市内にいたことを正直に告げると相手の家族から断られてしまうということが続きます。

 そんな中元気だった重松の友人たちが突然原爆症を発症し、短期間で亡くなります。落胆を越えて、矢須子がやっと結婚を望む悠一青年と出会えた矢先、矢須子の毛髪がごっそり抜け、偶然それを見たシゲ子がショックと原爆症で一月後に亡くなってしまう。矢須子も原爆症を発症し体調を崩すなか、悠一に付き添われて救急車で運ばれていく。重松は矢須子を見送りながら、矢須子の病気が治ることを祈るというところで映画は終わります。

 よく描かれた映画だと思います。広島の原爆が多くの人の命を奪ったことは知識として知っていましたが、一人一人の人生を変えてしまったことに改めて思いが行きました。戦争で心に傷を負った悠一とささやかな結婚の幸せを望む矢須子が、やっと新たな希望を見出した。しかしその途端、「黒い雨」による被爆で死んで行く。

 原爆は人から人生も希望もむしり取っていく。この8月、改めて戦争の悲惨さを目で見て感じ、聞いて感じ、平和への思いを新たにしました。

題名となった「黒い雨」とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすや放射能などを含んだ重油のような粘り気のある黒い大粒の雨です。

 広島でも長崎でも、黒い雨の降雨記録が残っています。黒い雨は爆風や熱線の被害を受けなかった地域にも降り注ぎ、広範囲に深刻な放射能汚染をもたらしました。

 しかし、国が定めた援護対象区域の外側で「黒い雨」を浴びた人たちは「被爆者」として認められず、認定を求めての「『黒い雨』訴訟」が続きました。それが2020年、広島高裁の認定地域を追加する判決により、国が新たに策定した「黒い雨被爆者」の認定制度により、広島県内では3000人以上が「黒い雨被爆者」として認められました。被害を訴え続けてきた「黒い雨被爆者」たちは終戦から75年あまりを経て、ようやく救済されました。

 戦後78年の今年でも、黒い雨を浴びたにも関わらず、その場所が援護対象区域の外側であるとして認定されず、未だに被爆者健康手帳を受け取れていない大勢のお年寄りがあり訴訟が続いています。原爆は長い年月に渡ってこういう被害をもたらし続けることから、決して目をそらせてはならないことを心に刻みます。

 核兵器そのものの問題に目を転ずれば、今ロシアは核の脅しをちらつかせており、プーチン大統領は隣国ベラルーシへの戦術核の配備を表明し、中国は核戦力を増強する構えを見せています。ある研究者がこう言っています。

 「核兵器は、第2次大戦後、一度も実戦で使われていないにもかかわらず、開発から80年近く経った今も大国の力のシンボルになっている。そのような兵器は、核兵器をおいてほかにない。人類が核兵器に意味を見いだしてきたからこそ、シンボルになったとも言える。そこにどういう意味を持たせるかは、まさに言葉の力の勝負になる。核使用のタブーを打ち破るような物語が現れたとき、どう思いとどまらせるか。そのために、原爆投下の先にある景色、物語を人類が共有していく必要がある」。

 つまり、いまだ原爆の惨禍を知ろうとしない人々にまず広島・長崎の被爆の実相を知ってもらい、真実の認識を世界の人々とさらに共有していく必要がある。その意味でも私たちの認識と祈りは核兵器のこれからに対して決して無力ではないばかりか、必須のものだということだと思います。

 映画の中で、天皇がラジオで降伏を宣言した日の場面で、人々は「どうしてピカドンが落ちる前に降伏することが出来なかったのか」と言い、「もう負けていることは敵にもわかっていた筈(はず)だ。ピカドンを落とす必要はなかったろう」と言い、「いずれにしても今度の戦争を起す組織を拵(こしら)えた人たちは……」と言いかけますが、当時のことです、それ以上は「言論統制」へのさしさわりを恐れて口をつぐみます。

 戦争を主導した人々は「正義の戦い」と称してそこに国民を巻き込んでいったわけです。同じ論理が核兵器の使用についても働いています。この「正義」の考え方にこそ問題があるのではないかと思います。

 私たちは「戦争を起す組織を拵えた人たち」の問題、核兵器を使おうとする人達の問題を自分のこととして受け止めて、神はどのように望んでおられるのかを一人ひとりがしっかりと考え、これからも祈り続け、言葉と行動にしてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン