2023年12月3日日曜日

礼拝メッセージ「目を覚ましていなさい」

2023年12月03日(日) 待降節第1主日 岡村博雅

イザヤ書:63章19b〜64章8 

コリントの信徒への手紙:1章3〜9 

マルコによる福音書:13章24〜37

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 皆さま、あけましておめでとうございます。私がこう言いますと、「えっ!」と、驚かれる方もおられるかと思いますが、キリスト教の暦では、今日から「新年」です。お正月がまもなくですから、私たちは教会の新年と日本の新年と年に二度、新年を祝えるわけです。ちょっと嬉しいですね。

 今日は「待降節」第1主日ですが、「待降節」と訳されたラテン語の「Adventusアドヴェントゥス」(英語ではAdvent)は、本来は「到来」を意味する言葉です。待降節の期間に、私たちは2000年前に主イエスが世に来られたことを思い起こしながら、主が栄光のうちに再び来られることに思いを馳せます。

 過去にすでに起こった第1の「到来」つまり御子イエスの御降誕と将来に起こると聖書が語る第2の「到来」つまりキリストの再臨、その二重の意味での「到来」をどのように待ち望むか、私たちの「待望」の姿勢がこの間のテーマです。私たちは今日、終末に向かう姿勢として「目を覚ましていなさい」という言葉に心を向けます。

 さて、今日の福音箇所は、13章の5節から始まって13章の終わりまで続く主イエスの説教の一部です。その内容は世の終わりの救いの完成に目を向けさせようというものです。

 世の終わり、終末という言葉からは、普通には何か「ついえてしまうこと」や「おしまい」を連想するでしょう。しかし、聖書が世の終わりを語るとき、そこには救いの完成が意味されています。それは希望の時です。

 13章のはじめにこの説教が語られた時の様子が記されています。ガリラヤの田舎から出てきた弟子たちは、エルサレムの都にそびえる神殿の壮麗さに心を奪われていました。弟子の一人が叫びます。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13章1節)。しかし、これに対する主イエスの答えは弟子たちにとって全く意外なものでした。主はこうおっしゃいました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13章2節)。つまり、主イエスはこの神殿もいつか滅びるもので、これが本当に頼りになるものではない、と言うのです。

 この後主イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられるときに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主に尋ねました。「おっしゃってください。そのこと(神殿の崩壊)はいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか」と。

 すると主イエスは神殿を眺めながら弟子たちに6節以下にある長い遺言のような説教をなさいました。

 主はまず、にせキリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などという、これから起こることを語られました。そしてその後で、最後に起こることを語られたのですが、それが今日の福音書の箇所です。

 この最後に起こることでは、旧約聖書から引用された表現が用いられています。24-25節は宇宙的と言っていいような表現ですね。さらに26節には「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。

 このような言葉を聞いた人々には、当然のように「それはいつのことか」という問いが浮かんで来ます。それに対して主イエスは「あなたがたには分からない」と答えます。

 世の終わりの時を具体的に示そうとした人々はいつの時代にも現れますが、そのどれもが偽りだったことは歴史が明らかにしています。ハルマゲドンの時期を示したオウム真理教や、ノストラダムスの予言として1999年の7月に大惨事が起こると不安をあおった人たちもいましたね。どれもいい加減なものでした。方や主イエスが「その時は、だれにも分からない」と言い続けたことは見落としてはならない大事なポイントです。

 さて「人の子」という表現が3度出てきますが、これはダニエル書7:13-14からの引用です。本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でした。それが紀元前2世紀にダニエル書が書かれて以後、「人の子のような者」がいつの日か神から遣わされて、正しい裁きを成し遂げるという救いと解放のメッセージとして信じられるようになったのです。

 この箇所でマルコは、その「人の子」とは主キリストのことであり、世の終わりに、栄光のうちに再び来られる再臨のキリストこそが正しい裁きを成し遂げ、救いと解放を完成なさると告げているのです。

 ダニエル書で「世の終わり」についてのメッセージが語られた背景には、その時代の「厳しい宗教迫害」がありました。ユダヤ人たちはモーセの律法に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代でした。

 厳しい迫害のもとでダニエル書が語ろうとする中心的なメッセージはなんでしょうか。それは「希望」です。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去る。この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる。最終的に神のみ心が実現すると語って、迫害の中にいる信仰者たちを励ましました。この救いの希望こそが終末のメッセージの一つの側面です。

 今の日本に住む私たちはキリスト教を信仰しているゆえに迫害されて苦しむということはまずありません。しかし、私たちは誰もが死を免れません。この聖書が語る「終末」は、私たちの人生の終わりに、たとえば病床で死と直面している時の状況に置き換えて考えることができます。ダニエル書の書かれた当時のように宗教的迫害下にあるとは、死に直面しているということに置き換えられます。その意味において、私たちも自分の人生の終わりに、たとえ苦しみの中にあっても、そこには神の救いの希望があふれていることに重ね合わせる事ができるのではないでしょうか。

 続く28-29節は「いちじくの木から、たとえを学びなさい」というところで、「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。この「人の子が戸口に近づいている」とは、苦しんでいる人々に対して、「まことに救いの日は近づいている」という励ましですから、これもまた再臨のキリストによる希望のメッセージにほかなりません。

 その一方で、32節以下の「目を覚ましていなさい」というメッセージにはもう一つの側面があります。それは警告のメッセージという側面です。日々の出来事に追われて本当に大切なものを見失っているときに、神の最終的な判断の目から見て、何を大切にして生きるべきかを私たちに警告しているのです。

 マルコ13章の説教にはこの希望のメッセージと警告のメッセージという両面があります。しかしそれは、「その日、その時が「いつ来るか、いつ来るか、とおびえてビクビクしている」というのではありません。

 32節から37節で繰り返される「目を覚ましていなさい」という言葉は確かに私たちへの警告の面が強いメッセージだと言えます。オリーブ山の上からエルサレムとその神殿を眺めながら主イエスは長い説教のまとめとして「目を覚ましていなさい」という言葉を4度繰り返されました。主イエスはそこにどんな意図を込められたのでしょうか。

 主は目に見えるものではなく、目には見えないがもっと確かなものに弟子たちの心を向けさせようとしているのではないでしょうか。この説教の31節には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉があります。つまり「目を覚ましている」とは、目に見える、滅びゆくものではなく、目に見えない、本当に確かなもの、決して滅びないものに心を向けていることだと言えるのではないでしょうか。

 今、私たちが生きている現実をどう見ているか、その中で何を真実なもの、何を本当に信頼すべきものだと思っているか、主イエスは私たちにそう問いかけているのではないでしょうか。

 最後に、私たちはこの警告のメッセージを聞きつつ、パウロのコリントの教会員への手紙を通して力をもらいましょう。安心して私たち自身の世の終わりに目を向けて歩んでまいりましょう。パウロは言います。9節、あなたがたは「私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」。5節「あなたがたはキリストにあって、言葉といい、知識といい、すべての点で豊かにされています」。8節、主は「あなたがたを最後までしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます」。アーメン。祈ります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン 

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