2023年10月1日日曜日

礼拝メッセージ「主の呼びかけは」

 2023年10月01日(日)聖霊降臨後第18主日 

エゼキエル書:18章1-4・25-32

フィリピの信徒への手紙:2章1〜13

マタイによる福音書:21章23〜32

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは恵みを受けて、今朝もこうして共に集まって礼拝にあずかっています。暑かった夏の日々も少し秋めいてきて、本当に感謝なことです。さて、このところ私たちは、教会という場がどのようなものであればよいかという、教会共同体のあり方についての主イエスの教えを聞いてきました。

 今日の第2朗読でパウロは信仰生活を始めてまだ日の浅いフィリピの教会の人々に対して、パウロは自分の信仰を模範として示しながら、復活の主キリストを信じて、復活の主の霊と、すなわち聖霊と共に生きるとはどういうことなのかを説いてくれています。

 フィリピ2章1節以下でパウロは言っています。「そこで、幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊の交わり、憐れみや慈しみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」と。

 そして13節「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と信仰の核心を証します。

 私たちの内に働いてくださる神。その神は私たちに御心を分からせてくださる。そして、私たちにその御心を行わせてくださる。このパウロの信仰体験に裏打ちされた言葉に私たちは大いに励まされます。「私たちの内に働く神、その神が私たちに御心を分からせてくださる」。これは今日の福音に響く言葉です。

 次に第一朗読を見ますと、神が私たち人間のありようを、慈しみと憐れみをもって見守っておられることが分かります。エゼキエル18章1−4節を読むと、まず「父がすっぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」というイスラエルのことわざが引き合いに出されています。イスラエルには古くから部族生活を保つために「親が悪事を働いたら、その責任は子供にも及ぶ」という家族に連帯責任をとらせるという考え方があったようです。罪の責任の問題は知恵の書などにも取り上げられていますが、全体と個人という中で、個人の重要性を強調したのは、ここに見られるようにエゼキエルやエレミヤです。

 私たちも子が罪をおかすと、親はどうなのかとすぐ考えがちです。家族を巻き込んでその連帯責任を問う考えに陥りがちではないでしょうか。しかし神は悪人が回心したなら、その回心の故に救われる。また反対に、正しいといわれていた者が悪事を働けば、その罪のゆえに死ぬのだと告げて個人の責任を明確に告げています。

 エゼキエル18章25節と29節に「あなた方、イスラエルの家は、『主の道は公正でない』と言う」とありますが、これは悪人が回心して主に立ち帰ることを認めず、なおも連帯責任による裁きに固執する人々の誤った認識を取り上げています。神はこれを聞きながら、「悪人が悔い改めて救われることをあなた方はなぜ望まないのか、公正でないのはあなた方ではないか」と問いただします。そして32節に「・・・私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ」と告げています。これが神の御心です。深い慈しみと憐れみをもって、私たちを救おうと呼びかけている主なる神の御心です。

 神は人間が悪を犯し罪のままで死ぬことを喜びません。すべての人に、「立ち帰れ」と悔い改めるチャンスを与えます。そして新しい心で立ち帰る者は、正しく見えた人であっても罪人であっても誰でも赦し、その人が生きていくことを祝福してくださいます。神はこのような方だと知ることは福音(=喜びの知らせ)です。この神の御心こそが、今日の福音箇所で語られているテーマです。

 では今日の福音に入りましょう。マタイは21章から主イエスのエルサレムでの活動を語ります。神殿の境内で、主イエスは祭司長や民の長老という当時の指導者たちと論争しています。23-27節での権威についての論争で洗礼者ヨハネを「信じなかった」当時の指導者たちの見せかけの姿があらわにされたのを受けて、同じテーマの話として、この「二人の息子」のたとえ話が語られています。

 「ぶどう園へ行って働きなさい」という父親の言いつけを「いやです」と拒絶したものの、後悔してぶどう園に行く兄と、口先では「はい、お父さん」と丁重に応じながら、父親の言いつけを無視してしまう弟。前後の文章から察すると「兄」は徴税人や娼婦のことで、「弟」は祭司長や長老たちを象徴していることが分かります。

 このたとえ話の背景として、ユダヤの宗教指導者たちと主イエスとの対立があります。ユダヤの人々は、自分たちは神から特別に選ばれた民であると自負しており、神を主として選び、その神のみ旨を何よりも優先しなければならない、それに応えて行かなければならないと考え、全員がその考えに一致していました。

 そういうわけですから、ユダヤ社会で指導者であるための条件は、自分たちが神に選ばれたことを証している、モーセの律法に忠実に従うことでした。

 そこで、人々の前で、公に神の名を否定したり、神のみ旨である律法にそって行動することを拒んだりするような者は、ユダヤ社会のアイデンティティーを混乱させてしまう危険人物とみなされて、追放されてしまう恐れがありました。そのため宗教指導者たちの公の場での言動は、文句のつけようのないくらいに完璧でした。

 しかし、主イエスは、彼らの心には神への真の愛が生きておらず、彼らの見た目の完全さは自分の社会的な地位や名誉を保つためのものでしかないことを見抜いていました。

 彼らの生き方というのは、このたとえ話の父親の前では丁重に「はい」と言いながら、実際には父親を無視して生きている「弟」と同じです。言葉では「はい」と従いながら、行動としては神を否定しています。

 それ故に主イエスは彼らの偽善性を強く非難しました。主イエスはマタイ23章で「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである」(3)と始まる鋭い言葉で具体的にそして強烈に彼らを避難しています。外見上は立派でも、内側は欲望に満ちた人生は、死であり、闇だからです。そこに救いはありません。主イエスは31節「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」と彼らに宣言します。

 罪を犯してきた徴税人や娼婦たちは、最初は父親の言いつけに「いやです」と言った「兄」のように、父なる神の心を傷つけました。しかし、主イエスの呼びかけを受け入れて、回心した彼らは、「思い直した兄」と同じように、今や父なる神にしっかりと結ばれています。神との交わりは、口先の言葉や見た目を整えることによるのではなく、心の奥底から、すべてを神に開き、神に委ねていくことによって本物になって行きます。

 ところで、このたとえを私たちの日常の中で捉えるとしたらどうでしょうか。私たちにとって、「今からぶどう園に行って働きなさい」という「神の望み通にするということ」は、実はそう簡単ではないでしょう。「今から」といきなり言われて、果たして私たちはどう思うでしょう? 息子たちは二人とも、実のところは嫌だったんですね。兄は思い直したのですが、弟は「はい」と丁重に答えたのに実際には行きませんでした。それは父の手前を一応取り繕ったけれども本音は「いいえ、行きません」のままだったからでしょう。

 私たちにしても、たとえそれが主の望みであっても実際はそう簡単には行きません。私たちはイエスさまに従って生きていきたいと願っていますけれども、本当のところ悩みます。

 FEBCの記事に、岡シスターという方の文章が載っていました。「私たちは行動することよりも、行動するときの気持ちの方が大切」だというのです。この言葉は意味深いと思いました。限界ある肉体を持って生きている私たちは、迷ったり、苦しんだり、ジレンマに陥りながら、それでも主の御心を思い巡らして、一歩を踏み出します。その行動するときの気持ちが大事だというのです。

 人の目を気にしたり、また、自分の思いを伏せて回りや大勢に合わさせる圧力に私たちは常にさらされています。そんな弱い私たちに主は「聖霊を信頼して、NoはNoと言って良い」とそう言っておられるのだと思います。

 慈しみ深い神に祈り願います。私たちの人生は御心に背く思いを持ったり、悔い改めたりの繰り返しです。そんな私たちに主キリストは何度背いてもそのたびに悔い改める心を与えてくださいます。その愛を心にしっかりと刻んで主イエス・キリストの御名によって祈ってまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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