2023年12月31日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊に導かれ」

2023年12月31日(日)降誕節第1主日 

イザヤ書:61章10〜62章3 

ガラテヤの信徒への手紙:4章4〜7 

ルカによる福音書:2章22〜40

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日のルカ福音書は、シメオンとアンナという高齢者が、おそらくその人生の最晩年で、ついに待ち望んでいた救い主となる幼子に出会い、心の底からの魂の平安を得た出来事を伝えています。彼らは聖霊に導かれて幼子イエスに出会いました。私たちも聖霊の導きによってこそ、シメオンやアンナのように主イエスに出会う喜びを味わうことができるのです。

 さて、今日の箇所の直前のルカ2章21節には誕生から「八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。神が名付け親のこのイエスという名前は「神は救いである」という意味で、当時のユダヤ人の間では特に長男につけることが多かった名前です。

 またユダヤ人にとって、男子の包皮を切り取る「割礼」は、旧約聖書に由来するもので、神の民の一員となるために欠かせないものでした。割礼はユダヤ人の男の子に今も行われているそうです。

 22節に「モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った」とあります。清めの期間とはレビ記12:2-4の産婦の体が清まるのに必要な期間で、赤ちゃん誕生から40日後ということです。彼らは律法に従って「山鳩一つがいか若い家鳩二羽」を神に献げて母親の肉体が清められたことを明らかにするために乳飲み子イエスを連れてエルサレムの神殿に向かいました。

 このいけにえは本来は「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」(レビ記12:6-8)ですが、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」には鳩だけのいけにえも認められていました。その献げ物からヨセフとマリアが貧しかったことがよく分かります。

 それはともかく、ルカは、ヨセフとマリアは律法の規定どおりにすべてを行なったということを何度も繰り返しています。そうしてルカは彼らが律法を大切に守る信仰深く模範的な人々であったことを強調しています。

 また23節に「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」とあります。当時のユダヤの家庭では、長男は本来神のものであり、従って長男は神に献げるべきものであると信じられていました。それは具体的には長男を祭司にするということです。

 ただし、それでは家業を継ぐ者がいなくなって困るので、長男の代わりに、一定の金額を神に献げました。そうして子供を自分の家で育て、父親の跡を継がせることが許されていたわけです。イスラエルではレビ族の人たちが祭司として神に仕えましたが、それは本来ユダヤ人の長男が皆やらなければいけない務めをその代理としてレビ族の人々が神殿で果たしているのだと考えられていたのです。

 たぶん皆さんは、どうもこういう話しは自分たちには縁遠いと思われるでしょう。しかし、主イエスはこのようにしてユダヤ人の子として生まれ、私たちと同じ人間になり、神の民として生きるために律法に従いながら生きたのです。

 その次第は第一朗読のガラテヤ書4章4節以下にある通りです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです」とある通りです。

 主イエスはなすべきことをなして、罪に囚われていた者に、もう一度、「お父さん、父よ」と心から呼ぶことができる道を開いてくださったのだとパウロは語ります。主イエスにはマリアを通じてユダヤ人の血が流れています。そのようにして主イエスは私たちと同じ人間になられました。だからこそ主は、あらゆる国の人々にとっての救いとなりえるのです。

 ここでもう一つ注意したいことがあります。宮詣をした幼子イエスと両親を迎え、初子のイエスを聖別するのは神殿に仕えている祭司たちのはずです。しかしルカは祭司たちの存在を何も書いていません。22節にあるように、両親は我が子イエスを「主に献げるため」に神殿に来たのです。彼らはイエスを聖別してもらった後で、父親ヨセフの家業を継がせようと用意してきた長男の身代わりのお金を祭司に渡して、イエスを連れて帰るつもりだったでしょう。

 しかし祭司が見当たらない。いけにえは自分たちで献げられます。そこでまず両親はイエスのために律法の定めに従っていけにえの小鳥を献げようとしました。ところがその時、そこに神の霊に導かれて神殿の境内に入ってきたシメオンがやってきて、28節「幼子を腕に抱き」ました。それは神がシメオンを通して、神へのいけにえとしてイエスを受け取られたということです。こうして主イエスご自身がそのまま神への献げものとなられるということが実現しました。「イエスがご自身を献げる」という神のご計画が実現しました。ルカは私たちには不思議に感じられる聖霊の導きによる次第をこうして物語っています。

 このシメオンは祭司ではありませんが、その仕事も、年齢も、見た目も分かりません。しかし25節には、シメオンは正しい人で、信仰があつく、聖霊に満たされているとあります。そこから彼が神の御心にかなう人物として選ばれたことが分かります。また25節の「慰められる」とは、メシア(救い主)の到来を意味しています。シメオンは幼子を見て、この子は「主なる神が遣わすメシア」だと確信しました。そして、(28-31節で)神を賛美し、(33-35節で)主イエスの家族を祝福します。

 シメオンが語る救いの光を賛美する言葉に両親は驚きました。しかし、それに続いて語られた幼子イエスの将来についての厳しい言葉に思いを深くしたにちがいありません。シメオンはマリアに向かって、幼子イエスが将来十字架につけられることを語りました。

 シメオンが語った「倒したり立ち上がらせたり」というのは石のイメージでしょうか。ほんとうに頼りになる「貴い隅の石」(イザヤ28:16)でも、ある人にとっては同じ石が「つまずきの石」(イザヤ8:14)になってしまいます。そしてつまずいた人々によって「反対を受ける」ことになります。

 この主イエスの受難に母マリアがあずかり、苦しみを共にすることになる、というのが「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉の意味でありましょう。ヨハネ福音書はその日、主イエスの十字架のかたわらに立つマリアの姿を伝えています。(ヨハネ19:25-27)。

 また、この場面にアンナという女預言者が登場します。彼女の役割は「エルサレムの救いを待ち望んでいた人々皆に幼子のことを話した」ことです。ここで「救い」と訳されている言葉はギリシア語で「あがない、解放」の意味を持つ言葉です。彼女は84歳で、神殿で夜も昼も祈ることで神に仕えていたとあります。彼女は腰は曲がり、シワだらけの年老いた姿だったかもしれません。しかし、輝きに満ち、感謝に溢れた美しい人であったに違いありません。

 シメオンやアンナがいわば高齢者として描かれているのは、救いを待ち続けた旧約の長い時代を感じさせます。そして彼らはついにイエスの誕生という、その完成の時に招かれたことを印象づけます。

 また、きょうの箇所で「主の律法で定められたことをみな」忠実に行っていると何度も繰り返されていることも、神の救いの計画が成ったことを感じさせられます。このようにルカ福音書はこの物語を伝えながら、主イエスの到来により待望の時が成就し、神のご計画が実現したこと、すなわち救いの時代が到来したことを表現しようとしているのです。

 また同時に私たちは、このシメオンやアンナの姿に自分自身を重ね合わせてみることができるのではないでしょうか。29-32節のシメオンの言葉は、「シメオンの歌」と言われています。私たちの礼拝式文で「ヌンクディミティス」(今こそ去ります)として歌われていますね。

 この歌は主イエスとの出会いの中で「安らかに(平和のうちに)」憩うことを願う私たち自身の祈りでもあります。日々眠りにつく前に唱えてもよい歌です。そして私が皆さんと最も分かち合いたいことは、私たちの日々の歩みの中にも、やはり聖霊の導きがあるのではないかということです。その導きによってこそ、シメオンやアンナのように主イエスに出会う喜びを味わうことができるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2023年12月25日月曜日

馬小屋で生まれるということ

 2023年12月24日 主の降誕主日(小田原教会)江藤直純牧師

イザ9:1-6; 詩96; テト2:1-20; ルカ2:1-20

1.

 2週間ほど前だったでしょうか、パレスチナから送られてきたテレビのニュースで、瓦礫の中に赤ちゃんの人形が写っていて、司祭と言ったか牧師と言ったかが、「今イエスさまがお生まれになるなら、その場所は瓦礫の只中でしょう。ちょうどこのような姿で」といった趣旨の話しをしていました。暖かなエアコンが効いている部屋で、きれいで柔らかな毛布の中に寝かされている赤ちゃんを見慣れている私たちは、瓦礫の只中に寝かされている赤ちゃんイエスさまなど想像することができません。

 しかし、二千年前のパレスチナ、現在ヨルダン川西岸地区と呼ばれる地域の一角にあるベツレヘムという小さな町でお生まれになったイエス・キリストのベッドは宿屋の外の馬小屋の飼い葉桶だったと言い伝えられています。絵本の中に描かれている美しくも神秘的な場面です。十代半ばのうら若い母親マリア、母子をしっかりと守ろうとしている青年ヨセフ、三人を優しく見守っている馬やロバ、神さまの祝福を伝える天使たち・・・。そのとおりなのですが、しかし、彼らの置かれていた現実はといえば、絵本が描き出す貧しくも美しく幸せそうな様子よりもずっと過酷なものでした。

 二千年の後、同じパレスチナで、家も学校も病院さえも破壊され、多くの人々が殺され傷つけられている町中の至るところが瓦礫の山と化しているその只中で眠っている赤ちゃんイエス、二千年前の場面といくらも違わない、忘れたくても忘れられない今年のクリスマスです。そのことを胸に刻みながら、クリスマス物語をご一緒に聴いていきましょう。

2.

 なぜこの時期に親子三人は北のガリラヤ地方のナザレではなく南のユダヤの片田舎、ベツレヘムという町にいたのでしょうか。これは誰もが知っての通り「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(ルカ2:1)からです。強大なローマ皇帝の権力を考えると、庶民が抗うことなどできません。ヨセフの遠い先祖がダビデなのでその出身地ベツレヘムで登録をしなければならず、彼は身重のマリアと共に何日も何日もかけて旅をしなければなりませんでした。

 けれども、ローマ帝国はそれはそれは広大な領土を持っていました。人口調査のために膨大な人と時間とエネルギーが必要だったでしょう。何ヶ月ももしかしたら一年以上もかかる大仕事でしょう。

 では、ヨセフとマリアはなぜこの時期に先祖の地、ベツレヘムまで旅をしたのでしょうか。すでに妊娠していることが分かっていたマリアを連れての長旅を何も好き好んで臨月のときにすることはないだろうにと疑問に思いました。大きなお腹を抱えてガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで移動するのが大変だと思えば、つわりが一段落して妊婦が安定期に入ってから旅するか、あるいはお産がすんでしばらく経って母子ともに落ち着いてからおもむろに登録のための移動をすればいいではないかと考えます。

 なのに、彼らはわざわざこの時期に長旅をしてベツレヘムへ行って、そこにいるうちに案の定「マリアは月が満ちて、初めての子を産んだ」(2:6)のです。そうすると、ヨセフとマリアは意図的に出産直前の時期を選んだのではないかと疑ってしまうのです。何故? 理由は簡単です。郷里の人たちに出産を知られたくなかったからでしょう。ヨセフもマリアもそれぞれ天使のお告げを受けて、神の子を宿すことと産み育てることを決心をして、受け容れたのですが、それでもやはりなるべく人目に触れたくはなかったのではないでしょうか。正式に結婚する前に身籠もることもお産することも当時は御法度だったからです。しかもヨセフは身に覚えがなかったのですから。

 ですから、マリアは世間の冷たい、蔑みの眼差し、非難の目に晒されることを覚悟しなければなりませんでした。そうならば、そのような出産が話題になることをなるべくなら避けたかったに違いありません。だから選りも選ってあの時期のベツレヘム行きだったのではないかと私は推測するのです。私が申し上げたいことは、神の子イエスさまはマリアのような立場の人の許をあえて選び、そのような困難な状況を生きている人に寄り添い、苦労と共に、その人の生きる喜び、生きる希望と力の元となられたということです。

 赤ん坊の誕生ということに優る喜びはないし、周囲の人々に祝ってもらえるときにその喜びは二倍にも三倍にもなるでしょう。しかし、馬小屋にお祝いに真っ先に駆けつけてくれたのは社会の最底辺の羊飼いたちでした。彼らが社会の最底辺というのは厳しい労働とか経済的な貧しさのゆえにというだけではありませんでした。仕事柄律法の定めに従って安息日を重んじ、礼拝や祭儀を行うという宗教生活を規則正しく守るという暮しができないがゆえに、彼らは宗教共同体でもあるユダヤ人社会では最底辺の人間たち、「地の民」と呼ばれて見下されていたのでした。でも、事実は最底辺の人たちこそが主イエスにとって最も近しい存在だったのです。それが、羊飼いたちが真っ先にお祝いに駆けつけてくれたというエピソードが象徴的に表わしていることなのです。

 黄金、乳香、没薬という高価な贈り物を持ってはるか東方の学者たち、つまり外国人の学者たちが長い長い旅を押して訪ねて来てくれた話しもクリスマスには欠かせません。木星と土星のまれにしか起こらない接近を天文学、占星術、諸外国の宗教に関する知識を総動員してその意味することを探り当て、多大な費用を惜しまず大きなラクダの隊列を組んで砂漠を越えて、命懸けの旅をして新しい王の誕生を祝いに来たのです。国も人種も宗教も異なるけど、彼らは真理を探究する人たちでした。しかし、これもまた裏返せば、同じ神の民、同じ信仰を持つ同胞たちの中にはそういう人はおらず、神の民には受け容れられず、歓迎されなかったということを表わしています。ヨハネ福音書は印象的に「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(ヨハ1:11)と記しています。

 マタイ福音書には、王としての地位が脅かされることを恐れたヘロデによってベツレヘム周辺一帯の二歳以下の男の子が皆殺しにされたという残虐な話しが語られています(マタ2:16-18)。二千年後の今も多数の幼な子が戦争の犠牲になっています。赤ちゃんイエスは命の危険と死の恐怖と悲しみに襲われているその子たちと運命を共有したのでした。

 さらに天使の導きで親子三人はエジプトに脱出します(マタ2:13-15)。今風に言えば、故国での家族や友人たちとの平穏な生活を捨てて、命からがら難民にならざるを得なかったのです。私の所属する教会にもアフリカのある国から家族を残し一人で逃れて、日本で正式の難民としての認定を国に求めて辛抱強く戦っている人がいます。国連の調べでは、人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団に属するなどの理由で難民となっている人の数は、2019年末の時点で7950万人でした。その後ウクライナ戦争なども起こりましたから、現在は優に8千万人を越えているでしょう。推定ではその内の40%が18歳未満だと言います。そのように現在も世界の各地で貧しくても安心して生きれる場所を必死で求めている数多くの難民たちがいます。イエスさまはその一人となられたのです。

 クリスマスの物語は、少し見方を変えれば、救い主イエスさまがいったいどこでお生まれになったのか、どんな人たちと共にいて、どんな苦しみや悲しみをその人たちと分かち合われたのか、出会った人たちはいったいどうやって救われ、新しいいのちを生きるようになっていったのか、そういうことを考える材料に富んでいます。

3.

 クリスマスの夜の物語は人の世の闇、世界の暗闇の部分を曝け出しましたが、同時にそこに一縷の光を見出すことができました。降誕なさった救い主はいったいどのようなお方なのか、だれのために生まれたお方なのかを明かしたからです。実はそれだけでなく、もう一つの明るい知らせもありました。それは、こういう人たちがいてよかったな、御心に適う人々がいるものなんだなと安堵できる知らせでした。それはどういう人たちだったでしょうか。

 30年ほど前に初めてフィンランドに行ったときは夏至の頃でした。6月24日は日本では聞いたことがなかった「ヨハネマス」という教会の祝日だったのです。クリスマスとはクリストマス、キリストマス、言うならばキリスト礼拝。ヨハネマスは洗礼者ヨハネの誕生を祝う記念日です。彼の母親はエリサベト、マリアの親戚にあたる人でした。長く不妊の女と言われていたけど、高齢になって身籠もった彼女は、若いマリアの訪問を受けました。おそらく自分の孫くらいの年の差があるマリアに対して、初めて妊娠した、しかも特別な事情のもとで妊娠したマリアに対して、その不安をおだやかに受け止めてあげ、自分の経験を語りながらマリアに母となるためのこまやかなアドバイスをし、最大の問題である神の子を産むという特別の使命について、自分の証しを通して祝福し励ましたのです。エリサベトの語りかけとそれに応えてマリアが歌った、のちにマグニフィカトと呼ばれるようになる「賛歌」(ルカ1:46-55)から想像できることは、エリサベトはマリアに「勇気を振り絞ってこの神からの大役を引き受けなさい」と言ったのではなく、「恐れや不安と共に自分自身を神さまにお委ねしなさい」ではなく、「恐れも不安もそっくりそのまま自分をお委ねしていいのだよ」というやさしい言葉だったことでしょう。

 故郷のナザレではなく、頼りになる親も親しい人も一人もいないベツレヘムで出産の日が来ました。ルカ福音書には簡潔に「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(2:6)とだけ記してあるだけです。未経験の青年ヨセフ一人ではオタオタするばかりで何の役にも立たなかったでしょう。しかし、たとえ客がいっぱいで出産のための暖かいきれいな部屋はなかったにしても、お産の時に必要なお湯を沸かしてくれる人や、赤ん坊を取り上げてくれる、お産の経験者の女性もきっといてくれたことでしょう。書いてなくてもそうだったに違いありません。貧しい庶民の中に何人かの善意の人たちがその場にいて、マリアを、つまりイエス様を助けてくれたに相違ないのです。天使とは神さまから遣わされた者です。エリサベトもそれらの手助けをした善意の人たちもマリアにとっては天使のような人たちだったことでしょう。

 「野宿をしながら、夜通し羊の群の番をしていた」(2:8)羊飼いたちは、天使のお告げを聞いて、ベツレヘムまでやって来て、何軒かの宿屋を訪れて、ついに布にくるまって「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(2:16)のです。イスラエルという宗教的社会的共同体の最下層に追いやられていた「地の民」は、それを恨んで神も仏もあるものかと言って、そっぽを向いてもおかしくはなかったのでしょうが、彼らはそうはしませんでした。なぜでしょうか。天使たちは世の支配者層、多数派の人たちのためにではなく、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」(2:11)と言ったのです。羊飼いたちは「あなたがたのため」、つまり私たちのため、この私のために救い主がお生まれになったというお告げを聞いたのです。

 だからベツレヘムまで急いで行き、乳飲み子を探し当て、お祝いをし、神に感謝したのです。では、彼らからの贈り物は何だったでしょうか。博士たちのように黄金や乳香など高価なものなど貧しい羊飼いたちに贈れるはずもありません。ルカは書き留めていませんが、羊飼いにできるもの、羊飼いにしかできないものをプレゼントしたと、私は思うのです。それは羊のお乳です。出産という大仕事で体力を使い果たしたマリアにとって、これから毎日授乳をしなければならないマリアにとって羊のミルクは何よりの贈り物だったことでしょう。日常生活の中からの、労働の現場からの献げ物でした。

 もう一つ、羊飼いのエピソードで忘れてはいけないことは、馬小屋の光景を見たあと、「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(2:17)ことです。知らせた「人々」とはどういう人たちでしょうか。羊飼いの仲間たちもきっとそうでしょう。顔見知りの村の人たちも間違いなくそうでしょう。なぜそう思うかと言えば、この出来事は私たちのため、この私のための特別な喜びごとです。そうならば独り占めしますか。いいえ、特別な喜びごと、この上なく価値のあることだからこそ、分かち合わないではいられなかったのです。自分が貧しいから手に入れたものは握りしめて独り占めするのではなく、逆にもう一人の貧しい人と分かち合うのです。

4.

 マザーテレサはそういう貧しい人たちを見て、Small is beautifulと言いました。貧しく小さな人々、社会的に小さくされた人々は生まれつきbeautifulだと言っているのではないのです。彼らもふつうの人、大事なものを得たら独り占めしたくなるようなふつうの人なのです。しかし、愛の神さまがもう一人の貧しい人の中にいて、もう一人の貧しい人として彼に出会い、接してくださるときに、なんとその人の心の中に愛の気持ちが芽生えるのです。そうすると分かち合いの行動が出て来るのです。愛の神さまは人間の心に愛の息吹を吹き込んでくださるのです。ちょうど愛の神さまが追い剥ぎに襲われて半死半生で苦しんでいる人としてサマリア人と出会ってくださったときに、サマリア人の心にこの人を助けなければという気持ちを引き起こしてくださり、彼に身の危険も顧みずに、大怪我をしたユダヤ人を助けようという愛の心を沸き上がらせてくださったのと同じです。愛の救い主イエス様が誰かをとおして自分に出会ってくださるときに、私たちには、自分の心の中にはそれまで無かったあたたかさ、人の苦しみを感じ取る心、人への優しさ、思いやり、いのちを尊ぶ思いが吹き込まれます。愛の心が芽生えるのです。ささやかではあっても愛の行動へと駆り立てられるのです。愛を生きる人へと変えられていくのです。

 ですから、突然の天使のお告げに怖じ恐れ、戸惑い、これから起こることを思って不安に陥っていたエリサベトもマリアも変えられていったのです。常識に囚われ離別という選択肢を選びそうになったヨセフも変えられていったのです。自分たちのことで手一杯で、縁もゆかりもない赤の他人の世話をするゆとりなどなかったベツレヘムの宿屋の主人たちも先客たちも生まれてくる赤ん坊のために身を削って親切にするように変えられていったのです。羊飼いたちは自分が喜び拝み賛美するだけでなく、目の当たりにした大きな喜びの出来事を誰かと分かち合わないではいられないように変えられていったのです。自分たちの身の安全や世間の評判や小さな幸せよりも、神さまから託された子を産み守り育てるという大切な務めを、たとえそれが愛する息子の十字架上の死を見届けることになろうとも、その務めを全うすることへとヨセフとマリアは変えられていったのです。

 繰り返しますが、愛の神さま、愛の救い主イエスさまが、時に姿を変え、小さく貧しくなられて、私たちに出会ってくださり、触れてくださり、私たちの心の中に入ってくださることで、私たちは変えられていくのです。はじめはほんの少しであっても、神の愛を生きるように変えられていくのです。キリストに倣う愛の生き方がベツレヘムの馬小屋で始まるのです。

 相互不信と暴力が世界を覆う闇を一層深くしています。自己中心と高慢と神を無視し時に神に背く個々人の生き方は依然として私たちの間にしぶとく蔓延っています。しかし、ゴルゴタの十字架と空虚な墓の出来事により闇の力は打ち砕かれ、光と愛が勝利する神の究極の力が示されました。そのために、御子は天の高みから降り、地の最も低い所で生まれ、惨めさや悲しみや苦しみの極みを味わわれたのです。そうすることで人間への神の愛がもたらされました。私たちこそが飼い葉桶なのです。私たちのもとに主が来てくださって、神の愛を生きるように愛の息吹を体の内に吹き込んでくださり、愛の思いを心の内に芽生えさせてくださるのです。それがクリスマスなのです。神に感謝、アーメン


2023年12月24日日曜日

礼拝メッセージ「イエス・キリスト誕生」

2023年12月24日(日)主の降誕主日  岡村博雅

イザヤ書:9章1〜6 

テトスへの手紙:2章11〜14 

ルカによる福音書:2章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

クリスマス、おめでとうございます。教会暦の上では今日は待降節第4主日ですが、湯河原教会では主の降誕主日として祝います。今日も神様はすべての人を礼拝に招いています。

ですから、ルーテル湯河原教会は世界中のどの国の人も、男の人も女の人も、お年寄りも子供も、一人ひとり違う考えの人も別け隔てなく受け入れます。そして、私たちは今日、この礼拝ですべての人の救い主としてお生まれになった御子イエス様を喜んで迎えます。

子どもたち、前にいらっしゃい。(子供の礼拝)(子どもたち席に戻る)

 今日の福音書のルカ2章1〜7節にはイエス様の誕生のいきさつが述べられています。学者たちの研究によれば、細かな矛盾や未解決の問題があるものの、この記録は大筋では信頼できます。イエス・キリストの誕生は、今からおよそ二千年前のことです。それは広大なローマ帝国が完成してからまだ間もない頃です。そのローマ帝国の支配下に置かれたユダヤの社会の片隅でイエス様は誕生します。イエスがなぜベツレヘムで生まれたのか、それはルカ2章の初めにあるように住民登録のためでした。

 学者たちが現在までに発見した人口調査に関する古文書から、皇帝アウグストゥスの頃から、ほぼ14年ごとに人口調査が実施されたことが推定できるそうです。また、その登録は各人が故郷に戻って行ったということも、エジプトから発見されたパピルス文書によって確認できるのだそうです。つまりルカは1節から7節でマリアとヨセフの経験は作り話ではない、歴史的な出来事なのだと語っているのです。

 そして8から14節ではイエスの誕生の意味が語られます。登場するのは羊飼いたちと、主の天使と天の軍勢です。羊飼いたちは天の側から、すなわち神から、救い主の誕生を知らされます。この物語は羊飼いたちの信仰によって語り継がれたものであることことがわかります。彼らは自分たちが経験した真実を語っており、ここに記されている、喜びに満ちたやり取りから彼らの信仰とイエス様の誕生の意味が伝わってきます。

 イスラエルの人々はバビロン捕囚という苦難を経て、長い間救い主の誕生を心待ちにしていました。第一朗読をご覧ください。イザヤたち預言者は救い主の誕生を預言していました。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た」。「一人のみどり児が私たちのために生まれた」と。

 2000年前のある夜、野宿をしていた羊飼いたちはなんの前触れもなく「恐れるな、今日、救い主がお生まれになった」と預言が成就したことを知らされました。そのときの情景と言い、天の軍勢の高らかな賛美の声といい、羊飼いたちは、これは本当のことだと素直に信じたに違いありません。

 「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」が神からのしるしだと告げられた彼らは、そのお告げを信じました。仲間どうしで声をかけあって、これがしるしだと言われた「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を探して夜の闇の中に、みんなで声を掛け合って出かけていきました。「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と。この言葉からは、喜び勇んで赤ちゃんイエス様に会いに行く羊飼いたちの有様がありありと浮かんできますね。そしてついに彼らは粗末な小屋に宿をとっていた、マリアとヨセフ、そして、「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を見つけるのです。この出来事にイエス様の誕生の意味が示されています。

 イエスの誕生の意味は、その出来事を正確に、かつ詳細に調べ、理解すれば分かるというものではありません。それはむしろ心を開いて待つ者に明かされていくのです。羊飼いたちがそうであったように、天使は、心を開いて待つ者に近づき喜びを告げました。「心を開いて救いを待つ」。そうすることで誰もが自分にとってのイエスの誕生の意味を悟ることができます。その人の生まれや育ち、家庭や社会環境の違いなどは一切問題になりません。大切なことは、「聞いて信じる」心があるかどうかです。羊飼いはまさに、「聞いて信じる」心の人々でした。

 ではマリアとヨセフをめぐる状況はどうだったでしょうか。皇帝が求める住民登録に、不満を言うこともなく、ただ淡々と従って故郷に戻るこの無名のカップルには、人々が憧れたりするものがまったく無かったと言えます。この二人には、私たちが関心を抱き、目を奪われるような、能力も業績も地位も何もありません。全く特別ではありません。

 また「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである」という言葉からは、今にも出産しそうな女性を受け入れて面倒に巻き込まれたくない、貧しい旅人ではもうけにならない、そんな人々の冷たさと居場所のなさが響いてきます。

 粗末な小屋で出産したマリアが初子をくるんでやったものは、一枚の使い古された布であり、その子が寝かされた場所は飼い葉桶です。しかし、これこそが神がすべての人の救い主である乳飲み子のためにマリアとヨセフを通じて供えてくださったものです。

 物の面ではほぼどん底にいる彼らですが、しかし心の面ではどうでしょうか。この両親は神と共にあり、お互いを慈しみあい、いたわりあう優しさに溢れていたでしょう。与えられたすべてを善いものとして感謝して受け止めていたのではないかと思います。彼らにあっては物や力を重視する価値基準が完全に逆転しています。

 この出来事には人間の常識ではとうてい考えられない神秘があります。イエス・キリストの誕生は神の救いのご計画によるものです。そのもっとも深いところには、すべての人を別け隔てなくどこまでも愛して、そのために、独り子をも惜しまずに与えてくださったという神の私たちへの愛があります。

 その愛はすべての人への愛です。それは、国籍によらず、人種によらず、主義主張によらず、まったく差別をしない、人類すべての救い主としてお生まれになった御子イエス・キリストの普遍的な愛です。

 しかしイエス・キリストの誕生の意味は即座に理解できるものではありません。それは、聞いて、信じて、訪ねあてるとき初めて私たちにも明かされてきます。救い主は2,000年前の「今日」生まれただけではありません。私たちが人間社会に居場所を見つけられずに飼い葉桶に寝かされた幼子を訪ねあてる「今日」、救い主は私たちのうちに、あなたのうちにきっとお生まれになります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

2023年12月21日木曜日

目を覚ましていなさい

 2023年12月3日 小田原教会 江藤直純牧師  

イザヤ63:19b-64:8; 詩80:2-8, 18-20; Ⅰコリ1:3-9; マコ13:24-37

1.

 アドベントの第一週は必ず終末に関する日課が与えられます。マルコ福音書の13章はマルコの小黙示録と昔から言われてきました。ここの小見出しを並べてみると、神殿の崩壊の予告、大きな苦難の予告、人の子が来る、いちじくの木の教え、目を覚ましていなさいとなっていて、まさしくこの世界の終わりに関する予告や教えがぎっしりです。

 終末、一週間の終わりのことではなく、世界の終わり、歴史の終わりのことだと思うとどうしてもネガティブな気持ちになります。ですから正直言って聖書には余り出て来てほしくない部分です。バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井いっぱいに描かれているミケランジェロの「最後の審判」は実に名画だと思います。絵としては首が痛くなるまで見上げていたくなります。しかし、自分がその中に審判を受ける者の一人としていると思うと、穏やかな気持ちではいられません。自分が立派な人間だとは決して思えなくても、最後の審判とか、断罪とか、滅びとかと聞くと、逃げ出したくなる気がします。それがキリスト教が教える神さまのご計画であり、歴史の流れだというのなら避けられないとは思うものの、聖書が説く終末とはほんとうにそのように恐ろしいものなのかと立ち止まって考え直したいのです。東洋的仏教的な末法思想とは別物であるはずです。

2.

 世界の終末、歴史の終末というだれも経験したことのない事態について考えを深めようとするのは至難の業ですが、一人の人間の終末ということならば、自分自身の体験としてはいまだ未経験ですが、身近で見たり聞いたり経験したりすることはあります。抽象的観念的な死ではなく、愛する人が死ぬという個別具体的な事実、出来事を経験するのです。オギャーという喜びの泣き声とともに始まるこの世でのいのちは、長いか短いかの違いはあっても、平凡か波瀾万丈かは別としていろいろな出来事の積み重ねで豊かなものとされていきます。ファミリーヒストリーならぬパーソナルヒストリーは様々なエピソードに溢れています。100回以上も続いているNHKの朝ドラも大半は一人の主人公の子供時代から晩年までが描かれていて、見る人たちを笑わせたり涙ぐませたり喜ばせたり励ましたりします。それが私たちの人生です。しかし、誰であれ最後の時を迎えます。それが死です。誰にも誕生があり死があります。しかし、多くの場合、その死は、或いは死の直前までが穏やかなもの、安らかなものだとは限りません。

 現に今私が10日前にお見舞いに行った方は、夏前にガンが見つかったときにはすでにステージ4だったのです。部位も難しいところで発見された時期も遅かったので、手術での治療はできませんでした。病院でできる治療はすべてやった後、今は娘さんが休暇を取ってご自宅に引き取って介護をなさっています。いわば在宅ホスピスです。夫の方はご高齢なので、お一人で暮らすのが精一杯で、末期の妻の介護も看取りもご自分で引き取ってできる状態ではありません。お見舞いに伺ったときも、その方は酸素マスクで命を支えられており、娘さんは何度も何度も繰り返し痰の吸入をなさっていました。もちろん口から食事を摂ることもできなくなっているので点滴が繋がれていますが、しかし、この時点で栄養を入れると浮腫んでかえって苦しいので、今はむしろ栄養分は控えています。もはや時間の問題です。私はいつ電話がかかってくるかと案じつつ、祈りつつ毎日を過ごしている状態です。

3.

 患者の方のこういう状態を終末期というのでしょう。では、それは迫りくる死とか最後の審判とか滅びという言葉に代表され恐るべきものでしょうか。色で表わすならば黒、闇黒、くらやみでしょうか。たしかに、その方の状態を見て、そう思われる方もいらっしゃることでしょう。これこそまさにその人の終末だ、と。

 先日若松英輔というカトリックの信徒で文芸評論家また批評家の方が著わした『悲しみの秘儀』という書物を読んでいて、その中で紹介されていた岩崎航(わたる)という人のごく短い一編の詩と出会いました。岩崎航という人は三歳の時に筋ジストロフィーを発症し、それ以来ずっとベッドの上での生活を強いられてきた人でした。身動きが自由でないばかりではなくて、呼吸すら医療機器の助けを必要とする人です。人はこれを見て、人生即終末だと思うかも知れません。若松は岩崎が書いたある詩を私に教えてくれたのです。

   どんな/微細な光をも/捉える/眼(まなこ)を養うための/くらやみ

 私は一瞬息を呑み、言葉が出て来ませんでした。何度か静かに読み返しました。著者の若松英輔はこの詩の後に次のような彼の思いを書いていました。

 「暗闇は、光が失われた状態ではなく、その顕現を準備しているというのだろう。確かに人は、闇においてもっとも鋭敏に光を感じる」。そう言ってさらにこう続けています。

 「ここでの光は、勇気と同義だが、同時に希望でもある。勇気と希望は、同じ人生の出来事を呼ぶ二つの異名である。内なる勇気を感じるとき人が、ほとんど同時に希望を見出すのはそのためだ。この詩集の序文で岩崎は、真に希望と呼ぶべきものは『絶望のなか』に見出したと語る」と。そして、岩崎のもう一つの言葉を引用しています。

 絶望のなかで見いだした希望、苦悶の先につかみ取った「今」が、自分にとって一番の時だ。そう心から思えていることは、幸福だと感じている。

 岩崎航という詩人が三歳の時から、自分の置かれた状況のことを「どんな/微細な光をも/捉える/眼を養うための/くらやみ」と捉えることができるようになるまでの十年間だか二十年間だかは、傍から見てだけでなく、ご本人にとっても間違いなく「くらやみ」だったことでしょう。「絶望」と「苦悶」の日々だったことでしょう。彼が終末とはまさにこう言うものかと思っていたとしても少しも不思議ではありません。

 しかし、その「くらやみ」は言葉の本当の意味での終末ではありませんでした。その「くらやみ」は「どんな/微細な光をも/捉える/眼を養うための/くらやみ」だったのです。「希望」を見いだすための「絶望」だったのです。たしかにあれは客観的に言えば「苦悶」だったでしょうが、今は「幸福」と感じることができるようになったのです。これこそ終末としか言いようがないと思っていた事態の先に、本物の、幸福な終末が待っていたのでした。

4.

 マルコ13章の今日の日課の前の三つの段落には、神殿の崩壊の予告、終末の徴、大きな苦難の予告という重たい、まさに暗闇を予感させる話しが続いていました。本日の福音書の日課が始まる「人の子が来る」という段落にも次のように書いてあります。「これらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。24-25節です。

 しかし、それが終わりではありませんでした。26-27節を見落とさないでください。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と。暗黒のまっ唯中にまったく異なるものが登場するのです。

 その次の「いちじくの木の教え」の段落の中にも、29-31節にこう記されています。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代はけっして滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。わたしの言葉は滅びない。わたしの約束は変わらない。わたしの意志はどんなことがあっても、天地が滅びるようなことが起こっても、必ず成就される。すべての者を救いに招くとのわたしの愛は決して決して滅びない、決して変わらない、必ず成就されるのだと宣言なさっているのです。

 32節以下の段落には「目を覚ましていなさい」と小見出しが付けられています。それはこの段落の中で、主イエスが「目を覚ましていなさい」と三度もおっしゃっているからです。では、目を覚ましていなさいとは、一睡もするな、24時間起きていなさい、今日も明日も明後日も眠ってはダメだ。その時がいつ来るかは「だれも知らない。天使たちも子も知らない」終末の到来に備えて、ずっと起きていなさい、目を覚ましていなさいという命令でしょうか。いいえ、そうではないでしょう。むしろ、くらやみの中にあっても、たとえ微細であれ、光を捉える眼を養っていなさいとの勧めのことではないでしょうか。今くらやみに包まれていても、必ずその中に、その奥に光はあると信じる勇気を持つこと、あるいは、光は必ず光のほうから訪れてくるとの希望を持つことを勧められているのではないでしょうか。言い換えれば、主イエスが終わりの時にすべての人を招く、救うとの言葉を、約束を、意志を揺るがずに信頼していなさいということではないでしょうか。

 27節の言葉が気になります。それは「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と語られているからです。呼び集められるのは「彼によって選ばれた人たち」だと言うのです。では、「選ばれた人たち」とはいったい誰のことでしょうか。やはりごく限られた、優れた人たちのことでしょうか。

 10月15日の礼拝で聞いたマタイ福音書22章の「婚宴のたとえ」の中の一節を思い出してください。終末の時に到来する天の国は「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(マタ22:1)と言われました。いざ婚宴のときが来たとき、招待されていた人たちが無礼にも断り、呼びに来た人たちを殺してしまいました。神の救いの約束を無視し、足蹴にしてしまったのです。その結果どうなったか。王は家来たちにこう命じました。「だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(マタ22:9)。実際「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」(マタ22:10)のです。一人でも多く婚宴に招きたい、それが王の思いでした。

 テモテヘの手紙一には「神はすべての人々が救われ真理を知るようになることを望んでおられるのです」(2:4)と書かれています。ペトロの手紙二には「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(3:9)と言われています。そうです。聖書のどこを見ても、くらやみ、苦難、滅びの中で罪人が潰れ、消え去るのではなく、一人でも多くの人が真の終末に、真の救いに、新しい天に入れられていくのを神さまは望んでいらっしゃるということが書かれているのです。そのための主イエス・キリストのご降誕であり、十字架であり、復活なのです。

5.

 冒頭でご紹介したガン末期の方は、不治の病いというくらやみと夫を残していくという苦しみの中で、確かに光を見出していました。最初はドクターにその身を委ねられましたが、もはや回復は望めないと知り、ご自分のすべてを子どもの時から信じ信頼し従って来た主イエス・キリストに委ねることを明らかになさいました。あの日牧師が枕元で祈りを捧げたとき、もはや声は聞こえませんでしたが、たしかにその唇は「アーメン」と唱和していました。「では、帰るからね」と夫の方が告げたとき、はっきりと首を横に振り「イヤです。ここにいてほしい」という意思表示をなさいました。慎ましやかな彼女は60年になろうとする結婚生活でそういう自己主張をどれくらいしてきたかは分かりませんが、これ以上ない愛の表現だと思いました。高齢の夫はただちに残ることを決め、手を握りしめ、やさしく撫でさすり続けました。普段人前ではしない愛の表現でした。その手の温もりを通して神さまの手の温もりが伝わったことを信じます。この信仰と希望と愛があるのですから、光を捉えているのですから、魂の目は覚めているのですから、いつ真の終末を迎えても安心して「アーメン」と応えるでしょう。私たちもそうしましょう。アーメン

2023年12月17日日曜日

礼拝メッセージ「闇に勝つ光」

 2023年12月17日(日)待降節第3主日 岡村博雅

イザヤ書:61章1〜4、8〜11 

テサロニケの信徒への手紙:5章16〜24 

ヨハネによる福音書:1章6〜8,19〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 バラ色のローソクに火が灯りました。主の到来の喜びを表すバラ色です。アドベントは御子の降誕の喜びをワクワクしながら待つ時であり、またもう一方では悔い改めが求められる時です。喜びと悔い改め、待降節にはこの両面があります。

 ある方が教会に来て神様の前に悔い改めることを知るようになって心が落ち着いたと証ししてくださいました。この方は少し前に大変悲しい、苦しい経験をされた方ですが、いま教会に導かれて聖書を学び、聖書に照らしてご自分の過去を顧みる事ができるようになってきたとおっしゃいます。

 教会に来る前は罪というのは犯罪のことだと思っていたので自分に罪があるとは考えられなかった。自分は正しいことを言っているし、正しいことをしようと頑張っていた。けれども、人に対しては寛容になれなかった。今、自分はずいぶん変わったと思う。固まっていたものが溶けたようでとても楽になった。そうおっしゃいました。

 その方ばかりでなく、私たちはどうしても自分を正しいと思う。人間とはそういう者ですね。自分は正しくて、間違っているのは相手なんだと思いがちです。しかし、謙虚にされ、悔い改めに導かれるとき、過去や現在の囚われから解放されます。

 そういう経験をすると、私たちは嬉しくなります。喜びに満たされるからです。悔い改めというのは実は深いところでの、いわば魂の充足なんですね。神は恵みによって私たちを喜びで包んでくださり、やがてその喜びは、神への信頼、救いへの希望へとつながっていきます。誰にも心底、悔い改める経験があると思いますが、悔い改めは喜びの経験ですから恵みというよりほかありません。このアドベントの第3週、喜びの主日に神の前に悔い改めることこそが本当の喜びなのだということをまず心に留めたいと思います。

 今日の福音は先週に続いてヨハネが登場します。「ヨハネは証しをするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるためである」(ヨハネ1:7)と宣言します。ヨハネは闇の世界に光として来られる主イエスを証しする役割のために来たのです。この世界は暗闇であるということ報道から感じます。ガザ地区の戦闘、ウクライナでの戦争、アラブの武装勢力などに目を向ければ、全くそのとおりです。人類はきっと有史いらい常に争いあい、殺し合っています。そして私たちの心の中にも暗闇がありますね。

 そんな人類の住む闇の世界に、光として、真の救いとして来てくださった主イエスを指し示すこと、それがヨハネの役割でした。

 聖書教会共同訳ではヨハネ1章5節を「光は暗闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と訳しました。新共同訳では「暗闇は光を理解しなかった」としていますが、「闇は光に勝たなかった」という言葉こそがヨハネ福音書が伝えるメッセージではないかと思います。なぜならキリストはかならず人類の闇に勝利してくださるからです。それが聖書全体が伝える終末における世の完成のありさまであるからです。

 さて、第1朗読をご覧ください。イザヤの預言ですが、イザヤ61章1節に、「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた」とあります。これはもちろん主イエスご自身のことですけれども、主によって聖霊の洗礼を受けたことに目覚めた、私たちのことでもあります。

 主が私に聖なる霊を注いでくださいました。聖なる霊が私をとらえています。何のためでしょうか。協力するためですね。聖霊に協力するためです。つまり、「遣わされて、貧しい人に良い知らせを伝えるため。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人に解放を告げる」ためです。(イザヤ61:1)

 これを私たち、このクリスマスへの準備の時に、できたらいいなあと思います。まだクリスマスまで一週間あります。祈りながら、主イエスの思いを心に浮かべながら、身近なところでやっていきましょう。「打ち砕かれた心」の人、きっとまわりにいます。その人の思いを聞いて、それを、主のみ心を思ってそっと包みます。いろんなことに「捕らわれている人」はあなたに向き合ってもらい、聞いてもらううちにきっと真理に気づき自由になります。

「だいじょうぶ。あなたは救われている」という「解放」の喜びを、心に思って、できれば言葉に出して告げ知らせて、共に喜べたなら、それも私たちの証しにちがいありません。

 イザヤ書10節にあるように、「主は救いの衣を私に着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」(イザヤ61:10)。まさにこの日を、私たちは待ち望みます。

 これは、限りのある人間の言葉で表現していますが、あらゆる想像を超えたこの日を、私たちは待ち望みます。どうぞ私たち自身が縛られている認識や良識の縄目を取り払って、自由に豊かに思い描いてください。神はどんな「晴れ着」をまとわせてくださるのか、どのように「花婿の冠」「花嫁の宝石」で飾っていただけるのか、聖書の言葉にそって楽しみにしたいです。確かに闇が深い時は忍耐がいります。しかし、神には、私たちを用いようとされる「とっておき」の計画があるのです。私たちはその日を待ち望みたいですね。

 11節には「主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」(イザ61:11)とあります。この私にそんな栄誉が与えられるなんて夢のようですが、これが神の約束です。それを、私たちは信じます。それはすべて神のご計画であり、その聖書的な表現ということですね。

 最後にパウロの手紙から聞きたいと思います。一テサロニケ5章23節に「平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」とあります。「くださいますように」ということは、未来の話で、これからのことですね。「平和の神御自身が」やがて「あなたがたを全く聖なる者として」くださるというのです。嬉しいことです。

 また、続いて、「霊も魂も体も何一つかけたところのないものとして守って、主イエスの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」とあります。「イエス・キリストの来られるとき」とは未来のことです。つまり、神の国が完成するそのときです。まさに世に対する真の勝利の時です。パウロは神が「やがてそうしてくださる」と確証してくれているのです。

 私たちは、実はいつも、何か「そこが欠けている、ここも欠けている」と様々なことについて不十分に思っていませんか。それこそ世の中のことも自分のことも欠点だらけだと思ってはいないでしょうか。でもそれは、神がそういったものをこれから「欠けたところのないもの」、「非のうちどころのないもの」としてくださるためだと思ってください。

 パウロは24節で「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ず・ ・そのとおりにしてくださいます」(一テサ5:24)と、そう結んでいます。

 だからこそ、この真実に立つからこそ、あなたは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサ5:16)と命じて私たちを励ましています。そして、それこそが、主、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(一テサ5:18)。と高らかに宣言するのです。これはまさに神の助けによる聖霊による仕業です。私たちはこれを、このクリスマスの心備えとして、喜び、祈り、感謝を実践していきましょう。

 私たちは、やがて主のみもと、神のみもとで「救いの衣」を着せていただき、「恵みの晴れ着」をまとわせていただき、「花婿のように輝きの冠を」かぶらせていただき、「花嫁のように宝石で飾って」いただくことを、夢見ます。(イザヤ64:10)その喜びのために、「永遠なる」「神からの」「とっておきの」ご褒美を楽しみにいたしましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年12月10日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊による洗礼」 

 2023年12月10日(日) 待降節第2主日  岡村博雅

イザヤ書:40章1〜11

ペトロの手紙二:3章8〜15

マルコによる福音書:1章1〜8

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 今日と来週の福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表だと言えます。ヨハネは主イエスを来るべき方として指し示します。私たちにとって主イエスの到来は2000年前にすでに起こったことです。今日はこの礼拝を通して、主の到来の意味を深く味わいたいと願います。

 さてマルコは、福音書の始めにまずこう書きました。1章1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これはまるで、この福音書全体を表すタイトルのようです。

 マルコは、イエス・キリストを「神の子」と呼びました。今私たちはイエス・キリストは「神の子」だという信仰を生きています。今の時代を生きる私たちでも自分はクリスチャンだと軽々しくは言わないと思いますが、マルコの時代、主イエスは「神の子」だと人前で口にすることはまったく命がけだったことを思います。

 この当時、ユダヤはローマ皇帝の支配下にあります。そして、ローマ皇帝は自分の支配下にある人々に、自分を神として拝むことを強制しました。そのような強制に反して、マルコは、「イエス・キリストは神の子」と宣言したのです。それはローマ皇帝に対して、本当の神の子は、あなたではないと反旗を翻したのも同然ですから、この宣言そのものが迫害のきっかけにされるかもしれないものでした。

 「ブギウギ」という朝ドラを見ながら思いますが、第2次世界大戦中、日本では誰もが天皇を神と崇めるように求められました。そんな中でキリスト教会の指導者たちは、文部省の官僚から、ドイツが多くのユダヤ人を殺したように、「天皇陛下は神であらせられる」と認めないなら、「日本のごくわずかなキリスト者を皆殺しにするか、蒙古の奥地に追い払うことなど何でもない」という脅しを受けたと言います。

 私たちは毎年、終戦を記念しますが、マルコが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り出したことを思い巡らすとき、日本が戦争に負けたおかげで、私たちは政治権力者の横暴から救われたことを思います。主イエスは「神の子」だと自由に言えない歴史がついこの間の日本にもあったことを思います。

マルコが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言ったときの、「福音」という言葉も意味深いものです。福音と訳された、ギリシア語のエヴァンゲリオンという言葉には、「喜びの知らせ」という意味があります。この当時、「エヴァンゲリオン」という言葉は民衆に広く行き渡っていました。当時のローマで、「エヴァンゲリオン」とされたのは、たとえば神であるローマ皇帝に王子が生まれる。するとその喜びの知らせは国民への福音とされました。また、その王子が即位すると、民衆は、これはエヴァンゲリオンだと喜ぶように強制されました。

 そのような中で、マルコは「神の子イエス・キリストのエヴァンゲリオン、福音」と書きました。これはローマ皇帝に向かって「あなたが王であることは私たちのよろこびではない。神の子イエス・キリストこそがわたしたちの本当のよろこびだ、まことのエヴァンゲリオン、福音だ」と宣言したことを意味します。


 使徒ペトロの伝道説教を通訳したとされるマルコは、自分がペトロやパウロから直に聞いた話を、イエス・キリストと共に生きる喜びに満ちあふれて、この福音書に書き記しました。

では今日の聖書箇所の福音はなんでしょうか。それは今読んだ、最後のところにあると思います。洗礼者ヨハネはマルコ1章7節以下で「わたしよりも優れた方が来られ、その方は、聖霊で洗礼をお授けになる」と預言しました。

 これはこういうことです。イエス・キリストが来られて、人類すべてに聖霊を授けるという神の愛のみ業をなさる。すべての人が、神の愛のうちに、イエス・キリストによって、聖霊の洗礼を受けると理解できます。これはまさに福音にちがいありません。

 主イエスの到来によって、全人類が「聖霊による洗礼」をすでに受けていると信じるなら、もうこれは「皆さん、おめでとうございます!」ということです。

 そしてやがて、全人類が、神のみもとで、「聖霊による洗礼の完成の日」という究極の恵みの時を迎える。その完成の日に向かう「完成への時代」が、今、主イエス・キリストによって決定的に始まっている。その人が気づいていなくてもそういう道を人類は歩んでいます。

 さて今日の箇所では、この聖霊による洗礼と、洗礼者ヨハネの洗礼とが対比されています。ヨハネは「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(マルコ1:7)と自分の限界を示していますが、それは彼の洗礼が「悔い改めの洗礼」(マルコ1:3、8)だからです。

 「悔い改め」は尊いことです。でも人間の業です。自分で悪かったと思って反省して、自力で努力して直して、新たに決意して、少しはましになる。でも人間のすることですから、反省は長続きせず、努力にも限界があり、決心は揺らぎます。それに本人の考え如何で、洗礼を受ける人と受けない人が出てくるでしょう。それは、「悔い改めの洗礼」の限界です。すべては自分の決意次第となってしまうのはそれが人間の業だからです。

 しかし「聖霊による洗礼」は違います。聖霊は一方的に天からくるものですから、人間の世話にはならない。聖霊は自ら降ってきて、人を覆います。その人間が回心していようと、していまいと、その人を覆います。どんな善人にも悪人にも太陽の光が降り注ぐように全ての人を覆います。

 神に創造された人類は誰もがみんな聖霊の宿る魂を持っている。だから誰もが聖霊を受けることができます。そこにおいてこそ、真の意味での人類の回心が始まります。これが、「聖霊による洗礼」です。それは、もはや「個人の救い」をはるかに超えた、人類の救いとも言うべきダイナミックな神の愛のみ業です。

 ルターが「信仰のみ」と指し示すとき、こういう洗礼を、私たちは信じます。すべての人が、自らの魂においてそのような洗礼を受けていること。そしてすべての人がそれに目覚めて、やがてすべてが完成していくことを、待ち望みます。

 先程の、ペトロの手紙にこうありますね。9節、「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と。神は、すべての人が救われるように、一人も滅びないように、すなわち、すべての人が「聖霊による洗礼」を受けていることに目覚めて真の回心に至るように、「忍耐して」おられます。誰もがすでに神の子として救われているのに、それに気づいていないからです。人々は、それに気づいていないからこそ、どうでもいいものを追い求めたり、もう終わったと絶望したりしているわけでしょう。

 「私たちはもう、救い主によって、聖霊による洗礼を受けている。そしてやがて、聖霊による洗礼がすべてを完成させる」このような神の救いに目覚めて、信じ続けることがこの世での救いですし、これに気づいていないことがこの世での滅びの状態です。

 いつの日かみんなが目覚めて、一人も残さずに神の国に入るまでと、神は忍耐して導いておられる。その遠大なプロセスが、「138億年の宇宙の歴史」だし、「主イエスの誕生から2000年の世界の歴史」ということでしょう。

 この世のものは、すべて滅び去ります。太陽だって50億年後には燃え尽きて終わりを迎える。すると大膨張した炎に地球は飲み込まれてしまう。でも「聖霊による洗礼」の恵みを受けた私たちの魂は滅びません。この世のものはすべて消えていきますが、私たちの魂は、永遠に消えない「聖霊による洗礼」を受けて、神の愛に与っているからです。

 このことを信じたとき、なんだか、勇気が出ませんか。この世のことでちょっと悩んでいても、この世のものをちょっと失っても、この世のことがちょっとうまくいかなくても、「聖霊による洗礼」を思ったとき、ちょっと勇気が出ます。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう」 (二ペトロ3:12) と、ペトロの手紙では言っていますが、同時に、「しかしわたしたちは、新しい天と新しい地を、神の約束によって待ち望んでいる」(二ペト3:13)と言っています。

 この世の心も体も、ぜんぶ溶け去りますけれども、魂は溶け去りません。焼け崩れないし、燃え尽きない。私たちは日々新たにされて、主によって、永遠なる喜びに入っていきます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年12月3日日曜日

礼拝メッセージ「目を覚ましていなさい」

2023年12月03日(日) 待降節第1主日 岡村博雅

イザヤ書:63章19b〜64章8 

コリントの信徒への手紙:1章3〜9 

マルコによる福音書:13章24〜37

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 皆さま、あけましておめでとうございます。私がこう言いますと、「えっ!」と、驚かれる方もおられるかと思いますが、キリスト教の暦では、今日から「新年」です。お正月がまもなくですから、私たちは教会の新年と日本の新年と年に二度、新年を祝えるわけです。ちょっと嬉しいですね。

 今日は「待降節」第1主日ですが、「待降節」と訳されたラテン語の「Adventusアドヴェントゥス」(英語ではAdvent)は、本来は「到来」を意味する言葉です。待降節の期間に、私たちは2000年前に主イエスが世に来られたことを思い起こしながら、主が栄光のうちに再び来られることに思いを馳せます。

 過去にすでに起こった第1の「到来」つまり御子イエスの御降誕と将来に起こると聖書が語る第2の「到来」つまりキリストの再臨、その二重の意味での「到来」をどのように待ち望むか、私たちの「待望」の姿勢がこの間のテーマです。私たちは今日、終末に向かう姿勢として「目を覚ましていなさい」という言葉に心を向けます。

 さて、今日の福音箇所は、13章の5節から始まって13章の終わりまで続く主イエスの説教の一部です。その内容は世の終わりの救いの完成に目を向けさせようというものです。

 世の終わり、終末という言葉からは、普通には何か「ついえてしまうこと」や「おしまい」を連想するでしょう。しかし、聖書が世の終わりを語るとき、そこには救いの完成が意味されています。それは希望の時です。

 13章のはじめにこの説教が語られた時の様子が記されています。ガリラヤの田舎から出てきた弟子たちは、エルサレムの都にそびえる神殿の壮麗さに心を奪われていました。弟子の一人が叫びます。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13章1節)。しかし、これに対する主イエスの答えは弟子たちにとって全く意外なものでした。主はこうおっしゃいました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13章2節)。つまり、主イエスはこの神殿もいつか滅びるもので、これが本当に頼りになるものではない、と言うのです。

 この後主イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられるときに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主に尋ねました。「おっしゃってください。そのこと(神殿の崩壊)はいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか」と。

 すると主イエスは神殿を眺めながら弟子たちに6節以下にある長い遺言のような説教をなさいました。

 主はまず、にせキリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などという、これから起こることを語られました。そしてその後で、最後に起こることを語られたのですが、それが今日の福音書の箇所です。

 この最後に起こることでは、旧約聖書から引用された表現が用いられています。24-25節は宇宙的と言っていいような表現ですね。さらに26節には「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。

 このような言葉を聞いた人々には、当然のように「それはいつのことか」という問いが浮かんで来ます。それに対して主イエスは「あなたがたには分からない」と答えます。

 世の終わりの時を具体的に示そうとした人々はいつの時代にも現れますが、そのどれもが偽りだったことは歴史が明らかにしています。ハルマゲドンの時期を示したオウム真理教や、ノストラダムスの予言として1999年の7月に大惨事が起こると不安をあおった人たちもいましたね。どれもいい加減なものでした。方や主イエスが「その時は、だれにも分からない」と言い続けたことは見落としてはならない大事なポイントです。

 さて「人の子」という表現が3度出てきますが、これはダニエル書7:13-14からの引用です。本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でした。それが紀元前2世紀にダニエル書が書かれて以後、「人の子のような者」がいつの日か神から遣わされて、正しい裁きを成し遂げるという救いと解放のメッセージとして信じられるようになったのです。

 この箇所でマルコは、その「人の子」とは主キリストのことであり、世の終わりに、栄光のうちに再び来られる再臨のキリストこそが正しい裁きを成し遂げ、救いと解放を完成なさると告げているのです。

 ダニエル書で「世の終わり」についてのメッセージが語られた背景には、その時代の「厳しい宗教迫害」がありました。ユダヤ人たちはモーセの律法に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代でした。

 厳しい迫害のもとでダニエル書が語ろうとする中心的なメッセージはなんでしょうか。それは「希望」です。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去る。この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる。最終的に神のみ心が実現すると語って、迫害の中にいる信仰者たちを励ましました。この救いの希望こそが終末のメッセージの一つの側面です。

 今の日本に住む私たちはキリスト教を信仰しているゆえに迫害されて苦しむということはまずありません。しかし、私たちは誰もが死を免れません。この聖書が語る「終末」は、私たちの人生の終わりに、たとえば病床で死と直面している時の状況に置き換えて考えることができます。ダニエル書の書かれた当時のように宗教的迫害下にあるとは、死に直面しているということに置き換えられます。その意味において、私たちも自分の人生の終わりに、たとえ苦しみの中にあっても、そこには神の救いの希望があふれていることに重ね合わせる事ができるのではないでしょうか。

 続く28-29節は「いちじくの木から、たとえを学びなさい」というところで、「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」とあります。この「人の子が戸口に近づいている」とは、苦しんでいる人々に対して、「まことに救いの日は近づいている」という励ましですから、これもまた再臨のキリストによる希望のメッセージにほかなりません。

 その一方で、32節以下の「目を覚ましていなさい」というメッセージにはもう一つの側面があります。それは警告のメッセージという側面です。日々の出来事に追われて本当に大切なものを見失っているときに、神の最終的な判断の目から見て、何を大切にして生きるべきかを私たちに警告しているのです。

 マルコ13章の説教にはこの希望のメッセージと警告のメッセージという両面があります。しかしそれは、「その日、その時が「いつ来るか、いつ来るか、とおびえてビクビクしている」というのではありません。

 32節から37節で繰り返される「目を覚ましていなさい」という言葉は確かに私たちへの警告の面が強いメッセージだと言えます。オリーブ山の上からエルサレムとその神殿を眺めながら主イエスは長い説教のまとめとして「目を覚ましていなさい」という言葉を4度繰り返されました。主イエスはそこにどんな意図を込められたのでしょうか。

 主は目に見えるものではなく、目には見えないがもっと確かなものに弟子たちの心を向けさせようとしているのではないでしょうか。この説教の31節には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という言葉があります。つまり「目を覚ましている」とは、目に見える、滅びゆくものではなく、目に見えない、本当に確かなもの、決して滅びないものに心を向けていることだと言えるのではないでしょうか。

 今、私たちが生きている現実をどう見ているか、その中で何を真実なもの、何を本当に信頼すべきものだと思っているか、主イエスは私たちにそう問いかけているのではないでしょうか。

 最後に、私たちはこの警告のメッセージを聞きつつ、パウロのコリントの教会員への手紙を通して力をもらいましょう。安心して私たち自身の世の終わりに目を向けて歩んでまいりましょう。パウロは言います。9節、あなたがたは「私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」。5節「あなたがたはキリストにあって、言葉といい、知識といい、すべての点で豊かにされています」。8節、主は「あなたがたを最後までしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいます」。アーメン。祈ります。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン