2023年12月10日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊による洗礼」 

 2023年12月10日(日) 待降節第2主日  岡村博雅

イザヤ書:40章1〜11

ペトロの手紙二:3章8〜15

マルコによる福音書:1章1〜8

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン

 今日と来週の福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表だと言えます。ヨハネは主イエスを来るべき方として指し示します。私たちにとって主イエスの到来は2000年前にすでに起こったことです。今日はこの礼拝を通して、主の到来の意味を深く味わいたいと願います。

 さてマルコは、福音書の始めにまずこう書きました。1章1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これはまるで、この福音書全体を表すタイトルのようです。

 マルコは、イエス・キリストを「神の子」と呼びました。今私たちはイエス・キリストは「神の子」だという信仰を生きています。今の時代を生きる私たちでも自分はクリスチャンだと軽々しくは言わないと思いますが、マルコの時代、主イエスは「神の子」だと人前で口にすることはまったく命がけだったことを思います。

 この当時、ユダヤはローマ皇帝の支配下にあります。そして、ローマ皇帝は自分の支配下にある人々に、自分を神として拝むことを強制しました。そのような強制に反して、マルコは、「イエス・キリストは神の子」と宣言したのです。それはローマ皇帝に対して、本当の神の子は、あなたではないと反旗を翻したのも同然ですから、この宣言そのものが迫害のきっかけにされるかもしれないものでした。

 「ブギウギ」という朝ドラを見ながら思いますが、第2次世界大戦中、日本では誰もが天皇を神と崇めるように求められました。そんな中でキリスト教会の指導者たちは、文部省の官僚から、ドイツが多くのユダヤ人を殺したように、「天皇陛下は神であらせられる」と認めないなら、「日本のごくわずかなキリスト者を皆殺しにするか、蒙古の奥地に追い払うことなど何でもない」という脅しを受けたと言います。

 私たちは毎年、終戦を記念しますが、マルコが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り出したことを思い巡らすとき、日本が戦争に負けたおかげで、私たちは政治権力者の横暴から救われたことを思います。主イエスは「神の子」だと自由に言えない歴史がついこの間の日本にもあったことを思います。

マルコが「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言ったときの、「福音」という言葉も意味深いものです。福音と訳された、ギリシア語のエヴァンゲリオンという言葉には、「喜びの知らせ」という意味があります。この当時、「エヴァンゲリオン」という言葉は民衆に広く行き渡っていました。当時のローマで、「エヴァンゲリオン」とされたのは、たとえば神であるローマ皇帝に王子が生まれる。するとその喜びの知らせは国民への福音とされました。また、その王子が即位すると、民衆は、これはエヴァンゲリオンだと喜ぶように強制されました。

 そのような中で、マルコは「神の子イエス・キリストのエヴァンゲリオン、福音」と書きました。これはローマ皇帝に向かって「あなたが王であることは私たちのよろこびではない。神の子イエス・キリストこそがわたしたちの本当のよろこびだ、まことのエヴァンゲリオン、福音だ」と宣言したことを意味します。


 使徒ペトロの伝道説教を通訳したとされるマルコは、自分がペトロやパウロから直に聞いた話を、イエス・キリストと共に生きる喜びに満ちあふれて、この福音書に書き記しました。

では今日の聖書箇所の福音はなんでしょうか。それは今読んだ、最後のところにあると思います。洗礼者ヨハネはマルコ1章7節以下で「わたしよりも優れた方が来られ、その方は、聖霊で洗礼をお授けになる」と預言しました。

 これはこういうことです。イエス・キリストが来られて、人類すべてに聖霊を授けるという神の愛のみ業をなさる。すべての人が、神の愛のうちに、イエス・キリストによって、聖霊の洗礼を受けると理解できます。これはまさに福音にちがいありません。

 主イエスの到来によって、全人類が「聖霊による洗礼」をすでに受けていると信じるなら、もうこれは「皆さん、おめでとうございます!」ということです。

 そしてやがて、全人類が、神のみもとで、「聖霊による洗礼の完成の日」という究極の恵みの時を迎える。その完成の日に向かう「完成への時代」が、今、主イエス・キリストによって決定的に始まっている。その人が気づいていなくてもそういう道を人類は歩んでいます。

 さて今日の箇所では、この聖霊による洗礼と、洗礼者ヨハネの洗礼とが対比されています。ヨハネは「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(マルコ1:7)と自分の限界を示していますが、それは彼の洗礼が「悔い改めの洗礼」(マルコ1:3、8)だからです。

 「悔い改め」は尊いことです。でも人間の業です。自分で悪かったと思って反省して、自力で努力して直して、新たに決意して、少しはましになる。でも人間のすることですから、反省は長続きせず、努力にも限界があり、決心は揺らぎます。それに本人の考え如何で、洗礼を受ける人と受けない人が出てくるでしょう。それは、「悔い改めの洗礼」の限界です。すべては自分の決意次第となってしまうのはそれが人間の業だからです。

 しかし「聖霊による洗礼」は違います。聖霊は一方的に天からくるものですから、人間の世話にはならない。聖霊は自ら降ってきて、人を覆います。その人間が回心していようと、していまいと、その人を覆います。どんな善人にも悪人にも太陽の光が降り注ぐように全ての人を覆います。

 神に創造された人類は誰もがみんな聖霊の宿る魂を持っている。だから誰もが聖霊を受けることができます。そこにおいてこそ、真の意味での人類の回心が始まります。これが、「聖霊による洗礼」です。それは、もはや「個人の救い」をはるかに超えた、人類の救いとも言うべきダイナミックな神の愛のみ業です。

 ルターが「信仰のみ」と指し示すとき、こういう洗礼を、私たちは信じます。すべての人が、自らの魂においてそのような洗礼を受けていること。そしてすべての人がそれに目覚めて、やがてすべてが完成していくことを、待ち望みます。

 先程の、ペトロの手紙にこうありますね。9節、「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と。神は、すべての人が救われるように、一人も滅びないように、すなわち、すべての人が「聖霊による洗礼」を受けていることに目覚めて真の回心に至るように、「忍耐して」おられます。誰もがすでに神の子として救われているのに、それに気づいていないからです。人々は、それに気づいていないからこそ、どうでもいいものを追い求めたり、もう終わったと絶望したりしているわけでしょう。

 「私たちはもう、救い主によって、聖霊による洗礼を受けている。そしてやがて、聖霊による洗礼がすべてを完成させる」このような神の救いに目覚めて、信じ続けることがこの世での救いですし、これに気づいていないことがこの世での滅びの状態です。

 いつの日かみんなが目覚めて、一人も残さずに神の国に入るまでと、神は忍耐して導いておられる。その遠大なプロセスが、「138億年の宇宙の歴史」だし、「主イエスの誕生から2000年の世界の歴史」ということでしょう。

 この世のものは、すべて滅び去ります。太陽だって50億年後には燃え尽きて終わりを迎える。すると大膨張した炎に地球は飲み込まれてしまう。でも「聖霊による洗礼」の恵みを受けた私たちの魂は滅びません。この世のものはすべて消えていきますが、私たちの魂は、永遠に消えない「聖霊による洗礼」を受けて、神の愛に与っているからです。

 このことを信じたとき、なんだか、勇気が出ませんか。この世のことでちょっと悩んでいても、この世のものをちょっと失っても、この世のことがちょっとうまくいかなくても、「聖霊による洗礼」を思ったとき、ちょっと勇気が出ます。「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう」 (二ペトロ3:12) と、ペトロの手紙では言っていますが、同時に、「しかしわたしたちは、新しい天と新しい地を、神の約束によって待ち望んでいる」(二ペト3:13)と言っています。

 この世の心も体も、ぜんぶ溶け去りますけれども、魂は溶け去りません。焼け崩れないし、燃え尽きない。私たちは日々新たにされて、主によって、永遠なる喜びに入っていきます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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