2023年10月22日日曜日

礼拝メッセージ「神のものは神に」

 2023年10月22日(日)聖霊降臨後第21主日 岡村博雅

イザヤ書:45章1〜7 

テサロニケの信徒への手紙一:1章1〜10 

マタイによる福音書:22章15〜22

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音書箇所はローマ皇帝への税金の場面です。主イエスと指導者たちとの対立はもはや決定的です。主イエスは「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「婚宴」のたとえ話によって当時の指導者たちやファリサイ派を批判してきました。今日の福音箇所の前のマタイ21章45-46節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」とあります。そして、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもって主イエスに近づいて来ます。

 まず今日の場面の背景を見ておきます。当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、各個人に対して一律に1デナリの税金を課す、人頭税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。また、支配地域の通貨には皇帝による支配の証として皇帝の肖像と銘が刻まれていました。

 このことはユダヤ人にとって神学的な難題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。

 この徴税問題はユダヤ人にとって解決が困難な悩みの種で、実際、主イエスが生まれた頃、この問題のためにローマ帝国に対するユダヤ人の反乱も起きたほどだそうです。

 この難題に対して、ファリサイ派はどのようにしていたでしょうか。「ファリサイ派」は律法を厳格に守ろうとしていた宗教熱心な人たちです。ですから、律法に反することになる皇帝への納税は原則としては認めません。しかし、現実には納税せざるをえませんでした。

 ここに登場するヘロデ派はどうだったでしょうか。「ヘロデ派」は宗教的なグループではありません。政治的な党派です。「ヘロデ派」はローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちですから、ローマ帝国への納税を当然のことと考えていました。

 本来、ファリサイ派とヘロデ派は相容れない立場でしたが、その両者が一緒にイエスのもとにやって来ます。謙遜なふうを装って、イエスに徴税問題を問いかけ、言葉じりをとらえて、イエスを罠にかけようと考えついたのです。

 その仕掛けはこうです。イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派が、お前は「神に背く者」だと言ってイエスを追及することができる。イエスが納税を否定すれば、ヘロデ派がお前は「ローマ皇帝への反逆者」だと言って訴えることができるわけです。

 彼らは実に礼儀正しく丁重に近づきます。言葉遣いとしては丁寧です。しかし実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅しです。

 「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。」と主は言われました。偽善者と言えば、普通、本心を隠してうわべを繕う態度を指しますが、聖書では、「偽善者」とは「神に心を向けようとしないかたくなさ」を意味します。彼らは口先ではイエスを「先生」と呼びながら、心ではイエスを罠にかけようと企んでおりその態度は偽善的です。しかし主が彼らを「偽善者たち」と呼ぶのは、むしろ、主イエスが神から遣わされた方であることを認めないばかりか、試そうとする、そのかたくなさが、神の意志を踏みにじっているからです。

 彼らの罠に対して主イエスはどう答えられたでしょうか。イスラエルの宗教は創造主である神以外の何者をも神とせず、偶像崇拝を禁ずるという点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものでした。しかし、日々暮らしていく上では誰もがその硬貨を使わざるを得なかったし、神殿の中にも持ち込まれていました。

 主は納税のためのローマのデナリオン銀貨を持ってこさせ、誰の肖像と銘が刻印されているかを尋ねます。「皇帝のものです」という彼らに、主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」とは当時のユダヤ人の納税の悩みに対して実に明快で十分な答えであると思います。民主主義社会では「国民のものは国民に返しなさい」ということになるでしょうか。

 では「神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。近代になってから「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考えが現れますが、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあるというのが当然でした。まして主イエスの時代、古代ではおよそ考えられないことです。主イエスは時代を先取りして政教分離の考えを示したというわけではないと思います。

 「神のものは神に返しなさい」というのはやはり聖書に立って解釈するべきだと思います。皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものだと主イエスは示されたわけですが、では神の像はどこに刻まれているでしょうか。それは一人一人の「人間」にだと考えることができます。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。

 もし主イエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、主がもっと根本的なことに人々の目を向けさせていると受け取れるのではないでしょうか。

 第1朗読のイザヤ書45章6節で神は「わたしのほかは、むなしいものだ。わたしが主、ほかにはいない」と、そう言われます。私たちが実はぜんぶ「神のものだ」と気づくこと、これが求められていると思います。

 ファリサイ派が問題にしたのは、人間の現実とは無関係な「神学的問題」でした。彼らは自分たちも解決できない神学上の問題を持ち出してイエスを陥れようとしました。しかし、主は現実の人間の苦しみを忘れてそのような神学論争に没頭していたファリサイ派の姿勢を批判してきました。「納税問題が神の問題なのか?神の目から見て、本当に大切な問題はなんなのか」主イエスはそう問いかけています。主イエスは私たち一人ひとりに「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているのか」と問われています。

 最後に、ある教会員の方が転送してくださった、「国境なき医師団」の人事や財務を担当するアドミニストレーターとして現在ガザ地区のエジプト国境で待機している白根麻衣子さんから白根さんのお母様に届いたメールメッセージをそのままお伝えします。

 「麻衣子です。いつ届くかわらないけど、今、10月15日午前10時です。

しばらく出られそうにないけど、ここでがんばります。

ガザの現状はきっとどこにも伝わっていないだろうけど、本当に地獄です。

避難民で溢れ、水もトイレも寝る場所もありません。私たちは外で寝泊まりをしてます。現地スタッフが一生懸命探してくれていますが、飲料水を見つけるのも、本当に本当に難しい状態です。

何百人もの人が、ひとつの部屋で寝そべる事もできずに過ごしています。

トイレも何千人に一つしかなく、シャワーも浴びれず、衛生状況は最悪で、すぐに感染症が広まるでしょう。

毛布も取り合いになっています。

この現状はどこにも伝わっていないので、支援も来ません。私たちも、着の身着のままで逃げてきたので、医療行為もできません。

そんな状況でも、空爆は止まらず本当に本当に大変なことになっています。

この現実をどうかみんなに伝えてください。」

日に日に厳しい状況になっていく様子をみて、『戦争を止めてください』と祈るばかりです。」

というものです。

 第2朗読ではパウロが強調する「信仰」と「希望」と「愛」が出てきました。地獄のようなという究極の状況にあっても私たちは信仰を捨てない、希望を捨てない、愛に立って祈り続けます。このメールから1週間後の21日に大型トラック20台分の人道支援物資が届けられたと報道されました。

 人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはないとルター派は受け止めています。私はこのメールに神様からの問いかけを感じ、「神のものは神に返しなさい」という主イエスのみ言葉を感じて、紹介させていただきました。お祈りします。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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