2023年10月15日日曜日

礼拝メッセージ「招かれたなら」

2023年10月15日(日)聖霊降臨後第20主日  岡村博雅
イザヤ書:25章1〜9 
フィリピの信徒への手紙:4章1〜9 
マタイによる福音書:22章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 皆さんハマスとイスラエルの軍事衝突に心を痛めておられることでしょう。報道をご覧になっていることでしょう。今やガザとイスラエル双方でますます死者と負傷者が増え、また、イスラエル側の多くの人々が人質に取られました。イスラエルのネタニヤフ首相は、徹底抗戦を宣言しました。
現在のパレスチナ問題の始まりは第2時大戦後のことです。第2時大戦中に600万人ものユダヤ人が殺害されたホロコーストなどの迫害と苦難の歴史を経て、ユダヤ民族の(シオニズム運動)聖書の「約束の地カナン」の理念に基づく国家の獲得運動は、1948年のイスラエル建国として結実しました。しかしながら、それはすでにその土地に暮らしていた、先住のパレスチナ人を抑圧し、排除する歴史の始まりともなりました。
 イスラエル建国以来、何十万ものパレスチナ人は難民として生来の土地を追われ、不安定な生活を余儀なくされました。国連が1948年12月に可決した「難民の故郷への帰還の権利保障」はイスラエルによって全く無視され、今日に至るまでパレスチナ人とイスラエル側とは度重なる武力紛争を繰り返してきました。 
 イスラエル建国から45年後の1993 年 9 月、ノルウェーの仲介による「オスロ合意」によってパレスチナ国家とイスラエルの国家が共存する道が多くの難題を残しながらも示されました。しかしその道は結局、21世紀に入り、挫折し、破綻するに至り、ついに今日の事態を迎えたといえます。
 そして、ヨルダン川西岸地区とガザ地区に暮らすパレスチナ人は今もなお、植民地支配を受けるような政治経済的な制約に縛られる過酷な現実を強いられています。 
 この度のハマスの暴挙は、このようなパレスチナの人々の歴史的に置かれてきた理不尽さを全く棚上げにしたまま、パレスチナの人々を更に閉じ込めようとする最近のイスラエルの動向への反発とも言われています。
 イスラエルは聖書のカナンの約束を根拠にするわけですが、聖書は彼らが踏まえるべき重要なメッセージを語っています。イスラエルの民に、神によって約束されたカナンの地とは、寄留者だったアブラハムたち、そしてエジプトの地で奴隷という寄留生活を強いられたイスラエルの民に示されたものであることを私たちは思い起こします。
 同時に、そのような苦難を経たイスラエルの民にカナンの地を約束された神は、出エジプト記23章9節(聖書協会共同訳)でこう命じておられます。「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである」というものです。このように神は彼らを憐れみ、双方が対等の立場で共存することを望んでおられます。 
 湯河原教会の私たちも、イスラエルとパレスチナ自治政府の双方がこれまでに経てきた寄留者としての苦難の歴史を、憐れみの心で振り返り、隣人愛に立ち帰って、和解と平和の道に歩みだすようにと祈り続け、関心を持ち続けてまいりたいと思うものです。
 こういう情勢の中にあって、私は2014年、9年前に、17歳でノーベル平和賞を受賞した、人権活動家のマララ・ユスフザイさんを思い起こしました。イスラム教徒である彼女は恐れずに教育の必要性、特にイスラム教の地域で遅れている女子教育の必要性を訴えたためにタリバンの怒りを買い、15歳のとき、バスでの学校帰りに側頭部を銃撃されました。一時は重体でしたが奇跡的に回復して、活動を続けています(1997.7.12生。26歳)。
 彼女はこの奇跡的な復活の後、国連に招かれての演説でこう言いました。「私は暴力に屈しない。逆に、私はむしろ強くなった」と。「撃たれて、私の中の弱さや恐怖、絶望が死んだ」。「むしろ、力と強さ、勇気が生まれた」と。
 彼女の本心からの宣言に感嘆します。こういう言葉に、やはり、私たちは、励まされますね。さらには、こうも言いました。「私は、自分を撃った人を恨んでいない。むしろ、すべてのテロリスト、タリバンの息子さんや娘さん達にも教育を与えたい」と。そして、「このような慈悲と慈愛の心を、私は預言者ムハンマドと、キリストと、ブッタから学んだ」と、そう言っています。
 彼女の言っていることはもはや特定の宗教を超えています。暴力に屈しないこと、人権を尊ぶこと、そして自分を撃った人への赦しなどは、まさに主キリストと同じ「神の子」のありようです。隣人への思いやりの心は、時代や人種や国家や宗教を超えて全てに共通する普遍性があるということがわかります。こういう普遍性に立つことのできた彼女にとってはもう人々を分け隔てたり、体も心も閉じ込めるような「壁」がなくなったということです。
 暴力に屈しない。人間を分断する原理主義や、口を閉ざさせようとする力に負けない。むしろその壁を打ち壊していく。彼女はノーベル平和賞の受賞後のコメントでも、そのような閉ざす壁、分断する壁を打ち破ることの大切さを語りました。「肌の色、言語、宗教は問題ではない。互いに人間として尊重し、尊敬し合うべき」だと。
 こういうマララさんのような生き方を、どうしても固定観念に囚われてしまいがちな大人たちは、模範にできたらいいと思います。「壁」を軽やかに超えていくマララさんから、私たちは改めて励まされたいと思います。
 「肌の色とか、宗教とかではなく、人類のことを考えましょう」という囚われのなさ。これこそは、私たちキリスト者の理想でもあるし、まさに、すべての壁を打ち破ったイエス・キリストの別け隔てのない平和そのものです。
 さて、今日の福音で、主イエスが、おもしろいたとえを語っておられますね。ここで言う王子様の婚宴とは神の国です。神の国はもうすでに、用意はできているんですね。
 王子様の婚宴は、この世で最高の婚宴です。それに招待された名誉と喜びを想像します。それはとびきりの喜びです。それがもう用意できていて、私たちは招かれている。あとはそこに行けばいいというのです。
 ですが、このたとえでは、「いや、ちょっと畑に行かなきゃならないんで」とか、「商売がありますから」(マタイ22:5)と招待を遠慮します。畑は大事だし、儲け商売も大事です。
けれども、「神の国」は究極の宴ですから、それを思ったらもう、畑だの、商売だのは取るに足りないことです。にもかかわらず、私たちはそこに行こうとしない。自ら自分を閉じ込めるいわば壁を作っているからです。
 その壁によって、私たちは、神の国を見ることができないでいる。あるいは、神の国を求めている人たちに、それを見せることができないでいます。これは大変残念なことです。
 主イエスのたとえでは、最後に、王様が家来たちに、「見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい」と (マタイ22:9)言っていますね。
 そこで、家来たちは、見かけた人を、みんな連れて来る。この、「みんな連れて来る」ときの言い方が興味深いです。なぜだか「善人も悪人も」(マタイ22:10)と言うんです。
 つまり壁がない。「この人は善人だから、あの人は悪人だから」、そういうのがない。そして婚宴は、客でいっぱいになる。この別け隔てのなさ、だれもかれも全てという普遍主義こそが、主イエスが一番言いたいことではないでしょうか。
 そして、この宴席には「礼服」をつけていない人が登場します。ここで言う「礼服」とは、ただ単に倫理的に立派な生き方をすることではなくて、「神の愛を受けて人を愛すること」だと言えます。愛こそが神の「礼服」です。
 私たちも、自分が礼服を着た善人だとは言いづらいですが、大丈夫です。あなたは招かれています。胸を張って「はい!」と言って、その招待に応えていいのです。嬉しいですね。
パウロは(第2朗読の少し先の)フィリピ4章11-13節でこう言っています。「私は自分の置かれた境遇に満足することを学んだ。満腹でも、空腹でも、物が有り余っていても不足していても、どちらでもいい。いついかなる場合でも、この世で畑があろうが、なかろうが、商売がうまくいこうが、いくまいが、いついかなる場合にも対処する秘訣を、わたしは授かっている。私を強めてくださる方のお陰で、すべてが可能だ」と。このパウロの潔さはキリスト者の模範だと思いませんか。
 招かれて、礼拝にあずかり、聖霊にあずかる私たちには全てが可能です。主と共に全てを乗り越えながら進んで行きましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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