2023年5月28日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊によって」

2023年05月28日(日)聖霊降臨祭(ペンテコステ)

使徒言行録;2章1〜21 

コリントの信徒への手紙一:12章3b〜13 

ヨハネによる福音書:20章19〜23

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 復活祭から50日目の日曜日である今日私たちは、使徒たちの上に聖霊が降り、教会としての宣教活動が始まったことを祝おうとしています。

 ルカは復活の主が天に昇られる前に使徒たちに宣言なさったことを記録しています。ルカ24:45以下ですが、主はまず11弟子たちの心の目を開いて聖書のメシア預言がご自分において実現したことを悟らせてからこう宣言されました。

 あなたがたは、主キリストの受難と死と復活の証人となる。そして主の名によって罪の赦しを得させる悔い改めをあらゆる国の人々に宣べ伝える。そのために、父が約束された聖霊をあなたがたに送る。聖霊の力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。このように聖霊降臨について約束されました。

 今日私たちは、聖霊の働きについてヨハネ福音書と使徒言行録、またコリント書から聞こうとしています。自分に与えられている聖霊が実際に私たちの人生においてどんなふうに働いてくださっているのでしょうか。

 また私たちは日々を順調に過ごすという一方で、迷ったり、悩んだり、つまずいたり、傷ついたりしながら生活することも当然あるわけです。聖霊は、私たちのそんな日常を恵みのうちにはぐくんで、困難な経験を通しても、私たちが霊的な成長をするように導いてくださっています。今日は私たちが自分の経験してきている聖霊の働きに気づいて、その恵みを思い巡らしたいと願います。

 先日のこと、9年ほど前に小田原少年院のクリスマスを経験したことのある青年が教会を見て「懐かしい」と声をかけてきました。話しを聞くうちに彼は「牧師さんは悪魔を信じますか。俺は信じる」と、真剣な顔で言いました。やんちゃなことをやったりするときに悪魔の力を感じるということでした。彼の「やんちゃなこと」という表現は、子供のイタヅラとは違います。何かしらの犯罪を犯した経験を指しています。

 そして、彼は私にこう尋ねました。「自分が危なくなりそうだったら教会に来てもいいですか?」。5年ほど前まで毎年クリスマスには小田原少年院のクリスマスを小田原の牧師たちと信徒さんが超教派でやってきました。彼はそれを懐かしんでいました。彼は自分がやんちゃなことをやってしまったのは、それが悪魔の誘惑に負けてしまっての結果だと自己分析しているんですね。そして、悪魔に対抗する何かしらの力が教会にはあると思ったのでしょう。だからやってしまう前に教会に来てみようと、そう思いついた。少年院を卒業して10年近く経って、聖霊に導かれて彼は心の内を語ってくれました。

 聖書は聖霊について語りますが、また神から私たちを遠ざけ、私たちを試みるものとして悪魔や悪霊も登場します。聖霊は風とも言われ、また息とも言われます。ギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」です。現代の私たちは気象の影響として風を理解しますが、旧約時代の人々は、目に見えない大きな生命力、力を感じたときに、それを風や息として表現しました。

その力が神からの力であれば、それは「聖霊」です。そしてそれが罪にいざなう悪の力であれば悪魔や悪霊によるものだと考えました。

 聖霊は目に見えません。しかし使徒言行録では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」という表現で、人間が耳で聞き、目で見ることが出来るしるしとして聖霊を物語っています。

 ところで原語では「炎のような舌」の「舌」という語は6節の「言葉」と同じ語です。舌と言葉に訳し分けられています。使徒たちが語る言葉がきっと燃えるような情熱をもって目に見え、耳に響いたのでしょう。

 またヨハネ福音書3章8節に「風(プネウマ)は思いのままに吹く」とあります。「思いのままに」とは聖霊が働く範囲を人間が限定することはできないということです。と同時に、私たちが意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているという事実を物語っています。聖霊の働きは非常に広いものです。そしてこの働きの広さは大切です。

 更に聖霊は私たちの内に具体的に働きます。第2朗読のコリント書でパウロはこう述べています。3節「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」。私たちが信仰を告白するとき、それは聖霊がすでに私たちに働いていてくださっている証なのです。パウロは続けて述べます。

 聖霊はそれが全体の益となる務めや働きを信仰者に与える。ある人には、知恵と知識を与え、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力を与えてくださる。このように聖霊の力にあずかることで私たちはさまざまに奉仕できます。パウロはこうした働きは私たちが一つになるためだと言います。皆が一つになるために私たちは洗礼を受けたのだと洗礼の意義と目的を強調しています。

 体は一つでも、多くの部分から成っているように、一つのキリストの霊によって私たちは結びあっています。私たちは、人種や地位や身分によって区別されたり、差別されることなく、皆で一つのキリストの体である教会を形作るために、洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらっていると述べます。

 聖書には、人が特別に聖霊を意識する2種類の体験が述べられています。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験です。もう1つは、神と人、そして人と人とが結ばれるという体験です。

 自分の体験からも明らかですが、人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを痛感します。しかし、それでも何とかこのミッションを果たせたとするならば、そこに不思議な仕方で神が助けてくださった、という実感があると思います。本当に自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。

 使徒言行録や、パウロの手紙はそうした聖霊体験の記録と言っていいと思います。また旧約聖書、サムエル上16:13、イザヤ61:1にも、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降ると表現されています。

 そしてなんと言っても決定的な聖霊体験は主イエスのそれです。成人した主イエスがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録2章のペンテコステの出来事でも、最後まで主イエスについていけなかった弱い弟子たちが福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降ります。ヨハネ20章では、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることと聖霊の授与が結ばれています。

 私たちキリスト者にとって一日一日がまさに聖霊体験と言えますが、私たちが神からのミッション(使命)を生きようとするときは特に、聖霊との結びつきを繰り返し体験するのではないでしょうか。

 打ちのめされて、うずくまっていた人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、お互いの理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないような体験ではないかと思います。

 神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされます。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。

 聖霊はお互いを通して働きます。福音が命じる神と人・人と人との関係回復である「ゆるし」の実現は、聖霊の働きと切り離せません。

 パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、30から31節で、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、ガラテヤ5:22-23で「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と断言しています。

 聖霊など信じないという人は多々あると思います。聖霊の働きは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、頭で理解しづらいのは当然だと思います。大切なのは聖霊を頭で理解することよりも、わたしたちが神の働きや神の助けを自分の中に感じて、他の人の中にもそれを見いだすことではないでしょうか。先程触れた青年の話しを聞きながら、私は今聖霊が働いてくださっていることを思いました。すると心が穏やかになりました。聖霊は信じる人を通して働きます。共に神の導きに従って歩んでいこうとするとき、聖霊は必ず私たちと共に働いてくださいます。


 望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


2023年5月21日日曜日

礼拝メッセージ「いつも共にいる神」

2023年05月21日(日)主の昇天主日  岡村博雅

使徒言行録 1: 1~11  

エフェソの信徒への手紙 1:15~23 

マタイによる福音書 28:16〜20

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日私たちは主イエスの昇天を祝います。それはこの日を堺にして主イエスが聖なる霊としていつも私たちと共にいてくださるようになったからです。

 使徒言行録は主イエスが地上から天にあげられた次第を語ります。復活した主イエスは40日(使1:3)にわたって弟子たちに姿を現しました。復活後も彼らと共に食事をして(使1:4)地上の生活をなさいました。

  弟子たちと食事をしていたとき、「あなた方は間もなく天の父が約束なさった聖霊による洗礼を授けられる。だから、エルサレムから離れないように」と言い残し、その後に彼らが見ているうちに天にあげられ(使1:9)ました。

 今日はマタイ福音書の結びの部分を読み、主の昇天について思いを巡らしたいと願います。ここには二つの大きなテーマがはっきりと示されています。①まず復活した主イエスが神の子としての栄光と権威を受けたこと。そして、②主は、目に見えないけれどいつも私たちと共にいてくださるということ。今日はとりわけ、「復活の主はいつも私たちと共にいてくださる」ということをしっかりと心に刻みたいと思います。

 初めに使徒言行録を見ていきましょう。主イエスの復活は驚くべきことですが、6節から8節を見ると、弟子たちはこの時に至っても、まだ主が復活されたということの意味を十分に理解していなかったことが分かります。6節、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と彼らは勢い込んで主に迫っています。復活の主が弟子たちに40日間に渡って現れてくださり、また共に食事してくださったことで、弟子たちは「この方が一緒なら我々はローマ帝国にも勝てる。我々はイスラエルを復興できる」と以前にもまして確信したのではないでしょうか。

この時、彼らには主が間もなく昇天なさるのは全く思いもよらないことだったのです。人間というのは、いつも神のご計画や意志に対してとても鈍く、自分中心に、またとても性急に迫っていくものだということがこの時の弟子たちに現れています。

 主は彼らの「いつなのか」という問いは否定せず、それは父なる神の領域に属することなのだから、その性急な思いを、神に信頼することで克服しなさい。神にゆだねなさいと言われました。

 そして彼らがなすべきことは、次のことだと言われました。

 8節「聖霊を授けられ、力を受け、全世界の人々に対して主イエスの証人となる」。これはどういうことかといいますと、キリストの弟子とそうでない人と比較するとわかりやすいのですが、普通人が何かを成し遂げようとするとき、自分の夢や目標を達成したいという自己実現の欲求が原動力になりますね。しかし、キリストの弟子たちは、そういう人間的なモチベーションからではなく、主イエスが受けた聖霊と同じ聖霊を受けることによって、主イエスのみ業に倣う者とされるのだと言っているのです。主イエスご自身が洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた時に、父なる神に聖霊を注がれて公生涯に入られたように、です。

 そして実際に、彼らは聖霊を注がれ、自分たちの経験した事実をそのまま語りつたえて伝道していきました。聖霊が弟子たちを導いて伝道したその記録がこの使徒言行録です。

 9節から11節は、主イエスの昇天と再臨について語っています。キリスト教信仰において、どちらも理解し難いと感じる内容が述べられています。昇天というのは、主イエスの地上における活動がここで区切りがつくことを意味しています。また聖書において「雲」は神の栄光を表すしるしです。

 今日の福音箇所には「疑う者もいた」(マタイ28:17)と書かれていますが、この9節、10節は、「弟子たちが主キリストの勝利をもはや疑いえない仕方で、その出来事を目撃したことを示しています。主は彼らにご自分の昇天を目撃させることで彼らの復活の主を疑う心を克服させました。

 続く11節は主の再臨について述べています。キリスト教信仰では、この世界の歴史は一つの方向に向かって進展しており、決して無目的に進んでいるのではないとします。この世界には、はっきりとした神の意志と計画がある。それが完全に実現し完成するときが主の再臨のときだと理解します。

 では、再臨はいつ、どのようにおこるか。弟子たちと同様に私たちもそう問いたくなりますね。しかし主は、父なる神が「御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」とおっしゃいます。

 私たちの理解を超えた再臨のことは神に委ねればよい。主がいつも共にいてくださるのですから、私たちはただ、その日、その時を希望と忍耐をもって楽しみに待ちながら、来るべき日にむかって生きるように求められています。

 さて、福音書に移ります。マタイ福音書は、復活の主イエスと11弟子たちの出会いについて28章でごく簡単に触れています。11弟子たちは、からの墓の場面で天使から告げられたように、ガリラヤへ行き、主イエスから指示された山に登りました。そこで初めて主イエスと出会うことができた彼らは、まず主イエスにひれ伏しますが、すぐその後に「疑う者もいた」と書かれています。マタイはなぜ、主との再会という大切な場面で弟子たちの「疑い」を強調したのでしょうか。

 原文ではマタイが使った「疑う」と同じ語がマタイ14章のペトロの「疑い」に使われています。それは湖の上を歩く主を見たペトロが、吹き荒れる波風の中、舟から降りて自分も主のもとへ行こうと歩き始めたときです。ペトロはしかし強い風に恐れをなして水に沈みかけました。主イエスはペトロを助け上げ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱ります。この疑ったという語が17節の「疑う」と同じなのです。

 この時のペトロの心には、主イエスの近くにいきたいという願いと、強い風への恐怖とが同居していました。このような心が二つに分かれた状態が「疑う」「ディスティゾ−」という言葉で表されています。私たちにも日頃思い当たることが多々ありますね。主を信頼していると言いながら、目の前にちょっと難しい状況が起きると不安になってしまって、思い煩う。そういう意味で、私たちもしょっちゅう主を疑っているわけですね。

 マタイは、復活を信じることは難しいと感じるのちの時代の人々に、「主の弟子たちにも疑う心があった。しかし、主イエスの力強い言葉を聞くことによって、信じる者に変えられていったのだ」と語りかけようとしているのかもしれません。

 復活の主イエスを信じる、いや信じられない、と二つに別れた心で、主の前にひれ伏している弟子たちに主イエスは近寄って言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、すべての民を私の弟子にしなさい・・・わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と。

 主の方から近寄ったということが大切です。私たちが恐れや不安で疑い惑うときにも、必ず主の方から近寄ってきてくださるからです。

復活の主は一切の権能を父なる神から授かっている。これが復活の主を理解する鍵です。だからこそ、主は世の終わりまでいつも、弟子たちと、私たちと共にいることができるのです。主は疑う者をもけっして見捨てません。疑いはきっと解消していきます。主が共におられるからです。

 19節で主イエスは、「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」とおっしゃいます。祝福をするとき、また祈るとき、キリスト者は「父と子と聖霊のみ名によって」と唱えます。これはマタイ福音書が書かれた時代(紀元80年頃)の教会で、実際の洗礼式で用いられていた表現だと考えられています。

「洗礼を授ける」という言葉の元の意味は水などに「浸す、沈める」です。ですから主は洗礼によって「父と子と聖霊という神のいのちの中に人を招き入れなさい」とおっしゃったのだと考えられます。

 そして「名」とは単なる呼び名ではなく、そのものの実体を表します。

 私たちは祈りの結びに「主イエス・キリストのみ名によって」と唱えます。これは、主の昇天から始まったことです。主イエス・キリストは、昇天により、永遠の命に移り、この世界のあらゆる制約を受けなくなりました。いつでも、どこでも私たちと共におられる神となってくださいました。

 主の名で祈ることは、今ここに共におられる主を信じて祈ることです。主はここにおられる。これは福音です。感謝です。いつでも、どこででも、どんなときにも、主の名を呼びながら生きてまいりたいと願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン 

2023年5月14日日曜日

礼拝メッセージ「共にあり、内にいる神」

 2023年05月14日(日)復活節第6主日  岡村博雅

使徒言行録:17章22〜31 

ペトロの手紙一:3章13〜22 

ヨハネによる福音書:14章15〜21

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

  今日の福音書の中心にある主イエスの言葉は、18節の「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」という愛の宣言であり「あなたがたのところに戻って来る」という約束であると思います。繰り返し今日の福音箇所を読むうちに、この主イエスの温かくて嬉しい宣言が少しずつ心と魂の奥深くに静かな安らぎとなって響いてきました。

 主イエスがこの世を去って父のもとに行くと、弟子たちに残されるもの、弟子たちに与えられるものはなにかといえば、それは聖霊です。イースターから始まった復活節の中で、今私たちは神から聖霊が与えられる聖霊降臨の主日に向かって進んでいます。

 このところ私たちは告別説教と言われる、主が殺される前の日に語られた言葉から学んでいますが、今日の箇所もその告別説教です。

 主イエスはご自分が明日殺されることは知っています。それで、弟子たちに、「わたしの行く所に、あなたは、今ついて来ることはできない」(13:36)と告げたわけです。そのことで、弟子たちがどれほど不安になるか、どれほどつらい思いをするか、それはもう、主イエスは重々ご承知です。その上で、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。「あなたがたのところに戻って来る」と力強く言われる。この確かな約束を弟子たちに与え、また、私たちに与えてくださいます。

 「みなし子」と言えば、私たちは子どものことを思い浮かべるでしょう。生きていくうえで頼りである親を失ってしまった子どもたちを思い浮かべるでしょう。紛争でも戦争でも両親を失い、避難の途中で親と生き別れになってしまった子どもたちが数多く生まれます。日本の敗戦後に数多くの浮浪児たちがいたことは戦後70年以上を経ても語られていますが、今まさに、ウクライナで、ミャンマーで、スーダンで孤児となった子どもたちはどれほどかと思います。

 第二次大戦後の日本で両親を失った戦災孤児が約12万人にのぼったといわれますが、このうち、引き取り手がおらず、路上で身一つで生きなければならなくなった「浮浪児」と呼ばれた子供たちは3万5千人に上ったと推測されます。書籍やテレビのドキュメンタリーで、餓死、物乞い、スリ、そして浮浪児狩りと呼ばれた施策について目にして胸を痛めました。

 こうした「浮浪児」と呼ばれた子どもたちの悲惨さを思うと、主イエスの「みなし子にはしておかない」という言葉がより重みをもって感じられないでしょうか。旧約聖書には立場の弱い者、保護しなければならない者として「寄留者、孤児、寡婦」という言葉が随所に記されていますし、おそらくローマ帝国の侵略を受けて混乱していた主イエスの時代にも、親を失った子どもたちが路頭にあふれていたことが想像されます。

 主イエスはこの「みなし子」という表現を弟子たちに、大人に対して使われました。これには主がご自分を「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11,14)と繰り返し表現なさり、弟子たちや私たちを羊に、その羊を愛する良い羊飼いをご自身に喩えたことがもとにあります。

 羊たちは、羊飼いの主イエスなくしては生きていけません。みなし子たちが親なくしては生きていけないように、自分では立派に生きていけると誇っていても、神のみ前にあっては、また終わりの日のさばきを前にしては、主イエスなくしてはその実は生きていけない存在です。主イエスは、弟子たちを「みなし子」にたとえることで、弟子たちの、また私たちの根源的な弱さを指摘なさっているのです。

 主イエスはご自分が捕らえられ、殺されることを弟子たちに告げたときに、すでにペトロが離反することを予告しておられましたね。主イエスは、そんな弟子たちの根っこからの弱さをしっかりと見つめておられ、彼らのありのままを受入れ、彼らに新たな希望を与えようとしておられます。主イエスは目に見え、触れることのできる形ではいなくなります。主は世を去って父のもとに行かれます。しかし、その時を前にして、主は弁護者を遣わしてくださるように父にお願いすると約束します。

 父なる神が遣わしてくださる弁護者とは、「真理の霊」(14:17)です。この霊は弱く無力な人々のために、彼らの側にたって、彼らと共に働く言わば助人です。しかし主イエスは「世はこの霊を受け入れることはできない」と宣言します。世はこの霊を「見ようとも知ろうともしない」。この霊に何ら関心をもたないからです。それがこの世という罪ある世界の実情ですが、そういうこの世を足場にしているという点では、弟子たちも私たちも同じです。

 けれども、自分たちの弱さを悟り、その弱さゆえに犯す過ちに赦しを願って祈るという点で弟子たちは「この世」とは異なります。主イエスの十字架と復活の後に、すっかり打ち砕かれ、悔い改めた弟子たちは祈ります。その弟子たちの上に真理の霊、聖霊が注がれ、彼らは新しく生まれ変わります。

 今日の第1朗読ではアテネでのパウロの説教が取り上げられています。この説教はユダヤ人に向けたまったく旧約的なものではなく、異邦人に向けて自然、歴史といった現実の中から唯一の神を説き起こそうとしています。道で見つけた『知られざる神に』と刻まれた祭壇をきっかけにして、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの」をお知らせすると、パウロの伝道ぶりが明らかにされています。

 パウロはここで哲学者たちに対して、哲学的な論争をしようとしてはいません。旧約における創造の神から出発して、まことの神を語っています。この神は生命と世界の創造主として、人間から何かを要求する必要を持たないし、むしろ世界に生きるすべての人は、この神からいっさいの必要を供給されている。この神は尋ね求めさえすれば見出すことができるほど近くにおられるというのです。

 説教の結びに彼は神が選ばれたイエス・キリストの十字架と復活を語り、さばきの日が確実に来ることを告げます。人はだれも人生におけるそれぞれの道を通って、キリストのおられるさばきの座に行かなければならないことを説いて、人々に悔い改めを迫りました。

 第2朗読のペトロの手紙では3:15「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」と言って神学というものの役割について語られていると思います。「あなたがたの抱いている希望」とありますが、ここに信仰者と信じていない人々とのもっとも大きな違いが現れているということではないかと思います。

信仰者は常に復活した主との交わりの中にいる。そのことにおいて、確信と安心、落ち着きというものを得ることができます。そして迫害を受けてもゆるがないほどの信頼を支える力が聖霊であるというのです。ペトロは聖霊はそのように人の中に入ってきて働く人格となった神の喜び、神の愛、神の力であると言ってやはり聖霊について語っています。

 福音書に戻りますが、主イエスは、15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語り始め、そして21節「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と話を締めくくります。けっして十分とは言えない弟子たちの信仰をあるがままに認めて、彼らが再び立ち上がることを励ましています。

 主イエスは、この少し前に(13:34)「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と弟子たちに「新しい掟」を与えられました。この掟の新しさは、お互いが、お互いを「主が愛したように」愛し合うというところにあります。それが主イエスの掟です。

 自分の罪に深く気づき、打ちのめされた弟子たちは復活の主によって再び立ち上がり、主に従う道を歩きだしますが、その再生がこの愛の掟の実践に向けられていることは、見逃してはならない大事な点であると思います。

 その愛の実践は世界へと向かいます。主イエスは17章 22節でこう祈っています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と。この主イエスの祈りが示すように、この世界を神の愛と真理が支配する共同体に変えていくことが、主イエスが目指した究極の救いであり伝道の目的なのだと思います。聖霊は私たち一人ひとりの内にあって、きっと私たちと共に進んでくださいます。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

2023年5月7日日曜日

イエスという道

 2023年5月7日 小田原教会 江藤直純牧師

使徒言行録:7:55-60;  ペトロの手紙一:2:2-10;  ヨハネ福音書:14:1-14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

1.

 一月前のことです。4月4-5日、長年親しくしていた方の御葬儀に伺いました。2日の日曜日、小田原教会から帰宅して間もなく、長女の方からお電話があり、先ほど急なことだったが父が亡くなったと告げられ、かねてから葬儀説教は江藤先生にと言われていたのでぜひお願いしたいとの依頼を受けました。長野県まで出向き、葬儀説教をしてきました。

 93歳で召されたその方が葬儀で読んでほしいと遺言に書き残してあった聖書の箇所がヨハネ福音書14章1-3節でした。先ほど皆で聴いた本日の福音書の日課の冒頭の部分です。若い頃心臓の大病をなさったとき、手術の前に見舞いに来てくださった牧師先生がこの箇所と詩篇23編を枕元で読んでくださり、さらにそれを紙に書いて病室の壁に貼ってくださったそうです。その方は手術の前も後も何度も何度もそれを読み、その聖句によってやっと心の安らぎを得、我と我が身を神さまにお委ねすることができたのでした。それ以降60有余年の間、その聖句は常にその方と共にあり、葬儀の席でも読んでくれと望まれたほど大切な大切な聖句だったのです。私はその聖句に導かれながら、その方の生涯を振り返り、どんな苦労の中にあっても、たとえ「死の陰の谷を行くときも」、「わたしは災いを恐れない」(詩23:4)との信仰をもって生き抜かれたことを証ししました。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハ14:1)、愛する父、おじいちゃん、また親しい友の死と地上での別れのときに、参列した者は皆、もちろん私自身も、この聖句によって慰められ励まされたことでした。ヨハネが伝えるこの言葉はイエスさまが最後の晩餐の席で弟子たちに語られた最後の教えの一つです。

2.

 この「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われた後に主は何と語られたのでしたか。2節3節はこうでした。「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのところに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

 行くとか戻ってくるとかがもっぱら話題になっています。行く先は明らかに「父の家」です。「天国」と言ってもいいでしょう。ところが、このことが弟子たちには少しもピンと来ないのです。ここの直前の13章36節では、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と問います。14章の5節ではトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)と訊ねます。さらにはフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(14:8)と重ねて質問します。いよいよ逮捕、裁判、処刑の直前です。よりもよってイエスさまの生涯のクライマックスに差し掛かろうとするこの時にです。この時になってもなお、弟子たちは肝心のことが何も分かっていないことを露呈しているではありませんか。どこに行くのか、どうやって行くのか、行った先はどういうところか。矢継ぎ早に投げかけられる質問にイエスさまは端的にこう答えられます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(14:6)。さらに父との関係では「わたしを見た者は、父を見たのだ」(14:9)とこれまた簡潔にずばりと言われました。「私が道である」、だから、この道を歩けば良いとおっしゃるのです。

 聖書でも「道」という言葉は非常に大事ですが、私たちが使う日本語でも「道」は深い意味があります。単なる道路という以上の意味があります。柔術、剣術でもよいし、そうも言いますが、やはり柔道、剣道、空手道、ひっくるめて武道といいます。柔術の道、剣の道と言いたいのです。スポーツ系だけでなく、茶の道を茶道、生け花の道を華道と言います。お茶の入れ方、味わい方のハウツーではなく、曰く言いがたいのですが、何かしらそれ以上の次元を指すために茶道、華道と「道」を付けます。宗教でも神道と言います。神(かん)ながらの道、神のみ心のままであること、その道を神道と言います。仏教は仏道とも言います。仏教、仏の教えと言っていいのですし、実際そう言っていますが、仏の道、仏道というときには知的な教えだけでなく、もっとその実践、生き方そのものにスポットライトが当たります。ですから、キリスト教もキリスト道と言っていいのですし、事実そう呼んだ人もいました。それでも普通は、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教とどれも○○の教え、○○教と言います。

 もうこの言い方が定着しているから今更変えることは難しいですが、私の個人的な好みを言えば、キリスト教よりもキリスト道のほうが好きです。道は眺めたり、調べたり研究したりするだけでなく、覚えるだけでもなく、実際にそこを歩くこと、もっと広く言えばそれを生きることと深く結びついているからです。人としての道も人道と言います。

 ですから、「わたしは道である」と言われると、なんとなく分かる気はするのです。でも、説明しろと言われてもそう簡単ではありません。イエスさまが道だとはどういうことでしょうか。

3.

 さて、「キリストの道」あるいは「イエスの道」と言ったときにどのようなイメージを持たれますか。信仰の道、祈りの道、やはり何かしら型があるような気がします。一日の初めに心を静めて、短くても聖書を読む。祈る。寝る前にも一日を振り返って祈る。食事の前には感謝の祈りをする。日曜日は教会に行き、礼拝をする。聖餐式を重んじる。神さまに向き合うだけではなく、人間に対しては隣人愛を実践する。明治以来のプロテスタントの伝統には禁酒禁煙もありました。茶化して言うのではありませんが、謂わば「清く、正しく、美しく」ということをモットーにして生きる。それがキリストの道であり、それから逸れるとキリスト者としての生き方としては失格とレッテルを貼りがちです。こうなると、それを厳密に守ろうとすると修道士、修道女のような生涯を送るのがキリストの道であるということになりそうです。アッシジの聖フランシスコがいつの世でも敬われ、憧れの対象とされるのももっともです。彼が作ったとされている「平和の祈り」はいつ唱えても感動を覚えますし、少しでもいいからこのように生きたい、それこそキリストの道だと思うのです。

 そのことを重々承知の上で、しかし、今朝はあえて踏みとどまって考えたいことがあります。キリストの道、イエスの道とは、私たちがなんとかしてアッシジの聖フランシスコに代表される愛と信仰の道を生きることに限られるのだろうか、と。

 たとえば、マグダラのマリア。イエスさまの伝道旅行に付き従い、十字架上の死を最後まで間近で看取り、日曜日の早朝に復活の第一の証人とされた彼女は、実は「七つの悪霊を追い出していただいた」(ルカ8:2)者だったとルカは記しています。七つの悪霊に取り憑かれていた間、彼女はどんなに苦しい歳月を送っていたことでしょうか。おそらく想像を絶する悲惨な生活を送っていたのでしょう。

 では、彼女が救われたのち、イエスさまに仕え、弟子共同体のお世話をするようになってから初めて彼女はキリストの道を歩き始めたのでしょうか。彼女の側からすればたしかにそうです。わたしたちも普通はそう思います。

 しかし、イエスさまの側から見たらどうでしょうか。彼女は主との出会いの前から苦しみながら、迷いながら、挫折しながら歩いていました。彼女からすれば一人でもがき苦しんでいたことでしょう。しかし、一人っきりで歩いていたのではありませんでした。そのたどたどしい歩みに向こうから近寄り、寄り添い、喜びや悲しみを分かち合いながら、そして倒れそうになる時には傍らから支え、時に分かれ道では選ぶべき行方を示してくださるお方と共に歩いていたのです。ある時そのお方の存在にハッと気がつき、それからは自覚的に「イエスの道」を歩きました。でも、その前もイエスさまは彼女とこの道を歩いていらっしゃったのです。それが「イエスの道」でした。イエスさまは自らこの道を選び、歩き、生きていらっしゃったのでした。

 もう一例。ヨハネ8章には有名な「姦通の女」という小見出しがついた出来事が記されていることはご存じのとおりです。姦淫というならば男も女もともに処刑されるはずなのですが、男は逃げてしまったのか、目こぼしをしてもらったのか、ともかく神殿の境内に引き連り出されたのはその女性だけでした。石で打ち殺せと叫ぶ人々が取り囲み、律法学者たちやファリサイ派という選りすぐりの宗教家たちが、どちらに転んでも窮地に追いやられるような狡猾な問いを発してイエスさまに迫ったときに、あの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハ8:7)という全く意表を衝く言葉を投げかけて、この女性を救われたのでした。

 ユダヤ教の倫理・律法に従うならば、姦淫を犯した女性は罰せられるべきでした。それは神の民として守るべき戒め、生きるべき道、神の民の道から逸れていたからです。人の道からと言ってもいいでしょう。しかし、イエスさまはそういう彼女に最後にこう言われました。「わたしもあなたを罪に定めない」(8:11)。もちろんそういう生き方を奨励するわけではなくても、その時はそうせざるを得なかった弱さや欠けを持つ彼女を認め、受け容れ、赦し、愛してくださったのです。それが「イエスが生きた道」でした。それこそが彼女を、そして私を生かす「イエスの道」でした。それこそが「イエスという道」なのです。そうでなかったなら、「神の民の道」は生き残り、彼女は死ぬほかなかったのです。

 赦しの後、これから先どういうふうに生きていくことが求められているのでしょうか。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。イエスさまはこのようにおっしゃいましたから、「もう罪を犯さない」生き方こそが「キリストの道」「イエスの道」なのでしょうか。もちろん「もう罪を犯さないようにしたい」「もう罪を犯さないようにしよう」、そうです。人はだれでもそう望み、そう決心するのです。しかし、悲しいかな、この世に生きている限り人は「罪を犯さないではいられない」のです。倫理として、律法としての「キリストの道」からは逸れるのです。しかし、それにも拘わらず、いえ、それだからこそ、罪を犯してしまう私たちのために、寄り添いながら、受け容れながら、支えながら、愛し続け、赦し続け、生かし続けてくださるのが、「イエスという道」なのです。うまく律法を守れたなら受け容れ、うまくできなかったら裁き、断罪し、排除する道は「イエスという道」とは言えないのです。「イエスという道」とは倫理と律法とを全うしようにもどうしてもできない者をも愛し、受け容れ、赦し、生かす道なのです。主イエスはその道を歩き、生きておられるのです。

4.

 「イエスという道」を見える形にするとどうなるでしょうか。どういうイメージでしょうか。洗礼者ヨハネは預言者イザヤの言葉を引いてこう叫びました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」(ルカ3:4-6)。狭いのではなく広い道、曲がりくねっているのではなく真っ直ぐな道、山あり谷ありではなく真っ平らな道、高速道路はまさにその典型です。

 マタイもマルコもヨハネもみな洗礼者ヨハネに託された使命を書き記し、そこに集まった人々にもまた私たちにも、この高速道路のようなイメージを示しながら、救い主をお迎えするために自分たち自身を見直し、悔い改めて、整え、主にふさわしい生き方をするように呼びかけました。それこそ主が通られるのにふさわしい道だからです。

 万軍の主、神の子の凱旋ならばこのハイウェイのような道こそ全くふさわしいでしょう。私たち自身もそのような道になりたい。そのとおりです。しかし、イエスさまご自身が地上の生涯の最後の最後に歩かれた道はどのような道だったでしょうか。イエスの地上の生涯の集大成ともいうべき最後の道はどのような道だったでしょうか。ゲッセマネの園で逮捕されてから、大祭司カイアファの屋敷へ、最高法院へ、総督ピラトの官邸へ、王ヘロデ・アンティパスの宮殿へ、再びピラトのもとへとたらい回しにされ、挙げ句の果てに死刑の判決が下された後、まさに人生の最後の最後に歩かれたのが、自分で十字架を背負いながらゴルゴタの丘まで続いた道でした。狭い、でこぼこした、石ころがゴロゴロとしたその道の一部は今なおヴィア・ドロローサ(悲しみの道)として覚えられています。預言者イザヤが、また洗礼者ヨハネが描いた燦然と光り輝く王冠をかぶった救世主が颯爽と通るハイウェイのような道路と何という違いでしょうか。

 しかし、これこそがイエスさまが歩かれた道でした。「イエスという道」とはこのヴィア・ドロローサだったのです。自ら私たち罪人のために十字架を背負ってゴルゴタへと一歩一步歩く道こそが「イエスという道」だったのです。それが救いをもたらすための道だったのです。その道を歩くこと、私たちのために、私たちと共に歩くことこそが「イエスという真理」「イエスという真実」だったのです。それ以外に神の御心に叶う正しさ、神の真理、神の真実はなかったのです。その道は、しかし、死と滅びに終わる道ではありませんでした。キリストの死が私たちの命となったのです。これこそキリストの復活の力です。それが「イエスという命」です。

 だから主はおっしゃったのです、「わたしは道であり、真理であり、命である」と。この「イエスという道」を私のために、私たちのために歩いてくださったのです。ですから、私たちもその道を歩かせていただきましょう。「イエスという真理・真実」に与り、「イエスという命」に生かされて生きていきましょう。アーメン


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン


礼拝メッセージ「主イエスの約束」

 2023年05月07日(日)復活節第5主日   岡村博雅

使徒言行録:7章55〜60 

ペトロの手紙一:2章2〜10 

ヨハネによる福音書:14章1〜14

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の福音テキストは十字架の死を前にして、主イエスが弟子たちに語った告別説教、いわば遺言です。その内容は、主イエスは目に見える形ではもういなくなる。しかし、弟子たちに「約束」を残していくというものです。

 主イエスの十字架の死は西暦30年ころと言われており、ヨハネ福音書は1世紀末に書かれとされますから、ヨハネはおよそ60年以上前のことを振り返って書いているわけです。すっかり年老いたヨハネは、主と過ごした日々の出来事の一つひとつを懐かしく思い出しながら、しかし後になればなるほど主イエスの深い慈しみの心と真意がわかってきて、この福音書をしたためたのだろうと思います。

 主イエスの約束は当時の弟子たちだけでなく、現代を生きる私たちに向けても語られています。主イエスが残した約束について、また第1朗読と第2朗読では、その約束がどのように実現しているのかを共に思い巡らして行ければと願います。

 この告別説教が語られたのはユダが主イエスを売り渡すために、最後の晩餐の席から夜の(ヨハネ13:30)闇の中へ出ていった後のことです。しかしその場は依然として光とくつろぎに満ちていたことでしょう。そんな時に、主イエスは弟子たちとの別れについて切り出しました。

 「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13:36)と主イエスから言われてペトロを始め弟子たちは動揺します。

 全てを主イエスに掛けてきた弟子たちです。不安になるのは無理のないことでしょう。しかしそんな彼らに主は語りかけます。「神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と。主は弟子たちを真の信仰へと招かれました。ここで主が言われる「信じる」ということは「絶対に確かだと思えるものに信頼して、自分の身を委ねる」ということです。

 イザヤ書(40:6-8)にこんな言葉があります。「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。/草は枯れ、/花は散る。/しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

 私たちが、神と主イエスをそっちのけにして、はかないものを頼りにしている限り、不安や心の動揺は続くでしょう。世間の目が気になり、権力や財産や名声などが何より大事になってしまうと、人への信頼とか、思いやり、愛などというものは二の次になってしまう。だからこそ主は、「神に信頼を置き、自分の身を神に委ねなさい」と私たちが神に向かって心を高くあげるようにと呼びかけます。

 神はこの世界を導き、私たち一人ひとりに温かなまなざしを注いでおられます。この神を信じ、神にすべてを委ねることができるならば、たとえ目先の光と支えが奪われたとしても、心の深いところでは、落ち着きと平安を保つことができるのではないでしょうか。

 私は信仰によって死を前にしても平安な方々とお会いできたこと、これからもお会いすることを牧師として本当に幸せなことだと思っています。

 「神を信じる」というだけでなく、ここで主イエスが「わたしをも信じなさい」と、ご自分に対する信頼を呼びかけていることも見落としてはならないと思います。実のところ、弟子たちとの別れは、弟子たちにとっては悲しみと落胆以外のなにものでもないことでしょう。すっかり落ち込んでしまう出来事でしょう。しかし、主イエスにとっては違います。それは救いの奥義の中のことだからです。

 主との別れがなければ、主が住むところを用意しに行くと約束することも、天の父の家での再会もありません。人間の常識では敗北でしかない十字架も、主イエスにとっては、天の父のみ旨であり、死を過ぎ越して復活につながる道です。それは人類に救いを開く道です。しかし、この時の弟子たちには、それがまるで見えていません。そこに主イエスと弟子たちの違いがあります。

 最近ある方とこんな話をしました。「十字架の救い、この常識ではありえないことこそが、神の私たちへの愛のしるしです。全ての人のために、主イエスは神を信じて、ご自分を神に委ねて、十字架の処刑を受け入れ、喜びをもって、この新しく生きる道を私たちに開いてくださいました」と。そうしましたら、その方がポツンと「十字架なんて、かわいそう」とポツリと言われた。

 確かに十字架は可愛そうです。これ以上の悲惨はない。でも単に可愛そうでは終わらない。それが復活への道であり、それが私たちの救いへと繋がる道だからです。十字架がなければ復活もないということをこそ伝えたい。主が復活させられたのは、最後の晩餐の夜に弟子たちに約束したように、私たちが死の後に行く場所を用意しに行くためだと言っても言い過ぎではないと思います。

 私たちは「死んだら、行く所があるの?天国あるの?」なんて、疑っています。けれども、ここで主は「天の父の家こそがあなたがたが帰っていく所だ。わたしがなすことを信じなさい」と宣言しておられます。そのための主の十字架であって、その根底にあるのは、神の愛であり、主の喜びと赦しであり、永遠の命への確かな道です。

 私たちはそのことを言葉からだけではなく、礼拝や祈りや信徒同士の交わりなどによって霊的に深められて確信するようになります。教会生活を通してこのような積み重ねができるということは本当に恵みとしか言いようがありません。

 さて、今日の第1朗読も、第2朗読も、どちらも聖霊を背景にして語られているという点で福音朗読とも重なっていると思います。

 第1朗読には、信仰と聖霊に満ちた人(使6:5)として12使徒たちから選ばれ、際立った活躍をしていたステファノの殉教が語られています。7章の前半にはステファノの素晴らしい説教が記されています。ユダヤ民族の歴史を聖書に即して見事に要約しながら、最後に「あなたがたは聖霊に逆らっている。正しい方(イエス)も預言者たちもみな殺してきた」と厳しく結論づけたためにユダヤ人は激しく怒りました。(7:54)さらに、ユダヤ人たちを駆り立てたのは、55−56節にあるステファノの言葉です。「天が開いて、人の子(主イエスのこと)が神の右に立っておられるのが見える」。この言葉に、人々は耳をふさいで、一斉に襲いかかり、エルサレムの都の外に引きずり出すと、怒りと裁きを込めて石打の刑にします。しかし、この時、聖霊に満たされたステファノには父の家にいる主イエスの姿がありありと見えていました。まさしくステファノにとって、主イエスは神に至る道でした。

 また第2朗読には「霊の乳」ということが出てきていますが、聖霊の意味で使われています。今日の箇所の前のところを見みると、1章23節に、「あなたがたは・・・神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」とあります。あなたがたは・・・新たに生まれた」のだから、「生まれたばかりの乳飲み子のように」「霊の乳」を飲んで救われるように成長しなさい。救われるように成長するためには「聖霊のミルク」が欠かせない、そうすることで、2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わえる。

 ここには、自身の弱さや世間の誘惑と戦いながら、辛抱強く信仰を貫いて生きて行こうとする人々への励ましがあります。ペトロは「あなた方は信仰者として、たった今生まれたばかりだ」といいます。生まれたばかりの赤ん坊が、ただひたすら母親の乳を求め、養育されながら大きくなり、成長してゆく。そんな様子を、私たちと主イエスへの関係にたとえています。

「あなたは主イエスから愛されて、純真に、ひたむきに主イエスを求めなさい。そして、霊的なミルクを飲んで成長して、救われなさい。」とペトロは勧めます。「聖霊によって育てていただく」、このことを願っていきたいですね。ここでも私たちは礼拝を通して、聖餐を通して、信徒同士の交わりを通して、聖霊のミルクを頂いていることを実感します。霊的成長に欠かせない色々な場所や機会はありますけれども、教会は最もふさわしい恵みとして与えられていると思います。

 主イエスは、私たちを、たとえ世間的には重要視されなくても、神にとっては、選ばれた尊い、生きた石だと言ってくださいます。たとえ私たちが何度も失敗したとしても、私たちを生まれたての子供のように、霊のミルクを与え続けて成長させて、霊的な家を作る生きた一つの石としてお用いくださいます。そんな私たちが生きて活動する日々は光に満ちていませんか?やがて主が用意してくださった天の父の家に凱旋する日が来る。今日はその約束の素晴らしさを味わい、感謝を共にいたしたいと思います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン