2023年12月31日日曜日

礼拝メッセージ「聖霊に導かれ」

2023年12月31日(日)降誕節第1主日 

イザヤ書:61章10〜62章3 

ガラテヤの信徒への手紙:4章4〜7 

ルカによる福音書:2章22〜40

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日のルカ福音書は、シメオンとアンナという高齢者が、おそらくその人生の最晩年で、ついに待ち望んでいた救い主となる幼子に出会い、心の底からの魂の平安を得た出来事を伝えています。彼らは聖霊に導かれて幼子イエスに出会いました。私たちも聖霊の導きによってこそ、シメオンやアンナのように主イエスに出会う喜びを味わうことができるのです。

 さて、今日の箇所の直前のルカ2章21節には誕生から「八日がたって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。神が名付け親のこのイエスという名前は「神は救いである」という意味で、当時のユダヤ人の間では特に長男につけることが多かった名前です。

 またユダヤ人にとって、男子の包皮を切り取る「割礼」は、旧約聖書に由来するもので、神の民の一員となるために欠かせないものでした。割礼はユダヤ人の男の子に今も行われているそうです。

 22節に「モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った」とあります。清めの期間とはレビ記12:2-4の産婦の体が清まるのに必要な期間で、赤ちゃん誕生から40日後ということです。彼らは律法に従って「山鳩一つがいか若い家鳩二羽」を神に献げて母親の肉体が清められたことを明らかにするために乳飲み子イエスを連れてエルサレムの神殿に向かいました。

 このいけにえは本来は「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」(レビ記12:6-8)ですが、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」には鳩だけのいけにえも認められていました。その献げ物からヨセフとマリアが貧しかったことがよく分かります。

 それはともかく、ルカは、ヨセフとマリアは律法の規定どおりにすべてを行なったということを何度も繰り返しています。そうしてルカは彼らが律法を大切に守る信仰深く模範的な人々であったことを強調しています。

 また23節に「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」とあります。当時のユダヤの家庭では、長男は本来神のものであり、従って長男は神に献げるべきものであると信じられていました。それは具体的には長男を祭司にするということです。

 ただし、それでは家業を継ぐ者がいなくなって困るので、長男の代わりに、一定の金額を神に献げました。そうして子供を自分の家で育て、父親の跡を継がせることが許されていたわけです。イスラエルではレビ族の人たちが祭司として神に仕えましたが、それは本来ユダヤ人の長男が皆やらなければいけない務めをその代理としてレビ族の人々が神殿で果たしているのだと考えられていたのです。

 たぶん皆さんは、どうもこういう話しは自分たちには縁遠いと思われるでしょう。しかし、主イエスはこのようにしてユダヤ人の子として生まれ、私たちと同じ人間になり、神の民として生きるために律法に従いながら生きたのです。

 その次第は第一朗読のガラテヤ書4章4節以下にある通りです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです」とある通りです。

 主イエスはなすべきことをなして、罪に囚われていた者に、もう一度、「お父さん、父よ」と心から呼ぶことができる道を開いてくださったのだとパウロは語ります。主イエスにはマリアを通じてユダヤ人の血が流れています。そのようにして主イエスは私たちと同じ人間になられました。だからこそ主は、あらゆる国の人々にとっての救いとなりえるのです。

 ここでもう一つ注意したいことがあります。宮詣をした幼子イエスと両親を迎え、初子のイエスを聖別するのは神殿に仕えている祭司たちのはずです。しかしルカは祭司たちの存在を何も書いていません。22節にあるように、両親は我が子イエスを「主に献げるため」に神殿に来たのです。彼らはイエスを聖別してもらった後で、父親ヨセフの家業を継がせようと用意してきた長男の身代わりのお金を祭司に渡して、イエスを連れて帰るつもりだったでしょう。

 しかし祭司が見当たらない。いけにえは自分たちで献げられます。そこでまず両親はイエスのために律法の定めに従っていけにえの小鳥を献げようとしました。ところがその時、そこに神の霊に導かれて神殿の境内に入ってきたシメオンがやってきて、28節「幼子を腕に抱き」ました。それは神がシメオンを通して、神へのいけにえとしてイエスを受け取られたということです。こうして主イエスご自身がそのまま神への献げものとなられるということが実現しました。「イエスがご自身を献げる」という神のご計画が実現しました。ルカは私たちには不思議に感じられる聖霊の導きによる次第をこうして物語っています。

 このシメオンは祭司ではありませんが、その仕事も、年齢も、見た目も分かりません。しかし25節には、シメオンは正しい人で、信仰があつく、聖霊に満たされているとあります。そこから彼が神の御心にかなう人物として選ばれたことが分かります。また25節の「慰められる」とは、メシア(救い主)の到来を意味しています。シメオンは幼子を見て、この子は「主なる神が遣わすメシア」だと確信しました。そして、(28-31節で)神を賛美し、(33-35節で)主イエスの家族を祝福します。

 シメオンが語る救いの光を賛美する言葉に両親は驚きました。しかし、それに続いて語られた幼子イエスの将来についての厳しい言葉に思いを深くしたにちがいありません。シメオンはマリアに向かって、幼子イエスが将来十字架につけられることを語りました。

 シメオンが語った「倒したり立ち上がらせたり」というのは石のイメージでしょうか。ほんとうに頼りになる「貴い隅の石」(イザヤ28:16)でも、ある人にとっては同じ石が「つまずきの石」(イザヤ8:14)になってしまいます。そしてつまずいた人々によって「反対を受ける」ことになります。

 この主イエスの受難に母マリアがあずかり、苦しみを共にすることになる、というのが「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」という言葉の意味でありましょう。ヨハネ福音書はその日、主イエスの十字架のかたわらに立つマリアの姿を伝えています。(ヨハネ19:25-27)。

 また、この場面にアンナという女預言者が登場します。彼女の役割は「エルサレムの救いを待ち望んでいた人々皆に幼子のことを話した」ことです。ここで「救い」と訳されている言葉はギリシア語で「あがない、解放」の意味を持つ言葉です。彼女は84歳で、神殿で夜も昼も祈ることで神に仕えていたとあります。彼女は腰は曲がり、シワだらけの年老いた姿だったかもしれません。しかし、輝きに満ち、感謝に溢れた美しい人であったに違いありません。

 シメオンやアンナがいわば高齢者として描かれているのは、救いを待ち続けた旧約の長い時代を感じさせます。そして彼らはついにイエスの誕生という、その完成の時に招かれたことを印象づけます。

 また、きょうの箇所で「主の律法で定められたことをみな」忠実に行っていると何度も繰り返されていることも、神の救いの計画が成ったことを感じさせられます。このようにルカ福音書はこの物語を伝えながら、主イエスの到来により待望の時が成就し、神のご計画が実現したこと、すなわち救いの時代が到来したことを表現しようとしているのです。

 また同時に私たちは、このシメオンやアンナの姿に自分自身を重ね合わせてみることができるのではないでしょうか。29-32節のシメオンの言葉は、「シメオンの歌」と言われています。私たちの礼拝式文で「ヌンクディミティス」(今こそ去ります)として歌われていますね。

 この歌は主イエスとの出会いの中で「安らかに(平和のうちに)」憩うことを願う私たち自身の祈りでもあります。日々眠りにつく前に唱えてもよい歌です。そして私が皆さんと最も分かち合いたいことは、私たちの日々の歩みの中にも、やはり聖霊の導きがあるのではないかということです。その導きによってこそ、シメオンやアンナのように主イエスに出会う喜びを味わうことができるのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

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