2024年2月18日日曜日

礼拝メッセージ「四旬節に思う」

 2024年02月18日(日)四旬節第1主日

創世記:9章8〜17 

ペトロの手紙一:3章18〜22 

マルコによる福音書:1章9〜15

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 今日の週報でお知らせしていますが、4月から牧会をしてくださることになっていた富島裕史先生に脳腫瘍が見つかり、急遽、手術を受け、療養されることになり、湯河原教会での牧会ができなくなりました。まずはご一緒に祈りましょう。

 主よ、富島先生の手術が成功しますように。そして、手術の後、順調に回復されますように。憐れみの主が、富島先生を癒やし、心の平安を与えてくださいますように。また私達の教会に最もよいことを備えてください。主の御名よってお祈りします。

 今日は恵みの予定がもりだくさんです。この後で、入江美奈子さんの私達の教会への転入式があり、主が新たに一人の姉妹を私たちの群れに加えてくださいます。嬉しいですね。

 また、礼拝後には二見美保子さんとデッカー恵子さんの洗礼諮問会を行う予定です。どうぞ皆さん、温かい目で見守ってください。会衆席からお祈りをたくさん注いでください。洗礼を志願している方たちは、やっぱり迷いもある。さあいよいよだという思いと同時に、不安もあるでしょう。皆さんの励ましのお祈りが、何より大切です。よろしくお願いします。

 先ほど、ノアの箱舟の箇所が読まれましたけれども、まさに、洗礼志願者のお二人、そして私達も、救いの大きな船に乗った気持ちになってください。どんな洪水でも、湯河原教会のみんなで一緒に乗り越えていけるというふうにです。

 「洗礼を受けたら強い信仰を持って、一人でも荒波を泳いで渡れるはずだ」などというのではありません。「イエス・キリスト」という安心で大きな船に乗り込んで、「神の国」という港に入ったも同然の私達の航海です。人生を旅する教会の仲間たちと一緒に、救いの喜びを分かち合っていきましょう。恐れずに、一緒にやっていきましょう。

 さて、キリスト教会は、灰の水曜日から四旬節(英語でLent)に入りました。旧約時代には回心のしるしとして,灰を頭にかぶりましたが、キリスト教会ではこのならわしを踏まえて、灰の水曜日の礼拝では回心して福音を信じる印として額に灰の十字を印すようになりました。

 四旬節の原点は、荒れ野での主イエスの40日の体験にあります。主イエスが宣教生活に入られる前に荒れ野で40日間断食をされたことにならい、教会では、古くはこの期間に、断食や節制が行われてきました。それはキリスト者が自分たちも主イエスの断食と祈りに倣いたいという思いから、ごく自然におこってきたものだといわれます。

 今では、祈ること、感謝すること、そして愛の行いが強く勧められています。ある人はレント献金箱を作って、食卓テーブルに置いて、次のレントまで1年間、なにか感謝なことがあるたびに献金をするそうですが、昨年はすべてをウクライナの人道支援や災害被災地への献金にささげたと聞きました。

 四旬節はもともと、節制したり、断食をしたりすることが伝統でした。私の神学生時代でも、ルーテル教会で育った神学生たちは、四旬節になると、タバコ断ちをするとか、アルコール断ちをするとかとやっていました。

 「もっとしっかりした信仰者になろう」とか、「もっとがんばって祈ろう」とか、「罪を捨ててもっと清くなろう」というようなことです。いわば上昇志向というか、駄目な自分を罰する志向というか、何かそういうものがイメージとして感じられます。

 今思えば、それはつまり、1年は無理だけど、40日ならなんとかなるということだったかなと思います。なんとなれば四旬節が過ぎれば、これまでのままに、また飲んで吸うわけですから。

 ある説教者が、これは実は逆なんだっていうことを言っていて、はっとしました。この方いわく、四旬節には、もっと神に信頼して、もっと安心して、「神さまにすべてを委ねる」ということを学ぼうというのです。

 一般論としてですが、キリスト者は真摯な方が多くて、せっかく洗礼を受けているのに、もっと良くなろうとして、こんな自分じゃだめだと嘆く人が多い。そして四旬節になると、ますます、「こんなに自分は罪深いし、もっと清くならなくちゃならないのに、でも、そうなれない。どうしよう」と、なんだか暗い気持ちになる人が多い。もしそうだとするなら、それは「逆」だというのです。

 むしろ四旬節は、主イエスが荒れ野で神の愛にのみ信頼したことに由来するときなのだから、1年間自分を責めてきた人が、それをやめるときだというのです。いうなれば「がんばって、がんばるのをやめる」。がんばって、いい人になるんじゃなくて、がんばって、悪い人である自分を受け入れる。私は「神に受け入れてもらっている」と、そのことに、目覚める。これが四旬節だというのです。まったくその通りだと膝を打ちました。

 そうです。四旬節は、普段に増して神の愛を感じとる時なんです。だから普段、自分を責めたり、こんな自分はダメだと思っている人が、40日間がんばって、「こんな私でも、だいじょうぶだ!」「こんな私だからこそ、救われるんだ!」とそう自分に言って聞かせる時として、この期間を過ごしていただきたいと思います。

 私、妻から、聖書や式文の読み間違いで、ちゃんとしてくださいと言われる。こんなんじゃだめだと落ち込みそうになりますが、そんな時こそ、四旬節の恵みに立ち返ってダメな自分に踏みとどまる。こんな自分でも神は愛してくだっているとしっかりと思い起こします。そうすると落ち着きます。

 今日の福音書箇所で、主イエスが荒れ野でサタンの試みとか、誘惑を受けますね。この「誘惑」というのは、ひとつには「あなたは、まだ足りない者だから、もっとこうすると幸せになるよ」とか、「あなたは不完全だ、だから、こういうふうに頑張れば、完全になって救われていくよ」というようなそういう誘惑です。いずれも、神の愛に包まれている満足から目をくらませようとするものです。

 今日の箇所では読まれていませんが、マタイとルカでは、悪魔が三つの誘惑をする話が出てきますね。空腹の時に「この石をパンに変えたらどうだ」とか、山の上から繁栄している国々を見せて、「私を拝むなら、これをぜんぶあげよう」とか、そういう誘惑をしてくる。

 悪魔は何をしているかというと、「あなたは空腹だろ? 足りなくて不幸だろ? もっといろいろ欲しいだろ?さあ、がんばって自分を満足させようじゃないか」ということです。

 主イエスは何と答えたか。

 「人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)

 どうぞ主の洗礼主日に主イエスの洗礼の聖書箇所を読んだことを思い出してください。天からの声がしましたね。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)と。主イエスはすでに、「神の口から出る一つ一つの言葉」で生きているわけですから、つまり「お前を愛しているよ」という神の言葉で生きているのだから、パンがなくたって、ある意味満腹しているわけです。

 主イエスは、神のこの愛の言葉で満たされているから、他に何もいらない。もうすでに、満たされているわけです。

 「さあ、空腹だろう?」

 「さあ、足りないだろう?」

 「不幸だなあ、お前は。こうすれば幸せになれるぞ」

 「ほら、この権力、この繁栄、この世のすべてを見てみろ。お前はそれを持ってないだろう?」

 サタンはそう言います。

 すると主イエスは答える。

 「『ただ神にのみ仕えよ』と、そう聖書に書いてある」(マタイ4:10、ルカ4:8)。なぜなら、神こそがすべてだからですね。

 主イエスはもうすでに豊かです。満たされています。だから、悪魔が山の上に連れていって、「さあ、これを見ろ。欲しいだろう?」と言っても、主は「こんなもの、滅びるものでしょう。別に、私にはいらないものだ。私は、神に満たされていて、十分幸せだ」と、そうお答えになる。

 結局、誘惑というのは、「あなたはダメだ」という話です。「あなたは不幸だ」という話です。「あなたは汚れている」「あなたはふさわしくない」「あなたは足りない存在だ」と目に見させ、耳につぶやいてくる、これが誘惑です。その誘惑に負けて、人は「神ならざるもの」を必死に求めるようになる。

 私たち、思い当たることがないでしょうか?

 四旬節は、この誘惑に打ち勝つときです。「自分は神さまに愛されているんだ」という安心で満たされて、余計なものが欲しくなくなるときです。

「私達は『お前を愛してるよ』という、神の言葉でこそ生きています」。

そして、「サタンよ退け、私は神の言葉で生きる!」と唱えてください。

 (祈ります)主よ、今年も四旬節を過ごすことのできる幸いを感謝します。不十分な自分を嘆くような時にも、あるがままで、主によって受け入れられ、愛されていることを思い出すことができますように。また、自分の過ちに気づき、不十分な自分に絶望するときには、主がそんな私を憐れんで、赦しを与えてくださる恵みをますます深く味わうことができますようにと祈り願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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