2024年1月28日日曜日

礼拝メッセージ「新しい教え」

 2024年01月28日(日)顕現後第4主日

申命記:18章15〜20 

コリントの信徒への手紙一:8章1〜13 

マルコによる福音書:1章21〜28

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 主イエスは神の国の福音を告げる活動を始め、まずガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしました(1:14-20)。マルコはそれに続いて、主イエスのカファルナウムでの典型的な一日を語ることによって、主のガリラヤでの活動の様子を伝えようとしています。

 ここで鍵になる言葉は「驚く」という言葉だと思います。22節「人々はその教えに非常に驚いた」とあります。テレビなどでこのごろ「ガチで」というのをよく聞きますが、本気で、凄くという意味だそうですね。それで言えば「ガチで驚いた」とでもいうのでしょうか。

 この人々の「驚き」はなんとも新鮮な驚きです。いわば思いがけずに聖なるものに触れたときに、超越的な存在に出会ったときに、その威光に圧倒されて、それを前にしての新鮮な驚き、今までに見たこともないまったく新しい、未知のものに触れた、恐れではない、うれしい驚きです。それを思うとこの記事は短いですがなにか心をリフレッシュしてくれます。

 ガリラヤ湖畔で主イエスは「人間をとる漁師にしよう。わたしについてきなさい」と4人の漁師を弟子になさった。そして主の一行は安息日にカファルナウムに着くと、主は会堂に入り教え始めました。会堂では、希望すれば誰でも聖書を教えることが出来たようです。

 「会堂」は「シナゴーグ」といいます。「シナゴーグ」という言葉は「人々が集まること」を意味しました。ユダヤの信仰の歴史では初めは会堂というものはありませんでした。バビロンに侵略され、人々はバビロンに連れていかれました。もはやいくらエルサレムの神殿で礼拝したいと思い焦がれてもそれはできません。そこでバビロンの地でも、人々は集まって、礼拝し、聖書の言葉に耳を傾け、祈りをするようになりました。当然、集会のための建物が必要になりました。それが今や各地にある会堂のおこりだと言われます。

 やがて人々はユダヤの国に帰ってからも、会堂を建てて、そこに集まり、そこで律法を学び、礼拝をするようになった。会堂は礼拝だけでなく、学校として、法廷として、あるいは宿泊所としても用いられます。町や村の生活においてのひとつの拠点となりました。

 神学生時代にある安息日、土曜日に実習で都内にあるシナゴーグの礼拝に参加しました。セキュリティーの頑丈な家具の質がいい立派な建物でした。男性10人が集まればその日の礼拝が成立するそうです。ラビのリードで礼拝し、コックさんが作った昼食をごちそうになりました。私たちの行う礼拝の原形がそこにありました。

 主イエスの弟子たちは、ついこの前の安息日までは、漁師として、家族と一緒にこの会堂で礼拝にでていたかもしれません。しかし、今は家族を捨てて、主イエスの後について、主の弟子として会堂の中へ入って行きました。

 たぶん顔見知りの人が何人もいたでしょう。その日、そこで主イエスは説教をなさった。すると主の言葉を聞いて、そこに居合わせたすべての人々が「その教えに非常に驚いた」のです。弟子になった4人が誰よりも驚いたのではないでしょうか。後になって教会の人々に、「もう本当に、あの時は驚いた」と思い出すことが多かったのではないでしょうか。

 主が復活された後に、エルサレム、アンティオキア、ローマへと礼拝の拠点がつくられていくに従って、この驚きの体験は波紋のように語り伝えられて、聖書の記事にまでなったわけです。

 マルコは具体的なことを言いませんが、人々は一体何におどろいたのでしょうか。1:22に、人々の驚きはイエスが、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」だとあります。律法学者は、律法と口伝律法によって民衆を指導していました。口伝律法とは、昔の律法を今の生活の中でどのように実行するかについて、何世代にもわたる律法学者たちの解釈を集めたものです。「神はかつてモーセにこう命じられた、だからこうしなければならない」というのが律法学者の教えでした。

 一方、主イエスのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。主イエスはそう言って、神の支配が始まった。あなた方は心を変えなさい。悔い改めなさい。自分たちの罪を認めなさい。神はあなたを愛している。安心しなさい。あなたは救われる。そう告げてくださったのです。

 それはこれまで人々が聞いてきた学者の解説ではなく、神が今まさに何かをなさろうとしているという宣言そのものでした。神の言葉、神の思いを面と向かって聴く。そこに人々は神から来たまったく新しいもの(=権威)を感じ、驚いたに違いありません。

 今日の第2朗読のコリント書8章1節に「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とあります。人々は、主イエスの言葉から、高ぶった学者のようでない、聴くもの魂が喜びで満たされる神の愛を感じたに違いありません。

 この主イエスの権威ある言葉を聞いて、慌てふためいたのはある男にとりついていた汚れた霊です。当時の人々には、現代の医学知識はありませんから、人々は病気というものを、しばしば汚れた霊のせいにしました。

 悪霊が人のさまざまな病気を引き起こすと考えられていましたが、特に他の人との落ち着いたコミュニケーションができなくなるような状態が「悪霊に取りつかれている」ことが原因だと考えられました。聖霊が「神と人、人と人とを結びつける力」だとすれば、悪霊は「神と人、人と人との関係を断ち切る力」だと言えます。

 事実、この箇所で悪霊は主イエスに毒づきます。24節、「ナザレのイエス、おれたちとおまえに何の関係があるってんだ?おれたちを滅ぼしに来たのか?おまえが誰かは分かってるぞ、神の聖者だ」。神から来た主イエスとの関係を拒否することが、悪霊の悪霊たる所以です。

 主イエスは悪霊を黙らせます。神との関係を拒否しているのは、目の前の人の本来の部分ではなく、何かしらその人を神と人から引き離そうとしている力だとすれば、その力を自由にさせておくわけにはいきません。この時、主イエスはその人の何を見ているのでしょうか。「悪霊に取りつかれている」と考えられているその人の様子ではなく、その奥にある本来の部分を見ているのではないでしょうか。そしてその場で結果として起こったことは、その人が他の人との普通の交わりを取り戻し、神とのつながりを取り戻したということです。

 古代の人にとって「汚れた霊=悪霊」はとても身近なものでした。現代人は、人間がほとんどの現象を理解し、コントロールできると考えますが、古代の人にとって、人間の理解や力を超えたものは周囲にたくさんありました。

 現代のわたしたちにとって、悪霊とはなんでしょうか?わたしたちの周りにも「神と人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力」が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

 神への信頼を見失い、人と人とが支え合って生きるよりも一人一人の人間が孤立し、競争に駆り立てられ、大きなストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴力となって爆発してしまう・・・そんな、一人の人間ではどうすることもできないような得体の知れない「力」が悪霊だと言ってもいいのかもしれません。

 そんな大きな力だけでなく私たちの日常の中でも、何かに囚われてしまうと、本来の自分を見失うことってよくありますね。悪霊は身近にあると受け止めて、私たちは主イエスが悪霊を追い出してくださることをもっと素直に、そのまま受け取ってもいいのかもしれません。

 27節の「権威ある新しい教えだ」という人々の驚きの言葉は、22節とよく似ています。人々は主イエスの教えの内容に驚いただけでなく、この出来事をとおして、主イエスの言葉が現実を変える力を持っていることに驚嘆しました。

 「神の国は近づいた」というメッセージは、主イエスが悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを失っていた人を、神や人との交わりに連れ戻すことによって、もうすでに実現し始めたのだと言えます。悪霊に覆われてしまっているような現象や人間のもっと深い部分にどのように触れ、どうしたらつながりを取り戻していくことができるかを、主の助けを信じ、主により頼みながら深めてまいりましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン


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