2024年1月7日日曜日

礼拝メッセージ「神の子として生きる」

2024年1月7日(日) 主の洗礼主日 創世記:1章1~5

使徒言行録:19章1~7

マルコによる福音書:1章4~11

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 私たちは先週、聖霊に導かれたシメオンとアンナが、この子こそ人々が待ち望んでいた救い主だという赤ちゃんイエス様に出会い、心の底からの魂の平安を得た出来事を祝いました。それはマリアを母としてお生まれになったイエス様が、神から遣わされた救い主であることを世の人々に明らかにした出来事で、主の顕現とか、主の公現と呼ばれています。

 そして今日は「主の洗礼」の祝日です。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、主が30歳頃のことですが、この時、神は、思いを込めた声をかけて、主イエスが「愛する子、かわいくてならない神の子」であることを示し、聖霊を降しました。この出来事は主イエスにとって救い主としての活動の出発点となりました。

 さて、今日の旧約日課は創世記の最初のところですね。138億年前に「光あれ」とこの宇宙が始まり、そして35億年前に地球には生命が生まれました。2020年末に「はやぶさ2」が隕石の粒を持ち帰りましたね。それは地球が生成されたころの隕石の粒ですから、「土の塵」から生命が誕生した痕跡が何か掴めるのかもしれません。

科学は宇宙と生命の始まりの仮説を立ててそれを証拠によって実証しようとます。一方聖書は聖霊に導かれて、神話の形で宇宙と人類の創生の出来事を語ります。この二つに共通することの一つは、始まりがあり終わりがあると伝えていることではないかと思います。

 ところで、今回私は「光あれ」の直前の言葉に注目しました。まず初めに神の霊が満ちていたことが述べられています。神が天地宇宙をお創りになる前、まだ何も形が整わなかったとき、1章2節、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と書かれています。

 21世紀になって、宇宙はダークマター(暗黒物質)と呼ばれる何かでできているということがわかってきました。その闇の面を神の霊が「動いている」と気付かされました。闇の面を神の霊が舞うように動いているところに、神は「光あれ」と宇宙を生み出してくださった。聖書がそう語っているように思えました。

 21世紀になっても、地球のあちこちで紛争や戦争が絶えず、私たちは暗闇の重苦しさを感じています。しかし、この地球を神の霊が覆っている。しかもそれは動いている。神の霊が私たちを、地球もろともに包み、常に生きて働きかけていてくださる。そう思うとなんだか励まされて、頑張ろう!という気持ちになります。

 神の霊が生きて満ちている中で天地宇宙が創造された。そして主イエスの洗礼の時、神の霊が再び新たに動き始め、主イエスに降った。マルコは10節、「“霊”が鳩のように」と言って、あたかもここに新しい創世の物語が始まったのだと告げているようです。主イエスへの聖霊の降臨によって、神は主イエスによるすべての人間への救いの歴史を開始なさったのです。マルコはこの壮大な真実に気づいて語っているのです。

では、今日の福音箇所に入ります。1章4節、5節「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた」とあります。

 この「バプテスマ」とは、本来は「水に沈めること、浸すこと」を意味する言葉です。そして、ヨハネはこう言います。8節「 私は水であなたがたに洗礼(バプテスマ)を授けたが、その方は聖霊で洗礼(バプテスマ)をお授けになる」。ヨハネは、私は水で、「その方は聖霊でバプテスマを授ける」と言いますが、ヨハネのイメージしていた「聖霊によるバプテスマ」と、実際に主イエスが神からお受けになった「聖霊によるバプテスマ」とは内容がまったく違います。

 ヨハネにとって、聖霊は聖なる裁きをくだす存在でした。ですからヨハネは「その裁き主である方」によって決定的に裁かれる前に、「今のうちに悔改めよ」、そして「罪を赦してもらえ」と人々に迫りました。そして9節「その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた」のです。

 私たちと違って主イエスは神と人の前で悔い改める必要のない、罪のない方です。その主が「悔い改めの洗礼」を受けようと集まってきた人々、いわば「罪びとの群れ」の中に入っていって、みんなと一緒になってヨハネから洗礼を受けました。主イエスはなぜ罪人が受ける悔い改めの洗礼を受けたのでしょうか。

 それは、私たちと一つになるためです。私はこう思いました。「なあんだ、イエス様もヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのか。じゃあ私たちと同じだね?」と。みんなと同じことをして、仲間になる。私たちがよくやることですね。主は悔い改めの洗礼を受けることによって私たちと同じ人間の一人となった。そこから新しく救いの歴史を始めるためです。これが主イエスがお始めなった人類を救う第一歩なのです。すべての人が悔い改めたら、世界中が真の平和で覆われると本当に思いませんか。

 こうして主イエスは本気で私たちの中に入ってこられた。罪人と同じ洗礼を受けて、人類と一致した上で、いよいよ救い主としての活動を開始した。マルコは、そこから話を始めます。

 主イエスはこの洗礼で、完全に、私たちと一つになりました。そう信じることが大事です。あらゆる罪びとと、あらゆる悲しみと、あらゆる痛みと一致する。そうすることによって、つまり、神から遣わされた方が私たちと一致することによって、私たちが救われる。主イエスが私と一つだから私は救われる。それこそが、「聖霊による洗礼」といういわば新たな創世記の始まりです。

 10節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。このことも聖書から見てみましょう。

 「天が裂ける」。これは神がこの世界に介入することを表す表現です。イザヤ書63章19節にこうあります。「私たちははるか昔から/あなたに統治されない者/あなたの名で呼ばれない者となっています。/あなたが天を裂いて降りて来てくださったなら/山々は御前に揺れ動くでしょうに」。この時ユダヤの人々はバビロンから侵略され、徹底的に痛めつけられて、悲惨な状況にあえいでいました。旧約聖書の「哀歌」はそれを具体的に語っています。

 信仰の基である神殿は破壊されつくし、道を示してくれた祭司たちは殺され、家族もバラバラになり、食べ物はない。飢えに堪えかねて、死んだ子供を煮炊きする人々まで現れた。頼りにするものがすべて奪われ、人々に残されたものは、恐怖と絶望だけという状況です。更に、人々は、そんな状態を招いてしまったのは、自分たちが神に背を向け、偶像礼拝に走ってしまったためだとう負い目をもっていました。

 しかし人々は「自分たちは神の恵みに値しない」と卑下しながらも、必死になって神に訴えました。「どうか、天を裂いて降ってください」と。この世界に介入してくださいと。神への背き、人間の悲惨さ。それは主イエスの当時にも、そして今の時代にも共通しています。

 主の洗礼の時、「天が裂けて」主イエスの上に「聖霊」が降ってきたということ、それは神が人類の歴史に介入なさったということです。主の洗礼によって、主イエスこそが人類の訴えに対する神の決定的な回答であることが明らかになりました。

 11節「すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』」とあります。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」この言葉は、神が、主イエスを通して、私たち一人ひとりに向けて、「可愛いねえ、大好き」とおっしゃっているのです。

(なぜそう言えるのか)

 悔い改めて救われる必要があるのは、われわれ、人類です。けれども、この主イエスという、聖霊に満ちた方が洗礼を受けて、十字架の死と復活を経て私たちの内に宿ったおかげで、私たちも聖霊に満たされ、聖霊による洗礼を受けたことになるのです。これこそが福音です。

 事実、主イエスは、もう来られました。そして、私たちと一つになりました。それによって、私たちはもう、聖霊による洗礼を受けているのです。この事実に目覚めましょう。今や私たちは神のみ心に適う者です。私たちも神の子です。

 神から愛され恵みを受けている私たちです。その恵みへの感謝の応答は私たちに託されています。あとは、神の子である私たちの番です。それに気づかずにいる人、救いを求めて右往左往している人たちに、「あなたはもう、聖霊による洗礼を受けている。救いのうちにある」という喜びを、主イエスと共に伝えていきましょう。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

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