2024年3月10日日曜日

礼拝メッセージ「圧倒的な愛」

2024年03月10日(日)四旬節第4主日   岡村博雅

民数記:21章4〜9 

エフェソの信徒への手紙:2章1〜10 

ヨハネによる福音書:3章14〜21

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と平安とが、皆さま方にありますように。アーメン 

 「聖書の中であなたが最も大切にしている聖句は何ですか」と聞かれたら、私は迷わずに今日の福音書箇所、中でも3章16節をあげます。それは父親が私に信仰の手ほどきをしてくれた思い出に遡るみ言葉だからです。

 私は中学からあるキリスト教主義学校に入学しました。毎朝礼拝から始まり、週1コマの聖書の授業がありました。ある夜の団らんで、父は私にこう言いました。「英語を習っているんだろう?John three sixteen.て言えるかい?」「簡単だよ」と私が応じると、父は「John three sixteen. John three sixteen.」とゆっくりと繰り返し、「ヨハネ3章16節だ、小聖書と言われている箇所だ、ヨハネさん、ていうところが面白いだろ、ヨハネ3の16」とほほ笑みました。私は「John three sixteen、ヨハネ3の16」とまるで呪文のように、得意な思いでくりかえしました。この光景を思い出すたびに、あのゆっくりとした父の声音が聞こえてきます。私にとっての信仰の原風景です。

 後になってですが、この聖句は「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」という神さまの思いを徹底して強調している。「主イエスは一人残らず救う。その主イエスを全面的に信じる」ということこそが福音の鍵だと思うようになりました。

 私は神学校に入る前に一つ気になっていることがありました。それは「主を裏切ったユダは永遠に救われないのか」ということです。主イエスを裏切ったのは他の弟子たちも同じです。主が陰府にくだったのは、陰府にいる人々の霊を救うためではないのか。特に神学校で学んだ期間に、神が「一人残らず救う」ということを、心から信じたいと思っていました。というのは、一人残らず救われるのでなければ、この自分は救われないのではないかという思いがあったからです。

 今でこそ、「私は絶対救われます」という顔をして話していますし、実際、今はホントにそう信じています。最近、自分がパーキンソン病らしいということが分かって、診断が出るのは来週なんですが、すぐにではないだろうけれど、自分は天国に行くんだなということが現実感覚になりました。皆さんは、どう思いますか?天国を信じていますか? 

 言うまでもなく、皆さんも私も天国に入ります。もう主イエスの救いのみわざにおいて天国に入り始めておられるし、最終的には神さまが、みんな入れてくださいます。皆さまとも、いずれあちらでお会いしましょう、ということですね。

 けれども、神学校に入る前後は、そこを信じきることができなかった。自分はホントに救われるんだろうかと、不安でした。自分はご都合主義で人への思いやりが足りないし、愛のうすい自分を呪ったり、それまで身につけてきた、上から目線がちっとも変わっていかないし、それは本当は自分が弱いからだと、自分をはかなんだりしました。

 ですから、祈って、もっと頑張ろう、もっと立派な人間になろう、もっといい人間になろうともがいたけれど、これが、そうなれないわけです。自分でいうのもなんですが、私は、わりあいそういうところを純粋に頑張ったりするたちなんですが、そうなれない。変わらない。いつまでもおんなじ弱さ、おんなじ自分かわいさ、おんなじ冷たさが心に巣食っている。表面は取り繕おうとしても、ああ自分は愛がないなあ、自分は弱い人間だなあと思わされるばかりです。神学生当時はそういう自分と日々向かい合っていました。

 実際、いろいろなことがありましたが、わが身の弱さとか、自分のずるさとか汚さとか、そんなことばかりだったと思い出されます。でも隠したり、無視したりしていたそういう自分自身を少しずつですが明らかに認識できていきました。神学生時代ってそこが重要だったと思います。必死にきれいになりたい、立派になりたいと願いながらも、ぜんぜんそうならない自分というものに、やっぱり、苦しんでいたわけです。恐れてもいたわけです。

 そんな自分でも、神さまは、牧師として使ってくださるんじゃないかと期待して、ともかくがんばれば少しは進歩するだろうと思い込んで神学校にしがみついていたものの、ちっとも本質的には成長しない。そんな自分にとって、最大のテーマは「一人残らず救われる」という、救いの普遍性だったわけです。主イエスがおっしゃるところの、この「一人も滅びないで」というところを最後の砦にして、そこにすがっていないと、自分が救われないわけです。

 そんな日々が、懐かしいといえば、懐かしいです。こんな自分が神学校にホントに入れるだろうかと思った時があり、入ってからはこんな自分がホントに牧師になれるだろうかと思ったこともたびたびでした。牧師への道が閉ざされてしまいそうで、口には出せませんでしたが、私も救われるんだろうか、という思いがありました。もし99人が救われて一人が滅びるんであれば、その一人は自分だろうな、という思いです。

 しかし、もし100人救われるんであれば、こんな安心なことはないわけで、宣教研修に3度挑戦して、なんとか神学校にいる間に、ついに私はそれを信じることができました。主イエスこそは100人全員を救う方だ、最後の一人をも必ず救う方だ。神はそれを望んでいるからこそ、主イエスを遣わしてくださったはずだと、信じることができました。

 というか、もう信じる以外に何もなくなってしまいました。そのことで思い悩んで格闘して、いろんな体験もして、そして卒業前に間に合いました。私は「一人残らず神が救う」ということを確信できました。確信して教職受任按手を受けました。

 さて今日の第一朗読、民数記21章4-9節を踏まえて福音箇所の14節に「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とあります。この話ですが、紀元前13世紀、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の厳しい生活に耐え切れず、神とモーセに不平を言った。その時「炎の蛇」が民を噛み、多くの死者が出て、民はようやく回心した。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』と。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」というのです。

 蛇は古代の人々にとって、不思議な力を持つ存在で、人間を害するもの=罪や悪のシンボルでした。しかし、モーセの青銅の蛇以後は、同時に、いやしと救いのシンボルにもなりました。この2面性が十字架の2面性と通じています。十字架もまた、のろいと死のシンボルでしたが、キリスト者にとっては救いといのちのシンボルになりました。

 主はこの故事を踏まえて、ご自分も十字架にあげられなければならない。そのことによってすべての人が救われるのだとおっしゃいます。

 真の愛には条件なんてありえません。主イエスの愛は真の愛であって、主はすべての人を救うためにこの世にこられて十字架を背負われた。もう人種とか宗教とか、あるいは良い人とか悪い人とか、どれだけ理解したとか、していないとか、そういうことを十字架の愛は超越しています。神は、すべての人を必ず救います。問題は、そのことを信じているかどうかです。主イエスは神の愛そのものですから「イエスを信じる」というのは、まさにそれを自分自身が信じるかどうかです。

みんなが必ず救われます。主イエスはすべての人の救い主です。それを信じることが、救いです。

 もしここに信じない人がいるとしたら、「そうは言っても私は駄目かもしれない」と疑う人がいたら、その疑いがあなた自身を裁いてしまっているということを、今、ヨハネの福音書で読みました。その疑い、その恐れが、すでに裁きになっているというところです。

 ただどれだけそう語ったり宣言したりしても、人の中には恐れの気持ちというのがあって、そうは言っても私は駄目かもしれないとか、でも、あの人は無理でしょうとか、みんないろんなこと言い出します。

でも、第2朗読の8,9節、パウロの言い方でいうならば、「神は恵みによって私たちを救う。それは私たちの行いによるのではない」。つまり救いは人間の考えによらないのです。「あなたのことが大好きだ、あなたを愛している」というその神の恵み、憐れみ、圧倒的な神の愛、その愛を信じて生きていこうというのです。まさにルターが言うように救いは「恵みのみ」ですね。

 あなたも私も、そして全ての人が主イエスによって救われています。

お祈りします。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みに溢れさせてくださいますように。アーメン

 

0 件のコメント: